スマホ依存から脳を守る/中山秀紀著(朝日新書)
なぜスマホに依存するんだろうか。この本は、主に依存してしまうような重篤な子供を想定しているけれど、別段依存しているのはそういう特殊な人たちだけではない。完全なる病気として限定すると、そのようにして引きこもってしまうとか、勉学がおろそかになるとかいうことが具体的になりやすい子供に注意が向くのだろうが、実際の所は、大人を含めた我々が問題ではないかと思われる。そうしてそのことに改めて気づかせてもくれる。
依存症は病気だが、病的な症状というのは、完全に病気と診断される以前にすでに出ている場合がほとんどだ。治療といえば大げさに聞こえるかもしれないが、当然ながらこの時点で、何らかの処置ができると、早期で回復か見込まれる場合がある。環境的な要因が大きいとも考えられるので、そういうものを含めて改善する必要はあろう。要するに何度も失敗は繰り返してしまう恐れはあるものの、それが無駄というわけではないだろう。
実は依存症治療には、かなり効果が高い治療法が存在するが、それが治療になることくらい誰だって知っているくせに、なかなかそうならない方法がある。それは他でもなく、依存しているものを絶つことである。依存している人間にとっては、それを取り上げられること自体が、考えられないくらい難しそうに思えるに違いない。そうではあるが、実はこれが単純で、かつ強力であるばかりか、他の治療法を圧倒して簡単なのだという。ただ、抵抗があってやらないだけのことなのだ。さらに他に治療をするといっても、例えばスマホなら時間制限などと比較すると、依存のあるものとのかかわりがある中での葛藤の方が大きく、たいてい上手くいかない。依存しているのだからかかわるだけでスイッチのようなものが入って、もっとやりたい欲求に火がついてしまうようなのだ。要するに失敗するために制限をやっているようなことになってしまうのだ。
いったんそのものから離れるなり絶つなり取り上げるなりした後の退屈な時間を、依存症の人がどのように過ごすのか、ということに意味があるのかもしれない。依存しているので激しく禁断の苦しみを味わうことになるんだろうが、しかしたとえ苦しいとはいえ、別段その人がそのことで死ぬことは無い。他のことだってできるし、それが楽しいとだって思えるはずだ。ご飯も食べるし、散歩もできる。外出してディズニーランドではしゃぐことだってあるだろう。要するに、それこそが治療の意味である。スマホに依存していようと、それなしでも過ごせることは可能だということが、実感として分かるようになり、自分を取り戻せるようになるわけだ。
幸いというかスマホはパーソナルなもので、人から借りたスマホは他人のものである。自分の好みのアプリが入っているとは限らないし、依存していた同じものではないのだろう。もちろん借りっぱなしでいいのなら、自分なりにカスタマイズできるのかもしれないが、借りにくいし借りられなくすることも、あんがい可能だろう。結局は、そこまでするのは酷だろうという甘さのようなものが、依存症の人が依存症から脱することを困難にしているということだろう。そうして社会生活を送れなくなり、引きこもりなど重篤な状態のまま大人になってしまったりするのだ。
実は僕も依存的なところにあると思う。今書いたように、制限は難しいとは思われるが、制限方法を試している。メールはすぐに開かないし、SNSも基本的に画面から消した。めんどくさいので使用が大幅に減って、何と少し退屈を感じる。でも格段に読書量が増えている。こんな文章であっても、書いている文章量が増えているかもしれない。書く前にしらべるようなことはまだやっているけど、もともとゲームはしないし、なかなかいい感じではないか。それなりにチェックしていたネットの記事も、だいぶ読まなくなった。ニュースもかなり知らなくなったので、気分もたいへんに良い。これで友達も減るのかどうかは分からないが、分からないならそもそも問題でも無かろう。というわけで、それなりに感謝の本かもしれない。