月と枯れ行く向日葵、二〇二〇年梅雨明け。

2020-07-31 21:43:37 | Weblog

今日、ラジオが言うには

近畿地方が梅雨明けしたと見られる、と。

とは言え

既に世界は・・・・・明日から八月である。

台風さえひとつも来なかった驚異的な二〇二〇年の七月は終わる。

でも

混迷は何一つ終わっていないし、先は全く見えぬ。

具体的に言えば 

犠牲者(感染者)は増え続け、為政者は無反省、溢れかえる情報はより錯綜の度を深める。

何を信じて良いのやら。何を目印にしたら良いのやら。

何処を目指せば良いのやら。

私はいつものごとく 徒手空拳で

要領悪くジタバタするのみ、

でも「枯れ行く美」に気付いたのだ。

・・・・エントロピー的に衰退して行く世界で、枯れて行くことは必然中の必然で、

でもそれだって必要ならば

悪いことでは在り得ない。

存在することにこそ意義は、あるのだ と私は

自己弁護気味に思う。

ともあれ、

また

気が遠くなるほどの夏が始まって、

私は「永遠」の深遠に向かって、ぎりぎりのところで突っ立っている。

「あちら」と「こちら」の間はほんの数センチだ。

いや、数ミリか。

だが

危なっかしかろうが何だろうが「こちら側」に留まっているものの定めとして

私は・・・いや我々は

動き続け、足掻き続け、そしてその結果を

受け入れ続けるのだ、これまでも、そしてこれからも。

 

友達よ。

「花の盛り」はどうやら、終わった。少し・・・ホッとした。

それにしても 

ずいぶんな恩恵を賜ったものだ我々は、「花」から。

 

そして、「花」の終焉と同時に、本物の「夏」が来る。

 

やがて訪れるであろう「秋」は、今はまだ遠すぎて

イメージすることすら出来ないでいる。

 

・・・・・・・・・・・・・・ハァ(←タメイキ)。

 

とりあえず

ひとつの山は過ぎたのだ。

 

 

永い、永い、梅雨だった。

 

 

 

 

 

写真は、月と枯れ行く向日葵、二〇二〇年梅雨明け。

 

 

 

 

 

 

 

 

さよなら、さよなら、またいつの日か(・・っていうか来年か)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マクド、ミスド、ジミペ(関西弁アクセントで。)

2020-07-26 12:07:54 | Weblog

友達のギタリスト、S神くんがSNSで

ストーンズの「山羊の頭のスープ」の、永年未発表だったアウトテイクの音源を紹介していて、

その音源は素晴らしく良かったのだけれど、

それを紹介する文章で

彼がジミーペイジのことを「ジミペ」と言ってるのが面白可笑しかった。

・・・・・「ジミペ」。威厳がなくていい・・・・というか、「カンペ」みたいだな。

 

彼はもちろん、大阪弁のネイティヴ・スピーカーなので、この「ジミペ」の発音は、

「アホか」と関西弁で言った場合の発音と同じである。・・・・・発音を文章で説明するのは実は難しいのだが、

他の例を出すなら「アメーバ」の伸ばす音を抜いて「アメバ」、の感じ・・・・これはわかりづらいな。

あ、そうそう、ハザマカンペイが「アメマ~」と言うときの発音。

「アメマ」「マクド」「ミスド」、そして「ジミペ」。真ん中の音に強調アクセントがくる感じ。

 

・・・しかしだな、これならジミヘンだって「ジミヘ」で済むじゃないか。

 

他にも色々できるぞ。

ミックジャガーは「ミクジャ」だし、、ポールマッカートニーは「ポルマ」、

(しつこいようだが全部関西弁アクセントで読んでください)

ジョージは「ジョジハ」。リンゴは・・・うまく3文字(っていうか3音節)にならないな。

・・・・「リンゴ」でいいのか。いや、いかん。

ジョン、って言う名前が英語圏は妙に多いのだが、それも呼び分けられる。

ジョンレノンは「ジョンレ」、ジョンスペは「ジョン酢」、ジョンライドンは「ジョンら」。

ジョニミッチュエルなら「ジョニミ」。

ジョニーウォーカーブラックラベルは「ジョニ黒」・・・4音節で、これはちと違う。

ポールシムノンは「ポルし」、

ジョニーロットンなら「ジョニロ」、ジョニサンは「ジョニサ」。

カートコバーンは「カト子」。ルーリードは「ルリド」。

ビリーコーガンなら「ビリ子」。

リアムギャラガーなら「リアギャ」。兄貴は「ノエギャ」。

 

