9月27日に書き洩らしたこと。

2020-09-30 21:57:06 | Weblog

9月27日に、ランブルフィッシュの前身バンドの結成話を書いたのだが、

ひとつ、大事な要素について書き洩らしていたことに気づいた。

ほとんどのひとにとっては、どーでもいいかもしれないのだけれど、

自分自身のために書くことにする。

 

それは何か、というと、

 

佐治と岩佐はお互い、中学時代から意識し合っていて、

心の底のほうでは尊敬し合ってすら、いたのだ・・・・・ということ。

 

僕は中学は福山市だったので、リアルタイムで中学時代の彼らを見てはいない。

 

でも何度目かの岩佐の命日に、僕と佐治と二人だけで飲んでいた時、

佐治が

それまでは語らなかった中学時代のことを饒舌に語りだしたことが一度だけあって、

 

その話を聞いて僕は確信した。

 

お互い、意識し合って、尊敬し合っていたのだ、この二人は。

 

 

それがあったからこそ、岩佐が僕に

「オマエおもろいやんけ」と言ったあとに「佐治に紹介したるからついてこい」

ということになったのだ。

 

だから「ランブルフィッシュ」の前身バンド「ネクスカ」をつくったのは岩佐、ということになる。

 

僕が言うと手前味噌だが・・・・・・「彼ら」に、僕(片山道郎)が加わって、

初めて「バンド」が立ち上がったのだから。

 

 

化学反応、と言ってもらっても、差支えない。

 

 

 

 

 

 

そして

 

1988年の6月に、土砂降り雨の高速道路で死んだのは、

 

そういう人だった。その物語の、ほぼ中心人物だった。

 

誰もが、彼のことを好きだった。

 

 

 

 

 

岩佐は でかくて、強くて、強面で、、そのくせいつも冗談ばかり言ってて、人を笑わせるのが大好きで、

 

いつでも、弱い者の味方だった。

 

 

 

 

 

それが、書き洩らしたこと。

 

 

とても大事なことだったから。

 

 

 

ああ、そして、今日で2020年の9月は終わりなんだね・・・・・・名残惜しいな。

 

 

 

明日は、「中秋の名月」だって。

 

 

 

ふうん、そうなんだ。

 

 

 

 

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我思う

2020-09-29 22:11:54 | Weblog

やっと夏が終わり、

秋が訪れようとしているのかもしれなかった2020年9月29日。

 

お気づきかもしれないが僕は

同じような物語を何度も何度も、まるで再確認するかのようにここに書いてはアップしている。

でも新たに書くたびに

以前は書くのを躊躇していたようなこと、つまり

新たな事実が浮かび上がる。

忘れていたようなことを突然思い出したりもする。

そんなようなこと(まだ書けないこと、書いてないこと、忘れてしまってること)は実はまだまだあって、

だから物語の骨子は同じでも、細部は・・・書くたびに、結構違ったりするので、

「また同じこと言ってるよ」とかなるべく思わないで欲しい。

いや、思ってもいいから、言わないでいてくれたら嬉しい。

 

加えて僕は

逝ってしまった人たちのことを「神聖化」しているフシがある。

それは自覚している。

本当のこと言えば彼らだって聖者じゃないのだから

不完全だし、利己的なところもあったし、若かったころは幼稚な面さえあった。

彼らのそんなところを思い出すこともある。

でもそんなのは些末なことでしかない。

 

彼らの欠点や、悪かった点を僕が今言って何になるのか??????????

何にもならない。

 

僕はここで、もしかしたら僕なりの「御伽噺」を紡いでいるのかも知れない。

 

でも全部、現実にあったことでもあるし、

誰一人覚えていないのだとしても、

 

少なくとも僕は、死ぬまで忘れはしないと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

今回のこの「コロナ禍」は我々にとって致命的な出来事になり得る。

 

足元からじわじわと、しかも「アンチクライマックス的」に、

 

我々は浸食されつつある。

 

 

 

 

こんなことに負けたくはない。

 

 

「世間」や「風評」に、屈したくはない・・・・・・・・と思う。

 

 

 

