無観客配信ライヴを終えて。

2022-02-27 18:52:25 | Weblog

ROCA’66、

梅田ハードレインでの無観客配信ライヴ「誰もいない地下室で」が終了。

見てくれてありがとう。

やるだけやったのだが、

結果どうなのか?は、自分では客観的に動画を見られないのでわからない。

しかし不思議な感触だったな。

スタジオで練習してるのとも全然違う、

もちろんお客さんの前で演奏するのとも全然違う。

 

でも慣れないことをして、深く疲れた反面、妙に楽しかった。

リハから演奏を終えて帰るまで、ハードレインを借り切って遊んでるみたいで。

そのリハーサルも時間をかけて念入りにやらせてくれて、

ハードレインの加納君とPAのお兄さんに、深く感謝。

結局、シールド抜けとかあり、ドタバタした内容にはなったのだけれど、それはもう宿命。

タイトルを紙に書いたりしたのだが、

一部抜けてたり、表示間違ってたり。

三曲目の「エピファニー」が鳴り始めたところで

「FLY ME TO THE MOON」のタイトルが表示されてる。

紙が一枚、どこかへ失せてしまったのだ。まあいい。

 

やったのは

 

「地上から何処へ?(ココカラドコヘ?)」

 

「トランジスタ・ガール」

 

「エピファニー」

 

「FLY  ME  TO  THE  MOOON ]

 

「エントロピー」

 

「路上の光と誰かの痛み」

 

 

「MOTOR   BIKE  DIARY」

 

 

の7曲でした。

 

 

 

 

4曲目の「FLY  ME  TO  THE  MOOON 」だけがカヴァー曲で、

 

他は全曲、我々のオリジナル、自作曲。

 

 

 

コロナ直前のライヴが確か2020年2月のハードレインだったので

ジャスト2年。

大阪・梅田を歩いたのも2年ぶりだった。

僕は以前、梅田・阪急三番街の、とある店舗で1年くらい働いていたことがあり、

そこら近辺がやはり、強力に懐かしかった。

歩きながら、あれはいつだったんだっけ?と考えてみたら、

たぶん、2003年だったはず。

そうすると、あれからちょうど20年経ってるのだ。ちょっとびっくり。

街はあまり、変わっているようには見えなかった。

人々が全員マスク姿なのがあの頃といちばん違う点だが、まあそれはそれか。

 

 

ライヴが

どんな風に君の目に映ったか?は全然わからないのだけれど、

あれが現在の我々の姿。けっこう・・・老けたかもしれないが、まあそれも仕様がない。

で、他にも実はやりたい新曲が何曲かあって、

だから近々、ハードレイン無観客配信ライヴはまた、やります。

 

 

 

昨日のは この後、2週間くらいはアーカイヴで見られると思う。

だから、

我々の演奏を気に入ると気に入らないとにかかわらず、

ハードレインに「投げ銭」という名のカンパをしてほしい。

ハードレインだけではないのだけれどあの手の良心的なライヴハウスに

この先も存続してもらわないと困るのだ。

 

https://t.co/Eu0wpfHPbn

このURLを貼り付けて検索するとHARD RAIN STOREに行けるはず。

 

 

 

ウクライナ情勢は変わらず、軍の侵攻は続いている。酷い。

ライヴの冒頭で僕は

「やつらは日本国憲法の爪の垢を煎じて飲めばいい」と言ったのだが、

少しだけ言い間違えていた、というか言い足りてなかった。

「日本国憲法第九条の爪の垢を煎じて飲めばいい」と言いたかったのだ。

まあ、大意は変わらないのでいいのだが。

 

 

 

 

見てくれた人、ありがとう。

 

 

 

 

 

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配信ライヴのURL、そしてハードレインへの投げ銭ページ

2022-02-24 22:32:16 | Weblog

 

2022年、2月26日の

ハードレインでの我々ROCA’66の無観客配信ライヴの

専用URLを張り付けてみたのだが・・・・・どうかな?????

あ!見れるな。ここから見てね!

 

18:30、本配信スタート!

 

そしてハードレインへの投げ銭はこちらから!!!!

