反逆。

2020-02-28 22:13:33 | Weblog
今日のラジオでの高橋源一郎はすごかった。

表面上はにこやかに、しかしその実、鬼気迫る感じだった。

NHKラジオの「すっぴん!」。

番組終了が決定しているからこそ・・・であろう、笑いながら穏やかに、

でもどう聞いても現政権批判としか取れない内容の放送。



「源ちゃんの現代国語」のコーナーで、多数決の怖さ、みたいなことを語ったのだ。

もしくは、いかに人の心理と言うものが、他人の影響を受けてしまうか、という話。

とある研究では、固定した意見のヒトが17パーセントいれば、

あとの人(浮動票)は全部それに従ってしまう、という結果になったのだそうだ。

それは人間の集団、というものが持つ性質・・・と言える。

恐ろしい。ここでは高橋源一郎は遠まわしに、

現実の日本の選挙が「固定票」によって支配されてしまってる、ということを

告発しようとしている。放送では具体的な政党名こそ出さなかったが、誰だって察しはつくだろう。

公明党の「組織票」のことだ。いいかげんにアレ、何とかしようぜ?と僕も、強く思う。

自民公明の連立与党が選挙で強いのは、アレのせい・・・ばかりではないかもしれないが、その要素は、濃いハズ。





そのあとで高橋源一郎は、蟻の話を始めた。

バイオマス、つまりその生物種の数と重さを掛けた計算では、地球上の

全世界の生物のうち、3割が人間で、3割が蟻で、あとの4割がその他の動物なのだそうだ。すごい。

世界って・・・・・・・・・・ほとんど人間と蟻じゃん。

肝心なのはここからで、

サムライアリという種の蟻に奴隷化されてしまうドレイアリという種族がいるらしいのだが、

奴隷化されてしまっても、彼ら(ドレイアリ)は自由を愛するので、

サムライアリに対して、反逆を繰り返すのだそうだ。でも反逆する度に、多くの同胞が殺されてしまう。

それでもドレイアリの反逆遺伝子は途絶えることなく、反逆を繰り返す。

・・・このあと、肝心なところは、高橋源一郎の肉声でお届けする。

「ドレイアリは自らの種族を守るために、反乱を起こす。人間は、どうなのでしょうか?」



すごい・・・・と思った。

反乱を起こせ、という静かなアジテーションだこれは。少なくとも僕は、そう受け取った。


NHKという、お国の一番のお膝元みたいな放送局からの放送で、

遠まわしで非・具体的とは言え、ここまでの事を言った高橋源一郎はすごく勇気があると思うし、尊敬する。



僕も、自由を愛します。だから、現状は我慢ならない。

我々はドレイであってはならないのだ。

権力者と富裕層に圧倒的有利な政治状況の下では我々庶民は、まるでドレイだ。

無能で自己保身にばかり熱心な政治家たちに、我々がどれだけ多くの割合の

税金を搾取されて、それを無意味に使われているか、ちゃんと考えなければいけない。

ドレイに甘んじるくらいなら、刺し違えて死んだほうがマシだ。



心からそう思う。


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ヴィルスという生命体。

2020-02-27 21:26:29 | Weblog



世間は新型コロナ・ウイルスの脅威の話題で持ちきりだ。

ついつい僕は映画「12モンキーズ」を想起してしまう。

あの映画の中では生体兵器であるヴィルスの拡散(テロ)を防げなかったのだ、確かそうだった。


ウィルス、も、ヴィルス、も、ビールスも、同じ言葉だと思うんだが、

・・・・・日本語って鷹揚でいいわねえ。

「鷹揚」は言い換えれば「テキトー」である。優しい。しかも、他人に対しての包容力がある。

細かい発音がどうの、なんて神経質なことは言わないのだ。そーゆーの好き。


まあ、呼び方は、僕は・・ヴィルス、が一番しっくり来るのでそれを使う。

ヴィルスって…謎だ。

