カヴァー・ヴァージョンについて。

2021-07-31 21:17:13 | Weblog

カヴァー曲・・・・・既に有名な「とある曲」を、

別の誰かが独自のやり方で演奏し直したり、歌い直したりしたものの中で、

あまりにも原曲とかけ離れている(ように聞こえた)ので

それがカヴァー曲だとは気付かず、

もしくは

もともとその原曲を知らずに、先にカヴァー曲を聴いていて、

後になってから原曲を聴いて

そのあまりの落差に愕然とした・・・・・・という経験が何度かある。

 

一番初めはあれだったと思う、

RCサクセションの名盤のライヴ盤「ラプソディー」の中に入っている

「上を向いて歩こう」。

僕はこれが出た当時中学生だったし、坂本九の「上を向いて歩こう」は、聴いたことがなかった。

だから曲紹介のMCで清志郎が「日本の有名なロックンロール!」と言っているのも、意味不明だった。

それでも、原曲を知らなくてもこの歌は大好きだった。パンキッシュで最高。

でも原曲を聴いてもそのあと長い間、気づかなかった、コレがアレだとは。

気付いた時には愕然とした。

本当に・・・すごいセンスだと思う。

RCの「上を向いて歩こう」はニューウェーヴ的な、破壊的かつ愛情あふれたカヴァーだと思う。

 

そして、ジャニス・ジョップリン(ビッグブラザーアンドホールディングカンパニー)の「サマータイム」。

これも、高校生くらいの頃、

ジャズ・スタンダードの元歌を知らずに、それでも「ジャニスすげえなぁ・・・」という感じで聴いていた。

元歌を、どう解釈したらあの歌メロになるんだ?・・・・と、今でも思う。

バックの演奏はそんなに原曲から離れていない気がするので、

やはりシンガーであるジャニスが破格の天才なのであろう。

 

 

あと・・・あれだ、ディーヴォの「サティスファクション」だ。

原曲の破壊と、再構築。

ディーヴォはストーンズを、否定しているように思えた。多分そうなんだろう。

 

 

あとクサいところではエリック・クラプトンの「レイラ」

というアルバムに入っている「リトル・ウィング」が

ジミヘンの曲のカヴァーだ、という事に気付いたのはわりと最近・・・・っていうか

たかだか、ここ十年くらいの事だったと思う。

「レイラ」の中古盤を買ったのは高校生の頃だったし、

ジミヘンを決定的に好きになって様々な音源を聴きまくっていたのが19歳の頃だった。

二十年くらいの間、気付かなかったのだ、馬鹿みたいだが。

ある時、クラプトン版の歌詞を何気なく聴いていて気付いた。

ん?ジミヘンの「リトル・ウィング」と全く同じ歌詞じゃん?と。

「リトル・ウィング」の歌詞は、自分で歌いたくて、いちおう暗記していたのだ。

これもけっこう、愕然としたな。

 

 

 

上記の4曲は、元歌からかけ離れてて、それでも最高なもの、だが

 

元歌通り、というか「そのまんま」演っているカヴァー曲も素敵なものが多い。

 

 

っていうか、

 

そっちの方が多いだろう、圧倒的に。

 

 

ブラック・クロウズの演るオーティスの「ハード・トゥ・ハンドル」とかが好きだな。

 

そのまんま具合が。

 

 

 

 

 

ROCA’66も近日、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を演るけど、

 

今のところ、わりに真っ直ぐ・・・演るつもり。

 

 

どう足掻いたってノイジーで刹那的、破壊的には

 

 

なるのだけれど。

 

 

 

 

 

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HARDER AND HARDER

2021-07-28 21:04:16 | Weblog

ふと思うのだが、

子供だった頃と比べていろんなことが激烈になっている気がする。

それはつまり、良いことも、悪いことも。

 

幼かったころは日常がもっと平穏で、

毎日がふわり、ぷかぷかと流れて行ってたように思うんだけど、

でも

そんなのってやっぱ、嫌だった出来事をきれいに忘れ去ってしまってるからかもしれない。

 

コドモ道郎も実は、毎日を戦いながら生き抜いていたのかもしれない。

 

しかしそれはそれとして、

大人になると日々の様々な出来事が激烈になる、というのは

ある種の真実かもしれない、と思った。

 

と言うのには訳がある。

 

高校生の頃、ローリングストーンズ歌詞集を見ていて、

「悲しきインディアンガール」の中のこんな一説が目に留まったのだ。

 

”LIFE  JUST  GOES  ON  AND  ON  GETTINNG  HARDER  AND  HARDER”

 

和訳には

 

「人生はただ続いていく、厳しさを増しながら」

 

とあった。

 

 

むむむ、これって本当なのかなぁ?人生って・・・厳しく(ハードに)なっていくのか?