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2007年9月27日。佐治くんのこと。

2020-09-27 13:10:02 | Weblog

高校1年生だったからあれは西暦で言えば1982年だったことになる。

学校の軽音部(実際は「同好会」だったが)で友達になった同級生の、

強面で柔道黒帯で冗談好きのベーシスト岩佐が

「オマエおもろいやんけ。佐治に紹介したるから今日の放課後、俺についてこいや」と言った。

 

佐治は同級生の中でも不良ぶってた連中の一人で、

僕は不良に憧れもないし、ヤンキーは嫌いだったのだけれど、岩佐がそう言うなら・・・・・とおとなしくついていった。

 

佐治は、そういう格好をして突っ張ってはいたけれど

中身は全然ヤンキーなどではなかった。

 

どちらかというと繊細で大胆な芸術家タイプだ、と僕は感じた。しかも天才的な閃きがある。

 

彼らはその時、バンドを組みたくてギターが弾ける奴を探していたのだ。

 

 

でも後から考えてみたらその当時、僕のほかにもギター弾ける奴なんて何人かいたはずなのだ。

 

岩佐が「おもろいやんけ」と言った意味は、

 

僕がオリジナル曲を作ったりする、というところにあったのかもしれない、と後年思い当たった。

 

ギターも、コピーだけではなく、アドリブも弾けたのだ(稚拙ではあったが)。

 

当時、すでに佐治も自作曲を作っていて、ドラムを叩きながらそれを歌っていたりした。

 

そして僕は佐治に頼まれて、その曲の「コード進行」を発見した。

 

そのことで、とても喜んでもらえた。

 

「ひなたぼつこ」という、とてもとても素敵な曲だ。作詞作曲・佐治朝吉。

 

(この曲は、いつかROCAでやろうと思っている。)

 

そんな風にして僕は「彼ら」の仲間になっていった。

 

 

それから、本当に本当に、いろいろな出来事があった。

 

佐治の16歳の誕生日を僕はとても鮮明に覚えている。

 

我々のバンド「ネクスカ」は、学園祭のステージに出演したりした。

 

有名曲のコピーとかはやらず、完全にオリジナル曲ばかりのバンド。そんなバンドは他には、なかった。

 

「ネクスカ」というバンド名は、僕の出したアイディアを佐治が採用してくれたのだ。とても嬉しかったが

 

実はとても下品な名前なのだ。意味は「精子の炭酸割りドリンク」だ。

 

佐治は素晴らしい歌を、たくさんたくさん書いた。天才的なソングライターという彼の資質が開花した。

 

 

シンガーとしても素晴らしかった。あのしゃがれ声と独特のリズミックな歌い方。

 

高校を卒業しても、バンドは続いた。バンド名は「ランブルフィッシュ」に変わった。

 

 

そして突然、岩佐が 死んだ。1988年の6月のこと。

 

 

 

 

交通事故だった。

 

 

 

残された我々は必然的に、より精神的に近しくなっていった。長い長い時間をかけて。

 

 

 

 

 

そしてバンド活動を中心にバイトなどしながら我々は生きて、様々な出会いやたくさんのライヴを通じて、

 

本当に多くのことを体験した。

 

旅、酒、恋愛、音楽、そして音楽。

 

目が回りそうなくらいだった。

 

でも季節は廻り・・・・・・・・・いつしか「ランブルフィッシュ」は解散した。

 

 

それでも僕は新しいメンバーを見つけて新しいバンドを組み、大阪で音楽活動を続けた。

 

 

佐治も、新しいバンドを組んで、音楽を続けていた。

 

 

 

 

 

でも2002年に、佐治の肺に腫瘍が発見された。

 

 

 

癌だった。

 

 

闘病の日々が始まる。

 

 

2005年、そして2007年には「ランブルフィッシュ」を再結成して、ファンダンゴのステージに佐治は、立った。

 

 

2007年6月のライヴの後、何度目かの入院をした佐治は僕に「オマエは見舞いとか、来るな」と言った。

 

 

オマエには弱ったところを見せたくないのだ、と。

 

 

 

僕はそう言われて実はものすごーーーーーーく傷ついたのだが、

 

今となっては、そう思ってくれて良かった、と思っている。

 

 

「オマエには」ってところがなかなか、恋愛的でいいじゃないか。

 

