いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

過剰

2013-04-27 23:44:01 | 超・いぶたろう日記
振り返ってみて僕の半生は、
つくづく「同調圧力」との闘いだったなあ、と思う。
「みんな一緒でなければならない」や
「決められた通りにやらねばならない」がとにかくキライで、
それこそ箸の持ち方から始まって、漢字の筆順も、服装も、
「型」を強制されるものにはことごとく抗ってきた。
特段、僕のチョイスが個性的だったとは思えないが、
とにかく自分で納得できないものはイヤだった、ただそれだけ。
だからたとえみんなと同じであっても、自分が納得して受け容れていれば、
わざわざ服装自由の学校に通って学ラン着てたし、
バイクは王道中の王道、CB400だし(笑)、
自分だけが特別であることにはこだわってなかった。

そして僕は、自分については徹底してこだわるくせに、
他人についてはまったくと言っていいほどそれがない。
僕の嫌いなものを好きであったとしても、気にならない。
僕の好きなものをキライであったとしても、意に介さない。
同じものを好きになって欲しいとか、嫌って欲しいとか、まったく思わない。
人に何かを押しつけられるのが死ぬほど嫌いな僕にとって、
自分がそれを人にするのは堪えられないことだからだ。

だからどれだけ破天荒でも、非常識でも、不道徳でも、
僕との関係性が良好でさえあれば、僕はその人を否定しない。
例えば僕は宗教や占いが大嫌いだが、
たとえ親しい友人が何らかの宗教の信者であっても、
僕を勧誘してこない限りは、尊重するし、否定しない。
いったん僕との関係が構築されたならば、何でもありだ。
さらに言えば、人種・学歴・家柄・職業・収入などで人を判断したり、
選り好みしたり決めつけたりするのは、虫酸が走るほどキライだから、
これほど気難しい生き方をしていながら、
他人には意外なほど寛容であるかも知れない。
…というより、他人には関心がないだけなのかも知れない。

一般的に人や物事を判断する基準とされているものに、
ただのっかるのがイヤなんだろうと思う。
どこまでも、自分自身がそれをどう思うか、どう感じるか、
一貫しているものも特に置いていないし、その場その場で判断しているから、
前後で矛盾していることも多いだろうけれど、
とにかく自分次第。
殺人犯だとか薬物中毒だとか、
どんなに世間で後ろ指を指されるようなことであっても、
有名人だとかノーベル賞だとか、
どんなに世間で揺るぎない評価を得ている人であっても、
おそらく僕の価値判断には影響しない。
僕がいいと思ったらいいだろうし、ダメだと思ったらダメ。
どーもそんなところがある。

僕のこの傾向を言い表す言葉を探していたのだが、
最近「自意識過剰」という表現に行き着いた。
辿り着いてみれば至って平凡なところなのだが。
ナルシスト、というのとは少しずれる。
自己愛はそんなに強くない。
むしろ否定的だ。
でも、自分はこうありたいという意識が強すぎて、
現実の自分を受け容れられてないのだとしたら、
それはやはり濃い自己愛のひとつなのかもしれないし。

もうちょっと書けるような気もするけれど、
不用意にさらけ出してしまう恐れも強いので、
この辺でやめとくの巻(笑)。
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