 

本当だったら嫌だなぁ・・・・などと思った高校生道郎であったのだが、

 

後になって思った、あれは本当だったと。

 

 

 

でも救いはあって、

 

つまり

 

 

「悪いこと」だけが激烈になって行くのではなく、

 

 

「良いこと」、もしくは「楽しいこと」もまた、その激烈さを増して行くのだ。

 

 

総体として人生はハードになって行く。

 

 

五十代になった老青年道郎は、そう思っている。

 

 

 

 

 

しかし

 

ミック・ジャガーって時々、すごくいい歌詞を書いてたよね昔は。

 

 

近年のは、よく知らないんだけれども。

 

 

 

 

 

 

ああ、それにしても日々の激烈なこと。

 

 

 

 

追記

 

 

「悲しきインディアン・ガール」はすごく好きな歌だった・・・・・今でも好き。

 

 

歌詞に時事問題が絡めてあるのも、いいと思う。

 

 

 

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全盛期間近

2021-07-26 20:40:47 | Weblog

 

 

今年の向日葵は少し小ぶりなものばかりだったのだけれど、

それでも沢山の花が咲いてくれて、とても嬉しい。

今で、八割くらい咲いたかな。

今週後半がこのヒトたちの最盛期、全盛期になると思う。

台風が来たら困るけど、小ぶりだから風には強いかもしれない。

 

それで、全盛期という言葉で思い出すのだが

 

いつだったか・・・読んだ文章で忌野清志郎が

タクシーに乗った時、運転手に

「RCの全盛期はすごかったですね」と言われて、

あ、俺の全盛期はもう過ぎ去った過去なのか、と思った

という話があって、

 

そう・・・・・・そういうのって他人が決めるものなのね。

 

 

 

ここで自分を引き合いに出すのはおこがましいのだけれど、

 

 

 

こんなささやかなインディー(自主独立)でしかない、

草野球ならぬ「草ミュージシャン」の

この僕にも

それなりの全盛期って、あったのだろうか。

 

あったとしたらいつだったのだろうか。

 

 

ランブルフィッシュで、浅川マキと一緒にステージに立った時?

 

山口富士夫と碇健太郎バンドとランブルで東名阪ツアーを廻った時?

 

それとも

 

ばるぼら で、テキサスのサウスバイサウスウエストに出演した時か?

 

いや、ばるぼら で、NYのCBGBに出演した時?

 

 

 

 

むむむ。

 

 

 

 

 

 

苦し紛れに言うのではないが、

 

 

僕の感触としては・・・・・「今」が一番充実してるのだ、自身の音楽としては。

 

 

こう思うことは過去への「裏切り」ではない、と思う。

 

 

こんなコロナでライヴさえもできないような

 

 

見方によれば「ショボい」状況なのだが、それでも、そうなのだ。

 

 

スタジオではすごい音が出ている。

 

 

 

 

世間的な名誉なんか、どうでもいい。

 

 

ランブルフィッシュ も ばるぼら も、最高の仲間たちだった。

 

 

彼らと出会えたことは本当に本当に、ラッキーだった。

 

 

今は今で、ROCA’66の、最高の仲間がいる。

 

もしも

 

50歳過ぎて全盛期が訪れた・・・としても別に、それはそれでいいんじゃないかな。

 

 

それはそれとして

 

僕は本当に、恵まれている・・・・と実感する。

 

 

 

 

この先も音楽を続けたい、と心から思う。

 

 

 

 

あの、

もしかして(僕は)少し、サイズが「小ぶり」だから、

 

 

