ナチュラル・フィニッシュのエピフォン「カジノ」。

2022-01-27 21:00:54 | Weblog

さっき貼り付けた動画は見てくれたね?

 

それで、

そこに写ってるギターについてどうしても

ひとこと、言いたくなったからこれを書いている。

僕の弾いてるギターの話ではない。あれはあれですごーく大事なのだが、

ここで言及するのは

ボケロウが抱えている、ナチュラルフィニッシュ(木の色そのまんま、と言う意味)

のエピフォンのセミアコ(構造的には実はフルアコ)、

名前は「カジノ」だ。

 

あれは

ランブルフィッシュのギターの、庄司のギターなのだ。

 

よく見たら「ベタ」(ランブルフィッシュという熱帯魚のこと)の

絵が楽器に描いてあるのが見えるはず。

この時期・・・1997年のちょっと前に

ボケロウが楽器を壊してしまって、どうしよう・・・・となってしまった。

ちなみに

ボケロウは仙人のように「物欲」というか「所有欲」というものが希薄なので、

楽器にも執着がない。

 

それで楽器がないボケロウのために、

僕がわざわざ奈良までバイクで出掛けて行って、

ランブルの庄司に頼み込んで、ギターを貸してもらったのだ。

 

ギタリストはあまり、自分の大事なギターを人に貸したくない。

僕もそうだ。

 

でも庄司は貸してくれた。そのギターが、

この動画に写っているギターだ。

 

これは「ランブルフィッシュ」の後期に、庄司がバンドで

メインで使ってたギターだ。

 

僕は「ランブルフィッシュ」と「ばるぼら」を、

こういう形で(精神的に)「繋げる」ことを画策した。

 

「ランブルフィッシュ」のギターを、「ばるぼら」のヴォーカルが弾く。

 

 

それが実現して、すごく嬉しかったのを覚えている。

 

 

だいたいが、「ランブルフィッシュ」がなければ、「ばるぼら」も、なかったのだ。

 

 

「ばるぼら」のメンバーは全員、

 

過去に「ランブルフィッシュ」に関わった人間ばかりなのだから。

 

 

 

 

 

このエピフォンのギターは

 

「ばるぼら」が終わった時に僕がちゃんと

 

庄司に返しに行った。

 

 

感謝の意も、ちゃんと伝えた。ショウちゃん、あのときはありがっとね。

 

 

このギター、好きなんだよな。

 

 

見るだけで何だか、心がほっこりする。

 

 

 

 

追記・エピフォン「カジノ」と言えば

ビートルズファンはぴくっと反応するのだが、

このギターは実は、かのジョン・レノンが愛用したギターとして

世間では有名なのである。

 

つまり我々はこのギターを通して

ジョンとも繋がるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

付記・「カジノ」と言う名前で誤解して欲しくないのだが、

僕は大阪に遊技場としての「カジノ」を作る計画には大反対である。

って言うかそんなの、話にならない。問題外だ。

博打場なんか作って・・・・・・そんなの、駄目駄目に決まってんだろ?

 

 

 

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「ばるぼら」のライヴ動画 1997年十三ファンダンゴ

2022-01-27 20:08:34 | Weblog

1997年だと思うから、かなり古いもの・・・・なのだけれど、

 

友達のシブヤくんがすごくいい動画をYOUTUBEにあげてくれた。

シブヤ君の友達が撮ったもの、らしいのだが。

 

1997年の「ばるぼら」のライヴ。

 

ばるぼら  のライヴの動画って、あんまりいいのがなくて、

残念だったのだけれど、

これは客席から撮ってたみたいで、すごくいい。

僕は、撮られてるのも全然知らなかった。しかし画像に臨場感があるし、

何より撮り手に、情熱があるのがよくわかる。

 

ミディ・クリエイティヴから出した ばるぼら 二枚目のアルバム

「レイコとの夜」レコ発ライヴ時のファンダンゴみたい。

 

とてもよかったから皆に見てほしくて、ここにURLを張り付けてみた。

 

見れる?

