一周忌、そして「アムネシア」。

2021-05-31 21:08:45 | Weblog

 

MIDIの大蔵さんが亡くなって一年。

 

僕は、

1994年から1999年までやっていた「ばるぼら」というバンドで、

とてもとてもお世話になりました。

 

海外遠征に3度も連れて行ってもらったし、

ミディ・クリエイティヴから「ばるぼら」のアルバムが3枚、リリースされた。

その3枚は今でも、僕の誇りだ。

 

今更ながら、ありがとうございます、大蔵さん。

 

「ばるぼら」が終わった後、僕は

自分なりに、自分で歌を作って、メンバーを集めて、

自分で歌う、という、

ギタリストだった「ばるぼら」時代とは違う、

自分としては一歩踏み出した活動をしていたのです。

そしてそれは今でも続いている。

 

でも

と言うか

 

だから

と言うか

僕は

大蔵さんにはあえて協力をお願いせずに、自分達だけで

活動していたのです。

 

 

2018年12月に、最後にお会いした時はそれでも、

今の自分のバンド「ROCA’66」のライヴを観に大蔵さんは、

京都・伏見のアニーズ・カフェまで来てくれた。

 

 

「君が音楽を続けていてくれて、とても嬉しいです」

と言ってくれた。

 

そうか・・・・・僕の活動が地味化していたから、

音沙汰がなくて、僕がもう音楽を止めてしまった、と思っておられたのだ、きっと。

 

 

でもとにかく、「ROCA’66」のライヴを見てもらえてよかった。

あれが最後になるとは、思いもしなかったのだが。

 

 

そして2021年の今日、

 

「ばるぼら」を6年間一緒にやっていた盟友、ボケロウの

YOUTUBEチャンネルに、

「ばるぼら」初期のデモ音源が、写真付きでアップされていた。

曲は、初期の名曲「アムネシア」だ。

 

とてもいいと思う。

 

多くの人に聞いて欲しい。

 

僕がこの音源をアップしたわけではないのだが、

ここで紹介することによって

「ばるぼら」を応援してくれた皆さんと

大蔵さんに捧げようと思いマス。

 

 

「アムネシア」。

 



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ハッピバースデイ

2021-05-30 21:29:42 | Weblog

どいけん、誕生日おめでとう。

 

こないだもちょっと書いたんだが、

アナタを始めて認識したのは、福山市民会館での

甲斐バンドのコンサートでちらっと会った時だった。

 

お互いきっとそうだったと思うのだが

ロックコンサートに行くなんて生まれて初めてで、

僕はがちがちに緊張していた。

はっきり言っちゃうと怖かった。

でも勇気を出して行って良かった。あれは多分1980年の秋で、

僕らは14歳にもう、なっていたのだと思う。

あれで、あの体験で、その後の人生が一変してしまったと思うのだ今となっては。

あのとき、ロックが、落雷するみたいに僕の中に侵入したのだ。

大きなことだった。

そして、あれがきっかけで、アナタが僕に気付いてくれて、

そのことも僕にとってはとてもとても、大きいことだった。

 

でも14歳だったなんてね!

当たり前と言えば当たり前すぎるけど、

子供だったな。そして自分はいつまでもいつまでも子供のままでしかいられないのだ、と

心の底から信じ切っていた。少なくとも僕はそうだった。

 

いつ頃だったかな?

高校の軽音で、一学年下の後輩が出来て、彼が初めて「片山先輩」と言ってきたとき

凄い違和感があった。

次元が歪んだ、っていうくらいの、妙な感じがあった。

 

それが今や・・・・・俺より年上の人は珍しい、ってな具合で、

多くの、多くの人が亡くなったね。

 

明日は どいけんの誕生日なのだけれど、

同時に、MIDIレコードの社長の大蔵さんの命日、という事になってしまった。

 

大蔵さんが逝ってしまったのは去年だ。

 

俺達もいつか消えるし、そしたら

俺達の抱えている記憶や、歌や、音源や、楽器も、

全部、がらくたになる。

もっと言えば「ゴミ」になってしまう。

 

でもそれでいいんだよね、と思う。

 

とは言え、そうなってしまうまでにはまだ時間があるし、

それまでにやれることはやってしまいたい。

 

