カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

いつまでも戦争をやりたい人々

2015-03-28 | 境界線

 ドキュメンタリーの「ヒトラーチルドレン」というのを見た。ナチスの子孫たちの今の姿を追ったものだ。元ナチスの名前は、考えてみたら僕でも知っている人ばかり。ゲーリングやヒムラー、ヘスなど。ある者は自分の子孫が残らないように避妊手術を受けていたり、ある者はイスラエルの若者につるし上げられたりしている。ユダヤの老人から慰められて感極まり涙ぐんだり、逆に自分の親を激しくののしりユダヤ人と一緒になって過去のナチスを憎んだりしている。
 率直に大変なんだが、まず思うのは、彼らはいつまでもしつこいことだ。肉親をホロコーストなどで殺されているのだから当然だという考えもあるんだろうが、ほんとにそれが当然でいいのかというためらいが少ない。悪いことが確定している戸惑いの無さと強さが感じられる。そうした徹底ぶりは、ナチスがユダヤ人を虐殺したものと何が違うのだろうか。僕は東洋人で敗戦国の日本人だから特にそう思うのかもしれないが、このような世界観で戦争をするというのは、人間の近代的な幼さを感じる。もちろん個人の感情だから肯定されてしかるべきだとは思うが、それでいいとは到底思えない。
 多くの人が関連して思うのだろうが、これが日本の比較になるのではと考える人がいるのではないか。事実近隣の国には似たようなことをしつこく言うところがある。戦後がいつまでなのかは知らないが、さらに人間感情としてそれがあるのは仕方のないことだが、だからといって東条家などのいわゆる戦犯と言われる個人の子孫や、天皇家そのものというのが、直接的に非難にさらされたりはしていないだろう。戦後すぐにはあったかもしれないと思われるが、いまだにそれをやるのは人道的に許されることでは無いだろう。もちろん、日本の軍部に個人的に強靭に指導力を発揮して虐殺をしたような人がナチスのように居ないことと、南京虐殺などを挙げる向きもあるが、実際にホロコーストのような虐殺が無かったという捉え方も、多くの場合共有されていることもあるだろう。もちろん、歴史認識が国によって違うのは当たり前だから、そういうナンセンスをしない態度としては、ドイツやイスラエルよりはかなり成熟した文化という事はあるのかもしれない。もちろん、これをやりたい人は存在はするだろうけれど。
 ナチス幹部の子孫たちに複雑な心情があろうことは自然ではある。しかし特に自分の感情の逃げだろうけれど、イスラエルに出向いてまで自分の先祖を罵るような人間が、正常でまっとうな人生だという感覚は、かなり異常だ。そうしてしまうナチスが悪いという事かもしれないが、そういう罪を犯した原罪があるのだという理屈かもしれないが、そのようなことを考えさせられるような残忍性は、最も人間として卑劣なものではなかろうか。実際に彼らは、この子孫たちに何の罪もないことを知っていてこれをやっているのである。またその本人も、自分には何の罪もないことを知らない訳では無かろう。
 このドキュメンタリーは、戦争の不幸を描こうとしているのだろう。しかしそのような底の浅い現実は、単なる人間の愚かさの証明であるという事のように思える。平和な世の中にあって前を見ない生き方は、人々を幸せにしない。戦争が再び起こるとしたら、そのような非寛容の連鎖が終わっていないという事が最大の原因になるのではないか。再び戦争を起こさない努力は、人を恨み続けることでは無い。現実に今何をするかである。彼らの不幸の連鎖は、結局は次の戦争の火種にしかならないだろう。
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