 

ばるぼら 真夜中のトロンボーン - YouTube

 

 

シブヤ君、そしてその友達の人、どうもありがとう。

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ノイジーギター

2022-01-24 20:55:30 | Weblog

そういえば、と言うか何と言うか、

僕は今はシンガー・・・というか

ギターヴォーカルで、バンドでギターを弾きながら自作の歌を歌っているのだが、

以前は、ずっと、ギタリストだったのだ。

中学でどいけんとキョーヂと屋敷とマサイチと初めて組んだ

「草戸千軒」でもギターだし、

高校で不良ぶってたやつら(佐治とか庄司とか岩佐とかモ吉とか三太だ)

と組んだ「ネクスカ」でもギターだし、

それが発展した「ランブルフィッシュ」でもギターだし、

そのあとボケロウとキヨシとマーボーと組んだ「ばるぼら」でも

ギターだった。

でもその弾き方に関しては

「ランブルフィッシュ」が終わった後、

グランジや、パンクや、ノイズ的な前衛に近い音楽に触れて、

僕のギター奏法は劇的に変わった。

「まともな音を出しててもつまらん」と強く思ったのだ。確信した、と言ってもいい。

誤解無きように言っておくが、

「ランブルフィッシュ」の音楽は最高だった。ぶっ飛んでいた。

何しろ佐治の歌と楽曲がすべてを凌駕していたから。

でも自分のギターに関しては・・・・この路線でブルーズ・ベースでやってても

これ以上、劇的に上達はしないと判断した。

でもノイズ方向に行けば、自分自身の限界を「打破」出来ると思ったのだ。

だから、「ばるぼら」での僕のギターは、けっこうノイジーだったはず。

全然ブルージーではないし、不協和音的だったし。

その頃、直接影響を受けたのはソニック・ユースとか、アート・リンゼイとか、

マーク・リボーとかノイバウテンとか、

ロバート・クワインとかヴェルヴェッツとか、浅川マキとか、阿部薫とかだ。

自分としては、破壊的でノイジーで不協和音的なギターを自分なりに、

とことん追求できたと思っていて、結果にはある程度満足している。

でもああゆうのって、周囲・・っていうか、バンドの他のメンバーの

理解と協力がなければ絶対無理なのだ。

とことん好きに、めちゃくちゃに演らせてくれた「ばるぼら」のメンバーには

今でも感謝している。

「草戸千軒」「ネクスカ」「ランブルフィッシュ」の彼らに感謝しているのと同じくらい

感謝している。

そして今現在は、自分なりに自分の歌世界を追求しているのだが、

あの頃みたいにノイジーなギターを弾きたい欲求は、あまりない。

今の自分のバンド「ROCA'66」のギタリストは、もと「ワームス」の、

僕の大好きな音を出す「赤井」で、

彼には時々、びっくりさせられる。本当にすごいギターを弾くのだ

時々・・・いや、毎回。

自然にノイジーだし、不協和音を出さないのはエライ。

彼を見てると、俺もやるぞーみたいな感じで

もっとギター弾きたくなるのだ。

今のバンドの音に、もっとノイジーな要素を入れてもイイかも。

どちらにせよとにかく、ギター2本のバンドサウンドが好きなのだ。

そしてそれに対抗するように響く、ガシガシにグルーヴする伊藤のベースギター。

トビーのドラムズはタイトで気持ちがいい。

そしてトビーは、面倒くさがらずに僕のリクエストする変則的なリズムパターンを

嬉々として(?)叩いてくれる。

僕は本当に、恵まれてる・・・・と思う。

出会いに関しては本当に運がいいのだ。

えっと、何の話だったっけ。

あそうだ、僕は以前はギタリストで、それはそれは楽しかったのだけれど、

今はギターヴォーカルで、

昔と同じくらい楽しい・・・・・んだぜマジで。

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上手、もしくは、下手 。

2022-01-20 21:35:08 | Weblog

テクニック的に「上手い」ギター、というのが、好きではない。

ギターは、下手なほうが好きだ。

これは、自分が上手くないことから派生する「負け惜しみ」ではない。

 

中学生の頃にギターに興味を持って弾き始めたのだが、

もちろんのこと、「独学」である。

習いに行く、なんて全く頭に浮かばなかった。

教則本を見ながら四苦八苦、七転八倒しているうちに、

コードを理解して、いくつか覚えて、「スケール」を理解さえすれば、

アドリブも、稚拙ながらできることが、朧気ながらわかった。

 