 

「あんなぁ、こないだ・・・ルリドがマクドにおったんやで・・マジやで」とか。

 

 

ジャンジャックバーネルは「ジャジャバ」。

BBキングが「ビビキ」、アルバートキングなら「アルキ」。

デヴィッドボウイは「デビボ」(「出ベソ」のようで素敵)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部関西弁で。

ああ、もっともっと出てくるのだが・・・・こーゆーのはわりに、消耗かもしれない。

 

 

こんなことをいくら考えていても誰も私を褒めてくれないであろう。

 

 

 

暗転

 

 

でももうひとつだけ・・・・ジョニー・マーなら「ジョニマ」。

 

エディバンヘイレンなら「エディバ」。

 

兄貴のアレックスなら「アレバ」。

 

ハーレーダヴィッドソンなら「ハレダ」。

 

スティーヴジョブスなら「スティジョ」。

 

 

ああああ終わらない。ほとんど「呪い」のようである。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内容に言及する。

2020-07-24 12:15:55 | Weblog

村上春樹、新刊の短編小説集「一人称単数」。

読み終えて気付いたのだが、今回の作品のスタイルは、全部の短編が、

自身(作者)の体験談、のような体裁で語られている。

そんな風に直接書いてあるわけではないのだけれど、自然にそう思わせるような文体だし、

3編目の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」に至っては本文の最後が

「それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」という文章で締めくくられている。

5編目の「ヤクルト・スワローズ詩集」に関しては、

何十年も前(1981年)に、あの糸井重里と共著で出版された

「夢で会いましょう」という超短編集の中に、脱力系(苦笑するような)の野球ネタの「詩」が何篇か掲載されていて、

その「詩」の末尾に「ヤクルト・スワローズ詩集より」と書かれていたのだ。

(今回の内容とは一切重なっていないが。)

だから僕はずっと、「ヤクルト・スワローズ詩集」というのは彼一流の(三流の?)冗談だと思っていた。

架空の詩集だ、と。

でも今回の短編によると、村上春樹は1982年に、なかば自費出版と言う形で本当に、

「ヤクルト・スワローズ詩集」なるものを出しているのだ。・・・・・はぁ???????

これはしかし、現実の話なのだろうか???????

どこまでが本当のことで、どこからが創作なのだろう?

6編目の「謝肉祭(cainavai)」にしても、この主人公はどう考えても本人っぽい。

いや、全編、本人っぽい人物が語り手だ。だが、「僕(村上)」とは、一言も書かれていない。

しかし、7編目の「品川猿」に至っては、「言葉を喋る猿」、が登場するのだ。

こいつは喋るだけでなく、他人の名前を盗む。

ちなみに、この「名前を盗む猿」というのも、大昔に超短編で登場している。

地下鉄銀座線を跋扈する、「大猿」という名だった、確か。    大猿の呪い。

しかし・・・・・・全部、信用していいものかどうか、かなり悩む。

そういえば以前に村上さんは以前の、「翻訳夜話」の中でサリンジャーの「ライ麦」について、

「ホールデンは信用できない語り手」みたいなことを言っていた。

書いてあることを全部鵜呑みには出来ないのだ、と。

確かに・・・この本の何処にも「ノン・フィクション」とは書かれていない。

体裁としては完全に「小説」なのだ。だから、全部創作かもしれない。

しかし・・それにしては、前出の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」など特に、

もしも、それが創作だったとしたら、大して面白くはない。

2編目の「クリーム」にしても、それはそうだ。「スワローズ詩集」(の存在の有無)にしたって・・・・・・。

いや、もしかしたら全編、それが「フィクション」だとしたら・・・・面白くないかもしれない。

「実話」と「フィクション」の境目を、読者をからかうように書かれている気がする。

だって、この短編集の最後の作品「一人称単数」の最後のセンテンスは

とてもとても、これでもか!ってくらいに「非・現実的」な描写なのだ。これは現実ではありえない。

 

 

