面白くない話。でも当然、投票行動を放棄するべきではないのだ。

2022-06-30 18:02:06 | Weblog

政治の話なんて面白くも何ともない。

そんなのは、わかり切っていることなのだが・・・・・・・。

 

子供の頃、というか若かった頃は僕は、

政治というものは

政治家という大勢に選ばれた、賢い、ストイックな人たちが

世間の多くの人のことを考えて、縁の下の力持ちみたいな感じで

頑張って物事を動かしているのだ、と思っていた。

本当に,薄ぼんやりとだが、そう信じていた。

だから選挙など行かなくても大丈夫と思っていた。

そんなのは幻想だ、と気づいたのはだいぶ歳を喰ってから・・だった。

 

彼らは、というか特に現政権は、

自分たちの得になる事しか考えていない。

利権、という彼らの私利私欲で物事は動いている。

 

そして選挙制度はまともに機能していない。

そう断言してしまっていいと思う。

宗教団体を母体とする党の「組織票」というものが、かなりの数に上るのだ。

「組織票」の人たちは何も考えていない。

ただ この党に入れましょう、と上から言われて従ってるだけだ。

そしてその人たちは、その宗教の信者以外の人にも、強引な勧誘をする。

冗談抜きで、僕も勧誘を受けたことがある。

その時までその会社の事務の女の人が、その宗教の信者とは知らなかった。

うすら寒い事実。

 

さて、

参議院選挙が公示された。

 

周知の事実だが、

ロシアのウクライナへの武力侵攻、ということがあってから、世界は激変した。

フィンランドとスェーデンがNATO軍事同盟に加入を申請した、というニュースが今日は流れたよね。

すごいニュース。

世界が「ゴゴゴ」という音を立てて動いている。

 

血の気の多い人たちは「そら見たことか」とドヤ顔で、

防衛費増大を声高に言う。

平和主義の意見を「お花畑」と言ってあからさまに見下して馬鹿にする。

僕は「お花畑」という言葉を聞くたびに背筋がぞっと凍る。よくそんなこと言えるよな。

そして政府やメディアは急に、電力が足りないと騒ぎだした。

去年オリンピックとかやってバカ騒ぎしてたけど何ともなかったじゃないか。

原発を稼働させたくてウズウズしている人たちがいるのだ。

そして彼らは憲法改悪を狙っている。

憲法というものは「権力者を縛るもの」であるのに

権力者がそれを変えようとしている。どう考えてもおかしい。

盗人猛々しい、とはこのことだ。

 

あああ、やっぱり面白くないな、こんな話。

 

でも面白くないからといって避けていてはいけない。、

結局、最悪のツケがまわってきて困るのは、死ななければならないのは、

我々のような、何の権力もない、収入も微々たるもの、

貯金もほとんどない、知名度も発言力もない、

そんな「庶民」なのだ、「市民」なのだ。

それはつまり、僕や君なのだ。

 

 

幸いにも、我々には「一票」を投じる権利がある。

 

僕の親しい、愛する友人の何人かにはこの「投票権」が、ない。

この国に生まれ、育ち、税金も払ってるのに、だ。

彼らにこの国の国籍がないのは彼らの責任ではない。

このことはもっと真剣に議論されるべきだ。

 

だから「一票」を持っている我々が、その、投票する権利を放棄してはいけない、と強く思う。

 

 

この選挙の争点は「憲法改正」だ。

僕は「憲法改悪」と言いたいのだが、一応ここでは「憲法改正」と言っておく。

 

消費税を下げさせることも大事だ、もちろん。

富裕層ばかり優遇する傾向にあるからな、この国の今の政府は。

 

でも焦点は「憲法改正」だ。

 

今回・・・・・・もし、「自公圧勝」ということになれば、

彼らは確実に動き出す。

いきなり「9条」に手を付けるようなことはしないだろうが、

例えば自衛隊の存在を書き加える、というようなことをすれば

他の部分との整合性が崩れ、憲法全体に矛盾が生じる((かもしれない)。

それで、その矛盾を口実に、じわじわと攻めてくるのだと思う。

やつらだって賢いのだ、「ずる賢い」のだが。

 