 

見舞いには、やっぱ行って、「帰れ」とか言われたけど。

 

 

 

弱ってても しっかり、かっこよかった。

 

 

 

2007年の9月27日に、彼はこの世を去った。

 

 

 

ランブルフィッシュのもう一人のギタリスト、庄司が電話で知らせてくれた。

 

 

 

出会ったのが1982年だから、25年も付き合ったことになる。

 

 

 

とても濃い25年だった。

 

 

 

 

彼がいなくなって13年たつが、

 

 

日常的に夢に見るし、「濃い」のはまだ

 

 

 

続いている。

 

 

いろんなことが・・・・・・彼のおかげだ。

 

 

 

 

佐治くん、どうもありがとう。

 

 

 

 

お墓には行かないけど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

気持ちはいつも共にあるので。

 

 

 

 

 

 

 

写真は、佐治が晩年に描いた絵のコピー。

 

 

 

パソコンの前に貼ってあって、僕は毎日見ている。

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言い足りなかったこと、後で思い出したこと。

2020-09-25 21:18:57 | Weblog

昨夜は、もと横浜ガンスリンガーズのギタリストの聖さんと、昔からの”残党”仲間のJUNKO嬢と、俺と、三人で、

ツイッターをまるでチャットのように使い、「疑似オンライン飲み会」みたいなのをしていたのだが。

正直・・・・・・・・楽しかった。

 

さて、

そこでですね、

言い足りなかったこと・・・・・というか、後で思い出したことがあるので、ブログ本文で書いてみる。

 

あの、ガンスリンガーズと、我々ランブルフィッシュが初対面・・・というか初対バンしたのは確か、

横浜7thアヴェニューという今でも健在のライヴハウスだった。1990年くらいかな。1989年かも。

(後で判明した。実際は1991年だった・・・・。)

で、当時、リハ前の楽屋で、例の不穏な事件が起こりかけて・・・・・俺が止めたのだ。

後年(2003年くらいか?)、家に泊めてもらったときムラカミヒロアキは、僕がこの思い出話をしたとき、ニヤッと暗く笑って、

「オマエがあのとき、割って入らなかったら、俺は佐治に殴りかかるとこやった」と言った。

ひぃぃいい。止めて良かった。

 

それはさておき。

 

で、そのときの7THアヴェニューでは俺たちはガンスリのライヴを見て

うわ、派手でかっこいいバンド!と思ったものの その日は何故か接点はなくて、

そのすぐ後、東京・渋谷のラ・ママで対バンになって、そのときに意気投合してすごく親しくなったのだった・・・・と思う。

 

でね。

 

そのラ・ママでやったライヴの打ち上げ(すごい盛り上がった)の席にガンスリの客も何人かいて、

そのうちのひとりが、見た目は普通の男なのだけれど、何の照れもなく普通に女言葉で話すヤツだった。

面白くて、話しかけて聞いてみたら、彼はゲイで、女には興味ない、と言う。恋愛はオトコとする、と。

 

意外とそういうひとって周囲にいなくて、だから新鮮で、すごく興味深かったのだ僕としては。

 

わりと中性的な男。それが、「あたしは・・・・なのよ。」みたいに普通に女言葉で話す。なんか、かっこよかったのだ。

 

その後、その彼と会うことはなかったのだけれど、

これは、あたしが時々「道子」と化すことになった原点なのですよ。

いや、俺はあくまで性的には(面白みのない)ストレートではあるのだけれど、それでも。

 

遊びでやるだけだし、ほんの稀にしか自分の中の「道子」は、顔を出さないけれども、それでも、

 

そうなのです。

 

 

それと、もうひとつ。

 

さっき言った、7thアヴェニューでの不穏な事件って、俺、実は、誰もそんなことおぼえてないだろ?

くらいに思っていたのだ。その場に誰がいたのかも確かではないし、ほんの短い出来事だったから。

だから後年のムラカミヒロアキの発言(殴りかかるとこだった)を聞いて、あ、そうだったんだ!!!!ってすごいびっくりしたんだよ。

 

それでさ、

あのひと(ムラカミヒロアキ)、妙に俺に絡んできてくれた、というか・・・・・・・・・

変な意味じゃなく、可愛がってくれたんだよ。心を開いてくれたし。とてもとても親しくなれた気がしている。

 

もしかして、それって、そのきっかけって、あのときの、初対面の、7thアヴェニューの楽屋での事件があったからなのかな???

