カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

自己嫌悪を見る

2007-12-10 | 雑記
 昨日は関係者の皆さん本当にありがとうございました。
 ステージ上でコメントを求められた長男は、突然のことに戸惑い何を話していいか分からずモジモジしてしまいましたが、あの後Sダッチの息子さんがコメントしている姿を見て、さらに自己嫌悪に陥り、激しく後悔していたようです。そういうのを見るだけで、いじらしくいとおしいです。それぐらいの失敗ぐらいなんでもないよ、と言いたいけれど、たぶんこういう経験がたくさんあって初めて分かることなので、忠告しても意味がないのでしょう。苦手から逃げないでいてくれさえすればいいんだけど。なんか分からんが、とにかくがんばれといってやりたい。そんな気分です。まあ、あの後プレゼントに頂戴した「目玉おやじ」にはすっかり気に入って精神的には持ち直しました。これぐらい単純な精神は見習おうと思います。がんばれオレ…。
 さて、来年はどこのクリスマス会に行けばいいんだろう…。
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孤立する場所

2007-12-08 | 雑記
 午後から会議だったが、時間前に会場に着きそうなので駐車場から遠回りして散歩した。風はあるが、陽も照って気持ちいい。時々落ちているどんぐりを踏み潰しながら歩みを刻んだ。
 さて会場に着くと既に会議が始まっている。あれれ、と思ったら時間変更で三十分早く開催されたとのこと。ちゃんとファックスで案内を流したとの由。いえ、僕は知りません。このあいだも開催案内を知らなかったし、僕の職場にはブラックホールのような連絡網が存在するらしいことが疑われる。まあ、以前からよくあることだ。困るなあ。
 事業の進捗状況と中央情勢の新情報など。うーむ、まだまだ混迷を深めてますなあ。この国は本当に迷走が好きである。いや、好きじゃないが、あっちを立てて、こっちも立てて、とふらふらしちゃうんである。それも水面下で足をばたばたさせて強引に動くやつが強いらしい。ツケは全部後の人。将来に誰かが地雷を踏む。年金問題なんて、今の担当者は運が悪いだけだとしか思っていないだろう。運じゃなくて体質なのに。ぜんぜん駄目だなあという思いと、恐ろしいなあという思いで話を聞いたのだった。
 さて終了後県庁に陳情に行く。約束していたのに部長も課長も不在とのこと。このために会議が早まったそうだから、会長もご立腹であった。帰ろうとすると玄関で多くの議員さん方と立ち話になる。僕らもいろんな地域から集まっているのでいろんな議員さんがいることを改めて知る。議会開期中なんですね。なかなか帰れない。まあ、しかし陳情にはなってるな。僕らも足をバタつかせているわけである。システムとして同類なのかもしれないなあ、と思った。
 こちらの忘年会はパスして高速飛ばして戻る。地元のPTAの忘年会である。お父さんお母さんと席の塊がある丁度中間に座ったせいで、ちょうど話題の切れ間で話が聞こえてきて、僕の両隣の人がそれぞれ僕に背中を向けるような状態になってしまって孤立した。目の前に座っている少しきれいな奥さんもおとなしい人らしく、時々僕のように孤立するのだが(そういう位置関係の場所ってあるのである)、お互いに特に共通の話題はなくて、気まずい二人だった。時々急に話題がふられ、質問に答えられない間抜けな生徒みたいな感じになるのであった。
 全員が同じ話題で合流したのは血液型がどうだということだった。十四人中六人がB型だそうで、Rhマイナスが二人いた。それで盛り上がりを見せたが、何で盛り上がるんだろうと思った。だいたいPTAに参加するような人間はもともと少数派なんだから、少数派が多少多くても何の不思議もない。
 二次会にも行って、さあシンデレラの時間だというので帰ろうとしたら、Jんさんから強引に手を引かれてビーフンを食いに行った。いや告白するとチャーハンも餃子も酢豚も食った。なぜか付き合わされた僕とO塚さんが持つことになった。たぶんあれは明日になっても覚えてないだろうなあと思ったが、愉快ではあったので諦めた。
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日本酒はききます

