号外-再集:日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった

2011-02-16 10:27:39 | 「壁」は「自由」な存在だった
「建物をつくるとは・・・15」準備中ですが、週末まで、未だ落ち着きません。

できあがるまでの「空白」を埋めるため、
先日の「号外-再刊:在来工法・・・」を補う意味を込めて、
日本の建物づくりでは、架構の自立を「壁には依存していない」という事実を、事例で観たシリーズを、
以下にまとめます。

このシリーズは、「耐力壁に依存する現在の木造建築」は、日本の建物づくりの歴史では、きわめて「異質」である、ということの実証・確認のために記したものです。
そしてそれは、その「異質な時代」は、日本の建物づくりの長い歴史の中では最近の僅か60年余にすぎない、という事実の確認のためでもあります。

私たちの頭のどこかの一画に潜んでいる「架構の耐力は壁にある」「壁がないと架構は自立できない」・・・という「先入観」を一旦脇に置いて、「事実」を観てほしい、と思って書いています。

1)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0e5f84e9e6a05960941c6bf7addf0784
2)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23
3)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/79463d3e28a18d29713ccade385bbec1
4)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/53341d0e4ef1e1ead5a20475be1bd6e7
5)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ff5c01cb975024f20a6c378226019f10
6)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/69179419bccd3d1ef2663bee5dc88f1c
7)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/643e57cf3fa000d41843c853830dc1d3
8)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/af0e7b3f276b1782f4697e8dc2eea94a

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった・余録

2010-08-02 17:17:59 | 「壁」は「自由」な存在だった
[追補 5日 9.07]

昔懐かしい暑さの夏が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
かなりバテ気味になっていますが、少しは涼しい話題をと思い、清々しい建物を紹介いたします。

かなり前に、神奈川県・川崎の生田緑地の「日本民家園」に保存されている「広瀬家」を簡単に紹介しました。
「広瀬家」は、元は山梨県の塩山(えんざん)にあった17世紀後半の建設と考えられている農家ですが、茅葺の「切妻屋根」で(茅葺の切妻は、例が少ない)、「棟持柱」で棟木を支えているのが特徴の建物です。
四周は土塗り真壁で覆われ、出入口は大戸だけ、あと下地窓が少々ある程度。
これは、寒冷の地で暮すためです。

   註 甲府盆地の東北部には、秩父山系からの笛吹川(ふえふきがわ)が深い谷を刻んでいます。
      笛吹川は盆地中央部で、西北からの釜無川(かまなしがわ)と合流、富士川となります。
      甲府盆地は、四周の山から流れ出る水の遊水地だったわけ。
      この笛吹川の両側の斜面、丘陵は、現在一面のブドウ畑。
      かつて、養蚕が盛んだった頃、桑畑だったところ。その一角が塩山、勝沼です。
      「広瀬家」は、笛吹川の支流をさらに遡った標高600mほどの高地にありました。
      大菩薩峠の麓です。冬季はかなりの寒冷の地です。
      蛇足
      桑とブドウなどの果樹は同じ土質の地を好むようです。
      私の住む近くにも果樹産地がありますが、そこも元は養蚕が盛んだった。

今回、次回の「伝統を語るまえに」の配付資料で「広瀬家」を取り上げようと考え、諸資料を見直して、あらためてその「架構の妙」に感動しました。
そこで、その「妙」を紹介させていただこうと考えたわけです。

下の写真は、民家園に復元された「広瀬家」の全景(南~東面)です。つまり、建設当初(1600年代の後半)の姿です。



塩山にあったとき(つまり、移築前、1960年代後半頃)の姿は、これとは大分違い、開口部が大きく設けられています。



こういう外観の建物は、今でも塩山、勝沼から雁坂峠(かりさかとうげ)へ向う街道筋にたくさん残っていて(ただし、ほとんどは瓦葺きの建物)、甲州の「突き上げ屋根」と呼ばれています(雁坂峠を越えると秩父です)。
養蚕が盛んだった頃、切妻の屋根の中ほどを突き上げて、中2階、ときには3階もつくり、蚕室にしたのです。

下は、建設当初と移築前の平面図です。
はじめに建設当初:民家園にある復元した建屋の平面図。基準柱間は1間:6尺のようです。



次に移築前:当初の建屋に何回かの改造を加えた結果:の平面のスケッチ。
間口×奥行は、当初と変りはありません。

   

当然、「突き出し」のための細工はされていますが、当初の架構の「骨格」には大きな変化はありません。
当初の骨格、つまり、復元建物の桁行、梁行断面図は下図のとおりです。
なお、平面図、断面図は、ほぼ同一縮尺です。



   

図で橙色に塗った柱が「棟持柱」です。

使われている木材は、大半がクリで、太い材にはクリに似た堅木が使われています。
いずれも広葉樹で、直ではありません。
材寸は、柱の太いもので8寸5分角程度、細いもので5寸角程度で、すべて不ぞろいです。

この建物は、一見すると素朴で稚拙のように見えますが、そうではありません。実によく考えられているのです。

この建物の架構は、すべて「仕口」だけで組立てられています。
すなわち、梁・桁などの横材は、すべて柱と柱の間に納まり、「継手」で継ぐということはしてありません。「貫」も、外周の壁下地の部分を除き、同様です。
具体的には、横材は「側柱」の上、「上屋柱」(「梁行断面図」で黄色に塗った柱)の上には、「折置」で取付き、
「柱」の中途へ「梁」が取付く場合は「枘差し・鼻栓打ち」、
「桁行断面図」の中央部の「桁」のように「梁」に載る場合は「渡り腮(あご)」で架けています。
「枘差し・鼻栓打ち」も「渡り腮(あご)」も、細工は簡単で、しかも確実な方法。現在の建築法令でも文句が言えない。

このようにするため、「棟持柱」への取付きでは、「梁行断面図」で分るように、材料の「曲り」を巧みに使って、左右の「梁」の取付き位置に段差を付けています(全体としてはほぼ水平になります)。
また、「繋梁」と「差鴨居」の取付き位置にも段差を付けています。

これらの納め方を見ると、事前に、使用する材料のクセをすべて読み取って使用位置を決める、つまり、架構全体の構想を緻密に描いている、ことが分ります。そうしなければつくり得ないつくり、なのです。これにはあらためて驚嘆しました。

このように隅から隅まで十全に「計算されている」ため、現場で部材を組上げたとき、つまり、屋根も壁も未だつくられていない上棟時、架構はびくともせずに自立するはずです。
言ってみれば、工人冥利につきる建物。


しかしながら、現在の、《木造建物は「(耐力)壁」を設けることによって自立するのだ》という「理論」が染み付いてしまった目には、この建物の場合も、外周の「壁」が効能を発揮していると見てしまうのではないでしょうか。「古井家」をそのように見てしまうのと同じです。

けれども、移築時点で、この建物の外周は改造を加えられ、当初の壁は一部を残すだけの状態になっていました。開口部が大きくとられるようになったからです。
   「広瀬家」の外周の土塗り壁の仕様は、以下のようです。
     「貫」に「縦小舞」を縄でからげ、それに「横小舞」をからげる。
     「横小舞」は柱から浮いている(小舞穴を設けていない)。
     足元は、後入れの「地覆」で納める(「土台」は用いていない)。

実際には、建設時からおよそ300年、建物は、現地で、当初の骨格をほぼ残したまま、健在だった。
それは、この建物の架構が、暮しの変化があっても骨格を変える必要がなく(そのまま使いこなせ)、その間の歳月の負荷に十分に耐えるだけのものであったこと、を示しています。
この建物も、架構がよく考えられていて、「壁は自由に扱える存在だった」のです。


私たちは「(耐力)壁」のシガラミから脱け出す必要がある、とあらためて思います。
そのためには、頭から「先入観」を取去らなければなりません。
頭の中の「店卸し」です。
使いものにならない、要らなくなったものが溜まってしまっているかもしれません。



暑い日が続いています。
家混みの都会でも、かつては、「開けっぴろげ」の建屋があたりまえでした。風さえ通せば、数等暮しやすいからです。
幸い、私の暮す場所では、今でもそれが可能です。夜半になると、寒い、と感じるときさえあります。