 

俺があの不穏な空気の中に割って入った(怖かったよそりゃ。)ことを、評価してくれてたのかな???????

 

そうなのかな。もう、確かめられないけど。

 

聖さんはその事件自体覚えてないっていうか、

 

ガンスリが喧嘩沙汰多すぎてそんなの普通だったみたいで、

 

 

はははは。

 

 

今となっては、その事件の張本人だった佐治も、もうこの世にいないし、

 

 

村上くんもいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あさっては佐治の命日だよ。

 

 

 

 

 

 

写真は、佐治の好きだった、そして岩佐の好きだった、ザ・クラッシュのポール・シムノン。

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、あの時の、あのゲイの彼は、今頃どうしてるんだろう?????

 

元気だったらいいな。

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袋小路のオブセッション

2020-09-23 20:55:14 | Weblog

行き止まりの果ての袋小路で僕はじっとしてる。

動こうにも動けない・・・とか言って動く気になりゃ動けるような気もするんだが。

 

若かったころからずーーーーーーっとやってきたことがやれずにいて、

それでも息はしている。すう、はあ、すう。

 

それで結局何なんだ?という気もしている。

そこにどんなイミがあったのか?と。

 

アソんでたワケではないのだ、本人としては。

あれは・・・・・アソビではなかった。

じゃあ、カネになったのか?と言えば、ほとんど・・・・ならなかった。

 

その頃の友達で、それで喰ってるヤツも何人かいるけど。

 

でも本当に、何だったのかなーーーーーーーーと思ってしまう。

この後、永久にできなくなったとしても、

それはそれで生きてゆくことは出来る。

 

ふむ。

 

でもやっぱ、「楽しかった」のかな?

とも思うが、同じくらい「苦しかった」気もする。

うまくいくことばかりではないし、

理解してくれるひとばかりではないからだ。当たり前か。

 

どちらかというと「苦しみ」のほうを求めていた気も・・・・・いや、俺はマゾじゃないんだってば。

 

 

前みたいな感じで始めてる人たちもいて(それはそれでいいのだ)、それを外から眺めてみると、

何か、不思議。

 

中と外では全然違って見えるのだ。

 

 

 

 

 

 

結局は「オブセッション」なのだ、という結論が今、降りてきた。

 

 

ああ、もちろん「僕」にとっては、という話だけど。

 

「オブセッション」でわかりにくければ、「憑き物」だ。

 

 

「憑き物」なんていうと妖怪みたいだからカタカナで言う。

 

「オブセッション」だ。

 

 

で、もし本当にそうなのだとしたら、

 

「それ」に、こだわらなくなれたら、それが一番幸せなのかもしれない。

 

それ「なし」でも、平気な顔して生きられるほうが、

 

人間として、自然なのかもしれない。

 

 

 

 

 

それでも、

 

と僕は思う。

 

 

もしかして本当にこのまま、終わってしまうのか???????????????????????

 

 

 

と。

 

 

 

 

写真は 去年の夏の、十三ファンダンゴのバックステージパス。

 

 

 

 

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「ねばならない」的世界からの脱却。

2020-09-17 21:37:11 | Weblog

思うに 我々は「~ねばならない」という世界で生きている。

 

喰わねば死ぬし、息をせねば死ぬ。

朝が来れば目を覚まさねばならない。

 

それなりの年齢になればガッコへも行かねばならない。

そしてベンキョーする、というか、せねばならない。

そして小、中、高、大学まで行く人もいる。

ガッコが終われば、どういう形であれ、社会に出ねばならない。

家にずっといる、というひとだって、それはそれで社会の中の個人の在り方だ。

 

そういう、「ねばならない」の世界から脱却する方法は・・・・・なくはない。

 

登校拒否すればガッコには行かずに済むし、

ホームレス的に全力で逃亡すれば「社会」から抜け出すことが出来る。

(自殺は、この際、選択肢から外す。)