「生物」なのかどうか、と言う点も微妙・・・・・であるらしい。

だいたいが、小さすぎるのだ、生き物としては。

でも我々に取り付いて繁殖する、という点では「生物」である。

生物、というのは、言い換えれば「生命体」だ。


でもまだまだ、彼らに関しては余りにも多くの事柄が「謎」のまま、なのだそうだ。


うろ覚えだが「12モンキーズ」の世界では生体兵器ヴィルスのせいで、人類のほとんどが死滅してしまっていたはずだ。

そして、お約束のように、どこもかしこも・・・荒廃してしまっている。


でも、ふと思えば僕は

別に、「人類に繁栄して欲しい」とか、全然思ってないのだ。

逆に「みんな死ねばいい」とかも、全然思ってないのだが。


でも、自分自身のことを考えたら

「ヴィルス」のせいで死にたくは、ないなぁ。

何だかそれって、「損した」ような気になる・・・・ような気がする。


だから、ヤだね。

そんなんで俺は、死にやしないぜ。


あー、でも、

殺虫剤かけられたらコロッと、死ぬかもだけれど。



・・・・・・・・・・・・・・虫なのか?俺は。







いや、




ヴィルスだ。


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生きることはバッド・トリップか?一部訂正あり。

2020-02-25 22:02:00 | Weblog
連休に久しぶりにフィリップ・K・ディックの「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」を読み返した。

内容をほとんど綺麗に忘れていて、新鮮に読めて、自分のアホさ加減に感謝した。

しかしこれはほとんど「醒めない悪夢」の世界で、

ディックは現実をこんな風な、「バッド・トリップ」と捉えていたのだろうか?

これを読む限り、そうとしか思えない。

途中までは理性的に話が進むのだが、最後の方は殆ど、とろけかかった夢みたいで、

これは、内容を覚えていないのが、我ながら仕様がない。

「夢」って何故か、覚えていられないのだ。


しかしそういえば

昨日会ったGoD+NEW+LOVEのチェリー君が

カートヴォネガットジュニアとカートヴォネガットを  親子、みたいな別々の人物だと思い込んでいた、という話が

可愛くて可笑しかった。

確かに、名前だけ見たら別人(しかも親子)だよね。

普通、ジュニア、と名前についてる人は、お父さんとまったく同じ名前を付けられている。

父もカートヴォネガット、息子もカートヴォネガット。ややこしいから息子には普通、ジュニアと付け足す。

おじいさんと息子と孫が同じ名前の場合は三世(サード)と付くはず。ルパン三世とかボブログ三世とかが、そう。

そして慣習的に、父親が死ねば息子のジュニアは、はずす。そうでない慣習もあると思うが。

カートヴォネガットジュニアは、父亡き後にジュニアをはずしたのだ。だから、この場合・・・・っていうか、

カートヴォネガットとカートヴォネガットジュニアは、同一人物なのです。

(ブログの第一稿ではこの件、間違えて逆に書いていた。いかんいかん。)

・・・・・・・・・・・・それはともかく。

スローターハウス5の、映画化版は俺、見てないのですよチェリー君。

どうなんだろう?あんなむちゃくちゃな話、映画化なんて本当に、

出来るもんなんだろうか???????????

あれもフラッシュバックの連続の悪夢みたいな話・・・・かもしれない。



ところで

誰か、「わかってるひと」が、もし、いたら教えて欲しいのだけれど、

パーマー・エルドリッチはプロキシマへの旅の途中で、

「神」みたいな何かに、取り付かれてしまった・・・・・ってことなのだろうか???


そして


フィリップ・K・ディックがほのめかすように、

生きることはバッド・トリップなのだろうか???????





