「今風の物言い」について。

2017-02-27 21:56:33 | Weblog

「ほぼほぼ」 という物の言い方が気に入ってしまって困っている。


「ほぼほぼ同じ」、とか。「ほぼほぼ毎日」とか。

「ほぼ」と一回でいいのだが、

二回言うと・・・・・より精密な感じがして。


こういうのって、「今風の物言い」 なのだろうか。

流行り言葉って下らないのが多いし、テレビに端を発してる事が多いから

(俺は大のテレビ嫌い)、

なるべく、使わないように心がけているのだが。


気に入ってしまったら使ってしまう。


「がっつり」っていう言葉も、品が無いが・・・・悪くない。便利ですら、ある。

主に食べる関係で使われるから、

がつがつ という語感が入っていて、臨場感があるのだ。

ああ、お腹減ってるのね、って感じで。

GUTSという英語の語感・・まではよもや、(意図的には)入っていないと思うが。

でも、体育会系で、同列だよね。



今風の物言い、についてもっと言えば、


「やばい」という言葉は、

ぜひ「危ない」とか「危険」とかの方面で使って欲しい。

近年は、「良いほうの意味」にも使うだろ?


良い意味にも、悪い意味にも、同じ言葉を使うなんて、

言葉の整合性が崩れてしまうから、ぜひやめよう。


言葉って本来はすごく、論理的に成り立ってるもの・・・なのですよ。





あと、

「ぶっちゃけ」っていう言い方は汚くて嫌い。

幼児言葉的に汚い。礼儀(的なもの)も感じられない。


そして

「ぶっちゃけ」と同じような意味合いで、

「正直」って多用する人もいるけど、

あれは静かにムカッときてしまう。

「嘘ついてました」って言われてるようなものだからさ。


嘘ついてたんなら、つき通せよ。

中途半端に「正直」になんか、なって欲しくないデス。




そういえば・・・・・

「ムカつく」とか「めっちゃ」っていう言い方も

その昔は新鮮で、「今風の物言い」だった。


「マジ?」なんてのも、「若者言葉」って感じだったけど、

今は、大人でも使うよね。






定着してゆく言葉と、そうでない言葉、と。


・・・・・・・・・・・・・・「チョベリバ」は、定着しなかったなぁ。



「あけおめ」は?







今年の正月、「あけおめ」って言った?



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「時間」について。

2017-02-26 19:44:15 | Weblog

ちょっと前のこの日記に

指揮者の小沢征爾さんの発言を引用して

「音楽とは時間の芸術である」という事を書いた。


でもあの時も言いたくて言わなかった事なのだが、


音楽に限らず、全てが「時間の芸術」と言えるよね。


あの時言わなかったのは、テーマと相殺されてしまって、

文意があやふやになる・・・と思ったから。





例えば花火なんかも、すごく短い時間の芸術だし、

勿論、演劇とか。

映画もそうか。


例えば絵画にしたって、油絵なんかはすごい耐久性あるみたいだけど、

いつかは(作品そのものが)消え行くものだよね。

その絵画がこの世に存在している間のみ、その芸術は有効である、というのは言えるはず。



もっと巨視的に時間を捉えれば、


遠い未来(?)いつの日か・・・人類が消えてしまえば「芸術」もないから。


芸術に限らず、全ては「時間」というものに制約される。


我々が生きていられる時間にも制約がある。


当たり前?


そうかな。


俺は、そうは思わないけど。




スフィンクスとか、ピラミッドとか。


エジプトの古代文明に、ちょっとだけ惹かれるところがあってさ。


紀元前・・・・ってことはジーザス・クライスト誕生以前の文明なんだよね。


何千年も前に実際に生きた人々のことを考えると


「時間」って本当に何なんだろう?って考えてしまう。




エジプトに限らず、「考古学的」って面白い。


とりとめもなく、縄文人のことも時々考える。


縄文人は幸せだっただろうか?





そう言う現代人である我々は、幸せだろうか?