30年位前に出版された春樹さんの「回転木馬のデッド・ヒート」という短編集を思い出す。

それには

「ここに収められた文章は原則的に事実に即している。僕は多くの人から様々な話を聞き、

それを文章にした」

と、本の冒頭で語られていた。

そして収められた話はやはり、リアリスティックでありながら、

どこかシュールだったりする、そんなものだった。もちろん、どれもとても素敵だったのだが、

それだって、どこまでが「聞いた話」で、どこからが「創作」か、は本人にしか わかりはしない。

 

 

実は、

現実とフィクションの交わり・・ということについては、春樹さん関連で、すごく興味深い事実がある。

 

「ノルゥエイの森」は、春樹さんの実際の体験が元になっている、

という説が世間(というか研究者の間)ではあって、

その説によれば小説中の「緑」のモデルは、奥さんである。

(加えて言えば「直子」は実在した人物で、「1973年のピンボール」の「直子」と同一人物である。)

春樹さん本人はそれを、かたくなに否定している。しかし・・・・・

小説中で「緑」が登場してくる場面は、大学の講義室で前の席の女の子が振り向いて「僕」に、

「ねえ、帝国主義って一体何のこと?」と尋ねて来る、というものだが、

「ノルゥエイの森」が書かれる以前の、イラストレーターの安西水丸との

雑談のような軽い対談で、奥さんと初めて出会ったときのエピソードとして、

そのことがそのままさらっと、語られているのだ。「ねえ、帝国主義って一体何のこと?」という

台詞もそのままに。

 

 

「現実」と「フィクション」の交錯。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・面白過ぎる。

 

 

付記  

後になって気付いた。

この短編集で春樹さんは「合わせ技」を使っているのだ、きっと。

「ノルゥエイの森」で、現実の出来事と

架空の「起こっていない出来事」を共存させて使ったように。

 

つまり、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」とか「ヤクルト・スワローズ詩集」とか、

ほとんどのマテリアルは恐らく「実話」なのだが・・・・そんな中にしれっと「品川猿」みたいな

突拍子もないフィクションを混ぜて入れて来てるのだ、多分。

その「合わせ技」で、あんな、「猿が喋る」なんて話もうっかり信じてしまいそうになる。

春樹さんがそれを見てほくそ笑んでいる・・・・ような気すら、 する。

 

 

写真は「中ジャケ」のような、本の中扉。

 

挿画 豊田徹也  というクレジットがある。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹 新刊 短編集「一人称単数」。

2020-07-23 20:31:00 | Weblog

今日買ってきた。

 

 

一軒目に行った商店街の中の小さな本屋で店頭にないので尋ねてみたら、

店主(であろう)お爺さんが、「ああ、あれね・・・・いや・・・・・」と言葉を濁した。

人気作品なので売り切れですよ、という意味なのであろう。

(ちゃんと日本語で言えよなw。)

 

二件目の本屋で若い店員に尋ねてみたら、彼はパソコンに向かった。

検索してくれてる間に店内をもう一度眺め回してみたら棚に、一冊だけ残っているのを発見した。

あったからいいですよ、と言ってその一冊を購入した。(彼は知らないのだな。まあいいけど。)

 

村上春樹の新刊、「一人称単数」である。

 

 

僕が初めて村上春樹の小説に触れたのは1984年のことだったはずだ。(83年かな?)僕は高校二年生だった。

雑誌「宝島」に載った、作者のロング・インタヴューを読んだ記憶がある。

そしてその「宝島」は、今でも持っている。

それは彼にとって三作目の長編小説である「羊をめぐる冒険」が刊行された直後だった。

 

強い興味を持って、当時住んでいた奈良の学生寮からいちばん近い大き目の本屋で、

いちばん初めから読んでみよう、と思い

一作目の「風の歌を聴け」を買った。そして当然、夢中になって二作目、三作目を買って

取り憑かれた様に読んだ。

 

不思議なのは・・・・・・・・・・・後年になってから、

僕の大事な友達二人がそれぞれ別々に、

「オマエに村上春樹を教えたのはオレの姉貴だ」と、僕に言ったことだ。

一人は寮で三年間、兄弟のように一緒に暮らした西妻清治で、確かに、彼には魅力的な姉がいた(今も健在だと思う)。

もう一人は、この日記に良く出てくる、ランブルフィッシュのヴォーカルだった佐治朝吉で、

彼にも魅力的な姉がいた(今も健在なのだ、一昨年にお会いした)のだ。

 