違う、と断言できない自分がいる。




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火はすごい。

2020-02-24 17:19:24 | Weblog

火はすごい。

人間の文明は突き詰めれば「火の文明」だ。

ダイナマイトも拳銃も猟銃も、火の爆発的応用だ。

猟銃がなければ我々は、狼や山犬に食い殺されても不思議はないのだ。熊にだって勝てはしない。

発電所ももちろん、火だ。原子力発電所や原水爆ですら、火だ。

世界中がクルマ社会になって久しいが、クルマの動力ももちろん火の産物だ。

モーターバイクももちろんそうだ。

燃える水である、油、

そして爆発する水、であるガソリン。

その石油(や、原子力)から作り出される電気も、形を変えた火である。

火がなければヒトは生きられない。

江戸時代でさえ、どれほど寒かったであろう。

近代以前の「世界」では、人間も他の動物と同じように、

比喩ではなく「生き延びる」ことが最大のミッションであったことだろう。

一日一日を、そして冬を越えて生き延びること。

現代の我々は「生きること」の中の、楽しみ・・・の部分を大いに享受している、

と僕は思う。

そんな風に考えると、とかく「生きづらい」この世の中も、

楽しげに見えてくる。

だって食べ物は安価に、大量に出回っているし(廃棄食品は大問題では、あるが)、

暖房や羊毛やヒートテックのおかげで、寒さに震えて過ごすことも少ない。

原始人のはじめのほうのヒトたちは、

自分達が何を食べられて、何を食べられないのか?というところからスタートせねばならなかったハズ。

火を扱えるようになる以前はどんなだったか?と想像するとゾッとしてしまう。

我々が食べることが可能な物は、「世界」には、けっこう少ない。

火を通してさえ、そうなのだから。ましてやナマで喰えるものなんて・・・・・・・

「果実」くらいしか僕は今、とりあえず、思いつかない。

(余談だが、やはりそうすると我々は「果実喰い」のチンパンジーの直系の子孫なのだ。それはまあいいとして、)

魚もナマで食べられる、って言うかも知れないけど、

網もない、釣り針もない、糸もない、となれば魚を捕獲するのは容易ではない。

そして、刃物(包丁)がなければナマ魚って、なかなか、喰いにくい。醤油もないんだぜ?????ワサビも!!!!

栗だって、芋だって、ナマで食いたいようなものではない。

大体が魚って、ナマだとすぐに腐ってしまう。貝だってそうだ。当たると怖いし。

動物の肉だって、ナマで食欲をそそるものではない・・・ように思う。

やはり、人間の「食」には、火の存在が欠かせない。

草食動物のように胃が何個もあればこそ、そこいらの草を食っても消化できるのだ。

火がなければ「世界」に、我々の食えるものって、実はとてもとてもとても、少ない。

火を自分で起こせる、と思いついた人は、とてもエライ。

僕が原始人なら、落雷で点いた火だって何だって、「奇跡だ」と思ったことだろう。

いや、きっと長い長い間、火は「奇跡」であったことだろう。

翻って考えると、ライターとか、ガスレンジとか、

本当にスゲエよ。

っていうか・・・・・・・・・・・・・・・・・火はスゴイ。



さて

「火」の応用である「電気」の力を借りて我々は音楽を鳴らします。

ROCA’66、次のライヴは4月4日、京都・御池「夜想」。

対バンは、

東京からVOO DOO MUFFINが来る。そして、ハーシーズ、そして、ザ・ルーラ。


その次は

4月26日、日曜日 大阪・平野の「オルト・ラウンジ」。


その次は5月5日、祝日の火曜日、難波「メレ」。


そしてその次は、6月28日、日曜日、大阪・堺「ファンダンゴ」。



予定を立てて、見に来てクラッサイ!