えーっと、俺はとりあえず今は、幸せデスよ。



仲間もいるし、エレキギターもあるから。





自分の時間が余り、ないのは悩みの種だけど。



あ、また「時間」だ。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堂々巡りだぜ。
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「憧れ」を抱き続けよう。

2017-02-24 21:42:42 | Weblog

誰が言ったのか忘れたけど


やたら 他人が「良い」ように見えるのは

自分の状態が悪い(と、自分で、無意識下で思っている)とき・・・・なのだそうだ。


むむむ。





それはいいけど、

俺は、他人を羨んだりしないぜ。




・・・・嘘。


たまに、ちょっとだけ、する。



でも そんなの

キリがないのは、始めっからわかっている。





見た目は美しく、何事につけ器用でテクニカル。

どんなことでもサラッとこなし、万人に好かれる。





そんな人もいる。


自分に欠けているものを 他人の中に見るから羨ましくなるのだ。







それで哀しくなるのは、


「良くない羨み方」をしているからだ。



そういうのは、ひがんでる、と言う。








他人に、


純粋に憧れを抱いて、



自分もあの人みたいになりたい、とか

 ちょっとでも近付こう・・・と思って努力できるなら


それは ひがみ・・・・ではないよね。








そう思ったのは、









今日、ラジオで


カーティス・メイ・フィールドの「MOVE ON UP」が、かかったからだ。



この大好きな曲の中で、以前は聞き取れなかった歌詞(の一部)が、


今日は自然と、意味ごと、耳に入ってきた。




曰く、「KEEP ON WISH'N」。








ああ、能動的で、素敵だ。




「憧れを抱きつづけなよ」、


とか



「望みを捨てちゃいけないよ」、



と、カーティスが(直接、俺に向かって)言っているように聞こえた。




・・・・・・・・・多分、そういう意味だろう。


間違ってないと思う。












いい言葉って、いいなあ。






元気が出たよ。
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言葉。

2017-02-22 21:34:34 | Weblog



あの時 僕がどんな気持ちだったか っていうのはきっと、

永遠に君に伝わらないだろう。


僕が君に伝えたくて、その為に いくら言葉を費やしたとしても、

その時がどんな状況で、どんな馬鹿なことをしでかして、

どれだけ切実に思い詰めて・・・・・・・・・・どれほど悲しくて・・・・・・


なんてことを説明したって、

結局はそんなの、ただの言葉でしかない。


そう、こんな風に言うのは「言葉」に失礼だ。

僕は「言葉」ってものをとても信頼しているし、本当に・・・・・・・・・・・・・・

僕にとって唯一の救いの「蜘蛛の糸」みたいに思っている。

最後の砦?

すがりつく浮輪?

隠し持ったジョーカー?

小さな、研ぎ澄まされた、ナイフ?

その他もろもろ。

・・・・・・・・・・・。


それでも、

ギターがギターでしかないように、

お金がお金でしかないように、

神が存在しないように、

僕が僕でしかないように、

言葉も、詰まるところ、言葉でしかない。

伝わる人には伝わるし、

そうでない人には、とりつくしまもない。


一番悲しいのは

無理矢理言葉で表現してしまった瞬間に「それ」は

全く、別のものになる、ということ。

「君」と、「言葉」を、まるで嘲笑うかのように豹変する。


いや、違うんだ・・・・・・って、言った端から否定して、

言い直してはまた否定して。

その繰り返しで

どこにも辿り着かない、ってことになる。

この件に関しては特にね。


だから

君に伝える、ってことを僕はとうに、諦めてしまった。


そんな風にして

言葉にならない物事ってのは、存在する。


僕の中には

君に伝えたかったな・・・・・・っていう微かな

「残留思念」だけが、

キャンプのあとの焚き火の残り火みたいに、




いつまでもいつまでも





くすぶっているのです。



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無題

2017-02-21 21:54:38 | Weblog




普段は・・・というか平素の私はいつでも、

ジョーシキ的に生きるように心がけている。


無茶苦茶な事も(・・以前は稀にあったけど)、しない。

ほぼほぼ100%近く、法律に触れることもないし(←本当ですよ)、

何というか

道義的にいかがなものか?というような事からも縁遠い。




悪だくみもしないし、

他人を呪ったりもしない。

罠を仕掛けたりもしない。

錯乱もしないし、

ナイフを持ち歩いたりもしない。

酔っ払って路上で寝てしまうこともないし、

路上で見知らぬ輩と乱闘・・・ってなこともしない。

バッド・トリップなど、とんでもない。





まったくの無実である。








でも











こと、音楽となったら、話は別だぜ。





もう、とんでもないような、

ひぃぃ!・・・・ってびっくりしちまうような、

非常識な、無防備な、

有り得ないような、


目ん玉が驚きのあまり、ハート型になっちまうような・・・・・




そんなのを日々、目指して生きている。










自分の中の


ドロドロしたものや、


ぐにゃぐにゃしたもの、


爆発しかかったようなもの、


発酵しかけて発光してるようなもの、


何かの破片のようなもの、


ずっと昔の傷跡のようなもの、


「憧れ」のなれの果て・・・みたいなもの。





そんな抽象的なあれこれが


楽曲と言う「具象」として結実する。









それは、とてもとても


心躍るものなのです。









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愚行権(ちょっとだけ加筆しました)