そしてその姉二人ともが、当時から村上春樹の読者であった、という。

 

僕は自分で発見したつもりになっていたのだが、そうではなかったみたいだ。

記憶って、あやふやなものだ。

 

大事な友達の姉(シスター)から教えてもらっていたのだとしたら、それはそれで幸せなことだ。

 

でも二人してそんなこと言うなんてね?なんか不思議。多分両方本当なのだ。

 

それはともかく、

それ以来僕は彼の新刊が出るたびに、本屋で新刊本を買うようになった。

ものすごく強い影響を受けた。

一時は「ファン」というよりほとんど「信奉者」であった。

 

僕が19歳だった頃に発表された「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は

当時付き合っていた女の子が誕生日にプレゼントしてくれた。出たのが9月だったのかな。

 

「世界の終わりと・・・」の次の作品、「ノルゥエイの森」が大ヒットしてしまって、

村上春樹は超人気作家になってしまった。

それ以前は、「本好き」以外は彼の名前すら知らなかったはずだ。

新刊が出ると本屋の店頭に平積みになる。

時には、売り切れたりする。それはそれでいいのだけれど

近年はノーベル賞候補になっているとかいないとかで、大騒ぎになっていて、

別にそれもいいのだけれど、(そういえば近年は何と、ラジオDJまでやってますね。・・・・多才だ。)

 

僕にとっては

今でも律儀に新刊が出る度に買っている、肝心の彼の「作品」が、

1985年の「世界の終わり・・・」を最高峰として、

なかなか初期作品のように「心震える」ものが出ないことが少しだけ残念だった。

エッセイとか旅行記とか、自己の人生を振りかえる「自叙伝的」な作品とか、

音楽についてマニアックに語るもの、などは相変わらず素晴らしい、最高の最高なのだけれど

彼の本領である「小説作品」に、かつての輝きがないような気がしていた、生意気な意見だが。

 

しかーし!

 

今回の短編集は凄かった。

 

圧倒的に凄かった。

 

もう、今ここで安易に感想を語れないくらい、密度が濃いし、

 

僕みたいな長年の読者にとっても、「親密」な感じが濃厚に漂っている。

 

しかも切ない。

 

あまりにも切ないので、あと2編残っているのに読むのを中断してしまった。

 

読み終わってしまうのが勿体無いくて。

 

一編読み終わるたびに、むむむむーーーーーーーーーーとしばらく唸ってしまう。

 

こんな読書体験は久しぶりだ。

 

村上春樹はやっぱ、すごい。

 

 

素晴らしく切なくて、奇蹟的だ。

 

 

 

あああ。

 

 

ふと我にかえると、さっきまでとは風景が違って見えるのだ。

世界は深遠で、眩暈がするほどスバラシイ。

 

 

 

こんな体験が出来るから僕はやっぱり「本」が好きだ。

 

 

 

 

嬉しい。

 

 

まだ読んでない、

この本の最後に掲載されている表題作「一人称単数」では、どんなことが語られるのだろう?

 

 

タイトルからして、興味深過ぎる。

 

 

 

むむむむ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百花繚乱、もしくは SUNFLOWER BLOSSAM

2020-07-19 14:37:07 | Weblog

百花繚乱 というのは ちと言い過ぎで、

でも、あまりにも多くの花が咲いてくれた。

敢えて、咲いた花の数は、数えないことにする。この際、正確な数字に何の意味があるだろう。

恐らくは今が今年の花の最盛期である。

まだ咲いてない蕾もいくつかあるが。

今咲いている多くの花は 来週中には萎れ始めるであろう。でもそれはそれでいいのだ。

このコロナ禍の世界にあって、バンドが動けない私に

最大の楽しみを与えてくれたひまわり達に、心からの感謝を捧げるものである。

このあとには来年のための種を採取する、という楽しみが残っている。

もう この花壇の前で一輪一輪、一葉一葉(一株一株?)を眺めながら、何時間も過ごせそうな感じ。

ゴザでもひいて座り込んでそこでずっと見ていたい。

しかし道端なのでそういうわけにも行かない。通行の邪魔になるし、ちょっと馬鹿みたいなのだ。

自分ちの庭とかだったらずっーとそこにいて、日がな一日眺めたりするんだがなあ。

・・・・・・・・ヒマか俺は。

いや全然ヒマなんかではないのだ、平日は「秒刻み」みたいにして近畿一円を駆けずり回っている。

コロナ騒ぎさえなければこのような休日だって、

近畿各地のライヴハウスに出掛けて

自身の「ライフワーク」だと思っているバンド活動をしているのだ。

ロックンロール イズ、ネヴァーダイ。

でも今は出来ない。

出来ないでいるとなんだか、そういうのが遠い世界の出来事だったような気がしてくる。

あれは本当にあった事なんだろうか?

