カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

枯れ木と蓼食う虫

2015-12-04 | ことば

 今更ことわざに感心するような年頃ではないが、しかし時には身に染みるという感じでことわざにふれることがある。恐らく共通の感情をその場に伝えることにおいて、やはりことわざというのはなかなかの優れものである。
 若いころに少し年配の女性(要するにおばちゃん)から、「枯れ木も山のにぎわいだからね」とよく耳にした。これは安易に同意はできないから、危ないトラップだとは思ったが、まあ、ニコニコしていればいいだけのことである。しかし心の中では、確かにそうかもしれないな、とは思っていた。人がたくさん集まるだけでなんだか楽しいものだし、特に自分好みであるとか、美人であるとかの人が居なくても、女の人がいるだけでも楽しいような気分にはなるものだ。極端に違う世代ばかりというのはそれなりに考えることもあるかもしれないが、例えそうであっても、いろんな人がワイワイやって集まったりするのは、山のにぎわい的に楽しいのではないか。
 また、そのような、枯れ木のような存在こそ、時にはやはり必要なのではないかとも思うのだ。何もかも自分好みで、何もかも一流のようなものに囲まれることが、本当にしあわせなことなんだろうか。もちろん、それが一番だというのは分からないではないものの、例えば幕の内弁当みたいなものであっても、本当は好きじゃない煮た人参なんかを食べることによって、玉子焼きの味が引き立つこともあるんではなかろうか。
 同じように人を馬鹿にしたようなことわざに「蓼食う虫も好き好き」というのがある。これは確かにそのような人を小馬鹿にしているには違いないが、そのような物好きな人がいることを、やはり認めざるを得ないことも、笑いを持って理解させられる。さらに本当は自分にはその価値が分からないだけことかもしれないという、意味としては含まれていない警句のようなものも感じさせられる。蓼食う虫がそれで満足ならば、別に放っておいてかまわない問題だけれど、そのある意味特殊な趣味性のようなものを、笑い飛ばしながら認めることで、自分なりの偏屈さの自戒を考えたり、時にはその物好きを尊敬したりする気持ちになる。個性は皆の違いを認めることにあるはずだが、しかし現実には滑稽さも含んでいるはずだ。そういうことは一旦笑い飛ばしておいて、しかし、面白いこととして認めてしまおうという精神が、このことわざの笑いの後には生まれるのではないか。少なくとも理解できないものをそのまま放っておけるような器量のようなものが必要で、理解できないから攻撃するようなこととは一線を画すような感じもある。
 ただし、このことわざが好きだとか座右の銘だとかいうことに選ばれるようなものではない。そういうことが、下手に気取った警句よりも、さらに優れたことわざたらんとするものではなかろうか。まあ、考えすぎなんでしょうけど…。
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