HARDRAIN STORE (stores.jp)

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「気」について。

2022-02-23 18:38:04 | Weblog

どこにでもいるような普通のオッサンになってはいけない!

とも思うのだけれども、

別に…平凡でいいじゃん、とも思う。

 

平凡って何だ?普通って何だ?

というような話はややこしすぎるから、しないのだが

 

それでもやはり思うのは、

気を抜いて生きてはいけない、ということなのだ。

 

いや、別に・・・ゆるゆると、のほほんと 生きられたらそれが理想でもあるのだが、

僕の場合、人生全般において、

「気」がすべて・・・・

というようなところがあるので、致しかたない。

 

気を抜いてしまうと、どこまでもだらしなくなるし、

もう何か・・・へにゃへにゃだし、

放っておくと風呂にも入らないし髭も剃らないし着替えもしないし歯も磨かない。

っていうかもう、そもそも、布団から出ない。

よろしくないのだ。

 

世の中には、何も考えすに気を抜いて生きても爽やかで知的で

清潔で美しくて好感度も高い、そんな人も実在するのかもしれないけど

 

僕はとにかく毎日毎日を、

試練を潜り抜ける覚悟で行かないといけないのだ、そういう運命なのだ。

 

 

あれも試練、これも試練。それも試練、きっと試練。

 

だがほとんどの試練に、僕は打ち勝ってきたし、今後もそうするのだ。

 

全部、ではない。ほとんど だ。

 

勝てない時も時々あるが、負けを認めさえしなければ

それは「負け」ではない。

怒髪天・増子くんも言ったではないか、「勝てなくても負けるな」と。

 

どうしても駄目・・・・みたいなことって世の中にはあるし、

あ、これ駄目かもって

あっさり手を引くのもひとつの潔いやり方ではある。

むろん、「負け」は認めない。「合わなかった」だけである。

 

そんな、何でもかんでも出来るわけないじゃん。

 

それでいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも僕は「ロックする」ことからは手を引かないつもりだ、今後も。

手も引かないし、気も抜かない。

 

 

今週土曜日はROCA’66、大阪・梅田・ハードレインにて

無観客配信ライヴ「誰もいない地下室で」。

 

 

専用のURLがもうすぐ告知されるので、それで見て(聴いて)ください。

 

YOUTUBEの無料配信でお送りする予定なので。

 

で、見終わったらぜひぜひ、「投げ銭」として、ハードレインにいくらか払ってあげて欲しい。

どこかをクリックしたらカンパできるようになってると思う。

ハードレインみたいな良心的なライヴハウスが存続してくれることこそが、

我々のような商売ベースから外れたインディバンドが

生きてゆく道なのです。

 

 

この、忌まわしい「コロナ禍」も、

我々にとってはひとつの、しかも巨大な「試練」だ。

 

これのせいで僕は「世界」というか「世間」を、以前より疑うようになったし。

「情報の洪水」って、本当に怖いし、実際危険だと思う。

 

 

この試練も、ゆるゆると切り抜けてやろうではないか。

 

気を抜かず、それでいて ゆるゆると。

 

 

 

 

写真は、ハーモニカとピックとカポタスト。

 

 

カポって、何かの「器具」みたいに見えるいつも。

 

 

何か、音楽用途以外の「器具」に。

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どちらが正しい?

2022-02-22 21:19:49 | Weblog

プーチンのやってることは「武力による現状変更」です!

絶対許してはいけない。

大体ね、あいつ、恐しいヤツなんだから、我々みんなやられちまいますよ。

そして、これを許してると次に中国がこういう動き方しますよ絶対。

 

と言う人がいるかと思えば

 

ロシアにもねぇ、ロシアの事情がありまんねん。

あそこをNATOに取られたらもう後がないでっせ。

だいたいがあの辺の国、みんなソ連でしたやん。

NATO拡大せえへんちゅう口約束もありましてん。

 

と言う人もいる。

 

他人事ではないから、一生懸命考えるのだけれども、

どちらが正しいのかわからない。

 

「正しい」など、ないのかもしれない。

 

「東西冷戦構造」というものが昔、あったのだけれど、

そういうのが全然、終わってないのね。

 

ベルリンの壁も、とうの昔に崩れているというのに。

 

「火種」は、中東だと思っていたのだが、

東欧が火を噴くかもしれない、という雲行き。

 

言うまでもなく我々は「西側」にいて、安穏と暮らしている。

もちろん、安穏と暮らすことが悪いことではない。

 

我々に出来ることは何だろう?

