東京都知事選について言及する。

2024-06-27 19:40:38 | Weblog

政治に一切、興味がない・・・・・などということを、僕も言っていた。

若かった頃はそうだった。

ごちゃごちゃした面倒なことはエライひとたちがやってくれてるのだ、

と思っていた。だから素人が政治に口出しするのは野暮、みたいに。

でも、現実は全然、そんなんではなかった。

だいたいが、政治家をエライと思ってたなんて俺は本当に馬鹿だった。

世襲の政治家なんて、何の苦労も知らないクソ大金持ちの傲慢なボンボンでしかない。

そしてヤツラは公金からネコババする。自分達だけ、とんでもない額のお金を手にしているのだ。

ただでさえ驚異的な程の給料とボーナスと年金をもらってるのに、だ。

そしてやっている政策はすべて米国追従でしかない。

アメリカのいいなりである。ここは植民地か?占領地なのか????

あああ、腹が立つ。

ところで今回の東京都知事選のは50人くらいの人が立候補したらしいのだが、

これにはどんな裏があるというのであろう????

単純に売名行為なのだろうが、

突然出てきた人がいきなり、当選するわけないじゃないか。

東京都民でもないのに東京都知事選挙に興味を持つのはおかしい、という人もいる。

でも僕はそれ、おかしいとは思わない。

東京都政は、国政に影響を与える部分が大きいのだ。

大きな「流れ」みたいなものを東京都政はつくってる部分がある。

ちなみに、僕が住んでいた頃の東京都知事は、美濃部さんだった。

父や母や祖母や大叔母は、選挙に行って投票したのだろうか???????


わからない。次に会ったら、母に聞いてみよう。

 

しかし、今考えたら石原慎太郎都知事だった時代が長かったんだな。

あの、煮ても焼いても喰えない、頭の古い昭和ひとケタの老害ジジイ。

愚にもつかない小説を書いて賞をもらって、やたら威張っていた恥ずかしいヤツ。

 

近年では、小池百合子都知事だった時代が続いていた。

あまり目立たなかったから多くの人が気付かなかったけど、小池も相当ひどかった。

気付いてみれば、

選挙で約束したこと(公約)を、ひとつも実現していない。

議会では答弁拒否が当たり前みたいになっている。

学歴詐称問題もそうだけど、都合の悪い質問にはハナから答える気がない。

質問に答えない奴って僕は大っ嫌いで、「話し合い」の意味なんかないのだそれでは。

答弁拒否してオッケイなら、「会議」なんか何の意味もない。国会も、そうだ。

 

今回は田母神みたいな、ネトウヨの親玉みたいなのも出馬してる。

 

僕としては、当然のように、蓮舫に、東京都知事になって欲しい。

彼女が正しい とか、完璧だ とは思わない。

でも少なくとも、マトモだ。言ってることの多くに、共感も出来る。

ちゃんと「対話」も出来るし。「対話」出来れば、議論の意味ももちろん、ある。

そして

彼女は中国人ではない。日本人だ。二重国籍でもない。

 

新宿の、戸山ハイツに住んでいるお爺さん、お婆さん。

小池百合子になんか、騙されないでくださいね。

言ってることをちゃんと聴いたら、小池なんかに入れるの馬鹿みたいですよ。

 

 

政治の季節到来。

僕は出来るものなら東京に戻って、「れんほう」と書いて投票箱に入れたい。

 

 

投票棄権している多くの人よ、

例えば僕の愛する友達の一人は「在日」という立場なので、投票権すら、ない。

ひどい話。

日本で生まれて、日々、税金もがっぽり取られているのに。

 

我々ひとりひとりが政治に興味を持たなければ、

腹黒い奴らの思いのままの時代がこの後も続く。

 

 

投票率が上がれば世界は変わるのだ。

 