逆風とか、逆境には強い・・・・・・・・・・・・・・・・かもしれないぜ、

 

とか言って。

 

 

 

 

それを願う。

 

 

 

 

写真は、全盛期間近の、今年の向日葵。

 

 

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フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン

2021-07-25 20:12:50 | Weblog

英語で歌うとか在り得なかった。

そういうのには興味がなかった。

 

カヴァーソングを演る事にも同じように

興味がなかった。

 

でも少しずつ  

自分の殻を壊していくのも面白いかもと今は思っていて、

 

今、バンドでスタジオで、英語のカヴァー曲を試してみている。

 

 

スタンダード曲「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」

 

やってみたら、想像以上に

 

すごくいい感じ。

 

 

ガサツなグランジバンドが何も考えずにジャズスタンダードを演ってる、みたいな。

 

 

 

で、演ってみたら歌詞が気になって

 

 

自分なりに意味を解釈してみた。

 

 

そうするとこの歌の主人公は女性なんだな、と思った。

 

 

 

 

以下は片山道子の独自の訳詞。

 

 

 

 

「月までアタシを飛ばせてよ」

 

 

 

 

月までアタシを飛ばせてよ

 

 

星々の間で遊ばせて

 

 

木星や火星の春をアタシに見せて欲しい

 

 

 

言い方を変えればね

 

 

手をつないで欲しいってこと

 

 

ほかの言い方をすればね

 

 

最愛のアナタに、キスして欲しいってこと

 

 

 

 

 

心を歌で感じさせて

 

 

そしてアタシに永遠に歌わせてよ

 

 

 

アナタはアタシの崇拝の対象で、尊敬さえしてるんだから

 

 

 

 

言い方を変えればね

 

 

アナタはアナタのままでいて欲しいってこと

 

 

 

別の言い方をすれば

 

 

 

 

いつまでも好きだよってこと

 

 

 

 

 

 

訳詞終わり

 

 

 

可愛い、というか・・・・・・・・女性的で素敵な歌詞だ。

 

 

 

素直にいいなぁ、と思う。

 

 

僕が英語で歌うこの歌を

 

 

(演る時は「道子化」してるかもだが)、

 

 

いつか聴いてもらえる日がくるだろうか?????

 

 

 

 

 

 

 

 

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物欲が薄れてきた件

2021-07-23 17:03:41 | Weblog

物欲が衰退してきているような気がするのだ最近。

欲しいものがあまり、ない。

身を焦がすような物欲の炎が昔は確かに、あった。

例えばギター。

ギターならどんなものでも魅力的で、欲しかった。手に入れば何本でも所有したかった。

それとか、革ジャン。

あと、バイクもいろいろと、欲しくてたまらなかった。

でも、気付いてしまったのだある時。

ギターを何本も何本も所有していても、それらを弾いたり、弾きまくったり、眺めたり、

レコーディングで使ったり、それを持ってステージに立ったりできなければ意味がないのだ。

そんな何本も何本も、同時に愛せるわけがない。

コレクターみたいな人たちの存在を否定する気はないのだけれど、

少なくとも僕にとっては、そうなのだ。

革ジャンもバイクも同じ。手に余るほど持っても、意味はない。

バイクなんか特に、駐車場も要る。セコいこと言えば税金(自動車税)だって毎年払わなきゃだし、

でかいバイクなら特に、何処に行ったって停めるところに苦労する。

クルマよりバイクの駐車場って圧倒的に少ないのだ。駐禁はとられるのに。

僕が、もう二十数年も乗っている今のバイクは大き過ぎることもなく、小さくもなく、ちょうどいい。

スタイルもオールド風で、最高。

ギターも「これだ!」と確信的に出会ったものがある。

革ジャンにしても、そうだ。「身の丈に合ったもの」がある。

 

それでも時々はヤフオクなんか見て おおーこれいいよな、とか思う。

バイクも革ジャンも見るけど、やっぱ一番見るのはギターだ。

でも買おう、というところまではいかない。見てるだけで充分楽しい。

 

 

