失ったものが大きいほど、その喪失感も大きい。それを埋める手立ては、そう簡単に見つかるものではない。たとえ何らかの方法が見つかったとしても、そのまま穴埋めなんてとてもできない。できそうにない。少なくとも、僕にはできない。
歩いていて、息が詰まる思いがする。何か動揺してしまって、足が上手く前に出せないような気もする。それでも歩くことができる以上、前に進まなければならないような気が、漠然としている。立ち止まってはならない。立ち止まると、本当に歩けなくなってしまうのではないか。あまりにもいつもの道を歩いているのだから、薄目を開けていても、前には進めるはずだ。見えている世界が、ぐらついている。以前と同じであるだけで、それだけでつらいことなのだ。
考えないようにするには、何かに集中した方がいい。特別な何かである必要は無い。今やっていることに集中したらいい。目の前にある何か、今やっていること。全神経をもって気合を入れすぎる必要もない。それだけのことをそれだけのままにやればいいだけだ。それでいいはずなのだ。
そうして集中している状態でありながら、フラッシュバックのような映像が浮かぶ。こういうことをしているときにも、面影があるからだ。新聞を読んでいるが、読んでいるときに限って紙面に乗ってきたりしていた。パソコンをいじっていても、膝に乗ってきていた。家の中では、とても無理だ。目の前に集中しようがしまいが、そのすべてに面影が残っている。そのすべてのフレームに、杏月ちゃんは存在していたからだ。
職場は比較的楽だと気付いた。それも仕事を終えて車に乗ってから。職場には、つれて通勤した覚えはない。もちろん仕事中一緒にいたこともない。意識の断片は、自分のコントロール下に収められていない。人がやってくるし、そうして話をする。電話もかかってくる。できればこれは午前中に済ませたいな、とか、これはとりあえず後でやっても構わないとか、選別するだけも時間は流れる。一人の時間でも、そういう作業はついて回る。
そうして、さて帰るか、と思う。そこで思い出す余地が出てくる。我が家に帰る。そう思うだけで、考えの断片に過去の映像が入り込む余地を生んでしまう。運転する車の中で、気持ちを整えようとする。何かぼーっとして、道を間違えてしまう気がする。もちろん同じ道を同じように運転しているから、そう簡単に間違うはずがない。ウインカーを上げて交差点を曲がる。対向車に犬が乗っていなかったか。いや、そんなことが、いったい何の関係があるというのだ。ちょっと、自分にも腹立たしいような気分にもなる。
家に着くとホッとする。ちゃんとたどり着けた。同時にやはり寂しい。いつもと同じでない空間が、僕を待ち受けている。しかしかすかには分かっている。これにもいつかは慣れるはずだ。なぜならもう元のように、迎えてくれる存在はいなくなってしまったのだから。そうしてしかも、つれあいも母もいる。欠けているのではなく、新しい日常が始まっている。今は、その序章に過ぎないのではあるまいか。