誰かの影響から抜け出すことについて。

2021-08-31 21:14:59 | Weblog

特定のアーティストやバンドに影響を受け過ぎてはいけない。

理由は、それを熱心にやり過ぎると

その誰かの「フォロワー」になってしまい、そこから脱却できなくなるからだ。

例えばの話だが、「和製○○」なんてものになってしまってはいけない・・・と、僕は思う。

 

だから僕はある時から

「一番好きなアーティスト」を聞かれても、「そういう人はいない」と答えるようになった。

っていうか、実際、そんな風に考えるようになった。

誰だって、他人から影響を受けるのは当たり前のことだ。

何もないところから「何か」など、生み出されはしない。

ただやっぱり、ルーツがあっさり見破られるのは、表現として「浅い」のではなかろうか。

(人の勝手、ではあるけれど。)

 

とは言え、

誰かからの影響を色濃く感じさせるものでも

それが吹っ飛ぶくらい輝いて、オリジナルさえ超えてしまった部分さえ持ってしまう・・・

というようなこともある。

例えば・・・一つだけ挙げるけど、ストリート・スライダーズとかね。

 

でも、そんなのは滅多にない。

 

物事を始めるときに、誰かの真似をするのは自然な行為だ。

アホウドリだって親の真似して練習しなけりゃ、

空を飛ぶことは出来ないのだ。

だからコピーとかから入るのは当たり前だ。

そのままコピーで終わったってそれが悪いことではない。

 

でも独自世界を創れると、やはり楽しいし、広がりも無限なのだ。

たとえ歌や演奏が度肝を抜くくらい下手っぴでも、

自分がオリジナルなら誰にも文句言わせないで済む。

独自性というのはかくも傲慢で便利なものでもあるのだ。

 

独自、といっても、やはり音楽であるからには作品は「音楽性」の中にしかない。

厳密に言えばバッハ的な「平均律」の音楽をやってる・・・のだ我々は。

例外は純粋ノイズの人たちと

前衛ジャズのひとたちだ。

 

 

様々な音楽の影響から抜け出して、

それでも「平均律」の中で、

誰にも似ていない音楽、今までにこの世の中に存在しなかった音楽を創り出す。

 

そんなことが可能なのだろうか???????

 

いや、それが可能なのだ。

 

音楽教育なんか全然受けてない不良のパンクスにも、

勉強もスポーツもろくに出来ない落ちこぼれみたいな奴(まるで俺だ)にも。

 

その、嘘みたいな魔法こそが

 

 

ロックの醍醐味だと、僕は思うのです。

 

 

 

 

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二千二十一年の向日葵撤収業務ミッション遂行。

2021-08-29 11:06:57 | Weblog

今年も八月が終わり行くのを見送る季節の到来。

それはつまり、向日葵の季節の終わりでもある。

立ち枯れた彼らの姿も嫌いではない・・・っていうか好きなのだけれど、

まるで放置してるみたいだから物事の道理として、片付けることにした。

まず、種を収穫して、

立ち枯れた幹を引き抜く。

そういえばそろそろ、蝉が姿を消したなぁ、と思った瞬間、すぐ横の木で

ツクツクボウシが突然鳴きだして、また突然鳴き止んだ。

僕の思考をキャッチしたのかもしれない、油断も隙も無い。

そのあと、マンションに住む小さな可愛らしいご老人のご婦人が通りがかり、

向日葵の種が欲しいと言うので渋々(嘘)、何粒かあげた。

でも今年の種は痩せていて貧弱で、蒔いても芽が出るかどうか心もとない。

全体的に今年の向日葵は「痩せ向日葵」だった。

そのおかげで、倒れないように補強したり・・という手間はあまりかからなかった。

痩せている方が風に対しては強いのだ。

花もあまり大きくなかった。もちろん、小さくても綺麗だったけど。

必然的に、種も小さく、痩せている。

そういえば花が盛りの頃に、様々な昆虫たちが花に集まっているのを見た。

あんまりバリバリ喰うやつは排除したりしたのだけれど、

あの虫たちの働きのおかげで一応、痩せてるとは言え種が実ったのだ。

だから来年も種を撒こうと思う。

また痩せてひょろひょろの向日葵が芽を出すだろう。

そして上手く行けばあと半月・・・か ひと月で

今年の夏は終わる。

そして来る秋の真中には僕は満ち足りた気分で過ぎ行く日々を眺めるだろう。

そんな風になりたい。

あくせく生きるのはもうやめだ。

この夏が終われば僕はもう何も恐れずに、

なにひとつ気にせずに生きていくのだ。

決めた、今日決めた。

決めたが最後、

夏よ早く終われ。

二千二十一年八月二十九日 日曜日、

向日葵撤収業務ミッション完了。

 

