今年の大河ドラマ「青天を衝け」を毎週楽しみにしてる。
「勉強不足だね」と言われれば、「ハイそうです」と認めざるを得ないくらいに、幕末から明治維新にかけてこんな男が新日本国作りに活躍してたとは恥ずかしいかな知らなかった。
僕は常日頃、「変化していく事は素晴らしい事、それを楽しみに感ずる自分でいたい」と考えてるんだが、渋沢栄一がそれを実践し通した男と見えて、毎回感動してる。
僕同様このドラマに感動してる人達の中には反対側に「混沌として、変わろうにも変われない今の日本を見てる」人も多いはず。僕は間違いなくそうだ。羨ましい位「変わろう、変えよう、変えなきゃ」が国中にまん延してて、みんなが激論を交わして手探りで進んで行く そんな世にあこがれてしまう。
ここ2,3回の放送で考え、解ってきたことがある。それは「明治維新のあの活気」「栄一のような人間の出現」は望んでももうあり得ないことだろうということだ。
260年間外に目をやることを拒否し、ただただ島国の中だけで順調ならいいで進めてきた人々がある時 外を見せられてしまった。それが理解に苦しむ程の違い、遅れとして見えた。要するに「なにもかにも無く、国の形すら無い日本だ」と知ったんですね。当然世の中はひっくり返るような変動期に入る。
政治的な変革の過程は高校日本史で教えられた「明治維新」でしょう。
一方で社会、人の生活面での変格はそんなに教えてもらえなかったようだけど、そこにいたのが渋沢なんだろう。
渋沢は「社会生活のインフラ」作りをやったんですね。何も無いんだから国を挙げてそっちに向かう。当然活気もあったろうし、エネルギーの塊も生まれたろう。国が一つにもなりえたろう。
今はどうか。ほぼインフラは揃ってる。そんな社会基盤の上で価値観が多様化し、人々が求める形、物も違ってきた。今政治はこの多様化した人々の求める形の調整作業なんでしょうね。
明治維新の頃と今とはこう違うんだと解ると「国の活気」とか「ワクワクする変化」なんて望めないんだなと悟るんです。
更に考えを進めると。
面倒な調整→変革の煩わしさ→現状でいいかの諦め→変革嫌い
もう一つ。 「調整」を「変革」と同義語にしてないだろうか?
「勉強不足だね」と言われれば、「ハイそうです」と認めざるを得ないくらいに、幕末から明治維新にかけてこんな男が新日本国作りに活躍してたとは恥ずかしいかな知らなかった。
僕は常日頃、「変化していく事は素晴らしい事、それを楽しみに感ずる自分でいたい」と考えてるんだが、渋沢栄一がそれを実践し通した男と見えて、毎回感動してる。
僕同様このドラマに感動してる人達の中には反対側に「混沌として、変わろうにも変われない今の日本を見てる」人も多いはず。僕は間違いなくそうだ。羨ましい位「変わろう、変えよう、変えなきゃ」が国中にまん延してて、みんなが激論を交わして手探りで進んで行く そんな世にあこがれてしまう。
ここ2,3回の放送で考え、解ってきたことがある。それは「明治維新のあの活気」「栄一のような人間の出現」は望んでももうあり得ないことだろうということだ。
260年間外に目をやることを拒否し、ただただ島国の中だけで順調ならいいで進めてきた人々がある時 外を見せられてしまった。それが理解に苦しむ程の違い、遅れとして見えた。要するに「なにもかにも無く、国の形すら無い日本だ」と知ったんですね。当然世の中はひっくり返るような変動期に入る。
政治的な変革の過程は高校日本史で教えられた「明治維新」でしょう。
一方で社会、人の生活面での変格はそんなに教えてもらえなかったようだけど、そこにいたのが渋沢なんだろう。
渋沢は「社会生活のインフラ」作りをやったんですね。何も無いんだから国を挙げてそっちに向かう。当然活気もあったろうし、エネルギーの塊も生まれたろう。国が一つにもなりえたろう。
今はどうか。ほぼインフラは揃ってる。そんな社会基盤の上で価値観が多様化し、人々が求める形、物も違ってきた。今政治はこの多様化した人々の求める形の調整作業なんでしょうね。
明治維新の頃と今とはこう違うんだと解ると「国の活気」とか「ワクワクする変化」なんて望めないんだなと悟るんです。
更に考えを進めると。
面倒な調整→変革の煩わしさ→現状でいいかの諦め→変革嫌い
もう一つ。 「調整」を「変革」と同義語にしてないだろうか?