いくつか、有名なギターソロをコピーしたりも、した。

ギター雑誌のタブ譜を参考に、

パープルの「ハイウエイスター」とイーグルスの「ホテルカリフォルニア」

を、なんとかコピーして、弾けるような気になった。ボロボロながら、「弾けた」。

それで、「何でもできるじゃん」と愚かにも思ってしまった。

 

そこからもっともっと、いろんなギターソロやバッキングを

コピーしまくればもっと「上手く」なれたのかもしれない。

 

僕はギターはへたくそだが、それなりに、「自分にしか弾けないギター」

を弾いている、という自負がある。

個性には自信があるのだ。「ヘタウマ」、いや「ヘタヘタ」と言いたければ言え。

 

でもふと自分のことを鑑みれば

絵(イラストレーションを含む)は普通に上手いのだ。「当社比」ではなく。

子供の頃から絵は上手かったのだがよく考えたら僕は

高校卒業後、デザイナー専門学校というところに一年以上通って、

基本中の基本の「デッサン」とか、

そういう「教育」を、多少受けたのだった。

 

 

そうか。そりゃ絵は、多少上手くなるよな。

 

ギターとか音楽は、どこまでもどこまでも「独学」でやるべきもの、と

僕は思っていたのだ。思い込んでいた、というべきか。

教条的なものでは、決して、無い、と。

どこでこんな「パンク的」な思想が少年時代の僕の中に根付いたのか、

わからない。

 

 

で、今現在。

 

 

僕はいい年して、いまだにギターは下手で、

でもそれで良かったんじゃないか・・・と自己弁護的に、ではなく思う。

 

僕は自由に発想し、自由に弾くのだ。

 

不協和音だって弾くのだ。

 

 

 

チューニングとリズムさえ ちゃんとすれば、

下手だろうが何だろうが、個性的でありさえすれば、それでいいのだ。

 

アートなのだから。

 

 

大体が、そもそもの始めから、

「上手いギタリストになりたい」なんて、思ってなかったのだからして。

 

 

 

まあ、何でもいいか。

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さらば、タワーレコード・大阪梅田 丸ビル店。

2022-01-19 20:58:03 | Weblog

偶然というか、小さなシンクロニシティというか。

 

昨日書いた日記に、チャボさんのミニライヴ&サイン会に行った、

という話をちらっと書いたのだが、あれは確か大阪・梅田の

タワーレコード丸ビル店でのことだった。西暦2000年、もしくは1999年。

 

そのタワレコ・梅田丸ビル店が、今日で閉店するらしい。

そうか…と思う。

タワーレコードには、 ばるぼら でミディから出してもらったCDを

置いてもらっていたので、ミディ社員の人と二人で、

大阪中心部のタワレコ各店舗に「あいさつ回り」もした。

丸ビル店にも、その「あいさつ回り」で行った記憶がある。

 

でも僕は、丸ビル店よりも どちらかというとミナミの、

南海難波駅近くのタワレコがいちばん、よく通った。

アメ村で働いていた頃・・・・だから1986年から1989年くらいは

それなりに多くの音楽を、一生懸命になって買ってた時期かもしれない。

いや、あの頃のオマエはしょうもない服ばっかり買ってたやないか、

などと、心無い人は言うかもしれないが。

安物の服も買ってたけど、レコードやCDも買ってたんだって。

 

たぶん・・・1987年くらいまでは、店の品ぞろえは、ほとんどがレコードだった。

黒い、ヴィニールの。

それが1987年のある日、ほぼすべて・・・・は大げさか、

80%くらいが全部、CDに替わっていた。ショックだった。

でもその後、いつの間にか僕も普通にCDを買うようになった。

 

1998年にアメリカ・ニューヨークに行った時は、

現地のタワレコに行った記憶がある。

店内が日本の店舗と、ほとんど同じ感じだったように思う・・・・そりゃそうか。

 

それはともかく。

 

要するに僕は、タワレコ、好きなのだ。

 

タワレコと言えばそう、忘れてはいけない、

友達の怒髪天が、NO MUSIC NO LIFE  というタワレコの必殺キャッチコピー

を使って、楽曲を発表したのだ。あれはいつ頃のことだったかな。忘れた。

ライヴで演ってたから、

「タワレコに依頼されて作ったんだよね?」と増子くんに尋ねたら

彼は爆笑して「当たり前だよ笑!!!あんなの勝手に作ったら怒られちゃうよ笑笑!!」

と言っていた。キャッチーで、いい曲。

 

しかし、一時は栄華を極めていたように見えたタワーレコード。

アメ村にも大きい店舗が一軒、あったな。

CDはやはり、売れていないのであろう。

今後の音楽業界はどうなっていくのであろうか。

もう配信だとかサブスクだとか、どうでもいいからさ、

昔みたいにヴィニールのレコードと、カセットテープに戻ろうぜ。

 

 

「貸しレコード屋」とかさ、懐かしくない?