今の都会では無理かもしれません。家混みの程度が違うからです。
そしてまた、我が家を涼しくして外気を熱することに精を出している以上、それは「高望み」だからです。

追補 [追補 5日 9.07]
遠藤 新 氏が、日本の住まいの特色について、もっと端的に言えば、日本の建物の「壁」について語っている一文を、以前に紹介したことを思い出しました(下記①)。
そこでは、耐震と称して架構の一部を補強する「風潮」「考え方」を不権衡として戒めています。
9月が近付き、「耐震」が騒がれる時節が来ます。あの関東大地震当日に竣工式を行なった旧帝国ホテルは被災していません。その点についての一文も紹介してあります。あらためてお読みいただけると幸いです(下記②)。

① http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/471c0ea7a47bf05a1a50e60da5fd87e0
② http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cbf1e115da1b4bfb40b88266eccb245d
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-8(了)・・・・「住まいの原型」の記憶

2010-07-23 16:44:00 | 「壁」は「自由」な存在だった
暑中お見舞い申し上げます。
エアコンなしで過ごしています。時折り吹いてくる風が、幸い熱風ではないので、気持ちいい・・・。



出雲平野の散村。北と西に防風林(左が北)。防風林で囲まれた一郭がすべてが「住まい」。「住まい」の中にいくつかの「建屋」がある。
道の右側、下から3戸目では、目下「囲い:防風林」の造成中。この段階では、まだ、建屋だけが「住まい」かもしれない。( Architecture without Architects より)
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回のなかほどで、次のように書きました。

  ・・・・
  考えてみれば、一体化だとか立体化だとかいうのは、
  現代の、「ものごとを分解して理解に到達する」という考え方に
  「毒されてしまった」私たちが、私たちだから言う「言い草」なのです。
  あるいは、「ものごとを分解すれば理解に到達する」と主張する人たちに、
  「それは違う」と言わざるを得ないときに、やむを得ず言う言葉なのです。

  「古井家」をつくった人たちをはじめ、
  古来の「知見の蓄積」に基づき「住まい」をつくる人たちにとって、
  つくる建屋は、「あたりまえのように、一体化・立体化されている」のです。
  ・・・・

しかし、書いた後、もしかしたら、何を「一体化、立体化されている」というのか分らない、と思われる方がたくさん居られるのではないか、ということに思い至りました。
何故なら、私たちのまわりは、最近とみに、「一体化、立体化されていない」建物で溢れかえっているからです。

人は、身のまわりにあるものに「慣れて」しまいます。とりわけその数が多ければ多いほど、それで「当たり前」と思ってしまうのです。これは怖いことです。

私の知るかぎり、かつては、私たちの身のまわりにある「もの」たちは、私たちのそれぞれがつくりだしたもの、探し出したもの、選んだもの、言い換えれば、私たちが私たちの感性で「よし」としたものたちでした。つくる人たちも、私たちと同じ感性の持ち主だった、ということです。

ひと昔ほど前に、「私つくる人、私食べる人」というコマーシャルフレーズがありました。これはまことに象徴的に「現在」を現しています。私たちは、いつの間にか、否応なく、「つくる人たちのつくるもの」だけに囲まれるようになってしまったのです。
つくる人たちが、私たちと同じ感性の持ち主であった時代、取り立てて問題はありませんでした。そのときは、身のまわりのものに慣れてしまっても問題はなかった、むしろ、お互い、「その先」が見えた。だから、さらなる「展開」もあり得た。
けれども、現在は違います。私たちの身のまわりには、私の言い方で言えば、「部分・要素」の「足し算」でつくられたもの、それだけのものだらけなのです。

何故こうなってしまったのか。
その原因は、「建物」「空間」を言葉で表現することが難しい、ということに尽きるでしょう。
建物を説明するとなると、どうしても、「間取り」:平面の話、「架構」:その平面を覆う骨組の話・・・という具合に分けて書くことが多くなります。
たとえば、川島宙次氏の著された貴重な「滅びゆく民家」でも、「間取り・構造・内部」「屋根・外観」「屋敷まわり・形式」の三部構成になっています。
したがって、ある一個の住居を「全体として理解する」ためには、読者は、その住居の間取り、構造、・・・などの個別のデータを知り、自らがそれらを「総合して組み立てる」作業をしなければなりません。
この「作業」は、慣れた人には何ということもありませんが、不慣れな人には大変な作業です。
ところが、多くの専門家は、特に研究者に多いのですが、これらのいわば「便宜的腑分け」の項目個々についてのデータは蓄積するものの、「全体」との関係について考えることを怠るのです。
端的に言えば、これらの「個々の項目についての専門家」が現われる。別の言い方をすれば、「全体を考えること」は「専門外」になる。

   川島宙次氏の書が貴重である、という私の判断は、氏が、「全体」をよく観ているからなのです。
   たとえば、建築計画の専門家は、間取りやその変遷については語っても、間取りと構造の関係については
   語らない、と言うより「語れない」。
   構造の専門家は、間取りに無関係に構造について語る。その例が耐震補強。
   ・・・・
   川島氏にはそういうことはない。

そして、「個々の項目についての専門家」が、こともあろうに、「全体」にかかわることにまで関わってくる。たとえば、住まいの根幹は《断熱》であるかのようにそればかり強調する「専門家」がでてくる。・・・それによって生まれたものが私たちのまわりを埋め尽くす。私たちは、それが「当たり前だと思ってしまう」。このいかんともしがたい悪循環・・・。

   過日の講習会「伝統を語るまえに」の後の懇親会、簡単に言えば飲み会で、「伝統木構造の会」の会員で、
   国交省の「伝統的構法」の検討委員会に「実務者(設計者)」として参画されている方から、
   「興味ある」話をうかがいました。
   委員会では、「それでは『実務者』のご意見をうかがいます」と問われるのだそうです。
   この方の言われたのは、意見を言っても言っただけで(向うの立場では、聞いただけで)、
   「結果」つまり「まとめ」では、「実務者」の意見も検討した結果・・・云々、となることへの「怒り」でした。
   これは、同じく「実務者」として参画されている「大工棟梁」もそのブログで同じようなことを書かれています。

   私は、その話を聞きながら、別のことを考ていました。
   質問を発している方は「委員会」を取り仕切っている方で、論理的にいって、
   「実務者」ではない。つまり「非・実務者」。
   では「非・実務者」とはどういう方々か?
   それは、いわゆる「学識経験者」「有識者」。
   「学識経験者」「有識者」とは、先ほど書いた「個々の項目についての専門家」にほかなりません。
   例えば構造の専門家。
   構造は専門だが、その間取りとの関係についでは専門ではない(知らない、関心がない)という方々。

   この委員会は、たしか、「伝統的構法の設計法」「伝統的構法の性能」を検討する委員会であったはずです。
   こういう性格の「委員会」を「非・実務者」が取り仕切るというのは、一体どういうことなのだろう?

   考えてみれば、明治に「学者」「研究者」が誕生して以来、「個々の項目についての専門家」
   すなわち「非・実務者」こそ多数生まれましたが、
   「全体に眼を遣れる専門家」はきわめて少なかったことに思い至ります。
   そういう方々の考えは、「多数」の弁舌によって消されてしまい、
   そしてその「多数」の「非・実務者」によって「実務者」に課せられたのが現在の建築法規である、
   という歴史的事実を忘れてはならないはずです。

   「伝統的構法」の検討委員会はメンバーが多少替ったようです。
   しかし、「非・実務者」が取り仕切るという「構図」は変っていないようです。
   それはすなわち、「下々はお上に従え」という「構図」は変っていない、ということです。
   私たちは、それにも慣れてしまった?!


