戯言

2017-04-30 16:31:36 | Weblog


世間で

よく言われる戯言で御座いますが、あれは本当なのですね。


曰く

一月は「逝く」、

二月は「逃げる」、

三月は「猿」・・・・・いえ、「去る」。







ふむ。







ならば


四月は 「死ぬ」・・・のかもしれませぬ。







五月は?そんなら五月はどうなのさキーッ!

と仰る方の為に申し上げましょう、

五月は「GO」、と。

つまり、「行く」のですね、意味的に。

ちょっと苦しい?

まあ良いではありませぬかこの際。


孫悟空の歌で有名な「ゴダイゴ」の名は、はgo-die-goの意で、輪廻を表している、とのことで、

「行く」と「逝く」とは同音同義語でありんす。

「不思議の国のアリス」で一番印象に残るのは「チェシャ猫の笑い」でありんす。



さて


もっと言いますと


六月は、「録でもない」のです。

ろくでもないものは跡形も残さず消え行きます。


我が友 怒髪天曰く、「ロックじゃない奴ぁロクデナシ」。




七月は?と言えば

「質草」です。

つまり、流れて消えて行きまする。


八月は「波」。発音的には、ハッ!ちがつ、と言いまして、

その意は

現れては瞬時に砕け散りまする。永遠にその繰り返し。



九月ですか?

・・・・・私の好きな九月は、やはり、「空」しかない。

くぅがつ、と発音致します。

そう、もともと何もないのです。

いっそ、さっぱりして気持ちよいほどではありませぬか。




十月?

十月は・・・・・・・・・・・・・「ジュッ」と音を立てて蒸発致します。

一秒もかかりませぬ。

それで良うござんすか?



この後のことなのですが、



十一、

十二に関しては・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全て、一からの繰り返しで御座います。



私に・・・逃げるな、と仰る?



いえいえ、今は「逃げる」とか「消え去る」というお題でお話させて頂いている故に、




この終章は必然なので御座います。


ははは。



「落ち」がついたところで、



今日で四月も消え去りますことゆえ。













お粗末様で御座んした。















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厚顔無恥

2017-04-27 22:04:33 | Weblog

私は自分のことをずっと、

小心者の恥ずかしがり屋の引っ込み思案の照れ屋の内向的な慎ましい人間だ、と思っていて、

そのように消極的に生きてきたつもりなのですが

ふ、と我が身を振り返ってみたとき

もしかして私は厚かましく、

図太く、無神経で、他人のことお構いなしで、

「ジャイアン」で、

私ほど「繊細でない」人間はこの世に余り、存在しないのではないか?



思い当たるフシが少々・・・・いや、多々あって、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むむむ、いかんいかん、