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カートくん。

2020-02-19 21:05:53 | Weblog
明日が故・カート・コバーンの誕生日だそうで、

今日のレディ・ステディ・ジョージではニルヴァーナが何曲かかかった。

生きていたら明日で53歳になる。むむむ、それって、アタシ達のいっこ下なのね、彼。

でも2月生まれなら「早生まれ」なので、

もしも彼が日本の学校に転校してくることがあったなら(ないけど)、

その時は「同学年」だったハズである。こんなこと言ってること自体、馬鹿では、ある。


今日ラジオでかかったのは例によって「スメルズライクティーンスピリット」と

「カムアズユーアー」だった。1994年当時もこの2曲が大ヒットしてて、

ラジオでガンガンかかっていた。でも僕はこの2曲、あまり好きになれなかったのだ、今でもそうだ。

当時はMTVもけっこう見ていたのだが、MTVでもこの2曲以外はかからなかった。

だから僕は、ニルヴァーナより、彼(カート)の恋人であり、結婚もしたコートニー・ラヴのバンド、

「ホール」のほうが好きだった。コートニーがあんなにクレイジーでひどいキャラのオンナだとは、

知りもしなかった。

でもカートが猟銃自殺を遂げたあと、他の曲もいろいろとラジオやMTVでかかるようになって、

「リチウム」とか「オール・アポロジーズ」とか、すばらしい曲が多数あるのを知って、

僕はニルヴァーナを見直した。好きになった。

一説によると「ホール」の大傑作アルバム「リヴ・スルー・ジズ」は全曲、カートが書いたものだと言う。

さもありなん。そう思ったら、そうとしか聞こえなくなる。

1994年の12月に僕は心斎橋クアトロで「ホール」を見ている。それはなかなか、

貴重な時期に、貴重なものを見た・・・・と、今でも思う。コートニーもボロボロだったが、綺麗だった。

カートはそれにしても厄介な人だったと思う。

今日かかった「カムアズユーアー」の歌詞も、「ノーアイドントハヴガン」と繰り返し言ってるのが聞き取れた。

・・・それ、アンタ持ってたんじゃないかよ。

メジャー2作目のアルバム「インユーテロ」も、発売前の仮タイトルが

「アイヘイトマイセルフアンドアイウォントトゥダイ」で、

インタヴューでそのことを「冗談だ」と言っていた。でも全然冗談ではなかった。

そのまんま、だったみたいだ。

大体が、「涅槃」というバンド名はストレートに自殺願望を想起させる。

日本ではゲイノウジンによる、「涅槃で待ってる」という、有名な遺書もあった。


ああ、でも「グランジ・ロック革命」は、素晴らしかった。

何だか、あの1990年代から新しくロックがまた始まったみたいな感じだった。

僕は日本の、オオサカという都市で、

「グランジ」の彼らと同時代人のつもりで、ギターを鳴らした。

それは当然、極度にノイジーで、当たり前のように不協和音的だった。

(1998年のSXSwでは、ソニックユースと同じフェス(コンヴェイション)に出たんだぜ。)





カートくん、君は・・・・・・・

関西に「転校」してきたら良かったのに(←まだ言ってる)。





写真は、フェンダーの「ジャガー」の右利き用を左で抱えた、我々よりいっこ下の歳の、カートくん。
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「逆インプット」の話。

