索引・・・・記事一覧-1  2006年10月~12月

2007-12-30 10:36:24 | 索引:記事一覧1~
記事一覧の索引です。字数の関係で、三ヶ月ごとにまとめます。

カテゴリーの「索引」から、この「記事一覧」に入れます。
字数の関係で、タイトルを簡略(短縮)して記載している箇所があります。

タイトルをクリックしていただければその記事に入れます。

[2006年]

10月09日   食う寝るところに棲むところ かすみがうら市とはこんな所
10月11日   鉄の橋-1 世界で最初の鉄の橋:The Severn Bridge
10月12日   鉄の橋-2 日本最古の鉄の橋:神子畑(みこはた)鋳鉄橋
10月14日   木材で作った長さ30mの橋・・・・桔木(はねぎ)の利用 猿橋
10月15日   居住の条件・・・・人はどこに住みだしたか 筑波山麓の様相
10月16日   鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初のⅠ型鋼 
           蒸気機関の発明者J・ワットの設計したビル
10月18日   桔橋(はねばし)にならった木造小屋組・・・・筑波一小の体育館
10月20日   浄土寺・浄土堂・・・・架構と空間の見事な一致 重源の仕事
           東大寺南大門再建(1199年)より早く1192年に完成
10月22日   コンクリートは流体である・・・・無梁版構造 マイヤールの仕事 
           スイスの土木技術者、コンクリートの性質に応じた設計
10月23日   建築に係る人は、本当に《理科系》なのか-1・・耐震スリット
10月26日   梁型のない鉄筋コンクリート造・・・・竹園東小学校の二階床
10月28日   丸山変電所・・・・近代初頭の煉瓦造+鉄骨トラス小屋 
           碓氷峠越えの鉄道電化のための変電所
10月31日   建築に係る人は、本当に《理科系》なのか-2・・「専門」とは何か?

11月02日   鉄筋コンクリートの「踏み天井」・・・・天井のないRC架構 
           都立江東図書館
11月03日   続・鉄筋コンクリートの「踏み天井」・・・・追加補足写真 
           都立江東図書館
11月04日   建築に係る人は、本当に《理科系》なのか-3・・杜撰な言葉遣い
11月07日   「天井」・・・・「天井」の発生:その由縁 
11月08日   新薬師寺・・・・山の辺を歩く 東大寺から桜井・三輪山へ
11月10日   法隆寺・東院 伝法堂・・・・奈良盆地の西の縁を歩く 
           法隆寺から慈光院へ
11月10日   慈光院・・・・片桐石州の感性 
11月12日   万国博・フィンランド館・・・・オーロラのような壁面 
           A・アアルトの仕事
11月12日   続・万国博・フィンランド館1938~1939
11月15日    RC・・・・reinfoeced concrete の意味を考える-1
11月15日    RC・・・・reinforced concrete の意味を考える-1:補足
11月17日   RC・・・・reinforced concrete の意味を考える-2
11月17日   RC・・・・reinforced concrete の意味を考える-2:補足
11月19日   RC・・・・reinforced concrete の意味を考える-3 
11月22日   道・・・・どのように生まれるのか 清水寺の参詣道
11月23日   道・・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係 迷子になる病院
11月25日   「冬」とは何か・・・・ことば・概念・リアリティ 科学的とは何か
11月28日   東大寺・南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握 
11月29日   浄土寺・浄土堂、ふたたび・・・・その技法
11月30日   浄土寺・浄土堂、更にふたたび・・・・続・その技法

12月02日   アンリ・ラブルースト・・・・architectとengineer 見事な鋼構造
12月05日   日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在 どこで間違ったか
12月06日   道・・・・つくばの道は... ひとを忘れた街づくり
12月06日   閑話・・・・月に思う 「日の出」という言い方は非科学的?
12月08日   まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事 
           建物の形体とは何か
12月10日   「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃 
           滝大吉著『建築学講義録』について
12月12日   分解すれば、ものごとが分かるのか・・・・中国西域の住居から 
12月13日   分解すれば、ものごとが分かるのか-補足・・・・古い農家のつくり
           千年家・「古井家」のつくり
12月14日   実体を建造物に藉り...・・・・何をつくるのか 
           《建築計画学》の残したもの
12月16日   「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1
12月19日   「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-2
12月22日   「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-拾遺
12月23日   学問の植民地主義 《権威》の横暴
12月24日   閑話・・・・教育再生!? 何を教えるのか
12月26日   日本インテリへの反省・・・・遠藤 新 のことば
12月29日   語彙に見る日本の建物の歴史・・・・「筋交い」の使われ方 
           「筋かい」の語は、古い辞書には載ってない 
12月31日   東大寺・鐘楼(しゅろう)・・・・進化した大仏様

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索引・・・・記事一覧-2  2007年1月~3月

2007-12-30 10:23:33 | 索引:記事一覧1~
字数の関係で、タイトルを簡略(短縮)して記載している箇所があります。

[2007年]

01月01日   東大寺・鐘楼(しゅろう)-2・・・・続・進化した大仏様
01月04日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-1 
           旧・日本銀行京都支店の小屋組
01月06日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-2 
           旧・登米高等尋常小学校の小屋組
01月09日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3 
           明治の教科書のトラス組解説
01月11日   閑話・・・・今は民主主義の世か?
01月14日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-4 
           塩尻・小松家の合掌小屋組
01月15日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-5 
           A・アアルトの仕事
01月16日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-6 
           A・アアルトの仕事・続
01月17日   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-7 
           館山・北条幼稚園の小屋組
01月20日   地震への対し方-1・・・・「震災調査報告書」は事実を伝えたか 
           阪神・淡路震災について
01月23日   地震への対し方-2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと
01月26日   地震への対し方-3・・・・「耐」震の意味するもの
01月27日   閑話・・・・最高の不幸、最大の禍 レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉
01月30日   懸造(かけづくり)・・・・斜面に建てる 
           清水寺、筑波一小体育館、軽井沢の山荘

02月01日   懸造(かけづくり)・続・・・・東大寺・二月堂 お水取りの舞台 
02月05日   「在来工法」はなぜ生まれたか-1・・・・よく見かける納まり 
           歪められた日本の木造技術
02月06日   「在来工法」はなぜ生まれたか-2・・・・「在来」の意味 
           桂離宮は「在来工法」か
02月07日   「在来工法」はなぜ生まれたか-2補足・・「在来工法」の捉え方
           あきれた《理解》いろいろ
02月09日   「在来工法」はなぜ生まれたか-3・・・・足元まわりの考え方:基礎 
           木材の特徴に無知、床下換気口は当初なかった! 
02月10日   「在来工法」はなぜ・・・・-3補足・・法令仕様以前の足元まわり 
           木材の特徴を熟知、営繕・修理が出来る床下
02月12日   「在来工法」はなぜ生まれたか-4・・なぜ基礎へ緊結するのか 
           「筋かい」信仰を変えられなかった!
02月13日   「在来工法」はなぜ生まれたか-4の補足・・日本の建築と筋かい 
           日本建築史上の「筋かい」の使用事実
02月14日   閑話・・・・版築の基壇 東大寺・三月堂(法華堂)
02月17日   「在来工法」はなぜ生まれたか-5・・耐力壁依存工法の誕生 
           捨てられなかった「筋かい」信仰
02月18日   「在来工法」はなぜ生まれたか-5補足・・筋かい、面材の挙動
           「筋かい」と「面材」では挙動が異なる
02月20日   「在来工法」・・-5補足・続・・ホールダウン金物の規定が示すこと
           「筋かい」信仰へのこだわりが生んだ金物
02月21日   閑話・・・・西欧の軸組工法-1 スイスの事例 
02月22日   閑話・・・・西欧の軸組工法-2 スイス、ドイツの継手・仕口
02月24日   建物づくりと寸法-1・・・・1間=6尺ではなかった 
           東福寺・龍吟庵方丈
02月24日   建物づくりと寸法-1の補足・・・・「龍吟庵方丈」補足
02月26日   建物づくりと寸法-2・・・・「内法寸法」の意味 
           園城寺・光浄院客殿と書院造
02月27日   F・Lライトの付け縁:trim・・・・表情のつくりかた
02月28日   F・Lライトの付け縁:trim・・・・trimは何のため?