「厚顔無恥」なんて最低だ、

しかもそれが自分自身の姿だなんてね、

ひぃぃ。

まあ、その事が真実かどうかは神のみぞ知るのですが、仮にそうだったとして、

自己イメージと実像がここまで大幅に食い違ってしまうなんて、

もしかして私は阿呆なのでしょうか。

でも、そうなると・・・・・・・・・・・・・・・・

私の一番嫌いなのは「傲慢な人間」なのですが、

もしかして、それさえ

「自己嫌悪の裏返し」なのでしょうか。



こういう類の「自己規定」っていくらやってもキリがないような気がするから止め。



もう寝よ。


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2種類。

2017-04-25 20:58:38 | Weblog



君を罵倒してくる人    君に微笑みかけてくれる人

君のことを気にもしない人   君の事ばかりを考えている人

君を忌み嫌ってくる人    君を気に入ってくれる人

君とすれ違う人  君と鉢合わせする人

君がよく会う人  君が会うこともない人

君のことを思い出した人  君のことを忘れたままの人

君と関係ある人   君と何の関係もない人

君から見て清いひと  君から見て汚いひと

君から見て正しい人   君から見て間違いだらけの人

君にとって良い人 君にとって悪い人

君と縁のある人   君と一生縁のない人

君との関係を切ってきた人   君が関係を切った人

君がお願いしても会いたい人  君がお願いされても会いたくない人

君から見て可笑しくて笑える人   君のことを笑う人

君と一緒に笑える人   どう頑張っても君とは一緒に笑えない人

君と一緒に演奏する人   君と一緒に演奏しない人

君が(会いたいと思えば)今からでも会える人   君が(会いたくても)もう二度と会えない人

君を傷つけた人   君に傷つけられた人

君と会ったことある人   君が会ったこともない人

君に暖かい人 君に対して残酷な人

本を読む人   本なんか絶対読まない人

君の憧れの人   君が心から軽蔑する人

君のことを好きな人   君のことを嫌いな人







まったく君と誰かの関係ときたら、

「中間」というものがないのだ。


だからこんな風に2種類に分ける事ができる。




だからどう?って話でもないんだけど。



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「アレ」考(付記あり)。

2017-04-22 18:44:52 | Weblog


RCサクセションの「つ・き・あ・い・た・い」という曲は今聴いても最高にかっこいいし、

ヒットしてた当時も大好きだった。


含みのある歌詞。

古い友達でも、昔世話になった奴でもつきあいたくないのに、

そいつが「アレ」を持ってたらつ・き・あ・い・た・い・・・という。

この「アレ」とは何なのか?

こーゆーのって「価値観のリトマス紙」みたいなものだよな・・・と思う。

この曲がヒットしてた当時は俺も多分、十代で、思考がけっこう幼かったので「アレ」とは

イホーヤクブツ、つまりDRUGの類の事なのかな?と、ぼんやり思っていた。

でも、後になって考えて 違う、と思い直した。

そんなしょーもないものではない。

「アレ」とは、恐らく、「情熱」、とか「真心」 のことであろう、と。

今でもそう思っている。

リトマス紙だ、というのはつまり、

(「アレ」の解釈の仕方で)その人が何に興味があって、何を大事に思っているか?

ということが解ってしまう・・・・ような部分があるからだ。


もうひとつ、「アレ」。

英語で「THAT THING」。

フージーズのローリン・ヒルのソロデヴューアルバム「THE MISEDUCATION」の中に入っている大ヒット曲、

「DOO WAP」という曲のサブタイトルがTHAT THINGで、

最高にクールでかっこいいラップの歌なのだが、サビの部分でメロディに乗せて歌われる言葉が、

「男たち、気をつけたほうがいいよ、女の子の中には「アレ」だけが目当ての子もいるのよ」

だって。

(あ、これはもちろん俺の「意訳」ではあるが、けっこう正確だと思う。)

それで、二番のサビは男女逆転する。

「女の子たち、気をつけたほうがいいよ、男達の中には「アレ」だけが目当ての奴もいるのよ」

むむ・・・・・・・・・・・・・・・・。

この「アレ」は何だろうか?

「つ・き・あ・い・た・い」と違ってこちらの「アレ」は否定的なニュアンス。

そして、一番と二番で男女が逆転して、両方に語りかけている。

カネ?名誉?火遊び?

一番の「アレ」と二番の「アレ」って内容が違うんだろうか。

・・違うんだろうな。


RCの話に戻るのだが、忌野清志郎という人はもちろん偉大なソングライターなのだが、

「スローバラード」みたいな大曲だけではなく、

わりに軽く、CMのため、とかで書き飛ばしたような曲の中にも、

素敵なものが多い。

「ベイビー、逃げるんだ」も最高。「不思議」も最高。

CM用じゃないけど、ふざけてるみたいな「ぼくはタオル」とかも最高。

「DDはCCライダー」なんてのも軽いけど最高にかっこいい。「ダーリン・ミシン」とかも。

あと、「この世は金さ」なんて、「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」と並べるため・・・だけのために

作った、としか思えない曲。書き飛ばしてる。笑える。最高。

「デイ・ドリーム・ビリーバー」も、日本語詞という制約の中で、素晴らしい歌詞が生まれている。

あれはお母さんが亡くなった頃の歌詞だそうだ。切ない。






それにしても

RCは本当にかっこいいロックバンドだったよね。



付記

あ、そうそう、書き忘れてたんだけど

「つ・き・あ・い・た・い」の3番の、

「オーベイベ今夜お前と・・つきあいたい、深くつきあいたい、狭くつきあいたい」という歌詞は本当に、

笑っちゃうくらいセクシーでリアルで馬鹿馬鹿しい。「狭く」が特にいい。





この圧倒的な言語感覚!






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だからどうだって言うんだろう?

