夏の甲子園大会の中止のニュースは、少しばかり潮目の変わり方を感じさせられるものだったかもしれない。中止になる予告があったので、僕自身は何の驚きも覚えなかったのだけど、世間的な空気として、これは少し違ったものであったのだろう。
夏の甲子園というのは、それくらい日本人にとって影響力のあるものだと、日本人から遠い僕が改めて理解させられた。この反応の仕方と足並みの悪さのようなものに、日本人の足腰の強さや、したたかさのようなものの芽生えを感じられずにいられない。
夏の大会の中止ありきの判断に多くの批判が出たことは、要するに彼らが、世論の期待を完全に裏切ったからだということは言える。こうなることは、ある程度仕方がないという思惑があったのだろうが、そもそもそのような根拠に対して、あれこれと言い訳がましい理由ばかりに思われた。その一種の冷たい内容に、多くの人が残念に思ったのだろうと思う。さらにいいようもない怒りが、先に立って渦巻いたのだろう。たとえば地方大会の開催自体が困難だとする根拠に対して、独自開催を行う自治体が多数生まれた。ささやかなる抵抗でもあるし、世論の後押しを実感できたあかしでもあろう。そもそも、何故その他の地区などに相談などして、地道に考えなかったのかという批判であろう。
いまだに慎重説の方が根強いことは分かる。国民をこれだけ洗脳したのだから、そう考える人が多いのが当然でもあろう。しかし現実の方は動いており、一時的であろうとも、事実上収束してしまっている。今は感染のリスクを考えるより、感染したくてもできないような状態にあるだけのことであろう。そこで普通の人が何を考え行動するのか。監視体制がありながら、自分の出来ることを模索する人が、生まれてくるのも当然だろう。そうして、少しでも常態を積み上げていくこと以外に、我々の人間的な生活は戻りはしない。
未来がどうなるかなんてことを、本当に知っている人などいない。しかし少なからぬ人々の営みは、未来を予見して判断をしているのである。そうして、少なくとも近い将来の希望というものは、現在生きている人そのものの感情を左右させる。
そうして確実に言えることというのがあって、未来というのは、現在自分たちがしていることの結果だということだ。誰かがそうだからとか、そうすべきであるとか、いつまでも受け身で行動していたのでは、結局は他人の責任に乗っかっているだけのことである。よっぽどお気楽な人ならともかく、本気でそういう立場のままズルズルといるつもりでいるのだろうか。そうであるからこそ、今自分が何をすべきかということに真摯に向き合うことが、本当に問われていることなのである。そうやって行動を起こしている人に対して何かを言おうなんてことは、単なる大きなお世話なのである。