03月01日   閑話・・・・東大寺・三月堂と佛たち
03月02日   「化粧」にこだわる-1・・・・作業の姿勢 井上邸の場合
03月03日   「化粧」にこだわる-2・・・・化粧か素顔か 
           相模女子大2号館、東京大学11号館
03月05日   奈良時代の開口部・・・・開き戸の頃 法隆寺東院・伝法堂
03月06日   園城寺・光浄院客殿・・・・ふたたび
03月07日   園城寺・光浄院客殿 の補足・・・・さまざまな開口部
03月09日   勝手のし放題・・・・最近の建物の外観・形状
03月11日   「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山 すべては人の器量次第
           足尾鉱山の鉱毒を田中正造が直訴した同じ年に、
           小阪鉱山では、鉱毒濾過装置が完成していた!
03月13日   小坂鉱山-補足 小坂の「近代化遺産」
03月14日   煉瓦・・・・その活用 喜多方の工法に倣う
03月15日   日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居
           ワンルームから始まる
03月16日   日本の建築技術の展開-2・・・・軸組工法の出発
           上屋:身舎(もや)と下屋:廂
03月17日   日本の建築技術の展開-2の補足・・・・身舎・廂、上屋・下屋の例
03月19日   日本の建築技術の展開-3・・・・古代の工法(1) 
           新薬師寺、法隆寺・伝法堂
03月20日   日本の建築技術の展開-4・・・・古代の工法(2) 
           古代の仕口:斗栱
03月21日   日本の建築技術の展開-4の補足・・・・本の紹介 
           組み方の図解
03月22日   余談・・・・法隆寺の境内 境内配置図
03月23日   日本の建築技術の展開-5・・・・古代の工法(3) 
           法隆寺西院・妻室
03月25日   日本の建築技術の展開-6・・古代~中世:屋根の構成法の変化 
           秋篠寺の屋根
03月26日   余談・・・・中国最古の木造建築
03月27日   続・地震への対し方・・・・地震は分かっていない
03月28日   日本の建築技術の展開-7・・・・中世の屋根の二重構造 
           法隆寺・大講堂の屋根
03月29日   続々・地震への対し方:地震(earth quake)と建物の関係
03月31日   日本の建築技術の展開-8・・・・衝撃的な工法のきっかけ
           唐招提寺金堂の当初の小屋組

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索引・・・・記事一覧-3  2007年4月~6月

2007-12-30 10:22:44 | 索引:記事一覧1~
字数の関係で、タイトルを簡略(短縮)して記載している箇所があります。

[2007年続き]

04月02日   日本の建築技術の展開-9・・・・何が変ったか
           東大寺・南大門:「大仏様」の誕生
04月03日   日本の建築技術の展開-9の補足・・・・細部は簡単!しかし...
           南大門の架構の組み方:斗栱細部詳細
04月04日   日本の建築技術の展開-9の補足・続・・・・中国では? 
           中国の斗栱
04月05日   閑話・・・・スイスの木造家屋:材料収集~刻み~建て方
           西欧での斜材≒「筋かい」の使い方
04月07日   日本の建築技術の展開-10・・・・大仏様と禅宗様 
           鎌倉時代の寺院建築
04月09日   余談・・・・中国の建築と「貫」 中国・福建省の住居(福建民居)
04月11日   日本の建築技術の展開-11・・・・多層の建物:その1
           法隆寺の五重塔と楼門:一層建物の積み上げ
04月13日   日本の建築技術の展開-12・・多層の建物:その2-鹿苑寺・金閣
           二層(通し柱)+一層(積み上げ)
04月15日   日本の建築技術の展開-13・・多層の建物:その3-福井・丸岡城
           資料上最古の城 掘立柱、一層+二層(通し柱)
04月16日   日本の建築技術の展開-13の補足・・・・福井・丸岡城:断面図
04月18日   余談・その1・・・・木造多層建物:西欧では イギリス、スイスの例
04月20日   余談・その2・・・・木造多層建物:中国では 寺院建築と民居の例
04月21日   日本の建築技術の展開-14・・多層の建物:その4-愛知・犬山城
           土台、通し柱、差口の活用
04月22日   日本の建築技術の展開-14の補足・・・・松本城の支持柱
           盛土の前に支持柱(杭に相当)を先行した工法 
04月23日   日本の建築技術の展開-15・・・・多層の建物:その5-姫路城
           2本の大柱(通し柱)、差物の多用
04月24日   日本の建築技術の展開-15の補足・・・・姫路城の配置
           人の動きが読めた工人たち
04月25日   日本の建築技術の展開-余談・・・・時代と工人たち 
           室町~安土桃山期の工人:その自由闊達な創造力
04月27日   日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成へ・1
           鹿苑寺・金閣の計画の拠りどころ:西芳寺        
04月28日   日本の建築技術の展開-16の補足・・西芳寺、そして禅宗の思想
04月29日   日本の建築技術の展開-17・・心象風景の造成・その2:大仙院 
04月30日   日本の建築技術の展開-17の余談・・大徳寺のある場所 
05月01日   日本の建築技術の展開-17の補足・・大仙院方丈の平面・断面
           寝殿造の名残り、簡潔・明快な桔木(はねぎ)架構    
05月03日   憲法記念日に寄せて 日本国憲法・前文、および99条
05月04日   日本の建築技術の..-18・・心象風景の造成・その3:妙喜庵待庵 
05月05日   日本の建築技術の展開-18の補足・・妙喜庵のある場所 
05月06日   日本の建築技術の展開-18の補足2・・・・妙喜庵 待庵の実測図
05月07日   日本の建築技術の展開-18更に補足・・非対称の屋根はなぜ?
           「空間」の重視、「空間」のための「形、表情」
05月09日   日本の建築技術の展開-19・・心象風景の造成・その4-孤篷庵-1
           小堀遠州の仕事(自らの菩提寺) 
05月11日   日本の建築技術の展開-20・・心象風景の造成・その5-孤篷庵-2
           自由な架構で「空間」:心象風景:をつくる
05月12日   日本の建築技術の展開-20の補足・・・・孤篷庵の指図
05月14日   日本の建築技術の展開-21・・心象風景の造成・その6:孤篷庵-3
05月16日   日本の建築技術の展開-21の補足・・・・孤篷庵の断面図
05月17日   日本の建築技術の展開-22・・・・桂離宮-1
05月18日   日本の建築技術の展開-22・・桂離宮-2:「書割り」の空間 
          「視覚芸術」の粋:粗雑な架構で書割りをつくる
05月20日   日本の建築技術の展開-24・・・・住まいと架構-その1 
           住まいの歴史は時系列だけでは語れない 
05月21日   日本の建築技術...-25・・住まいと架構-その2:差鴨居の効能
           差鴨居を用いた古井家の改造
05月22日   日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構-その3
           上屋+下屋の架構からの脱却:出島・椎名家の架構
05月24日   日本の建築技術...-27・・住まいと架構-その4:「貫+格子梁」
           塩尻・島崎家の架構:細身の材で260余年健在 
05月25日   日本の建築技術の展開-27の補足・・・・島崎家について追記
           本来「民家」は細身の材、「民家=骨太」は誤解
05月27日   日本の建築技術...-28・・住まいと架構-その5:二階建の町家-1
           奈良今井町・豊田家:大黒柱、通し柱と差鴨居
05月28日   日本の建築技術の展開-28の補足・・・・豊田家の二階床 断面
05月30日   日本の建築技術...-29・・住まいと架構-その6:二階建の町家-2
           奈良今井町・高木家:通し柱と差鴨居(大黒柱なし)
05月30日   日本の建築技術の展開-29の補足・・・・高木家の図面更新 
05月31日   日本の建築技術の展開-29の補足・再・・高木家の架構分解図 