もし本当に、日本中の多くの人が「軍備をもっと増強するべきだ」とか

「自分の息子が徴兵されても構わない」とか、

「もっと世界の戦争に対して”血を流す貢献”をするべきだ」とか、

「攻め込まれる前に他国に攻め込むべきだ」とか、

「核兵器も我が国は持つべきだ」とか

「安全性は後回しで原発稼働するべきだ」とか、そんな風に思ってるのなら、諦める。

 

でもそうではないはずだ、と僕は思っている。

 

 

そう思っているのは、そんな風な国にしたいのは、傲慢な権力者たちなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、やっぱ面白くなかった。

 

 

 

ごめん。

 

 

 

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4人でせーの、で ひとつの絵を描くこと

2022-06-28 21:19:23 | Weblog

ちょっと前のピーターさんの例のラジオ番組「WEEKEND SUNSHINE」は

ケリー・ジョー・フェルプスという人の追悼特集で、

その音楽はスライドギターと歌で、とても良かったのだが、今日はその音楽の事ではなくて、

その人の発言がすごく興味深かったから、そのことについて。

 

彼の音楽はソロ演奏の作品が多く、ピーターさんがインタヴューでその辺を尋ねてみたら、

彼は音楽を「絵を描くこと」に例えて、

「ひとつのキャンバスに何人もの画家が筆を入れないよね?」

「僕にとって音楽はそういうものなんだ」みたいな趣旨のことを言った、という。

なるほど・・・・と僕は深く考えた。

確かに、そうかもしれない。

そうすると「バンド」は、ひとつのキャンバスに、何人もで一緒に絵を描いているのかもしれない。

そういう感触はある。そしてそれが楽しいのだ。

 

ROCA’66の場合は、作詞作曲が僕の場合が多い。

僕がまず、キャンバスにうすく下絵・・というか 「りんかく線」だけの線画を書いて、

その上からメンバー4人でせーの、で

絵具でフルカラーで線や色を付けていく。

時には・・・・この絵、ネガポジ反転したほうがいいんじゃねえ?

みたいな過激な意見に従ってやってみたらすごく良くなったり、

描いては見たものの、どうしても気に入らなくてお蔵入りになったものもあったり、

時には、書き順をすっかり忘れていて、メンバーに教えてもらったり。

気の合う・・・というか、センスの合う仲間と一緒にあれやこれやと絵を描くのが

とてもとても楽しいのだ。

そういうのって、映画製作にも似ている気がする。

映画なんて、どう頑張ったって一人では作れない。

役者、監督、脚本家、カメラマン、照明・・・・・それぞれの役割をそれぞれが演じて、

映画が出来上がる。

僕は、大阪芸大の映画学科に行った友人(佐治くんのことだ)が監督する、進級制作の課題の16ミリ映画作品に

主演させてもらった、というすごく貴重な経験があるのだ。

あれも本当に楽しかった。バンドと少し似ているがやはり、全然違う、他人との共同作業だった。

特に、お客さんの前で演奏する「ライヴ」は、映画製作とは全然違う。

失敗したらやり直せない。「撮り直し」とかがない。

それなら「演劇」と近いか?と言えば、全然違う気がする。

バンドの「ライヴ」は・・・・自分自身を演じるのであって、他人、というか、「役」を演じるのではないのだ。

そこが全然違う。

自分自身を演じるって、なんか変な言い方だな。

でも僕は、そんな風に感じるのだ。

 

 

ひとつのキャンバスに我々4人で絵を描く作品。

バンドの楽曲はきっと、そういうものなのだ。

だからこそ意外性があったり、微妙な陰影があったり、

「騙し絵」みたいなからくりもあったり、

奇妙な立体感があったりとかするのだ。

まるでキュビズム期のピカソの絵みたいに。

・・・・・・・・・・・・・まあそこまで大仰なこと言わなくてもいいんだけど。

 

 

とにかく、メンバー4人でひとつの楽曲をアレンジして作り上げるのは、

本当に楽しい作業なんだぜ。

 

 

そして それを再現する「ライヴ」。

我々はまるで、それのために生きている・・・・ような気さえ、するくらいだ。

 

 

次のライヴは2022年7月17日、大阪・梅田・ハードレインにて。

 

 

限定数有観客と配信セットでやる。

 

 

 

 

人生は年々、ハードになって行くがその反面、音楽は研ぎ澄まされていく。

 

 

 

