年の瀬、大晦日。
今年、お世話になった人達に、最大限の感謝を捧げます。
どうもありがとう。そして、これからもよろしく。
1年前の今日と、地球が(太陽に対して)まったく同じ位置にある・・・んだよね?
きっちり1年経つ、ってのは、そういうことだよね。
感慨深い・・・とか言って、その事に何の意味があるのか?と言われれば、
「ない」かもしれないんだが、
一見無意味に見える世間の、世界の、いや宇宙の・・・出来事に、いちいち
「意味付け」していくのが我々、人類の存在意義なのですよ。
「シュレーディンガーの猫」の思考実験の結果が示しているのはきっと、そういうことなのだ。
しかし大晦日って何だかコドモだったときのこと思い出すなぁ。
そういうのって、俺だけだろうか?・・・・・・・・・・・。
コドモの頃の俺(小学校くらいから高校生くらいまで)は、
日本的なものがとにかく嫌いだった。
食べ物なら「おひたし」とか「煮付け」とか嫌で。「味噌汁」も貧乏臭かった。
ほとんど何も食べ(られ)なかった(その当時の我が家はほとんど、和食オンリーだった)から、
不健康に痩せた、貧相なガキだった。
他にも、「和式便所(特に汲み取り式)」とか「和風家屋」とかも駄目だった。
(幼児の頃住んでいた戸山ハイツが洋式の、水洗だった・・・という要因もある。)
「畳」も嫌だった。フローリングに憧れた。
そして「クリスマス」はいいけど「お正月」は大嫌いだった、徹底的に和風だから。
「着物」も、古臭くて不便で時代遅れ・・・と思い込んでいたし、
ひらがな、とか漢字も、ダサかった。アルファベットの簡潔で、記号的で、お洒落なこと。
あと、そうそう、その集大成みたいな「時代劇」も嫌だったな。
何故あんなに?と思うのだが、
あれはやっぱり、日本という国自体が「敗戦」ということに端を発した
強烈な「自己否定」の中にいたのだろう。
(明治時代の「脱亜入欧」の流れの名残もあったか。)
そういう風潮をコドモだからこそ、の無責任さで無意識に、敏感に感じ取っていたのだろう。
だが、
大人になってからやっと気付いた。
「畳」の便利さ、美しさ。「煮付け」の押し付けがましくない、優しい味。「味噌汁」の、美味、豊穣。
トイレだって「和式」の方がいろんな意味で合理的(姿勢とかね)だし、
「くみとり」して、それを肥料に使う、という思想が素晴らしくエコなこと(「エコロジジー」はつつましやかで、上品だ)。
服装に関しては普段はやはり、ジーンズに革ジャン、ということになってしまうけど、
女性の振袖なんか、この上なく美しい・・・と思うようになった。
もちろん、作務衣などの実用的な簡素さも素敵だ。
そして何よりも「日本語」というもの持つ、深さ、柔軟さ、面白さ。
「時代劇」は観ないにせよ、江戸文化に強い興味を持つようになったし。
そういうものたち(希少な、文化や風習・風俗)を大事にしたい、と思うようになった。
・・・・・・「憂国」とまでは、思いつめないんだけれども。
結局、コドモ時代の憧れのままに・・・ロックが好きになって、アメリカ製のジーンズをはいて、
アメリカ製のギターを弾いて、「アメリカ文学」に(翻訳ながら)没頭して、
出演できる、となれば嬉々としてテキサスやNYにノコノコと出掛ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(歌詞は、日本語で創作するけどね。)
というような人間になって、それは時代的必然でもあるのだけれど、
それってどうなのか?などと、思わなくも無い。
だけど「グローバル化」はいいことであろう、と思っている自分も居る。
「欧米化」が「グローバル化」ということではない・・・・のだけれど。
この「考え事」には、「答え」って存在しない。
でも、他の人も多からず、そういう部分ってあるよね?
そういうこと考えたりとか、するよね?
とりあえず、話はここで切り上げて。
・・・来年も、我々は、会えるだけ会いましょう。
そんな風に切実に、生きていこうではないか。
などと決意する、2015年12月31日の片山道郎なのであった。
また来年。