2010年10月30日

2010-10-30 11:24:29 | Weblog




俺達は歴史の中を生きている。

何となく言った「さよなら」が、

永遠の別れの言葉になったりする。


「不在ゆえの存在感」を濃密に感じながら俺達は

それでも

また例によって酔っ払ったり、

ギターを鳴らして浅川マキの歌をうたったりするのだ。


いつか我々のページも閉じるのだろうが、

それとこれとはまた別の話だ。


俺達は俺達の「魂」に似たどこかの部分を

絞れるだけ絞って、

とにかくメロディーだの言葉だの、

間欠的な「歌」を探したりする。


長続きしなくたっていいんだ、とにかくその

感情がその時だけでもいいから本物で、

少しでも、ほんの少しでも楽しめたら

それで僥倖なのだ。


過去への扉を開け放って、

そんな風にしながらでないと、とてもじゃないが

前に進む気なんて起きやしない。


でもだからといって、俺の進化が止まる訳ではない。

今度、俺に会ったら少し驚くかもしれないぜ?


何せ俺には、世界が「退行」していくようにしか見えないんだ。

くだらない奴等のおしゃべりとか、

うす汚い政治家共の駆け引きになんて、

ほんの少しの興味もない。


古い歌の中にこそ未来はある。

巻き戻って行くフィルムの中にこそ。




・・本当だぜ。





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バイク復活

2010-10-27 13:57:40 | Weblog
とても嬉しい。

何が嬉しいのかと言うと、

バイクの修理が出来上がって来たのだ。

俺のバイクはHONDA CD125Tといって

ちょっとイジるとまるでヨーロピアン・ヴィンテージみたいになるので

そのテの雰囲気が好きなバイク好きがよく

改造のベースにしたりするバイクなのだ。

俺もお金をかけずに少し改造していて、

バイク屋でヴィンテージと間違われて

修理を断られたことがあるのだ(笑)。よく見ろよな。

しかし最近は時間経過による侵食が進み、

オールド・バイクなのかスクラップなのかわからん・・・

といった風貌になっていて、

風貌はいいのだがメンテナンスをきちんとしてないバイクは

危険である。

クルマを売ったことだし、お店に出して思い切って

ざっくりと修理してもらった。

一番懸案だった前タイヤ(ヒビだらけだった)をチューブごと交換し、

伸びきったチェーンを交換。

バッテリーも換えて、電装系を復活させた。

球も換えて、配線も直してもらったから、

ウインカーもストップランプも点くようになった。

クラクションも鳴るし、セルまで回る!

(今までどんな状態で乗ってたんや・・・・)

ブレーキもチェックしてもらって、効きがよくなった。

あんまり嬉しいのでさっき道端で洗車してきた。

「誰がどう見てもスクラップ」だったのが、

「好きでボロボロにして乗っている」みたいになった。

嬉しい。

このバイクは10年以上前、

そのころずっと働いていたクルマの部品屋がなくなったとき

社長の厚意で頂いたものなのだ。

チューブ入りタイヤなので「パンク」という苦難を

何度も乗り越え、ミラーを換えて

ウインカーも(前だけ)換え、ハンドルをぐっと低く落として、

シートはアンコ抜きして本革を自分で張って、

ガソリンもれするようになっちまったのでタンクを新品に換え、

マフラーも朽ち果てたので新品に換えた。

前後タイヤも何度か替えた。

考えてみたらけっこうこのバイクに執着してるな、俺。

・・しかしあと何年乗れるのだろうか。

エンジンは快調なのでもしかして・・・

「どこまでもどこまでも行く」のだろうか。

ふふふ・・・・

バイク復活。






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指切って思うこと

2010-10-25 21:16:06 | Weblog


今日は不注意で、切れの悪いカッターで

指を切ってしまった。・・・わりに深く。


いかんいかんいかん、ギターの演奏に差し支える。

俺にとっての「指」は、ギターを弾くためのものなのだ。


「商売道具」なんてそんな下卑たものではない。


手がちゃんと動くことを俺はもっと感謝しなければならない。


しかし俺の手って、器用なのか不器用なのか、

なかなか判断がつきにくい。


自分で言うのもナンだが、絵はわりに上手いので、

器用なのか・・と思いきや

工作とかは下手だった、


しかし、何しろギターを弾いているんだぜ?


