いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

なぜ票を投じないのか

2019-07-19 03:11:04 | 超・いぶたろう日記
対案がなくたって反対する権利はあるし、
ベストがいなくてもワーストにNOをつきつける権利はある。
理屈がわからなくても、感情で「イヤだ」と言う権利はある。

「〜〜も知らないくせに」
「わかってねえなあ」
「じゃあおまえやれるのか」

知的優位を気取って、他人の無知をあげつらって、
政治に対する意見や感想のハードルを上げれば上げるほど、投票率が下がるだけ。
それでいいのかな。

政治は「お勉強のできる人たち」だけの知的遊戯じゃない。
なんとなく共感したから…で票を投じるのも、
なんとなくイヤな感じだから…で別の人に任せるのもあり。

知識と経験は感性の牢獄。
ものを知らずに思いこんだり、考えなしに決めつけたりするのは確かに恥ずかしいことだが、
知識や理屈に溺れて人の気持ちを見失うのもどうかと思う。

「もっと勉強しろ」というのはいかにも格好いいが、
「もっと人の気持ちも慮ってやれ」というのもあっていい。
どんなにエラそうな理屈こね回す人だって、
自分ちのウラに原発とか米軍基地とかできたら黙っていられないはず。
それを「国家の計を解しない低劣な感情」などとバカにできる資格なんて誰にもないはずだ。

民主主義は多様性の尊重と集合知にこそ肝がある。
冷笑はいつのときも自己満足でしかない。
僕は僕の票を入れに行く。みんなもそうすればいい。
投票は主権者のひとりとしての意思の表明。
結果、たとえ自分が少数派になったとしても、決して間違っているわけじゃない。

僕自身はこうは言いつつ反知性主義はキライだし、
理性的な議論やその前提となる知の重要性は痛いほど知っているつもり。
仕事柄それを訴える側でもあるし。でも敢えて言ってるわけ。

それは「知性」を標榜する人があまりにも感情的に人を叩いている自家撞着ぶりに違和感があるから。
本当の知性は他人をバカにするものじゃなくて、他人を理解する余裕を生むはず。
なのに「知」を自称する人には、合理性に名を借りた冷たく狭量な短絡が多いようにも感じる。

「十分な知識がないから投票には行かない」
「正しい判断ができるか自信がないから投票に行かない」

という人に向けて、気持ちだけでもいいから票にぶつけてくれないかという思いで書いた。
あとは冷笑する割に「どっちもどっち」だからと投票には行かず、結果何が起こっても「自分は関わってない」という立場に居ようとする無責任な層にもね。
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