2020-02-17 21:45:41 | Weblog
うまく文章化できるかしら・・・・・まあ、やってみよう。


おととい、ランブルの佐治のお兄さんの、マサカズさんから聞いた話が面白すぎたので、

ここに書いてみる。


その前に、ランブルフィッシュのヴォーカリスト、今は亡き、佐治朝吉のことを少し書く。


僕が彼に出会ったのは、奈良の、高校時代だった。

その頃の彼は不良ぶってて、リーゼントに剃り込み、眉毛は細く剃って、

学生服はいわゆる「長ラン」で、内側に竜刺繍みたいなのが入ってた。

先の尖った革靴、鞄は潰してぺったんこ。

背もある程度高かったし、肩幅がとにかく広いし目つきも悪いしで、ちょっと怖い兄ちゃんみたいだった。

いや、態度もコワモテでは、あった。


しかし、岩佐が僕を佐治に紹介してくれて、

僕が初めて入った佐治の部屋は・・・・・

ちょっとマニアックな漫画雑誌、あの伝説の「ガロ」のバックナンバーでいっぱいだった。

そして「スターログ」とかの、これもちょっとマニアックなSF雑誌の山。

そして楽器、レコード、レコード、レコード。

そして当時は高価だったビデオデッキと映画のビデオテープの山。


あの・・・・・・・・・・・・・・そんな人は「ヤンキー」では有り得ない。僕は「仲間だ」と直感した。


彼は、そういう人だったのです。音楽の知識も豊富で、

高校時代はほとんどストーンズとブルーズとR&B漬けだった。パンクもちょっとあった。

そういうのを、佐治が率先して、僕や、他のみんなに教えていた。

ストーンズ、ビートルズ、ザ・フー、クラッシュ、ポリス、マディウォーターズ、ハウリンウルフ、ジェイムズブラウン。

他にもいろいろあるのだけれど、佐治が教えてくれたものは多い。

他の友達も、佐治から音楽の知識を吸収していた部分が多かったと思う。


そして、その佐治は、兄から影響を受けて、知識を授かって、いたのです。今思えば。

彼には3人も「兄」がいるのだけれど、やはり長兄の影響が一番強かった。


その長兄がおとといお会いした、マサカズさんなのだ。








さて、そのマサカズさんからおととい聞いた「逆インプット」の話。


彼(マサカズさん)は小学生低学年時代のある日、髪の毛を「マッシュルームカット」にされたことがあるのだそうだ。

それは彼の母親が1960年代のある日、あの「ビートルズ」に感銘を受けてしまって、

息子の髪型を「マッシュルーム」にしたのだ。

その息子張本人であるマサカズさんはその髪型で学校に行って、

同級生や教師から、さんざんからかわれたのだそうだ。そりゃ、そうかもしれない。

現代ならいざ知らす、1960年代の小学生なんか、坊主頭か、良くても坊ちゃん刈りが普通だ。

それで、からかわれて本人はすっごく嫌で嫌で嫌で、

「ロックバンドとか最悪、絶対そういうものには近づかないぞ」と強く思ったのだそうだ。


それが結局、彼はバンドとかそういう音楽の方面にまっしぐらの青年(今や老青年)になっている。

その体験を心理学的には「「逆インプット」というのだそうだ。

友人の心理学者が、そう教えたくれたのだそうだ。

強烈に「嫌だ」と入力されたものが裏返って、大好きなものになる。

・・・・・・・・・・すごい。

僕はこの話を聞いて感銘を受けたのだが、ポイントは、

決して悪い意味ではなく、「ああ、ここでもビートルズか!」と思った。


ビートルズが全世界の若者(や、準・若者、もしくは、アーティスト予備軍)に与えた影響は、計り知れない。

この僕も、色々な紆余曲折はあるにせよ最終的には「ビートルズ・チャイルド」であるのだ。

かの「母親」が受けた衝撃は、逆インプットを通してマサカズさんに、

そこから佐治朝吉に、そして、友達である我々に届いたのかもしれないのだ。


そう思ったとき、この話は、

我々の仲間内だけではあるが、「ルーツ」たり得るもの、なのだ。



期せずして、(自分も含めた)「ルーツ」に辿り着くのは奇跡的な気がする。


しかも、


「逆インプット」がルーツだったとしたらそれって、多少ねじまがってるし、

そういう感じって

悪くないなぁ、と



思ってしまうのだ。







画像は、本文とは関係のない、


「困ったときの”手持ちのヴィヴィアン”」である。




ははは。






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有意義。

2020-02-16 17:10:47 | Weblog

昨夜は奈良まで出掛けて行った。

半年前の佐治朝吉の命日に、どうしてもスケジュールが合わず、

お会いできていなかった佐治家の長兄、マサカズさんを囲んでの飲み会だった。

集まったのは マサカズさん、佐治キョウコ嬢、朝吉の息子マサイエ、ランブルのギター庄司、

そしてランブルのギター俺。

アコギを持ち込んでの、演奏ありの飲み会。もちろん佐治朝吉を偲びながら。

とてもとても有意義で、しかも楽しい時間だった。

息子のマサイエ君はギターを弾きはじめたそうで、庄司がちょっと教えたりもしていた。


マサカズさんは、佐治朝吉に音楽やその他の文化において、多大な影響を及ぼした張本人なので、

我々にとってもゴッドファーザー的な存在なのである。

色々な楽しい「因縁話」があるのだけれど、一例を挙げると、

佐治朝吉が大好きだった(マサカズさんの作った)歌、「銀河メダルの歌をうたえ」というのがあるのだが

それをマサカズさんがニューヨーク滞在中(1976年ごろのことらしい)に作ったとき書いた歌詞、の紙を

昨夜は持ってきていて、初めて拝見したのだ。

そして、佐治朝吉が昔その歌をよく歌ってたとき(ライヴで演ったことはない)、僕が

歌詞を聞き取って書いておいた歌詞が、僕の歌詞ノートの1ページ目に今でも書いてあるのだが、

その二つを照らし合わせてみたら・・・一字一句の違いもなかったのだ。

すごくない?