そういえば

何年か前に静岡の手前当たりの山裾の高速道路のコンビニ駐車場で

立派なカブトムシと遭遇したことがあった。

念のために言っておくが、フォルクス・ワーゲン・ビートルが停まっていたのではない、

本物の、有機物の、生き物の、昆虫の、カブトムシがいたのだ。ツノ付きの、オス。

すぐ手の届く目の前にいる。嬉しい。

捕まえて、箱か何かに入れて持って帰ろうかな、と一瞬だけ思ったのだが、やめた。

持って帰って、例えば手厚く環境を整えて飼ったって・・・・箱の中でいずれ、

死なせてしまうだけ。それはお互いに不幸なことだ。

それだったらここで、彼(カブトムシ)に、他の誰にも捕まらず

自然に帰ってもらってお互い別々の人生を歩むのが一番自然で幸福だよな・・・・

と思った瞬間 目の前で彼は羽を「バシッ」という感じで広げて、

一瞬の静止の後、勢いよく羽ばたいて高く高く飛んで、深い森の方へ消えていった。

すごくホッとした。

 

つまるところ、カブトムシもギターもそう変わらないのだ、僕にとっては。

魚も、蝶も同じかもしれない。バイクも、革ジャンも。

そのひと(人ではないが)にとって自然な環境で、自然に幸福に存在してくれれば

僕と関わらなくたって全然いいのだ。

僕が所有するなんて、はっきり言っておこがましい。

 

そもそも「所有」という概念とは何なのか?とも思う。

 

 

山も丘も空も、誰のものでもないはずなのだが

 

土地には全部、値段がついているし

 

都市上空には日本の場合、制空権すらない。

 

 

近い未来、地球上のどこかの国が「月」の所有権を主張し出しそうで怖い。

 

 

 

 

結論。

物欲など、薄れて薄れて、いずれはなくなっていけば、それでいいのだ。

 

 

 

 

 写真は、僕の所有・・・・ではない、一時的に管理している花壇の

今年の向日葵。

 

 

ちらほらと散文的に、小さいヤツから咲きつつある。

 

 

僕はただ、種をまいて水をあげただけなのだけれど。

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諦念、そしてダイナミズム。

2021-07-22 20:13:52 | Weblog

 

 

 

 

 

 

 

日々はまるで

囂々と流れる川を行く巨大な いかだ の上に乗っかっているかのように

僕には思える。

 

 

 

それは船でさえないのだ・・・・・ただ木を組んだだけの、 いかだ。

それでしかない。

 

 

 

 

すべての風景は後ろへ後ろへ、ただ流れてゆくばかりである。

 

 

 

 

そしてあらゆるものがその いかだ の上に乗っている。

 

 

 

 

 

 

それは例えば

赤いギター、青いギター、

古いバイク、

擦り切れかけた革ジャン、

10トンダンプ、4トントラック、シルバー色の軽自動車、

ぴかぴかなお墓、

傷のついたレコードたち、

鎖、鎖、鎖、鎖、鎖、

古びたトランジスタ・ラジオ、

帽子、

骨董品みたいな扇風機、

古い古い文庫本、

革がもう・・・しわしわになってしまった旅行鞄、

時計、時計、時計、時計、時計、時計、時計、時計、

出番のないアンプリファイア、

ショートブーツ、ウエスタンブーツ、ラバーソウル、

エフェクターの山、

同じようなアングルで撮られた写真たち、

着なくなった服、服、服、服、

etc  etc  etc

 

 

 

 

 

 

 

その いかだ も、いつかは沈むのだ。

別にそのことは構わないのだけれど

うーん、どんな風に動けばいいのか?なんて今更

考えちまうよね。

 

 

 

 

 

 

「夏」という巨大な季節も、その船みたいな いかだ の上に乗っかっているもののひとつだ。

 

 

 

 

 

 

 

僕は季節には・・・・・っていうかどんなものにも

抗えない気がしている、今は。

 

 

 

 

 

ただ流れていくだけで精一杯だ。

 

 

 

 

 

時々水面に顔出して息できれば

 

 

 

 

 

それで何とか、生き延びていける。

 

 

 

 

 

 

 

僕がこの期に及んで望むのは、ほんのそれだけだ。

 

 

 

 

 

 

灼熱の季節よ 僕を、またうっかり 見逃してはくれまいか?