2017-04-20 21:45:33 | Weblog

何もヤバくないし、何もマズくない。

ただ気を抜かずにひとつずつ、対処して行けばいいのだ。


ああ、それにしても

スイッと魚が水中を行くように人も

もっと楽に生きてゆけるはずなのに、と思う。

とか言って

・・・実は、魚も楽じゃないのかな?

でも、苦悩してるようにも見えないんだよね。

俺?

俺はいつでも苦悩してます。何ゆえにか?というと、

哲学的命題で・・・・・・・・・というのは嘘(嘘でもないんだが)。

えー、政治的な問題で。これも嘘っぽいな。

私を悩ますのは・・・・・・・・・・存在論的苦悩。うーん、大層だな。

でも、そうとしか言えないようなことも、ある。

他は・・・・・・

コミュニケーションの不可能性についての苦悩。

平べったく言うと、

他人とうまくやるのはムツカシイ、ということでもある。

誰か「他者」に気持ちが伝われば嬉しいし、

そうでなければ諦めるしかない。

所詮、誰だって、他人のために生きているワケではないからだ。

でも・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうでもないのかな?

「他人のために生きる」、という側面はしかし、誰にとっても

無視できるものではない。

それでも、「個人」というのは究極には、「自分のために生きている」し、

そうであるべき・・・・かもしれない。

わかんないけど。

でも、「他者」は大切だ。

もし、「他者」が存在しなければ、「自分」もいないのだ。

そうだよね?

そう考えると

「他者」と「自分」というのを

切り離して考えるべきではない・・・・・のかもしれない。

でも、これって「ONE思想」みたいだよね。

個は全であり、全は個である・・・・・みたいな。

でもさ、

シンセキのシンセキがシンセキなら、

人類すべてがきっと、シンセキ関係なのである。

「他者」であっても、「余所者(他人)」ではない、ってこと。


だから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だからどうだって言うんだろう?




他人には優しく接しなさい、ってことだな。


多分。


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咲いたチューリップの画像(ゆるい日記・・・・)。

2017-04-18 21:25:14 | Weblog


先日はお日柄もよく・・・・


あ、そうそう、「チューリップが咲きました」とか言っておいて、写真をアップしてなかったので


本日、そのためにブログを書いている。


載っている写真はアタシの、花壇の、チューリップざます。


これらは球根から俺が植えて、育てたものです。まじで。


チューリップなんてそんなに好きな花でもなかったんだけど、


派手だし、わかりやすいし、手間も要らないし。


・・・・・・・・と、わりに安易に選んで植えたんだけど、


咲いてくれたら嬉しくて、チューリップ大好きになってる老青年の道子です。


しかし、こんな年になって(幾つなのか?は言わない)・・・・


かいがいしく花壇の世話をするようになるとは、予想もしなかったわよアタシゃ。


とか言って


「世話」ってほどの世話したわけでもないんだけど。


秋に、球根を、土に穴掘って20個くらい、適当に埋めただけで。


リスがドングリ埋めるみたいな感じで。


水やり、とかも始めのほうしかやってないし。


・・・・それなのに、この色とりどりの有様。


球根って、タフな奴等だ。


さて、これらの花が枯れたら


次は、何を植えればいいのかねアタシ。


しかし、昨日の「春の嵐」はエグかった。


家に帰ったらチューリップ全滅してるんじゃないか?とマジで覚悟した。


でも大丈夫やったんよ。


奴等、本格的にタフだぜ。


俺も、見習おう。


それじゃ、またね。


元気でね。



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チューリップが咲きました。

2017-04-16 19:42:07 | Weblog


今日は静かで美しい日。

ずっと考えていたのですが・・・

亡くなった人たちは必然的に聖性を帯びます。

大げさな物言いですが「歌」というものも聖性を帯びます。

何故だか存在自体がHOLYなものになるのです。

「この世のものではない」から・・・・なのかもしれない。

こういう日は考えが次から次へと移り変わっていって、

「とりとめのない」ことになります。

僕の花壇では、チューリップが咲きました。

華やかな事この上ない。むせるような生命力を感じる。色とりどりで、

狂い咲き・・・みたいな感じで、でも「狂い咲き」は季節はずれの花のこと言うのかな。

チューリップが秋に咲いたら「狂い咲き」なのかもしれないけど

春だから、そうじゃないよね。

でも狂い咲きって素敵な言葉だ。

「狂い咲きサンダーロード」っていう映画あったよね?