昨夜はその曲も、みんなで演奏したし、

「宝物の歌」を、佐治キョウコヴォーカルで演奏したし、

マサカズさんヴォーカルでランブルの「至福の浜辺の歌」も演奏した。

楽しすぎたので、ライヴのプロジェクトが動き出すかもしれない。



その「至福の浜辺の歌」の演奏を試しているとき、

マサカズさんが歌詞カードをチェックしていて、サビの部分、

「BABY・・・・   YOU GOT MAKE ME CRYって言ってる」と言ったので

僕は突然思い出して、涙が出そうになってしまった。

この歌詞は、亡くなってしまった岩佐のことを言っているのだ、間違いなく。

ランブルの歌は全部(ほとんど)日本語詞なのだが、ここだけ英語だ。英語にすると、意味性が少しぼやける。

佐治は多分、少し照れくさかったのだろうと思う。

「オマエは俺を泣かせる」と言う歌詞を聴いて涙が出そうになるなんてマヌケだが、それはそれで良し、とする。


昔のことをリアルに思い出す瞬間、というのは希少だ。

それは我々が生きてきた証明のようなものだし、

そういうものを糧(燃料)にして、これから生き延びて行くのだ、我々は。


そんな風に思った。






写真は、昨夜、僕が持っていって弾いたギター。

ランブルフィッシュの頃に使っていたものだ。K・ヤイリ製。

偶然(?)、マサカズさんが昨夜持ち込んだアコギもK・ヤイリ製だった。

ヤイリギターは良い。

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ラジオ番組終了の件。

2020-02-14 21:23:33 | Weblog
国営放送ラジオで平日朝から昼までやっている、とある番組が、

この三月で終了してしまう。


今日、金曜パーソナリティの高橋源一郎が、そんな風に言っていた。

僕は、趣味(道楽)でやっている仕事(トラックで配送)をしながら聞いているので、途切れるところも多いのだ。

がっつり聞ける時もあるが、そうでないことも多い。そりゃそうだ。

車に乗ってる時しかラジオは聞かない。ウィークエンドサンシャインだけは別だが。

それはさておき・・・・・・・・・・・・番組終了は、間違いないみたいだ。



むむむ、終了か。

NHK第一放送とは思えない、ちょっと尖ったところもある、いい番組なのだ。

番組名は、「すっぴん!」だ。

現在の各曜日のパーソナリティ、

月曜日のひとは、お笑い芸人でありながら、言語学者でもある、という面白い男。

火曜日は、近親憎悪してしまう(EASY WALKERSがバックやってたことがあったなぁ)ロッカー、

ダイアモンドユカイくん。

水曜日は、かつてはオトコだったオンナ(性転換者である)、能町みね子。

(僕はこの人の「結婚の奴」という本を最近買った。とても良かった。)

木曜日は、エエ声の、京都は宇治(・・・近所だ!)出身のお笑い芸人。

そして金曜日がいちばん好きだった。ときにはエグいほどの深い内容だった。

パーソナリティは文学者の(小説家の)高橋源一郎。

僕は実は、高橋源一郎に関してはデビュー作の「さようならギャングたち」がすごすぎて、尊敬していたのだ昔から。

あの、ジェイ・マキナニーの名作小説「ブライトライツビッグシティ」の翻訳も高橋さんだ。すごい。

そんなひとがパーソナリティを務めるラジオ番組。希少だったと思う、つくづく。

内容は、毎回すごかった。(もちろん、くだらないときもあった。)

