今では珍しいことですらなくなってしまったが、若いころ中国に留学していて、あちらは何でも炒めて食べることにそれなりに驚いたものだ。まあ、そういう料理だと知っているとはいえ、本当に何でも炒める。僕はサラダでしか食べたことがなかったレタスも炒めるし、漬物とか生で齧るのが当たり前だった胡瓜も炒めていた。そんなに目にはしないが、キャベツも炒めるし、果物も、おそらくメロンの一種である瓜も身と皮と分けて炒めていたように思う。パイナップルも炒めるし、南に行くとココナッツ・ミルクのようなものをなんにでも入れて炒めたり煮込んだりする。日本にも野菜炒めというのはあったが、それはおそらく中国の家庭料理のようなものの日本帰化の料理だったのかもしれないが、あちらの食堂のコック(というかランニングシャツ姿のおやじ)というのは、丸太の切り株まな板の上に野菜や肉を同じようにたたくように切り裂いて、ニンニクつぶして油を引いた中華鍋に放り込んだ後は、次々にその切りそろえた食材を鍋に放り込んでいく。ジャーっという激しい音が鳴り響いて、ガシャガシャ鍋をひっくり返す音が次に続く。とにかく激しい音が打楽器のリズムのように打ち鳴らされているうちは、まだ中華鍋の食材にカタチがあるような感じである。中華鍋からあふれんばかりに盛り上がっていた食材が、馴染んで少し落ち着いてくると調味料などで味を調え、そうして最後にまた鍋を一振りして、ささっと大皿に料理を移していく。丁寧に作っている風に見える料理人というのは皆無で、とにかく早くガンガン料理はするものだという掟を持っているかのように、彼らは競って手早く炒め料理をしていた。
ということなんだが、中国人に限らず、諸外国の人々は、野菜というのは基本的には生では食さないということを知った。もちろんサラダはあちらの人も食うが、それはサラダ用の食材に限られた話であって、本当に限られたものを限られた手法に限って生でたべるということに過ぎないようだ。中には温野菜にしたものを、混ぜてサラダにする。
僕なんかはコールスローがあるじゃないかと反論したくなる気分になるが、なんと特にキャベツは生で食べることに抵抗が強い食材らしい。コールスローこそ、例外的な例ということなのかもしれない。レタスが生でいいのにキャベツがダメだという線引きの方が、僕には奇異に感じられるのだが、それはかなり明確に引かれている線であるというのが、諸外国人の感覚なのだろう。
確かにキャベツは、ロールキャベツをはじめ、あのように煮込んで食べるイメージでもあるんだろうか。それはそれで確かにうまいけれど、日本においてのキャベツの地位を考えると、限定的な調理法のような気もする。
お好み焼きは、基本的にキャベツを美味しく食べる手法を取った料理といわれているし、日本の餃子の多くは、味の決め手はキャベツだという。付け合わせのキャベツであっても、キャベツとのコンビネーションで主食が映えるというケースは多い。とんかつがそうだし洋食風のフライ物もそうだ。焼き鳥屋の盛り付けのキャベツの味こそ、主食のように食べている人だっている。刻んでもざく切りでも、しょうゆでもポン酢やドレッシングでも、塩でも悪くない。これほどの身分の高い野菜も、そうは他に存在しえないのではなかろうか。