 

 

 

 

写真はミッション開始直前である。

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再評価

2021-08-28 17:13:52 | Weblog

チャーリーワッツが亡くなったことで、世間では怒涛の

ストーンズ再評価が始まってる気がするのは僕だけではあるまい。

やはり人の死というものは大きな出来事で、心を動かされてしまうのだ。

ラジオではDJがストーンズ愛を語る。

SNSでも多くの人がそのような感じ。

僕も含め、最近はストーンズに食傷気味で、多少辟易していたような人もそうである。

それは、悪いことではない。

 

僕がストーンズに食傷してしまったのは数多くの、近年のインタヴューにおけるミックジャガーの、

あまりにも・・・傲慢な物言いのせいだ。傲慢な人は嫌いなんです。

まぁ、偉いのはエライんだろうけど、それでも。

そしてミックのあの、年老いても嫌味なほど細い体。シェイプアップマニアだ。

そして,自ら「昔のミックジャガー」を研究してさらに誇張したような動き。

(たぶんそれ、やってると思う。)

同じように誇張した不自然な歌い方。

 

僕のような最底辺の、有名でもなく人気も影響力もないバンド野郎がミックジャガーに文句をつけるなど、

ボウフラが神様に喧嘩売ってるようなもので、おこがましいのは承知の上だが

文句言うのは勝手だし、文句言われるのはビッグネームの運命だし。

それでも

誠実そうに見えるチャーリーワッツの突然の訃報で

「憎まれっ子世にはばかる」っていうのは真実だったのだな、などと思いつつ、

やはり1970年代末までのストーンズはかっこよすぎることは認めざるを得ず、

でも昨日のラジオで80年代のシングル「ミックスドエモーション」がかかって、

うーん、このへんは既に微妙なんだよな・・・・などと思いつつ

それでもまだ、コーラスで歌うキースも声が今よりかなり若くて(当たり前だ)、今聞くと悪くなくて、

でもそういえばちょっと前に大画面で見た「ストーンズ初のキューバライヴ」の動画は、

わりと近年のもので、

既に「おじいちゃん達」と化したストーンズだが、

キューバという国の事情とその特殊性のせいもあって

異常にかっこよくて感動的で、そのライヴでキースが使ってた超レアな黒のギブソン

(335?337?)とかが

ギター雑誌で話題になっていたのだけれど、それはともかく、

この先ディランが亡くなれば、80年代のものを含めてディランの再評価が起こるだろうし、

ポールかリンゴが亡くなればビートルズ、

ピートが亡くなればフーの、ジミペかロバプラが亡くなればゼッペリンの、

クラプトンが・・・・・・。

ボウイだってそうだったものね。プリンスも、ヴァンヘイレンも。

 

そうだ、ジョンレノンがあんな不幸な亡くなり方をしたのが1980年で、

実はそれまで、1970年代を通じてビートルズは不当に低評価だったそうなのだ。

1960年代に世界中を席巻し過ぎた反動で、世界中がビートルズに食傷していた・・・らしい。

でもそれもジョンのことでひっくり返った。

 

あ、でも何年か前に、

ロックンロール第一世代の、あの偉大過ぎるチャックベリーが亡くなった時って

意外と再評価ブームみたいな動きがなかった気がする。

偉大過ぎるとそうなるのだろうか。

あの人って最近まで生きてたの???歴史上の人物じゃないの??

みたいな。

 

 

ストーンズに話を戻すと、

一般の、世間の人々って意外なほどストーンズのこと知らない(と思う)。

ヒット曲も「サティスファクション」くらいしかない、と思ってるような感じがする。

でもそれはそれでいいのだ。

 

 

 

 

世間なんてね、

テレビとかジャニーズとかアイドルとか見て喜んでればいいのよ。ホホホホ。

 

 

 

 

 

 