 

まあそれはいいとして・・・・・

 

さらば、タワーレコード・大阪梅田 丸ビル店。

ずっと以前の話だけど、ばるぼら  のCD置いてくれて、どうもありがとう。

 

 

これも昔の話だけど、チャボさんのミニライヴ&サイン会を開催してくれてありがとう。

 

 

 

 

そして

 

音楽の魔法を、どうもありがとう。

 

 

 

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ラジオ!!!!!!!!

2022-01-18 21:09:13 | Weblog

今日はラジコで、

仲井戸”チャボ”麗市さんがFMココロで、3か月限定でやっているラジオ番組を聴いた。

色々と興味深く、とても面白かった。

今日、タイムフリーで聴いたのは1月14日の放送分で、それは二回目で、

一回目は1月7日だったのだが、それは結局、ぐずぐずしてる間に聞き逃してしまった。

無念。RCとか古井戸の音源を流したみたいだ・・・・聴きたかったな。

でも今日のも良かった。

放送の中で、チャボさんの口から、

なじみ深い人の名前が突然、出てくるので何だかドキッとしてしまう。

ハーマンズ・ハーミッツのことを語る時に「ピーターは嫌いなんだ、これ」

って言ってた。ピーター・バラカンってフルネームで言ったかな。

僕はピーターさんと知り合いではないのだが、ここ何年も彼のラジオ番組を

かなり集中して聴いているので、馴染み深いみたいに、錯覚してしまってるのだ。

あはは。まあいいか。

もう一人、浅川マキさんの名前が突然出て来た。

アニマルズの「朝日の当たる家」をかけた時に、

以前、この曲の長さが4分26秒、と暗記していたことにマキさんが驚いて、

チャボさんをほめてくれたらしい。

もちろん、マキさんもこの「朝日の当たる家」を歌っていることも

言っていた。浅川マキ・ヴァージョンも、実は有名だからね。

 

僕は・・・・マキさんは、知り合いだ。大昔(1990年?)

一度だけ、ランブルフィッシュで

マキさんのバックバンド・・・・というか、

浅川マキとランブルフィッシュで、フリーインプロ的なライヴをやった。

関西学院大学の学際。

その何十年か後に再会して、お話もした。ちゃんと覚えててくれた。

 

チャボさんとも、お会いしたことがある。

お会いした、と偉そうに言えないのだが、

大阪・梅田のタワレコでミニライヴ&サイン会があった時にお客として行ったのだ。

サインしてもらいながら

「あの、僕は新宿の戸山ハイツで生まれたんです」と言ったら

「あ?そうなんだ!俺のおふくろは、まだあそこに住んでるよ」と言っていた。

西暦2000年くらいの話だ。

 

最近はラジオがいろいろと、面白い。活性化してる気がする。

ピーターさんの番組もひとつ増えた。

FMふくしまで土曜日の夜に「GOING BACK」という番組をやっているのだ。

ラジコのタイムフリー、そしてエリアフリーという便利なものがあるので、

僕はそれも聴いている。すごくいい。

 

 

東京FMでやっている、スピッツの草野くんの番組も、時々聞いている。

面白いし、彼は同世代だし、しかも

気さくでいいヤツなことが判明。僕は彼と知り合いではないが。

 

そして巨大なダークホース、と言ってもいい

村上春樹さんの「村上ラジオ」も、月イチで聴ける。

 

古井戸の加奈崎さんも精力的にラジオ番組をやっているし、

 

僕のやっていたバンド「ばるぼら」の後期に、

マネージメント関係で関わってくれた松井さんも、ラジオ関西で番組を持っている。

 

コミュニティFMで、僕が出演させてもらったラジオきしわだの

「ホテルロックンロール」も健在だろうか?