そうであることを願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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音楽、初期衝動、楽器、そして次のライヴ、その前に正念場の選挙。

2022-06-26 19:42:19 | Weblog

我々は

楽譜とか、音楽理論とか、そういうの関係なく音楽をやっている。

ほとんど勘だけで。

 

でもやっぱスゴイ、ていうか有難いのは楽器の存在だ。

ギター(ベースギターを含む)は、世界中できっと、

もっとも多くの人が演奏している楽器なのではないだろうか。

僕も、13歳の頃にギターに出会わなければ、今こんなに熱心に音楽をやれていないだろう。

すごーく簡単なのだ、弾くのが。そういうふうに作ってあるのだ。

いや勿論、難しい領域はある。

テンションコードとか、ジャズ的な音階理論とか、難しいことなど、いくらでもある。

でも普通にポップミュージックをやるには、とてもとても簡単に出来るように作ってあるのだ。

 

「コード」の存在と、

コードに伴う「スケール」の存在。

この二つは革命的であったと思う。

僕もその二つから音楽を始めた。

でも今思うのは・・・・既存の「スケール」からは人は、いつか抜け出さなければならない。

そうしないと独自の「音楽的拡がり」が得られないから。

自分独自の「スケール(みたいなもの)」を開発できるかどうか?で、

ギターの面白さも、その人の演奏レベルも違ってくる・・・・と僕は思う。

 

ギターと、ベースギターと、もひとつ大発明は「ドラムセット」であろう。

ドラムセットも素晴らしい。

本来なら大太鼓一名、スネア一名、シンバル一名、タムタム一名・・・・みたいな感じで

本当なら何人もが同時に演奏して初めて得られる複雑なリズムを、

たった一人で叩き出すのだ。

演奏者の個性とリズム感も、顕著に表れる。すごく難しいが、やりがいのある楽しいパートだと思う。

音量もデカいから、

バンドの個性はドラマーで決まる、と言う人もいる。

 

我々のほとんどは、ちゃんとした音楽教育など受けていない。

楽器も、習いになど行かず、自己流で始めた。

そういうのが「良し」とされたのは、パンク・ムーヴメント以降の話だ。

僕は、かのボブ・ディランのギター一本引き語りスタイルは

後々のパンクと精神的共通点があると思っている。

要は とにかく「やる」のだ。

 

僕等は「パンク以降」のバンドマンだ。

テクニックやご高説は,いっさい必要ない。

とにかく「やる」のだ、やりたいなら。

初期衝動の持続がとても大切。それを失くしたら、辞める。

 

50歳を過ぎて、何が初期騒動だ・・・と思われるかもしれない。

でも初期衝動は僕の中に、

まだまだ新鮮さを失わず、あり続けるのです。

 

来月、2022年7月17日、梅田ハードレインで

我々、ROCA’66の三度目の配信ライヴを行います。

今回は無観客ではなく、

願わくば・・・・・・限定数で お客さんに入場してもらって、

配信と両方でやる。

 

一回目、二回目、三回目、と全部違う曲でやる。

単に曲順を入れ替えるのではなく、全部 違う曲をやるのです。

 

だから三回目の今回は、

ランブルフィッシュの曲もひとつ、やる。

ばるぼら の曲もやる。

 

二十年以上前に書いた曲もやる。

 

新曲には我々は、いつも向かい合っている。

でも、古い曲も大事にしていくのだ。

 

そういう風にやっていこう、と思っているのです。

 

 

またここで宣伝するので、

見に来れる人は見に来てください。

来れない人は配信で見てください。

 

我々は年々、研ぎ澄まされていっています。

歳を喰うのはそう考えると、悪いことではない。

 

 

 

 

 

 

ところで・・・・今は、正念場の「選挙」の季節だよね。

 

今回のは、ホントに大事だと思う。

 

 

今、ぼーっとしてると「憲法改悪」が現実のことになってしまう。

 

それを許してはいけない、

 

 

改憲派に騙されてはいけない、と強く思う。

 

 

 

大体が、「改憲」が選挙の争点にすらなってないじゃないか?????