 

安易な「煽り」に乗っかって、「戦争やむなし」みたいなことを

思わないこと・・・・くらいか。

 

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ROCA’66無観客配信ライヴ2022年2月26日ハードレイン

2022-02-20 19:07:14 | Weblog

梅田ハードレイン - 検索 (bing.com)

 

やります。

 

無観客配信ライヴ

 

 

ROCA’66

 

 

「誰もいない地下室で」

 

 

2022年2月26日

 

大阪・梅田 ハードレイン

 

 

時間は、18:30から本配信スタート。

 

 

URLは多分、一番上に貼り付けたヤツで行けると思う。

 

 

 

 

 

出演は、我々だけ。つまり、ワンマンライヴでもある。

 

 

とは言え、長時間やるつもりはないが。

 

 

アーカイヴで、後から何回でも見られると思うのだけれど、

 

リアルタイムで視聴してくれたほうがやる気が出るかも。

 

 

新しい、まだほとんど人前でやってない曲とか、

 

以前からやってる曲とか織り交ぜて

 

 

40分くらいやるつもり。

 

 

 

ROCA’66、メンバーはもちろん、

 

歌・ギター  片山道郎

 

ギター  赤井英俊

 

ベース  伊藤克浩

 

ドラムズ  トビー

 

の4人。

 

 

コロナ騒動はそろそろ終わりかけだと本気で思っているのだけれど、

 

 

そういう時期にこういう、

 

 

無観客配信でライヴ出来るのは

 

 

なかなかの一興・・・だと思ってマス。

 

 

ハードレインに感謝しつつ、やるからには

 

 

絶対にいいものにしたい。

 

 

ああ、でも気張らずにフツーにやりたい。

 

 

どっちやねん。

 

 

視聴、そしてハードレインへの投げ銭お願いしマッス!!!!

 

 

2年ぶりのライヴ。

 

 

果たして、どうなりますやら。

 

 

 

 

 

 

あの・・・・・・・・・・・・・・・・・・いちおう言うんだけど、

 

無観客配信なのでハードレインには客席は用意しません。

 

 

 

コロナが終わったらぜひ、ライヴハウスに直接来てほしいのだけれど、

 

 

この日は来ずに、家で視聴してね。

 

 

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長続きする幸福

2022-02-16 20:30:59 | Weblog

キース・リチャードが、70年代のストーンズの名曲「HAPPY」の中で

♪BABY  WONT’YOU KEEP  ME  HAPPY♪

と歌っているように、

 

我々に必要なのは、

長続きする幸福

なのではないか、と僕は思う。

 

どんな快楽も、どぎつい刺激も、「慣れ」ていってしまうのだ、我々という存在は。

 

「慣れ」というのは怖い。

 

初めのうちはすごく貴重に思えた物事が、それに触れながら年月を経ると(つまり「慣れる」と)、

いつしか、何の価値もないようなもの・・としか思えなくなったりする。

 

とても傲慢だが、

往々にして人は、そんなものである。

 

そんな移ろいやすい世界の中において

やはり

不変、という事は大きな意味を持つのだ。

 

しかし我々は生物であるからして

日々、喰わねば生きて行けず、

もちろんその分、排泄せねば生きて行けない。

そんなこんなで我々の体内組成は日々、劇的に変わり続けているのだ、今この瞬間も。

 

それだけではない、日々、気が遠くなるほど様々な出来事が起こり、

我々はその体験で少しずつだが確実に、致命的に変化していく。これは必然である。

 

だから誰もが、「変化していく」のは当然過ぎるほど当然なのだ。

 

しかし。

 

変わらずに居続けよう、と強く願えば、

それは不可能ではない。

 

 

何故なら我々は、唯物論的な「物質」であると同時に、

「精神生命体」でもあるから・・・・・だ。

 

その、変わらない「精神のありよう」こそが

 

この地上において我々を我々たらしめるものであって、

 

それ以上でもそれ以下でもないが、

 