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怒髪天の現在を思う。

2024-06-24 21:02:56 | Weblog

怒髪天からベースのシミーが抜け・・・・それ以降、初の(たぶん)ワンマンライヴが

東京で開催されたらしくて、

ライヴレポがSNSに掲載されていた。

サポートメンバーは「アナーキー」の寺岡さんで、

レポによると

ライヴ後半で「俺はオマエがいつまでもそばにいるんだと思ってた」

という歌詞の曲が披露された、と書いてあった。

意図的にか、そうでないか、わからないのだけれど、その曲のタイトルは書いてなかった。

でも僕はその歌詞で、すぐにわかった。「青の季節」だ。

この曲は、2007年に発表されたもので、亡くなった友達のことを歌っている。

彼等の身近で、亡くなってしまった友達が何人かいるみたいなのだが、

その中の一人は、ランブルフィッシュの佐治朝吉だ。

・・・・ていうか直接的にこれは佐治のことを歌っている。

「みっちゃん達と、佐治の歌」。彼はそう言った。そういう曲。

(みっちゃん、というのは不肖、この僕のことだ。)

でもこれはしかし、今現在となってはやはり、問題を起こしてバンドを去らざるを得なかった

シミーの姿が思い浮かぶ。

誰もが、彼等は「いつまでも一緒だ」と、思っていたからだ。

文学的には「別れ」は、「弱められた死」である。

もう会えないなら、一緒に居られないなら、それはそうだ。

でも、現実的に考えると・・・・・・生きてりゃいい、と思う。

だって生きてれば、何か奇跡的なことが起こって、また一緒に演れるかもしれない。

 

2007年に僕は、怒髪天がこの「青の季節」を、ライヴで演るのを見たことがある。

曲が終わった後、増子君はステージでしゃがみこんでしまって、

しばらく立ち上がらなかった。

ツライ歌なのだ。

そして、今ではまた別の意味のツラさも加わってしまったが、逆に言えば

この「青の季節」という歌の強度が、さらに上がった、と言える。

 

今後の怒髪天が、また楽しみになった。

 

 

しかし、今更ながら思うのは、

シミーが抜けざるを得なくなってしまったとは言え、

不動の三人・・・増子くん、ギターの友康、ドラム坂さん。

あの頃、1980年代後半、我々が初めて出会った頃にバリバリ活躍してたバンドは、

今ではその、ほとんどが存在しない。

いちいち名前を挙げるまでもないが・・・・・・・・・・・・・・

佐治と僕等のやっていた ランブルフィッシュも、もちろん、ない。

そう考えると僕は時々、彼等(怒髪天)が、羨ましく思えたりもする。

でも逆に、

ものすごい重荷を、彼らは背負ってるのかもしれない、と思い直したりもする。

でも

重荷、というものは誰でもが・・・生きてきた分だけ背負ってるものなのかもしれない。

そう思うと、彼等も、我々も、

一緒なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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楽曲は奇蹟

2024-06-20 20:07:35 | Weblog

楽曲は、

現実としての・・・というか物質としての「形」を持たない。

音楽ってだから、とても不思議に思える。

あ、もちろん音源(CDとか)や、楽譜とかの形で

物として存在する場合もあるけどそれはまた別次元の話。

それは、音楽そのものではない。

楽曲というものはひとつの、「仮定」であるし、それでしかない、と思うのだ。

ひとつのメロディの仮定、言葉の仮定。コード進行の仮定。

それが上手くいけば、ある種の感慨を、人の心から引き出す。

 

 

君に、以前に言ったことがあったかどうか定かではないのだけれど、

僕にとっての「作曲」という行為は

コード進行に対するメロディの独創的なアイディアを基調として

そこに「言葉」を上手く乗せられたらそこで「歌」になることがあって

(「言葉」は、アイディアであり、思想ですらある)、

それは稀に上手く行くことがあって、

上手くいったらそれは一種の奇蹟なのでそれはそれは嬉しくて、

多くの人に聴いて欲しい、などという大それたことをついつい、考えてしまう。

 

そんな風にして出来たいくつもの歌が、

まるで奇蹟のコレクションみたいに、いくつもいくつもあります。

それが我々

ROCA’66のレパートリーです。

中にはメンバーと共作した「歌」も、いくつか出来てきてます。

友達(メンバー)と歌を共作するのは「心」をシェアしてるみたいな感じで、一種、切ない。

でも楽しい。

 

そんな楽曲を、聞いて欲しいデス。

来月、7月13日、土曜日

大阪・梅田の、「ハードレイン」というライヴハウスに

ROCA’66が出演します。

 

「歌」は、アレンジメントという素晴らしいロケット・ブースターによって

「楽曲」と化します。

 

 

