大学3年の冬から、私は某TV局契約社員としてADをやっていた。
広い局内を1インチや3/4インチビデオテープ担ぎ、
編集室とスタジオの間をひっきりなしに行き来した。
ロケともなるとバッテリーライトを2つ肩にかけて走り、
本番ではインカムをつけてフロアディレクターも請け負った。
何かを表現するために計画を立て、素材を揃えて料理する。
外部から見る以上に地味で地道なその作業が面白く、
必要がなくてもディレクターにくっついて編集室に入り浸った。
ディレクターやカメラマン達にも可愛がられた・・・と思う。
大学ではサークルにも入らず、友人も少なくて一匹狼だった私は
就職に関する情報を友人達と共有することはなく、
まして当然のことながら就職課へも一度も行ったことはなく、
仕事の合間に独断で都内のキー局の面接を受けて回った。
赤坂、曙町、六本木、一番町・・・
1社が3次面接、1社が2次面接までいったが、
ごくあっさりとすべてのTV局からの連絡は途絶えた。
その中、やはり不合格だった勤め先の人事部から連絡があり、
筆記試験と1度の面接によって、
そのTV局の子会社である番組制作会社からの内定をもらった。
可愛がってもらっていたその会社のブロデューサーの引きで
1人の採用枠のところへ入れてもらうことができたのだった。
そのプロデューサーは、当時住んでいた南青山の狭いマンションから
結婚を機に郊外の広いマンションへの引越しを考えており、
「うちの会社に入ったら南青山のマンションに住めばいい」
と言ってくれた。家賃は当時の私のボロアパートと変わらなかった。
翌年の春からは南青山のマンションに住む番組制作ディレクター。
夢のような生活が私を待っていた。
あれは卒論も出し終った後なので12月前半頃だったろうか。
勤務先の人事部の課長に呼び出され、喫茶店でケーキをご馳走になった。
ケーキにフォークを入れた途端にその課長は重々しく口を開いた。
「君の内定が決まった会社の採用枠はひとり分だったが、
実は親会社の専務の息子が入ることになった。
申し訳ないが内定を取り消させて欲しい」
私は世間知らずの学生、小さな声で「はい」と言うしかなかった。
翌日、当時担当していた番組のチーフプロデューサーに退職を申し出た。
そのことでその会社の人達の視線を浴びたくはなかったから。
チーフプロデューサーは即日の退職を認めてくれ、
おまけに「私の知り合いの制作会社に入らないか?」と言ってくれた。
5~6年キャリアを積んだら、
そのTV局の系列地方局の社員にしてくれると言う話だった。
「近々東北地方にも1局できる予定だから丁度いいだろう」
かくて私は12月下旬から、
渋谷にあったその制作会社の正社員として働き始めた。
大学は1月末にあと2科目の卒業試験にパスするだけで卒業できた。
その時点で忙しくなることは目に見えていたので
井の頭線沿線の風呂付きアパートに引越した。
田舎の両親は就職祝いとして2万円を送金してくれた。
「TV番組作るのだから、
ラーメン屋で使われたらしい油だらけの中古TVじゃだめだろう」と。
そのお金で初めて新品で買ったTVは今でも家の倉庫にある。
内定取り消しのショックが自覚している以上に大きかったのだと思う。
制作会社の仕事は何時に帰れるかわからない世界だと知りながら、
徹夜仕事の後、気力が萎えてたった1ヶ月でその会社を辞めてしまった。
ちょうど最後の科目の卒業試験を数日後に控えていた。
その頃は円高不況のピークで、新卒学生しか採らない企業が多かったため、
私は散々悩んだ挙げ句に1科目だけ卒業試験を休み、留年を決めた。
親父はその3月に定年退職だった。
それから1年。
仕送りをストップされ、食うために色んなことに手を染め、
とうとう食えなくなって都落ちの悲哀を胸に帰郷し、
地元の小さな会社に就職した。
あの辛かった冬から23年。帰郷してから22年。
結婚し、親になり、今の会社に移り、
そして何とか幸せに暮らしている。
23年前には日々いくつかの岐路があった。
もしあの時内定が取り消されていなければ・・・。
もし制作会社を辞めていなければ・・・。
もし留年していなければ・・・。