しかしまあ、それにはそれ相応の覚悟が要るし、

一度抜け出したら、戻ることは相当、難しい。

 

 

しかし、この「ねばならない」というのはすごく不毛な考え方であるのだ。

 

能動的に生きることさえ出来れば、

そして人生に「意味」さえ、見いだせれば

 

我々は、「ねばならない」などと考えている場合ではなくなる。

「やりたい」、「やれる」、に変わるのだ。

 

 

僕は子供のは頃ずっと、「ねばならない」の世界で生きてきた。

他にどうしようもなかったのだが、不毛だった。

 

でも、ある時からオンガクと友達を手掛かりに、そういう世界から抜け出せる道があることを知った。

 

そして悪戦苦闘の末、抜け出した。

 

今では、ほぼ完全に「ねばならない」的世界から脱却した、という実感があるのだが、

それでも「ねばならない」の呪いは、蟻地獄の底からどす黒い触手を伸ばして来て、

僕の足をひしっ と掴んでくる時がある。

ほんの稀に・・・・・なのだが。

 

「ねばならない」で生きてるんじゃないんだ俺はもう。

「やりたいからやる」という能動的で希望的な世界にいるんだよ。

 

と、いくら言い聞かせてもどす黒いそいつは、

触覚をひくひくと動かして

僕の心の片隅に根強く残っている「マイナスの感情」の匂いを嗅ぎつけようとする。

 

マイナスとプラスは表裏一体で、

それはつまり、「本体は同じもの」ということなのかもしれなかった。

 

 

「やりたいからやるんだ」と「せねばならない」も結局は、

 

同一人物なのかもしれない。

 

でも表にしろ、裏にしろ、

どっちにしたって「やる」ことには変わりないワケで、

 

それだったら僕は「能動的」に行きたい。

 

 

 

 

「意味」は、そこにこそ・・・・・・・・・存在する、と信じる。

 

 

そんな風なことを今日、考えてたんだ。

 

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ボヤき。

2020-09-15 21:05:20 | Weblog

・・・にしてもアレよね。

アタシに一言だけ言わせてもらえりゃぁね、

どーも・・・・・・・

「最近の風潮」ってヤツが気に入らないね。

 

そりゃ、悪いのは新コロの奴が悪い。そうさ、悪いのはアイツだよ。

でもね、そのせいで何だかみんな最近、

・・・・・・・・・・・・・・・・・他人のこと汚いって思ってない?

 

いや、そりゃ汚いよ俺なんか。薄汚れてるし、風呂嫌いだし、汗でドロドロの時もあらあな。

でもな、人間なんて

っていうか生物なんてもともと、そんなもんだろ?って思うんだよな。

 

まあいいけどさ。

 

それにしても・・・・・菌。

でも菌って実は、大事なヤツだったりもするんだぜ。

 

細菌って奴の働きがなけりゃ、納豆も糸引かねえ、漬物は漬からねえ、酒だって出来ねえ。

それどころか、

喰ったものの消化すら出来ねえよ、腸内細菌抜きでは。

人間様だけじゃねえ、牛も馬もそうよ。

 

醗酵も腐敗も全部細菌様のおかげだし・・・・・・・・・

いや、駄目なのは悪玉菌だよ、黴菌だよ、強毒ウィルスだよ。

 

でもさ、

菌という菌を残らず殺そうとしたって無駄だし、

そーゆー姿勢って何だか不自然だし、

 

要するにもっとだな、大らかに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

って言っても

新コロの野郎がいるんだよな。

 

あいつさえ、しゃしゃり出て来さえしなかったら

こんなことも堂々と言えたんだがな。

「もっと大らかでいいじゃねえかよ」なんてな。

 

何だか、しち面倒臭い世の中になっちまったぜ。

あっちもこっちも「このご時世で」なんて言いやがって聞き飽きたんだよその台詞。

この際だから「辞世の句」でも読みやがれってんだまったく。

 

ああもう、てんでお話にならねえ。

ボヤいてても、何処にも辿り着かねえ。

 

どうなったら「終わる」んだ?

誰かヘルメットかぶった奴が「ドッキリカメラ」っていうプラカード持って登場してくるのか?