人間は単なる肉のカタマリではないのだ。

 

 

 

大事なのは何か?それはきっと、

 

「愛し続けること」 であろう、と僕は推測する。

 

 

(誰かを)愛し続け、尊敬し続けるのだ。

 

 

その気持ちを、失うべきではない。

 

 

他人に失望したり、他人を軽蔑したり、

 

他人を見下したり、他人に対する敬意をないがしろにしたり・・・・そういうことをするのは簡単なのだ。

 

我々は「傲慢の罠」にひっかかりがちだから。

 

「傲慢の罠」を乗り越えて、

(誰かを)愛し続けることが出来さえすれば、

 

「長続きする幸福」が手に入るのではないか?

 

 

と、今日思った。

 

 

 

 

 

 

ところでさ、

キース・リチャードは結局「それ」を、手に入れることが出来たのかしらね?????

 

 

 

 

 

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1985年の旅のこと。

2022-02-13 16:06:51 | Weblog

また、新宿・戸山ハイツについて、

すごーく個人的なことを書きます。

1985年の、夏休みの旅のこと。

 

 

そうだ、あれは高校を(何とかかんとか)卒業した年だったんだ。だから、まだ1985年か。

清治は4月生まれだからもう19歳、

僕は9月生まれだからその夏、まだ18歳だったことになる。

 

僕は大阪のデザイナー専門学校に通い始めていて、一回目の夏休みだった。

清治は確か、大学受験上手く行かなくて、浪人したんだっけ?確かそうだよな。

それで東京の高円寺で新聞配達しながら一人暮らしして予備校とか行ってたんだ。

それで僕は何で東京まで行ったんだろう?単に、清治に会いに行ったのかな。そうだろうな。

それで、清治の借りてる三畳間に泊めてもらって朝早く、一緒に新聞配達に付き合ってる時に、

ドロボー!って叫び声がして、

ちょっと先の方の路地を、誰かが走って逃げてた。

人間にも「狩猟本能」みたいなのってあるんだな、と今になって思う。そんなの、放っときゃいいのに、

反射的に僕ら二人はそいつを追いかけて、結局、清治がそいつを捕まえた。

空き巣狙いか何かのコソ泥だったみたいだった。

新聞配達所へ引っ張って行ったら、誰かが交番へ連れて行ってた。でもあんなの、窃盗未遂だし、

常習犯でなければ放免されてるだろう。

そいつは僕等より上・・・二十代くらいの歳に見えた。

全然悪そうじゃない普通の奴だった。「何なんだよお前ら」と、そればっかり言っていた。

その時は無我夢中で、何も思わなかったのだが後から思い出すとその出来事は、

スリリングで楽しかった。新聞配達所の人たちに褒めてもらったし。

 

清治と一緒にいると、なぜかそういう、嘘みたいな、漫画みたいな出来事がよくある。

でも普通だったらそんなの、追いかけないからかもしれない。

ナイフ持ってたかもしれないし、追い詰められたら何するかわからないもの。

でも清治は、外で歩いてて、何かあると絶対関わる。

それが「厄介ごと」だったとしても絶対に関わらないと気が済まない。

歩けない人がいたらおんぶして歩く。僕は何度も清治が迷わずそうするのを見た。

その泥棒の件だって、僕一人だったら・・追いかけなかったかもしれない。わからないけど。

 

で、そのあと二人で新宿へ行くことになった。

僕の故郷が戸山ハイツだというのは清治はもちろん、百も承知で、

僕が「行きたい」と言ったのか、

清治の方から「戸山ハイツ行こうぜ」と言い出したのか、どちらなのかわからない。

でもやっぱ僕だろうな。

後から考えたらその次の年にも、東京に出て来てて、

その時は佐治と一緒に戸山ハイツを訪れているのだ僕は。

それはこの日記で、以前に書いたよね。

 

今になって思えば

高校を卒業したら東京で暮らそう、と小学生の頃から思っていたのが、

佐治の(半ば強引なw)お誘いのおかげであっさり予定変更して大阪でバンドやることになった。

18歳、19歳の頃ってまだその未練があって、

だからそんなに頻繁に戸山ハイツを訪れていたのかもしれない。

 