「悔い」みたなのを、なるべく残さないように生きたい。

 

まあ、「悔い」をゼロにするのは無理かもしれないけど。

 

過ぎたるは及ばざるがごとし、って言うけどさ、

 

やらなかった後悔より

 

やっちまった後悔 のほうが幾分、マシなはずだ。

 

やっちまった後悔、は僕の中に実は、多い。

 

でもそれでいい、ということにしておく。

 

ここ数日、いろいろなことがあって、いろいろなことを思った。

また少しずつ、君に伝えていきたいのだけれど、

 

 

今日のところは誕生日のお祝いを伝えておくだけにする。

 

ハッピバースデイ。

 

 

 

 

我々は・・っていうか僕は、間違ったこともいろいろ、やっちまってるけど、

・・・・・・・・比較的マシなこともやってると思う。

 

 

だから総体としては、

これで良かったのだ、ということにしておこう。

 

 

後何時間かで、明日になる。

 

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罵詈雑言(超へヴィ)。

2021-05-27 20:38:39 | Weblog

私などは昔から、

コテンパンに非難されたり、批判されまくったり、

陰口言われたり、面と向かって悪口言われたり、

そんなことばかりの人生で御座います。

 

曰く、

 

下手クソだ、不細工だ、いい加減だ、テキトーだ、

基本が出来てない、

アタマが悪い、ありきたりだ、陳腐だ、無粋だ、

的外れだ、ピンボケだ、

聴くに耐えない、俗物だ、短足だ、

何もわかってない、

横暴だ、傲慢だ、粗雑だ、自己中だ、

デッサンが狂ってる、

ノロマだ、愚鈍だ、馬鹿面だ・・・・・・

 

 

とまあ、ヒドいもので御座います。

 

 

 

しかしまぁ、当たっていなくもない、と言いますか(あかんやん)、

はは、

まったく外れてるわけでもないのが惜しいところで、

でも

私としては、こう言いたいものであります

「他人のことは放っときなはれ」と。

 

 

とか言って、本当に放っておかれると・・・・ですな、

懐かしの天王寺動物園のコアラみたいに「寂しくて死」にますので、

その辺は適当に。

 

しかし、あれですな、

あまりヒドい言葉を他人にぶっつけるのもどうなのか?

とも思いますな。

 

 

しかし長年酷いこと言われ続けて来たせいで私なんざ近頃は、

何言われても

平気のへーざ、

カエルの面にしょんべん、ってなもので。

 

 

トシを取って随分、ツラの皮が厚くなったみたいです。

 

亀の甲より年の劫、とでも言いますか、

年取るのも、

そう悪いことばかりではない・・・・・かもしれませぬ。

 

 

 

 

草々。

 

 

 

 

 

写真は、本日大阪市内を走行中、

前を走っていた超大型トレーラーに貼ってあった注意書き。

これはきっとギャグではなく、

本当に超重量級、ということを言いたいのです多分。

 

・・・・・俺って本当に超ヘヴィだぜ、と。

 

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物語の中にいる、ということ。

2021-05-26 20:57:02 | Weblog

物語は続いている。

だから僕のやるべきことは、生きづらくても生き延びて、

音楽を続けること、それでいいのかもしれない。

 

いや、別に音楽に固執することすら、ないんじゃない?

とか言って・・・・・・でも、固執する必然性は、ある。あると思う。

 

それは、僕にとっては「獲得した肉体性」であるからだ。

 

どっちかっていうと子供の頃から活字が大好きで、

絵を描くのも好きで、一人で部屋に閉じこもって、そんなことばかりしていた。

閉じこもれる部屋があってラッキーだった。オトウサン、オカアサン、アリガットゴザイマッス!

 

でもそんな僕の前に突然、何の脈絡もなくギターが登場して、

ギターとともに音楽がやってきて、

僕を部屋から引っ張り出してくれた。

いや、部屋から引っ張り出してくれたのは実は友達だが、

友達を呼んでくれたのは音楽だった。

 

活字という観念性はとても大事だ、と今でも思っている。

でもその観念性に音楽という肉体性が加わった時に、僕はやっと「僕」として

機能し始めることが出来たのだ。

 

そして無我夢中で足掻いている間に気が付いたら物語の中にいた。

いや・・・・・気付くずっと以前から、その中にいたのかもしれないけど。

 

それは短い終わりと始まりを繰り返しながら続いて行った。

細切れのチャプターが続く長編小説みたいに。

 

途中で、中だるみもあったりしたけど

クライマックス的に盛り上がったり、どんでん返しがあったりして物語は更に続いた。

 

今はどうなのかな?