 

 

 

 

 

 

 

写真は、今年の向日葵。開花直前のダイナミズム。

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過去の有意義な体験について考察、そして盛夏到来。

2021-07-19 21:27:40 | Weblog

人生で一番楽しく、かつ有意義なのは

アート関係(音楽、文学、ファッション、映画、漫画、イラスト、絵画ETC)

恋愛関係(愛すること、そして あわよくば愛されること)

だと思うのだけれど、

 

全然それとは関係ない、「喰うための仕事」関係も、

今から思えば僕に、様々な体験をさせてくれて、

僕を成長させてくれたことは間違いない。

その体験は苦しかったりしたこともあるが、総体としては・・・・楽しかった。

 

例えば

 

何の予備知識もなく、いきなりアメリカ村の古着屋の店頭に 店員として立ったときのこと。

 

何の違和感もなく日本橋の古本屋の店員になったときのこと。

 

かと思えば

 

クルマの運転なんかどへたくそだったのに

軽トラックの運転手になって大阪の細い裏道を疾走したときのこと。

 

または

ブランドショップの店員になってスーツなんか着こんで、ピカピカキラキラの店頭に立って

200万円の時計(金無垢だった)を現金で売ったときのこと。

 

そうかと思えば

10トンダンプ運転手になって

産廃だらけの荒野を土砂を載せて走りまくったときのこと。

 

上記のことは全部本当である。

 

それらは、それらでしか味わえない独特の気分だった。

 

本当は、まだあるのだけれど、割愛。

 

そりゃ、嫌なこともあったし、嫌な奴も、いっぱいいた。

 

そしてすっごく危険なこともあったけど

 

いろんなことが体験出来て良かった、と今では思う。

 

間違いなく僕はそれらの体験で成長したのだ。

 

 

人生においては無駄な時間など、一秒もない・・・・今こうしてる時も、

 

こうやって書いてることもきっと無駄ではない。

 

失敗したことも多いけど、それを含めて過去のことは全部

 

無駄ではなかったのだ、と思いたいし、

 

 

今後もそう肝に銘じながら生きたい。

 

 

というような

片山道子、2021年、コロナ禍の中の二度目の夏である。

 

 

 

本物の、盛夏が到来したのだ、今日。

 

俺は果たして、夏の盛りを生き延びれるのだろうか。

 

 

心許ない。

 

 

 

 

 

花壇の花はそう・・・・・ちらほらと咲きつつある。

 

次にはきっと、写真を挙げる。

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いいこと

2021-07-13 20:52:49 | Weblog

悪くなっていっている物事ばかりではない。

良くなっていっている物事もある。

持続している物事だってちゃんとある。

 

たとえば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうだ、我々のバンドは続いている。

 

何の契約もしてないし、思えば、口約束さえしていないのに、だ。

 

 

バンドの存続、というものは実に精神的なもので、

 

言って見れば「禅」みたいなものだ(違うかもしれない)。

 

例えストーンズでもそうだと思う・・・いや、ストーンズなら契約があるか。

まあいいや。

 

 

とにかく

僕らが バンドはある、と思っていればバンドはちゃんとある。

動けてなくて、人前に登場していなかったとしても。

 

ところが

こんな状況でライヴも出来てないし・・・・・もう「ない」んちゃう?

もうこれ以上無理なんちゃう?

と、当の僕らが思ってしまったらバンドは

なくなってしまうかもしれない。

気付けばもう「ない」かもしれない。

 

 

 

とりあえずとにかく、我々のバンドは続いている。

スタジオに入ったら最高の音(当社比)を出すし、

この期に及んで進化しているし、

心強いことこの上ない。

これは僕の身のまわりの世界の、数少ない「いいこと」である。

 

 

あと・・・ほかにいいこと、あったっけ???????