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雑談

2021-08-26 21:12:17 | Weblog

チャーリーワッツが亡くなったのでラジオからストーンズが時々流れていた今日。

何だかとても不思議な気がした。

というのは

通常のラジオで普段はストーンズなんか、まずかからなかったから。

ビートルズは時々かかる。

でもストーンズなんか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

クラッシュも時々かかる。「ロンドンコーリング」か「ロックザキャスバ」ばっかりだが。

ポリスも時々かかる。「エヴリブレスユーテイク」ばっかりだが。

でもストーンズは全然聞いたことがなかった、今まで普通のラジオでは。

あ、もちろんピーターさんの「WEEKENDSUNSHINE」とか

インターFMのジョージの番組とかは別だけど。

でもやっぱラジオでストーンズがかかると楽しい。

ふだんかかりまくっているJポップとかがいかにクソか、よくわかる。

本当は、いい音楽なんて世の中に溢れかえるほどあるのに、

何故ラジオはクソみたいなのばっかりかけるのか。

ああ、それはもちろん「宣伝媒体」だから、なのね。

ハァ(←タメイキ)。

ところで、チャーリーワッツの本名って、チャールズ・ロバート・ワッツなんだって。

チャールズの愛称がチャーリーなのだ。

そんなの考えなくても当たり前みたいな話なのだけれど、

昔からチャーリーと思ってるから、それが本名ではなくて愛称ってのがいまいちしっくりこない。

でもミックもマイケルだし、

ジギーなんかジグムント(もしくはジークフリート)だし

マギーなんかマーガレットだし

ベッキーなんかレベッカだし

ジョニーなんかジョンだし

フラニーなんかフランチェスカだし

ボブなんかロバートだし

まだまだあるんだけど

我々自身がネイティヴじゃないから英語の愛称って違和感ある。

道郎がミッチェル・・・・・みたいなモンか?

また違う?

 

ところでピーターさんは「ストーンズはここで解散したほうがいい」みたいなこと言ってる。

俺もそう思う。その方が美しい。

でも解散しないほうに賭けるね。

 

 

 

 

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ワッツさん

2021-08-25 21:08:02 | Weblog

「最後の大物」の一人でもあったのだ彼は。

1960年代からロックしてる世代。

僕は1990年(91年?)の初来日に東京ドームまでわざわざ見に行ったクチなので、

ワッツさんを、遥か遠くからとはいえ、生身のワッツさんを目撃したことがあるのだ。

でも遠すぎたな。

音と動きがほんの僅かにずれてる気がしたんだが。花火みたいに。あれは気のせいか?

(付記・後で考えたらそれは、音響の不手際による「残響音」のせいだったかもしれない。

こだまみたいに、跳ね返った音が聞こえていたのだ、たぶん。

音がずれるほど遠くはなかったはずだし。)

それでも一応、本物を見た。

何時間かの間、同じ(巨大な)屋根の下にいたのだ僕とワッツさんは。

 

そう考えると、ライヴを見に行くという行為は大事かもしれないな今更だが。

 

しかしストーンズはギタリストは交代したり(ブライアンJ、ミックT、ロンW)したが

リズム隊は交換不可だったのだな、と思う

(あ、だから今のビルワイマン不在のストーンズは・・・・・・・・ストーンズでないかもしれない)。

ストーンズと双璧の伝説的ロックバンド、ビートルズは誰一人交換不可能だった

(ピートベストさんのことは考慮外)。

だから短命だった、とも言えるのだが

ストーンズはその辺柔軟だったな。

ビルワイマン、クビじゃないんだから・・・・・辞めなきゃよかったのにね。

もしビルがこの先亡くなっても、今回みたいな大ニュースにはならないであろう。

「元ストーンズのベースの人が亡くなりました」ってな感じで。

ああそうですか、みたいな感じで。

 

しかし、この後もストーンズは「しれっ」と続くのだろう。

いいと思う。続けてください。

どこまで行けるのか・・・・・人間が、どこまで「老いてもロックできるのか?」という

生体実験みたいなものだからだ、ストーンズは。

 

ストーンズが100歳超えてもやれるなら

後続の我々も100歳超えてもやります。あ、生きてたらね。

 

ストーンズが「ゾンビ化」するなら、我々もしましょうゾンビ化。

 

それはつまり、「生きる屍」として生きる、ということなのだが。

 

 

それはともかく、ワッツさんは安らかにお眠りください。

 

 

お疲れさまでした。でも、良い人生でしたよね!