何年か経って振り返ってみればわかるのかもしれないけど、

今はわからない。自分の事って全然、わからない。

 

でもとにかく依然として、物語の中に居ることだけは確かだ。

 

だから・・・こういう言い方は安易だけど、頑張らなきゃ、と思う。

右足の次に左足を出すのだ。そしてその次はまた右足を。

歩けるうちは歩くのだ。そしてもし 歩けなくなったら、這いずって進むのだ。

 

そしてもし

進めなくなったら、

 

それは、その時考えよう。

 

 

 

そうなったとしても物語はきっと、終わってなどいないのだ。

 

 

 

 

 

笑っちゃうよな。。

 

 

 

 

 

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狭い世界。

2021-05-22 19:23:13 | Weblog

我々はみんな、狭い世界で生きている。

 

当然と言えば当然なのだが、遠い遠いところに暮らしている人とは、

なかなか知り合うチャンスがない。

特に、ネット環境みたいなのが世の中に定着する以前は、なかった。

僕等みたいな年代の奴らは当然、その時代の生き物だ。

 

僕は東京で生まれて・・・・7歳の時に福山へ一家で引っ越した。

その福山で中学校で一緒だった土井健と知り合って一緒にバンドを組んだ。

知り合ったきっかけは1980年の福山市民会館での

甲斐バンドのコンサートに別々に、お互い一人っきりで行っていたことだった。

会場で一瞬、彼とすれ違ったのを覚えている。目も合ったと思う。

会釈ぐらいはしたかもしれない。会話はしてないと思う。

後から思ったのだが、あのことは、とてもとても大きな出来事だった。

ポイントは、お互い一人だったことだ。

 

その頃の僕は今から考えるとすごく子供で、

自分の将来の選択を自分でコントロールすることが出来なかった。

中学卒業後は、周囲の意向で、奈良の高校に行くことになったのだ。

二つ上の兄が先にその高校へ通っていたこともあったし。

でも後から考えたらあれは必然だったかもしれない。

3年間の寮生活が始まる。

 

その高校で、まず軽音楽部で一緒だった岩佐と出会う。

岩佐、佐治、庄司、三太、モ吉は中学も一緒で、

その中によそ者の僕が入り込むことになった。岩佐が紹介してくれたおかげだった。

そして彼らとバンドを組んだ。「ネクスカ」。

寮に住んでいたのは僕だけだった。

 

僕は実は、高校を卒業すれば東京に戻る、と決心していた。

それは子供の頃からの希望であった。

でもその決心は、佐治の「オマエは俺らと大阪で一緒にバンドやるねん」

という強引な説得で簡単にひるがえった。

 

人生のこの辺りからやっと、、自分の住む場所は自分で好きに選べるようになってきた。

 

僕はつまり、東京に戻っても良かったし、大阪に出ても良かったし、

福山に戻っても良かったのだ。

 

でも佐治の誘いに乗って嬉々として、大阪に住むことにした。

イメージ的には、あまり好きな都市ではなかった。お笑いと、やくざの街?

でも佐治が、大阪に憧れていたのだ。それが伝染した。

 

大阪で僕は初めはデザイン専門学校に入って、そこの寮で暮らしたが、そこは最悪だった。

僕以外の寮生がみんな地方から出て来た金持ちのボンボンで、

僕は学校のスケジュールがきつくてバイトもできず、超貧困生活。靴下を買うのさえ躊躇した。

一年くらい経ったあたりで完全に・・・モノになりそうもないデザイン授業と周囲と貧困に飽き飽きした。

そして2年目の春休みに、寮を出た。そして奈良のスナックで住み込みバイトをして

お金をためて、大阪の天王寺近辺にワンルームマンションを借りた。

 