詩人がゲストで出てくることもあった。本物の詩人。谷川俊太郎が出てきたこともある。すごすぎ。

町田康だって出てきた。他の曜日だが 仲井戸麗市、チャボさんが出たこともある。


7年前か?僕はダンプに乗り始めた、ほとんど初日に、移動中にいろんなラジオを試しに聞いていたのだが

偶然、その日のゲストで怒髪天の増子くんがこの「すっぴん!」に出演していたのをキャッチした。

その当時は、木曜日は水道橋博士がパーソナリティで、彼が増子くんを呼んだのだ。

出来過ぎのようだが、それがこのラジオ番組との出会いだった。



この「すっぴん!」は、フジイアヤコ、という女性アナウンサーがメインの番組なのだが、この人も、とても良かった。



「すっぴん!」が終わってしまうのは寂しい。

もしかしてアホのアベ政権のせい?圧力???とか、つい疑ってしまう。

あからさまな政権批判はなかったものの、高橋源一郎は筋金入りの反戦主義者だし、

あのひとは、昔、学生運動で拘置所入りを経験している。

そんな人、どう考えても「左」だ。しかも強烈な。それに、そのことに・・・アホ政権が気付いてしまったのだろうか?

NHKで白昼堂々、リベラルな話が展開されていた。

政権側がそのことに気付けば、潰しにかかってきてもおかしくはない。

何しろ彼ら(政権側)は国民主権や人権が気に入らないらしいから。救いようのない奴等。





何事も・・・永遠に続くことなどないのは理解している。

どんな物事も変化して行く。

だがやはり、寂しい。落胆する。




「たかがラジオ」かもしれない。

僕は子供の頃からの、ラジオ・リスナーなのだ。(大人になってからは運転中にしか聞かないけどさ。)

ラジオ番組表は、少しずつ、刻々と変わって行く。それは当然なのだ。執着してはいけない。


テレビは心から嫌悪している。

テレビとラジオとでは同じ電波メディアでも、天と地ほども違う。もちろん、番組によるが。

ラジオだって実はクソみたいな番組も、多い。

そんな中で

「すっぴん!」は、NHK第一とは思えないような番組だったのだ。


あの純粋ノイズバンド「非常階段」の音源が(たまにだけど)がかかるNHKの番組なんて考えられなかった。

今でも考えられない。今後は、ないだろう。











悲しい。
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「何のために演る」か?

2020-02-12 20:35:02 | Weblog


それにしても我々は、「何のために演る」のでしょう?


・・・・・・楽しむため?


もちろん、それはそうで、

音楽を聴いたり、奏でたりすることには、純粋な「喜び」が、ある


でも、それだけではない・・・と思うのだ。


これは僕だけがそう、ってワケじゃないと思うのだけれど、


我々は

「哀しむため」、もしくは「悼むため」に演る、という側面が 

確かに、ある。


変かもしれないけど、僕は演ってて、時に、すごく哀しい。


自分がその「哀しみ」に飲み込まれそうになってしまうときもある。


でもそれを、そういうことを演ることに意義があることは・・・確信している。


そういうのって、もしかしたらすごーく、自己充足的なのかもしれない。


要するに自分の「気が済んでない」のだ。


「哀しみ」が残っているのならそれを呼び出して、その中に入って、それと対峙したいのだ。


とことんまで「それ」と、向き合いたいのだ。



いつか、気が済むかもしれない・・・と思う。

でも、もしかしたらそんな日は来ないかもしれない。

どっちだろう?



