大人になってから、学生時代のような友人関係を築くのはなかなか難しい。
年齢相応に社会的な立場や関係性があったり、またそれぞれに家庭があったりすることで、
どうしてもそこには遠慮が生まれる。
それはそれで成熟した大人の付き合いとして一概に否定されるようなものでもないけれど、
やはり無遠慮に付き合える(年齢のウチに築かれた)人間関係というのは貴重だな、と思う。
バンドメンバーというのは面白いもんで、学生時代の同期のようなものでありながら、
同時に若い頃に一緒に起業した仕事仲間という側面も持っている。
だから学生時代のような付き合いのまま、留年しっぱなしのような空気感もあったし、
バンドの運営や方向性を巡ってそれこそ口角泡を飛ばしてやり合ったようなこともあった。
お互いの良いところも悪いところも熟知していて、何でも許し合えるような余裕もあるが、
逆にその分「いまの相手の状況や変化」に疎い面もあるかも知れない。
「昔こういうヤツだったから、いまもそうだろう」という思い込みは危うい面もある。
相手に勝手にそういう姿を期待して、勝手に残念がったり失望したり
(あるいは知らないうちに自分がガッカリされたり…)なんてこともあるかもしれない。
いつでもどこでも誰にでも自分を貫くには、相当なパワーとエナジーと、
そして「運」が要る。変わらずに居る方が難しいのだ。
本質の面では変わっていなくとも、
その表現の仕方や現実との折り合いの付け方は変わっていることもある…というか、
変わっていなければあまりに進歩がない。
そういった相手の微妙な変化もお互いに楽しみつつ味わいつつ、
さらに過去ばかりにこだわらず、新たな関係性に発展できたら
これ以上素晴らしい仲間もそうはない。
もしも彼らと出会ったのがいまの年齢だったら?と考えてもみる。
おそらくはいまのような濃い関係を築くのは難しいだろう。
その年齢、その状況、その時代でなければできない関係性というものがある。
仲間と呼べる存在はいままでに自分が生きてきた時間=人生の、証左であり財産でもある。
いつまでも昔のままではいられない、というのはとても寂しいことだけれど、
何も不可逆な過去にノスタルジックにしがみついていることはない。
変わらないようで変わっている、変わっているようで変わっていない。
彼らと会うことで味わえるのはそんな刺激と安心感。
共に変化し、共に老い、嬉しいことや愉しいことばかりでなく、
辛いことや悲しいこと、寂しさまでをも共有できる友がいるということは、
何ものにも換えがたい幸せなことだ。
また、いまの彼らと一緒に音を出すということが、
どうにもこうにも味わい深いじゃないか。
愉しみでしょうがない。
年齢相応に社会的な立場や関係性があったり、またそれぞれに家庭があったりすることで、
どうしてもそこには遠慮が生まれる。
それはそれで成熟した大人の付き合いとして一概に否定されるようなものでもないけれど、
やはり無遠慮に付き合える(年齢のウチに築かれた)人間関係というのは貴重だな、と思う。
バンドメンバーというのは面白いもんで、学生時代の同期のようなものでありながら、
同時に若い頃に一緒に起業した仕事仲間という側面も持っている。
だから学生時代のような付き合いのまま、留年しっぱなしのような空気感もあったし、
バンドの運営や方向性を巡ってそれこそ口角泡を飛ばしてやり合ったようなこともあった。
お互いの良いところも悪いところも熟知していて、何でも許し合えるような余裕もあるが、
逆にその分「いまの相手の状況や変化」に疎い面もあるかも知れない。
「昔こういうヤツだったから、いまもそうだろう」という思い込みは危うい面もある。
相手に勝手にそういう姿を期待して、勝手に残念がったり失望したり
(あるいは知らないうちに自分がガッカリされたり…)なんてこともあるかもしれない。
いつでもどこでも誰にでも自分を貫くには、相当なパワーとエナジーと、
そして「運」が要る。変わらずに居る方が難しいのだ。
本質の面では変わっていなくとも、
その表現の仕方や現実との折り合いの付け方は変わっていることもある…というか、
変わっていなければあまりに進歩がない。
そういった相手の微妙な変化もお互いに楽しみつつ味わいつつ、
さらに過去ばかりにこだわらず、新たな関係性に発展できたら
これ以上素晴らしい仲間もそうはない。
もしも彼らと出会ったのがいまの年齢だったら?と考えてもみる。
おそらくはいまのような濃い関係を築くのは難しいだろう。
その年齢、その状況、その時代でなければできない関係性というものがある。
仲間と呼べる存在はいままでに自分が生きてきた時間=人生の、証左であり財産でもある。
いつまでも昔のままではいられない、というのはとても寂しいことだけれど、
何も不可逆な過去にノスタルジックにしがみついていることはない。
変わらないようで変わっている、変わっているようで変わっていない。
彼らと会うことで味わえるのはそんな刺激と安心感。
共に変化し、共に老い、嬉しいことや愉しいことばかりでなく、
辛いことや悲しいこと、寂しさまでをも共有できる友がいるということは、
何ものにも換えがたい幸せなことだ。
また、いまの彼らと一緒に音を出すということが、
どうにもこうにも味わい深いじゃないか。
愉しみでしょうがない。