 

やっぱラジオはいいな、と思う。

 

1月14日放送分のチャボさんの番組の最後の方で

チャボさんは「あ、涙が出そうになった、今」と笑いながら言っていた。

「5時間くらいやりてえよ、これ」と何度も言っていたし。

 

 

しかし、日本全国のラジオ番組を、

一週間以内ならいつでも聞ける、という「ラジコ」(ラジコプレミアム)は、

ラジオ好きにとっては夢のような存在だ。

 

 

とても贅沢な環境だ、と思う。

 

 

特に、移動しながらクルマの中で聴くとラジオって・・・・っていうか音楽って、

すごく身に染みてイイのだ。

 

 

そういえば

 

昔、「ブルーズはラブホの有線放送のブルーズチャンネルで聴くのがいちばん

身に染みるんだ」と言っていた友達がいたな。

 

 

それに近いかも。

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虚無感についての考察。

2022-01-17 21:40:14 | Weblog

年齢のせい、とか この状況のせい・・・ではないと思うのだが

いろんな事にフッと興味をなくしてしまうような瞬間が、たまにあって、

こーゆーのって怖いな、と思う。

 

このまま、そういう「虚無」を放っておくと増殖して、

最悪のシナリオは

例えば服・・・っていうかファッションに興味をなくして、

例えば小説に興味をなくして、

例えば日記を書くことに飽きて、

遂には音楽さえ心に響かなくなって、最終的に

「生きること」に興味をなくしてしまいそうである。

 

まあ、杞憂だとは思うのだけれど。

 

 

そう言えば僕は・・・子供の頃はずっと、「食べること」に興味がなかった。

興味がない、という以上に、面倒くさかった。

何を食べてもおいしくなんか感じないし、

もう本当に、面倒くさかった。

でも当たり前の話だが、腹は減るのだ。

空腹は苦痛だ。

だから僕はその苦痛を和らげるために食事をしていた。

 

 

飲み食いすることが楽しい・・・と気づき始めたのは

バンドの、ライヴの打ち上げだったり、

スタジオの合間の昼飯タイムとかだったと思う。

 

現在でも・・・一人で過ごす休日とかは、昼ご飯食べるのを忘れたりする。

 

食事、というのは一人でやっても楽しくないことの一つだ。

実は、演奏・・・も、実は僕は、一人でやってても楽しくない。ツラい。

でも、ツラいのを楽しむ、という側面も無きにしも非ず。マゾか俺は。

当たり前だが、

独奏を楽しめる人も世の中に多いのだ。でも何故か僕は無理だ。

理由は不明。

他人がやってる独奏を聴くのは、好きだ。

バッハの無伴奏チェロ組曲とか。最高に好き。

 

 

 

冒頭の話に戻るのだが、

やはり、色々なことに興味をなくしてしまう・・・・・

ような瞬間、つまり「虚無」がたまに、訪れてしまうのはきっと、

「以前のように多くの人と会ってないから」なのだ、と推測する。

 

きっと、そうなのだ。

 

 

ただ、それだけの話なのだ。

 

 

 

 

 

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アズ・タイム・ゴーズ・バイ

2022-01-16 18:18:47 | Weblog

部屋に転がっていた洋楽誌「ロッキング・オン」の

バックナンバーを何気なく手に取って眺めていた。

表紙は、シャウトするトム・ヨーク。

パラパラとめくってみたら、クランベリーズの新譜の広告ページ、

プリンスのインタヴュー,、そしてメイシー・グレイの写真。

これ、いつのなんだ?と思って表紙の日時を見たら、

2001年11月号だった。21年前。

そう言われてみれば、トム・ヨークもまだ若いし、

今更、クランベリーズの新譜なんて出るわけがないし(ドロレスが亡くなってるから)、

プリンスももう、とっくにこの世にいないし、

メイシー・グレイも今ではもう少し、老けてるだろう。

もう少しよく読んでみれば時期が時期だけに、

NYの同時多発テロ事件のことが生々しく語られている。

そうだよな、そりゃ。あれは・・・衝撃だった。

そしてザ・ストロークスのインタヴュー。ストロークスはまだ

デヴューしたてのド新人である。二十歳過ぎくらいの年齢であろう。

若い・・・っていうか「幼い」。でもかっこいい。

しかし、

時が過ぎてしまうのって、あまりにも早いって言うか、

ほんの一瞬だったな。

2001年11月、

僕はと言えばこの時、35歳で、

19歳くらいでランブルフィッシュで大阪に出てきて、

27歳くらいから ばるぼら で色々ととトライしてきた。

その二つの大波が終わった直後で少し呆然としていた気がする。

(ばるぼら  活動停止は1999年12月。)