そのマンションから専門学校には通い続けるつもりだったのだが、

その専門学校の友達から、アメリカ村の古着屋でのフルタイムのバイト、という話が

舞い込んできた。(当時のアメ村はなかなか・・よそ者には、敷居が高かったのだ。)

うーん・・・デザイナーにはなりたいんだよな、と悩んだのだが

ちょうどその夏に佐治と二人で行った合宿免許の2週間の旅で

バンドに、とにかく全生活をかける、という風に頭が切り替わったので、

夏休み後はもう二度と、学校には行かず、その後は毎日アメ村で働いた。

 

そうこうしているうちに佐治も、奈良から大阪に出て来た。

天王寺近辺に住もうぜ、と以前から言っていたので、

我々の部屋は歩いても15分ほどの距離だった。

この時代は、バンド(ランブルフィッシュ)もまだ全然人気もなく、

大阪に出てきて間もなかったので他に友達もいなかったが、

一応は働いているので専門学校時代よりは経済状態もはるかにマシで、

佐治と二人でブルースバーとかを飲み歩いた。

 

 

この時代は本当に楽しかった。

 

 

 

1988年6月3日が訪れてしまうまでは。

 

 

 

 

 

同じストーリーを何度も語っている。それは自分でもわかっている。

でも書けば書くほど、忘れていたような小さな、些細な事実が出てくるので

自分で面白いのだ。

 

そして

僕は今、自分が関西に暮らしていることが不思議なのだ。

子供の頃、すっごく嫌いだったのに。

 

 

そして縁があって、今は

奈良に住んでいるドラマーと、大阪に住んでいるベーシストと、

同じく大阪に住んでいるギタリストと4人でバンドをやっている。

僕は京都在住だ。

 

全員、関西のライヴハウスで知り合った。

メンバー以外にもライヴハウスで、対バンやハコのスタッフやそれぞれのお客さんとか、

あまりにも多くの、面白すぎる人たちと知り合った。

こんなに沢山の友達が出来るなんて、子供の頃は考えもしなかった。

関西に来たのは正解だった、といつの頃からか思っている。

 

関東にも今でも・・・・何人か、友達、と呼べる人がいる。

それは過去にバンドで、東京ツアーに行ったときに知り合いになった人たちだ。

 

福山にも、あの頃のバンドの人たちがいる(消息不明な人もいるが)。

 

 

我々は狭い世界に住んではいるが、心はそこを飛び出すことが出来る。

 

今は特に、こんなネット環境もある。

僕が何処にも行けなくても僕の言葉は電線や無線を通してネットに乗って、

君に届いて・・・・いるはずなのだ。

 

届いてる?

 

元気?

 

大丈夫????????

 

 

また近くで会おうね。話とか、しようね。酒も、飲もう。

 

 

 

手が届きそうなほど、近くでさ。

 

 

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気が遠くなる

2021-05-19 21:00:23 | Weblog

思うのだが

食べ物って、常温の中で置いておくと普通は、

何時間か・・・もしくは何日かで腐って、溶けて、消えてしまう。

地面の上に置いておけばそれは文字通り「土に還る」ように見える。

実際は、って言うか顕微鏡で見ればそれは微生物が喰って分解しているのだが。

 

食べ物じゃなくても有機物はだいたい、そうだと思う

(加工された木材は別で、それは「永遠性」を持つのだが)。

 

でも面白いのは

有機物の中でも「生きているもの」、つまり生物は

生きている限り、腐らない。土に還らない。

 

それどころか ほかの有機物を体に取り込んで、新陳代謝して、

成長したり、移動したり、あまつさえ 増殖したり繁殖したりする。

 

生きている、という事は一体、どういうことなのだろうか?と

僕は、いつもいつも思う。

 

「生物」としてこの世に存在する、という事は一体?????