 

それとも俺達のこの人生自体が壮大な

「ドッキリ」だったりする?

 

 

 

暗転

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君が歌ってた頃

2020-09-13 17:55:04 | Weblog

 

「歌う」という行為は・・・・誰でもするもので、

そんなに大したことではない、とも言えるし、

けっこう特別なことだ、とも言える。

 

単に好みの問題なのだが僕は、

「自分で作った歌」を歌う人が好きだな。

 

それだって言ってみれば誰にでも出来ることだし、

・・・ある種の「自意識」のハードルを越えさえすれば。

 

例えばシンフォニーを作曲するのはきっと恐ろしく難しくて、

我々みたいなフツーの人には無理っぽいのだけれど、

 

ラジオで流れてるようなポップソングなら、ほとんど誰にでも作れる。フォークソングとか。

 

3コードでロックンロールも簡単に作れる。

 

「良い」「悪い」の問題は、とりあえず置いといて。

 

音楽理論なんか知らなくても楽譜なんか書けなくても

 

我々は幼いころから耳にしてきたそれぞれの「音楽」を無意識に吸収している。

 

そして「ギター」なんていう楽器を教則本なんかで独学で弾こうと試みて、

 

「コード」を覚えようとする時点で我々は「和音理論」というものに触れる。

 

要は我々は、時代的に、とても恵まれた環境にいるのだ。

 

これが明治時代とかで、ギターもない、市民権もない、投票権もない、ラジオもない、職業選択の自由もない、

ライヴハウスも、もちろんない・・なんて環境であったなら、

 

「自作の歌」なんて夢のまた夢だったと思う。

 

 

三味線とかを使う純粋な「邦楽」も、・・もちろん悪くはないのだが、

 

伝統に縛られすぎてるし、「自由」がない・・・・と思ってしまう。

 

当然だが 邦楽には「コード」って存在しないし。

 

ギターにおける「コード」の存在がどれほど、近代の、世界中の若者に

 

「音楽的自由」を与えてきたか。

 

 

 

結果、我々は自作の歌を歌うことが出来る。

 

自作の歌を作れれば、それに強力なリズムを加えてくれたり、

 

ベースラインでグルーヴさせてくれたり、

 

超かっこいいギターソロを乗せてくれたりしてくれるメンバーとも出会える。

 

そして我々は一体化し、「一つのバンド」となりえる。

 

 

もっと運が良ければそのバンドの楽曲を気に入って、ライヴハウスに聴きに来てくれる人だって出現する。

 

そしてそれは、実現すら、したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

君が歌ってた頃のことを僕はよく、思い出すんだぜ。

 

それはそれは、素敵な光景だった。

 

そんな

 

「ライヴハウス文化」。

 

 

僕はそれを、

 

 

心から愛してやまないのです。

 

 

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2001年9月をめぐる、価値観の違いについて。

2020-09-12 08:42:20 | Weblog

昨日は2001年9月11日。

アメリカ・ニューヨークのWTCビルとペンタゴンに、

テロリストにハイジャックされた旅客機が突っ込んだ、

「NY同時多発テロ事件」の忌むべき記念日である。

 

あの時の僕は

そのちょっと前までやっていた仕事をゴタゴタで辞めて、

次の仕事を探している最中だった。

それで、とある大手企業の傘下の会社の店舗の面接を終えて、返事待ちだった。

結局その面接には受かってその後、その会社の契約社員になって10年ちょっと働くことになるのだが、

まあ、それは後の話。

2001年9月11日は だから 朝からテレビで繰り返し繰り返し流される旅客機突入の映像を、

手に汗握りながらずっと見ていた。戦慄しつつ。

僕は筋金入りのテレビ嫌いなのだが、この時だけはずっとテレビを見ていた。何しろ、仕事もないし、

アメリカは日本の友好国だから、テロ攻撃がこちらに及ばないという保証はない、と考えて真剣に警戒もしていた。

その心配は杞憂に終わったが。

さて、そのようにテロ事件のことばかり考えて2,3日が過ぎていって、14日の夕方だったか、

面接を受けた会社から電話があって、「君は採用なのだけれど、母体の会社が破綻してこのあとどうなるかわからないから保留してください」

と言われた。わりに有名なスーパー系の大会社の経営破綻で、ニュースにもなったので覚えている人も、もしかしたら・・いるかもしれない。

ふーん、破綻か、まあいいや、と思っていたのだが

結局は何日か後にちゃんと採用してくれた。バイトではあるが、時計の販売担当である。

経営破綻の件は?と思うかもしれないが、会社更生法がどうとか・・・・・で、よくわからないけど、

とりあえずは営業は持続できたみたい。

 