ドラムスと、ベースギターと、エレキギターは時々、奇蹟を起こすのです。

 

 

毎回毎回、起こるものではない・・・・のかもしれないけど

僕等はいつでも

「奇蹟」の訪れを、待ち望んでいます。

 

 

 

そのために生きてる、と言っても過言ではない・・・・・・・・かもしれない。

 

 

華厳の滝(最後は駄洒落だった)。

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P.K.ディックの悪夢的世界と僕の明晰夢、そして来月のライヴ。

2024-06-14 18:56:38 | Weblog

何から話せばいいのか。

えーとね、俺、P.K.ディックの「火星のタイムスリップ」はとっくに読んだ、と

思い込んでたんだけどその実、読んでなかったのだった。

今回新装版を手に入れて、初めて読んだ。すごかった。

えーとその前にこの、おでこに「冷えピタシート」を貼った哀れな姿のこと(見えないだろうけどさ)。

何と何とあのもはや旧聞に属する(と思っていた)

コービット19に、感染してしまった。参った参ったマイルズデイヴィス。

・・・・・前回、エレキギターのことをメカゴジラ、などと安易に例えたバチだろうか。

いや、どうも僕にはヴイルスって、もしも目に見えたら

ピカピカのそれこそ、微小な微小なメカゴジラみたいな姿をしてるんじゃないか?などと昔、

想像していたから。

しかしその症状はキツイ。熱出るし、頭痛いし・・・・咳出るし(そりゃ出るか)。

それで偶然、この前の日曜日(発症前)に近所の巨大ブックオフで、ディックの著作を

2冊も発見して狂喜して買い込んでいた。

しかもそのうちの一冊「火星のタイムスリップ」は、とっくに読んだ・・・と

思い込んでいた。

発症したのは火曜日で、初めの二日ほどは本も読めない有様だった。

でも三日目くらいから徐々に読書欲が息を吹き返して来て、

ほぼほぼ三日かけて読み切った。ディックなので御多分に漏れず悪夢のような世界観で、

そんな小説を発熱、頭痛、という悪夢の中で読み通せたことはなかなか、

貴重な体験だった。悪夢の二乗である。

しかし、これ傑作だ。しかも面白い。ディックの作品群の中でも五本の指に入るのではないか。

初めの2ページで、あ・・・・これ読んでねえやと気づき、すごく得した気分になった

何故読んだと思い込んでたんだろう??まあいいや、

この作品はそういえば村上春樹さんもだいぶ以前のエッセイで話題として取り上げていて、

電車の中で葡萄食べながら夢中で読んだそうで、

『僕の持っている「火星のタイムスリップ」は、だから、葡萄の染みがついているのです』

と書いていた。

そして、

春樹さんの初の作品「風の歌を聴け」の中に、

火星を訪れた男が時空の歪みに沿って掘られたトンネルを抜けて

そうとは知らずに遥か何億年先にタイムスリップしてしまう・・・・という短いエピソードがあった。

非常に素朴なものだが、火星のタイムスリップ、そのものではないか。

ディックの、本家の「火星のタイムスリップ」はもっともっと複雑で、でも面白すぎる作品だった。

ひぃー、俺、これを「読んだ」と思い込んでたのね。馬鹿だ。

ディックの長編作品の中には、わりと似たパターンの、救いのない悪夢・・・的な作品も多く、

はっきり言って面白くないものも、何冊か存在する。でもこれは大アタリだった。

しかし読書的な体力も相当ないので、読んでは眠り、読んでは眠り、していたら

僕自身も面白い夢を見ることが出来た。

「明晰夢」というらしいのだが、夢の中でこれ夢だ、と気づく・・・・のに、夢はまだ続く。

物事が行き詰まると、夢だからいいや、起きちゃえ!目覚めることが出来た。

それで、続きを見ようと思ってまた眠ったらちゃんと続きが見られた。

そういうことが何回も何回も、あった。

楽しい夢ばかりではなかったが、飛び切り楽しい夢もあった。

さてこの現実は夢なのだろうか?俺は本当に、

二回も、あのブービートラップ(コロナね)に引っかかってしまったのだろうか?