増子兄ィも出てるんだっけ?

・・・「歌」の話に戻る。

先週・・・「歌」づくりを制御する事はできない、とラジオのインタヴューで

COCCOが言っていた。

(COCCOって、シンガーソングライターの女性。「強く儚い者たち」という曲が大ヒットした。)

・・・・始まってしまったら止められないのだ、と。

わかる気がする。

そうそう、俺はCOCCOと会ったことがあるのですよ。

1998年のSXSWで一緒だったのだ。俺は「ばるぼら」のギターとして出演した。

COCCOも、バンドを引き連れて出演していた。

テキサスに到着した日、

ホテルのロビーで偶然、COCCOが一人でいるところを通りかかった。

うわ、COCCOがいる、一人でいる、話かけようかな?と一瞬思ったのだが

俺も人見知りなので・・・・。

でも目が合ったので、会釈だけした。

COCCOは笑顔で会釈を返してくれた。いい人だ。

会った、と言ってもそれだけなのだけれど。

その翌々日の、SXSWでのCOCCOのライヴは良かった。美しかったし、ちょと壮絶な感じもした。

真っ白なサマードレスに素足。

彼女の「RAINING」という歌がいちばん好きなのだが、

その歌詞の中に「髪がなくて今度は腕を切ってみた、切れるだけ切った」

というのが出てくるのだが、

まさか本当に自傷癖があったなんて思わなかった。

拒食症を最近、やっと克服した、というのも何かで読んで最近知った。

壮絶な人だ。

彼女が言うに、「歌」は、制御できないから、遊びに行くときとか、

今日は「(歌が)来なければいいな」とか思うらしい。

来たら、抗えないのだそうだ。アートだ。

でもやはり、「歌」に聖性を感じるのは俺だけではないのだ、と思って

勇気付けられた気がする。

「歌」は聖なるものなのだ、それでいいのだ。

亡くなった人たちも、聖なるものだ。

きっと、「八百万の神々」の仲間入りをしたのだ。

そう考えると、

すっと

「腑に落ちる」

よね。








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「徳さん」に、レスト・イン・ピース・・・・・。

2017-04-15 13:34:21 | Weblog

徳さんは昔から最高にかっこいいギタリストだった。


「アウシュビッツ」のギターとして、世間ではちょっと有名な人。

エッグプラントなどでブイブイいわしてたバンドだ。

1989年くらいか?「ランブルフィッシュ」と「アウシュビッツ」で

ファンダンゴで対バンで、ライヴしたことがある。

徳さんは何しろ、ジョニーサンダースに顔が似ている。男前なのだ。

これは「羨ましい」の極致だ。ギターも上手い。物腰もスマート。しかも、「アウシュビッツ」。


1990年くらいに難波の消防署横の地下で「アウトクラブ」というライヴハウスを経営していたのも、

徳さんだった。経営者が徳さんだった、というのは後から聞いて知ったのだが。

「アウトクラブ」の前はそこは練習スタジオで、

確か「ニューエストモデル」とか「メスカリンドライヴ」が使用していたはず。

俺も何度かそのスタジオは使った。

練習スタジオが「アウトクラブ」になってからも、ライヴを観に行った。

「ニューエストモデル」と「マッドギャング」の対バンとかあった。豪華だ。


「アウトクラブ」はいつしかなくなって、


だいぶあとに、天王寺でスタジオ入りしたとき、そこのカウンターに座ってる

ジョニーサンダースみたいな人に見覚えがあるな・・・と思ったら

「君、ランブルフィッシュのギターやろ?」

と、ジョニーサンダースの方から喋りかけてきた。徳さんだったのだ。


徳さんは今度は天王寺でスタジオを経営していたのだ。

そこも、何度も使った。いいスタジオだった。




(余談だが、後年、中島らもさんをお見かけしたのも、そのスタジオだった。)



その時


徳さんが俺を覚えててくれてた事には驚いたし、嬉しかった。

聞くと、あの「ランブルフィッシュ」と対バンした時の印象はけっこう強烈だった、と言ってくれた。

光栄だった。




近年の徳さんはアメリカ村の三角公演横のビルの5階で

「リードカフェ」というとても素敵で贅沢な店を経営していた。

おととし・・・・・だったかな?