でも演るしかないのだ。


「そうすること」は「そうしないこと」の、100倍マシだから。







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年上のバンドマンたちとの逢瀬。

2020-02-11 18:22:18 | Weblog
ランブルフィッシュで本格的に関西のライヴハウスに出だしたのは多分、1987年頃だった。

その頃から何故か、

年上のバンドマンたちと、あまり縁がなかった。

例外は、マッドギャングの碇さんとか、ガンスリンガーズ、後にはディディワディディの村上くんとか。

ほかは年下が圧倒的に多かった。同い年とか。

あの怒髪天だって(シミー以外は)同い年なのだ。


意識して年上の人を避けてたわけでは全然ないのだけれど、我々は何故かそんな風だった。


でも最近、わりとそういう、年上のかっこいい人たちとご一緒できる機会が多いことに気付いた片山道子2020年冬。


もう過ぎ去ってしまった2月の話なんだけど、

こないだの 十三クラブ・ウォーターのラストライヴは、

ウォーター店主の松田健さんのお誘いで(健さんはいっこ上なはず)出演させてもらえたし、

その次のハードレインでの「ラヴレターフロムエルガスガス」も、エルガスの熊澤さんは年上のはずだ。

若く見えるが、年上。話をすると「世代感」がちょっと違う感じがして、すごく面白い。興味がある。

そして、その時一緒だったマンガンズも、ギターの陽ちゃん以外は全員年上である。

腰の据わったユーモア、下ネタギャグ、そして様々な余裕。彼らも最高にかっこいい年上バンドマンである。一緒に居て楽しい。


そして、近い今後の、続くライヴもそうで、

4月4日に決定している京都、夜想でのライヴ。

対バンで、関東から来てくれるVOO DOO MUFFINのギターの聖さんは、

ちょっとだけ年上なはずだ。しかも彼は昔の横浜ガンスリンガーズのギタリストだったひと。

だから我々(僕と聖さん)はあの、今は亡きガンスリのVO.村上くんの思い出を共有している。


村上くんは・・・破天荒な人だった。喧嘩早くて、ガラ悪くて、そのくせ繊細で超細身で長身で長髪の美形、と言う恐ろしい、

小説か漫画の出演人物みたいなキャラだった。実際、ちょっと怖かったけど、大好きだった。

何故か彼は、僕をよくからかって来た。優しかった。



死んで欲しくなかった。








それは置いといて・・・・・・

その次の、4月26日に決定している、大阪・平野のオルト・ラウンジというハコで開催される

「ORTO LOUNGE 5TH CELEBRATION  PURE ROCK PARTY!!!!!!!」

というライヴ・イヴェントでは

対バンが DIZZY TONESや、

T・SUMITOMO BANDで、

これらのバンドには関西ハードロックの屈指のメンツ、

例えばエレクトリックギャングの初村さんとか、サヴォイトラッフルの住友さんとかが居て、

つまりはアコガレの年上バンドマンたちが出演する。そこに、我々ROCAが混ざる。

レアな感じがするのだ、そーゆーのって。


しかし50過ぎて・・・・ひとつふたつ年上、とかそんなに大したことではない気もするのだけれど、

時代が時代、というか、彼ら・・・や、我々が若かった頃、というのはロックシーンも荒れてたりして、

ライヴハウスも今と違って「怖いところ」だったりして、

それなりの修羅場を潜り抜けて来ているのだ彼らや、我々は。

そういう自負を持って僕は、年上のバンドマンである彼らをリスペクトしている。


そう、昔は修羅場・・・になることが多かったのだライヴハウスって。

でも、そんなのが「いい」とは全然思わなかったので、

ライヴハウスシーンは、今のほうが絶対いい。


とは言え、その頃の修羅場を潜り抜けてきた先輩バンドマンたちと今になってご一緒できるのは

嬉しい。

ずっと続けて来た「ご褒美」のような気もする。







そういう、「ご褒美」のようなライヴ、見に来てください。再来月の話だけどさ。



きっと我々は

いつもそうなのだけれど、もしかしたらいつもよりちょっと多めに

「嬉々として」演ってる・・・・かもしれません。





追伸

そうだ、超大物を忘れていた(すいません)、

共演したわけではないのだけれど・・・・こないだ、あの「ARB」のドラムのキースさんとお会いした。

年上バンドマンのレジェンドである。

キースさんは僕の、このブログを、毎回、読んでくれているのだ(←本当)。



こういう、「年上の人たちとの縁」って、続くときは続くのだ。

それは恐縮でもあるが、嬉しいことでもある。
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