06月01日   日本の建築技術の展開-30・・・・ひとまず終り        
           近代以降の都市住居は武家住居の系譜:脆弱
06月02日   継手・仕口の理屈・・・・刻みの意味 
06月04日   うねる壁・・・・うねらせるには訳がある A・アアルトの造形の意味
06月06日   免震器具に対する危惧・・・・似非科学の横行
06月07日   山手線はlocal線だ・・・・「地方」とlocal 
           「地方:local」の対語は「中央」ではない
06月08日   数値の軽重・・・・数の大小でものごとは決まるか?
06月09日   「地方功者(ぢかたこうしゃ)」・・・・「経済」の原義 
           江戸の「技術者」たちの目配り・気配り
06月11日   桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-1
06月12日   桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-2
06月13日   桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3
06月14日   桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-4
06月15日   桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-5
06月16日   桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-6
06月18日   風景・環境との対し方-1・・・・借景 京都北山・円通寺
06月20日   風景・環境との対し方-2・・・・観光 観光の原義
06月21日   風景・環境との対し方-3・・・・観光と暮し 会津・大内宿では
06月22日   風景・環境との対し方-3の補足・・・・「大内宿」 配置図ほか
06月24日   言葉の重み 《学識経験者》の発言はいつも正しいか?
06月26日   近江商人の理念・・・・時代遅れなのだろうか?
06月27日   近江商人の理念 補足・・・・明治20年ごろの近江八幡周辺
06月28日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-1
06月28日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-1の補足 近江八幡の町割
06月30日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-2 西川家の図面
           
         註 近江八幡・西川家については7月につづく

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索引・・・・記事一覧-4  2007年7月~9月

2007-12-30 10:21:44 | 索引:記事一覧1~
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[2007年続き]

07月01日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-2の補足 平面図拡大
           二階建、上下階が一致する間仕切り通り
07月02日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-3 平面および断面図
           通し柱、差物、貫による架構は、建設以来、安泰。
07月04日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-4:開口部 
           工夫された各種開口装置
07月05日   近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-4の図面改訂 
           建具詳細図面を拡大
07月07日   「法令遵守」・・・・法令がすべての規範なのか?
           法令を守れば、何をしてよいのか?
07月09日   「まちづくり」とは・・・・「終の栖」のまちづくり:近江八幡市の試み
           今に生きる近江商人の思想
07月13日   長期にわたり閲覧が多いのは?・・・・ホールダウン金物の件!   
07月15日   古河のまちを歩く・・・・江戸~明治の名残りを味わう
07月17日   中越沖地震-1・・・・何が壊れたか
07月20日   中越沖地震-2・・・・柏崎市の地形・地勢
07月22日   地震と土蔵・・・・近江八幡・西川家の土蔵の詳細
           「土蔵」を知るために
07月24日   土蔵の施工・・・・近江八幡・西川家の土蔵復原工程
           「土蔵」の造りかた
07月26日   続・地震と土蔵 全ての土蔵が壊れたわけではない
07月27日   中越沖地震-3・・・・被害の実態
07月30日   地震への対し方・再び・・・・「耐震」は本当に可能なのか

08月01日   「基準」ということ・・最近の地震による被災状況について
08月04日   故郷とは何か・・・・異郷と故郷 
           近代の為政者により意図的に利用された「故郷」
08月09日   温度差・・・・《地域性》のいろいろ 林業の再生事業に見る
08月10日   住宅の低寿命化はなぜ起きたか 
           土地税制と建築法規が低寿命化を進めた
08月12日   違和感・・・・原発一個動かなくても関係ない都会! 
           柏崎市長の怒り
08月14日   日本に「都市計画」はあるか・・・・あるのは「都市計画税」だけ
08月15日   過渡期の体験 疎開、終戦、思想豹変・・の体験で得たもの
08月19日   現行法令の下での一体化工法の試み-1
           確実な架構の木造建築をつくるために
08月20日   現行法令の下での一体化工法の試み-2
           試案その1:基礎~土台~柱
08月21日   現行法令の下の一体化工法の試み-3
           試案その2:柱~横架材
08月23日   現行法令の下での一体化工法の試み-4
           試案その3:越屋根、保温材の取付け他
08月26日   紹介:眞島健三郎『耐震家屋構造の撰擇に就いて』
           「耐震=剛構造化」論を糾弾した「柔構造」論の原点
08月28日   20年前に考えていたこと・・何か変ったか?
           流浪の木造校舎:木造建築の悲哀(新建築誌1987年6月号)
08月31日   原型・・・・差物工法の模索 Ⅰ邸の事例紹介

09月01日   原型・・・・差物工法の模索・補足 Ⅰ邸断面図
09月03日   基準依存症候群・・指針、規定、そして基準
           町を醜くしたのは、何か
09月05日   「規定外」と「絶対」・・・・近現代工学の落とし穴
           「絶対」は絶対にあり得ない
09月07日   台風-地瓦-JIS規格 規格・集約化の弊害 
09月10日   家具も倒れなかった住居
           中越沖地震の実際
09月13日   在来工法、布基礎、土壁、瓦葺き・・・・
           非科学的な耐震神話の数々
09月15日   乾燥材の話・・・・木材の含水率とは?
09月18日   現在の構造計算法と「伝統工法」
           計算値:数値を出すことが科学なのか?
09月19日   現在の構造計算法と「伝統工法」・追記
09月21日   厳密と精密・・・・学問・研究とは何か
           数値化=厳密さの確保、ではない。数値信仰の危険度。
09月22日   煉瓦の活用と木ずり下地の漆喰大壁 
09月23日   煉瓦の活用と木ずり下地の漆喰大壁:図面補足
09月24日   打算の思考-1・・・・当面やりすごせばよいのか
           ハイデッガーの講演を、3回に分けて紹介
09月26日   打算の思考-2・・・・「科学技術」への追従
09月28日   打算の思考-3・・・・「打算」から脱け出す

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索引・・・・記事一覧-5  2007年10月~12月

2007-12-30 10:21:02 | 索引:記事一覧1~
字数の関係で、タイトルを簡略(短縮)して記載している箇所があります。

[2007年続き]

10月01日   続・「煉瓦」の活用・・・・RCとの併用の試み-1
           某心身障害者更生施設の設計例
10月03日   続・「煉瓦」の活用・・・・RCとの併用の試み-2
           実施設計図(煉瓦割付図)と工事写真
10月06日   「実業家」の今・・・・息苦しさを生む建築法令
10月09日   「建築士」の今・・・・階層を生む建築法令
10月13日   「耐震補強」・・・・信頼して大丈夫か? いくつかの事例を通して
10月16日   「耐震診断」・・・・信頼できるのか? 
           「診断」では「危険」:180年前建設の今井町・高木家
10月17日   「耐震診断」は信頼できるか?-補足・・・・高木家の地震履歴
           高木家は、何度も大地震に遭遇している!
10月18日   「耐震診断」と「耐震補強」・・・・この場合はどうなる?
           《常識》はずれの設計事例:館山北条小学校
10月20日   「耐震診断」と「耐震補強」・・・・続・この場合はどうなる?
           同上設計例の設計図(詳細図)
10月23日   戦後レジーム・・・・偽装、言いくるめ体制と体質
           ならば見知れ、見知らぬ人の・・・
10月25日   200年住宅?! 新たな金儲けのネタの創設?!
10月28日   セキュリティと避難 逃げにくい開口装置の増加
10月31日   「高断熱・高気密」は本当に省エネか? 
           人を惑わす《省エネ神話》

11月02日   「建物の性能」と「建材の性能」
           不燃材、透湿・防水紙・・を使うと建物の性能がよくなるか
11月04日   「偽装」「仮装」「化粧」・・・・それとも「偽計」?
11月06日   続・「偽装」「仮装」「化粧」・・・・何が問題か
11月09日   ふたたび「偽装」「仮装」「化粧」・・・・新聞のコラムから
11月10日   USONIAN HOUSEの施工工程・・・・F・Lライトの2×4:その1   
11月12日   USONIAN HOUSEの施工工程・・・・F・Lライトの2×4:その2
11月16日   「金物補強」と「歴史認識」 
           明日のためには、昨日以前を知らなければならない
11月19日   「普及」が「衰退」をもたらす・・・・住宅金融公庫仕様
           低寿命化を推し進めた要因の一つ
11月20日   「普及」が「衰退」をもたらす:補足 
           継手の理屈:金融公庫仕様にない継手:金輪継ぎ
11月23日   続・「普及」が「衰退」をもたらす・・・・金物は補強か本体か?
           いつの間にか、本末が転倒してしまった
11月25日   ヴォーリズの仕事 アメリカの宣教師で建築家 
           近江八幡の人・風土を愛し定住、近江兄弟社も創設
11月27日   続・ヴォーリズの仕事 大阪・大丸などの設計者
11月28日   再び・ヴォーリズの仕事 京都・下村邸(真正の洋式建築)
12月03日   屋敷構え-1 
           出島村(現かすみがうら市)の集落風景:台地上-1
12月05日   屋敷構え-2 
           出島村(現かすみがうら市)の集落風景:台地上-2
12月07日   屋敷構え-3 
           出島村(現かすみがうら市)の集落風景:水田とともに
12月10日   「鳥居」に見る日本の建築技術の基本 
           村の鎮守:本殿も含め、江戸末の建立か?
12月12日   補足:「鳥居」の部材の呼称(専門用語)
12月17日   屋敷構え-4・・・・坂野家 重要文化財 
           水海道市(みつかいどう:現常総市)の新田営農者の屋敷
12月18日   屋敷構え-4・・・・坂野家・補足 関東平野と徳川幕府
           徳川は上州(現群馬県邑楽郡:太田市)の土豪の出
12月20日   関東平野開拓の歴史-1・・・・飯沼干拓・補足
           東関東の古墳分布:古代の居住環境の様相を見る
12月22日   関東平野開拓の歴史-2・・・・西関東の古墳分布
           上州=古代の近畿からの道「東山道」の関東平野への玄関
12月25日   東関東の古墳:航空写真で見る 霞ヶ浦北岸の古墳
           舟塚山古墳(石岡市)、富士見塚古墳(かすみがうら市)

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東関東の古墳:航空写真で見る

2007-12-25 17:18:58 | 居住環境

霞ヶ浦北岸には、古墳が多い。上の航空写真(google earthからの転載)は、石岡市北根本の舟塚山古墳(東日本有数の大きさを誇る)と、かすみがうら市宍倉の富士見塚古墳。
舟塚山は常陸国府より南へ数キロのところ。

なぜこういう配置・方位を採るのか、はっきりしたことは分らないが、おそらく、差配している土地への向い方が決め手なのではなかろうか。


今年の記事は、今回でおしまい。

昨年10月に始めて、記事が約250編。
そこで、各記事に直接リンクできる「記事一覧の索引」を、年内を目途に製作中です。作業が終わり次第、載せます。

来年が良い年でありますように。
コメント (1)
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関東平野開拓の歴史-2・・・・西関東の古墳分布

2007-12-22 12:15:25 | 居住環境

小川博著「利根川と淀川」(中公新書)からの引用を続けよう。
先回は東関東の土地の特徴と古墳の分布、今回は西関東の様相についての部分。

  註 参考地図 
     先回の地図、および
     上掲の地図(平凡社「日本大地図帳」から転載)。

西関東の古墳は群馬県南部から埼玉県、東京都、神奈川県にかけて分布し、密度が非常に高く、毛野、埼玉、武相の古墳群として知られている。
しかし、古墳がほとんど分布しないか、きわめて少ない平地が広く存在する。例えば、渡良瀬川の隆起扇状地、武蔵野台地、大宮台地等の中心部には、古墳はほとんど存在しないし、古利根川、中川筋の沖積低地にもごく少ないことが注目されるだろう。これらの台地には、谷地田が全く発達しないところが広大な面積を占め、水がないため水田が造れないばかりでなく、生活に必要な水もえられないためである。また古利根川、中川沿川は著しい湖沼、沼沢地帯で、当時まだ水田開発の対象になりえなかったのであろう。そして西関東の古墳分布は、地質地形と密接な関係をもち、武相の古墳群を除き、一般に谷地田を生産基盤とせず、平野の開発を中心とする古墳文化である点で東関東と著しくちがっている。

関東平野は、利根川を境に北関東と南関東に分けることができ、両者に違いがある。東関東では、とくに重要な意味をもつと思われないので省略したが、西関東の地質的な特徴と古墳文化とのかかわりをみる場合には、北関東と南関東の著しい違いを無視するわけにはゆかない。
ここでおことわりしたいことは、本庄から高崎付近では境を烏川にとるのが自然で、地学的にも上田-銚子線と呼ぶ地質構造線がこれに沿っている。こう分けて、北関東からみてゆこう。
関東地方で最大の古墳分布は群馬県である。少し古い資料であるが、昭和十年の調査によると、群馬県の古墳は8423基に及んでいる。いわゆる毛野の古墳密集地帯で、なかでも太田市周辺、伊勢崎市北部、前橋市東南部、高崎市東南部、藤岡市西部の古墳群がよく知られている。当時関東のもっとも有力な首長が大和政権と結んで、これらの地域で権勢をふるったのであろう。

大和政権が東北日本の経略をすすめるための一つの進路が東山道であったとされる。
美濃路から神坂(みさか)峠を越えて伊那盆地にはいり、天竜川に沿って北上、塩尻峠から松本盆地を経て保福寺峠を越え、小県(ちいさがた)、佐久から碓氷峠を経て上野(上毛野:こうづけ)に至る進路である。
きびしい山坂を越えて、関東平野の西北隅にたどりついた西方文化の担い手たちは、上野の野から関東を見下ろしながら、大和文化をここに移植したと考えられている。
そこでこういう古墳文化を移植し、それを発展せしめた自然条件とは何か、ことに土地条件はどのようなものであったかという問題を考えてみよう。

北関東には利根川と渡良瀬川があり、両川は山地を離れて関東平野に出ると、扇状地を造り、その前面に三角州を形成しながら、多くの派川に分かれて乱流していた。つまり、北関東の沖積低地は、主として利根川と渡良瀬川が造ったものである。

渡良瀬川は洪積世(註:200万年~1万年前)の初期、赤城山麓の大間々(おおまま)あたりから南に向って藪塚(やぶづか)本町を流れ、ここに規模の大きい見事な扇状地を造った。この扇状地は、洪積世末の関東ローム層で被われた隆起扇状地(古い扇状地が地盤運動で隆起し、台地状となったもの。武蔵野台地などがこの例である)で、大間々を扇頂とし藪塚本町を経て新田郡新田町付近へ拡がり、半径二十キロメートルに及ぶ大規模なものである。関東ローム層が被っているから、その上に水田はほとんどなく、畑、桑畑、山林に使っている。
のちに流路を変え、いまのように桐生市に向うようになった。そして桐生市街地の下流、侍堰のあたりから分枝がはじまり、多くの派川を分けながら流下した。足利市の岩井山を過ぎると三角州が発達し、邑楽(おうら)郡の広い低湿地を造っている。太田市街地はこの低湿地と旧渡良瀬川の隆起扇状地の境にあたり、金井丘陵の南麓を占めている。すなわち太田市の東には低湿三角州が発達して渡良瀬川につづき、西には、旧渡良瀬川の隆起扇状地の南に開けた三角州が発達して、利根川河畔につづいている。