ROCA'66で、他に友達のバンドを呼んで、そこでライヴをやった。

すごくいい感じだった。徳さんも、終始、ニコニコしていた。

いい夜だった。


その後、徳さんからメールで「またあんなライヴやろうよ」と言ってもらった。


アメリカ村は俺にとっても、思い出の多い場所だし、

憧れの、もと「アウシュビッツ」の徳さんの店だし、

いつかそのうち、「満を持して」って感じで、またライヴ企画したいな・・・と思っていた



・・・・・・・・・のだが。


ついさっき、

もと「イージーウオーカーズ」のドラムで、現「ハーシーズ」のドラム、

一時は「ROCA'66」にも在籍してくれた樋口くんから

徳さんの訃報を聞いた。




ショックだ。




かっこいい人たちが次々とこの世を去って行く。





徳さん、「レスト・イン・ピース」です。



いつか、「あの世」という名の鄙びた温泉街でお会いしましょう。




おやすみなさい。

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近況2017・初春。

2017-04-14 22:18:56 | Weblog


長雨だったり、


やたらと強い風に吹き飛ばされそうな私の繊細なハート(この場合の「繊細」は、悪い意味だ)。


お元気で暮らされてますか。

私のことを覚えてますか。




そうだ、ライヴのこと・・・・・・・・・・・・・・・・。




ちょっと以前に、

「5月4日に、中津VI-CODEでROCA’66のライヴ決まったよ!」

って

書いたと思うのだが

そのライヴ、あえなく潰れました。

・・・無くなったの。


行くつもりだった、っていう人に、ごめんなさい。


なんで無くなったのだろう?


ちょっと弱ってたかもしれない。・・・・・・・・・・・・・まあ、こんなこともある。


でも、


その代わりに、ってワケではないのだけれど、


その次の月、


6月24日 土曜日に


扇町のライヴハウス、PARA-DICEへの出演が決まった。


もちろん、ROCA'66の出演。


3月にムジカでご一緒した、NDARICCAさんと、また競演。これは、嬉しい。


あたしたち(ROCA'66)ときたら、その日(6月24日)まで しばらく また、ライヴ空くから

スタジオで新曲練習しなきゃだわね。


不器用で不器用で不器量なので新曲って何回も何回も何回も演らなきゃいい感じで出来ないのだわ。


あああ、「器用な人」に心から憧れるのだけれど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


もし器用だったらそりゃ、、その人はもう、アタシじゃないから。

つまり、これはこれで、”受け入れなければいけないこと”なのだ。

私は私でしかない。


ところで


PARA-DICEに、まだ来たことない人たちっていっぱいいいると思うけど、


あそこ、いい所だから来て見てよ。


天神橋筋商店街の中に在るライヴハウス、って笑えると思わないか?


天神橋筋商店街って、日本一長い、アーケード商店街なんだって。


ヒョウ柄の服を着た大阪のおばちゃんがうようよ生息してるワイルドな、天神橋筋商店街。


俺は、心から愛してるのです。


ヒョウ柄おばちゃんを?


・・・・いや、ヒョウ柄おばちゃんも、だけれども、


PARA-DICEっていうライヴハウスを

                              


                     ね。





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無題(これも「自戒」でしかない。)

2017-04-12 21:47:32 | Weblog


何かを、または誰かを・・・・・・・

「好きになる」というところから始めるしかないのだ、恐らく。


それがすべてのポジティヴィティの原点であろうし、

「世界」を渡って行く第一歩・・・・「きっかけ」にも、なるだろう。


「他者」と関わる。


そりゃ、誰かと敵対・・・・・することもあるかもしれないけど、

それはやはり、不毛だ。


誰か、他人と

似たところも、違うところも理解して、

「他者」を好きになる。

「自分とは圧倒的に違う者」に、憧れる。


そして 近付こうと、する。


そうこうしているうちに

以前とは変化している自分、というものに気付ける日も、来るかもしれない。


自閉的に生きるのは、ツライ。


どっちみち外界と関わらねば生きてゆけないなら、

「誰か」を好きになるべきであろう。


なるべくなら、他人を嫌うまい。


誰かを嫌って、敵対するほうがずっと簡単だ。

でもそれは幼児的だ。



圧倒的に能動的になれれば、

うまく行くかもしれない。


受動的に、ではなく、能動的に生きよう・・・と思う。


「好き」というチカラは

能動的なものでしかないのだ。






きっとそうだ。

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