・・って言ってもあんなギターだから

器用なのか不器用なのか・・それこそわからない。

繊細ではないし、正確でもないのだけれど、

そんなに動かないって訳でもない。


前にもちょっとだけ書いたけど、

ギターを弾き始めた頃は

「いつか弾けるようになるんだろうか?」と思って不安だった。

でも気がつけばいつの間にか

他人に「ギタリスト」って名乗っている。

なかなか厚いツラの皮では、ある。


ギターは素敵だ。

俺はギターに関することすべてに、憧れていた。

その憧れは、今でもまだ残っている。


でも考えてみると

いろんな「流れ」がいろんな風に重なって・・・

例えば俺の指が動いたりするのだし、また

その指の動きが「音」を作り出して、そのことがまた

他の「流れ」を作り出して重なって、

その上にまた・・・みたいな無限の「流れ」の積み重ねが

今の俺、アナタ、彼、彼女・・・と

世界中すべての人々をとりまく状況を

成立させているのだ。


本当に俺は、いろんな物事に感謝しなければならない。


タマにケガなんかすると、

ちょっと謙虚になれていいかもなのだった。






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そのことを考えよう。

2010-10-23 19:08:24 | Weblog


それは悲しくなるくらいに薄く引き延ばされて

最後には透明な膜になって

空気の中に消えた。




あとに残ったのが何だったかと言うと、

相も変わらず

杓子定規的につまらない世界と、

病的に「自分を守ること」で頭が一杯の人間ばかりだった。


でも考えてみたら

「汚い」のはお互い様で、

美しいのは・・・・今はもういない人間だけだ。

どんなに強く「憧れ」を握り締めても、

ただ手の型がついただけで、

・・・・・でも少し変形もしたかな。


だから決心したのだけれど、

今日から僕は もうこれ以上何にも、誰にも、

一切、影響を受けたりしない。

完全に閉じて生きていくことに決めたのだ。


・・・なんてね。

そんなことが出来るならそもそも、苦労はない。

だけどどうしていつもいつも・・・・


こんな風に考えが内に、内にと向かうのだろう。


今の僕が、何も求めていないのは事実だ。

僕はもう充分なだけの・・・・何だろう、

充分なだけの「漠たる思い」をしてきたはずだ。


でも僕はまだ、こんな歳なのだ。


「もうこんな歳」というような考え方はもう止めた。

だって「まだこんな歳でしかない」のだ。


世界には、つまらないことが多々ある。

でもきっと、本当に素晴らしい物事だって、

まだまだある。




そのことを考えよう、とにかく。










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「流れ」

2010-10-20 17:54:29 | Weblog



すべての「現象」は、

それがただそこに在るだけで一種の奇蹟であり、

誰が何と言おうと「善」である。


不自然なものなど、この世に存在しない。


ただ個人個人の”価値観の違い”と、

”好き嫌い”があるだけだ。


それでも思うんだけど世界には、

圧倒的な「流れ」というのが存在する。


我々は魚みたいに、

深い河の中で暮らしていると言えなくもない。


「流れ」に逆らえる者はいない。

空気がなければ我々が生きていけないのと同じように。


「宿命」を抱えて、急な流れの中に生きる。

秋になれば夜は少しずつ長くなり、

我々ときたら眠る時だって目を閉じたりしない。

目が覚めたとしたって、それが現実とは限らないから。

そしてゆっくり日々は冷えてゆき、

狂騒の季節には心が凍りつく。


まるでほんとうに魚みたいだよな。











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名前であれこれ連想する。

2010-10-19 16:23:52 | Weblog
ライ・クーダーってしかし・・いい名前だよな。

(まだライ・クーダーのこと言ってるw)

だって「クー」を抜けば、「ライダー」だし。


それならば「ウィノナ・ライダー」もいいよな。

尻軽で、一時は「有名人ライダー」とか言われてたけど。お下品。

あと、最高の名前で、

「ミッチ・ライダー」っていう人もいるのだけど(笑)。

そういえば

「ミッチ・ミッチェル」っていう名前のバーが四条に出来ていたな。

すごい親近感わいた。(しかもいいバーだった。)

「ミッチェル」・・・・そう来ると

「ジョニ・ミッチェル」を連想せずにいられようか。

「ミッチェル」って「ミッシェル」と同じなんだろうか。

「ミッシェル・ガン・エレファント」ってのもあったね。

「ミッシェル」って「マイケル」のフランス語読みなんだっけ?

