晩秋を飛び越して真冬の寒さ。
こういう日には生きていくことの困難さが身にしみる。
古代の人々はどんな格好をしてたのだろう。
想像するだけで、寒い。
最近、ふと思ったのだけれど、「魚」を人間が当たり前のように
食べ出したのは、いつ頃のことなのだろう。
例えば・・考古学者の研究によれば「縄文人」の主食は、貝と栗だった、という。
落ちてるものを収集する、それだけが彼らの食料調達手段のすべてだ。
主食、と言ってももちろん ふんだんにあるわけは無くて、
古代人はいつもいつも「飢え」との戦いであったろう。
「餓死」なんか、普通だっただろう。
餓死せずに、凍死せずに、生き延びることが
「生きること」の ほとんどすべて・・・だっただろう。
過酷だ。
・・・・・・・・・・・・・魚の話。
古代人も「海に何かがいる」ことは知っていただろう。
でも捕らえるのは不可能に近い。
だって「魚」は、網がなければ捕まえることは難しい。
海に潜って、モリとかで突いて捕らえることは可能だろうが(手掴みは至難の業)、
縄文の時代には「鉄器」はないはず。
縄文時代最新のテクノロジーは「土器」だ。
「釣り」は、もっと高度かもしれない。
「糸」が必要だし、小さな小さな「釣り針」を作る事は、とても難しい。
「船」というハイテクな乗り物に乗って、「網」というこれまた繊細なものを
作れて、初めて「魚」をある程度の量、捕らえることが可能になったことと思う。
そういう風に社会が発達する以前は、一般の人々は「魚」の味なんて知らなかったはずだ。
「魚」自体、じっくり見たことすらなかったかもしれない。
海女さんの祖先みたいな「海の民」は別・・・かもしれないけど。
あ、でも今思ったんだけど
河で鮭なんかを手掴みで捕っていた人々はきっと、いるよね。
木彫りの熊みたいな感じで。
でも(人類が)「火」を手に入れる以前であればナマでは食べられない(川魚には寄生虫がいる)。
うーん。どうしてたのか。
過去のことって考えれば考えるほど興味深い。
タイムマシンがあれば・・・・みたいなこと安易に考えてしまうけど、
タイムマシンって、どうがんばっても無理だ、と俺は思うのですよ。
「失われたもの」が戻って来ることはない。
「エントロピー増大の法則」でも、常にそう。
「相対性理論」では時間は、伸び縮みする・・・けど、
「(相対性理論で言う)ウラシマ効果」はあったとしても、それ以上は無理だろう。
「過去」は、記憶と想像の中にしか、ない。
考古学的なことって、
どうがんばっても「答えの無い」こと・・・だからこそ、面白いのかもしれない。
しかし、もしかして、現代においても・・・「路上で暮らす人々」にとっては、
餓死ぜず、凍死せずに「生き延びること」が
最大のテーマかもしれない、
特にこれからの季節は。
(求職中の俺は心なしか、他人事ではない。)
・・・頑張ってください。俺も頑張って、生き延びます。
って言うか、誰だって(家がある人々だって)、「生き延びる」ことに必死だ。
皆さん、この真冬のような晩秋を生き延びて、
来月5日、大阪は十三のCLUB WATERで逢いましょう。
ROCA’66の、赤井加入後 初ライヴがあるのです。
我々は、逢いましょう。
そうしましょう。