 

 

絶対、おかしいと思うそんなの。

 

 

誤魔化されてはいけない。

 

 

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お守り

2022-06-23 21:06:04 | Weblog

これは、僕にとっては「お守り」(・のようなもの)なのだ、と気付いた。

 

仕事で乗ってるトラックの、いつでも手が届く範囲内に置いてある

爪切り。

これは、とある お米屋さんのノヴェルティグッズで、

戸山町、というのは新宿区戸山町なのです。

 

ちょっと前に、今は広島県福山市にある実家に帰省した時、

ひょんなことから押入れの奥の古い写真の束の間から出て来た。

で、母親にお願いして、もらってきたのだ。

 

東京から福山への引っ越しの時 僕は・・・・7歳だったはずだから、

これは ほとんど50年近く以前の物だ。

何という・・・・・・・・・。見つけた時は一瞬、絶句してしまった。

 

このお米屋さんのこと、僕は微かに覚えている。

でも今現在は多分、もう存在しないと思われる。

「お米屋さん」って、昔はそこら中にあったのに。

そこらじゅうにあった「煙草屋さん」も同じように姿を消した。

小学校の近くには必ず「駄菓子屋さん」もあったけど、今ではもう、無いだろう。

プラモデル屋さん、ってのも昔はあったな。

 

 

これは「新宿・戸山ハイツ譚」の一遍として

ここに載せる価値があるかも・・・・・・と思ったんだよ。

そう言えば俺戸山ハイツのお米屋さんの爪切りを常に携帯しながら

関西一円を廻ってるんだなあ、ということで。

 

ただそれだけ。

 

 

 

 

 

向日葵は、だいぶ育ってきた。

またここに写真載せるよ。

 

 

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勝ち負け

2022-06-15 20:47:14 | Weblog

勝ち負けで言うのならば僕なんかさしずめ、

「惨敗組」である。

「ボロ負け組」とか「コールド負け組」とか。

 

・・・・・いや、こんな風に自分を蔑んではいけない。

 

人生に「勝ち」も「負け」も ないのだ。

 

他人に対して優越感を持ちたい人がきっと、

自分のことを「勝ち組」とか言ったりするんだろうけど(リア充とかね)、

僕は別にそいつらに負けた覚えはない。

 

僕が負けたのは「貧しさ」と「世間」に、だ・・・・いや、これは「昭和枯れすすき」の歌詞。

ただの冗談だ。

 

 

何の話だっけ。

 

そうだ、とにかく

 

それぞれに与えられた環境の中で、

与えられた能力を駆使して、運を天に任せて精一杯生きるしかないのだ誰だって。

どうしても出来ないことは出来ないし、

そうかと思えば、誰も出来ないのに自分だけ何の努力もせずにスルッと出来てしまうようなこともある。

かと思えば、コケる時にはコケる。

歯だって、折れるときには折れる。

 

現状は、辛うじて生きてて、自分で歩けるのだから我々はラッキーなのだ。

過去の危なかった場面で、あの時死んでたっておかしくなかったのだし、

それどころか 今、生きてる方が不思議だ。

 

人生は修羅場の連続だ。

 

 

だから もし

僕が敗残者であったとしても、

君の目から見たら、そうとしか見えない・・・・・のだ、としても

 

別にいーじゃねえか、と思う。

 

 

 

 

 

でもやっぱり思うのは

 

 

誰かに殺されたり、

 

逆に、

 

誰かを殺したりするような羽目には陥りたくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうじき 正念場の、選挙の季節がやって来る。

 

 

 

我々の大事な、儚い、脆い宝物のような憲法九条。

 

 

今、権力の側がこれを変えようとしている(そんな風にしか見えない)。

 

 

騙されてはいけない、と強く思う。

 

 

 

次の選挙で またぞろ、与党が「ボロ勝ち」するようなことが起これば、

 

 

我々のような争いを好まない庶民にとって、相当、「暗い未来」の訪れを許してしまうことになるのかもしれない。

 

 

 

憲法改悪されてしまえば

 

 

徴兵制復活も十分ありえるし、

 

 

核兵器シェアリングだって。

 

 

 

そして他国へ「先制攻撃」だって、やるのだ。

 

 

そして、勝ったり、負けたり。

 

 

 

 

 

 

それでは、不毛な荒野が続くだけだ。

 

 

 

 

暴力を使った時点でその人は決定的に「負け」だし、

 

武力を行使した時点でその国は決定的に「負け」だ。

 

 

 

そういう認識を、もっと普遍的なものにしなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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やがて来たる盛夏に向けて。