前書きが長くなりました。

これまで、いくつもの事例を紹介してきました。
いずれも、現在の建築法規の規定には反する事例ばかりです。
そして、そのどれも、壁は自由に扱われています。壁は、柱間の充填材にすぎない、ということです。
そしていずれも、百年~数百年健在です。

それらに共通する特徴をまとめると、次のようになるように思います。

① その地の風土・環境に適応した暮し方に合う空間をつくることに徹している。 
② 規模の大小にかかわらず、きわめてシンプルな形(先回の言葉で言えば「一つ屋根」)にまとめている。
③ 空間の分割:間取りと架構が対応している。
④ 不必要に大寸の材料は使わない。たとえば、基準柱間6尺5寸で、柱は5寸弱角。
⑤ 風土・環境に適応した材料の使い方を工夫している。
⑥ 使う材料も、空間の分割と対応している(材長は架構の区画と一致)。
  すなわち、柱列から持ち出した位置で材料を継ぐようなことはしない。
⑦ 材相互の接合:仕口、材の延長:継手は、いずれも簡潔な手法を採る(「原理」には忠実である)。
⑧ 建物の架構全体を、竹ヒゴ細工の虫かご、鳥かごのような立体に組上げている。
⑨ 組まれた立体は、礎石の上に置かれただけである。
   註 実際は礎石の上で組み立てるが、結果としては置かれた形となる。
⑩ ①~⑨は、見かけの形は違っていても、一般庶民、上層階級を問わず同じである。
 

では、現在、私たちのまわりにたくさんある「住宅」を見てください。

その多くは、規模が小さいにもかかわらず、複雑な形をしている筈です。
多分それは、ほとんどがいわゆる住宅メーカーの「作品」ですが、個々の「作品」の「アイデンティティ」を際立たせる一つの手段として、「格好よい形」にしているのです。そして、注文する側もまた自分の「好み」の「形」を選択する。・・・
そこでは、その建つ「地域」はどこでもよく、「形」と「間取り」と「架構」とは「関係ない」のが普通です。

そのなかでも著しいのは、間取りと架構の不一致。とりわけ、注文に応じる場合、そのほとんどで、2階と1階の間仕切位置が一致していません。

そしてまた、多くは、「構造用教材」所載の軸組工法モデルを具現化した例がほとんどで、柱から持ち出した位置で簡単な継手で継いで金物を添える方法。端的に言えば、材寸は出たとこ勝負。プレカット工場に「機械的に」お任せ。

したがって、いずれも私の言う「部分の足し算」による建物、「一体化・立体化」とは無縁。

そして、そういう「部分の足し算」的建物が、基礎に金物でがんじがらめに結び付けられる。何故か?地震により建物に生じる水平力を、スムーズに地盤に伝えるためだそうです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/05257b17a8877ce16db40233141e1805参照)。


では「伝統的構(工)法」を尊重する方々なら、先に挙げた「特徴」を、きちんとわきまえているのでしょうか。
必ずしもそうではありません。
その方たちの多くは、「伝統的」と言われる「形」に惹かれているようで、その背後に隠れている「考え方」には思いを馳せない。もちろん、すべての方がそうなのではないでしょうが・・・。

たとえば、聞こえてくる話によれば、メンバーチェンジした国交省の「伝統的構法」の検討委員会の「設計法」検討部会では、「実務面での緊急性を考えて、町家型、田の字プランの住宅に限定」して実験などを行ない、仕様などを決めるのだそうです。
首をかしげるのは、私だけなのでしょうか。
これでは、その先に見えてくるのは、見かけは「伝統的」風だけで、巷にあふれる建物群と変りはないものがつくられてしまう事態であることは容易に想像できます。「論理」は従来と何ら変っていないからです。世の中は「伝統《風》」の復権を望んでいるのでしょうか?

   註 この委員会が、「設計法」「性能」の検討会、と言うのも、気になります。
      「設計法」とは何を指すのか、定義が不明確だからです。
      設計とは、建築法令に「適合する」ように、各部の「性能」を規定すること?
      早い話、「性能」とは何を指すのか、それさえも不鮮明です。
     

では、先に挙げた「特徴」をもつ建物は、なぜ生まれ得たのでしょうか。

それは、人が住まいをつくる(居住空間を求める)際の「基本的な原理」に則っていたからだ、と私は考えています。人びとは、太古以来のこの原理を記憶していたのです。

人が「住まい」を構えるとは、どういうことなのでしょうか。
必要な諸室の数を揃えることですか?

これについてはすでに何度も触れてきています。住まいの原型は、先ず、自分(たち)が、「安心して籠れる場所・空間を確保する」ことです。したがってその原型は「一室空間」です。このことについては、下記で例を挙げて書きましたので、ここでは説明を略します。
   日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住まい

同じようなことを、帝国ホテルの設計・施工で F・L ライトの右腕として活躍した遠藤新 も言っています(下記)。
   日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば 


「住まいは本来がワンルーム」という考え方を採るならば、敷地の大小にかかわらず室数を同じにする(敷地が小さいときは室の面積を縮小して室の員数だけを揃える)などという愚行はしないはずなのですが、現実はそうではない。
現在「当たり前」になっているこの「考え方」は、実は、戦後の「建築計画学」の置土産なのです。「住居」に関わりながら、「住まいとは何ぞや」という根本、本質を考えなかったからなのです。

   蛇足
   学生の頃、「矛盾論」を読みかじったわが師は、
   「本質」などという存在しないものに拘るな、とのたまわれたのを昨日のように覚えています。
   生活と空間の「矛盾」から、新しい「住まい」「暮し方」が生まれる、と言うのですが・・・・。
   これも昨日のように覚えていること、
   或る公営住宅の2DKで、その住人は、DKではなく南の六畳間で食事をしていた。
   それを見て、わが師いわく、「まだそんな《後れた》生活をしている」と。
   この方は、私の反面教師の一人、この方の考え方との「矛盾」が、私をつくった・・・。
   私が、進んだ形だとか、進化とか言わず、進展とも言わず、進展・展開と記すのも、そんな経験からなのです。

つまるところ、かつて人びとは、人それぞれの置かれている状況の下で、そのとき必要と感じた空間を、自らの感性によって望み、工人もまた人びとと感性を共有していた。
その感性の拠りどころ、それは、「人にとっての空間の意味についての認識」です。
そして、つくるとき、最初に、「できあがった空間」全体をイメージしていたのです。
当然ながら、そこでは「架構」も読み込まれているのです。そうでなければ、組み立てられない・・・。
今でも、自分でつくるとなると、このようなイメージを描く筈です。ことによると、そのために必要なスケッチを描くかもしれない(頭の中だけで済ますこともあるでしょう)・・・。そうしなければつくれない。

人は「空間」を離れて存在し得ません。「空間」は、魚にとっての水と同じなのです。
ところが、あるときから、人と空間を切り離して、別々に語り、後になって二つを「くっつける」ことが当たり前になってしまった。
それどころか、そうすることが「科学的」であるかにさえ思うようになってしまった。
今の多くの建築に関わる「学」や「研究」は、先ずほとんどすべて、この「分離」「乖離」の下で成り立っています。
その観点で語られる空間は、もはや「人のいる空間としての建物」ではないのです。

かつての人びとには、そのような分離・乖離した見方は存在しなかったのです。
何故ならば、「それでは人が人でなくなる」「俎上の魚になってしまう」ことが分っていたからです。私はそう思っています。

このことを、次の文言は、私のようにくだくだとではなく、きわめて簡潔に、ものの見事に語っています。
「・・・・うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり・・・・」 (道元「正法眼蔵」)
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-7・・・・何が見えているか

2010-07-15 10:18:42 | 「壁」は「自由」な存在だった
今回も長くなりました。
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[註記追加 15.31][註記追加 16日 9.47]
その気になって観てみると、現在各地に保存されている重要文化財建造物は、どれも、きわめて単純な形をしていることに気付きます。簡単に言えば、「一つ屋根」。

その遺構はありませんが、「寝殿造」も図面で見て明らかなように、いくつもの「一つ屋根の建屋」を「渡廊下」でつないでできています。下の図は、復元想定の「東山三條殿」俯瞰図。



中世、近世の寺院の「塔頭(たっちゅう)」でも同じで、「東福寺・龍吟庵方丈」は、他の建屋が消失しているので不明ですが、「大徳寺・大仙院」でも、下の図のように、いくつかの「一つ屋根の建屋」が「渡り廊下」でつながっています。
   寺院の伽藍自体、「一つ屋根の建屋」をいくつも並べることで成り立っています。
   相互を必要に応じて渡り廊下でつなぐことは任意です。


   
同じ塔頭でも、「大徳寺・孤篷庵」は、「大仙院」とは大きく異なります。下がその配置図です。



この配置図をざっと見ると、この建物は、必要な諸室を必要に応じて並べているように見えます。現在の建物の普通の設計のやりかた:いわゆる「間取り」を先行して、次いで、その構造や屋根の形を考えるという手順:に慣れた目には、そのように見えても可笑しくはありません。