そんなこんなで、1985年・夏。

清治と二人で連れ立って高円寺を出発して、電車に乗って新宿へ。

二人とも免許なんか取得する以前だし、クルマなんかもちろん持ってない。

新宿駅から、高層ビルが乱立するあたりにも、ちょっと寄った記憶がある。

そこらあたりから多分、歩いて戸山ハイツまで行ったのだと思う。

そしてたどり着いて、僕の住んでいた12号棟のあたりをうろうろした。

11年ぶりだから、すごく懐かしかったはず(感慨は覚えていない)。

そして僕は突然、そこに住んでいた頃(6歳とか、7歳の頃だ)に親しかった

同い年の男の子Oくんと

同じく同い年の女の子Uさんが住んでいたマンションへの道筋を思い出した。

そして、そこへ行ったのだ、よしゃあいいのに、記憶を頼りに。

 

で、その記憶はちゃんとあっていて、彼らのマンションは健在で、

ここかな?と思ったドアの表札にちゃんと名前もあった。

で、ピンポン、とベルを押して・・・・・・・。

結果、家の人にすごく不審がられてしまったのだ。そりゃそうかも。

もしかしたら家の人も僕のこと覚えてるかも、と少し期待したのだが、

ドアもあけてくれなくて、それどころか通報されそうな勢いだったので

僕等はすぐに退散した。O君家と、Uさん家、確か、2軒ともそんな反応だった気がする。

 

所詮、と言うか僕のセンスが田舎者だったのだ、と今では思う。

事前に連絡もせず(連絡先はわからなかったからしょうがないのだけど)、

突然若い男が訪れて、「あの、昔親しかった者です」とか言われても信じないよな普通。

牧歌的な昔ではもう、ないし、ここは新宿なのだ。

それに、7歳が18歳になってるし、識別できるわけがない。

 

「しょうがねえよ、でも来てみて良かったじゃん」みたいなことを清治は言ってくれたと思う。

 

当然だがすごーくがっかりしたのだ。

 

で、マンションを出て、しょぼん・・・・といった感じで通りを二人で肩を並べて歩いていると、

突然、辺りが真っ暗になって、急にものすごい土砂降り雨が降り出した。

時間は、夕方近くだったと思う。

まあ、ただの「夕立」と言えばそうなんだけども。

 

でもかなり気落ちしている僕らは、雨宿りすることも、走ってどこかに入ることも思いつかず、

ただそのままびしょ濡れになりながらとぼとぼと新宿駅方面に歩いて行った。

本当に、ものすごい勢いの雨だった。あんなの、なかなかない・・・・ってくらい。

 

そしてそのあと、

今ならどこかの安い飲み屋に二人で飛び込んで、ビール飲みながら延々と、

夜遅くまで話し込んだりしているところなのだけれど、

18歳の頃の僕は、「特別な時」にしかビールとか、飲んだりしなかったのだ。

清治もたぶんそうだろう。

僕が日常的にお酒を飲むようになるのは20代後半からだ。

今から思えばその時は「特別な時」なのだが、

そのたった4か月くらい前まで清治とは、毎日、学生寮で一緒に暮らしていたので、

だから二人で居ることに慣れ切っていた、というか、

またいつでも会える・・・みたいに無意識で思っていたみたいで、

そこであっさり、清治とはバイバイしてしまう。

清治の方に、何か用事とか事情があったのかもしれない。

 

僕はその足で、多分・・・父の姉(叔母ですね)の住む青山へ向かって、

そこで泊めてもらったのではないか?と思うのだが、

 

記憶はそこまでで、そのあと自分がどこに行ったかも、全然思い出せない。

 

夕立のせいでびしょ濡れのままだったのに、

清治も僕も、風邪ひかずに済んだのかな?あの時。

 

 

 

これが1985年の旅の顛末。

 

その渦中では全然わからなかったのだけれど、

あんな風に、清治と二人で新宿を訪れるような自由なことが出来たのは、

すごくラッキーなことだった。

 

いや、今現在だってちょっと無理すればそれぐらい出来るさ、

思わなくもないのだが。

 

 

なかなか、難しいよね。

 

 

 

 