太田市の周辺には関東地方でもっとも古い古墳が多い。五世紀前半から六世紀初めごろが最盛期で、規模の大きい前方後円墳があることから、東国における政治、文化の一つの有力な中心地であったとされている。それを支えた生産基盤は、いま述べた東と西に発達する広大な三角州であったことは疑いないだろう。
東の三角州は渡良瀬川の旧流路の矢場川と、それから枝分れした弱小河川で水田を養い、西の三角州は、隆起扇状地の扇端に湧き出す豊富な湧水群を水源とする水田地帯で、のちここに条里制の地割が施行される。
湧水を水源とするから水量は豊富で安定し、大きな洪水が起こる不安のない細流なので、古墳時代にも用水源として利用できたであろうし、条里制地割の施行も容易であったにちがいない。

一方、利根川は前橋の上流、坂東橋までいまと同じ大河川として流下した。ここで何本かの分派川に分かれ、前橋付近から、いよいよ多くの派川を分けて高崎-前橋台地をうるおしながら流れていた。
派川は後に広瀬川、桃の木川、天狗岩、待矢場堰、休泊堀のように、重要な農業用水の幹線水路として整理され、他の多くの小派川もそのまま用水路に使われる。
そしてこれらが今日の農業用水体系として整備され、用水開発史に登場するのは中世以後のことである。それ以前の原始河川の時代には、どれが本川であるか判断しかねる状態に分枝し、有力な分派川はさらに枝分れしながら流れていたことは、今日の広瀬川沿川をみればよくわかる。とくに前橋から下流では広瀬川がさらに多くの放射状の弱小派川に分かれて高崎-前橋台地を流下したことは、沿川に残る多くの河跡がこれを示すとおりで、中世以前、おそらく古墳時代から弥生時代に遡って、有力な用水源であったとみて少しも不自然はないだろう。

高崎-前橋台地は、高崎と前橋を結び、広瀬川と利根川、烏川で囲む三角形の特異な地質地形の台地で、火山灰質の噴出物でできている。しかし、いつどこから噴き出したかはわかっていない。国鉄(註:現JR)高崎線が烏川を渡るとき、左岸側にみられる低い崖がそれで(註:「左岸」とは川下を見たとき左側の岸)、利根川はこの台地を深く切り、渓谷状となって、両岸に十メートル以上の高い崖を作ることがある。
この台地のもっとも著しい特徴は、条里制地割の遺構が発達し、古くから水田が開発されていたことである。その様子は高崎をすぎると上越線の車窓に眺めることができる。新前橋付近に台地と榛名火山の裾野の境があって、北側に発達する裾野には水田がごく少なく、大部分は桑で被われ、台地の土地利用と著しい対象をみせている。
この高崎-前橋台地の上に古墳群が発達している。前橋市街地東南の朝倉古墳群はよく知られているが、利根川の旧流路、広瀬川が多くの細流を分派して流れるところである。当時は自然の細流河川のまま、用水路に利用して水田を養っていたのだろう。

烏川沿川ではとくに北岸側の高崎市、倉賀野、岩鼻などの周辺に古墳群が分布する。みな高崎-前橋台地の縁にあるが、台地中央部にも散在し、上毛古墳群の有力な集団になっている。用水は主として利根川の主要な派川の天狗岩用水と、榛名火山の東側から流れだす小規模河川に依存していたのであろう。

伊勢崎市付近も、丸塚山、お富士さんをはじめ、規模の大きい古い前方後円墳があって、上毛古墳群として知られている。利根川扇状地の前面に発達する三角州の末端部を占め、いま広瀬川が多くの用水を分枝して水田をうるおしているが、古代には細流がここで分派、乱流し、用水を供給したのであろう。
また赤城山に源を発する粕川が、市内を貫流して広瀬川に流入するが、この川は火山を水源とするから渇水量が比較的大きく、沿川に小規模の水田が分布する。この水田を基盤とする古墳群が、粕川筋に分布することをつけ加えておこう。                        
                                    [この項了]


茨城から群馬へは、古河から先、館林、伊勢崎・・・と国道354号を使うのが便利だが、この道路は、まさに古代の繁栄の地を横断するから、随所で古墳に出会う。また、先に紹介の「世良田東照宮」もこの沿線である。

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関東平野開拓の歴史-1・・・・飯沼干拓・補足

2007-12-20 10:02:38 | 居住環境

先回、紹介した「1000年前の利根川周辺」の図が掲載されている小出博著「利根川と淀川」(中公新書)から、開拓・干拓に関連する箇所を、転載・紹介させていただく。
この書は、1975年の初版だが、関東に暮す人が、自分の足元の大地を見直すための、そして、近世までの人びとの営み・開拓と近・現代の〈開発〉の、大きな違いを知るための、簡にして要を得た書ではないかと思う。

その中から、古墳の分布と湖沼群(湿地帯)の分布についての考察の部分を抜粋紹介したい。

著者は、関東平野を「東関東」と「西関東」に分ける。そして、東関東が西関東に比べ、「古墳」の分布がまばらであることに注目し、その理由を考察している。
以下は、その部分。
上掲の「関東古墳分布図」および「東関東の湖沼群」は同書から。


・・・・
関東平野は東関東と西関東に分けるのが自然である。境はほぼ江戸川に沿う線にとり、これを北に延長すれば思川から鬼怒川を経て男鹿川につづく。
この線の東を東関東、西を西関東とすれば、東関東の平野は栃木、茨城、千葉の三県となり、西関東には群馬、埼玉、東京、神奈川の都県が属する。
平野についてはほぼ行政区画と一致するが、自然史からみた利根川については、東関東はもともと鬼怒川の流域で、今日の中下利根川に当り、西関東は利根川本来の流域として、いまは上利根川と呼んでいる。

東関東の低地は鬼怒川、小貝側、桜川の沿川に細長く分布し、ややまとまったものは下利根川両岸、特に新利根川筋に発達するにすぎない。大部分は関東ローム層の台地で、この台地を細長く刻んで発達する谷地田が主要な水田である。
広大な畑で被われた台地が広い面積を占め、水田はごく少ないようにみえるが、中下利根川流域の水田面積は十三万町歩で、上利根川流域の十二万町歩を上廻っている。
いま河川流域に十万町歩を越える水田が分布するのは利根川(二十五万町歩)を除いて淀川(十三万町歩)、信濃川、北上川、石狩川の四本である。
中下利根川流域(註:東関東)の水田面積がいかに大きいかがわかるだろうが、大部分は狭長な谷地田で、飯沼干拓地のように、広いところで幅一.六キロメートル、平均幅三〇〇メートルで五十二キロメートル以上も細長くつづくものがある。二〇〇~三〇〇メートルの幅で、長さ一〇~二〇キロメートル以上つづく細長い谷地田はたくさんある。

鬼怒川と小貝川の下流には「とばのえ(鳥羽ノ淡海)」、飯沼をはじめ、江戸時代中期の享保年代まで多くの湖沼があり、中利根川の左岸には大正年代まで長井戸沼など多くの湖沼があった。
「とばのえ」のように、中世には干上がっていたものもあるけれども、大部分は江戸時代中期と大正年代に干拓され、見事な水田地帯に変っている(上掲の「東関東の湖沼群」参照)。
しかし下利根川筋には今日もなお、北浦、霞ヶ浦をはじめ、印旛沼、手賀沼が大小の湖沼として残っている。

東関東は西関東に比べ全体として古墳の分布はまばらである。比較的密度の高いところが部分的にあるだけで、霞ヶ浦の北部、印旛沼の東岸、手賀沼周辺など、湖沼に臨んで集中する傾向がある(註:上掲「関東古墳分布図」参照)。