しかし、実際はそうではありません。
次の写真は、 Google earth から転載した上空から見た「孤篷庵」です。



この写真で分るように、この建物は、いくつかの「用の異なる一つ屋根の建屋」を直接接合して相貫体をつくっているのです。

すなわち、「方丈」部分と「方丈・書院へのサービス」部分とを南北に並行して並べ、その両端:東西に「両者を連絡する諸室」部分を直交して置きます。そうすると、坪庭を囲んでロの字型の建屋になります。
そのロの字は、俯瞰すると、平面図で見るよりも整形です。
ロの字の西側に「書院」部分があり、その北側は、坪庭を間に置いて「日常居住」部分が占める・・・、こうして全体ができあがっています。
下の写真は、配置図で「書院」と「方丈」部の繋がりを示しています。



写真は、庭の西南隅から北西を見たもので、左手が「書院」、右は「方丈」の西面、「方丈」から北へ少し進んだ奥に見える妻面は、「方丈」と「坪庭」を挟んで並んで建つ「方丈、書院へのサービス」部分の屋根です。
平面図はきわめて複雑に見えますが、「一つ屋根」ごとに区分けをして見ると、複雑ではないのです。

「桂離宮」も似たような空間構成ですが、「桂離宮」の場合は増築に増築を重ねた結果なのに対して、「孤篷庵」は最初からこの形でつくっています。
言ってみれば、頭の中で、事前に「増築」をしていって、この空間構成が描かれた、と言えるかもしれません。
別の言い方をすれば、「全体」を、いくつもの「一つ屋根」の建屋群の集合として捉えていた、ということです。

ただし、そのとき、建屋以外の部分:屋根のない部分:をも「一つの空間」として捉えられていないと、こういう計画・発想は生まれない、ということに留意する必要があります。
したがって、より正確に言えば、与えられた「敷地」を、「屋根のある空間」「屋根のない空間」のモザイク状に分けて捉えた、と言ってもよいでしょう。

問題は、その「分ける論理」は何か、という点に絞られます。
そしてそれは、「建物を設計するとはどういうことか」という根本的問題にほかならないのです。
小堀遠州は、この「問い」に対して、一つの「答」を「孤篷庵」で示してくれているのではないでしょうか。

   註 「孤篷庵」は、小堀遠州が、自らの菩提所として指図してつくった塔頭です。[註記追加 16日 9.47]


「大仙院本堂」のようなつくりかた、いわゆる「分棟型」は、近・現代でも、学校校舎や病院の建物に多く見られました。「孤篷庵」は、現在の普通の建物に多い「複合型」のつくりと言えるかもしれません。
「分棟型」は、最近少なくなりましたが、たいていの場合、平屋建てか二階建程度ですから、平面移動が主となるため人の動きになじみ、気分がよいものです。

   註 ただし、「孤篷庵」は平屋建てです。だから、人の動きになじみます。
      現在の「複合型」は、数階建て以上が普通です。[註記追加 15.31]

「分棟型」「複合型」のいずれを採るにしても、「一つ屋根」に何を括るのか、それらをどのように並べるのか(接合するのか):その並べ方・「配置」順序が重要になります。つまり、先に書いた「分ける論理」です。
なぜなら、「括り」と「配置」を間違えると、きわめて使いにくくなるからです。

いわゆる「建築計画学」は、この「論理」を見きわめようとしたのが発端だったはずです。
その当初、研究者の目には、「括り:一つ屋根」の区分け・仕分けは、ごく「常識」的に「見えて」いました。
なぜなら、「常識」とは、「私たちのごく自然なものの見え方」にほかならないからです。そして、その「後ろ盾」「保証」になっているのは、私たちの「日常の暮しの全体」です。

ところが、あるときから、研究者の目には、その「後ろ盾」が見えなくなるのです。
なぜか?
目が「研究」にそそがれ、「日常の暮しの全体」が見えなくなるのです。
一言で言えば、眼下の「研究」が気になり、「何を研究しているのか」が見えなくなる。「研究」が「目的」になってしまい、「部分」だけが目に飛び込んできてしまう。

「部分だけ」を見ることは簡単です。
相互・前後の脈絡を切って「部分」を見ることは、「全体像」との脈絡を考えながら「部分」を見るより、数等簡単だからです。

   「研究」を「業績」に置き換えると分りやすいかもしれません。

そしてさらに「病状」が進むと、「自分に見えている『部分』を寄せ集めて足し算すれば『全体』になる」という「錯覚」に陥る。

「建築計画学」も、そして「建築構造学」も、皆、この「落し穴」:「錯覚」に陥ってしまった。そのように私は見ています。
当初の「素直さ」、「常識で見るものの見方」をどこかに置き忘れてきてしまったのです。

もしも研究者が、自らの「研究」に目を遣るのではなく、拠ってたつ「自らの暮し」に目を遣っていたならば、
もっと簡単に言えば、
「自ら、自らの暮す空間をつくる」場面に身を置くならば、「錯覚」から覚め、「日常の暮しの全体」に目を遣らざるを得なくなったはずだ、と私は思います。
しかし、大方の研究者はそれをしない。そんなことをしていると「研究」の「成果」が上らない(と思い込んでいる)からです。

しかし、当たり前ですが、ごく普通に暮している人びとの目から「全体」が見えなくなることは決してありません。「暮せなくなる」からです。
かつて、人びとは皆「全体」が見えていました。
ですから、普通に暮している以上、「常識」が失せることはない。ごく自然に「何が一つ屋根に収まるか」が「見える」。

   今、一般の方々の間にも、「研究者風なものの見方」が増えているように、私には思えます。
   なぜなら、それが最高最善のものの見方と「思い込まされて」いるからです。
   たとえば、「科学的」ということばのマジック。皆、このことばに「弱い」。
   
ところで、「一つ屋根」と言うとき、それは、単に、そこに収まる諸室のことを言っているのではありません。単に「なかみ」だけではなく、その「空間」そのものをどうやってつくるかまで、現代用語で言えば、計画から構造、設備・・・まですべてを含んだ「一つ屋根」を指しています。

随分前に、「住まいの原型は一室空間である」と書きました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3)。
人びとは、「手に入る材料」で(正確に言えば、「手に入れやすい材料で」)その「一室空間」をつくりました。

そのとき、あんな形がいい、こんな形がいい、など詮索しません。

その材料なりの「形」は、「自ずと人びとの目に見えている」からです。
先ず「間取り」を決めて、次いで「構造」を考える、などという手順はないのです。


やっと今回の「本題」にたどりつきました。「このこと」すなわち「最初に全体を見る、全体が見える」ということを言うために、ここまで随分時間をとってきたのです。
それは、彼の「古井家」を理解するためには、どうしても「このこと」を念頭に入れておく必要がある、と思うからなのです。

「古井家」が、壁に依存せず、木材に拠る架構だけで自立している、500年近く健在であったことは、すでに触れました。
「耐力壁」がないと木造建築は自立を維持できない、という「説」は、思い込みに過ぎない、ということです。「事実」に反する「説」である、ということです。
逆に言えば、思い込みで「事実」を見てはならない、ということです。

下は、「古井家」の復元後の写真。建坪は112㎡:37坪、平屋建て。見事に「一つ屋根」です。



当然ですが、「古井家」の人たちは、自らの住まいをつくるべく、材料を集めます。地元で得られる木材です。もしも木のない地域だったなら、別の材料、たとえば土や石になったでしょう。木があった。だから木造になった。

さて、自らの住まいをつくるにあたって、彼らは、現在のように、自らの住まいが自然の猛威の中でも自立を維持するために、「耐力壁」を設けなければならない、などと考えたでしょうか。
そんなことを考えるわけがありません。
「壁」は、彼らにとっては、木造の骨格が出来上がってからの話。
第一、「壁」を何でつくるかは、地域の状況次第。
「壁」は、骨格の間の充填材。充填材は、莚のようなものでもよく、茅のようなものでもよく、もちろん土でもいい。その「選択」が適宜であることは、すでに見てきました。
だから、そういう「壁」が建屋の自立に役立つ、などと考えるわけがない。