 

 

うーん、僕は少し、背が伸びたよ

 

 

 

ってのは嘘だ。

 

 

今更伸びてたまるか、縮むことはあり得るとしても。

 

 

でも新しい歯が生えて来たよ

 

 

っていうのも虚しい嘘だ。

 

 

嘘ついてどうする俺。

 

 

 

 

 

 

 

 

でもやっぱ、バンドが何食わぬ顔して図太く続いてるってのがやっぱり

 

いちばん「いいこと」かもしれない。

 

しかもこれは嘘じゃないし。

 

 

 

究極に大事なことは我々はまだ、生きているのだ。

 

これは喜ぶべきことだ、「いいこと」だ。

 

 

 

生きていれば、チャンスはある。

 

かと言って

 

また阿呆みたいに まんまと「落とし穴」にハマる可能性も勿論あるけど。

 

 

それでも。

 

 

 

 

 

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寛容さについて。

2021-07-10 12:51:08 | Weblog

僕は他人に対して一体、何を求めているのだろう?

と考えた時、

その答えは「寛容さ」だった。

 

少なくとも僕自身はそれを目指している。

我々はみんな誰でも、寛容な人間になるべきなのだ。

 

神経質になど決してならず、

他人に完璧など求めず、

他人の失敗は笑って流し、

こちらに迷惑が掛かっていたとしてもその事を気付かせず、

まあいっか、って感じで

怒らず、失望せず、他人も運命もタイミングも責めず恨まず。

 

徹底的にそんな風にして生きて行こうではないか。

 

なかなか近づけないにしろ、それは僕の昔からの理想なのだ。

 

寛容になろう、鷹揚になろう、

懐の深い人間になろう、と思いながら生きて来たのだ。

 

全然そんな風になれてないけど、

でもずっと努力し続けていたらいつか、

なれるかもしれない。

もしくは、

1ミリでもそれに、近づけるかもしれない。

 

そうしたら他人も・・・・・

僕とは全然関係ないような他人も、

そうなってくれる とまでは望まないが、

僕の憧れている「寛容さ」について少しくらい理解してくれるかもしれない。

 

 

でも

 

ああ、そうだ、

 

 

 

他人には何一つ、期待してはいけないのだった。

 

 

 

 

いかんいかん、

 

 

他人に「寛容さ」を求める、という発想自体、ヤメにしなきゃ。

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はぁ(タメイキ)。

 

 

 

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「有る」ということ。

2021-07-07 21:29:00 | Weblog

いつか全部、失くしてしまうのだ・・・・・・・・・・・とふと思った。

 

バンドもいつか、出来なくなる日が来るだろうし

仕事も、出来なくなる日が来るだろう。

友達と会って酒飲んだり・・というようなことも

いつまでも永遠に出来るわけではない。

 

それはつまり結局はいつか「生きること」が出来なくなるからだ。

 

生きられなくなる前に、きっと老人になるだろう。

 

こんなこと心配しても仕様がないのだけれど、

もしかしたらいつか寝たきりになてしまって、

トイレも食事も自分で出来なくなるかもしれない。

そんな風な人は世の中に沢山いる。そして決して、それが悪いことではない。

心苦しいであろうけれども。

 

そうなってしまった時に、今の、この自分を懐かしむだろうか?????

 

・・・多分そうだろう。

うじうじ悩んだりもしたし、失敗もしたりしたけど

あの頃は全部出来てたのだ、と思うだろう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・だから、今を楽しもうと思うのだ。

 

ストラグル(懊悩)みたいな出来事は多い。あまりにも多い。

 

僕は本当に、日々を「戦い」のように感じる。生き延びるための戦い。

それでも、それを楽しもうと思う。

 

だっていつか、戦うことすら出来なくなるのだ。そのことは、言ってみれば「保証済み」なのだ。

 

 

ただただ死を待つだけ・・・・みたいなことに、誰だっていつか、なるのだ。

 

 

そうなったときに、なるべく後悔が少ないようにしたいではないか。

 

 

日々の暮らしはもちろん、やることなすこと上手く行く・・・ってなことにはならない。

 

 

でも後で考えて、「善戦したぜ」と思えるようにしよう。

 

そして、今はすべてが「有る」のだ、という事を理解して、実感しよう。

 

 

 

 

と思った

 

 

梅雨の真っ最中のある日の私だった。

 

 

 

 

 

土砂降り雨がちょっと降り続いたくらいのことで、人生はハードな様相を呈するのだ。

 

 

たったそれだけのことで。

 

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