 

 

 

我々の身体を構成する物質は少なく見積もっても60%以上が水分である。

そしてそれは常時、入れ替わっている。

 

ということは「私」とは、この私、という物質のことではないのだ,、極論ではあるが。

 

「私」とは

「私」として存在しようとする意志のようなもの・・・・・なのかもしれない。

 

とは言っても

時間的なスパンを大きくとって・・・・・・

つまり、長い目で見れば、

我々「生物」もいつかは死んで、腐って溶けて(もしくは燃やされて)、消えてしまう。

 

 

でもうまくいけば、、長ければ100年前後も存在し続けられるのだ。

 

すごい。

 

 

100年は大げさだとしても、その半分の50年生きたとしても

(はッと気付く、僕はもうそれ以上生きている・・ひええええええ)、

50年で1万8千日もあって、

1万8千回もの朝と昼と夜と夜中を過ごして我々は何を想い、

最終的には一体、

どこにたどり着くのだろう?????????????????

 

 

 

き、気が遠くなるよね。

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屁理屈

2021-05-18 21:08:32 | Weblog

 

 

物事というものは 見る角度によって

大きく形を変えるものである、と私は思う。

 

薄っぺらの三角定規はタテにしてみるとただの「線」でしかない。

 

球はどこから見ても球だが、

光の当たり具合によっては細く、鋭くとがった

骨のようにも見える。三日月がそうだ。

 

 

そんな角度の問題ともうひとつ、気持ちの問題もある。

 

 

 

その対象を、

 

好意を持って見るか、悪意を持って見るか、で

全然違ってしまう。

 

 

そして好意と悪意は同じコインの裏と表でしかない。

 

その対極にあるものは「無関心」だ。

 

私としては誰かに好かれようが嫌われようが

感心を持たれなかろうが、

一向にかまわない。

大して痛くも痒くもないからだ。

 

 

 

思うに

 

この金魚鉢の底みたいな世界で我々は、

 

憎み合ったり、

 

蔑み合ったり

 

罵り合ったり、

 

争ったり

 

して暮らす。

 

 

そして私は時に、心から疲れ切ったような気分になる。

 

 

 

でも結局のところ「私の不幸」は、

 

 

角度を変えてみれば「私の幸運」なのである。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふむ。

 

 

少なくとも、そう考えることは不毛ではない。

 

 

困るのはただ、

 

 

「逆も真なり」である・・・・・というか、そうであろう、

 

 

という事かもしれない。

 

 

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「時間」なんて、ない。

2021-05-17 20:59:41 | Weblog

何だったか忘れたけど最近 目にした文章で

「時間というのは、ただの概念なのです」というのがあって、

それはつまり、「時間なんて ない」と言ってるのと同義で、

僕はそれを見て、とてもホッとした・・・というか、

そう思ってる人がほかにもいるんだ、と思って嬉しかった。

 

そう、

僕は自信を持って言うが「時間」なんて、ないのだ。

「時間」に関することのほとんどは錯覚だ。

「時の流れ」なんてものはそもそも、ないのだ。

 

時計???あれはただ針がグルグル回るだけの精巧な玩具だ。

「時間とともに万物が変化している」???

それはアナタがそのこと(変化以前、以後)を記憶しているだけの話だ。

特殊相対性理論では時間が伸び縮みする????

それも「概念上」の話だ、それ以上でもそれ以下でもない。

 

ちゃんと考えれば「時間」なんて、ないのです。

ただ単に我々と世界が存在するだけ。

人類の持つ、未来への展望と、過去の鮮明な記憶が「時間」という概念を作り出した。

人間だけが「時間」という概念を持っている。

そしてそれに、縛られている。

 

 

だから僕自身は、変わったとも言えるし、全然変わっていない とも言える。

過去なんてもう存在しないのだからどうでもいい、と考えても

何ら差支えは、ない。

過去のすべては幻想だ。

イリュージョン、と言ってもいい。

未来についても同じ。

 

 

 

一言だけ弱音を言えばあの頃が、少しだけ懐かしかった。

あれはああゆう季節だった。

僕は頭から尻尾まで、僕等自身の作り出す幻想を信じ切っていた。

今だってもちろん信じては、いる。

でもそこに「懐疑」という影はどうしても必要なのだ、今の僕には。

 

つまり、

全部嘘かもしれない。

全部 まやかし かもしれない。

一瞬のうちに消え失せてしまうかもしれない。

もしかしたら・・・騙されているのかもしれない。

この現実は現実でないのかもしれない。

 

 

しかしあの頃は幻想を信じ切ってたなあ、どう見ても。

そういう姿って、馬鹿っぽいし、滑稽だ。愚かしい。

ひとつだけ確かなのは、もうあんなこと出来ないってことだ。

 

