数年前だがリマスター版が出ていたので手に入れて、
久々に聴き込んだ1994年の筋肉少女帯『レティクル座妄想』。
やはりとてつもない破壊力。
音楽性、文学性、表現力、どれをとっても超一流の上に、
テーマが「社会不適合の妄想」だもの。トラウマ抉り倒してくる。
タランティーノの映画の如く、様々に捻れた登場人物たち。
彼らが繰り広げる衝撃的なセリフやシーンが次から次へと暴き出され、
それがアルバム冒頭と結末とでひとつの世界線にまとまる。
何をどうやったらこんなものすごい作品できるんだ。ただ圧倒される。
「この世で愛されなかった人たちだけが、レティクル座行きの列車に乗れるの。レティクル座の入口ではジム・モリソンが私たちのために『水晶の船』を歌って、歓迎してくれるの」
「そうなんだ」
「そうなの」
「それ、妄想じゃあ、ないの?」
「違うわ、本当よ…」
「うふふ…あはは…」
これだもの。
ただの自己陶酔的な言葉遊びや恋愛ゲーム、万人受けするキレイゴトなど、入り込む余地もない。
わからない人には絶対にわからない世界観だろうなあ。
『蜘蛛の糸』なんて、小6の頃の僕のアタマの中そのまんまだ。
「同じ会話に夢中で、同じ調子で笑って、くだらない人たち」のことは、
いつの日にか絶対に見下ろしてやると思ってた。
でも、そんな僕もいつしか「カリスマミュージシャン」を気取って、
「この人私をわかってる、私の心を歌ってる…!」なんて思いを、
数々の「ノゾミ」に抱かせ、そして醒ましていたのかもしれぬ。
ひとりぼっちで死んだ少女の弔いの席には、
「あの子いいヤツだったなんて、話したこともないくせに」
「インチキの涙を流す」クラスメイトたちが集まる。
死んだ少女の最後の願いは、
「みんな同じになれ、誰もが漂う惨めな灰に還れ…」。
「一部始終を見ていたレティクルの神様」は、
笑う天使を遣わして5100度の猛火で全てを焼き尽くす。
蝶々をまねて、生まれ変わるべく宙へと跳んだ桃子が、
生と死の境でとうとう行き着いた『レティクル座の花園』では、
大好きだった人々が桃子に手を振ってくれている。
現世でお義理ながら見送ろうとする周りの人々からは、
「たわいない桃子の妄想さ…ただでさえあの子嘘つき」
と嘲笑されながらも、
「幻でも嘘でもいいじゃない、桃子は初めて幸せ」
なのだからと言い切る。
最後に救いが示されるのか。
ところが、待っていたのは『飼い犬が手を噛む』結末。
「くだらない人間かそうでないかを決める素敵な審査員の皆さん」に証拠を示せず、
次々と切り捨てられる「周りのくだらない人間とは自分は違う!」と信じていた人たち。
ある者は『レティクル座行き超特急』から突き落とされ、
ある者は犬人間として狩られる側に回されてしまい、
そこに極めつけの台詞が突き刺さる。
「ハッハッハ!ダメなヤツはダメなんだ!おまけの人生に向かって、ゴー!」
この絶望的な救いのなさがたまらない。
聴いてしまったらもう戻れない。
『ドグラ・マグラ』のようなアルバムだ。
小学生の頃の辛いトラウマに端を発する、
ひときわ繊細で孤立しがちなひねくれ気質にドンピシャ過ぎて、
ついうっかりこういうのに心酔してしまったからこそ、
ついぞ「売れる歌詞」なんて書けなかったんだなあ…としみじみ。
いまやただただノスタルジー。
子供たちにこういうアルバムに共感するような思いはさせたくないなと思いつつ。
気づけば、もう30年近く経ったのね。
花の色とは言わずとも、いたづらに時は流れにけりな。
わが身世にふるながめせしまに。
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