アーネスト・ヘミングゥェイは若い頃フランスに住んでたんだよな。

「アーネスト」は「エルンネスト」になるんだったっけな。

「ヘミングゥェイ」ってしかし異常にかっこいい苗字だよな。

「ヘンドリックス」ってのも超かっこいいが。

「ヴィヴィアン・ウェストウッド」ってのもかっこいい名前だ。

しかし・・・実は苗字、「西森さん」だったりして。

ありえるよな・・・・・・(嘘)。

あと、サリンジャーの小説の主人公だけど、

「シーモア・グラス」ってのもかっこいい。

「SEE MORE GRASS」に聞こえて、それって

「もっと鏡見なよ」というような意味になる。

「お名前は?」「・・もっと鏡見なよ・・・・」なんてね。


関係ないけど、俺の父方の苗字は「久郷(くごう)」だった。

もし、俺が「久郷」だったらきっと、

「9号(きゅうごう)」とかって名乗っていただろうか。

「クーちゃん」とか「キューちゃん」とか呼ばれたろうか。


・・・とかいろいろ考えてしまうのです。









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ビザール・ギター

2010-10-19 10:09:43 | Weblog


誰が言い出したのか知らないけれど、

それらは「ビザール・ギター」と呼ばれる。


1960年代~70年代の大ギターブームの時に、

主にフェンダーやギブソンやモズライト等に似せた、

でもしかしオリジナリティにあふれた珍妙なデザインで、

しかも安価だったギターたち。

テスコを筆頭に、ビクター、グヤトーン、フジゲン、シルバートーン・・

そんなメーカーの傑作たちを「変態ギター」とは言いえて妙ではある。


先日の日記に書いたライ・クーダーとデビット・リンドレーは

このビザール・ギター界の二大・大御所、というか立役者である。

ライ・クーダーは特にテスコのピックアップを

高く評価していて、フェンダー等の高価なギターに

テスコのピックアップを移植したり・・・というような、

趣味の違う人なら「あああ!」と叫んで止めそうなことを

よくしていた。


最近の一番有名な「ビザール・ギター使い」は

ジョン・スペンサーだろう。

奥さんのクリスティーナがNYの路上で10ドルで買った、というあの・・・

どこからどう見ても「ビザール」なギター。

最高に素敵。あれも日本の「フジゲン」製だったようだ。


俺もけっこうな「ビザール」好きだったりするのだが

(1~2本所有していたし、雑誌などで熱心に見ていた)、

あれって見た目は最高なのだけれど造りが・・・・

特にネックがしっくりこないので俺には使えないのだ。


でも実は

ずっとメインで使っている「G&L」のギターを

初めて楽器屋のショーウインドウで見た時は一瞬、

あ、「ビザール」が置いてある・・・と思ったのだった。

ヘッドが妙にデカくて、ボディ・シェイプも

ストラトのようで全然違う。それでいて出自は、

あの天才・レオ・フェンダー直系のメイド・イン・USAである。

B級モノではないのだ。

これほど俺にぴったりなギターは他になかった。

もちろん音もネックも最高だった。

もう15年以上使っている。アメリカにも中国にも持って行った。

一昨年、フロイド・ローズ・ライセンスの

ロック式アーム・ユニットを取り付けてから、

更に「ハイパー・ビザール」化しているような

気がするのだがどんなもんだろう。


しかしこれをもしオークションとかに出すとすれば

(出さないけどさ)、

改造しすぎてるのと傷だらけなのを客観的に考えて、

「ジャンク」という但し書きが必要かもしれない。


「ジャンク」と「宝物」は、紙一重なのだ。






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ライ・クーダーいわく、「命がけで守れ」。

2010-10-16 17:48:04 | Weblog

雑誌「SWITCH」の

1988年4月のバックナンバーを読み返していたら、

ギタリスト、ライ・クーダーが

インタヴューで面白いことを言っていたので抜粋してみる。

訳文の「硬さ」の妙も合わせて楽しめマス。


インタヴュアーはデイヴ・ツイマー、日本語訳は大橋悦子。


---------------以下引用--------------------------------------------

「ギターはたくさん持っています。この大きな赤いグレッチには、

美しい歌うような調子があって、弦をはじいて弾くのにいいんです。

ダン・エレクトロも数挺あります。映画音楽やレコードを作る際、

必要な音はたいてい見つかります。

ぼくがいろいろな楽器をもっているのは、そんなわけです。

といっても、一つ特別なギターがあります。

この茶色いストラトキャスターは、ぼくが自分のメイン・サウンドだと

考える音を作ります。ごく最近のバディ・ホリーの改造品です。

ぼくはそのネックを、デイヴ・リンドレーがくれた60年代の