2022-06-12 20:05:32 | Weblog

何だかもう、夏が来そうな勢いではあるが、

その前に恐らく、梅雨が来るのであろうと推測する。

僕は毎年、この夏を乗り切れるのかどうか・・・と暗嘆たる気分になるのが常なのだが、

気が付くと辛くもギリギリのところで無事、乗り越えていて、でも

乗り越えるたびにひとつずつ、歳を取っていってる気がする。

たぶん気のせいだろう。

小さなことをいちいち気にしてたら生きて行けない。

いつでもそうなのだが、疲れ果てて眠ることは快楽でもあり、苦痛でもある。

こんな風にすり減って行って、それでいいのだろうか?などと思うのだけれども

言うまでもなく、それでいいのだ。

無意味、などと考えること自体が無意味だ。

 

さて僕は今年も、向日葵の種を花壇に蒔いて、毎日水をやっては発芽を待っていた。

芽が・・・・なかなか出てこなくて、ハラハラさせられたのだけれど

種たちはちゃんと発芽してくれて、

絶望の中でもがく僕の「救い」になってくれる。

「救い」っていうか、「希望の光」なのだ。

だって生命活動こそが「エントロピー増大の法則」に相対するものだから。

 

僕もいつか発芽出来るだろうか?

もういい年だから無理です、とレコード会社の担当なら言うだろう情け容赦もなく。

馬鹿野郎、音楽をカネにすることだけが「芽が出た」ってことじゃねえんだ。

 

自分の中の「倫理」とか

「美学」とか

「信念」とか

「哲学」とか

「経験」とか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そういうのをどこまで具現化できるか?ってことだと思うんだよ。

 

(ああ、言ってること青くさいな。)

 

音楽なんて内側に向かったっていいのだ。グレン・グールドなんか

靴箱の中で演奏したのだ(半分嘘)。

 

 

でも我々は外側に向かいます。

 

来月、7月17日は大阪・梅田のライヴハウス「ハードレイン」で、

ROCA’66のライヴを決行。

 

 

ネット配信と、限定人数入場のリアル観客と、ダブルで行く。

 

2022年の7月17日には、梅雨は空けて真夏が到来しているだろうか?

 

 

その時にちゃんと僕は、生きているだろうか?

 

 

100%の確信はない。

 

 

でも死んでる、という予測もない。

 

 

我々はみんな、一か月後も生きているであろう、という

 

 

希望的観測の中に暮らしている。

 

 

向日葵は咲くだろうかこの夏に。

 

 

 

たぶん咲くだろう。

 

 

 

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「絶望の中でもがく」ことについて考察

2022-06-11 20:09:07 | Weblog

しかし「絶望の中でもがくようなロック」って、

意外と・・・・・あるようで、そうでもない気がするんだよな。

 

ストーンズなんか全然そうじゃない。

ビートルズも・・・・そうだジョンレノンはそういう資質がある気がするけど。「ヘルプ!」とかね。

「ヤーブルーズ」とか。

ディランは難解で、でも絶望はしてない気がする。

ルーリードは絶望してるけど、その中で・・・・もがいてない(独断)。

ジミヘンもまた違う。

ジャニス?…・・・・は、近いかな。

あ、ニルヴァーナは・・・・絶望の底まで行ってて、自殺願望を持つにいたる。

テレヴィジョンは・・・・・わからない。

クラッシュは、そもそも絶望してないかも。

レイジアゲインストマシーンなら、絶望をひっくり返せって感じか。

ブルーススプリングスティーンは・・・とても絶望的だがそれでも、希望の要素の方が強いか?

ドアーズも、静かに絶望している。

ボブマーリーは絶望してはいけない、って感じか。

トムウェイツは、諦念してるかも。

レデイオヘッドは・・・絶望から始まってるよね。

レッドホッットチリペッパーズは、絶望を乗り越えたかも。

ガンズアンドローゼズは・・・・絶望なんか知らんかも。

REMは・・・達観してる気がする。

U2は、けっこう近いかも知れない。「絶望の中でもがいてる」かもしれない。

 

最近の音ってしかし、集中して聴いてないなあ。

NYのストロークスも、もうベテランバンドだし、

リバティーンズも今年来日するみたいだけどどうせ金目当ての再結成だろう。

アラバマシェイクスは解散状態だし。

エスペランザスポルディングはどうしてるんだろう。

マネスキンっていうイタリアのバンドがなかなか勢いあっていいんだけどな今。

テデスキトラックスバンドも、バリバリの現役だよね?