・・・・・・・・・・・・いや、本当にあったに決まっている。

今は仮のお休み期、なのだ ただそれだけなのだ。

そういう時に、道端で自分の蒔いて育てた花達を延々と眺めているのは悪いことではない。

終わってしまったことを思い出すこともある。

でも確かなのは

まだ続きがある、ということで

その「続き」の始まりのために私は

怠けてないで、ダラけてないで、自己を律しながら生き続けていかなければならない。

花の成長に関与することは だから、悪いことではない。

それは「生命」と「美」に触れることだから。

 

2020年7月19日、サンフラワー・ブロッサム成就す。

 

 

 

 

 

追記

ああ、今気付いたのだが明日は私にとっての「魔の記念日」だ。

 

つまり、「バイク大事故」の。

 

あれからちょうど、27年経つ。

 

 

でも

 

もう、あの頃の事はずいぶん遠くに感じるようになった。

 

 

思うに、

 

きっと あの時の「試練」は やっと 完全に、「終わって」くれたのだ。

 

そうなのだとしたら・・・・・・・・良かった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蝉の抜け殻に思う、灼熱の季節の到来。

2020-07-19 09:09:53 | Weblog

梅雨は明けたのではなかろうか。

半信半疑だが、私の中の「野生」が告げている。

これはきっと、「梅雨明け」だ。

向日葵はついに百花繚乱期を迎えた。今が最盛期であろう。

その最盛期の花壇の横に、蝉の抜け殻を見つけた。

美しい。これをグロテスクと思う人もいるだろうけど、それはそれでいいです。

私には美しくみえる。

こいつは「羽化」したのだ、ついこの間。いや、今朝かもしれない。

うらやましい。

しかし、こういうのを見る度に毎回思うのだが、

この蝉、どこまで「わかって」行動したのだろう?

地中に6年間暮らして、そしてついに「羽化」して、

あの「空」を俺は飛ぶのだふっふっふ・・・・・などと思ったのだろうか?

いや全然「思って」など、考えてなどいない、というのが一般的な通説だ。

昆虫は全部「本能」にのままに行動しているのだ、と皆言う。

確かにそうであろうと思う。考えようにも、考える「脳」がとても小さいのだ彼らは。

でも、「空間認識」は、していると思う。そうでないと空など飛べない。

そして飛び立って・・・あと1週間か2週間しか自分の寿命が残されていない、ということは

知らないであろう。当たり前だが彼らに「寿命」と言う概念はないのだ。

「死」の概念もない。「時間」の観念はどうだろう?わからない。

ないかもしれないし、あるかもしれない。「記憶」は?あるだろうか???

いやー、やっぱ地中の暮らしのほうが良かったッスよ、穏やかだしw

とか実は思ってるかもしれない。

空!空を飛ぶのが自分、幼虫のときからの夢だったんッス

と思ってるかもしれない。

いや、羽化後の成虫はもしかして、交尾のことで頭が一杯かもしれない。

交尾=種族保存 みたいにロジカルに考えてはないと思う。

マディ・ウオーターズの「I JUST WANT MAKE LOVE TO YOU 」みたいに

「やりたい」としか思っていないかもしれない。

それでも、そんな色ボケ状態であったとしても

自分の羽で、

自力で「空を飛べる」ことは、本当に素晴らしいことだと、私は思うのだ。

梅雨は今日で多分、終わりだ。

羽化後の成虫が一週間しか生きられない、というのはちょっと「盛った」話らしくて、

2週間から1ヶ月近くは生きられるそうだ。「子供電話科学相談」で言っていた。

そうだったとしても、どう頑張ったとしても彼らは

この夏中に果てるのだ。秋を見ることは出来ないであろう。

そう考えると切ない気がしないでもないが、

彼らの「ジージー」とか「ミンミン」とか「ホーシーツクツク」とかの鳴き声が、

マディウォーターズのブルーズに聞こえてくるとしたらそれはそれで、

全然哀しくないし、

むしろ到来した灼熱の季節を向日葵と共に私は、

歓迎せざるを得ないのだ。

 

