河合隼雄が書いていたが、日本の教育界では、個人を大切にしようとか個性を伸ばそうとか、よく大書してあったりする。さらに校長先生が「個性を大切にしよう」と言ったら、なんかワーッとなって、「みんなで一緒になって個性を伸ばそう」という事になって、知らない間にみんなが一体になってしまう。それほど日本では個性ってことがわかってない、と嘆いていた。
思わず笑ってしまうのだが、これを「ふふふ」と思って笑わない人が、やはりそれなりに居る。じゃあどうするんだ、個性はいったいどうしたらいいんだ、という事らしい。
まあ、それはそうなんだが、そもそも個性を伸ばそうって言われたら、ああそうですか、なんて思わないで、そんなことよりもっとこんなことを伸ばそう、とか、おいらは知らねえよ、という人がいたって、そりゃ全然かまいませんよ、というのが、本当に個性を伸ばす環境なんだよね、というと、それじゃあ目標にならないじゃないか、と言われたりする。やっぱり日本じゃ個性なんて伸ばせないよな、とつくづく思う訳だ。さらにそんなんで本当に世間が成り立つのか? と聞かれたりする訳で、おいおい、そもそも世間なんてものが個性に敵対するものなんじゃないかな、とも思う。さて、諸外国に世間のようなものがあるのかないのかはよく分からないが、しかしたぶん日本の世間のようなものではなかろうな。第一、そういうものがあるにしても、個人の立場でそれが大切だと本気で思ってはいないだろう。
個人や個性が大切なら、できるだけそういうものをみんなで大切になんかしない方がいい。それが本当にみんなでいいことだと思う発想自体が、すでに没個性的なのだ。いや、いいことだとそれぞれ個人的に思っていることは別にかまわない。なんだかめんどくさいけど、そういうことに無頓着に賛成なんかしないことだ。
だけどそんなバラバラなんて嫌だよな。それが日本人の感覚じゃなかろうか。それで個性が無いのなら、それはそれで仕合せでいいんじゃないでしょうか。おいらは知らんがな。