あの頃より今の方が、いろんな・・・・・

あの頃抱えていた個人的な問題が、少しずつマシになってはいるのだけれど。

 

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もうひとつの新宿

2022-02-12 13:06:28 | Weblog

ジャンゴ・ラインハルトの10枚組CDボックスセットと、

村上春樹と和田誠 著の「ポ-トレイト・イン・ジャズ」という文庫本と、

杉浦日向子 著 の「ベスト・エッセイ」という文庫本を買った、とこないだ書いた。

 

それで、その杉浦日向子のエッセイの中で、

彼女が「新宿っ子」で、幼少時から16年間、新宿に住んでいた

という事が書いてあったのだが

 

実は、同時に買った村上春樹の「ポートレイト・イン・ジャズ」の中にも

ほんの少しだが、その頃の新宿に関する記述があったのだ。

春樹さんは神戸・・・というか「阪神間」のひとだったのだが

大学で早稲田に行ったので、東京に出て来たのだ。

「大学二年生のとき、新宿の歌舞伎町にあるぱっとしないレストランで

オールナイトのアルバイトをやっていた」のだそうだ。

それでその近所にあった「ピテカントロプス・エレクトス」というジャズ・バーに、

バイトに時間の合間に行っていた、という話が

「チャールズ・ミンガス」の章に書かれている。

そして、(以下引用)

「1970年前後の新宿の街は独特の活気があって、乱暴で猥雑な中にも

ピリッと前向きなひたむきさがあった。自分のまわりで

何か特別なことが行われているのだ、というわくわくした空気が漂っていた」

(引用終わり)

なのだそうだ。

春樹さんも新宿にいたんだ・・・・と思った。

 

そして偶然と言うか何と言うか

その週に放送された仲井戸チャボ麗市さんのラジオ「キングビスケットタイム」において

チャボさんは何と、

新宿・花園神社で行われた野外ライヴで演奏された

浅川マキさんの「朝日の当たる家」をかけたのだ。

それが録音された時期は1972年か、1973年だったと思うのだが、

 

大雑把に捉えれば、1970年前後の新宿だ。

 

チャボさんはそのコメントで、

「俺はこの頃は・・・もう新宿の街を毎日うろついてる感じじゃなかったけど、

しょちゅう行ってた花園神社だから思い入れは深いよね」みたいなことを言ってた。

チャボさんが毎日新宿の街をうろついてたのは1966年とか、67年とか・・・

それくらいなのであろうと推察する。

でもどちらにせよ、チャボさんの「家」はずっと、新宿の戸山ハイツだったのだから。

 

 

杉浦日向子、村上春樹、浅川マキ、仲井戸麗市。

 

僕の大・大好きな人たちが新宿にある時期住んでいたり、

少しでも関わっていたり、思い入れを持っていたりするのは、

偶然ではない気がする。

 

 

 

あの、

また新宿のこと書いてるよ、もうええっちゅうねん・・・・と思われた人も

いるのかもしれない。

 

でも それはそれで全然いいのだ。

 

僕はこの日記、

自分のために書いている、という側面も実は大きいのだから。

備忘・・・・というか、いろんなこと、すぐに忘れちまうからね。

 

 

 

いつかまた、僕が新宿を訪れる日が来るだろうか?

行った、としてもそこはもう、僕の中の新宿とは

かけ離れ過ぎていて、

もう、何も思わないかもしれないよね。

 

 

でも

戸山ハイツが建て替えとかで壊される前に、もう一度行けたらいいなぁ。

 