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我々のあの懐かしい、そして輝かしい「夏」。

2020-07-16 20:32:16 | Weblog

晴れ渡っていたわけではないのだけれど、

今日は久しぶりに青空を見た。

晴れ続きで見慣れてるとそんなもの、何とも思わないけど、

ずっとずっとここんとこ、頭の上は重い グレー、もしくはダーク・グレーだった。

もしくは漆黒の、ブラック。

何日かぶりで見た今日の青空は、

こんなにもヴィヴィッドな色彩がいつもアタシの頭の上で輝いていたのね、と

感嘆せずにはいられなかった程だった。

このまま梅雨は終わるだろうか?

そして我々のあの懐かしい「夏」がやって来るのだろうか?

とかいって

天気予報は先々までずっと雨マークだ。

でも奴等はコロッと態度を変えるし、その変わり身の早さを、俺は知っている。

先々までの予報なんてサクッと変更して

しれっと「梅雨明けしたと思われる」などと言い出すのだ、ある日突然。

だから信用できない。

近年の天気予測は精密で大したものだが、梅雨時だけは奴等の予言はあてにならない。

大体が、

他人の言うことをあてにすると ろくなことにならない・・・なんてことは知ってたはずなんだけど、

それでも時には頼ってしまう自分がいる。まあいい、ということにしておく。

俺の花壇の向日葵達もそろそろ、陽光が必要だ・・・って言ってる。

それにしても

今年の向日葵は大盛況。咲いてくれてよかった、生きててよかった。

でも種をまいたときは実は、咲くかどうか、半信半疑だった。

妙に痩せた種ばかりだったし、しかも蒔く時期を間違えて一ヶ月ほど早く蒔いてしまった。

全滅するんじゃないか?とマジで心配していたのだ。

しかし植物はタフだった。こちらの希望的予測さえ超えた繁殖振りを見せてくれた。

そういえば俺は昔、「貝類」になりたい、と願った時期があったがそれ以前に、

「植物」になるのも悪くない、と考えていた時期もあった。

何しろ、陽光と水と二酸化炭素さえあれば自給自足できるのだ。

そしてあっち行ったりこっち行ったり、せわしなく動き回る必要がないじゃないか植物は。

ただ日がな一日じっとして、陽光と水を待てばいい。

うまくいけば「開花」することだって出来るかもしれない。

「羽化」も憧れだけど、「開花」も かなり、イイ。

俺はもう老化しつつある雄の哺乳類だけれどもこの先、

「羽化」か「開花」に近いような出来事があるだろうか?

・・・・・・・・・・・・・・いや、きっとあると思う。

終わらない梅雨がないように、明けない夜がないように、切れない糸がないように、

醒めない悪夢がないように、始まりのない物語がないように・・・・・・・

 

きっとまた、「笑っちゃうくらい愉快なこと」が俺達を待っているのだ。

そのことだけは、間違いないと思うんだぜ。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同時進行

2020-07-14 21:44:06 | Weblog

今日は2020年の7月14日。

世界では様々なことが同時進行する。

 

大雨と終わらない梅雨。災害、土砂崩れ。

 

コロナ禍の再燃。コロナ騒動はやはり、まだまだ終わっていない、と僕は思う。

だから動けない・・・・・・。

 

そして個人的なことだが、

修理に出していたバイクが出来上がった。嬉しい。

自分がどれほどこのバイクに感情移入しているか、ということに今更ながら気付く。

これは二十代のとき、働いていた自動車部品屋が倒産した折に退職金代わりに頂いたもので

(N西社長、ありがとうございます)、

あれからもう23年も経つのだ。

年々、愛着が増す。他人は軽々しく「オンボロ」とか言うけれど、僕にとっては最高のバイクだ。

僕か、バイクが、どちらかが壊れるか死ぬか・・・まで乗ろうと思う。

 

それはともかく。

 

 

 

向日葵は順々に咲きつつある。・・・・・・・・・この達成感と充実感。

 

 