2017-02-18 09:31:50 | Weblog

なるほど・・・・と感銘をうけたので、

備忘のためにも、ここに記しておくことにする。

佐藤優という人が西原理恵子と共著で出した「とりあたま事変」

という本で言っていた事。




以下、引用------------------------------------------------------------------

日本を含めた近代国家は自殺を禁止していない。

転落しようが、身体がボロボロになろうが、自分の好きなことをする自由、

つまり愚行権を認めるというのが近代自由主義の核心だ。


愚行権という響きが良くないので、現憲法では

「各人の幸福追求」と言っている。

ある人についての幸福が他の人にとっては愚かな行為であることは

十分在る(例えば、野良猫を保護することなど)。


ただし、

愚行権=幸福追求権には、たった一つの例外がある。

他人に危害を加えてはいけない。


引用終わり--------------------------------------------------------------------


新潮文庫「とりあたま事変」佐藤優  西原理恵子  共著より


むむむ。俺としては、

幸福追求権のことは知っていた・・・つもりだったのだけれど、

それが見方を変えると(、と言うか何というか)

愚行権・・・・・であるという事実はけっこう、驚きだった。




愚行。



何が「愚行」なのか?ってのはそれこそ、

人それぞれの価値観によって違うだろう。


マラソンしてる人が愚かに見える人もいるだろうし、

あくせく働いてる人間が愚かに見える人もいるであろう。

他人を愛することも愚行に見えるかもしれない。

ライヴハウスに出たり、観に行ったりする行為も愚かに見えるかもしれないよね。

酔っ払い連中(俺もか)は確実に愚かに見えるであろうし、

ギャンブルに熱中・・・なんてのも。

本ばっかり読んでる人間もきっと、ある種の人から見たら愚かだろう。

「一銭にもならないことしやがって」みたいに。

しかし金を稼いで貯めて、そのまま死んでゆくのは愚行ではないのだろうか。

その逆に、社会性を放棄してホームレスになる行為は愚行なのか、そうでないのか。


考えすぎると「生きること」自体が愚行・・・・と思えなくもない。




自殺については、言及しない。

愚かかもしれないし、そうではないのかもしれない。






それにしても

近代自由主義、というのは大したものだと思う。





愚行権。






愚行権のない世界はきっと、耐えられないほど息苦しいだろうと想像する。










アタシとしては

これからも

「愚行」のために元気に生きていこう。










FMココロのマーキーの番組のジングルで言ってる言葉が、けっこう好きだ。


曰く、


「STAY FOOLISH!」
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時間の芸術

2017-02-14 21:39:27 | Weblog




「音楽って”時間の芸術”なんです・・・・・言ってる意味、わかりますか?」

・・・・・上記は 指揮者の小沢征爾さんの、ある対談の場での発言なのだが、



そう言われてみれば確かに、音楽は

始まって、終わる、限られた時間の中に存在する。

逆に、限られた時間の中にしか存在しない、とも言える。


何人かで演る、合奏のことを考えてもそうだ。

集まって、同じ時間の中で・・・例えば3分の曲を演奏するのであれば

その3分の間じゅう、演奏者同士が完全に同期するつもりで、タイミングを合わせる。

(レコードやCDは、その限られた時間を保存して、

何度も再生する。その「再生」にももちろん、始まりと終わりがある。)