2007-12-07 | 雑記
 忘年会のようなものだからよく飲んだのだけど、流石に日本酒は効きますね。ほとんど習慣化している朝の散歩にもいけなかった。アヅちゃんゴメン。なんだか仕事もテンション高くて、いまだにほろ酔い加減なのかもしれない。無駄口が多くなるので集団で仕事できない。恐らくまわりは酒臭いと思っているに違いない。これもごめんなさいでした。さて、午後も会議だし終了後は忘年会だし、ロードは始まったばかり。昨日のような宴会だとお酌して回ってぜんぜん食えないのでかえって体重は減るのだが、今日はどこまで行くのだろう。

 それにしても最近は快楽亭ブラックの落語を聞いているんだが、これだけ下品だと逆に突き抜けて見事だ。最初はかなり驚いたが、タブーというのは突き抜けてみると、あんがいなんでもないのかもしれないなあと思う。一般的にはかなりやばいわけであるが、それでもぜんぜん普遍化したりはしないわけであるが、僕は個人的になんだか吹っ切れた。しかしブラックは体調も悪いらしいが、身の危険もあるだろう。ふざけているようで、戦っているのかもしれない。人間というものの面白みは、見ていないだけで、見ようとしていないだけで、ちゃんと目の前にあるものの中にあるような気がする。僕はまだまだ裸の王様のほうだったんではないかと思った次第。いや、危険なので分からないほうがいいかもしれませんよ。追求しないように…。

 ああそれと無事にある仕事も一段落。もうひとつイベントの山はあるが、個人的に今年を終えることが出来そう。気分は完全に再度乾杯である。嫌な仕事が片付くというのは、その前はつらいが、終わると本当にすばらしい開放感だ。だからといってまたまわしてきて欲しくはないが…。でも本当に済んだんだもんね。うう、嬉しい。
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時をかける少女/細田守監督

2007-12-06 | 映画
 ずいぶん昔から何度もリメイクのあるのは何故なのだろう。もちろんお話がいいということはあるけれど、この話を作りこみたいという欲求もあるということだろう。繰り返しというのは、アイディアとしてやはり面白いのである。ちょっと違うが似ているというか、ついでにお勧めは「タイムアクセル12:01」とか、「恋はデジャ・ブ」なんかも観てはどうか。名作ではないが、それなりに一連の繰り返しを楽しむことが出来るだろう。そして、やはり共通するのは切なさだ。時間とは切ないのである。
 ところで実写版なら僕らの世代は原田知世なのだが、既に彼女の存在が切ないなあと思う。高校の頃以前(たぶん中学)彼女と同じクラスだったというヤツがいて妙に羨ましいと思ったが、こればかりはどうにもならない。僕は理系クラスだったのでほとんど女のいない上に、女優さんになりそうな人もいなかった。まあ、それは彼女らのせいではないけれど、僕らだって誰も有名になりそうなヤツもいなかったわけでお互い様だ。しかしながら断然無名の方が人間はしあわせだろうとも思うので、それはそれでいいのだ。そういうわけで原田知世の「天国にいちばん近い島」というのを諫早の映画館まで観に行って、かなり強烈に失望した思い出までも懐かしい。誰もが思うことだろうが、いつまでも男の子のような子供っぽい声が良くて、話の内容はどうでもいいが、話を聞いていたくなるような心地よさがなんともいえない魅力として、彼女のアイドル生命を持続させているのではないだろうか。
 それにしてもこのアニメはなかなかいい出来だと思う。はっきりいってかなり感動した。ウチの息子は「これってジブリ」と聞いてきたが、そういう水準という意味なのだろうか。
 運命というものはそんなに信じていないけれど、このように時間ともにパラレルに物事が進行していくという考え方は、僕には限りなく恐ろしい。自分自身は連続して存在しているので時間を飛び回っていても支障がないようだが、ある時間において進行していくそれぞれの人たちの運命はどうなってしまうのか。未来というものはこの話を元にするとひとつだけではなく無限に広がっていってしまう。夢を壊すようだが、タイムマシンがこれから先も発明されないのは、このような矛盾を解決できないからではないか。いやしかし、タイムマシンが出来る未来軸に生きている人と、そうでない軸にいるだけであるという考えも出来るわけで、この理屈を支持するだけでいくらでも空想は広がりを見せそうだ。時間とパラレルということの組み合わせが、いまだにSFの世界で人気があるのはそのためだろう。問題は必ず話が進行する上で矛盾が出来るので、そこの理屈を旨くぼかす必要がありそうだ。説明が過ぎても話のテンポを奪いかねない。
 この映画が成功したのは、そういうことをあえて明言していない世界観の構築に成功したためだろう。本当に見事なリメイクで、以前の作品も汚すこと無く実にあっぱれであると思った。