 

 

 

そして今日はランブルフィッシュの佐治朝吉の誕生日であった。

 

この日記で何度も書いてると思うのだが僕は、

彼の17歳の誕生日の出来事をよく覚えている。

 

すごく印象的な出来事があったのだ・・・・プライヴェート過ぎるので書かないけどさ。

 

17、ってことは高2だな。

 

そっか、いろんなことをハッキリ思い出せなくて、もどかしかったりするのだけれど

少なくとも

高2の時には俺達はもう、一緒に遊んでいるのだな。

バンド、ランブルフィッシュの前身バンド「ネクスカ」を

始めたばっかりの頃かもしれない。

 

 

しかし2020年7月の今、

 

「ネクスカ」のメンバー6人のうち、

もう3人も・・・・・・・・・・・・・・・この世にいない。

 

岩佐、佐治、そしてモ吉。

 

あんなに華やかで、あんなにエネルギッシュで、あんなに魅力的で、あんなに精力的だった人たちが

 

今はもういない、というのは とても不思議で不可解だ。

 

 

 

僕は

 

 

彼らと出会えて、紆余曲折あって・・・そして最終的に心の底から親しくなれて、

 

 

本当に良かった、と思っている。

 

 

 

 

 

佐治、誕生日おめでとう。

 

 

 

 

バイクと向日葵の写真は一昨日のものだ。

 

この二日でまた少し、「開花」が進んだ。

 

 

 

 

 

刻一刻と、すべてのことが移り変わりつつある今日この頃。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日も今日も雨。

2020-07-11 14:23:32 | Weblog

ずいぶん長いこと、ライヴ観に行ってないし、出演もしていない。

スタジオにも入っていないし、

メンバーや他のバンドのバンドマンたちと飲んでもいない。

暮らしは、とても静かだ。

NO MUSIC NO LIFE という宣伝コピーがあって タワレコのものだが、

友達の怒髪天がそれのCMソングを歌っていたけれども

実際のところ、音楽がなくても人生は続く。・・・それこそ、最近の我々みたいに。

言うまでもないかもしれないが音楽は

空気や水や食料のような、生き物が生きていく上での必需品ではないのだ。

(でもだからこそ・・・・「逆転」の意味で上記コピーはもちろん、

とても素敵なものだと思っている。)

それにしても こういう、「お休み期間」というのはずっとずっと、なかったので

意外と新鮮な気もしている。

何も考える必要がないから音楽のことは何も考えずに生きている。

バイクは近所のバイク屋に修理で預けっぱなしだが、明日には出来ているはずだ。

仕事で毎日トラックに乗ってはいるが、通勤もバイク(今はスクーター)で、

所有しているクルマ(軽だが)に全然乗る機会がなくて、昨日ついに

バッテリーが上がってしまった。・・やっぱ3ヶ月乗らずに置いておいたら駄目みたいだ。

一年に一回はこの理由でバッテリー交換している。不経済だがしょうがない。

さっき自分でバッテリーを買ってきて交換した。

向日葵は先日の暴風雨から立て直せることが出来て、いくつか花が咲きつつある。

向日葵ってけっこう風に弱いから、ポールを立てたりの手間が掛かって、それがすごく楽しい。

しかもうまくいけば大輪の花を咲かせてくれるので、達成感がある。

花壇をいじってると道行く人(たいていはおばあちゃんだ)が声をかけて来たりする。

キレイですね、とか、咲きましたね、とか。

僕自身はキレイでもないし、咲いたこともない(羽化したこともない)ので、

花のこととはいえ、嬉しくなったりする。

そしてこのあと、僕は歯医者に行って、奥の歯を抜かなければならないことになっている。

勿体無いが、仕様がない。

僕の歯に関する凋落は高校生のときに体育のラグビーの授業で吹っ飛ばされて前歯が欠けて、

それを見た佐治が「70年代のキースみたいでエエやないか」と嬉しそうに言ったので

僕も嬉しくて(アホだ)、治療もせず、

歯医者にも行かずに放っておいたのが始まりだった気がする。

20代、30代の頃はずっと、「前歯欠け」が僕のトレードマークだった。

他人に覚えてもらいやすくてよかったのだけれど。

そんなこんなで、色々なことがある。

先月はラジオ出演の収録に行った。

その前の月は、お世話になったレコード会社の社長が亡くなった。

緊急事態宣言が出され、世界がコロナ一色に染まった。

そして決まっていたライヴが全部「飛んだ」。

その前の月は、高校時代からのバンド仲間が亡くなった。

今月は大雨でゲリラ暴風雨で、梅雨が全然終わる気配も見せない。

そして僕は今日、歯を抜かねばならない。

 