そして日々は過ぎて、僕は時計販売の成績が良かったせいで、バイトから契約社員に抜擢された。

 

傘下だった会社は、母体の会社に吸収され、母体の会社はその後、もっと大きな会社に吸収合併された。

 

それでそのまま、その会社の様々な店舗を時計担当として渡り歩くのだが、

 

ある時・・いつだったかな、2009年くらいだったかな、

本社の、僕より10歳くらい上の社員のオジサンと会話していて、その時が9月だったので、

当たり障りのない日常会話として、「そういえば2001年9月はスゴイことが起こりましたねぇ」と言ってみた。

「おお、あれはすごかった。世界がひっくり返った。大騒ぎだった」とオジサン。

うん、そりゃそうだろう。

「俺はあれ、テレビのニュースで知ったんだ」とも。

いや・・・そりゃテレビかラジオのニュースだろうよ、と思ったのだが

会話が進むうちに少しずつ、話がズレていく。どうやら、違う話をしている。

それで結局判明したのだが、僕は「NYの同時多発テロ事件」の事のつもりで言ったのだけれど、

彼は「自身の会社の経営破綻」のことを言っていたのだ。

 

後で確認してみたら、テロ事件は2001年9月11日、

その会社の経営破綻が報じられたのは2001年9月14日だった。(とても近いが、直接の関係はないはず。)

 

なるほど、彼の世界は「ひっくり返った」のね。

それで・・・内部情報でなくて「テレビのニュース」でそのことを知ったことに彼はちょっと怒っていたのだ。

 

あの・・・「NYのテロ事件は?」と念のために聞いてみたら

「あんなのワシらに関係ない」と言ったよ彼は。

 

この価値観の違いはスゴイなぁ・・・・と驚愕しつつ感心もした。

 

彼はいわゆる「新卒」でその会社に就職して、その会社だけで何十年も働いてきた。

そういう人にとっては自分の会社の経営破綻は、人生の一番の大事だったのだろう。そりゃそうか。

ほぼ同じ時に起こった「世界史に残る大事件」も、それに比べたら「関係ない」のだ。

 

念のために言うが、僕は彼を馬鹿にしているのではない。

でも、僕がもし彼の立場、というか境遇だったら・・・・「NY同時多発テロ事件」なんか自分たちには関係ない、

と思ったのだろうか。

いや・・・・・・・・・・・・。

 

僕は新卒で就職・・・などというマトモなことはせず、

専門学校に行くのを途中で止めて、繁華街の古着屋のバイトや、他の様々な仕事を「フリーター」みたいにして

転々としながらロックバンドを中心に生活してきたような人間だから、

彼の気持ちが皆目、わからない。

僕にとっては どこの会社が経営破綻したって、また別の仕事を探すだけだし。

 

 

しかしまあ、新卒で大会社に就職したような人は、仕事に関する条件も報酬も全然違うんだろうけどさ。

 

それにしても。

 

「2001年9月」っていうキーワードで話を振って、

「NY同時多発事件」が出てこない人間って、世界的にも珍しいんじゃないか?って気がするけど。

 

 

本社のオジサン達にはあまり(全然)興味がなかったから、他の人とはあまり会話したりしてないのだけれど

もしかして・・・・・

あの会社のあの「経営破綻」を経験した社員の人たちって、

みんな、この件(2001年9月のこと)に関して、こんな感じなのかな?

 

 

まあ、友達でもないし他人のことだからどうでもいいと言えばどうでもいいんだけど。

 

 

 

 

 

 

僕としては

 

2001年9月の犠牲者の方々を悼みます。

 

 

 

 

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転機、転機、転機。

2020-09-09 21:14:17 | Weblog

今日、トラックで東海地方のCBCラジオを聞いていたら、

「今日で東海豪雨から20年です」と言っていた。

 

20年か・・・・・・・って俺、申し訳ないけどその東海豪雨って知らなかったんだけど、

その頃って何してたんだっけ俺?