 

 

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黒レスポール

2021-08-24 21:10:27 | Weblog

黒いレスポール、僕は君に憧れていた。

確かにそんな時期があった。

重たい重たい、黒光りするレスポール・カスタム。

 

十代の頃、グレコの黒レスポールカスタムというのを友達から買った。

当分はメインでそれを使っていた。

高三の文化祭の「ネクスカ」のライヴではそれを持って出たはず。

でもその後・・・二十代初めにストラトに目覚めてしまって、それ一辺倒になって、

黒レスポールはずっと使ってなかったからお金のなかったある時、楽器屋に売り飛ばしてしまった。

大したお金にはならなかったのだが、その時はとにかく金がなかったので

少額でも売れてくれて、助かった。

 

でもある時、

黒レスポールがひょいっと、僕の手に戻って来た。

同じものではない。昔持ってたのはグレコだが、

今あるのはオーヴィルだ。

オーヴィルってのは要するに、「ギブソン・ジャパン」みたいなもの・・・・・

と思って間違いないと思う。

物は悪くない。

 

黒レスポールはやっぱいい。

何だかんだ言って素敵だ。

何も言わなくても素敵だ。

オールドじゃなくても、

ギブソンじゃなくても素敵だ。

 

これを、

ライヴで使う予定はない・・・・・・っていうか

今のところ、ライヴの予定すら、ない。

 

 

何と言うか・・・・・・・・・・・・諸行無常だ。

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生きることは情報戦

2021-08-22 11:34:52 | Weblog

ずいぶん前から、

もちろんコロナ禍以前から思っていたことなのだけれど、

生きることは情報戦でもあるよな。

何が正しくて、何が間違っていて、

何を信じればいいのか、何に騙されてはいけないのか。

慎重に大胆に、

世界に氾濫するジャンクみたいに見える情報の中から

選び取って判断して行動せねばならない。

善意のように見える悪意。

悪意を隠した悪意。

純粋な悪意。

善意を装った悪意。

自分にとっては自分が善意だがそれは他人から見たら

悪意にもなり得る、というようなこともある。

何が正しいのかは、自分で判断して決めるしかない。

僕にとっての正しいこととは何か?

 

そして

ばるぼら

の楽曲「君はゼロを見たか?」の中でボケロウが放った名言

「救世主のメッセージは”己の身は己で守れ”」。

これは真実なのだ。

自分を守れるのは自分だけだ。

 

僕はテレビを見ずに本を読んで暮らしてきた。

それで間違っていないと思うのだが

惜しむらくは情報の新鮮さという点で本は電波メディアに

到底かなわない、かなうはずもない。

古本なんか読んでたら猶更だ。一昨年の本にはコロナの有益な情報は載っていない。

昭和62年に初版発行された本にもない。

現状は刻々と変わる、それこそ秒単位で変わりゆく。

だから僕はトラックに乗りながらラジオを聞く。

意識的に様々な放送局に周波数を切り替えて聞く。NHKも聞く。民放も聞く。

FMも、AMも聞く。短波は・・・・カーラジオでは受信しない。

テレビに比べたらラジオはかなり、自由度が高いように思う。

目くそ鼻くそ、かもしれないけど。

実にいろんな人が、実に好き勝手なことを言う。

僕はこれまで「世間」のことなど、どうでもいいと思っていた。

世間の動向などといったものと無関係に生きたいと。

ただやはり気付けばどう足掻いても僕など無力な魚類で、

川の流れと無関係になど生きられないのだ、そのことを思い知った。

世間が正常化しないとライヴもできない、肉親や兄弟や友達にも会えない。

だから妖怪アンテナをピンと立てて情報をキャッチする、情報をキャッチする。

世間に溢れかえる陰謀論、陰謀論、陰謀論、正論、陰謀論。

何が正しくて、何が間違っているのだろうか。

何が陰謀論で、何が正論なのだろうか。

あと10年たてばそれが判断できるだろうか?

100年後なら可能か?

今年中に・・・・・ってのはハナから無理な相談か?

でも年老いてしまった愛おしい人たちに残された時間は短いのだ。

子供の頃の夏休み初日みたいに

「時間なんていくらでもある」ってワケにはいかない。あれは錯覚だったのだ。

 

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喰うこと

2021-08-21 13:20:14 | Weblog

時々考えるのは、この世界において我々が生きていくのは大変だってこと。

何というか・・・・

根本的な「喰う」ことからして困難なのだ。

我々に喰えるものって、少ない。

 

僕は小学校の頃、よく一人で近所の大学の農林水産学部に忍び込んで遊んだのだが

そこには赤い、甘い、木の実が生っているところがあって(栽培されていたのではないと思う)、

時々取っては、喰っていた。あれが何の実だったのか、今でも知らない。

 

でもそういうのは例外中の例外であって、

例えば

無人島で一人で居て、腹が減ってきたときに向こうから牛が一頭、歩いて来た、として。

おお、ビフテキが歩いて来た・・・とかいって喰えるだろうか?