もう、音楽で喰うとかメジャー・ブレイクするとかは考えるのやめて、地味でもいいから

自分自身の音楽に向き合って、それを深めて行こう・・と

思っていた時期だった。

しかし、若くいられる時期って本当に短いな。

ついこないだまで20代だった気がするんだが、

でも思うに、

自分が歳を取っていくことが想像出来る人って、ほとんどいないんじゃないかな。

アズ・タイム・ゴーズ・バイ。

しかし、自身の音楽を深めていく、という事に関しては

着々とできている実感があるし(あくまで当社比)、

何より僕はまだ生きていて、音楽を演ることを諦めてはいない。

バンド(ROCA’66)は精神的に維持できているし、

メンバーだってちゃんと、いてくれるのだ。

このコロナ禍は我々の活動にとって致命傷にもなり得た。

我々の音楽活動は

息の根を止められてもおかしくなかったのだ。

でも何とか、やり過ごせるかもしれない・・・・

そんな希望が見えて来たように思う2022年1月。

今、やっていることは僕にとって、「三つ目の大波」である。

 

この後、どうなりますやら。

 

 

 

 

 

アズ・タイム・ゴーズ・バイ。

 

そして明日は、あの阪神淡路大震災から27年目の朝である。

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初期の村上春樹長編作品を研究的に。

2022-01-10 18:51:22 | Weblog

「職業としての小説家」という、

村上春樹さんが5年くらい前に出版した、少し自伝っぽい本を読みなおしていて、

彼の

小説デヴュー当時の話、というか

生涯初めての小説「風の歌を聴け」を書き始めた時の話が面白くて。

 

それによれば、当時の彼は

”「何も語ることがない」というところから始めるしかない、と思った”

というようなことを言っていて、すごく意外だった。

何かを表現する、という時に、そんな風に思う人は多いのではないか。

しかーし。

春樹さんがそう言っていることを、そのまま真に受けられない、という部分もある。

 

「風の歌を聴け」という小説は、一見、重いテーマなどないように見えるのだが、

その実、

巧妙に隠されている事実、というか、エピソードがある。

例えば・・・「僕」がどんなことでも回数、というか、

数字的に数えなければ気が済まない、という奇妙な癖に取りつかれてしまう。

そして・・・・・その背後に一体、何があったか。

どうして「数を数える」のを止めてしまったのか?

他にもそのことを示唆する部分はいろいろ、ある、というか、

よく読めば実は、

ほとんどすべてのことが「ある出来事」を起点に語られる。

それは、

いかにも何でもない、というようにさらっと語られる「恋人の自死」だ。

すごくわかりにくいけど、わざとわかりにくくしてあるけど、これがコアだ。

 

そして二作目の長編「1973年のピンボール」では

「直子」という名前も登場して、

冒頭から全編、その「自殺した恋人」である「直子」の影で、作品全体が覆われている。

最後に再会するピンボールはもちろん、「直子」だ。何の説明もないが。

 

そして三作目の長編、「羊をめぐる冒険」で、ついに「直子」から離れて、

自由な創作の世界に突入する。この小説はすごく面白いし、多様だし、

独自の「痛み」の感覚も、ある。切ないのだ。

ミステリアスだし、サービス精神にあふれてるし・・・すごく好きだ。

 

そして

次の長編作品「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は

村上春樹の長編最高傑作といわれている。僕も実にそう思う。

で、「直子」から離れたか?と思いきや、さにあらず。

この作品内の「世界の終わり」という内的世界を創りだしたのは

実は他でもない、「直子」であるのだ。

未発表の中編「街と、そのその不確かな壁」を(部分的にでも)読むとわかる。

(・・・・間違えた。「街と、その不確かな壁」は未発表ではなく、単行本未収録なのだ。)