追伸:恋の駆け引きに負けた人間が何故命令口調になるのかは、僕の長年の疑問だ。怒りと応援する潔さという意味なのだろうか。僕はたぶんそんな風にならない性格なので、どうしてもこの気持ちが分からない。この疑問を考えるためにも、誰か解説してくれないものだろうかと思います。
まあ、そういうのをぬきにしても、面白いので本当にお勧めです。
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勢いが必要だ

2007-12-05 | 雑記
 公園で杏月ちゃんのリードを放すと、脱兎のごとく駆け出して、放れていることに気付くと、僕の方めがけて、またものすごい勢いで駆けて戻ってくる。そのままの勢いのまま抱きしめると、たまらない幸福感に包まれる。勢いよく生きているって本当にしあわせだなあと思うのだ。大人になるとこの勢いが出せなくなるので幸福が減るんじゃないかとさえ思う。子供を見ているとしあわせなのは、ただ可愛いというだけじゃなく、そういうわけの分からない勢いのよい生き方に影響されてしあわせを感じているんじゃなかろうか。それはただ元気というものとは違う純粋な信念のようなものだ。子供や動物の生きているという実感が、いつの間にか忘れ去れることによって、大人というか、日本人が出来上がっていくのではないかと僕は疑っている。それって、本当に成熟なんだろうか。まだ僕は完全には大人になりきっていない感じもするけれど、子供にも戻りきれないというところでもある。引き返すというか、せめて勢いは持っていたいものだと思う。だって、しあわせだって思える毎日を送れることは、人生の最大の目的なんじゃないだろうか。あとのことは、全部付属品のようなものじゃないか。そこから個人のわがままとか何とか言うような話になりがちなのは、既に大人の悪いところだ。考えないじゃないが、勢いって重要なポイントだと、杏月ちゃんは教えてくれているのだろう。

 仕事でものすごくたくさんの書類に印鑑を押して、数字もたくさん見て、本当に疲れた。右側に積んであった書類が、仕事が済むと左側に積み上げられていく。左側の書類の山が高くなって右側の書類が全部なくなってしまうと、ものすごく愉快な気分になった。つまらない仕事のようで、やっぱり済ませるということが、成果が分かるということが、幸福感になるということなのだろう。モジモジして後回しにしている自分もいるのだが、エイヤッと重たい腰を上げて手を出して、良かったなあと思う。まあ、次もあるわけで、一時の幸福感なのだが…。

 昼にうどん屋に入ってカウンターの席に着くと、オープンキッチンなので厨房の仕事振りを眺められた。けっこう繁盛しているようで、次々にうどんを釜でゆでてゆく。うどんの玉をホイホイと手に取りカマに投げ入れたり、茹で上がったうどんの湯を切って並べられた丼や土鍋などに移していく。器を準備するおばちゃんも忙しくそのうどんの上にトッピングしたりしている。忙しいのは大変だろうけれど、こういう忙しさはあんがい楽しいんじゃないかとも思う。ホイホイどんどんうどんを茹でて、幸せが続くといいなあと思った。僕はなんとなくうどんは遠慮してワカメそばを食ったのだが、この店はうどん専門店なので、そばのほうはたいして旨くなかった。次はちゃんとうどんを注文できるように、精進を重ねようと思うのだった。
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二度散歩

2007-12-04 | 散歩
 朝と夜に二度散歩する。朝は杏月ちゃん。夜は小琳ちゃん。しかし距離はずいぶん違っている。杏月ちゃんは4キロ程度歩いても、家の近くになるとキューと鳴く。まだまだ帰りたくないのだ。小琳ちゃんは500メートルぐらいしか歩かない。歩かなくなるとズルズル引きずっても、テコでも歩かない。なかなか頑固なのである。体重も危険領域のようだから、彼女にとっての散歩の必要性が高いのである。何とかならないかなあ、と心配である。しかし少しだけ言い訳すると、小琳ちゃんは最近まで足の怪我をしていた。どうも本調子ではないらしい。調子が出ると歩くようになるのか、そこの所までは未知数だ。
 小琳ちゃんは帰ってきてから、トイレの枠外で大失禁をした。外でトイレをしないというのは、行儀がいいのか悪いのか。僕はいまだに判断しかねている。
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壁は崩壊した

2007-12-03 | 時事
 福岡国際マラソン中継を堪能する。現代の高速レースそのものの展開に時代を感じる。国際的には駆け引きというか、こういうサバイバルのみのレースというのが、マラソンの姿になったのかもしれない。いや以前からそうだったのかもしれないが、さらにその厳しさが如実に現れているという感じだ。そういう中で佐藤敦之は流石に見事で、非常に力強いものを感じた。スピードレース出身者でないと長距離も制することは不可能になったのだろう。
 今回初マラソンだというのに、マラソンの準備を一月しかしていないらしいというのに、まさにワンジルは驚異的だった。新聞を読むと、流石に練習の時は40キロはしんどかったという話で、トヨタの監督さんの談話も「初めて彼が人間だったと知った」というようなことである。それでも本番にちゃんとその力を発揮することが出来るのだから、なんという非人間的な力だろうか。ある意味でこのコメントの意味も凄まじいのだが…。
 人間は確かに平等であるべきだとは思うが、アフリカ勢の身体能力の高さは、同じ人間ではないことを証明していると思う。努力で超えられる壁ではないのではないか。もちろん彼らは能力が高い上に、非常にまじめに努力もする。当たり前のように日本語でインタビューも受け答えできる。誠実で人格的にも偉いのだ。ワンジルは年齢も21歳であることを考えると、経験がモノをいうマラソンという競技において、その将来性は計り知れないものがある。最後まで競っていたエチオピアのメルガのような、普通にものすごい人が大勢いるアフリカ勢において、それでも頭ひとつ抜け出す力のある人間は、まさにワンジルのような人なのではないか。これから続く駅伝も目が離せなくなってしまった。

 チャンネルを変えると大学ラグビーも試合をやっていて、これも早稲田の驚異的強さに圧倒された。これは同じリーグのチームではない。これだけ普通ではない軍団が出現したことは、次の段階に行かない限り通用しないということである。日本においてのラグビーというスポーツは、間違いなく次のステップを踏んでいる。そしてそれが出来るということを早稲田が証明している。壁が崩れたということを、まさに目撃した。これが社会人や、高校などに波及すると、本当に面白いことになるのではないだろうか。

 上限というのは、自分自身が決めていることだ。こういうショッキングなレベルの高さを見るにつけ、自分自身のブレークスルーも必要だなあとは思う。次元が違うからあきらめるのではなく、自分自身も次の段階まで、まずは登る努力をしなきゃ、ということだろう。
 なんとなく元気になって散歩していると、体が暑くなって上着を脱ぐほどになった。それでもぐんぐん歩いていると、やはり気温は下がってきて汗が冷えて寒いのだった。ま、計画して戦略を練ることからだな、ということである。気分だけでは駄目なようだ。
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菊と包丁

2007-12-02 | 散歩
 朝から杏月ちゃんと散歩していたら、見知らぬばあさんに呼び止められた。なんだろうと近づくと、いきなり包丁を差し出された。
 別に脅されたのではない。菊の花がたくさん咲いているので、自分で切って持って帰ってくれ、ということだった。そんなにご近所のお宅ではないし、丁重に遠慮申し上げたが、これだけ咲いているが、後はもう必要ないし、ぜひ持って行けという。ご好意には違いないので、それではということで頂戴することにした。
 しかしながらこの包丁がまったく切れない。料理に使えなくなったから園芸用に転用したものなのだろう。しばらく苦闘して、ひとかたまり花束を作った。物を大切にすることは尊いことだと思うけれど、ばあさんいつかはこの包丁で怪我するんじゃないかと心配になった。まあ、いまさら他人の忠告を受ける年齢ではない。名人は切れない包丁でも使いこなせるのかもしれない。
 杏月ちゃんがころころ歩いているので菊の花をやろうという気持ちになったものだろうか。食べるものは何ももってないねえ、とばあさんは申し訳なさそうにつぶやいた。物をもらわなくても杏月ちゃんは喜ぶので、そんな風に考えなくてもいいのに、と僕は思うのだった。普通になでなでしてくれる関係の方が望ましい。それにこれくらいだからいいという関係でもあるのだから。
 朝は放射冷却というのだろうか。帰り道は花束を持つ手がかじかんで仕方がない。急ぎ足になるので体は汗が出るように温かいが、手だけがどんどん冷えていく。
 やっと帰り着くと、つれあいはウチにもたくさんあるのに、ということだった。この花が仏壇に飾られることがあるのだろうか。ご好意は、する方も受ける方も難しい問題なんだな、と思うのだった。
 しかし、僕はこのばあさんは嫌いではない。またあの通りを通るとき、挨拶できる楽しみが増えたのだから、それでいいのである。手がかじかんだおかげで、僕はたぶんこのご好意を忘れないだろう。
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食いすぎに熱心

2007-12-01 | 
 晩御飯で人参スティックを食べていたのだが、小琳ちゃんや杏月ちゃんも喜んで食べることを知った。ぽりぽりという音が楽しくて、食べさせるだけでかなり愉快な気分だ。犬が飯を食うというのは、どうしてこうも楽しいのだろう。もちろん人間が飯を食ってもそれなりに楽しそうだけれど、犬が食うほど愉快ではない。
彼らにも好みがあって食うときの勢いのような違いはあるけれど、基本的には何の食い物であろうと最大の興味を示し、食べられるものであれば愉快そうに食っている。とりあえず嬉しそうに近寄って、結局食わないときはかなりふてくされた顔をしていて、それはそれでなんとなく楽しい。
 実はある人から大量に人参を頂戴していて、恐らく食い尽くすことがかなり困難な状況だ。コンテナに二十以上あるようだ。せっかくのご好意なのでがんばって消化していこうと思うが、限度がある。まあ、杏月ちゃん達が食べる量なんて人間に比べると知れたものだから解決策にはならないか…。
 肉や魚ならほとんど何の問題もなく食うけれど、野菜となるとやはり食いつきは違う。杏月ちゃんはたいていのものを食うようだが、小琳ちゃんはそこまで雑食性がない。というか、好き嫌いがはっきりしているようだ。杏月ちゃんはまだ子供なので、自分が何が好物かという判断そのものが甘いらしい。
 果物もたいていは喜んで食う。柿も食わせてみたが、勢いあまってタネまで食うようだ。渋柿は試していない。
 面白いところでは胡瓜なんかも食う。これは音がしてものすごく楽しい。皮には毒があるらしいから、食いすぎには注意がいるかもしれない。
 そういえばトマトも食うし、キャベツなんかも少しなら食うようだ。翌日の便を見てもそんなに影響がないような気もする。むしろ骨を食いすぎると極端な軟便になったりするので注意が必要だ。
 みかんも一粒づつぱくつく。勢いがあるので旨いのだろう。
 枝豆もものすごい勢いで食う。皮から飛び出す粒を一所懸命に根元で捉えようとするしぐさが格別に可愛らしい。あんまり楽しいので、自分のつまみが不足する。つまみをもう一品増やしてもらいかねない。
 犬ではないが以前は父が馬を飼っていて、馬は本当に人参が好きだった。人参を見ると興奮して、ものすごく鼻息が荒くなって大変だった。ゴボウも同じように大好物で、興奮の度合いは同じように最大値を示していた。しかしながら大根になると少しテンションが下がる。根っこモノが万能というわけではなさそうだった。人参やゴボウを食った後は走る力もぜんぜん違った。まさに力がみなぎるという感じで、脱兎のごとく走るのだった。滋養強壮に高麗人参が効くというが、これだけ違うのだから人間にだって少しぐらいは効くのかもしれないと思うのだが、僕は個人的に人参を食っても興奮しないようだ。まあ、レバニラ炒めを食ってもそれほど興奮するわけではない。食うだけで力がモリモリというような魔法の食い物は、人間にはイメージ上の概念なのかもしれない。
 しかしながら犬の飯を食うしぐさを見ていると、好物であればあるほど、ほとんど噛まずに飲み込んでしまう。一口づつを楽しんで食うよりも、量をもっと欲しいということなのだろう。もしかしたら喉やら食道にも味覚を感じるということがあるのだろうか。当然ながら好きなものは際限ないように食って、後で吐いてしまうこともあるようだ。調子に乗って食わせすぎは危ない。
 そういえば人間が太るのも、食い物が旨すぎるようになったせいだという話があった。質素な食事は味のほうも質素なもので、大量に食うことが出来ない。料理がまずくなると減量には有効な手段かもしれない。
 しかしながら、だからといって食いたくないものばかりを選んで食う人などいないだろうし、旨そうなものはそこら中で簡単に手に入る。食いすぎをとめるのはやはり難しそうだ。無理に食いすぎているという意識さえ、もはや誰も感じていないだろう。食うことの欲望においては、人間も犬とそう変わらないということなのだろう。
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