つまり、当然ながら、木でつくる住まいの架構自体が自立することを目指します。
というより、そういう意識さえなかったかもしれません。
「竪穴住居」そして「掘立て」、次いで「礎石建て」と歩んできた道筋は、彼らの「知見」のなかに、脈々と伝わっている、したがって、彼らが木で建屋をつくるとき、その「知見の蓄積」は、そのまま結実する。すなわち、どういう風にすれば、自立を維持・保持できるか、その知見が蓄積としてあった。
そこでは、一体化だとか立体化だとかいうこと自体、言葉にすることさえバカラシイことなのです。

考えてみれば、一体化だとか立体化だとかいうのは、現代の、「ものごとを分解して理解に到達する」という考え方に「毒されてしまった」私たちが、私たちだから、言う「言い草」なのです。
あるいは、「ものごとを分解すれば理解に到達する」と主張する人たちに、「それは違う」と言わざるを得ないときに、やむを得ず言う言葉なのです。

「古井家」をつくった人たちをはじめ、古来の「知見の蓄積」に基づき「住まい」をつくる人たちにとって、つくる建屋は、「あたりまえのように、一体化・立体化されている」のです。

下の写真は、「古井家」の復元工事の組立中を撮ったものです。
上は骨組の工事中、下は屋根下地の用意が進んだところです。いずれも「修理工事報告書」からの転載です。



次は、屋根下地が組まれる前の姿、すなわち、木造の骨組だけの状態の模型の写真です。
屋根下地は、このような骨組の上に組まれているのです。



今、専門の方々も含めて、骨組は骨組、屋根は屋根、という具合に「分けて」見る傾向がきわめて強いように思えます。

たとえば、建築構造を専門と心得る人たちは、骨組だけ見て、ああだこうだ、と言う。
こんな骨組で長い年月無事でいる筈はないから(と勝手に思い込み)、外回りにまわっている「土壁」に目を向ける。このほぼ四周にまわっている「壁こそ、この建物の命」だと「考える」。そして「安心」する。自分の「学んだ」「理論」で、解釈できた・・・・と。

ところが、この「壁」は、初めのうちだけで、時が経つと「壁」は任意に変えられてしまう・・・。
それでも「耐力要素」を探そうとする。たとえば、「小壁」の存在。
けれども、この「小壁」もまた永遠ではない・・・。

すでに前に書きましたが、「古井家」は、建築構造の専門家がいかに思おうと、この極めてスレンダーな骨組で、数百年、倒壊することもなく、過ごしてきたのです。
しかし、この語り口は正確ではありません。
先の「屋根下地の組まれた」段階の写真、この「姿」こそが、この間、大きな変化もないまま継続してきた(もちろん、ときおりの改修、補修はありますが・・・)姿だ、と言う方がより正確でしょう。建物が、その「骨格」だけで使われることなどないからです。
この「姿」こそ、「古井家」を長らえさせてきた理由なのです。
簡単に言えば、屋根まで含んで「一体に組み上がった立体」がそこにある。それに屋根材が葺かれ、壁材が充填される。これが建物の姿です。
   もしかしたら、材料によっては、屋根材も壁材も、建屋の自立に役立っているかもしれません。
   しかしそれは、あくまでも「付加的」な役割・仕事。それが「主たる」役割・仕事ではないのです。
   なぜか。
   それを「主たる」役割・仕事にしてしまうと、それによって「暮し」が「制約」を受けてしまうからです。
   現在の一定の壁を設けよ、という「規定」が、いかに「暮し」の制約になっていることか!

建屋を「軸組」「小屋組」と分けて見ることはできるし、そう分けるのはまったく自由です。
しかし、だからと言って、建屋の強さは「軸組の強さ」+「小屋組の強さ」である、ということにはなりません。
それは、論理的に無理がある。
建屋の強さは、あくまでも「建屋の強さ」、それは、「古井家」を例にして言えば、あの写真の「姿」の強さなのです。

先回、「龍吟庵方丈」は、四周にまわされた「桔木構造による庇」が、屋根と軸組部との一体化に強く関わっている、と書きました。
「古井家」もまた、軸組部にかぶさる屋根が、全体の一体化・立体化に大きな役割を果している、そして、そうしてできあがる「立体」を「礎石」の上に据え置けば、「龍吟庵方丈」と同じく、簡単なことでは倒壊に至らないのです。
つまり、「古井家」を建てた人たちにとって、こういう「立体」をつくるのが「常識」だったのです。「部分」を足してつくり上げるなどという「発想」は、どこを探してもないのです。

彼らに、「構造用教材」に載っている軸組工法のモデルを見せたら(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/05257b17a8877ce16db40233141e1805に図があります)、彼らは何を思うでしょうか。
彼らには会えません。しかし、彼らの考えたことは、「古井家」という建屋に歴然と示されているのです。


蛇足

私が、今のような考え方、見方をするようになるのに、大きな「助言」「支柱」になったのは学生時代に読んだいろいろな書物です。
その一つに、次の一文があります。
「・・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある『まとまり』を先ずとらえ、部分はそのある『まとまり』の一部としてのみとらえられるとする考え方、すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。
・・・・・」(ギョーム「ゲシュタルト心理学」岩波現代叢書)

ゲシュタルト心理学というのは、単純に図形に対する視角心理学ぐらいに理解していた私にとって、この書は衝撃的でした。

こういうのもあります。
「・・・・・
ある対象についてのすべての適切な表象が共通に持たなければならないものは、その対象についての概念(concept)である。同一の概念が多数の表象として具体化されるのである。
・・・・・
どの二人の人も、おそらく全く同じようにものを見るものではない。彼らの感覚器官はそれぞれ相異なっており、彼らの注意力も心象も感情も、それぞれ相異なっているのだから、彼らは同一の印象を持っているとは想像できない。
しかし、もし事物(または、事象、または人間など)についての彼らのそれぞれの表象が、同じ概念を具体化している場合には、彼らは互いに理解し合うであろう。
・・・・・」(S・K・ランガー「シンボルの哲学」岩波現代叢書)

ある地域に、似たような形で、なおかつ個性豊かな「住まい」があるのはなぜか、その答を導くヒントがここにあります。
今の世では、個性は形だ、と専門家も考えてしまいがち。どうしてそうなるかの答もここにヒントがあります。

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-6の補足

2010-07-04 11:56:28 | 「壁」は「自由」な存在だった
昨日、「龍吟庵・方丈」は、
軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている。
さらに
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められている・・・つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められている・・。
以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功している・・。
と書きました。

実は、その続きがあったのですが、その段階で、字数が1万字を越えてしまい、これ以上書き込み不可ということになってしまいました。
いささか尻切れ状態で終わっているのは、そのためです。

そこで書けなかったこと、書きたかったこと、は次のようなことでした。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

工人たちが、このような一体化した立体を考えることができたのは、彼らが常に「全体」を頭に描くことができたからだ、と言えるでしょう。
つまり、工人たちが部材を刻むとき、すでに「全体」「全容」が頭の中に描かれている、ということです。
彼らは仕事のために、「絵」を描きます。それはいろいろな形をとるようです。しかしそれはいずれも、彼らが頭に描いた「全体」を示すためのもののはずです。そのときすでに、その「全体」が、どのような「立体」なのか、理解されているのです。

国立歴史民俗博物館から「古図にみる日本の建築」という書物が刊行されています。1987年に同館で開かれた同名の企画展の「図録」です。
その冒頭に、古代に於いて、そのような仕事のための図が描かれるとともに、1/10程度の模型をつくったらしい、と記されています。要は、頭に描いたことを模型にしてみて、事前に確認をしたらしい。
その一つ、奈良の元興寺に保存されている1/10の「元興寺五重小塔」(国宝、私は見たことはありません)は、当時、他の寺で五重塔をつくるときの参考にもされたらしい、とのこと。もちろん外形の模型ではなく、組み方までつくってある。
   現在の「清水寺」の造営にあたっても、1/10の模型がつくられています。

大事なことは、かつて、工人たちは、常に、「全体の立体」を頭に描くことから仕事を始めている、という事実です。「模型」を事前につくる、ということも、「頭に描いたこと」の確認のための作業の一環。

当然ですが、その模型は、現在の設計でつくられる「プレゼンテーションのための模型」ではない。
描かれる図も、「プレゼンテーションのための恰好いい絵」ではありません。
そうではなく、
どのような「立体」ならば自立できるか、各部材をどのように組めば「一体の立体」になるか、それを見通した上での「全体像」を描き、それを何らかの図で示し、そして模型でも確認したのです。
彼らにとって、「部分」は、あくまでも「全体」の部分、「全体」あっての「部分」なのです。
たとえば、「龍吟庵・方丈」も、「全体」が見えていなければ、つくれなかったはずです。
   彼らが描く図やつくる模型は、そのままで「現場」の使用に耐えた。
   現在のように、別途「施工図」を描く、などというムダは必要としなかった。
   なぜなら、彼らは「現場」の人だから「現場」の使用に耐えることをしたのです。


さて、ここまで書いたなかで、特には触れてこなかったことがあります。
それは、「一体に組まれた立体」は、「掘立て」から「礎石建て」に移行して以来、常に、「礎石の上に置かれただけ」だった、という「事実」です。

「礎石建て」になってから、すでに1000年はおろかそれをはるかに越える時間が過ぎています。
しかしその間、「一体に組まれた立体」を「礎石の上に置くだけ」ということには、何の変りがありません。
もしも、その方法に支障があったのならば、「掘立て」が「礎石建て」に移行したように、とっくの昔に、その方法は変更されて当然です。しかしながら、そのようなことは「気配」さえ窺われない。
ということは、
置かれる建屋が「一体に組まれた立体」であるならば、何ら問題がない、
ということの「実証」にほかなりません。
事実、現在遺されている事例がそれを証明しています。
   「一体に組まれた立体」でない場合には、問題が生じる、
   そして、そういう「体験」を経て、工人たちは、より一層
   「一体に組まれた立体とすることが重要である」ことに気付く。
   そして、技術・工法はより確実な方向へと進んでゆく、
   これが技術の歴史の「なかみ」である、と私は考えています。
   こういう「知見」は、数式や実験室の実験では得られないのです。

けれども、このような「歴史的事実」が存在している、「歴史的に実証されている」にもかかわらず、「事実」が認められない、「事実」を認めようとしない、のが現実です。「実験」しなけりゃ分らない・・・らしい!

かつての工人たちの「現場」での仕事、それが現在まで長期にわたり健在である、こんな見事で過酷な「実験」が他にありますか?
なぜ「歴史的事実」を見ようとしないのか、そのわけの「論理的な説明の開示」を求めたい、と思います(私の知る限り、みたこと、きいたことがまったくありません)。
   ある人が、現在の「木造建築の権威」とされる方に、
   なぜ昔の建物は、基礎に「緊結」しなかったのですか、という質問をした。
   答は、昔は金物が高価だったからだ、というものだった、
   という話をききました。まさか、とは思いますが・・・!?
コメント (2)
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-6・・・・その方法:龍吟庵・方丈の場合

2010-07-03 12:32:21 | 「壁」は「自由」な存在だった
今回は、かなり長くなります。
できるだけ分っていただけるように、少しばかり(いつもそうかもしれませんが!?)くどく説明をさせていただきます。


日本の木造建築に於いて、中世の「再建・東大寺南大門」「浄土寺浄土堂」そして近世の大寺院などの「大規模建築」はもとより、中世の「古井家」や「龍吟庵・方丈」など数多くの「普通の大きさ」の建物群が、なぜ長きにわたり、倒壊せずに済んでいるのか、
頭を空にして、つまり、日ごろ頭に刻み込まれて「当たり前化」した「知識」を脇に置いて、考えてみたいと思います。

   なぜ頭を空にする必要があるか?
   それは、今、たいていの人は、強い建物には、外からの力に耐える壁、耐力壁がなければならない、
   という見かた、考え方を刻み付けられてしまっているからです。
   誰も疑わないし、疑おうともしない。そういうことを疑うのは非科学的だ、と言われるからです。
   何が非科学的なのか?
   耐力壁が必要という考え方は、科学的成果だ、ゆえに、それを認めないのは非科学的だ、というわけです。
   頭を空にする、ということは、根本から見直す、ということです。
   頭の「店卸し」は、常に必要、「店卸し」を常にすることこそ、 scientific なことだ、と私は考えています。

ここでは、私たちの日常の建物に近い「古井家」や「龍吟庵・方丈」などについて特に考えます。


考えるに当たって最も重要なことは、
かつて、人びとにとって、日本という地域・環境で暮すかぎり、地位の上下を問わず、「開けっぴろげの空間、風通しのよいところで暮す」ことが、最高にして最大の「願望」であった、
ということを再認識することだと思います。「必要条件」であった、と言っても過言ではないでしょう。

  註1 今は、「開けっぴろげ」のつくりは、地震に弱いから、
      いわば「先験的」に、「つくれない」とされています。
      さらに言えば、
      「地震を目の前にして、そのような願望は、口にするべきではない」、
      との「考え」を採ることが「要求」されてもいます。
      万一、人命にかかわる大事に至ったらどうする気だ、との
      なかば「脅し」をともなった「要求」です。

  註2 今は、そのような「願望」はない、と思われる方も
      おられるかもしれません。
      そうであるならば、どうして夏になると
      電力使用量が極値に達するのでしょうか。
     

すでに触れたことですが、「開けっぴろげの空間、風通しのよいところ」とは、現在の用語では「空調の効いた場所」と言えばよいでしょう。「空気調和: air-conditioning 」のためには、「開けっぴろげにして、風通しをよくすること」が第一だった。

しかし、「開けっぴろげの空間」は「住まいの基本原則」には抵触します。
「住まいの基本」とは、「自分たちが外界にさらされずに籠れる場所であること」です。
言うなれば「自分(たち)の城」。城郭が堀で囲い、塀で囲い、さらに壁で塗り篭める、それはすなわち「住まいの基本」の延長に過ぎません。

けれどもそれと「開けっぴろげにして、風通しをよくする」こととは相反する。
そこで、人びとは、徐々に、「住まい」を「建屋」の中だけに限定せず、拡張してゆく。
つまり、「屋敷」を「住まい」と見なし、その一画が建屋となるようなつくり。そうすれば、建屋は「願望」どおり、「開けっぴろげの空間」とすることができる。
上層階級では、早くからそういうつくりになっています。いわゆる「寝殿造」がそれです。下は寝殿造「東山三條殿」の俯瞰と「源氏物語絵巻」にでてくる縁先の図(「日本住宅史図集」より)。



この日本という地震の多い地に住み着いて以来、人びとは、この「願望」の実現を、追い求めてきた、と言ってよいでしょう。
人びとは、幾たびも、それは多分数え切れないほどだと思いますが、折角つくった建屋を地震で壊されたに違いありません。

しかし人びとは、「願望」の実現を棄てることはしなかった。
当たり前です。
「暮す、住まう場所をつくる」ということは「ただ単に《地震で壊れない建屋がつくれればよい》のではない」からです。そんなのは簡単です。
「開けっぴろげの空間、風通しのよい建屋」で、なおかつ「地震で壊れない建屋」でなければならないのです。
すなわちそれが人びとの「願望」だったのです。
そしてそれを人びとは追求した。これも当然です。そうするのが、そういう地域に暮す以上、当たり前だからです。

   それとも、いつも地震に備えるのが日常で、地震に怯えながら、風通しの悪い場所で暮す方が、
   当たり前だったのでしょうか?
   そんなことはあり得ません。
   人びとは、「愚か」ではありませんから、日常を気持ちよく過ごせる場所を、
   地震にも壊れないように工夫し続けたのです。
   人びとの思いは真っ当だったのです。

そして、そういった「願望」追及の試行錯誤の結果、おそらく中世の初め頃までには、一定の「方策」にまで思い至っていたのではないかと思われます。
その方策こそ、「木を組上げるだけで自立可能な架構法」「壁を自由な存在として扱う架構法」にほかなりません(そして、近世には、ほぼ完成の域に達します)。

すでに12世紀末から13世紀初頭に、寺院建築といういわば特殊分野においてさえ、「浄土寺・浄土堂」や「再建・東大寺」などに、その策が具体的に現われます。
しかも、その現われ方は尋常ではない。どこにもスキが見当たらない「熟成した姿」で現われている。
このことは、一般の建物づくりにおいても、その頃までに、すでにその方策は知られていたことをも示していると言えるのではないでしょうか(残念ながら、それを示す遺構はありません)。突然、「熟成した姿」をもった技術が出現する、などということはあり得ないからです。
   これまでの史学では、その「突然の出現の理由」を、自国内にではなく、他国に求めました。
   すなわち、それは中国から移入した技術であり、つくったのは彼の国の技術者だ、と。
   「大仏様」という呼称の前には、「天竺様」と呼ばれていたことにそれが示されています。
   そして、学術書の多くも、当然のごとく、そう書いています。

そして、15世紀以降には、目を見張るような事例が、住居建築スケールの建屋にも、数多く遺構として現われます。
すなわち「龍吟庵・方丈」であり、「古井家」「箱木家」など一般庶民の住居がその端緒と言えるでしょう。そこでは、もの見事に「壁」が「自由」に扱われていたことは、すでに観たとおりです。
遺構がある、ということは、その背後に、より多くの同様のつくりの建物が存在したことを示している、と私は思います。それらが、突発的に現れた、とは考えられないからです。

「龍吟庵・方丈」の図面と外観を、要約して再掲します。



この建物では、「壁」は「室中」の北面の幅4間の板壁だけです。あとは外回りも間仕切もすべて開口部:建具が入っています。
これで建設以来、少なくとも、戦後の解体修理時点までの約550年間、健在だった。現在までだと、約600年。
どのような架構法であるかについては、下記ですでに触れました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23

この建物は、軸組部、つまり屋根が載る部分は、「礎石」の上に、縦材の「柱」と横材の「梁・桁」「貫」「足固め」(「足固め貫」も含む)を組立ててゆき、その上に「束立て」の「小屋」を載せるという、まったく普通の架構法でつくられています。柱は5寸弱角。6尺8寸が柱間の基準寸法です。つまり、1間が2m以上。

ここで、この建物で使われている「貫」は、厚さが現在「貫」と称している材:およそ14~15mm:の2倍以上はある、という事実に留意する必要があります。
   現在の建築法令が「貫」というときの「貫」は、100mm×15mm以上を指しています。
   つまり、厚さ15mmでも「貫」なのです。
   市場でも、14~15mm×90~100mm程度の厚の材を、ヌキと称して売っています。
   これは、1950年制定の「建築基準法」が、柱を100mm角以上と規定してからの話です。
   これを「愚行」として、桐敷真次郎氏が厳しく指摘しています(下記)。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/9c2d8fcfef42becbf55083d842d7ab8b

しかし、それでも、「龍吟庵・方丈」の「貫」は、柱の太さとの比率で見ると、大仏様の寺院建築のそれや、「古井家」「箱木家」のそれに比べ、材寸は決して厚くはありません。むしろ薄い。
一般にいわゆる「書院造」と呼ばれる建物も同様です。
どうしてか?
いわゆる上層階級では、一般に、「大仏様」のように、従来の上層の建物を代表する寺院建築の形体:見えがかりの姿を脱する「覚悟」ができず、「貫」を見せたがらない、見えないように壁内に塗り篭めてしまうことを考えたからなのです。
それゆえ、すでに構造的な意味はなくなった「長押」を化粧で取付け(「付長押」と呼ぶ)、その裏側に「貫」を潜めるようにした。
効能については認めざるを得ないけれど、外から見えてしまっては、「しきたり」に反する、あるいは、隠せば「見えがかりは化粧でどうにでもなる」、というわけです。「二重天井」もそうだったではないか・・・。

「龍吟庵・方丈」が、今と唯一違うのは、「桔木」を用いる軒のつくりかたです。
「桔木」を用いる軒のつくりかたは、寺院建築でそれまでの「斗栱」に代る工法で、早くは8世紀末~9世紀初頭から(例:「秋篠寺」)現れ、9~10世紀:平安時代にはごく普通のやりかたとして、上層階級の建物では普及します。
その契機は、屋内に天井を張るようになったことでした。天井裏を利用できるようになってからの発案です。
寺院の象徴的形体を存続させるために、見えがかりの化粧屋根を軒先に張り付け、その裏側に、本当の屋根:隠れてしまうので「野屋根」と呼ぶ:を設けるようになったのです。
「龍吟庵・方丈」も、軒回りはこの方法を採っています。
   二重屋根の発生過程については、以前、下記で紹介しました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0ba11cb0ddb87fe1c391e23117a74b56

「桔木」を用いる方法は、その簡便にして丈夫で、なおかつ寺院としての「古式」をも容易に装うことができることから、広く早く寺院建築に普及します。
一般的に、鎌倉時代に建てられた寺院を見ると、「桔木」は、屋根を伸ばし、外回りへ空間を拡幅する手法として使われている事例が大部分です。
次の図は、前面へ拡幅するために使われた例。京都の通称「千本釈迦堂」:「大報恩寺」。



ここでは、前面部分への拡幅に努めていることがよく分ります。このような事例は、この時代、各地域の寺院建築で見られるようです(もちろん、「秋篠寺」を継承した例も多数あります)。

しかし、「桔木」使用の先駆者である奈良時代末の「秋篠寺」の場合(下図)は、「大報恩寺」とは異なる事例と考えられます。
古代からの寺院建築は、「上屋(身舎・母屋)+下屋(庇・廂)」の形式・構造をとるのが普通です。
「下屋」は「上屋」の一面~四面に任意に取付けられますが、寺院では四面、つまり「上屋」の四周に取付けるのが一般的です。
その場合、「上屋」と「下屋」部は、「繋梁」と「垂木」で繋がれています。

これに対して、「秋篠寺」では、図で分るように、「繋梁」と「垂木」の他に、野屋根内に設けられた「桔木」も「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割をはたしています。
「桔木」は、単に軒を出すだけではなく、「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割をも担うことになったのです。しかもそれが「上屋」のまわり四面をとりかこんでいます。



「秋篠寺」は、屋根が「寄棟」ですが(図の橙色の線)、入母屋ならば、緑色の線が母屋の妻面になります(この「秋篠寺」的な「桔木」の使いかたを採った事例も多数あります:福島県の「白水阿弥陀堂」、山梨県の「大善寺」など。)

おそらく、「秋篠寺」の造営にかかわった工人たちは、ただ単に、四周の軒を「斗栱」から「桔木」に替えたに過ぎなかったのかもしれません。
しかし、上棟時、工人たちは、組み上がった小屋組の上を歩いてみて、「上屋」の四面に架けられた「桔木」で支えられた「屋根」が、「意外な効果」を持つこと、
すなわち、
それまでの「上屋+下屋」構造とは比べものにならないほど揺れが少ないこと、
単に軒先が頑丈になったのではなく、
架構全体が頑丈になったこと、に気が付いたのではないでしょうか。

つまり、「桔木」が、「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割も担う、ということは、最初は考えていなかった、しかし、上棟して、その役割も担っていることに気付いた、そういう過程を踏んだ、と考えられます。
   私は常に「結果論」ではなく、そのような「結果」に至った「過程」を考えるべきだ、
   と考えてきました。
   「結果論」から始めると、とかく、「完成・熟成した姿」が突然出現する、と考えがちになるからです。
   「完成・熟成」「醸成」・・その過程にこそ、人びとの「思考」の実相があるのです。

なぜ、強固になったか?
もともと「寄棟」屋根は、非常に安定度の高い形の屋根です。いわば舟をひっくり返した形をしていて、その形自体が変形しにくい。
試みに、折り紙でこのような形をつくると、あの薄い紙からは想像もつかないほど安定度の高い形になることが分るはずです。これがいわゆる「立体効果」。

建物の場合、最初から「立体」があるわけではない。骨組を組んで板を張ることで結果として「立体」型に仕上がるのです。単なる部材が、組み合わせることで「立体」になる。
そして「寄棟」の形の屋根は、仕上がると、頑強な立体になる。このことは、工人たちは皆知っていた。
そして、その骨組に新たに「桔木」が加わったところ、それまで若干脆弱だった軒先部分の形が補強されたことにも気が付いた(正確に言うと、日ごろの経験から、「斗栱」のような面倒なことをしないでも、1本の棒を梃子のように使えばより簡単に軒を支えられるではないか、という「発想」が生まれ、そうすると、軒先がしっかりする、という発見)。
言ってみれば、「寄棟型」の縁の部分の要所に「力骨」:「リブ」が付け加えられたことになります。
これが、それまでの「繋梁」「垂木」だけの構造よりも強くなる理由です。