だから

「世界の終わり」部分の図書館の女の子に少し、「直子」の面影があるかもしれない。

御多分に漏れず僕も、この長編が一番好きだ。何度読んでも愛おしい。

 

 

そしてそして運命の、というか、 大・ベストセラーになった

「ノルウェイの森」にいたって、作者はついに、

真正面から「直子」、そして彼女の自死に向き合う。痛々しい話だ。

「ノルウェイの森」には実際の奥さんである、

「陽子」さんとしか思えないキャラクターも「みどり」という名で、

準・主役として出てくる。

そして彼女が希望となって、話は終わる。

これは結構、赤裸々な話・・・・・なのである。そうとしか読めない。

でも哀しすぎて、僕はこの小説、あまり好きではない。

「直子」の視点から見ると、全然「救い」がない・・・・・・・・・・・。

まあ、とにかく。

 

 

 

だから、つまり、初期の春樹さんは、全然「何も語ることがない」という

精神状態ではなかった・・・・のではないか?というのが僕の推測だ。

 

 

「ノルウェイの森」以降は、もう「直子」の影は作品に出てこない。

作家・村上春樹はそこに至って初めて、

「もう語ることがない」という境地に達したのではないか?

 

初期・中期の作品に比べて、

「ねじまき鳥」も、「カフカ」も、「1Q84」も、「騎士団長」も、

どうしてもコアが薄い・・・気がする。

「痛み」の感覚がない、というか。

 

こんな勝手なこと言うのはどうか?と自分でも思うが、

 

「ノルウェイの森」以降の先品は、読み返しを、あまりできない・・・というか

読み返していないのだ、3回、せいぜい多くて5回読み返したくらいか。

初期三部作と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に関しては、

僕は、

20回以上、それぞれを読み返している。

何度読み返しても飽きないし、「痛み」の感覚も消えない。

 

「ダンス、ダンス、ダンス」はその中間に属する。

読み返しがいがあるし、面白いし、「痛み」の感覚も、いつまでも健在だ。

「ダンス、ダンス、ダンス」に「直子」は登場しないにもかかわらず。

 

 

ということで結論。

村上春樹の初期には「語りたいこと」

もっと言えば「語るべきこと」が、確実にあった・・・・・と思う。

「直子」は、実在していたのだ。

そしてその存在が作家・村上春樹が創作に向かう巨大なエンジンであった。

本人が自覚していたかどうか?は、ともかく。

想像でしかないのだが「風の歌を聴け」を書いていてそのことに気付いて、

だからこそ、そのことをあんな風に巧妙に隠して

作品の中に織り込んだのではないだろうか。

そうせざるを得なかった・・・・・のではなかろうか。

 

 

僕は時々、このことを考えていて、

どうしても誰かに話を聞いて欲しかったのだ。

 

本当は、春樹さん作品を、何度も読んでるような人と、

現実世界で語り合いたかったのだが、まあしょうがない。

 

こんな「場」があることに感謝。

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パンク忘年会、あれから30年以上経って思う(少しだけ加筆あり)。

2022-01-07 21:46:49 | Weblog

1987年当時は、僕は、パンクに全然興味がなかった。

だからパンク店員の彼らとも、

パンク音楽の話で盛り上がったり出来なかったのだろう、と思う。

「飲み会」自体は、狂騒的に楽しかった記憶があるのだが。

音楽のことを言えば、

その頃の僕は、アメリカ黒人の奏でる、古いブルーズと、

同じく古いリズム&ブルースしか信じていなかった。

そして、後年それに影響された・・・主に英・米の白人の若者のロック。

たとえばストーンズ、たとえばフェイセズ、Jガイルズバンド、

ドアーズとか、オールマンブラザーズとか、ジャニス・ジョップリンとか。

レーナードスキナードとか。

そんなだから、パンクはほとんど接点がなかった。

 

 

でもずっと後になって僕はいろいろあって、

結局のところ、パンクの面白さ、奇天烈さを理解することになる。

今では、大・大好きだ・・・・パンク。

ニューヨークパンクもロンドンパンクも愛おしい。

疾走感と焦燥と、ノイズぎりぎりの音。

もしくは、ノイズ、ノイジーそのまんま。

そして、ノーテクニック、初期衝動のみ。

ルーツなど不必要。今、ここにある衝動がすべて。

そして「反社会性」の表れ、としてのファッション。

絶対、「小奇麗」になど しない、ならない。

切り裂かれたTシャツ、そしてスーツ。

社会のはみ出し者としての、バイカー革ジャン。

膝の抜けたジーンズ。

 

