カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

階級社会を笑う   マイ・フェア・レディ

2021-06-15 | 映画

マイ・フェア・レディ/ジョージ・キューカー監督

 もともと舞台劇だったものの映画化ミュージカル。舞台の方は、あのジュリー・アンドリュースだったらしいが、映画では問題があり、それで主役をヘップバーンがやることになったという。
 下町の下級階層出身のちょっと柄は悪いが美人の若い女を、社交界の人間に仕立てる試みを、お遊びでやってみようとする上流階級の(一種の貴族)教授たちの賭けのために、下品な女は振り回されながらもレディの学習をして社交界のデビューを果たす。
 階級社会のある英国にあって、差別まで定着している社会そのものを描いたことで、上流の人たちには面白さがあったものだろうと思う。田舎者で粗野な人間が、上品で繊細な社会に入ると、何かと失敗することになる。それ自体がギャグとして楽しめるという安易な考えがあるのだろう。
 要するに今現代から見ると、ちょっとあからさまな差別的に過ぎて、まったく笑えない。そればかりか、痛い、という感じだ。階級社会はいまだに存在するが、今はそういうあからさまなことはせずに静かに差別しているわけで、そういう意味では陰湿でないだけである。またヘップバーンのわざとらしいが溌溂とした若さのある演技に対して、教授のそれはいかにも中年の皮肉男で魅力が足りない。バランスが悪いので、ロマンスとしてもあまりときめかない。当時の人はよくもまあこんな作品で満足できたものだな、と感心してしまうレベルである。
 見たことは無かったのだが、聞いたこともある音楽は多く、案外これが一世を風靡したらしいことは感じられる。いい時代だったというしかないのではないか。
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我々は孤独である、が。

2021-06-14 | Science & nature

 人類は(ってほとんど米国なんだけど)火星探査を何度も行っており、今のところ火星には生命の痕跡があったという話にはなっている。ずいぶん前から、火星には火星人が住んでいると考えられてきたわけだが、望遠鏡で見る限りは、本当に住んでいるのかというのは、ちゃんとわかっていなかった。無人の探査機を近づけてみて観察してみると、水の痕跡はよく分からないし、どうも人工物もありそうにない。火星人の暮らしぶりがよっぽど変わってない限り、不毛の大地が火星の表面を覆っているように見えた。火星まで探査機を飛ばした功績は大きいが、そうして実際かなりの確率で火星人(いわゆる知能の高い生命体として)はいないだろうとは思っていたけれど、それが証明されてしまうと、それなりに皆がっかりしたのではなかろうか。
 しかしながらがっかりしたとはいえ、知的とは言えないまでも、生命の存在が完全否定されたとは言えない。地球上の生命を考えた時、非常に過酷な環境下においても生命の存在がある。極地であったとしても生命が生きていける可能性があるのだから、火星においても何らかの方法をつかんで生きている存在があるかもしれない。だいたい生命が存在しうる可能性の高い太陽からの距離から言って、火星はいわゆるファビタブル・ゾーンの中にあるのではないかとも考えられている。これは火星の地表に降りてみて、探査するよりないではないか。
 ということで探査機が実際に火星上に降りてみて観察をしてみると、やっぱり荒涼たる台地であることが、見て取れた。それはそれでもすごいことだが、カメラで見る限り、やっぱり生命はいないのだった。そうして土を掘ってみたりなど、観察を続け、探査機は様々な地点を移動し続けた。岩がごつごつして行けないところはあるにせよ、行ける範囲内で見る限り、火星の歴史上、水が流れた痕跡があるらしいことも分かってきた。丸い石などがあることから、それは転がって削れたはずである。地表でそうならないとも限らないが、角が丸くなった石というのは、水中で長期間転がり続けた痕跡である可能性の方が高い(河原の石がそうであるように)。かつて火星には、水が地表にたまっていたり、川が流れていたのではないか。
 そういうところまでわかってきて、そうして微生物らしい形をしたものを発見することになる。これは間違いなく生物の痕跡だと色めき立つ研究者も多かった。
 ところがNASAは、なかなかその痕跡を生命のものだと結論付けはしなかった。それ以外の証拠を探し続け、生命の証拠はぬか喜びに終わるのではないかとさえ言われていた。考えてみると、生命が誕生する必要条件として液体状の環境が必要だとは考えられているとはいえ、いくら地球上であっても、人間がそのような環境を作ったとしても、なんの生命も誕生させることができていない。そうなるはずだという研究は積み上がっていても、いくら単純な生命であっても、例えば細胞の一つであったとしても、人工で生命は作ることすらできていない。しかし地球には生命があふれており、宇宙の広さから考えて、ほかの星でも当然生命が存在することは、間違いないとされている。されているが、それがどうしても人類にはわかりえないのだ。
 ということであるのかどうか……。ともかく、探査は続けられ、議論は尽くされ、これだけの証拠らしい痕跡から勘案することで、少なくとも火星の過去には、生命が存在したということは言える、という苦しい証明がなされることになった。
 さらにだが、どうも火星には、地底になお水の存在があるらしいことも分かってきた。地下にはそれに伴って、生きている生命がいるのではないか、ということになったのである。
 今なお、地球に住む我々は、それ以外の星の生命の確認は、事実上まだである。火星の探査の結果も待ち遠しいが、木星の衛星にも氷の隙間から噴出する水蒸気やその下に流れる水の存在が確認されており、そこにも何らかの生命が見つかりそうだとも言われている。他の遠い惑星でも、地球のような環境にあるらしい星も次々に見つかっている。しかしながら物理的距離からいって、現物の確認は、そう簡単ではないだろう。
 たとえそれがバクテリアのような存在だったとしても、地球以外の生物の確認はできていない。我々は宇宙の中ではいまだに孤独な存在であるようには感じられる。しかしながら、地球自体は、生命にあふれた星である。たとえ隣人がなかなか見つからないとしても、この星の生命くらいは大切に付き合うべきなのではなかろうか。
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深い絶望と罪の上塗り   検察側の証人