 

 

明日もまた、雨降りなのだろうか。

 

 

 

 

いつかまた、音楽の日々が戻ってくることを願う。

 

 

 

写真は、2020年7月11日現在の向日葵。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当に本当ににひどかった今朝のゲリラ暴風雨、そして我が花壇。

2020-07-08 20:41:33 | Weblog

今朝はほんとにひどかった。

朝五時、まだ薄暗い明け方に僕は50CCスクーターに乗って仕事に出掛けて、

ゲリラ豪雨にまともに直面したのだ。

何故50CCスクーターか???というと、いつものバイクはクラッチの不調で、

修理に出してあるのだ。代車がこれ、YAMAHA JOG 50CC。

そんな情けなくも悲しい「代車の日々」の最中に、

もう、ほんとにほんとにほんとにほんとにひどかった今朝の暴風雨。

僕は何年か前、台風直撃の朝にバイクに乗って出掛けたことがあるのだが(アホだ)、

何と今日の豪雨は、その台風直撃よりすごかった。

おまけに、50CCスクーターというのは車重が軽い。

そして僕自身も、昔よりは多少肥えたとはいえ、成人男子にしては異常なほど、軽い(体重が、である)。

風に吹かれて翻弄される木の葉・・・・いや、枯葉のようであった今朝の私は我ながら。

そして、前代未聞の土砂降り、突風、暴風雨。

僕の愛用の雨合羽はわりに本格的なもので、普通なら完璧なのだ、風雨に対して。

しかし今日は雨合羽の首のスキマから雨が侵入し、中身もびしょ濡れになってしまった。

何しろ、呼吸することさえちょっと困難を感じるほどの雨の圧力。異常としか言いようがない。

前方視界なんて、ほとんどゼロである。

 

これは「ゲリラ豪雨」という不穏で下品な名前がぴったりである。

 

参った、マジで。靴の中も水が入ってガッポガッポであった。

 

車庫まで行けるのか俺???と、マジで思った。

 

でも、這う這うの体(ほうほうのてい、と読む)で車庫に辿り着き(着いたときは嬉しかった)、

50CCスクーターから

4トントラックに乗り換えたらトラックはさすがにでかくてタフで、窓もあるしドアもある。

ワイパーもあるしエアコンもある。

豪雨・暴風雨など大して気にもならなかった。

びしょ濡れになった服や靴や雨合羽は、ハンガーにつるして、トラックのエアコンを最強にしたら

その後何時間かで完璧に乾いてしまったし。

トラックは本当に・・・・・・アホのように丈夫だ。頼もしいが。

 

 

 

 

さて、花壇のひまわりのこと。

 

出掛けるときはまだ普通の雨だったので、花壇は全然平気だったのだ。

しかし、その後降り出した

台風よりひどいゲリラ暴風雨で、ちょっとヤバいよな・・・・・と思いつつ仕事をして、

 

今日は少し早く終わったので、

まだ空が明るいうちに家に帰れた。それで帰って、花壇を見るとやはり、

かなりヤバかった。上記の写真のごとく。

 

救済作業に乗り出す、仕事帰りのアタシ。

 

雨合羽を着たまま、追加のポールを立てて、

ナナメになった茎たちを立て直し、ポールに麻紐でくくりつける。

暗くなってしまったら見えないからこの作業は出来ない。

時間との競争である。「走れメロス」である。

 

何とか、真っ暗になる前に、やれるところまでの作業をやりきった。

 

全員救えたワケではないかもしれない。

でも今はこれが最善なのだ。僕に出来るのはこれくらいなのだ。

 

もしも明日の朝、今朝と同じようなゲリラ暴風雨が襲ってきたら、

我が花壇はもう駄目だろう。

天気予報は明日も大荒れ、と言う。

僕はただただ、明日の朝、ゲリラ豪雨が来ないことを祈るだけだ。

 

 

 

っていうか・・・・・・・・・・・・・二度と来るなボケ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする