常々思うことなんだけど、バンドってタイトロープダンサーのようだ。
ぴんと張った綱の上、行って戻って進んで退いて、うまくいったらご喝采。
お、すげえじゃん、と足を停めて見てくれる人がいて、
初めて彼らの投げ銭でその日の糧を得ることが出来る。
夢を見せてお代頂戴。
確かにすごいかも知んないけど、でもそれが出来たからっていったい何なの?
だいたいそんなこと出来るのあなた達だけって訳じゃあないでしょう?
・・・という人にとってはきっと、そんなものに銭を投げるなんて馬鹿げたことなんだろうし、
真面目に働きもしない、何物をも産み出さないで、人にお恵みを貰う、
社会の寄生虫のごとき存在にも見えることだろう。
以前から言うとおり、バンドは決してエラいわけじゃない。
芸人は客の上位に立つものではない。
何故かここを勘違いしているバンドは非常に多く、
ファンはバンドよりも下等な人種であるかのような言動を見せる者がたまにいる。
最低だ。
多くのファンを抱えるバンド(芸能人などでもあてはまるが)においては、
ファンの人格はまるで無視されがちだ。
過大な人気はバンドを盲目にさせる。
しかし、ファンほど人間くさいものもないのである。
彼らはそれぞれに過ごしている環境の中で感じた喜怒哀楽と、
それを上手く言葉に出来ないもどかしさとを、バンドの産み出す作品に重ね合わせているのだ。
自分たちの拙い作品を心の支えとしてくれている人達だと思えば、
粗末な扱いなど決して出来ないはずである。
「自動的に」多くの客が入り、CDが売れていく構図が一度できあがれば、
バンドは容易にこういう落とし穴にはまっていく。
ファンに人格を認めない者たちは、人の気持ちをわからない、いや、わかろうとしない者たちであり、
そういう人間が本当に人の心を震わせる作品など作れようはずがない。
遅かれ早かれ埋もれていくだろう。
私はこういう人種には死んでもなりたくない。
バンドは一般に「生活必需品」として認知されるものを産み出さない。
衣食住が足りて、その上で心のゆとりを求める人達がいて、
その人達が「音楽」「歌詞」「ライブパフォーマンス」「精神的連帯感」を
その供給源と感じたならば、やっとここで時間的にも人種的にも限定的ではあるが、
「生活必需品」としての地位を手に入れられる。
地震や火事の時に、一番にCDやポスターを持って逃げる人がいるだろうか?
「あればいいなあ」なものであり、「無いと死ぬ」ものではない。
しかし「ないと生きててもつまんない」ものには違いない。
つまり、「生きていくために必要なもの」ではないけれど、
「生きることを楽しむために必要なもの」なのだ。
生きるために必要最小限のものしか求めない生活は質素清廉に思われがちだが、
私に言わせれば動物の生活と変わらない。
人間は「遊ぶ」ことでこそ、「動物」と境を画しているのだ。
せっかく人間に生まれながら、それをフルに楽しまないとは、何と勿体ないことだろうかと思う。
私は、その「楽しみ」を産み出す仕事をすることで、
ともすれば単調な毎日のために社会の歯車のような錯覚を覚える多くの人々に、
「人間らしい」生き方を取り戻させることが出来るのだとしたら、
こんなにやり甲斐のある、素晴らしい仕事はないと思っている。
Rebirthはバンドである。
こういう考えを持った私という人間がステージに立つバンドである。
理想や目標が大きすぎて、時には疑問や不満でいっぱいになることもあるけれど、
今はとてもこのバンドをやっていて楽しい。
ひょっとしたら今が一番楽しい時期なのではないかな、という予感もある。
オーディエンスの反応がダイレクトに返ってくる。
不特定多数の内の何万分の一ではない、それぞれに等身大の声に接することが出来る。
それは決してプラスの評価ばかりではないけれど、
喜んでくれている顔が、楽しみにしてくれている声が、
手の届くところにあるというのはとても幸せなことだと思う。
何よりも励まされるから。
今までのどんなバンドよりも、それを出来る限り大事にしていきたいと思う。
このご時世、決して誰も財布の中身は豊かではない。
でもRebirthのライブに、毎度2000円以上ものお金を払ってやって来てくれる。
遠くから多くの時間とお金をかけて駆けつけてくれる人もいる。
そして決して安くはない金額のCDを、Rebirthが載った雑誌を、買ってくれている。
メンバーと話したい、それだけで打ち上げにも相当のお金を払う。
私はライブをやる上でこのことを片時も忘れたことはない。
感謝の気持ちは決して忘れない。
こういった人々の期待に、声援に、私は十二分に応えられているのだろうか。
いつも自問自答する。
もっと楽しい、もっと素晴らしいものを提供しなければならない。
それを思う時、すべての努力は苦にならない。
Rebirthは、どこまでこうしてやっていけるだろうか。
ぴんと張った綱の上、行って戻って進んで退いて、うまくいったらご喝采。
お、すげえじゃん、と足を停めて見てくれる人がいて、
初めて彼らの投げ銭でその日の糧を得ることが出来る。
夢を見せてお代頂戴。
確かにすごいかも知んないけど、でもそれが出来たからっていったい何なの?