2021-06-13 | 映画

検察側の証人/ジュリアン・ジャロルド演出

 英国のドラマシリーズものを、BSでやっていたので見た。なので厳密には映画ではないが、この枠で紹介することにする。原作はアガサ・クリスティーで、このクリスティー作品をシリーズで紹介していたようだ。他のものは見逃したが、これは原作として映画「情婦」にもなった作品らしく、僕自身としては見比べてみるつもりがあったのだろうと思われる。ところがそんなことはすっかり忘れて、そういえばなんか録画されているゾ、と思って観ていて、途中で原案の作品だと気づき、アっと驚いた。なにしろ映画「情婦」とは、かなり違うからである。こっちの方が原作に近いのかどうかも知らないのだが、そうだとすると、映画ってかなり工夫されてたんだな、と改めて思った。
 時代設定が戦時中かその直後というもので、刑務所での囚人の扱い方など、現代人の目か見て問題のあるものが多い。そういう背景も容疑者に同情的になる感情を利用している。そういう演出も含めて、なかなかうまいのだけれど、この事件をめぐって立ち回る容疑者やその妻はもちろん重要なのだが、しかしこの弁護に当たっている病気がちの弁護士こそ、本当の主人公なのである。さらにこの弁護士の立ち位置というものが重要なうえ、この上ない悲劇という感じもする。罪のない人間が殺されることにもなるわけで、取り返しがつかない罪が上塗りされ、そうして深い絶望感に見舞われることになる。まったくそういう話だったのだな、と映画化された「情婦」を知っているからこそその比較に呆然とする気持ちになるのだった。ワイルダー監督というのは、改めて味付けの上手い人だったのだろう。もちろん原作が面白いからこそインスピレーションが働くわけで、それだけこの物語の着想は素晴らしいのである。
 ということで、関連作品にも目を配りながら見ることをお勧めいたします。気分はあんまりよくならないだろうけど……。
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本当に強い人は、腕力など使わないー「RBG」という人

2021-06-12 | culture

 「RBG」というドキュメンタリーを見た。「ルース・ベーダー・ギンズバーグ」という人の略で、昨年87歳で亡くなった。
 クリントン大統領時代に指名されてから、長く連邦最高裁判事を務めた。主に女性の性差別への撤廃に向けての発言が話題になり、実際この人がいなかったら、時代の流れが、まだまだ逆行していたかもしれないとさえ言われている。毀誉褒貶のエピソードは多いが、それだけ反対派には手ごわく、しかし多くの人に愛される人だったようだ。
 コーネル大学に進学後、のちの夫となる大柄なマーティンと知り合う。当時のルースは内気でおとなしい女学生だったが、マーティンは社交的な性格だった。
 ルースたちは卒業後すぐに結婚。娘も生まれる。ルースらは引き続き法律学校に進学し勉強を続けるが、マーティンが都合によりニューヨークの学校へ転入した折にマーティンが癌を発症。仕方がないので娘を育てながら勉学に励んだ、ということらしい。
 成績優秀者でありながら、おそらく女性であったために一般的な連邦裁判所やニューヨークの法律事務所に勤めることができず、地区裁判所判事の助手的な仕事しかなかった。
 そうした中で大学でも非常勤などの教鞭に立つようになり、アメリカ自由人権協会の顧問弁護士になったあたりから、性差別による案件を数々担当するようになる。その実績から名を知られるようになり、さらに差別問題の専門家的な立場で画期的な判決を勝ち取るようになっていく。
 そのような形で着実にキャリアを伸ばしていく妻の活動に、夫であるマーティンは、稼ぎの多かったニューヨークでの弁護士生活を捨てて、ルースについていくようになる(弁護士事務所の転職だろうけど)。そうして影でも表でも彼女を後押しして、政界にもアピールし、実際に優秀な妻を大いに売り込んだこともルースの出世に影響したともいわれる。
 また、ルースは家でも勉強ばかりしているので、料理もちろんその他の家事は、自然とマーティンの担当であったともいう。そうしてついにはルースは連邦最高裁判事の一人にまで上り詰めるのである。
 ただし、当時の状況であっても、保守的な慣習に伴う性差別理解は、エリート層である法律の世界でも厳しいものだった。ルースは基本的に男たちに対して、保育園の園児に説明するようにかみ砕いて物事を語らなければならなかった。そうしてもちゃんと理解されるとは限らない。なぜそれが差別なのか、という問題提起以前の問題が性差別には横たわっているからである。男女の区別的な風習は、伝統的な人間の役割であるとしか考えつかない男たちは、女たちが一体何に苦しめられているのか、その理由や仕組みが皆目見当もつかないし、理解しようがないのである。
 ルースは女たちの権利を声高に主張して、その窮地を訴え同情をかって時代を打開していったわけではない。合理的な理由を積み上げて、根気よく相手の考えを覆していったのだ。例えば出産の折に妻を亡くし、そのまま子育てをしなくてはならなかった男性に育児保証が得られないという差別的な判断について、司法に問うなどするのである。これは男性に対する差別ではないか。ひいてはこのような境遇にふつうに置かれたとしても、なんの手立ても境遇の改善も考えられない女性の方が、いかにたくさんいることだろうか。
 ここによくルースが使ったという有名な言葉がある「(私たち女性は)優遇されたいと言っているわけではありません。私たちを踏みつけているその足をどけてくれ、と言っているのです」 かっこいいですね。
 そういうわけで、女性のみならず絶大な人気も誇った。有名なラップシンガーのノトーリアスB・I・Gをもじって、ノトーリアスR・B・Gともいわれていた。マグカップなどの関連グッズも売れたというし、一種アイドル化していた。最高裁判事は終身で務められるが、ルースは高齢になり居眠りをしたり失言をするようになって批判されても、「(やめるのは)マスコミやあなたの決めることではない」と突っぱねた。そうやって高齢になっても筋トレに励み、連邦最高裁判事を務め続けたのである。
 かねてより男より女の方が強いことは誰でも思いつくことかもしれないが、女が強いからといっていつまでも我慢し続けていいということにはならない。自分の足が、踏みつけている足かどうかさえ分からない男たちの足なんて、払いのけてしまえばいいのだ。もっともそうやって払われてしまうのが僕だったりすることもあるかもしれない訳で、そういうバランス感覚は、常に磨いておきましょう。
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返還前香港と中国合作映画   ポリスストーリー3