覚めろ!と念じたら覚めるのだろうか。

わからない。とりあえず、念じてみるのは止めとくよ。

さて、まだコーヴィッド19の影響下から抜け出し切れてない、

まだ療養中のヨレヨレの私ですが、

ちょっとだけ来月のライヴのお知らせしときます。

 

2024年、7月13日 土曜日は

我々のロックバンド

ROCA’66

が大阪・梅田のライヴハウス、「ハードレイン」に出演します。

競演は

アサオカ01,カワサキ&ブギー(AK&B)

正垣祐樹 ソロ

MONKEY  BUSINESS  EXTRA   LIGHT

 

出演順とかはまだ未定。

なかなか、心温まる出演者が決定してくれたのできっと、

いい夜になるでしょう。

アサオカ君も、ショウさんも、モンビジさんも久しぶり。嬉しい。

このメンツだと殺伐する方が難しい気がする。

 

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精製、そしてメカゴジラとしてのエレキギター。

2024-06-10 20:26:12 | Weblog

前回の日記で、「精米」ということに触れた。

玄米を精米すると白米になる。

白米はふわふわして真っ白で、美味しそうなことこの上ないがその実、

ミネラル分やビタミンなどは削られている。

玄米の方が栄養豊富なのだ。

この、「精製」ということの功罪は他の事でも出現する。

コカという植物は中南米の、現地のおっちゃんたちがシガむ、たしなむ、葉っぱである。

どうもこれは、元気が出るようだ。中毒性もない。

このコカを精製して出来たのがあの、コカインである。

これの中毒性たるや、なかなか凄絶である。

1980年代のジェイ・マキナニーの、NYを描いた傑作小説

「ブライト・ライツ・ビッグ・シティ」を読めばよくわかる。哀しくなってくる。

砂糖だってそうだ。

サトウキビをガシガシ嚙んだって、害はないハズ。

でも白糖(砂糖)は、様々な害がある。中毒性すらある。

甘い食べ物は誰だって好きなのだが、砂糖は直接的過ぎるのだ。

精製の話ではないが、チューハイだって

醸造アルコールを使って5%、7%、と度数を上げて行けばお酒だってなかなか、

強力なドラッグになる。ストロング缶とかのことを言っているのだが。

醸造アルコール、というのは自然なお酒ではない気がする。

我々は自然に回帰するべきなのだ。

と言っても

エレキギターは素敵だ。

アコースティックギターも、もちろん素敵なのだが

ゴジラがメカゴジラになった、

みたいな(たとえが古いうえに子供っぽい)エレキギターは素敵すぎる。

ああでもメカゴジラはいつもいつも、本家ゴジラに負けるよな。

そう、いつか地球上のすべての原発がメルトダウンして、

火力発電所は原油不足で停止して、

太陽光発電は「景観が壊される」という理由で廃止され、

風力発電は「鳥が突っ込んで死ぬ」という理由で廃され、

「魚類から苦情が出た」という理由で水力発電も禁止された時はきっと、

戦わずして、メカゴジラは負けるのだろう。

エレキギターにはどうしても電力が必要なのだ。

そうなったら僕も、アコースティックバンドを組もう。

メンバーは今のままだ、もちろん。俺はアコギを弾き、ハーモニカを吹き、

赤井君にもアコギを弾いてもらう。

伊藤克ちゃんには、ウッドベースを。

トビーには・・・・あ、今と同じでいいや。ドラムは、電気要らないし。

何の話だっけ?

そうそう、電気が無くても音楽は楽しい、という話だ。

あ、でも

このブログは無理ってことになるな。

むむむ。

本でも出版するか。

 

それがいいよね。

 

 

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白くて、ふわふわした食べ物は一種、究極である。

2024-06-09 00:17:59 | Weblog

まず

子どものころに読んで、トラウマ的に衝撃を受けたSF漫画の話。

そこは遠い惑星で、

住んでる人間の数は極端に少ない。地球からの移住は、上手く行かなかったみたいだ。

作物は実らず、原住の動物もいない。魚もいない。野草もない。果実もない。

農業は失敗した。どう頑張っても、何も育たなかった。

人間に喰えるものがないのだ。

人は一人、一人と死んでゆく。死んだら埋葬機械みたいなのに入れる。

そこでの、人々の食べ物は白い、ふわふわした、ご飯でもない、パンでもない、

四角い、豆腐とパンケーキの融合みたいな食物。

これは、自動調理機械から出てくる。

これが、子供の僕にはとても美味しそうに見えた。

それで、衝撃の結末は、

その白い食べ物は死んだ人の体を分解して、再構築して造ったものだった、ということが判明する。。

埋葬機械と調理機械は実は、同じものだったのだ。

 

ところで。

「白い、ふわふわした食べ物」というのは、

農耕文化普及以前の、人類の夢だったのではないだろうか?