だいたいそんなこと出来るのあなた達だけって訳じゃあないでしょう?
・・・という人にとってはきっと、そんなものに銭を投げるなんて馬鹿げたことなんだろうし、
真面目に働きもしない、何物をも産み出さないで、人にお恵みを貰う、
社会の寄生虫のごとき存在にも見えることだろう。
以前から言うとおり、バンドは決してエラいわけじゃない。
芸人は客の上位に立つものではない。
何故かここを勘違いしているバンドは非常に多く、
ファンはバンドよりも下等な人種であるかのような言動を見せる者がたまにいる。
最低だ。
多くのファンを抱えるバンド(芸能人などでもあてはまるが)においては、
ファンの人格はまるで無視されがちだ。
過大な人気はバンドを盲目にさせる。
しかし、ファンほど人間くさいものもないのである。
彼らはそれぞれに過ごしている環境の中で感じた喜怒哀楽と、
それを上手く言葉に出来ないもどかしさとを、バンドの産み出す作品に重ね合わせているのだ。
自分たちの拙い作品を心の支えとしてくれている人達だと思えば、
粗末な扱いなど決して出来ないはずである。
「自動的に」多くの客が入り、CDが売れていく構図が一度できあがれば、
バンドは容易にこういう落とし穴にはまっていく。
ファンに人格を認めない者たちは、人の気持ちをわからない、いや、わかろうとしない者たちであり、
そういう人間が本当に人の心を震わせる作品など作れようはずがない。
遅かれ早かれ埋もれていくだろう。
私はこういう人種には死んでもなりたくない。
バンドは一般に「生活必需品」として認知されるものを産み出さない。
衣食住が足りて、その上で心のゆとりを求める人達がいて、
その人達が「音楽」「歌詞」「ライブパフォーマンス」「精神的連帯感」を
その供給源と感じたならば、やっとここで時間的にも人種的にも限定的ではあるが、
「生活必需品」としての地位を手に入れられる。
地震や火事の時に、一番にCDやポスターを持って逃げる人がいるだろうか?
「あればいいなあ」なものであり、「無いと死ぬ」ものではない。
しかし「ないと生きててもつまんない」ものには違いない。
つまり、「生きていくために必要なもの」ではないけれど、
「生きることを楽しむために必要なもの」なのだ。
生きるために必要最小限のものしか求めない生活は質素清廉に思われがちだが、
私に言わせれば動物の生活と変わらない。
人間は「遊ぶ」ことでこそ、「動物」と境を画しているのだ。
せっかく人間に生まれながら、それをフルに楽しまないとは、何と勿体ないことだろうかと思う。
私は、その「楽しみ」を産み出す仕事をすることで、
ともすれば単調な毎日のために社会の歯車のような錯覚を覚える多くの人々に、
「人間らしい」生き方を取り戻させることが出来るのだとしたら、
こんなにやり甲斐のある、素晴らしい仕事はないと思っている。
Rebirthはバンドである。
こういう考えを持った私という人間がステージに立つバンドである。
理想や目標が大きすぎて、時には疑問や不満でいっぱいになることもあるけれど、
今はとてもこのバンドをやっていて楽しい。
ひょっとしたら今が一番楽しい時期なのではないかな、という予感もある。
オーディエンスの反応がダイレクトに返ってくる。
不特定多数の内の何万分の一ではない、それぞれに等身大の声に接することが出来る。
それは決してプラスの評価ばかりではないけれど、
喜んでくれている顔が、楽しみにしてくれている声が、
手の届くところにあるというのはとても幸せなことだと思う。
何よりも励まされるから。
今までのどんなバンドよりも、それを出来る限り大事にしていきたいと思う。
このご時世、決して誰も財布の中身は豊かではない。
でもRebirthのライブに、毎度2000円以上ものお金を払ってやって来てくれる。
遠くから多くの時間とお金をかけて駆けつけてくれる人もいる。
そして決して安くはない金額のCDを、Rebirthが載った雑誌を、買ってくれている。
メンバーと話したい、それだけで打ち上げにも相当のお金を払う。
私はライブをやる上でこのことを片時も忘れたことはない。
感謝の気持ちは決して忘れない。
こういった人々の期待に、声援に、私は十二分に応えられているのだろうか。
いつも自問自答する。
もっと楽しい、もっと素晴らしいものを提供しなければならない。
それを思う時、すべての努力は苦にならない。
Rebirthは、どこまでこうしてやっていけるだろうか。