2021-06-11 | 映画

ポリスストーリー3/スタンリー・トン監督

 人気シリーズ第3弾。香港の生え抜き警官が、中国本土の女性凄腕警官とともに麻薬シンジケートに侵入し(おとり捜査)、組織の全容解明と壊滅をかけて活躍する。命がけのアクションや、これまで通りのギャグを含めた豪華なつくりの作品になっている。当時はまだ香港は返還前で、香港と中国本土のスターが共演していることも含め、なかなか考えさせられる内容になっている。当時の風俗であるテレビゲームが出てきたり、アメリカのジャングルでの爆破シーンを彷彿とさせるマレーシアでの火薬たっぷりの爆破シーンも見どころである。ヘリを使ったり車などでのアクションも、これまでの廃車同然の車ではなく、ちゃんとした高価なものをそのまま使ったようにも見えており、これは相当予算が確保できたものとみえる。当時の映画はバブリーだったのかもしれない。
 敵のナンバー2の脱獄を手伝って仲間に取り入り、疑似家族を紹介して信用を得るようになるが、香港に帰ってくるとつきあっている彼女に見つかって警察だとあっさりばれてしまう。最初からそういう努力なしに敵と戦うこともできたのではないかと疑問に思うが、まあ、そういう心理戦とギャグの混ざった作風が、いかにも当時の香港映画らしくて、いい感じであるのも確かだ。こういうふざけているのか真剣なのかよく分からない感じこそ、ジャッキー映画なんだよなあ、という感慨が深いものなのである。
 中国のアクション女優であるミシェル・ヨーのアクションの切れも素晴らしく、これだけ体の動く女優が映画に出ている(さらに美貌である)というだけで価値も高い。当時は安易なCGもない時代で、さすがにバイクのアクションなどはスタントマンだろうけど、激しく危険なシーンも当然本人が演じており、その臨場感はすごいの一言である。中国の無名だろうアクション・マッチョなんかも出てきており、さすがに本土は層が厚いな、というのも見て取れる。しかしながら現代になると、やっぱりCG中心だろうからそれほど本当の鍛え方は必要ないのかもしれず、なんとなくもったいない話である。
 結果的にこれでよかったのかどうか分からない結末ではあるけど、まあ、いろんなものは壊滅できたようで、めでたしめでたしなのであった。
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やっぱり会議の日々は続いているが……

2021-06-10 | 掲示板

 今年は総会シーズンがずれ込んで、6月になってもまだまだ終わらない。だいたい5月まででほとんど終了していた時代から振り返ると、スケジュールはその分散漫になっているとはいえるものの、何かつっかえたものがいつまでも残っているような感じで、なんだか落ち着かない。書面審議のところも多いが、そうであるから送られてくる資料が例年以上に机の上に積み上がり、視界を邪魔している。印鑑をついたり(近年は逆にこれをしない資料も多い。署名をして印鑑の欄がないので、かえって戸惑ってしまう)、そのまた保存のためにコピーを取ったり、確認を忘れないようにしなければならない。中には総会の一員としては書面だけれど、役員としてはリアル開催のあるものもあるし、書面とリモートとリアルとの混合で、いわゆるハイブリッドといわれるものもある。ネット会議は長時間には向かないとされていて、別日に研修などを含んだものもある。いろいろあるので当然日時がブッキングしているものもあるし、移動の伴わないものに関しては、三十分刻みで出席が可能になってしまって、過密な日もある。似たような議題なのに、まったく主催者が別で紛らわしいものもある。まだ開催がネットなのかリアルなのか明らかにされていないものさえある。この紛らわしさの中にあって、すでに開催日を間違って手帖に記入していたり、前日に確認してやっと書面審議に変更されていたものに気づいたりして、冷や汗を何度も書いている。結局は電話で確認したものでないと、ちょっと信用できない状態かもしれない。メールは便利になったけど、やっぱり場合によっては、なかなか信用ができないものが含まれているようだ。
 会議自体はズームで十分というものがそれなりにあるのは確かなことだけれど、これが未来永劫続くのかというのは、未確定ではないかと感じる。つまるところ、不十分であるが仕方なくやっているというのが、むしろ露呈してきていると思う。特に生産的なものを決めるものなどの場合は弊害が多い。会社によっては開発が遅れに遅れているという話も聞くが、その通りだろう。リアルというのは、その開催方法の前に無駄がたくさんあるものではあるが、そのために使われる労力に伴い、集中力が高まる場合もあるのではないか。
 もっとも、その後に結構飲み会をやっていたのも確かであって、そういうものはほとんど消えてしまった。2年前くらいの日々を思い起こすと、なんだか本当に遠い過去のような気もする。いったいあれは、何だったのでしょうね。
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自由な心を獲得する女の生き方   アイリス

2021-06-09 | 映画

アイリス/リチャード・エアー監督

 実在の作家だった人物の物語を映画化したもの。大学講師で童貞の青年は、新進の作家で自由奔放なアイリスという女性に惹かれる。しかし彼女の奔放さは、女性解放と相まって性的にも自由すぎ、数多くの男性と複数同時に性交渉をしまくるという変なものだった。恋心から愛に気持ちが変わっているジョンは、そういうアイリスの行動に深く傷付けられながらも、自らアイリスと関係を持ち、まさに身も心も奪われてしまうわけだ。
 時系列はとびとびになっていて、そういう過去があることは徐々に明かされるが、実のところ現在になると、聡明で自由に言葉を操る人気作家のアイリスは、年を取り、どうもアルツハイマー病に冒されているらしい。本人もその異常に悩むが、パートナーとなっているジョンは、心配はしながらも、作家として執筆しているアイリスこそ生きている証、と信じ込んでおり、なんとか自分のもとで、元のような作家生活が戻るものとして葛藤する。しかし病魔は進んでいくわけで、どんどん生活は荒れていくのだった……。
 若いころのアイリスは奔放すぎて、しかし魅力的過ぎてもおり、多くの男に言い寄られてしまう。そうして応じるままにセックスをしてしまうので、当然人間関係は複雑だ。戦争に行く男には花向けで寝てしまうなど、ちょっとでも好きになれば寝てしまう。そんなに好きでもないけど友達だから寝てしまうし、相手が大学教授だから寝てしまう。食事を誘われると寝て、会話が弾むと寝る、という感じもあるかもしれない。それは尻軽であるかもしれないが、いわゆるそういう好きものという意味なのではなく、そういう生き方こそが新しい女性としてふさわしいものであり、哲学的な自由を体現する女としての生き方そのものなのである。そうして生まれた体験や言葉をつづって執筆するタイプの作家らしく、そういう中でウブで冗談好きなジョンと知り合ったということらしい。しかしその変なことばかり言うくせに、純粋にまっすぐ自分に向き合ってくれるジョンに、アイリスは徐々に、本来はとても好きになるようなタイプではないはずなのに、心を許してくれるようになる。
 冒頭からでもあるが、若いころのアイリスを演じるのがケイト・ウィンスレットで、彼女のことだから、当然ながら頻繁にオールヌードになる。今回は川で泳いでいるわけだが、当然水着なんて着ていない。彼女は若くて演技派で清純さもありながら、どんどん肌をさらす女優さんで、まさに映画的に貴重な人だな、と思う。ま、日本にもそんな人がいないわけではないが、逆に年を取ると肌を隠す傾向にあるように思う。ケイトさんは、多少体形が崩れても脱いじゃうので、その変遷も分かって感慨深い思いがする。やっぱり素晴らしい人なのではなかろうか。そうしてそういう女性だからこそ、年をとっても夫から嫉妬され、しかし離れられない思いを抱かせるという印象を強く残すのである。やはり、彼女あっての作品なのではなかろうか。
 でもまあ、実際こんな人がパートナーだと、いろいろ困るよね。
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国民的歌姫が、反政府シンガーになる

2021-06-08 | net & 社会

 マイ・コイという名前のベトナムの女性シンガーのドキュメンタリーを見た。
 マイ・コイは元々シンガーソングライターとして歌ってはいたが、なかなかヒットに恵まれなかったらしい。そういう中、祖国ベトナムを美化した曲を出したところ爆発的なヒットを飛ばし、国民的な歌姫にまで舞い上がることができた。そうして成功を収めていたのだが、今度は共産党政権下のベトナムにおいて、もっと表現の自由を求める歌を歌うようになり、これが政府の逆鱗に触れ、反政府的だとしてマークされるようになる。ますます不自由を感じて欲求をためるようになり、米国の大統領がベトナムに訪れた時に、外国メディアの目に触れるように横断幕を掲げて抗議のような意思表示をし、さらに秘密警察に踏み込まれるなど、危険な立場に追い込まれていく。公的な活動の場は失われていく中、さらに自由な表現の歌を収めたアルバムを制作・発表するに至るのだったが……。
 圧政の中、真の自由を求めて、国民的に人気のあったスターが葛藤しながらベトナムの自由のために戦っているという内容である。基本的にはそうだが、政府が怖いのかどうか分からないが、一部の賛同者しか見当たらない。このドキュメンタリーのクルーは外国のもののようだし、マイ・コイの夫は外国人のようだ。結局当局に捕まる危険を恐れて、国外に逃れて活動するに至ったようで、そこで賞を受けたという結末で終わる。東南アジアなどの事情もあるかもしれないし、特にベトナムは共産党独裁の国ではある。実際に投獄された別の先輩シンガーも出てくる。表現の内容によっては、それなりに危険であることは確かなのだろう。また、このような活動は、現在の香港などを含めた、世界的な潮流の一つであるというとらえ方もされているのかもしれない。
 そういう意味では、なかなかに感慨深い内容ともとれるのだが、やはり何か、西側の活動家の影も感じられたのである。このような絶対的な正義が守られていない国というのは、まだまだたくさんあるというのはそうだろう。民衆は恐れずに声を上げて、そのような窮屈な社会を変えるべきだ、という思いは強いのかもしれない。そうしてそのような圧政の中で犠牲になっている人々を見殺しにするわけにはいかない。
 ただしかし……、と同じアジアンである僕は考えてしまう。日本はそれなりに自由があるが、まだまだタブーも存在する。場合によってはそのために捕まる可能性もないではない。ましてや他のアジアの国ではどうだろうか、というのは、見渡せば、もっと大変だというのばかりのようにも感じる。そうしたことは由々しき問題だと思うものの、では西洋諸国の問題のように、単純に遅れた不自由さなのかというと、やっぱりちょっと事情そのものが違いすぎるとも思う。そもそもデモのようなもので自由を主張することで、政府がやっと動くような政治というものこそ、いったい何のための選挙を経た政治なのかという気もする。まあ、本当にベトナムのことを知っているわけではないから、簡単に物事を判断するわけにはいかないにせよ、それで得た自由こそ、本当に大衆が今欲しているものなのかという気もしないではない。物事には段階があるように思えるので、そういう機を熟させるものこそ、必要なのではあるまいか。もっとも一人であっても、やりようによっては信念で動くべきだとは思うが。
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とにかく騒々しい   ひばりチエミの弥次喜多道中

2021-06-07 | 映画

ひばりチエミの弥次喜多道中/沢島忠監督

 芝居小屋の下足係の娘二人が、麻薬密売事件に巻き込まれて解雇されて、そのお金をもとに東海道を珍道中で旅してまわるという時代劇ミュージカルコメディ。最初から最後まで徹底したドタバタコメディで、当時の歌姫二人が(美空ひばりと江利チエミ)、いわばアイドルとして滑稽映画に徹している作品になっている。
 美男子の同心が実はおとり捜査で麻薬密売団のチンピラとともに行動しており、それを町奉行が監視しながら追っている。元下足係の二人娘は、同中酒に酔ったり暴れたり、歌を歌ったり恋をしたり、とにかく忙しく騒がしい。これだけ騒がしくギャーギャー言っている映画も珍しく、ほんとに耳をふさぎたくなる騒動が続く。家人はこれにあきれてみるのをあきらめ、なぜか僕は退屈して寝てしまった。
 そういうわけで後で後半は見直したが、まあ、そのまま騒がしく終わってしまった。さすがといえばそうかもしれないが、この時代の娘というのはこんなに騒々しかったのだろうか。
 江戸時代だが、時折現代の単語が飛び出したり、ギャグだとは言え、かなりハチャメチャで無茶苦茶である。音楽もジャズもテンポ良く飛び出すし、いわゆるごった煮である。舞台芸のようなきらびやかさもあるし、ロケも当然ある。テンポがいいので、そのままどんどんお話が進んでいくような印象を受ける。それでいて、結局何の話だったかな、という感じで、まあ、ストーリーなんてどうでもいいのだろう。一応筋はあるが、それもまあ、これだからこれで解決したのかは、よく分からない。ちょっとだけ意外性のある悪人もあるが、それにしたって、まあ、怪しくはあったわけで、騙されてやらなくては面白くないかもしれない。
 今のアイドル映画とはずいぶん違うといえばそうだけれど、今とは違った広い意味での国民的なスター・アイドルだったわけで、そういうファン層に慮って思いっきりファン層の要望に応えると、このような映画になったのかもしれない。すごいといえばそうで、しかし物好きな人が楽しんだらいい作品かもしれない。
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杏月ちゃんと心臓

2021-06-06 | 散歩

 もともと年を取ってきたな、という感覚はあった。何しろ14年と半年である。それでも杏月ちゃんの足取りが重かったわけではなく、飛び跳ねてステップを踏むように歩くさまはいつも通りだ。テリトリーの確認にも余念がなく、主要な樹木や電柱などのチェックは入念である。雌犬だが、場合によっては足を上げてマーキングの尿をかけるほどだ。どんなライバル意識なのだろう。
 土日限定というのはあるけど、少し遠出の散歩に出ることがある。時間にするとたっぷり90分。なんとなくだが、いくつかあるコースのうち、これが最適という感じにいつの間にか決まった。雨天であるとか、ものすごく暑い日でない限り、淡々とこのコースを回る。
 知り合いというか、目にする人や飼われているワンちゃんともなじみの人が増えた。その都度アヅちゃんはしっぽを振り、時には芸を披露した。相手が子供だとノリが悪くて、無視したりするが(子供は基本的に嫌いらしい)。自分より同じようなクラスの大きさの犬には特に激しく反応して、勢い良く吠えて威嚇する。どのみち本気ではないことくらいは分かるが、リードでつながっていて制されることを了解済みでこのような行動をとるのである。
 そういう具合で、この日も調子はよさそうだったのである。一通りぐるっと回って、フィニッシュに坂道を登るとき、前方に柴犬を連れて歩いている人がいる。二十メートルは先を歩いており、そうして足取りもしっかりした方で、こちらにかまう様子もない。ただし、距離はつかず離れずで、50メートルくらいだろうか、こちらはそのまま追っかけるような感じになっていた。息は荒々しく興奮した様子で、足取りも強く前に進もうとする杏月ちゃんだったのだが、ちょっと疲れてきたのか急に立ち止まって、後ろ足で顔を掻こうとしたのかどうか。そうしたらフラフラッというか、そのままバタリと横倒しに倒れてしまった。
 一瞬何が起こったか理解ができなかったのだが、あれッ、倒れたのか? という感じ。すぐにしゃがんで胡坐を組んだような足の上に持ち上げて様子を見る。意識はあるがぐにゃりとして力が感じられない。先ほどの鼻息とは裏腹に、息遣いは静かだ。体温は熱いのだろうか? それは僕も汗をかいているのでよく分からない。しかしそのように暑い中なのに、静かな息遣いというのが、大体おかしいのではないか。ぐにゃりとして力はないが、自宅までは8分くらいで歩いて行けるはずだ。そのまま抱っこして、うちに帰ろう。何かおかしいにせよ、腕の中では少しづつ反応は戻っている。
 そうして抱っこしながら歩いていると、フッという感じに急に眼の色が戻って息遣いがハッハッというかんじに戻った。腕の中でマゴマゴしだして、いわゆる降ろせ、という。しずしず地面に体を下すと、何事もなかったように歩き出した。いや、まだちょっと信用できないか。ともかく自分で歩きたいらしい。もう自宅は二三分先だ。やっぱり年なんだろうな、興奮して疲れすぎてしまったのだろうか……。
 ということがあって、やはりなんとなく元気はなくなっている感じはないではないが、翌週を迎えて家にいると、普通通り散歩に行きたがる。さて、今日は様子を見ながら短いコースで行ってみようかな、と思って外に出た。家の塀の手前までグイグイリードを引いて、急げの意志を見せている。こういうのはいつも通りだろうか。と、塀の外側の他の犬の匂いがするのだろう所を熱心に嗅ぎまわり、次へ行こうと前を向いたまま、今度は硬直したようにばたりとそのまま横倒しに倒れた。とにかく僕はびっくりしてしまって取り乱してしまったが、よく確かめるとやっぱり意識がない訳ではない。そのまま家に帰って、つれあいに話し、一緒に病院に連れて行ってもらった。
 この犬種(老犬)の場合よくあることらしく、心臓の弁の開け閉じに不調があって、一所懸命心臓を動かすにもかかわらず、脳に酸素が十分に回らなくなってしまうのだろう、というお話だった。注射して様子を見ようということになる。
 それから後日再度息が荒くなるなどして受診し、別の薬ももらってくる。家での様子は完全に変容して力がない。寝てばかりになり、水をたくさん飲む。トイレにはいく。食欲はあってご飯ばかり要求が激しい。しかし抱っこしても力が弱いし、座り方もおかしいし、歩くときに後ろ足の踏ん張りがきかない。段差を登るのも一苦労だ。ほんの最近まで、僕たちのベイビーだったのに、やっぱり犬というのは人間よりも老化が早いらしい。原因の第一は心臓にあるようだが、人間のように手術ができるものかもよく分からない。ましてや出来たとしても、それでどれくらい良くなるというのか。その後の寿命がどれくらいになるというのか。
 今はきつそうだからという理由で、むやみに抱っこさせてももらえない。実際きつそうだし、以前より明らかに嫌がっている。胡坐をかいて座っていると、必ずと言っていいほどやってきて間に座ったものだが、そういうことよりも一人で伸びあがって息を荒くして寝ている。僕らはしずかにその様子を見守っているだけなのである。

※追伸: 結局今朝、杏月ちゃんは事切れてしまった。
 これを書いたのは1日のことで、その後状態はさらに悪くなり、ずっと何も食べず、ほとんど寝たきり状態になってしまった。ただし、自分で水を飲んだりトイレには行っていた。何度も病院に連れては行ったが、一進一退、いいとも悪いとも……。息苦しそうで心苦しかったりもするが、ほとんど静かになって死んでいるのではないかと思ったりもした。そういうことを繰り返し、体のどこから出血しているかは不明だが、口からにじんでくる血で、前足やあごがゴワゴワと固まった血に覆われていった。
 深夜3時過ぎ位から呼吸の仕方というか、様子が変化し、何か吐きたいようでいて、それができず苦しんでいる感じだった。這うように時折移動し続け、ちょっと静かになったようでいて、顔をあげたようだったが……。心臓が止まっているはずなのに、何度か呼吸のようなものを繰り返して、まだ動いているような気もするが、ダメなようだった。今は、最後までよく頑張ったな、という思いである。楽になってよかったとも思っている。
 今静かになった杏月ちゃんを目の前にして、悲しいは悲しいのだが、そうして、寂しいのかどうかさえ、よく分からないのである。

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何が謎で、誰が手を引いているのだろうか   ゴーストライター

2021-06-05 | 映画

ゴーストライター/ロマン・ポランスキー監督

 元英国首相のゴーストライターの仕事を請け負って、その元首相とともに米国の島の別荘のようなところで取材を兼ねて執筆することになる。そもそも前任者が謎の溺死を遂げており、問題はあるものの、大体の原稿は既に出来上がっている。その最後を書き上げるために、残された時間は一か月と少ない。
ところが原稿を書こうにも、元首相は情報を聞き出すためにテロリストを拷問にかけた疑いで英国に追われる身になってしまう。しかしアメリカは英国の元首相を匿う覚悟はあるようで、米国内なら身柄は安全である。そういう背景はあるが、前任者が元首相のことを調べている過程で、ずいぶん過去にさかのぼって何か秘密を握っていたらしいことに気づく。わずかだがその資料の断片が手元にあり、それを調べるために記載の番号に電話するのだったが……。
 そもそも元首相は、自叙伝で語った政治家になるいきさつにおいて、時系列に齟齬があるようだ。それは彼が学生時代までさかのぼることになる。もともとはノンボリ学生だった元首相だったが、どうして急に政治家の道を志すようになったのか。その頃の友人たちとの写真はあるが、その後その人たちとのつながりはどうなっているのか。ライターは、そのような謎を調べていくうちに、何か国家機密のようなことと結びつくようなことにも足を踏み入れていくようなことになっていく。謎の車に追われたり、英国の政府の人間とかかわりを持ったりする。どちらがどちらの味方なのか、それすらも混乱して分からなくなる。ただし、前任者は間違いなくこのこととの関連で殺されてしまった。自分もかなりやばい状態になっているようなのだったが……。
 そのサスペンスの描き方がなかなかに見事で、観ていて引き込まれていく。もう少しで謎に手が届くような気もするが、何か確信が持てない。いったい誰が何のために嘘をついているというのかさえ分からないのである。そうして最後になってやっと核心にたどり着くと……。まあ、よく出来ているし、これでいいのかよく分からないながら、妙な余韻も残る。名作映画とまで言えないまでも、なるほどな、という感じなんだろうか。できればこんな仕事なんてやりたくないものだが……。
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キャベツの国際的地位はいかに

2021-06-04 | 

 今では珍しいことですらなくなってしまったが、若いころ中国に留学していて、あちらは何でも炒めて食べることにそれなりに驚いたものだ。まあ、そういう料理だと知っているとはいえ、本当に何でも炒める。僕はサラダでしか食べたことがなかったレタスも炒めるし、漬物とか生で齧るのが当たり前だった胡瓜も炒めていた。そんなに目にはしないが、キャベツも炒めるし、果物も、おそらくメロンの一種である瓜も身と皮と分けて炒めていたように思う。パイナップルも炒めるし、南に行くとココナッツ・ミルクのようなものをなんにでも入れて炒めたり煮込んだりする。日本にも野菜炒めというのはあったが、それはおそらく中国の家庭料理のようなものの日本帰化の料理だったのかもしれないが、あちらの食堂のコック(というかランニングシャツ姿のおやじ)というのは、丸太の切り株まな板の上に野菜や肉を同じようにたたくように切り裂いて、ニンニクつぶして油を引いた中華鍋に放り込んだ後は、次々にその切りそろえた食材を鍋に放り込んでいく。ジャーっという激しい音が鳴り響いて、ガシャガシャ鍋をひっくり返す音が次に続く。とにかく激しい音が打楽器のリズムのように打ち鳴らされているうちは、まだ中華鍋の食材にカタチがあるような感じである。中華鍋からあふれんばかりに盛り上がっていた食材が、馴染んで少し落ち着いてくると調味料などで味を調え、そうして最後にまた鍋を一振りして、ささっと大皿に料理を移していく。丁寧に作っている風に見える料理人というのは皆無で、とにかく早くガンガン料理はするものだという掟を持っているかのように、彼らは競って手早く炒め料理をしていた。
 ということなんだが、中国人に限らず、諸外国の人々は、野菜というのは基本的には生では食さないということを知った。もちろんサラダはあちらの人も食うが、それはサラダ用の食材に限られた話であって、本当に限られたものを限られた手法に限って生でたべるということに過ぎないようだ。中には温野菜にしたものを、混ぜてサラダにする。
 僕なんかはコールスローがあるじゃないかと反論したくなる気分になるが、なんと特にキャベツは生で食べることに抵抗が強い食材らしい。コールスローこそ、例外的な例ということなのかもしれない。レタスが生でいいのにキャベツがダメだという線引きの方が、僕には奇異に感じられるのだが、それはかなり明確に引かれている線であるというのが、諸外国人の感覚なのだろう。
 確かにキャベツは、ロールキャベツをはじめ、あのように煮込んで食べるイメージでもあるんだろうか。それはそれで確かにうまいけれど、日本においてのキャベツの地位を考えると、限定的な調理法のような気もする。
 お好み焼きは、基本的にキャベツを美味しく食べる手法を取った料理といわれているし、日本の餃子の多くは、味の決め手はキャベツだという。付け合わせのキャベツであっても、キャベツとのコンビネーションで主食が映えるというケースは多い。とんかつがそうだし洋食風のフライ物もそうだ。焼き鳥屋の盛り付けのキャベツの味こそ、主食のように食べている人だっている。刻んでもざく切りでも、しょうゆでもポン酢やドレッシングでも、塩でも悪くない。これほどの身分の高い野菜も、そうは他に存在しえないのではなかろうか。
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ユルく行ってそれでいいのか   四十九日のレシピ

2021-06-03 | 映画

四十九日のレシピ/タナダユキ監督

 自分たちには子宝に恵まれなかったようだが、夫が浮気相手を妊娠させてしまう。夫の母の介護もあるが、当然家を出て実家の父のところに転がり込む。彼女の最初の母親は幼い時に亡くなったらしく、その後二番目のお母さんが来ていた。父の家では、その二番目の母が亡くなったばかりで、最初は意気消沈していたのだけど、母が働いていた支援施設の若い女が生前の母に頼まれて父の世話をするために来ており、それが何となく少女趣味の服装で、しかしエロくて辟易してしまう。ここまででもいろいろあることは分かるだろうが、物語はそれなりに緩く展開し、せっかくだから景気づけに母親も希望していたらしい四十九日の大宴会をすることになるのだったが……。
 いちおう緩いが、いい感じのコメディ、という設定なのかもしれない。タナダユキ監督だし。しかしながら脚本のセリフが練られていない感じがして、それなりに言葉が滑っている印象を受けた。ファンとしてはそれも含めて「良い」ということなのかもしれないけど、一部キャストも含め、ちょっと惜しいという感じである。問題の大きさに対して、何か微妙な完結感もほとんどない。そこが何より肝心なのに、そこから逃げて結論が降りかかってくるようなところがあって、本当にそれでいいのか、というモヤモヤが残るのである。皆が一緒にいて、最後にハワイアンを踊ったら気分がすっきりして解決したとでも言いたいのだろうか? そんなことはあり得ないのである。
 まあ、僕に合わない作風だ、と言いたいわけではない(それは言いたいことではあったのだが)。面白くなりそうな要素がたくさんあるので、そういうのこそを掘り下げたらもっと面白くなったのだろうな、と思ったのである。過去の残念だった思い出も、単にそれが罰として自分に降りかかったみたいな感じなのだ。それは、積極的には自分自身で消化する必要があるように思う。そういうことこそ、生きていくには必要なことなのではなかろうか。
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漢字の知識は持ち歩くもの?