古いばかでかい特注のCネックと取り替えました。

次に、そのボディに穴をあけ、ブリッジのそばのすぐ裏に

スティール製のピックアップをはめ込んだのでそす

これはトップとボトムでの磁気と、そこを通る弦によって

サンドイッチ効果を・・・(延々とこんなのが続くので中略)」

「この大量生産(マスプロ)の時代。

楽器なんて交換できると思ってる人がいる。

すぐれたプレイヤーたちはそうじゃないことを知っている。

もし君が幸運にも、捜し求めているサウンドを出す楽器を

見つけたら、それをしっかりつかまえて、命がけで守れ。

ぼくは何年も欲求不満だった。

近付いても本当に手に入らなかったから。

けれどもついにぼくはこのストラトキャスターを手に入れた。

そのとき、ぼくの音楽が本当に始動したのさ。」


------------------引用終わり--------------------------------------- 



いいこと言うなぁ。

「ダン・エレクトロも数挺」というのが味わい深い。

ギターはピストルなのか。

ここで語られているストラトが写真のものなのだろうけど、

(写真が不鮮明で残念なのだが)

よく見るとかなりぶっ飛んだルックスになっている。

しかしライ・クーダーがこれ弾いてるの、

他で見たことないんだけどな。まあいいけど。



しかしとにかく

何だか「ライ・クーダーのイメージ通り」というか、

「こうあって欲しいライ・クーダー像」というか。


「命がけで守れ」だって。

なかなか言えないよね。




ああ俺も・・楽器投げるのはもうやめよう・・・。






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「やる」ことの意義

2010-10-14 20:32:29 | Weblog

万難を排して「やる」のは、

言うまでもないことなのだが

「自分のため」である。

誰が言ったのだか忘れてしまったのだけど、

「自分を救えるのは自分だけ」だから。


とにかく足を前に出すことだけを考える。

アクセルを緩ませることなくカーブを抜けるのだ。

そうすれば・・・そうやってさえすれば、

「気がついたら辿り着いていた」みたいな結末が、

いつか俺達を、待っているかも知れないじゃないか?


そして俺達は「栄光」って奴を手にするのだ。

そうなったらとても素敵だと思わないか?

長続きのする「栄光」、

まるで24金みたいに色褪せることのない光。


だけど今はそこに向かってる途中で、

だからスクラップ寸前のバイクに

狙いすましたように降る冷たい雨や、

心まで凍り付いてしまいそうな風、

「どこにも辿り着けないんじゃないか?」って疑念が

頭をよぎったとしても、

そんなのを信じちゃ駄目なのだ。


一歩も引かず、対峙する

(まぁ、半歩くらいは下がってもしょうがない)。

そして、形のないものに心を託して

心もちラフに狙いすまして、

「爆発させる」。


その音は遠くこだまして、

何だろう?ってみんなキョロキョロしたりするんだけど

その頃には俺達はもう

どこにもいない・・って寸法だ。


そんなのって、

ちょっといいと思わないか?







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「美とは何なのか」

2010-10-13 12:07:26 | Weblog



「美」とは何なのか。

「美しい」ということに、何の意味があるのだろうか。


・・・例えば、「蝶」と「蛾」では大違いのような気がするのだけれど、

でもそんなの、単に見た目の話だ。

当然だが、蝶が「善」で、蛾が「悪」・・・といったようなことはない。

当の本人である蝶や蛾にとってはそんなの、

大きなお世話かもしれない。


人間にとっては、視覚のことってすごく大きいのだけれど

「美」はもちろん、そのことだけではない。


和音の美しさは、「調和」の美しさだ。

音が「合っている」とか「合っていない」とかっていうのは、

周波数レベルでのことなのだろうが、

結局、何がどう美しいのか・・・なんてわかりはしない。

だってディスコード(不協和音)だって

場合によっては美しいのだ。

そんなもの、要するにものの見方の問題じゃないか。


そうは言っても厳然と、

「美」という概念は存在する。

人間だって、

「美しいもの」と「美しくないもの」が存在する。

生命としての存在意義は全く同等なのに、

「美しいもの」のほうが尊重される。


「美」は、ひとつの「力」なのだと思う。

例えば「才能」みたいに。


どれだけそれに憧れて、努力しても

得られない者には得られない「力」。

人生というのは、いや生命というものは

根本的に不公平なものなので、

誰か他人を羨んでみたり、不平を言ってみたりしても

結局は、

何も始まりはしないのだ。

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