 

カネくれる、って言われても無理。

殺すぞ、って脅されてもやらない。

丁寧に依頼されても丁重にお断りする。

 

 

 

「仕事」じゃないからさ。

 

 

 

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健康診断は困難なミッション

2021-05-15 17:28:10 | Weblog

ミッションとは「やり遂げるべきこと」なのであろう、と僕は認識している。

「仕事」はまぁ、ミッションである。

社会参加する、使命を受けてやり遂げる、しかるべき報酬を得る。

 

そして、

「仕事」に付随することもミッションである。例えば、健康診断。

これは厚労省だか何だかのお役所が、雇用主と労働者に義務付けているもので、

おせっかいなことはなはだしい。

何がおせっかいか?って、

もし病気だったとしても僕は末期まで知りたくもないからだ。そして治療などせずに死にたい。

 

まあ、それはいいとして・・・・働きながらバンドやってきた僕は毎年、

このミッションに付き合わされてきた。

「そう!そう!」と叫ぶ御同輩も多いと思うので、その煩雑さをここに書き記そうと思いついた。

これは20世紀後半から21世紀アタマくらいの、労働者の健康診断模様の実情である。

 

 

何が煩雑かって、それは、「排出物」をに関するあれこれである、と僕は感じる。

(お食事中の方スミマセン。不快なら読み飛ばしてください。)

「検便」というヤツがあるのだ。それも、

診断日から三日以内の、二日分の、違う日に採取した「それ」が必要、と彼らは言う。

デスクワークやショップ仕事ならいつでも近くに行けるトイレット的な場所があるかもしれない。

だがトラックドライヴァーたちは「それ」には普段から多少、苦労してるのだ。

コンビニのトイレットとか・・・高速道路の、比較的ましなパーキングエリアとか。

納品先の倉庫とか、営業所とか、そういうお客さんのところではなるべく、「それ」は、しない。

要は、気を使ってるのだ(緊急時は、する)。

 

そして、いつでも行けるわけではない。タイミングを狙っていく。

行けない時も、もちろんある。そういう時は、必然的に・・・・便秘になる。

 

まずは検便用の「それ」を手に入れるミッション。しかも二日分。

あまりこんなことは言いたくないのだが・・・僕はそれでなくても便秘気味なのである。

 

このミッションを、何とか、這う這うの体(ほうほうのてい、と読む)でクリア。

 

そして前日夜九時から検査のための「絶飲絶食」を言い渡される。

 

べつに・・・24時間 飲み食い出来ないくらい、苦しくはない。

でも「酒」も「アテ」もいけない、と彼らは言うのだ。

「ウィスキーは別腹」などという言い訳は通用しない。

でも空きっ腹で酒・・・はいいのだが、素面で空きっ腹ではなかなか眠れない。

眠ったら眠ったで、飲み喰いする夢ばかり見る。いかんなあ。昔はこんなんじゃなかったのだけど。

でも何とか、寝る。

 

次は健康診断当日の煩雑さをクリアせねばならない。

 

当日は、

血液を大量に抜かれる、バリウム飲まされてグルグル回される、逆さに吊るされる、

冷たいプールに沈められる、

電気ショックを与えられる、髪の毛を丸坊主に刈られる、十字架にはり付けにされる、

その他もろもろ。

ほとんどホラー映画である。

 

 

もうこの辺でへとへとだが、もうすぐ終わりだ。

 

病院を出るときに、「下剤」を渡される。

バリウムを体内に残していてはいけないのだ。だから強力な下剤。

 

ここで注釈。

21世紀の現代ではバリウムで胃の検査・・・・の代わりに、「胃カメラ」なるものを

使用する病院もあるのだが、あれがまた想像を絶する痛さと苦しさで、

ほぼほぼ「拷問」である。

あんな事されるくらいなら僕はおとなしくバリウム飲むのです。

 

 

さて、そこから最後のミッション。

僕はこれを「ホワイティ・ミッション」と呼んでいる。

 

何時間か後に下剤の作用で、白い「それ」が出るのだ。バリウムは白いから。

しかも、トイレットで、流れにくい。

下手したら何日も何日も、トイレットの底に残った白い「それ」を

眺めながら暮らすことになる。

 