20年前・・・2000年だ。

 

1999年12月のファンダンゴでのワンマンライヴを最後に「ばるぼら」が動かなくなって、

その次の年。

 

「ばるぼら」をもう演る気がないのだから、と長居を出て、天王寺の隣の美章園に引っ越した年。

もうハードな演奏旅行とか長期のレコーディングとかもしなくていいのだから、

喰っていくための仕事も、のんびり、しかも長くやれる職種を探そう・・・とか思い始めて、

実際そうし始めてた時。

 

今考えたらこれって、大きな「転機」だったのだ。

完全にバンド中心の生活、から離れようとしていた。「もうやり切った」という思いも、あった。

 

音楽も、自分で歌うための、自分の楽曲を意識して作り始めていた。

自分がヴォーカル/ギターのバンドを作ろうと、メンバーのあたりをつけていた。

 

 

そして、考えてみたらその前の「転機」は、その、8年前だった。

 

「ランブルフィッシュ」が解散したのが1992年だったのだ。

 

高校時代の仲間と組んだバンド「ランブルフィッシュ」を、存分にやるために大阪へ来たのは1985年だった。

 

1986年の夏には佐治と二人で行った合宿免許の旅で「横浜サーベルタイガー」の奴らと知り合って

刺激を受けて、俺はデザイン学校をやめて、バンド中心の生活をするために、

アメリカ村の古着屋店員時代に入る。これも「転機」。

 

その年、我々は二十歳になった。

 

その2年後の1988年6月・・・・「ランブルフィッシュ」の創立メンバーでベーシストで大好きな友達だった

岩佐亘(イワサトオル)が交通事故で急死。

あってはいけないことだった。本当に酷い事件だった。このことで、世界のすべてが変わってしまった。

 

 

 

 

同じ年の11月、ズタボロで捨て鉢のランブルフィッシュは、

まだ出来て一年だった新しいライヴハウス、十三ファンダンゴに初出演する。

そして多くの観客に受け入れられ始める。どう考えてもこれも「転機」だ。

 

そうだ、もうひとつあった。

 

ランブルフィッシュ解散後の1993年、

俺はバイクで単独の事故を起こして瀕死の状態になってしまった。

「今夜がヤマです」と、遠くF市から親兄弟まで呼ばれたのだ。

幸運なことに、その後、後遺症もなく復活することが出来たのだが、実際、大きな出来事では、あった。

 

あの「転機」のおかげで、「ばるぼら」結成への流れができたのだ、あとで考えれば。

 

 

転機、転機、転機。

 

運命が我々を・・・いやこの場合は「俺」を、手のひらで転がすように翻弄する。

 

2007年にランブルフィッシュのヴォーカル、佐治朝吉が逝ってしまったことも、

 

今考えたら「転機」だった。

 

あのことで、我々の周りの多くのことが変わってしまったのだ。

 

俺自身は、もう大阪にいる意味がなくなった・・・・とおもって翌年、京都へ引っ越した。

 

そして新しいバンドを始めた。それが今の「ROCA’66」だ。

 

「ROCA’66」の現状に至るまでも様々な「転機」の連続だった。

 

そのことはまた、いつか書くね。

 

とりあえず近々ではラジオ「HOTEL ROCK’N ROLL」への出演が、

 

あとで考えたら、「あれが転機だったなぁ・・・・・」ということになるかもしれない、

 

と少しだけ思っている。

 

この「コロナ禍」も もちろん、世間の多くの人にとっては「転機」になることだろう。

 

俺にとっても・・・そうなのかな?

 

 

まあいいや、

 

 

とりあえずは

 

明日くらいからそろそろ、少しくらい涼しくなりそうだね。

 

 

 

待望の「初秋」が訪れてくれたら・・・・・・・・・・・・

 

 

それ以上嬉しいことって、ないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

写真は、NYのCBGB。

 

 

1998年に、「ばるぼら」で ここに出演できたことも「転機」だったかもしれない、と今は思う。

 

コメント
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