 

 

 

結論なし

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絶望の中でもがくような

2022-06-11 18:47:28 | Weblog

先日、福山にいる盟友、ドイケン がメールを送って来た。

それは朝日新聞の朝刊のコラム「天声人語」のことで、

何かと思ったらそのコラムの内容(の前半)は、

その書き主が

落ち込んだ時や疲れた夜に、暗闇の中で甲斐バンドの曲を聴いて、

心を落ち着かせる・・・・・というようなことだった。

続く文章の中で あいみょん の曲名を出したり、6月9日がロックの日、とかも言っているのだが、

前半の文章の中で彼(コラムの書き主)は、甲斐バンドのことを「絶望の中でもがくようなロック」と、

さらりと表現しているのだ。

なかなか・・・・・簡潔な表現だ。僕もそう思う。

しかし、と、とっさに考えた。

甲斐バンドの歴史は長い。1970年代前半にデビューして、1980年代後半に解散した。

今でも時々、再結成があったりする。

僕は思った、コラムの書き主は、いつの時代のリスナーで、

具体的にどの辺の時代の曲を聴いて「絶望の中でもがくような」と言っているのだろう?

絶望の中でもがく・・・という感じで、一番初めに浮かんだのは「漂泊者(アウトロー)」だった。

この歌の主人公は絶望しているし、でも光を求めてもがいている。

それとあれかな、イメージとしては「翼あるもの」かな。

そうすると、80年代半ばくらいか、70年代末期くらいか。

でも考えてみたら初期の傑作「ポップコーンをほおばって」もそうだし、

「氷のくちびる」の主人公だって「きんぽうげ」の主人公だって失意の中にいる。

「吟遊詩人の歌」だって。「そばかすの天使」だってそうだ。

そして

甲斐バンド後期の始まり、とでも言いたくなるような「破れたハートを売り物に」も

「観覧車」も、

やはり絶望の中でもがいている。「ブライトンロック」も、あからさまにそうだな。

いちばん有名な、っていうか甲斐バンドがブレイクした「ヒーローになる時、それは今」にしても

キラキラしてはいるが主人公はやはり切羽詰まっている。

「安奈」の主人公は敗れ果てている。

 

すごいなあ。

甲斐バンドの曲の主人公ってほとんどの人が「絶望の中でもがいている」

と言っても過言ではないのだ。

 

でもここで「ナイト・ウェーブ」に思いが至った。

この曲は 後期甲斐バンドの重要曲で、

後期のライヴでは必ず演奏されていた。

ドイケンと以前、このことについては話し合ったことがあったのだが、

この曲は「希望」の歌なのだ。

切迫感もない、絶望もない、失望もない、喪失もない、不安もない、哀しみもない。

あるのは圧倒的な解放感と、幸福感だ。

曲のバックトラックは打ち込みで、中期の重要曲「破れたハートを売り物に」に使われたものと

たぶん、同じものが意図的に使われている。

 

甲斐バンドは最後に「絶望の中でもがくような」ロックから脱皮したのだ。

 

いや、もちろん「絶望の中でもがくような」ロックが悪いわけではない。

それを心から愛したのだし我々は。

そして今でも愛している。

 

でも甲斐バンドが最後にそこからの脱却を目指して完遂した、と言う事実は

何と言うか・・・・心温まるし、

そのことは祝福したい、と思う。

 

 

「天声人語」の今回の書き主は多分、我々と同世代なのだろう。

甲斐バンドに関して、

初期だけが好き、とか、後期しか知らない、というようなリスナーではないだろう。

 

 

 

しかし朝日新聞の一面のコラムに甲斐バンドの話題なんてね。

昔なら、考えられなかったな。

 

 

 

僕もだいぶ以前は朝日新聞を戸口まで配達してもらってたのだが、

今では新聞を読むような時間は人生の何処にも存在しない。

 

 

テレビも一切見ないので、ある人は僕のことを「世捨て人」と言った。

 

 

