「事実は小説より奇なり」という格言は本当のことで、
我々の人生はそんじょそこらの小説などぶっ飛ぶほど、奇妙なことばかりである。
でも本当に質の良い小説というのは作者のその
奇妙な実人生の一端を鮮やかに切り取ってあるので、
奥深いし、味わい深いし、何度も読むに値するし、研究に値するし、
ああ、やっぱり小説はいいなあ、などと思う。
小説でないと表せない世界、というのが確実にある。
僕は友達の佐治くんが映画作家青年で、
過去には一緒に8ミリ映画を撮ったりしたこともあるので
(訂正・あれは確か、16ミリだった。)
・・・・影響を受けている。
小説を読んで感銘を受けて、ふっと、
これ映画で撮ったらどんな風に表現するだろう?って考えたり
することが稀にあるのだ。
例えば
今回の村上春樹の新作長編「街とその不確かな壁」の中で出てくる、
本体から切り離された「影」を映像で、ならどんな風に表現するだろう?
と考えてしまった。
・・・1人2役で、特殊撮影で表現する?
・・・双子を使う?
・・・そこだけアニメで、本当に「影」みたいなものにする?
何だか・・・・どれもしっくりこない。
やはりこの「影」の表現は小説ならでは、のものだし、
それでこそ「オルターエゴ」という概念を表現できるのだ。
佐治くんが亡くなってから僕は、映画もほとんど(まったくに近い程)見てない。
見る気がしない。(小説は読みまくってるけど。)
でもそれでいいと思っている。
時たま・・・・・すごい個性的な風景を見つけた時に、
「これは映画のロケ地として使える」という発想をしてしまうのだけれど、
もう映画を撮ることもないのだ。
さて、もう映画を撮ることはないけれど、
ライヴは、続きます。
これは「ライフワーク」なので、僕が息を引き取る寸前まで続く。
近々のライヴは6月3日、
京都の愛すべきライヴハウス「夜想」で、
アイデンティティ・クライシスというバンドのレコ発ライヴの
前座で、出ます。
「小説より奇なり」な人生の、BGM・・・というか主題歌
・・・というか挿入歌
みたいな文学的・フォーキーかつ、破壊的ノイジーなロックンロール。
それが今の我々、ROCA’66でありマス
写真は前々回のライヴの時のもの。
ドンちゃん撮影。