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「公」が弱い日本 ー学術会議問題ー

2023年04月19日 16時00分19秒 | 社会構造改革
菅さんの時に起きた「政府による学術会議6名の未承認事件」 まだ決着してない。学術会議の会員数も6名少ないままだ。
一昨日かな、政府と学術会議側が会議を開き、政府が考える「学術会議法の改正案」について意見交換をしたようだ。学術会議側から「会員の人選に対して行政側の影響が強い。もっと中立であるべき」との反対論が強く出たようです。当然だと僕は思います。
昨日はこの会議を受けて、学術会議側が「法案の提出を見送るように」との「勧告」を提出したようです。この「勧告」は単なる意見ではなく、「法に基づいて政府に実現を求める文書」で、13年ぶりなんだそうです。学術会議側も必死だということでしょう。

学術会議に関する自論を先に書いてしまえば、
 「社会の諸問題に対する学術的な見解、意見を世に発信し、行政への具申を行う。
  運営費は国(国民からの税金)が出す。  会議の構成員は会議内で決める。」
これでいいと考えてます。外国にもあって、だいたいがこういうスタイルのようです。
行政がとやかく関与するのは無しです。「金だけ出して、しっかり意見、具申してください」でいいのです。行政、お役人たちとはまた違った専門家なんですから。行政の仕事は出てきた意見をどう理解し、どう行政に活用し、どう国民に説明するか なんです。
学術会議も行政も自分の持ち場を国民のために粛々と遂行していけばいいだけの事。

ところが今の行政はそうじゃないんですよ。自分達の考えに異論を言う輩は運営費取り上げて、懲らしめて、自分の言うことをきかせようとするんですね。度量が小さいと言うのかな。  で、これは国民の損だし、危険もはらんでることだと僕は考えるのです。ある方向に引きずられていくことですからね。

さてこういう実態をどう見るべきなのかですが、これは政府、学術会議という「狭い世界」の問題じゃないと思います。「一事が万事」日本社会の縮図だと僕は見てます。
要するに「日本の社会には『公』と言う概念が薄すぎる、薄くされ過ぎた」んだと思うのです。
「世の中 十人十色の人が集まって共同してるものだ」という概念 それが「公」の概念だと僕は考えてます。「考え方」「感じ方」「体の作りから健康状態も」 いろんな人がいる訳でしょう。「こういう人」が多いからそういう人達が「正」じゃないでしょう。少数は少数として十分に認められてないとまずいですよね。
ところが自分と考え方の違う人を「敵」とか「こんな人達」と表現する為政者が出てきて、「公」が薄くなり、「私」「私達」が俄然前に出てくるようになったんだと見てます。

もう一つ「公」という観点で興味を持ってる機能が「公文書管理」。 日本は弱いですよね。むしろ「無い」と言っても過言じゃないでしょう。問題が発生すると、「書き換えちゃう」「捏造呼ばわりして動じない」 りっぱな国だなとあきれませんか。 これは世界的にも恥ですよ。
我々全員の日常の行動はこの「公」の下で営まれてる ここの認識が重要ですよね。
とっても小さいところだと、公園のゴミ箱の使い方 あれだって「公」認識してる? ですよ。
コメント (2)
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