まさに、「時間の芸術」と言うにふさわしい。




そして「音楽」という、限られた時間の中にしか存在できない芸術の中に


無限も、永遠も、存在する。


すっごく矛盾してる気がするけど、


でも、それは


間違いではないはず。











僕は


自分のつくる音楽の中に


あの懐かしい風景や


遠い遠い 香りや、


切なくなるほどの微笑みや、


もう、手の届かない 影や、


あの日、空から降ってきた祝福の光や・・・・・・



そんなもの達のカケラが、


少しでもいいから


混入していてくれたらいいな、


などと思いながらいつも、


手作りの音楽を、バンドのみんなと


人力(じんりき)で再生するのです。



「人力で再生」とは、ライヴハウスのステージで


みんなで、その曲を


せーの、で、息を合わせて


演奏する・・・・・・・ことを言います。



そうすると、「歌」も、現出します。






来月、3月11日は、そんなことを


大阪・梅田にある素敵なライヴハウス、「ムジカ・ジャポニカ」で


やります。







時間の芸術は、「人力再生」されるその場で、


同じ時間を共有しながら聴いてもらえるのが何より、


どんな事より(!)貴重なので・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




遠くからでも、



心の距離が遠いなぁ・・・・と感じる人でも、




来て欲しいです。










最後まで読んでくれてありがとう。


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疑問、そして答え。

2017-02-12 12:05:08 | Weblog

昔・・・・・・・・・・・小学生だった頃

「どうして学校に行かなくてはならないのか?」、疑問だった。

転校したせいで、学校にも地域にも馴染めなくて、すべてが嫌で嫌で、しょうがなかったから。

誰に尋ねても「そーゆーものだ」という答えしか返ってこなくて、

今なら登校拒否になるところだけれど、幸か不幸か・・・そういう選択肢は

当時、なかった。多分、私にとってはそのことは、結果的に「幸」であったのだろう。


学校に行かなければ・・・・という以前に

「何故、朝になったら起きなければならないのか?」ということも考えた。

まあ、学校嫌なら、普通にそれ思うよな。

そしてそれは必然的に、「何故生きなければならないのか?」

もしくはもっとシンプルに、「何故生きるのか?」

というところに辿り着いて、そのことは

私の生涯のテーマみたいなモノになった。

いい大人(悪い大人?)になった今でも時々、考えている。

(このブログでも時々、言っている。まるで「中二病」では、ある。)


でも、その問いに対する答えは、ない。

・・・・いや、「答え」は、いろいろあった。

人が生きる、ということには、多種多様な理由がある。


どれが本当の答えなのか、わからないだけだ。

正解なんて無い?まあ、そんな風に言うのは簡単なんだけれども。


それにしても 生物というのは惚れ惚れするほど複雑で、

驚くほど奇妙な機械・・・・・・いや、機械の千倍も高度だ。

万倍、いや、もっとか。

しかも生物はすべて「有機体」だ。

我々は「世界」と交互作用しながら変容していく。「進化」さえ、する。

まったくもって、すごい。


我々は、

この暗い宇宙の中で明滅を繰り返す

遠い遠いあの恒星のように

永劫の時の中で、ほんの一瞬の「生」を、

あれこれ悩んだりしながら過ごす。


それこそ「何故生きるんだろう?」などと考えて。


そう思うと

さまざまな、「何もかも」が、


必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のかもしれないという


気がするぐらいであることだよ。







ところで


小学生の自分に教えてやりたいのだが、

人が朝起きる(起きねばならぬ)理由は


ただ、「そうしたいから」なのだ。




「自発性」というスバラシイものが我々の心にしっかりと存在していて、


そのこと抜きには


すべてのアートも


恋愛も


感動も


進化も


有り得ないのだ。



今はわからないと思うけど、君もいつか、そういうもの達に出会う。



本当に出会うんだよ。







そのために


朝起きるんだぜ。






・・・・・・・・・・・・・こんな風に言われたら少しは解かるだろうか?