無理。

まず戦っても牛には勝てない。

勝てたとしても・・・・解体したりとかの作業って、想像を絶する。無理だ。

 

霊長類はもともと、肉食ではないのかもしれない。牙もないし。

 

魚?魚だって「肉」だけどさ。

 

そう、よく日本人は水族館で「あれ美味そうだ」と魚を見ながら舌なめずりをしている、

などと言われるのだが、

魚だって獲るのは大変だ。釣るにしたって、網張って獲るにしたって。

さて、獲れたとして、どうする。

鋭利な刃物とまな板と醤油とワサビがなければ「刺身」にすら出来ない。

石とかでぐちゃぐちゃに解体した魚って、あまり美味そうではない。

醤油だって、想像を絶した生産工程である。

 

焼く?焼き魚がいい?

もしもマッチとかライターとかがなくて、火を起こさねばならない、としたら。

僕は・・・・火起こしの知識だけは一応あるから、木の枝とか枯葉とかを使って、

丸一日か二日くらい死に物狂いで努力すれば可能かもしれない。無理かもだけど。

でもそれも晴天なら、という限定付きだ。雨の日や湿気の多い日に火おこしは、

どう頑張っても無理と思う。

 

その辺に生えてる雑草食べればいい、という人もいる。

喰えないこともないかもしれないが、アクとか多すぎて、そのうち腹壊すだろう。

手あたり次第の雑草の中には毒草も必ずある。

 

自然のキノコは絶対喰うな、とサバイヴァルの本に書いてあった。

毒性のあるものが多すぎるのだそうだ。

 

森や林で、栗なんか拾えたらそれはラッキーだ。喰うにはもちろん、火は必要だが。

あと、浜辺で貝を集めるのは賢いだろう。これも生ではちょっと駄目だけど。

 

貝と栗・・・・・それって縄文人の主要な食生活だ。

 

万が一、文明から放り出されたとしたら我々は、縄文人になるのだ。

 

その栗と貝さえ、火を必要とするから、

もしも火の知識がなければ我々は、果実を喰うしかないだろう。

 

果実食い・・・・・それってチンパンジーではないか。

 

 

 

喰うことは大事だ。

野生動物は朝から晩まで食いもの探しをしている。

 

我々人類は「食いもの探し」という必然から解放された存在なのだ。

 

とは言え

 

形を変えただけで我々も、都会の中で絶えず

「食いもの」を得ようと惨澹としながら生きているのかもしれない。

 

その「食いもの」は例えばオカネであったり、

権利であったり、

キャッシュカード(の中身)であったり、

ペイペイ(の中身)であったり、するのだけれど。

 

 

ああ、腹減ったな。

 

 

 

 

写真は、僕が思う この世界最上の果実、桃。

この一皿が、僕の今日のランチである。ああ贅沢。

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10年前、10年後、10年前、10年後。

2021-08-17 19:18:48 | Weblog

先ほどの日記で、固定電話を休止することを書いた。

解約ではなく休止なら、権利を保持したままでいられるのだ。

もしイエデンが欲しくなったら「ホイミの呪文」を唱えて復活させればいい。

その権利保持の期間は10年である。そういう様なことを、書いた。

 

しかし思ったのだが、10年なんて恐らく、「あっ」という間に過ぎてゆくであろう。

小説「羊をめぐる冒険」に出て来た女の子(直子ではない)は言う、

「十年って永遠みたいだと思わない?」と。

僕もそう思っていた。

だがそれは、大学生くらいの歳の若者の感慨なのだ。

考えてみれば二十歳過ぎなら10年は人生のほぼ半分の年月だ。

今の僕には10年は永遠ではない。

きっと、ふと気づいたらその電話の権利保持期間が過ぎようとしているだろう。

そして思うのだ、

え?もう10年過ぎたの?と。

実は最近、5年前に入ったバイクの自賠責保険が切れるので、加入しなおす必要が生じているのだ。

保険は1年、3年、5年、と期間があって、

長い期間の物に加入すればするほど、保険料は年間では割安になる。

だから5年前、一番長い5年のものに入ったのだが、当時は5年後なんてそれなりに遠い未来だった。

その自賠責保険がこの9月で切れるから、入りなおさなけらばならない。

5年前は、ははは、保険切れる前にバイク、老衰で壊れちゃうかな?などと思った。

それがどうだ、一瞬だったじゃないか。バイクはもちろん、ピンピンしている。

だから10年も多分・・・・・主観で言えば2秒くらいだろう。

いやそれは大げさだがしかし、大して長い年月ではないであろうことは予想がつく。

ましてや永遠など・・・・・・。

今から10年たてば、僕ももう60歳過ぎである。64歳か?