でも思い返してみたら当時の僕は、もしパンクに魅力を感じたとしても・・・

(そうだ、そういえば唯一、ザ・クラッシュは大好きだったのだ)

パンクショップに売ってるような革ジャンなんて、

高価すぎてとてもとても、買えなかった。

試着することすら躊躇した(実際、試着もしなかった)。

だから僕らは、いにしえの「ヒッピー」からヒントを得て、

1980年代後半当時隆盛を極めていた「インド屋」のセンスを取り入れて、

それを1970年代のロックファッション(ベルボトム!!!長髪!!!)と合体させて、

我々独自のファッションの価値観を作り上げた。

っていうかこれは単に、「廃れていた文化の復活」だな。

誰もがベルボトムを蔑み、嘲笑していた時代だったからこれは、有効だったと思う。

この「ベルボトム復活」と、「70年代掘り起こし」の発想は、

もとはと言えばランブルフィッシュのヴォーカルの、佐治くんのものだった。

当時働いていた古着屋で ある日僕が、倉庫の奥の奥からベルボトムを発掘した時、

その時偶然店に遊びに来ていた佐治くんがそれを見て、

「これ買って、バンド皆で着ようぜ」と言い出したのだ。

僕は、はじめのうちは彼が冗談を言ってるのだと思った。でも冗談などではなかったのだ。

佐治くんが身に着けるとベルボトムは最高にかっこよかったし、しかもそれは

他には誰も着ていない、独特な衣装になった。

そして結局、

ランブルフィッシュのメンバーは全員、そんな70年代のヒッピー崩れみたいな恰好になった。

これは1987年前後の出来事だから、本当に他にはそんな奴いなかったし、

すごく目立った。

その格好で堂々と街を歩いていたら、「見てあれ!」みたいに

通行人に指をさされて笑われたことが何度かある。本当の話。

今でいう「コスプレ」みたいに見えたのかも知れない。

佐治くんは「わかってへん奴らやな」と、逆にそいつらを鼻で笑っていた。

そのくらい目立ったから、それは大成功だった・・・・と今でも思っている。

自意識過剰かもしれないが、僕らの真似をする若者も現れたのだ。

1990年以降、ブーツカットジーンズが再流行を果たしたのは

僕らのせいではなくて(そこまでの影響力はない)、

ただの偶然でしかないのだが、タイミングはすごく良かったと思う。

・・・もちろん当時、ランブルフィッシュが多くの人に支持してもらえたのは

ファッションのせいではなく、佐治くん中心に我々が作り出す

音楽の成果だったと自負しているのだが、

やはり特異なファッション性もその一助になったはずだ・・・と僕は確信している。

 

僕らは、四天王寺の朝市で、

神戸元町の高架下で、

まるでダイヤの原石を探すみたいにして、

デッドストックのベルボトム・ジーンズ(そして革ジャン、そしてブーツ)を探した。

当時(1980年代後半)は、

デッドストックでしか、ベルボトムなんてあり得なかったのだ。

 

でも後になって気付いたのだが、

パンクとヒッピーって相性は最悪・・・・みたいに思われてるけど、

二つのムーヴメント、根っこの思想は、そう大して変わらないのだ。

少なくとも僕ば、そう思っている。

 

ドゥ・イット・ユアセルフの精神、

反・体制の姿勢、

他人の真似をすることを良し、としない気概。

既存の社会からの「自立」精神。

 

これらは、パンクとヒッピーに共通するのではないか。

 

 

 

一般に、多くのパンクスがヒッピーを毛嫌いするのは

かのジョン・ライドンがヒッピーのことを忌み嫌うからだ。

インタヴューでぼろくそ言いやがる。まあいいけどw.

 

 

 

 

しかし、あの頃のパンク店員の彼らも今ではもう、50歳代に突入しているはずだ、

少なくとも生きていれば。

 

 

どんな風になってるのだろう?彼らは。

 

 

生きてるかな?

 

 

 

生きてて欲しいな。

 

 

 

 

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