今手にしているようなささやかな幸せを感じていただろうか。
広い局内を1インチや3/4インチビデオテープ担ぎ、
編集室とスタジオの間をひっきりなしに行き来した。
ロケともなるとバッテリーライトを2つ肩にかけて走り、
本番ではインカムをつけてフロアディレクターも請け負った。
何かを表現するために計画を立て、素材を揃えて料理する。
外部から見る以上に地味で地道なその作業が面白く、
必要がなくてもディレクターにくっついて編集室に入り浸った。
ディレクターやカメラマン達にも可愛がられた・・・と思う。
大学ではサークルにも入らず、友人も少なくて一匹狼だった私は
就職に関する情報を友人達と共有することはなく、
まして当然のことながら就職課へも一度も行ったことはなく、
仕事の合間に独断で都内のキー局の面接を受けて回った。
赤坂、曙町、六本木、一番町・・・
1社が3次面接、1社が2次面接までいったが、
ごくあっさりとすべてのTV局からの連絡は途絶えた。
その中、やはり不合格だった勤め先の人事部から連絡があり、
筆記試験と1度の面接によって、
そのTV局の子会社である番組制作会社からの内定をもらった。
可愛がってもらっていたその会社のブロデューサーの引きで
1人の採用枠のところへ入れてもらうことができたのだった。
そのプロデューサーは、当時住んでいた南青山の狭いマンションから
結婚を機に郊外の広いマンションへの引越しを考えており、
「うちの会社に入ったら南青山のマンションに住めばいい」
と言ってくれた。家賃は当時の私のボロアパートと変わらなかった。
翌年の春からは南青山のマンションに住む番組制作ディレクター。
夢のような生活が私を待っていた。
あれは卒論も出し終った後なので12月前半頃だったろうか。
勤務先の人事部の課長に呼び出され、喫茶店でケーキをご馳走になった。
ケーキにフォークを入れた途端にその課長は重々しく口を開いた。
「君の内定が決まった会社の採用枠はひとり分だったが、
実は親会社の専務の息子が入ることになった。
申し訳ないが内定を取り消させて欲しい」
私は世間知らずの学生、小さな声で「はい」と言うしかなかった。
翌日、当時担当していた番組のチーフプロデューサーに退職を申し出た。
そのことでその会社の人達の視線を浴びたくはなかったから。
チーフプロデューサーは即日の退職を認めてくれ、
おまけに「私の知り合いの制作会社に入らないか?」と言ってくれた。
5~6年キャリアを積んだら、
そのTV局の系列地方局の社員にしてくれると言う話だった。
「近々東北地方にも1局できる予定だから丁度いいだろう」
かくて私は12月下旬から、
渋谷にあったその制作会社の正社員として働き始めた。
大学は1月末にあと2科目の卒業試験にパスするだけで卒業できた。
その時点で忙しくなることは目に見えていたので
井の頭線沿線の風呂付きアパートに引越した。
田舎の両親は就職祝いとして2万円を送金してくれた。
「TV番組作るのだから、
ラーメン屋で使われたらしい油だらけの中古TVじゃだめだろう」と。
そのお金で初めて新品で買ったTVは今でも家の倉庫にある。
内定取り消しのショックが自覚している以上に大きかったのだと思う。
制作会社の仕事は何時に帰れるかわからない世界だと知りながら、
徹夜仕事の後、気力が萎えてたった1ヶ月でその会社を辞めてしまった。
ちょうど最後の科目の卒業試験を数日後に控えていた。
その頃は円高不況のピークで、新卒学生しか採らない企業が多かったため、
私は散々悩んだ挙げ句に1科目だけ卒業試験を休み、留年を決めた。
親父はその3月に定年退職だった。
それから1年。
仕送りをストップされ、食うために色んなことに手を染め、
とうとう食えなくなって都落ちの悲哀を胸に帰郷し、
地元の小さな会社に就職した。
あの辛かった冬から23年。帰郷してから22年。
結婚し、親になり、今の会社に移り、
そして何とか幸せに暮らしている。
23年前には日々いくつかの岐路があった。
もしあの時内定が取り消されていなければ・・・。
もし制作会社を辞めていなければ・・・。
もし留年していなければ・・・。
今手にしているようなささやかな幸せを感じていただろうか。