それが実現したのが「ご飯」であり、「パン」である。

「豆腐」も、そうかもしれない。

革命以前のフランスの、マリー・アントワネットが悪名高いのは、国が飢餓状態の時に

「パンがなければパンケーキを食べればいいじゃない」と言ったとか言わなかったとか。

どちらも白い、ふわふわした食べ物だ。しかもおいしい。

だから人はお米や小麦を、必要以上に「精米」し、真っ白にする。

 

僕も精米されたお米で炊く「真っ白なご飯」が大好きだったのだが

最近、精米する以前の

「玄米」を頂いて、それを50%で(精米機で)精米して、それを炊いてみたら、

薄茶色い「ご飯」が炊きあがった。

これが美味しい。

この「茶色」の中にビタミンとかミネラルが豊富に含まれている、という

知識のせいかもしれないが、美味しい。

 

真っ白じゃなくてもいいのだ。

ふわふわでなくてもいいのだ。

 

遥か昔は、栄養学 など、カケラも、なかった。

だから江戸時代には、精米された白いご飯だけを食べて「脚気」という病にかかる人が多かったらしい。

「脚気」は、ビタミン不足が原因。船乗りとかもかかった。

つまり「精米」は、ビタミンやミネラルを削る作業なのだ。

 

 

先に話した「埋葬機械」と「調理機械」が同じものだった、という話だが

極端な話、それは真実でもある。

宇宙ステーションではおしっこの水を濾過して飲み水に使う。

地球規模で考えれば、全部そういうことなのだ。

 

 

「麺」も、白くてふわふわしている。

「小麦」と「米」は、とても良く似ている。

 

僕は子供の頃「米」も「麺」も、一体何で出来ているのか、理解していなかった。

 

それでも、白くてふわふわした食べ物は、大好きだった。

 

今でも、大好きだ。

 

 

例え、「埋葬機械」と「調理機械」が同じものだったとしても。

 

 

 

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冗談ではないのだが。

2024-06-06 20:19:24 | Weblog

もしかしたら私が、真顔で冗談を言ってるように聞こえるかもしれないが。

 

私は近年、人生において一番大事なことは

「楽しもう、とする姿勢」なのではないか?と本気で思っている。

困難を楽しむ、苦難を楽しむ、高いハードルを楽しむ、「壁」を楽しむ、

苦境を楽しむ、瀬戸際を楽しむ、ギリギリのピンチを楽しむ・・・・・・・・・・・

こればっかり言ってるとまたマゾだと思われてしまうが

そうではない。

本来楽しいはずの事だって神経質になり過ぎると楽しめないのだ。

ライヴだってそうだ。

「ちゃんと演らなきゃ」と思い過ぎると、楽しめない。

え?

「楽しむ」ことより「ちゃんと演る」ことの方が大事?

確かに、そうとも言える。

でも自分自身のためにはやはり、楽しみたいではないか。

我々は修行僧じゃないんだし、音を楽しむと書いて音楽なのだし。

それに・・・・・・ちゃんとやる事だけが人生ではない。

デロデロで滅茶苦茶で、それで「ちゃんとしてる」というケースだってあるのだ。

ジョニー・サンダースを見よ、山口富士夫を見よ、中島らもを見よ。

そして、マゾ的な楽しみだってある(いや、ない)。

どんな楽しいことでも「試練」になり得るし、逆に

どんな過酷なことでも「お楽しみ」に、なり得るのだ。

ふん、と鼻で笑いながら生きたいのだ私は。

「ちゃんと演る」ことに興味もある。そういう楽しみ方もある。

でもそういうのって、性に合わないのだ所詮。

性に合わないことは楽しめない。

出来れば、世の中で起こる出来事のすべてをわが身に取り込んで、

森羅万象すべてを楽しめるようになりたい。

「性に合わないこと」とか「苦手なこと」なんて

私には ない、と大声で公言できるほどの存在になりたいのだ。

今?

