カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ヒグマを叱りながら生きる人々

2020-05-10 | culture

 知床の漁師さんが、番屋といわれる漁業の拠点小屋の周辺で、魚を捕りながら生活している。しかしそこには、多くの野生のヒグマが生息している。番屋のすぐそばには、サケの遡上する川も流れている。そういう場所だからこそ定置網の漁にも適しているのだろうし、同時にそれを狙うヒグマもたくさんやってくるわけだ。お互いに生きるためにお互いのやり方でこの地で漁(狩り)をしているのだが、しかしここは世界自然遺産に指定されている土地柄でもある。大自然を世界的に保護するという活動の中にあって、人間が漁をすること、生活をすることには、様々な規制がかかっている様子だ。
 ヒグマの巣窟にあっても、漁師をしている人たちは、銃を携帯しているわけではない。丸腰でヒグマと対峙したとしても、ひるまず大声で「こらっ」と叱るだけだ。叱るときは決して目をそらさず、相手を見据えてしっかりと叱る。バカでかいヒグマであろうと、その気迫に気後れするのか、じきにその場を立ち去っていく。戦えば必ず人間の方が負けてしまうだろう勝負であるはずだが、そんなことをする動物はいるはずないのだし、やはりヒグマはひるんでしまうのかもしれない。また、この場所の歴史も語られており、親子連れなど小さいころから繰り返し叱りつけてきたということもあって、なんだか怖い人間たちであるという刷り込みや学習がなされていったということかもしれない。何しろ半世紀にもわたって繰り返し叱り続けていたらしいし、叱りのコツのようなものも人間には伝授され続けられている様子だ。
 しかしながら長きにわたって撮影されたものらしく、たいへんに不漁の年に、遡上するサケも戻らず、やせ細ったクマたちが、しつこく番屋の周辺をうろついて離れない時期があった。そうして事故には至らなかったようなのだが、一度人間の側に走り近づいてきた個体も映されていた。飢えて気の立っている状態であれば、やはり野生のヒグマであるのだから、かなり危ないことに変わりない様子だった。
 そういう中にあってユネスコの外国人視察団が、この世界遺産の状況を確認にやってくる。大きな材木などが急に海に流れ出ないように防護している川の護岸設備や、漁師たちが川にかけている橋などを、撤去出来ないかという提案(それとも命令)をしているらしい。護岸工事は撤去が決まったようだが、橋の方は、もしもの時に、人間の車での退去などに必要とされるものだから、漁師たちも安易に受け入れられない。自然遺産という環境には反するが、人命にも関わりかねない問題なのだから。
 そういう時にやはり野生のヒグマが現れ、人間たちを取り囲んでしまう。驚いた調査団だったが、クマたちは襲おうとはせずに、周辺にたたずんでいるだけだったのだ。
 人間と野生のクマが共存している場所は、ここ以外には無い。興味は持った様子だが、危ないことには変わりはない、という言葉を残して調査団の米国人責任者は帰っていった。
 結論はよく分からなかったのだが、人間とヒグマの共存という珍しい光景を面白いとは思うものの、やはり自然の中に人間がやってきて、あれこれ経済活動を行うということについては、厳しいものが残されているのかもしれなかった。そのような考え方をする西洋社会とは、相いれない問題のようにも見える。しかしこれを恣意的に理解するということになるのも、逆に人間的なエゴも見えるのではないか。放っておいても済むことなら、それは世界遺産認定ということとは、対立する考えなのではあるまいか。
 などと勝手に考えさせられたが、人間は動物であるはずだが、人間がかかわるものは人工である。要するに自然と対峙した存在であるのならば、この保護にはやはり反するかもしれない。しかしまた考えを伸ばしていくと、自然そのものを放置する措置をとろうとするのもまた人間で、それ自体がやはり人間的な考えのエゴの上に成り立っている自然観でしかない。クマの命は尊いものだが、しかしそのために人間の営みを殺すことも尊いことなのだろうか。殺す対象を選んで気にならない人間というのは、いったい何様の存在なのだろう。
 というわけで、ヒグマを叱りながら生きていく人々は、なかなか難解な存在なのでありました。
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