水田の主体は谷地田にあったと考えられ、少し大きくまとまった沖積低地には、手をつけていなかったらしく、下妻付近から下流の鬼怒川、小貝川沿川(註:飯沼周辺はこの地域にあたる)、その延長の新利根川筋の広い低地の周辺には古墳は非常に少ないか、ほとんどないといってよい。当時これらの低地は湖沼またはひどい沼沢地で、水田の開発はむずかしかったためであろう。主要な生産の場が谷地田であるから、稲作の条件は必ずしもよいとはいえないし。拡がりも小さい。

従って東関東の古墳は規模が小さく、広く散在的に分布する傾向があり、広い地域に及んで、強大な権力をもつ首長の出現は期待できなかったのであろう。

大和政権が東国の支配、経営に進出するための拠点であったといわれる常総地方では、古墳の分布は濃密でかなりの規模の前方後円墳が現われる。

   註 石岡市の国指定文化財「舟塚山古墳」は、
      東関東有数の規模の前方後円墳。
      県指定文化財の「愛宕山古墳」と相対している。
      また、南へ数キロ離れたかすみがうら市(元、出島)にも
      霞ヶ浦高浜入りを望む見事な「富士見塚古墳」がある。
      霞ヶ浦を土浦入りと高浜入りに分ける出島には
      その他にも多数の古墳がある。

上総(註:房総半島)ではその背景に、小糸川、小櫃川、養老川など東京湾に注ぐ中小河川があって、流域に多くの支枝をもつ樹枝状の谷地田が発達していること、その周辺は鮮新層~洪積層の台地、丘陵地帯で、保水力の大きい地質でできているから、平水や渇水の流量が大きいことなど、原始水稲農業の開発を容易にする自然条件があったことを注意しておきたい。

  「西関東の古墳について」は次回に                 

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屋敷構え-4・・・・坂野家:補足

2007-12-18 10:59:08 | 住まいの構え方

茨城県南部~埼玉県一帯は、古代、関東平野を囲む山地から流れ出る河川によって、いわば水浸しの地帯であった。上掲の図は、古代の利根川周辺の推定図。

しかし、水浸しであることは、逆に言うと、水さえ引けば肥沃な地になることを意味していた。

このことに着目したのが徳川。
肥沃な地の少なくなった(開拓されつくした)関西・近畿よりも、広大な関東平野の将来性を見据えたのである。これが幕府を関東平野に置いた最大の理由。

   註 なぜ江戸が中枢に選ばれたか、については、いずれ。

徳川は、元は関東、今の群馬県太田市世良田(せらだ)が発祥の地。いわゆる「東国の武士」、土豪であった。関東山地の縁の肥沃な地で土豪にのし上がったのである。
だから、同地にも東照宮がある(世良田東照宮)。

   註 新田義貞もこのあたりの出。「新田」と言う地名も存在する。
      新田(にった)すなわち新田=開拓して生まれた農地。

太田市をはじめとする群馬県邑楽(おうら)郡一帯は、自然地形に恵まれた肥沃な土地。そこから南へ開拓をすすめ、そこでの生活を通して、土地の利用、水の利用:利水の技・知恵を身につけていたらしい。
それゆえ、徳川は、有能な「技術者」:「地方功者」を重用し、多くの人物を集め、そして、彼らこそが徳川幕府の礎を固めたと言っても過言ではない。

おそらく、飯沼干拓にあたっても、坂野家たち篤農家を援けた「地方功者」がいたのではないだろうか。

   註 「地方功者(ぢかたこうしゃ)」(巧者とも書く)
      については、「地方功者(ぢかた こうしゃ)」・・・・「経済」の原義参照。
      ここでは、谷和原村、伊奈町周辺(現、つくばみらい市)の、
      水のない一帯に灌漑用水を敷設することによる開拓。
     
      飯沼では、逆に排水路の整備による開拓(干拓)。
      いずれも「水」に対する卓抜した「技・知恵」がなければできない。

      現代のような「理論」も機材もなかった時代の話。
      
江戸の末、明治の初めでも、関東平野南部には、多くの湖沼が残っていたらしい(場所によると、大正・昭和になっても湿地だったという)。
今では、平野のいたるところが居住地になってしまっているが、そうなったのは、ごく最近のことなのだ。

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屋敷構え-4・・・・坂野家

2007-12-17 17:19:19 | 住まいの構え方

茨城県西部、鬼怒川と利根川との間に挟まれた南北に長い低湿地帯際の丘陵に、「坂野家」がある。
所在は、水海道(みつかいどう)市 大生郷(おおのごう)。現在は合併で常総市になっている。
この低湿地帯には、かつて「飯沼」という沼沢地が広がっていた。
江戸時代の末に、その干拓によって現在見るような水田地帯に変貌するが(航空写真参照)、この干拓事業の中心的人物の一人が坂野家であり、その屋敷、住居がこの建物である。坂野家は中世以来の土着の農家と言われている。

   註 写真の水田区画は、戦後の区画整理によるもの。
      なお、このような干拓地は、このあたりから埼玉南部にかけて多い。

まわりを濠に囲まれたような丘陵の頂部一帯が鬱蒼とした樹林で覆われ、その中に屋敷が潜んでいる。どこまでを敷地と言えばよいのか考えてしまうほど広い。
その樹林の中に垣(塀)まわされ、そこに写真のような茅葺の門が構えられている。
主屋は一見曲がり屋だが、元は「ひろま、ちゃのま、ぶつま、なんど」の四室と、その南側の一間幅の縁状の部分が主体で、それに「どま」がつながっていた。その部分は18世紀前半の建設と考えられている。
現在の広大な「どま」(平面図の網掛け部分)と、「ぶつま」の南に一列に続く「さんのま」~「いちのま」:「書院」は19世紀中頃の増築とされる。
写真では見えないが、西側には明治以降増築された部分がある。

国の重要文化財に指定されており、解体修理が昨年終了したばかり。
「修理工事報告書」(未刊)でそのあたりの詳細が明らかにされると思われる。

現在は、「水海道風土博物館」として公開。また、映画撮影にもよく使われている。

  航空写真はgoogle earth、地図は国土地理院1/25000地形図より。
コメント (1)
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補足:「鳥居」の部材の呼称(専門用語)

2007-12-12 09:31:54 | 日本の建築技術

念のため・・・。
鳥居の部材は、上記の写真の註記のように呼ばれているとのこと。
また、写真のような「形式」の鳥居は、「明神鳥居」あるいは「稲荷鳥居」と呼ぶそうだ。お稲荷さんに多いかららしい。
ただ、この神社はお稲荷さんではなく、地元では「鹿島神社」と言われている。茨城には、当然ながら「鹿島神社」系統が多い。

なお、上の写真のような柱の礎石は、探したが他に例が見つからなかった。[記述追加、12日12.28]。

「形式」「様式」にこだわると、話がそれるので、私はあまり興味がない。

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「鳥居」に見る日本の建築技術の基本

2007-12-10 15:18:56 | 日本の建築技術

[タイトル変更、字句追加:16.58][説明追加:17.35]

屋敷構えは新たな採集を続行中。
今回は、日本のどこの農村集落にも必ずある神社、その鳥居について。

「鳥居」は神社のシンボルとして地形図上のマークにもなっているが、基本は「門構え」、神社の境内への正式な入口。
日本の神社は、ほとんど境内を区切る囲い、塀、柵がない。伊勢神宮などは珍しい方と言ってよいのではないか。しかし、かならず「門」だけはある。つまり「鳥居」である。