今は苦手な物事多くてね。困ったもんだよ。

でも大丈夫、

そのうちに何もかもを、ひっくり返してやるからさ。

これ冗談じゃないよ、本当だよ。

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人々は奇妙(PEOPLE ARE STRANGE)

2024-06-05 21:01:57 | Weblog

ちやほやされたり

敬遠されたり

暖かく迎え入れられたり

疎外されたり

笑われたり

急に尊敬されたり

かと思えば急に軽蔑されたり

鼻であしらわれたり

空気のように無視されたり

異常に接近されたり(3mmくらい)

おだてられたり

無意味なお世辞を言われたり

急に梯子を外されたり

待ちくたびれられたり

秘密を打ち明けられたり

ストレートに嫌われたり

さっさと逃げられたり

一目惚れされたり

騙されたり

騙されたり

歓迎されたり

傷付けられたり

偶像化されたり

貶められたり

すごいスピードで追い抜かされたり

同調されたり  同情されたり

見放されたり

過剰に期待されたり

妙に甘やかされたり

厳しく鍛えられたり

尊敬する人から対等に扱われたり

荒っぽく喧嘩を売られたり

見知らぬ人から時間を訊かれたり

旅行者にシャッターを押さされたり

甘く誘惑されたり

かと思えば からかわれたり

見事に捕まったり(警察か?異性か?)

愛されたり

叩かれたり

魂を救われたり

困らされたり

喜ばされたり

でもその喜びが ぬか喜びだったり

素手で殴られたり

靴を履いたままの足で顔面を蹴られたり(やめなさいね)

カエルみたいに踏まれたり

突然 告白されたり

 

 

人々は僕に、いろんなことを仕掛けてくるのだけれども

どんな風に反応したらいいのか

未だに

僕には 

わからないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

っていうのは嘘。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・嘘、って言ったのが嘘。

本当は、全部 本当。

 

 

 

 

どっちやねん。

  

 

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2024年の6月3日。

2024-06-03 20:28:27 | Weblog

1988年の6月3日はもう、36年も前なのだ。

あの時生まれた赤ちゃんは36歳になる。

僕は・・・というか僕と僕の同級生たちの多くは、今年で58歳になる。

早生まれの人は57歳か。

あれから36回も、夏、秋、冬、春 を超えたのだ。

しかし今さら思うのだが、

我々のこの命って、この身体のこと・・・・でもあるよな。

僕は精神生命体でもあるのだが、

その精神をつくって、支えているのは この身体でしかない。

この身体が消えたら、僕も消滅する。

あとには、ほとんどガラクタみたいな遺品が残るだけだ。

(ブログも消えずに残るかもしれない。)

そう考えると人間存在って・・・・・はかない。

墓のない人生は、はかない というコピーを考えたのは中島らもだ。

はかない、は漢字で書くと 儚い だ。

そうか、にんべんに、夢で はかない と読むのか。

しかし、いくら 儚い と言ってもニンゲンって

ウスバカゲロウよりは何万倍か長生きだけど、それでも

100年にさえ、なかなか手が届かない。

でもどれだけ長生きしたところで

我々の生きる意味や

存在意義は、わからないのだろう、としか思えない。

生きることに意味などない、という説もある。さもありなん。

出来れば、そうであって欲しい気もする。

 

昨日ネットで拾い読んだ「こう生きればよかった」みたいな話の中で、

要約すれば

「幸運がやって来たならそれを最大限に生かすことを考える、

不運がやってきたら

それによってダメージを受けないことを第一に考える。」

みたいなことを言ってる人がいた。

なるほど。

でも

後から考えてこうすればよかった、ああすればよかった、みたいなのって

本当に無意味だと思う。

僕は自慢じゃないが

幸運はアホみたいに計画性なく使い果たしてしまったし、

不運に対しては完全にノーガードで受け止めようとして、まともに喰らってしまった。

それで結局、価値のあるものは何も残らなかったけど、

鈍く、重い、痛み(みたいなもの)を、かなり長いこと引きずって歩くことになった。

 

でもそれでしかなかったし、そうするしかなかったし、

他に思いつかなかったし。

 

後悔してもしょうがないからしないのだ。

 

 

気が済んだか?と聞かれたとしたら、

どうだろう・・・・・・・・・・・・・わからない、としか

答えようがない。

 

 

 

 

 

 

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最近の○○は困ったモンじゃ。

2024-06-02 19:41:31 | Weblog

近頃の若いヤツは困ったモノだ・・・・・とは、僕は思わない。

というか、ほとんど、思ったことがない。

簡単な礼儀(挨拶とか)が出来ない奴とか、馬鹿な奴と言うのは世代に関係なく、一定数いる。

それどころかオヤジ連中より、若い世代の方が礼儀正しい場合が多い。

オヤジ連中はちょっと、自分自身を考え直した方がいい。

そりゃ「老害」とか言われるよ。

だがしかし、近年の風潮には、ちょっと待てよ、と思うことがある。

いや、いいことも多い。例えばカーナビゲーションシステムの普及は、

道に迷うという、困ったことを遠い過去のものにした(言うまでもなく、たまに迷うが)。

スタッドレスタイヤなんてのも、20年前はなかった。あれも助かる。

あと、高速道路のETCシステムは、料金所渋滞を無くした。

スマホの普及も、いいことだらけだ(こないだの天使みたいに)。

監視社会、という問題はあるにせよ。

でもどうしても、腹が立つことが二つある。

ひとつは、最近の居酒屋の、

「注文はこのQRコードをスマホで読み込んでお手持ちのスマホからお願いします」

という方式。冷たく、強制的に、上から目線で言われる。

少なくとも僕は、冷たく感じる。

居酒屋だけではなく、

目の前に人が常にいる、立ち飲み屋でもそんなこと言われることがある。

クレイジーだ、と言わざるを得ない。

言葉の通じない外国人観光客対策?なのかもしれないが・・・・・・

やはり、おかしいし、腹が立つ。

もうひとつ。

クルマを愛する人々はもう、そんなこと当然なのだろうけれども

最近のクルマは、キーがない。「キーレス」というらしい。

いや、キーがないわけではなくて、キーを車に差し込まないのだ。

キーは一応、あって、それから電波が出ていて、それが近くにあれば、

電波に反応して、スタートボタンで、クルマのエンジンが、かかる。

だから別に、そのキーが服のポケットに入っていてもいい。

・・・・・・はぁ?????と思う。

それさ、キーを差し込むか差し込まないか、っていうだけの問題じゃないか。

なんでそれだけの手間を省くのか?

まあ、盗難対策という側面はあるのかもしれないが・・・・・・

でもその電波は常に放射されているので、電池寿命は比較的に、短いらしい。

キーレスのキーの、電池が切れたら、どうしようもない。ははは。

それはともかく・・・

クルマ、というものがこの100年・・・いや、もっと長いかな?

ずっとずっと同じだった

「イグニッションにキーを差し込んで廻してエンジンをかける」

という動作を、あっさりと変えてしまったことに腹が立つのだ。

現代社会において大事な存在であるクルマの、

「基本的な操作方法」を(公的な)説明もなく変えるのは、どう考えても不親切だ。

僕の年老いた母親などは最近、そんな新しいクルマを使わざるを得ないことになって、

なかなか慣れずに困っている。そりゃそうだろう。

僕も、

この二つのことで、イラッとさせられることが最近増えた。

でも・・・・ふ、と思う。

これってもしかして俺が「時代についていけてない」のか。

すでに「老害」なのか?俺は。

しかしギターなんか100年くらい前から変わらない。

本だって・・・・電子書籍なんてものを無視するなら、

遥か昔、紀元前・・・・いや、5000年以上前から変わらない。

人と人が出会い、愛し合うのも人類発生初期段階から変わらない。

だから

サケくらい、ツマミのひとつくらい、口頭で注文させて欲しい。

でも、数歩譲って、「注文を紙に書け」と言うなら、書こう。

「手話を使って注文しろ」と言うなら、頑張って手話を覚えよう。

でもスマホで注文は・・・・・勘弁して欲しい。

 

 

もちろんその際(つまり口頭で注文する際)、常温の酒のことを「ヒヤ」とか、

お水のことを「オヒヤ」とか、

意地悪な「暗号」のような注文のしかたは、絶対しないので。

 

 

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