1960年代にビートルズで、まだ若き日のポールマッカートニーが

「僕が64歳になっても僕のこと愛してくれるかい?」と歌った。

そのことからロックにおいて64歳はひとつの分水嶺の年齢である。

今はまだ遠い未来だが、

実は全然遠くなどないのであろう10年後。

そう言えばこの日記を書き始めてから、ゆうに10年超えるのだ。

10年前の物はやはり確実に、写真の自分の顔が若い。

しかし書いている内容はそう変わらない気もする。

ポールを気取って、僕も聞きたい。

64歳になってもアタシのこと、・・・・・「愛して」などと厚かましいことは言わないし、

言えない。そんな資格はない。

僕に言えるのはせめて、

64歳になっても僕のこと、忘れずにいてくれるだろうか?

ということぐらいだ

(それまで生き延びれてるかどうかは神のみぞ知る)。

 

 

少なくとも・・・・電話の担当者には覚えてて欲しいもんだね10年後も。

だって

9年11か月と30日辺りのところで

「イエデン復活」の電話かけるかもしれないからね。

 

マジだぜ(嘘)。

 

 

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さらばイエデン

2021-08-17 16:43:18 | Weblog

僕が本格的に一人暮らしを始めたのは1985年の大阪で、

その頃にはもちろん携帯電話などというものは影も形もなく

(いや、あったのかもしれないけど庶民のものではなかった)、

一人暮らしの若者には固定電話は高根の花だった。

電話の権利が確か、8万円くらいしたのだ。

なので当然、僕の部屋には電話はなく、不便だったけど

友達も多いわけではなく、その頃の身近な唯一の友達の

佐治くんの部屋は歩いて15分くらいだったから電話もせず直接、歩いて行った。

江戸時代の人はこんなの、普通だったろう。いや、明治でも昭和でもそうか?

1985年といえば、まだ年号は昭和だったもんね。

でも電話は憧れだった。

当時は留守番電話というものが普及し始めていて、それにも憧れた。

でもそうこうしていて1年目くらいに

電話の権利を身内の兄弟からもらえることになって、それはそれは嬉しかった。

もらったのは権利と、昔風の大きな白色のダイヤル式電話機で、

ジリリ・・・・・とベルで鳴るやつ。

あれは結局どこに行ったんだ?いつのまにかペラい、プッシュホン式のものを

使うようになっていた。電話機も今は安価だからね。呼び出し音はルルル・・・みたいな。

でもいつしか気づけば僕も携帯電話を持ち歩いていて、

馬鹿みたいだが、スマホを置き忘れて家を出ると気が気でない。

家の固定電話は、鳴る事も、使う事もなく、ここ何年も置物のようだった。

でも受話器を取れば「ツー」と音が聞こえる。ちゃんと生きているのだ。

それに月に2000円くらい払ってるのだから確実に。

しかし置物に月2000円はちょっと・・・・・考え物だ。

このままあと10年払い続ければその「使わない電話代」の合計額は20万を超える。

20万円あればいいギター買えるぜ。えーっと他に買うもの思いつかないな。

まあいいや、

だから休止することにしたのだ、イエデンを。

解約するとそれはそれで終わりだが、休止、という方法なら

権利を保持したままで居られるのだ今後10年。10年後には自動的に解約となる。

あの憧れだった「権利」をあっさり手放すのはやはり悲しい。

もしかしたらあと5年くらいしたら

電話の形をした置物に、月2000円くらい払いたくなるかもしれない、酔狂だが。

そうなったら復活させればいいのだ。ならないと思うけど。

可能性を残しておくことは大事だ。それがただの「未練」であったとしても。

ということで

本日で僕の家の「イエデン」は休止となる。

かけても「このお電話はただいま使われておりません」というアナウンスが流れると思う。

少し寂しい気がしないわけではないが、時代が変わったのだマイフレンド。

イエデンは時代遅れなんだベイビーブルー。

 

 

 

というわけで、

さらば、イエデン。

またいつか・・・・権利の切れる10年以内に、会えたら、会おう。

 

いや、多分、復活はないけどさ。

 

 

この世界中に、僕のイエデンの番号を知ってる人って

ほんの数人しかいないと思うのだけれど、その人たちに業務連絡です。

もうあの番号にかけても無駄だから、

かけないでね。

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