憲法記念日 ウクライナの事もあり、国防、安全保障について考えることが多かった。まともに書き出したら絶対に長くなる。思いの要点だけをかいつまんで書いておこう。
「日本人 もっと真剣に考えないとまずいんじゃないか」の思いが強くなったもので。
ウクライナ以外でここ2,3日中に読んだ、知った国防、安全に関する話は
・三島由紀夫が市ヶ谷で自殺した事件の裏話と彼があのバルコニーで自衛隊員を前に檄を
飛ばした内容。
「君たちは憲法的に中途半端な位置づけだ。そんな立場に置かれてる君たちは真に国を
守れるというのか? そもそも『守る』としてる日本国とは君達の中で何か?」
・ウクライナからの難民を400万人強受け入れたポーランドで今一般民4万人近くが自発的
に国防軍に志願し、射撃の訓練を受けてるらしい。「自分が国を守らなければ」と語る。
若い女性もいる。
九条 護憲だ、改憲だという議論が常にある。ほんとに真をついた議論になってるのだろうか? 改憲護憲を議論する前に「国を守る」ということの本質、実態 そのイメージが国民の中で一定のコンセンサスになっているだろうか。そこの議論(コンセンサスそのものが必要なの?も)からまずやらないと空中戦の議論でしかないと思えるのです。今の状態でウクライナのような状況になった時、日本国はひとつになって対処できるんだろうか。ポーランド人のように志願兵が出てくるだろうか。自衛隊の兵力だけでどこまで対処するんだろうか。安保協定で米国が守ってくれるとしてていいんだろうか。
今行き着いてる思いは これまでの日本人 ここを考えてこなかった。いやむしろ「考えてください。皆さんの義務です。」という為政者からの働きかけもなく、「任せておけばいいや」で他人事にしてきたんじゃないだろうか。
為政者は なんとなくだけど「大丈夫ですよ」感を醸成し、「任せておきなさい」を演出し、国民に考えさせないようにしてきたふしもあるんじゃないだろうか。 なぜそうしたか? その方が自分達の既得権益が守れるから。もう一つあると思うんだが、大々的な国民議論になった場合、まとまりがつかなくなる、収拾できなくなる、自分達のこれまでの「怠慢」が露呈する それらを恐れてきた というのもあるんじゃないか。
国防を考える時 武器、兵力等の物理的な力も現在はまだまだ必要なんだろう。もう一つ 国民の「国を守るぞ」という精神力も必要だろう考えるようになってる。後者も大きな「国力」だ。そして精神的国力無しに物理的国力が活きないのは当然の理かとも考える。
じゃ「精神的国力」を生み、育てるにはどうすべきか。 1人1人が考え、自分の考えを固めていく作業以外に無い。為政者は結果を恐れず、健全な議論が行われるような環境を作り、上手に導いて行く手腕が必要なんだろうと考えるのです。
そしてこれは九条論議にとどまらず、「憲法」を考える場合の基本スタンスだと思うのです。
ついでに、憲法全般について。 憲法は「日本国は・・・、日本国民は・・・」の理念だと思います。日本国民として生きるうえでの社会的制約はその下の法律で規定されるものと捉えてます。世界が、社会がどう変化しても「憲法理念」は変らない、変えてはいけないものと「まず、一義的に」捉えてます。法律を作る際の判断基準(憲法の理念を犯していないか)だと考え、その点で「立憲主義」の考え方を僕はしてます。
憲法論議で悩ましいなと考えてるのは 現憲法の中で「AとBしかない」との前提で条文が書かれてる所は多様性尊重の世に合わないこともあるなという点です。「世の中は男と女だけ」「幸せに生きる共同生活形態は男と女が1対1で結婚という形式をとること」等々。 80年前の社会文化がどうしても入り込んでる部分があるからね。
「かいつまんだ」つもりだけど、長いな。
「日本人 もっと真剣に考えないとまずいんじゃないか」の思いが強くなったもので。
ウクライナ以外でここ2,3日中に読んだ、知った国防、安全に関する話は
・三島由紀夫が市ヶ谷で自殺した事件の裏話と彼があのバルコニーで自衛隊員を前に檄を
飛ばした内容。
「君たちは憲法的に中途半端な位置づけだ。そんな立場に置かれてる君たちは真に国を
守れるというのか? そもそも『守る』としてる日本国とは君達の中で何か?」
・ウクライナからの難民を400万人強受け入れたポーランドで今一般民4万人近くが自発的
に国防軍に志願し、射撃の訓練を受けてるらしい。「自分が国を守らなければ」と語る。
若い女性もいる。
九条 護憲だ、改憲だという議論が常にある。ほんとに真をついた議論になってるのだろうか? 改憲護憲を議論する前に「国を守る」ということの本質、実態 そのイメージが国民の中で一定のコンセンサスになっているだろうか。そこの議論(コンセンサスそのものが必要なの?も)からまずやらないと空中戦の議論でしかないと思えるのです。今の状態でウクライナのような状況になった時、日本国はひとつになって対処できるんだろうか。ポーランド人のように志願兵が出てくるだろうか。自衛隊の兵力だけでどこまで対処するんだろうか。安保協定で米国が守ってくれるとしてていいんだろうか。
今行き着いてる思いは これまでの日本人 ここを考えてこなかった。いやむしろ「考えてください。皆さんの義務です。」という為政者からの働きかけもなく、「任せておけばいいや」で他人事にしてきたんじゃないだろうか。
為政者は なんとなくだけど「大丈夫ですよ」感を醸成し、「任せておきなさい」を演出し、国民に考えさせないようにしてきたふしもあるんじゃないだろうか。 なぜそうしたか? その方が自分達の既得権益が守れるから。もう一つあると思うんだが、大々的な国民議論になった場合、まとまりがつかなくなる、収拾できなくなる、自分達のこれまでの「怠慢」が露呈する それらを恐れてきた というのもあるんじゃないか。
国防を考える時 武器、兵力等の物理的な力も現在はまだまだ必要なんだろう。もう一つ 国民の「国を守るぞ」という精神力も必要だろう考えるようになってる。後者も大きな「国力」だ。そして精神的国力無しに物理的国力が活きないのは当然の理かとも考える。
じゃ「精神的国力」を生み、育てるにはどうすべきか。 1人1人が考え、自分の考えを固めていく作業以外に無い。為政者は結果を恐れず、健全な議論が行われるような環境を作り、上手に導いて行く手腕が必要なんだろうと考えるのです。
そしてこれは九条論議にとどまらず、「憲法」を考える場合の基本スタンスだと思うのです。
ついでに、憲法全般について。 憲法は「日本国は・・・、日本国民は・・・」の理念だと思います。日本国民として生きるうえでの社会的制約はその下の法律で規定されるものと捉えてます。世界が、社会がどう変化しても「憲法理念」は変らない、変えてはいけないものと「まず、一義的に」捉えてます。法律を作る際の判断基準(憲法の理念を犯していないか)だと考え、その点で「立憲主義」の考え方を僕はしてます。
憲法論議で悩ましいなと考えてるのは 現憲法の中で「AとBしかない」との前提で条文が書かれてる所は多様性尊重の世に合わないこともあるなという点です。「世の中は男と女だけ」「幸せに生きる共同生活形態は男と女が1対1で結婚という形式をとること」等々。 80年前の社会文化がどうしても入り込んでる部分があるからね。
「かいつまんだ」つもりだけど、長いな。