上掲の例は、先回紹介した台地下:水田際の屋敷構えのある集落の鎮守で、台地上の大きな貝塚の上に建てられていて、主要道から斜めに入る参道と鳥居、本殿と拝殿からなる(道から斜めに参道を設ける神社は、茨城県南、県西の集落の鎮守でよく見かける)。
本殿は江戸期のもので、関東平野各地に見られる神社同様、精緻な彫刻が施され、はなやかに着彩されているが(もちろん、色は褪せている)、覆屋があるため、隙間から垣間見るだけ。
「鳥居」の建設年代は詳らかではないが、少なくとも当初の形を踏襲しているのではないか(礎石の様子からの判断)。均整のとれた恰好のよい鳥居である。

  註 近くの谷地田には、古代、海が入り込んでいたと考えられており、
     周辺の丘陵には、貝塚や縄文期の住居址、古墳が数多く遺っている。
     この神社は、この地域有数の貝塚の上にあり、今でも沢山の貝殻片を
     周辺で見ることができる。

さて、「鳥居」。最も原始的な場合には、柱は掘立であろう。柱が倒れる気遣いは不要で、笠木を取付けてできる「門構え」(コの字形)も、簡単には変形しない。だから、笠木の取付けも簡単でよい。
しかし、掘立では、柱脚の地面に接するあたりが簡単に腐る(地中部は腐りにくい)。だから、掘立方式は礎石の上に柱を立てる方式に変る。
しかし、そうなると柱は自立できない。先ず柱を立たせる工夫が必要になる。

最も簡単な方法は、脚部を地面に固定した「斜め材」で柱を支える方法。柱の四方に設ければ各方向とも変形は止められるから、笠木の取付けも簡単。しかし、通路側にとびだす支えが邪魔になる。
笠木を柱に頑丈に取付けることができれば、通路側の支えを除いた三本の支えで、理屈の上では、門型を保つことができる。その際、笠木の取付け方がポイントになる。取付けが簡単だと、柱を門型の内側へ向けて押すと、笠木ははずれ、内側に支えがないから、柱は倒れる。
しかし、柱と笠木を頑丈に留め、しかも制作が容易な仕口はない。

では、門型に直交する方向(つまり進行方向)に押すとどうなるか。
押すと、手前の斜め材は地面から抜けようとし、奥の斜め材は地面にめり込もうとする。「筋かい」に生じるのと同じ現象。
抜け方(めり込み方)の程度は、斜め材の地面との角度で異なり、角度が急な場合ほど簡単に抜ける。緩ければ緩いほど抜けにくい。しかしそれでは門の体裁を損なう。

  註 屋内の体操競技で使う「鉄棒」は、走行方向の手前と奥の二方向に、
     床面と約45度の角度でロープで引張り固定している。

おそらく最初は、簡単な斜め材の補強を施したに違いあるまい。なぜなら、それは今でも行う一番簡単な方法だからだ。
しかし、その体験から、押せば斜め材が容易に抜けてしまうことを知ったはずだ。
そこで考え出されたのが、現在の鳥居に見られる方法。


鳥居の方法の着目点は二つ。

一つは、礎石上の柱が進行方向に転倒することを防ぐ方法として採られている「前後二本の控柱と主柱を二段の貫で縫う」方法。柱は控柱を含め、礎石の上に据えるだけ(鳥居全景と柱脚部の写真参照)。
これを進行方向に押すと(あるいは引くと)、どうなるか。
全体が進行方向に倒れるには、二本の控柱と二段の貫で形づくられた扁平な長方形が、そのままの形で、奥の控柱の脚部:礎石との接点を基点として転倒する(手前の控柱が浮き上がる)必要があるが、長方形の中央には主柱も組まれているから、総重量が重く、容易なことではない(総重量が転倒に対して抵抗していると考えてよい)。控柱の脚部は、石の上に置くだけで十分。

控柱の脚部から斜め材で支えた場合には、斜め材は簡単に礎石から離れてしまうだろう(たとえ、45度であっても)。押す力が、もろに斜め材を引抜く力になってしまうからだ。そうならないためには、斜め材の脚部を礎石に(地面に)しっかりと固定しなければならない(柱脚の緊結)。

着目点の二つ目は、笠木の下に設けられた横木。これも貫で、柱に対して、楔を打って固める。
これによって、二本の柱は、一本の笠木だけの場合に比べ、より強くつながり、しっかりとした、簡単には変形しない門型を構成することになる。
なお、中央の束に見える材は、とりたてて変形に抗する役を担っているわけではないだろう。多くの場合、ここに「額」などが掲げられる。

そして、柱頭と笠木の接点:仕口は、簡単な「ほぞ差し」で済む。横木:貫がなければ、「ほぞ差し」では容易に変形、破損する。
この方法の原理は、商家や農家で使われてきた差鴨居の考え方にほかならない。

   註 笠木には、全長にわたり、小屋根が付けられていて、
      意匠上、重要な役をはたしている。


これらの工作は、制作にあたっても、とりたてて難しいところはない。つまり、簡単な方法で、頑強な構築物をつくることができるのである。


近世までに体系化した日本の建築技術の基本原理が、この鳥居をつくる技術に象徴的、しかも単純明快に示されている、と言ってよい。

   註 最近つくられる鳥居は、形式だけが先行していて、
      この基本原理を見るには不向きな例が多い。

なお、上掲の鳥居では、柱の礎石が普通とはかなり異なり、いわば柱型をしている。暗い時に見ると、掘立柱のようだ(柱脚部の写真参照)。
なお、石と柱は、石に「ダボ孔」を彫り、主柱のダボを納めているものと考えられる。[説明追加]
控柱をつなぐ下段の貫は、この柱様の礎石をも貫いている。ただ、貫は、石の部分を貫通するだけで楔はない。楔は木材同士の間で役にたつことを知っていたのだろう。
柱頭は、直接笠木を受けず、皿状の材を介している。これは「斗(ます)」と考えればよく、したがって、仕口は「ダボ」だろう(柱頭部の写真参照)。

   註 地図は当地域の都市計画図1/2500より

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屋敷構え-3

2007-12-07 11:41:08 | 住まいの構え方

先回までは、台地上の屋敷。今回は、その台地から下った水田際の集落内の屋敷。
台地の上と水田との標高差はおよそ10~15m。
この集落は、水田から数m高い、丘陵が湾状に凹んだ南向きの斜面に肩を寄せ合うようにして家々が並んでいる。西~北~東と樹林の繁る丘陵に囲まれているから、ここには北西風はまったくあたらない。つまり、家々を囲む自然の樹林が(自然と言っても、当然手がはいっているのだが)、屋敷林の役を果している。屋敷面積は広い。

この一帯への人びとの定着は古く、今住まわれている方々は、大半が稲作を主な生業として住み着いた人たちの末裔である。調べてみると、戸数は江戸時代とほとんど変らないようだ。耕地面積との関係だろう。

先回までの紹介で書き忘れたが、このあたりは、秋・冬から春先にかけての北西風のほかに、春先から梅雨時までの間、ときには夏にも、北東風が吹きつけることがある。東海上の冷たい空気をもってくる風。東北地方で「やませ」と呼ぶのと同じで、ときに冷害をもたらす。だから、台地上の集落は、東側にも屋敷林を持つ場合が多い。
この水田際の集落では、地形ゆえにこの北東風もあたらない。

ただ、夏場は、水際にあるのと盆地状の地形ゆえに、湿った空気が溜まって動かず、きわめて湿度が高くなる。台地の上から下りてくると、へばりつくような湿気に驚く。
こういう気象を体験すると、日本の建物のつくりかたの理由がよく分る。屋敷を構え、軒を深くして直射を避け、開口部を多くとり、対流を起こし、空気を動かすことで涼をとる。そうでありながら丈夫なつくり、そういうつくりを編み出してきたのだ。
ところが、こういう一帯にも、息がつまらないか、と心配したくなる年中空調に頼らなければ暮せないような、高気密・高断熱の建物が、若い世代の間で増えつつある。