2021-06-02 | ことば

 本を読んでいたら「六ケ敷候」なんとか、と書いてあって、これは何と読むんだかその時はちょっと分からなかった。でもまあ最近は手元に国語辞典や漢和辞典がなくとも何とかなる。それに簡単な漢字だから調べやすい。文字そのものが読めない場合は手書き機能を呼び出せばいい。これもパソコンでもスマホでもできる。以前なら字画を数えて探したり、部首などを手掛かりに残りの字画で辞書を引いた。なんだかそのころを懐かしくも感じるが、今はほんとにそんな作業をしなくなってしまった。手元にいまだに辞書は並んでおいてあるが、たまにお世話になることはあるものの、ほとんどインテリア化しつつある。時々引いてみると、案外面白くてハマるものの(そういう脱線こそ辞書の醍醐味だったのだが)、やっぱり手っ取り早いものを使ってしまう。しかしながら、パソコンの情報は元をたどれば辞書だったはずで、そういうことを考えると、将来はどうなってしまうのだろうか。誰かが金を出して編纂したりなどしないと、結局は怪しいものになってしまうのかもしれない。
 ということであるが、そうやってスマホで検索すると、すぐに「むつかしくそうろう」と出た。答えを知るとなんてことはないが、インポッシブルだったのだな。しかしながらそういう当て字を用いることから、「むずかしい」ではなく「むつかしい→むづかしい」の方が元々の語感なんだということも分かる。やっぱり調べてみるものだ。
 しかしながら読めない漢字はこのように解決できるようになったことは良かったのだが、手書きで書こうとすると、かなりの漢字を書けなくなってしまった。簡単なものでもちょっと思い出せないのである。手書きで何か書こうとしても、いちいち漢字でつっかえてしまって、かなりスピードをロスする。仕方ないので下書きであってもパソコンやスマホに頼らざるを得ない。自分の手帳やメモ帳には、漢字の断片とカタカナがまぜこぜになったものが、いくつも書き残されている。かっこ悪いことはあるが、誰かに見せるわけではないので一応はいいとするにしても、やっぱりなんとも情けない。
 もっとも今となっては、基本的に文章を書くなどということは、スマホやパソコン相手以外にはやっていない。学生などの若い人たちは、授業などの折には、どのように文字を扱っているのだろうか。もう卒業してしまったので、そういうことをする必要がなくなって本当に助かった。いや、学生さんだって、今はタブレット他、手書きなんてやってないのだろうか? うーん、このような知識というのは、すでに外部入出力でやらなければならないことになっているのかもしれない。
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仕事のやりすぎにはご注意を   踊る大捜査線THE MOVIE湾岸署史上最悪の3日間

2021-06-01 | 映画

踊る大捜査線THE MOVIE湾岸署史上最悪の3日間/本広克行監督

 織田裕二が司会をしている番組を見ていて、昔は彼のドラマや映画に影響を受けていた男たちは多かったよな、という話をしていた。が、つれあいはそれらをまったく見たことがないという。へえ。そういうもんなんだね。一世を風靡した、という感もあったように思うが、それは環境が違うとそういうことは起こりうるのかもしれない。僕は二十代の頭くらいに「東京ラブストーリー」も見ていたので、ひょっとするとファンだったのかな。
 ということで、いささか古くなっているけど観たわけだ。いかりや長介が生きて出演してたりして、なるほど、こんな感じだったのか、を確認した。想像以上にギャグを中心としたユルユルの演出で、テレビっぽいカメラワークでせっかくの映画観がチープなものになっている。ストーリーも、おそらくテレビシリーズのお約束があるのであろう、あまり掘り下げることがなく、伏線の回収も中途半端で、なおかつその場限りでしか通じない何か、というのがあって、よく分からないのだった(僕はテレビ・シリーズは、飛び飛びは見ていたはずなんだけど)。でもまあ、元にあった大事件は、風呂敷を広げた割には、なんだかしょぼい。こんなんで、当時の人は満足したのだろうか。
 当時も言われていたことだったのだろうけど、警察の組織だってサラリーマンの階層社会である。有名大学卒業者のエリート層が官僚として仕切っており、ヒエラルキーが超然と存在している。湾岸所の所轄内での事件であるが、事実上陣頭指揮を執るのは、上から来たエリートである。誘拐されたのは警視副総監という人らしく、それはまあ、えらいことである。署内は色めき立っており、活躍によっては出世がかかっている(らしい)。で、現場の警察官は、お互いに足を引っ張りながら、半分はやる気もなくしながら、上の文句を垂れながら、頑張っているのである。
 これだけ能力のない組織であれば、事件の解決は難しいだろうな、ということで、他人の力を借りて、一気に捜査は進むことになる。いくつか複数の事件は一応絡んでいて、そういうものもなんとなく関連しながら、いい話のようなことに変化していく。見ていてシラケていくが、そういう物語なのだろう。だから最終的にはちゃんと観なかったのだな、という思いは確認できた。みんな若いので懐かしかったが、こういうノリというのは、いい時代だった証だろう。青春は、遠くにありて思うもの、なのであった。
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