だから家庭用ではない、店舗などのトイレットを探してさ迷い歩く。

店舗用は強力なので、白い「それ」もちゃんと流れるのだ。誰にも迷惑はかけないで済む。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

「ホワイティ・ミッション」もクリアして、やっと終わり。

保険で無料とは言え、こんなことを毎年繰り返すのは心の底からうんざりする。

 

でも最後の最後に、もう一つ残っている。

オチ、みたいな感じで、

何週間か後に「結果」が紙に印刷されて、送られてくるのだ。

 

このブログに何年か前に書いたことだが、ある年の僕の健康診断の結果は

「血液が緑色なので要注意」というものだった。

 

ぎゃふん。

 

 

俺は「虫」か?

 

 

 

はたして・・・・・今年はどんな「オチ」が来るのか。

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見知らぬ人たちとの邂逅。

2021-05-13 21:18:39 | Weblog

見知らぬ人に話しかけられることが時々ある。

 

アメリカなんかではそういうの意外と普通で、

そういえばNYのホテルで、エレベーターで乗り合わせた見知らぬ人が

「いい天気だね、今日はどこ行くの?」と(英語で)話しかけてきたりしたのだが、

日本ではそういうことって、基本的に、ない。

 

でも僕は日本で、見知らぬ人に話しかけられて時々、驚いてしまう。

あ、もちろんキャッチセールスとか何かの勧誘とかじゃないやつね。

 

これはきっと、僕の「見た目」が怖くないから・・・で、あろう。

それはとてもいいことだ。

ナメられてる?・・・・・いや、もしそうなら、それはそれでいいよ。

思う存分アタシをアナタのベロで、舐め回して頂戴。

 

まあ、とにかく。

 

以前コンビニでお金を払おうと財布を出した。

僕は訳あって、真っ黄色の財布を使っているのだがそれを見たレジの女の子が

プッと噴き出して笑って

「それって、風水ですか~?」と尋ねて来た。

いや・・・・そう、あはははは としか答えようがなかったが。

風水で黄色はとても良い色とされているのだそうだ。

 

また別のコンビニで、ある時、

ジャスミン茶のペットボトルを買ったらレジの女の人が

「男の人でジャスミン茶買う人ってレアですよ~」と言ってきた。

あははは、そうかな?そうなんだ。・・・・・お恥ずかしい。

そのレジの人とはそのあと少し会話したのだが彼女は何と、ハイスタのファンだった。

うーん、いいなあ。

 

 

そう、他にもあって

 

去年、スタジオ帰りの京阪電車の車中でギターケースを抱えて立っていたら、

いい感じで酔った(軽くちょい悪っぽい)おじさんの4.5人くらいのグループが

「兄ちゃんバンドやってんの?」と話しかけて来た。興味津々みたいである。

少なくとも、酔って絡んでるのではなさそうだ。人のよさそうな感じ。

なかなか気さくでフランクだ。日本人のシャイなノリではない。

と思ったらその中の一人はどう見てもアフリカン・アメリカンだった。

彼のフランクなノリにおじさんグループ全体が影響受けてるみたいに感じた。

僕は嫌いではない・・・っていうか、結構好きだな。

そんな風な気さくなノリ。

あのおじさんたちライヴ来てくれるって言ったけど・・・・・いつか本当に

来るかな?無理かな。

 

 

そして今日も、(大阪の)守口市の路上で徒歩で信号待ちをしていたら、

白髪交じりの草臥れた作業着姿の労務者風のおっちゃんが僕に

おずおずと、遠慮がちに「きょうは 暑いねぇ」と

話しかけて来た。

聞くと、その人はこれから守口のハローワークに行くそうで、

「歳いったら仕事なかなか・・・ないよ~」と苦笑交じりに言いながら雑踏に消えた。

 

がんばろーね、おっちゃん。

 

俺もさ、今の仕事、ハローワークで見つけたんだよ。

 

だから大丈夫だって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追記

でも考えてみたらさ、誰だって、初対面では「見知らぬ人」だよな。

 

 

 

 

 

 

 

 

人の縁ってやっぱ、不思議。

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