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杉浦日向子のエッセイと、僕の中の新宿の、最古の記憶。

2022-02-11 17:20:10 | Weblog

先週、村上春樹の「ポートレイト・イン・ジャズ」と

ジャンゴ・ラインハルトのボックスセットを買ったブックオフで

その時、同時に杉浦日向子のエッセイ集も買っておいたのだ。

杉浦日向子はかなり有名なので、知ってる人も多いと思うが、

「ガロ」で描いていた漫画家で、後に「江戸研究家」としても知られるように、

それは独特の「江戸漫画」だった。色っぽい絵。

彼女は、赤瀬川源平の「路上観察学会」のメンバーでもあったはず。

僕はこの人のささやかなファンで、古本屋等で著書を見かけたら迷わず買うのです。

2005年に御病気のため亡くなってしまったが、

このエッセイ集は亡くなった後に出たものみたい。

それで、読んでいたら本の中に新宿に関する話が出てきて、

今まで知らなかったのだが、

杉浦さん、新宿に住んでいたのだ。

「幼少の頃(新宿に)引っ越して、16年間生活したので、

心身ともに『新宿っ子』なんですよ」という記述がある。

この人・・・僕より8つ年上なので、

僕が新宿にいた1966年から1973年と、重なってる時期がある・・っていうか

僕が過ごした7年間は、杉浦さんが過ごした16年の中にすっぽり含まれる。

 

それで、その中で杉浦さんは、新宿の銭湯について語っているのだが、

それを読んでいて僕も突然、思い出した。

うちの一家が、新しく団地になった新宿・戸山ハイツに引っ越す以前、

旧、というか長屋時代の戸山ハイツには内風呂は当然なかっので、

家族で銭湯に出かけていた、とある日の情景を、僕は思い出したのだ。

父と母と、兄もいたと思う。夕暮れ前の赤い空、

暮れていく野原。

これは多分、僕の中の最古の記憶だ。

タイトルには僕の中の新宿の最古の記憶、と書いたが、それどころか

人間としての僕の、最初の記憶だ。

自分が赤ん坊だった頃のことを覚えてる人も世の中には多いが、

僕は幼少の頃のこと、全然覚えていないのだ。

幼少どころか、学校時代のこともあらかた忘れてしまっている。

ちょっと馬鹿なんじゃないの?と自分で思うくらい。

新宿の記憶は だから、驚くほど少ない。小学校一年までいたのに。

でも思い出した。その時、銭湯に行く、という意識もちゃんとあった。

これは、忘れかけていた記憶だ。思い出せてよかった。

新宿、といってももちろん、そんなに狭くはないから

杉浦日向子さんと、すれ違ったことがあるかどうか、はわからない。

でも、もしかして杉浦さんが行っていた銭湯と同じ銭湯だったらいいな、と

思う。

8コ違う、ということは

僕が3歳の頃は杉浦さん11歳。

僕が5歳の頃は13歳か。6歳で14歳。

あまり、接点ないような年頃かもしれない。

銭湯にか通っていた頃の僕は僕は幼児だったから、当たり前のように母親と「女湯」に入っていた…と思う。

むむむ。そうなると僕は、

杉浦日向子と新宿の銭湯内で裸ですれ違っているかもしれないではないか。

その可能性は・・・なくはない。

 

 

新宿、そして、銭湯。

大好きな杉浦日向子さんと、そんな接点があったとは驚き。

 

 

 

ああ、このことを、佐治くんに報告したい。

佐治は、「ガロ」系漫画が大好きだったから。

 

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両義的ということ

2022-02-09 21:29:11 | Weblog

 

 

 

 

君はゴミ捨て場の聖者だった

君は無実の逃走者だった

君は暗殺者のような恋人だった

君は冷徹であったが これ以上ないくらい暖かだった

君は過去から来た 未来を占う預言者だった

君は唯一の仲間であり 同時に裏切り者だった

君はアクセルとブレーキを同時に踏むのが日常だった

君は永遠であり、たった一瞬でもあった

君の哀しみは僕の哀しみでもあった

君はまるで ありきたりな奇蹟そのものだった

君は天才的な馬鹿者であった

君は僕を生かすものであり、僕を殺すものだった

君は子供のように老成していた

君は華やかで それでいて 悲しいくらいみすぼらしかった

君は何でも出来るくせに最後まで何もやらなかった

君の優しさはすごくすごく危うかった

これ以上ないってくらいに現実的なくせに誰よりも夢想的だった

君が笑うと世界が笑った 僕もつられて笑った

君は最高にせっかちな のんびり屋だった

君の美しさは同時に君の穢れだった

 

 

 

 

 

君にとって「愛」がどんなものであったのか

今になっても僕にはわからない

 

 

 

それはもしかしたら道端に転がる空き缶のごときもの

だったのかもしれない

 

 

もしそうだったとしても

それはそれで全然 構わないのだけれども

 

 

 

 

草々

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