小谷野敦の「このミステリーがひどい!(飛鳥新社)」を読んでいたら東野圭吾の批評をしていて、まあ、全体的にはなぜここまで人気作家なのか分からないという話なのだが、その東野圭吾が寡作で単著が88点しかない、と書いていた。デビューから30年で年に2、3作しか発表しない所為だという。それにしても90点近くも単著があって寡作といわれるのはどうなのかと思ったのだが、他の人気作家なら同期間にもっと書くものだということだ。同じく紹介があって、デビュー30年だと、西村京太郎なら200点、赤川次郎は500点に達しているそうだ。凄いですね。
推理作家ではないが、僕が子供の頃に本屋の文庫本の棚のところに行くと、一番たくさん置いてあった本は片岡義男だったのではなかろうか。あと森村桂(かつら。僕は当時はケイだと思っていた)とか。それにしてもこの二人の当時の勢いは凄かったのに、今はぱったりと見なくなったものだ。ともあれ完全ではなかろうが、片岡義男をWikiってみると、小説が113点、エッセイが44点、評論が10点、写真集12点、翻訳が34点、さらにテディ片岡名義が7点、合計220点あったらしい。なんとなく比較になっているのか分からない結果になってしまったが、たくさんだけど小説だけ考えると、東野圭吾がそんなに少ないとはやっぱり思えない。
さらにやはり流行作家の売れている感覚というのがあって、東野は相当の金額を売っているという感じがするが、今は個人情報なのか何なのか知らないが、そこのあたりがよく分からない。まあ年収だと2、30億くらいだという話もあるが、これも多いのか少ないのかよく分からない。まあ、多いといえばそうだけど、これだけ売れたのなら当然という感じかもしれない。そうでなければ作家を目指すような奇特な人というのが育たないのではないか。また、本が売れるというだけでなくて、映画化権のような収入もあるだろう。
余談だが、漫画家などはこの映画化権が少ないという話があって、小説家よりも可哀そうな感じがする。1枚当たりにかかる時間やアシスタントを雇うなどの経費なども鑑みると、漫画家の方が技術もリスクも大きいように思われる。小説家にだってそれなりに大変なこと(取材や資料代など。司馬遼太郎などは年に億単位で本を買っていたらしい)はあるだろうが、中にはスマホで移動中に原稿を書いている(又吉直樹は本当にそんな風に書いているらしい)ような作家もいるという。結局は売れる売れないの商売なので、小説が素晴らしいというだけでは話題性が無いので、美人だとか有名だとか、逆にひどく貧乏な出身だとか、犯罪者であるとかのキャラクターが小説を書かなければならないということになるだろう。実際にそういうケースがそれなりに散見されるわけで、筆一本で人気作家になれるというのは、レアな上にさらに少数派という存在になりつつあるのではないだろうか。
もっともやはり量産できる才能というのがさらについてなければならない訳で、いくら金持ちになろうとも、本当に割に合う商売なのかはかなり疑わしいと思われるのだった。