いやいや、世を捨ててなどいないのですよ「世間」の方に僕が

捨てられているようなもので。

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とりとめもなく思う

2022-06-06 20:36:16 | Weblog

音楽・・・っていうか、

バンドやるだけが人生ではない。

かと言ってもちろん、仕事するだけが人生ではない。

音楽と、音楽以外の「仕事」、両方あって、両立させて、それでいいと思う。

その二つは、水と油みたいなもので、

混ざり合うことは決してない・・・・のだが、

仕事での経験がバンドをやる時に助けになったり(例えば車の運転とか)、

音楽をやってきたうえで備わった資質(協調性とかかな?)が仕事をするうえで

すごくプラスになったりすることも、ないでもない。

仕事と、音楽。

その二つは別々の存在する方が僕にとっては、自然で、いい。

でも、もしかしたら

例えば、音楽だけの人生、とか

逆に、仕事だけの人生みたいなのって実際にある・・・っていうか、

そういう人もいる(いた)だろう。前者の例を挙げるなら例えば・・・ヴォルフガング・モーツァルトとかさ。

それはそれは壮絶で、絶対嫌だな、と思う反面、羨ましかったりもする。

しかし、そんな人でなくても、

どんな人生でも壮絶な場面には遭遇してしまうのだ、そういうものなのだ。

誰一人、安穏と、のほほんと、そんな風には生きられない。

歯を食いしばる程痛かったり、心が壊れるくらい哀しかったり、

大事な大事なところで大失敗したり、

見事に選択を誤ったり、反対方向の電車に乗ってしまったり、

大事なものを壊してしまったり、

大事な人を傷つけてしまったり。

 

話は初めに戻るが、

音楽はいいものだ、と心から思う。

音楽を、バンドをやれる この環境に僕は常々、心から感謝している。

少なくとも戦火に巻き込まれていないし、

喰うに困っていないし、

仕事を選択する自由もあるし、

言論の自由も(とりあえず)保障されている。

いろいろと歪んではいるが・・・選挙も一応、行われる。

楽器も、ちゃんとしたものが比較的安価で入手できる。

音楽理論なんか知らなくても、作曲もできる。そのことで誰かに文句を言われることもない。

それよりも何よりも、仲間が、、友達がいてくれる。

本当にありがたい、アタシは幸せ者だ、とつくづく思う。

だからプーチン大統領の指揮下で動いているロシア軍は即時、反省して停戦するべきである。

上官の命令に従って人殺しをしている場合ではない。

我々にはみんな、平和に暮らす権利があるのだ。

 

そして世界中、すべての国は、我が国の平和憲法(憲法第九条)を

取り入れるべきなのだ。

 

 

非戦、そして、不戦。

そこから始められることって、きっとあるはずだぜ。

 

 

 

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無題

2022-06-03 21:09:48 | Weblog

そうだ、僕はもっと

心を込めて生きよう。

そうすればいいのだ。

 

誰かに会う時にはいつもいつも、

これがその人との生涯最後の時間だ、と思いながら会おう。

だって本当にそれが最後になるかもしれないのだ。

 

ものを喰うときには、よそ見をして本とかスマホとか見ずに、

ただ集中して味わって喰おう。

いつか何も喰えなくなるのだ。

 

何かを手に入れるときは、

一生それを愛用する覚悟で手に入れよう。

そうでないのなら、手に入れまい。

そんな風に覚悟して手に入れたものはきっと、大事に出来るから。

 

酒を飲むのなら腰を据えて、酔っ払う覚悟で飲もう。

醜態なんかさらしてもいいのだ、生きてること自体が醜態なのだ。

 

バンドの練習もライヴも、

明日自分は死ぬのだ、というつもりでやろう。

そして心残りのないように、100%、精一杯やろう。

だって本当にいつか死ぬのだし、

バンドだって本当に切実に、いつまでやれるかわからないのだ。

今、やれてること自体が本当にラッキーなことなのだ。

 

ここに書いているこのような文章も、

もっともっともっともっと、

全身全霊を込めて書こう。

読んでくれてる人がいるのだ。それは本当に、奇蹟のようなことなのだ。

 

そしてこの人生で起こる何もかもを、

僕は大事にしよう。

 

「愛」なんて、難しいようで簡単なようでやっぱ難しくて、

容易いようで困難なようで、でも裏返ってやっぱ困難だったりする。

 

 

困難でしか 

なかったり 

する。

 

 

 

 

それでも。

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