カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

お前は創作者になりたいか?

2015-03-02 | 境界線

 パラパラと「村上さんのところ」を観るのか日課になりつつある。それにしてもすごい量の質問だな。
 受け答えにいろいろ思うところはあるわけだが、様々な批評にさらされる作家の身としてつらいものがあるらしいことも分かる。そりゃ、これだけの世界的な有名人だもの、考えなくても普通だと思うが、本人はそれなりにつらいことだろう。批判にさらされる身としてどのような心構えなのか?という問いに答えて、まずは批評そのものを目にしないようにしているという。さらにどうしてもそのようなものを目にしてしまった時は「おまえは創作者になりたいのか、それとも評論家になりたいのか、どっちなんだ?」と自分に問いかけてみる、のだという。
 これ自体が痛烈な批評家に対する批評性をもっている。作家というぬきんでた力や自負が、批評家そのものの立場を痛烈に批判している訳だ。
 ところでそれは大変に凄い物言いだけれど、これを読んでふと思うのは、作家でもない僕は創作者にも、ましてや批評家にも、特になりたくもない。特に創作者には本当にはなりたくない。自分がそういうものである動機が無いし、もしなりたいと思ったとしても、それがなんなのかさっぱり分からない。プロだったことも一度も無いから当たり前だけど、分かりようがないお話である。さらに批評家という事になると、これは大変に魅力的だな、とは思う。批評性というのは誰だってなれる雑草のようなものだ。だから卑怯にもなる人もいるけれど、それはあくまで自分だという事のようにも思う。村上春樹は批評家を批評するために創作者と批評家を対比しているけれど、そもそもこれは多くの場合対象ではない。外国の場合は批評家の多くは、作家にさえなれなかった人を含んで指すようだけれど(日本にもそういう人は多いだろう)、結局は向き不向きの問題で、村上春樹のように作家としても批評家としても同時に優れているようなマルチな人の方が少数なだけであって、さらに自分に対する批評に個人のつらさがあるのは分かるものの、勝手に批評するというのは娯楽であって、実は本人にはほとんど何にも関係が無い。いや、まったく影響がないとは言えないまでも、批評性を持つ意味のある対象である価値としては、既に作家の人格とは関係のない話なのである。
 まあ、そんなことを思った。
 ところでしかし若い頃には、確かに創作者になりたいと思ったことがあったかもしれない。それは単に有名になりたかったり、お金が欲しかったり、さらに優れた作品にふれて、自分も何か漠然と何かをやりたいというようなものだったように思う。僕の将来の事なんて僕にも分からないけれど、でも結局は何もできなかった過去があって今の僕があるわけだ。そういうことを考えると、創作者ってやっぱりすごいのかもしれないですね。
コメント
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