今回紹介の①は、多分この集落では一番古く住み着かれた方の屋敷。
空中写真で屋敷の北側から東側への丘陵一帯は、すべてこのお宅の土地で、手広く畑や栗の栽培、栗の苗木の生産などをしている。
屋敷の奥行が深く、長屋門を入ってから大分先が主屋。台地上の道路から、屋敷を見下ろすことができるのだが、樹林に隠れて建屋は見えない。

このお宅に道一本隔てて並ぶのが②のお宅。このお宅も旧家。姓も①と同じ(一帯には同姓が多い)。目の前の水田のほかに、台地上にも広く畑地を持っている。
①②ともに篤農家の専業農家(この集落でも、兼業農家が増えている)。
②は門構えもなく、樹木を植えているだけで、生垣にもなっていないが、屋敷内は落ち着いている。

主屋の建屋はいずれも平屋の瓦葺き。間取りは台地上の例と同じで、南側の玄関脇に接客空間、右手奥に日常の居住の部屋が並ぶ。高気密・高断熱の建物が増える一方で、最近でもこういう建物をつくるお宅があるので、機会をみて紹介する。


「限界集落」という言葉をよく聞くようになった。人口の半分以上が65歳以上の集落。共同体が維持できなくなる限界にある、という意味のようだ。
この一帯も、高齢者が増え、専業が減り、兼業が増えてはいるが、いまだに三世代居住が多く、したがって子どもも大勢見かける。小学校まで、歩いて50分、夕方には道草をしながら帰る子供たちの姿を目にすることができる。その点、研究学園都市などよりは「健全」である(学園都市は、かつての「団地」同様、高齢者がいたって少なく、子供たちは道草のしようもない)。

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屋敷構え-2

2007-12-05 12:47:13 | 住まいの構え方

今回の屋敷は、先回紹介した事例(地図の①)の南側にある(地図の②、空中写真の〇で囲んだ部分)。

  註 空中写真はgoogle earth、地図はゼンリンのデータによる

先回、今回の事例は、比較的広い標高20~25m程度の丘陵上の集落の一画。一帯の古くからの通称名には「牧」の字が付いていて(住所表示は別名)、古代~中世には牧があったらしいが、今は畑作が主体。
ある時期までは養蚕が行われていたから、御用済みになって巨木になった桑の木が、今でもあちこちに残っている。茶畑もあったらしく、葉を摘まれないまま大きくなった茶の木も散在し、今花の盛りである。

こういう風景を見ていると、いわゆる名園といわれる庭のつくりの源は、「農」にある、そこでの体験・経験があってこそ、造園という行為があり得たのだ、と思えてくる。そうでなければ、樹木、草木の癖や、その醸しだす微妙な気配を身につけることはできなかったと思えるからだ。


この台地の南側にある河川沿いに水田が広がり、台地上の農家の水田もそこにある。今回紹介する屋敷の東側を通る道は、集落から水田へ下る道の一つ。集落共同の籾の乾燥小屋が道の下り口にある(写真)。

この屋敷の主は、どちらかというと、遅くなってから(と言っても江戸期の末ぐらい)移り住んだのではないかと考えられる。このあたりには少ない姓で、集落の主要部から離れていることからの私の推測。
北から西へと屋敷を囲む樹林も、広大で背丈も高いが、先回の事例に比べると年数は経っていないように見える。欅も混じっているが、丈は低く、針葉樹に埋もれてしまっている。

屋敷自体も先回の例に劣らず広いが、屋敷のすぐ南にある畑も当家の畑地で、屋敷の数倍はあり広大。
畑地の南は急斜面で水田に落ち込むが、その縁にも樹林が並んでいる。畑地になる前は、一帯が山林だったと思われる(遠くから見ると山林に見える場所があたりに数多くあるが、その多くは、行ってみると、樹林はまわりだけで、中は見事に開墾されている場合が多い)。

屋敷の中には主屋のほかに蔵が二棟、「までや」二棟、と数多いが、一時に建てられたわけではなく、徐々に形づくられたもの。門や塀も数年前に、生垣にかわってつくられたばかり。建屋は全部瓦葺き。
主屋は、門から全部は見えないが、「玄関」の左に縁側をともなった接客空間が広がり、かねおりの先に離れ・書院があるようだ。
この「玄関」は普段は戸を閉じたままの客専用玄関。つまり、「武家住居」の写し。

この玄関とは別に「内玄関」がひっそりと脇にあり、家人の常時の居住は、その玄関の右奥のあたり。夜は、そのあたりからだけ光がこぼれ、正面は真っ暗。このあたりの農家は皆同じである。

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屋敷構え-1

2007-12-03 18:50:49 | 住まいの構え方

今年の紅葉は、平地でも見事。
紅葉が進むにつれて、その濃淡と常緑樹との対比でめりはりがついて、普段は気付かない林の奥行が見えてくる。

私の住むあたりは農家が多く、大抵見事な屋敷林で屋敷が囲まれている。今、紅葉の盛り(今日の雨で大分散ってしまった)。
そのいくつかを紹介したい。
このあたりでは、冬から春先にかけて、北西からの風が強い。ちょうど北西方向に筑波山が見えるから、まさに「筑波下し」。

今回紹介の例は、地図の網かけ部分、空中写真で〇印を付した屋敷。

  註 空中写真はgoogle earth、地図はゼンリンのデータ。上が真北。

屋敷全体は大きく、少なく見積もっても2500㎡はある(境界ははっきりとは分らないが、多分、樹林の茂っている部分が屋敷と考えられる)。最近の分譲地なら、軽く10戸は建ってしまう。
しかし、大きいと言っても、このあたりでは決して珍しくはない大きさ。
屋敷の内の建屋も多い。大抵三世代居住。

このお宅の南側に沿って、かつては主要道が通っていたようで、現在の道路(写真Cを撮った場所)は、車社会になってから新設されたようだ。
お宅の前の道の幅は1間半程度で、東へ進むと屋敷が三つほど連なるのだが、奥の方は道の痕跡だけ残っていて、今はほとんど誰も歩いていない(この並びの一番東側のお宅は、今は、その東側を通る南北の道を使っている)。

この細い道に接する面、つまり屋敷の南面は、高さ2.5mほどの生垣で(それゆえ、普通には中が見えない)、その手前に一段低い1m程度の生垣を設ける二段構成になっている。だから、生垣の厚み:見込みは1.5mほどはあるのではないか。
この手法は、このあたりの生垣に多く、人の背丈を超える生垣が、道行く人に圧迫感を与えないための工夫と思われる。
低い方は、多分この場合はマサキやモチノキの類、高い方はシラカシ、シイの類、いずれも常緑。サザンカも混じっているかもしれない。

これに対して、屋敷の西側には、二階建て建物の優に2~3倍近く背の高い樹林帯が設けられている。樹種は、ヒノキ、スギが主体で、一部にケヤキなどの落葉広葉樹が混じる。中でもケヤキは、写真でも分るように、背が高い。
夏場は薄暗いのだが、この季節、下草も枯れ、広葉樹が色づくと、華やいでくる。
こういう林が、屋敷の北側にもまわる。それに続く畑地は、多分、このお宅のものだろう(南の道を挟んだ向いも、おそらく同じ)。

東側、つまり隣家との境は、写真に少し写っているが、2~3mの高さの生垣だが、それほど密ではない(写真でも分る)。

屋敷の中の主屋は、多分、東~南側全面にL字型に縁がまわっているはずだ(訪ねたことがないから詳細は分らない)。
ただ、そこは居住空間と言うより2~3室の部屋が並ぶ接客空間。いわゆる書院造の系譜。縁まわりは、「差鴨居」で全面が開口となる。
このあたりの農家では、こういう造りが、最近でも主流。
余談だが、例の〈耐震診断〉で、こういう造りのお宅には、〈専門家〉は皆悩んでいるとのこと。

こういう風景は、見ているだけで心和む。

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