コドモ道郎には。



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DO THE BOOGIE

2017-02-08 20:46:36 | Weblog

生きる、生きる、生きる、

我々はただ、それだけでいいのだ。


余計な心配とか、

明日のためのカネ勘定なんて、しなくていい。


他人にどう思われてるか なんてのも、考えなくていいし

過去に起こった嫌な事を思い出したり・・・も、しなくていい。


嫌いな奴には会わなきゃいいし、

苦手な事からは逃げ続ければいいのだ。

最後にはきっと、逃げ切ることが出来るからさ。


愛情(に類するもの)を、失ってしまうかも、なんて心配もしなくていいし、


ましてや

大好きなあの人と いつか・・別れなければならないかもしれない、なんてことも

今は考える必要は、ない。


(あの人から)忘れられてしまったらどうしよう、なんてね、

もともと誰も覚えてなんか、いないし。


上手くいかなかったらどうしよう、っていうようなことも、

思わなくてもいいよ、うまく行くことのほうがマレなんだから。


駄目だったらどうしよう・・・って、

もともと駄目駄目から出発してるんだ、ハラくくろうぜ。








成るものは成るし、

上手くいくことだって、多少は、ある。

祝福を受けたような気分になることだって、また、あるかもしれない。




それなのに

私ときたら、そして、アナタときたら・・・




心配してる時間の方が長い、なんてね、

時間の使い方間違ってるぜ。




だから何も考えずに、いきましょう。





明日から私は、


そうしよう。



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言葉に拘泥する。

2017-02-05 13:24:31 | Weblog

クルマとかに興味の無い人はあまり聞かないかもしれないけど、

「スタッドレスタイヤ」というのがある。

「冬用タイヤ」と呼ばれたりするのだが、

「冬用タイヤ」って呼び方ちょっと安易・・・・・・・・・・・・・・まあいいや。

この「スタッドレスタイヤ」が普及してきたのはたぶん、ここ20年以内くらいで、

それ以前は、雪道をクルマで走行するために、

「タイヤチェーン」を、今よりもっとマメに着けなければならなかったし、

雪国の人は、雪道専用の「スパイクタイヤ」というのを装着していた。

これは、パンクの人が革ジャンにつける「鋲(ビョウ)」みたいなのを

タイヤにいっぱい付けて、とにかく滑らないように滑らないように、と工夫されたタイヤだった。

だがこれ・・・・・雪道はいいのだけれど、

雪が少ないところとか、雪が溶けた道路とかを走ると、ゴリゴリゴリと道路を削る。

もう、けっこうヒドイもので、こういうのが何台も走ると、道路はすぐ駄目になっていた。

それはそれで、大問題だった。

それで、研究の末、鋲とかつけないで、物理学的にしっかりと雪をホールドして滑らない構造の

タイヤのみぞ、が考案された。人間の工夫って偉大だ。


さて、ここからが本題。


「鋲」は「スタッド」と呼ばれる。

だから「鋲なし」で、「鋲アリ(つまりスパイクタイヤ)」と同じくらい滑らないタイヤ、

ということで「スタッドレス・スタッド」という名称が与えられた・・・・のだと俺は推測する。

レスが、「~なし」の意味だから。

でも長いから、「スタッドレス」で定着した。


これって、金属の・・・鉄と、少量のニッケルの合金の「ステンレス」と、言葉の成立が似ているように思う。

サビない鉄、であるところの「ステンレス」は、正しくは「ステンレス・スティール」という名称である。

「ステン」がサビ、の意であるから。

でも「鉄」を意味する「スティール」が略されて、「ステンレス」になった。

「ローリング・ストーンズ」の来日公演でダフ屋が

「ローリングのチケットないか~?」と叫んでいたが、アレの要領だ。

「ブルース・スプリングスティーン」の来日公演では別のダフ屋が

「ブルースのチケットないか~?」と叫んでいた。アレだ。


俺が時計の仕事をしていたとき、時計のボディもステンレス・スティール製が多いのだが、

気の利いた人々は「SS」と呼んでいた。ステンレス・スティールの頭文字だ。

まあ、「ステンレス」でも通じるからいいよね。(でも、それだと「鉄の合金」だということが解りにくいんだが。)

逆に、気の利かない、通ぶった輩は「ステン」と略していた。

「ステン」だと「サビ」という意味になる。

「サビない鉄」を「サビ」と呼ぶとは。(そんなこと知りもしないんだろうが。)

何だかなぁ・・・・と、時々、思っていた。

通ぶった人は俺は、あまり好きではないです。


さて、その時代は俺は、時計と共に、アクセサリーも手掛けていた。

それで、ネックレスも売っていたのだが、さっきの「レス」が「~なし」の意味、

ということを応用すると「ネックレス」って「首なし」の意・・・・になるなぁ、と

常々、不審に思っていたのだが、

1998年ごろに出たフレーミング・リッップスの「レース・フォーザ・プライズ」

という最高な曲の歌詞を調べてみて発見した。

「レース」が、「飾り」、の意味なのだ・・・レースのカーテンとかあるよね。

「ネックレス」は、「ネック」+「レース」で

直訳で「首飾り」だったのだ。

そうだったのか。(「ネックレース」って呼べよな、それならそれで。)


誤解とか曲解とか、間違った略し方・・・とかいろいろあるが、

言葉(・・・この場合「名称」か)

の成立って、ちゃんと意味・・・というか整合性があるのね、と思った道子だったのさ。




長々と退屈な話をしてごめんよ。



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