別の見かたをしてみます。そのために、下図のように、「秋篠寺」の梁行断面図を色分けしてみます。



屋根裏を薄い黄色、「桔木」と「繋梁」とに挟まれた空間を濃い黄色に塗ってあります。
この濃い黄色の部分は、「断面」です。
この「断面」は、「繋梁」を底辺、「上屋」柱の上の部分を短辺、そして「桔木」を斜辺にしたほぼ直角三角形の形を形成していると見ることができます。

重要なのは、「上屋」柱の上の部分が「短辺」を形成していることです。
この断面:直角三角形は、それ自体、変形しにくい形体ですから、一旦つくられた「直角」そのものも維持される。
この場合、「直角」は、「繋梁」と「上屋柱」(の上部)で形づくられていますから、「直角」が維持される、ということは、「上屋の柱の(上部の)垂直が維持される」ことをも意味します。

そして次に重要なのは、この直角三角形が、上屋の四周を均一にまわっていることです。
言うなれば、上屋のまわりに、「鍔(つば)」がまわった形です。
したがって、「上屋」の四周の各面の垂直が、この「鍔」によって補強されている、と見ることができるのです。

「秋篠寺」の場合は、直角三角形の底辺に、「繋梁」がありましたが、この「繋梁」をはずしても、「桔木」を斜辺、「上屋」の柱上部を短辺とする三角形が「鍔」を形成し、立体として働くことには変りありません。逆に言えば、「桔木」がしっかりできれば「繋梁」はなくてもよい、ということです。

これを簡単な模型で考えてみます。下の写真です。



0.5mm厚のボール紙でつくった5寸勾配の庇部です。
稜線を伸ばせば、あるいは斜面を上まで延ばせば「寄棟型」になり、当然、この模型よりも一層変形しにくい立体形になるわけですが、この「庇部」だけの「鍔」でも、十分に「立体効果」が生まれます。写真のように、折り紙細工同様、この形は安定しています。
つまり、「鍔」は、「繋梁」を不要にもできる、ということです。
赤線は、「下屋」=「庇」を支持する柱列の位置です。

すなわち、「上屋」のまわりに一周して「鍔」をつければ、「鍔」自体、平面的にも変形しにくく、それが取付いている「上屋」自体も平面的に変形しにくい、その上、「鍔」が垂直をも維持するのに役立つ。
この「事実」を、工人たちの多くは、「現場の経験で」会得したものと思われます。

そして、この「理屈」を徹底的に(しかし、そんなに肩肘張ったわけではなく、ごく自然の成り行きとして)「応用」したのが「龍吟庵・方丈」であり「大仙院・本堂」と言うことができる、と私は思います。

しかも、この建物には、「秋篠寺」の時代にはなかった「貫」が軸組部の上部と足元に入っています。「貫」を入れることで、鳥かご、虫かごのようスケスケの「立体」ができあがっている。
つまり、軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている、ということになります。
その結果、どうなるか。
柱間を全部スケスケにしても、建屋は安泰を保つことができたのです。

「龍吟庵・方丈」の断面図の「桔木」下部分に色を塗ってみてください。「鍔」の形が見えてきます。

そして、あらためて「小屋組」も見てください。
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められています。
つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められているのです。

以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功していることになります。

これは、工人たちが、経験で得て継承されてきた「知見」を基に、「立体効果」を最大限活用した、そのように考えることができるのではないでしょうか。


長々しい文章を、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は、「古井家」の場合をもう一度みるつもりです。ただ、一週間ほど他用に専念させていただくため、しばらく間が空くと思います。

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-5・・・・僅かな事例で、何故言えるのか?

2010-06-22 12:32:47 | 「壁」は「自由」な存在だった
[註記追加 23日 19.09]

今回は「椎名家」を観ながら、僅かな事例を基に、なぜ私が「壁は自由な存在だった」と言うのか、について書きます。

「椎名家」は、墨書から、1674年(延宝2年)に建てられた、東日本に遺っている住居では最も古い事例、と考えられています。
上の写真は、復元後の南面外観、最近の写真です(春先に紹介しました:http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/61c44e1638e29cfe4e2b053b8cb1bbe9
ついでに下記も
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7d5edd7015edb1e8244b42314b96b780)。
そして下の写真は、川島宙次氏が「滅びゆく民家」の中で紹介されている復元前の南面です。





南面に関するかぎり、壁と開口の位置はほとんど変化が見られませんが、同じく同書で川島氏が紹介している復元修理前の平面図と復元された建物の平面図とを比べると、北面、西面、そして「ざしき」と「ねま」(「まえのへや」「へや」)の間仕切はかなり変っている、壁が開口になっていることが分ります。
   註 「まえのへや」「へや」「ちゃのま」・・などは、復元される前、家人が呼んでいた室名です。
    

次の図は、解体調査の結果、当初と考えられる姿に復元された建物の平面図、断面図です。



「椎名家」が解体調査・復元されたのは、昭和46年(1971年)ですから、その時まででも、建設から297年経っています。先の川島氏のスケッチは、多分、1960年代の平面です。
解体調査で、架構そのものには変更が見られない、つまり、当初のままの架構で、柱間に充填されるのが壁か開口装置か、それによって暮しの変化に対応してきたことになります。
架構の様子は、春先の記事でも紹介していますので、ここでは簡単な紹介にします。



すなわち、他の例で観てきたように、ここでも「壁は自由な存在」だったのであり、架構上の「必需品」:「触ること、動かすことができない部分」ではなかった、つまり、「自由に扱えた」のです。

なお、近世:江戸期の住居とは著しくおもむきを異にする中世に建てられた「古井家」「箱木家」では、「壁は自由な存在」であることが、より一層明白に現われていることを、すでに触れましたから(下記)、ここではあえて書きません。

http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/e651c40f220d2da30602d8d0c982505e
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cd2a1a40d53baed2a1e84284100d0cdc
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bb23e82075dbdafee1b6cf0233f83c2c

では、どうしてこれらの建物は、「壁」を架構上の必需品としないで済んでいるのか(これは、現在の「木造軸組工法の構造理論」とは、まったく対極に位置する考え方:つくりかたです)、これについて、次回に私の「理解」を書くつもりです。

しかしその前に、このブログを読まれる方のなかには、
1)「壁が自由な存在だった事例」だけを「私が選んで紹介している」と思われる方
  あるいは、
2)「壁を自由な存在として扱い、今も健在な事例」は「ほんの僅かしかない」と思われる方
  もあるかもしれません。
  そして、
3)「僅かな事例」を基に「壁は自由な存在だったと断言する」のは怪しからぬ
  と思われる方もおられるでしょう。

そこで、その点について、ここで触れておくことにします。

先ず1)について
特に選んでいるわけでは、もちろんありません。
現在知り得る資料(重要文化財等に指定され、詳細なデータを知り得る木造軸組事例の資料)を基にしているだけで、むしろ、そのすべてが「壁は自由な存在として考えている」と見て、まったく問題がない、と言えるでしょう。
私が「選んでいる」とすれば、その建物の「変遷」すなわち「竣工以来の改修・改造の実際が分る資料・記録がある事例」を「選んでいる」だけです。そこから、「柱間をどのように考えて扱っていたか」が読み取れるからです。

2)について
1)で、現在遺されている木造軸組事例は(「住居」に限りません)、すべてが「壁は自由な存在として考えている」と見て、まったく問題がない、と記しました。
それは、すべてにおいて、柱間部分の「変更」が「自由に」行なわれている、と見ることができるからです。すなわち、「柱間部分を変更不能と考えている事例が見当たらない」のです。

現在遺されている事例数は、たしかに少なく、それをはるかに上回る数の事例が消失・喪失しているのは事実です。
しかし、遺されている事例が「壁は自由な存在として考えている」と見なせる以上、消失・喪失した事例もまた「壁は自由な存在として考えている」と見なすのが、ごく自然な道筋ではないか、と私は考えています。

そしてまた、もちろん、消失・喪失してしまった事例は、単に、架構上の欠陥等に拠って消失・喪失したわけでもありません。
また、遺されている事例も、偶然、たまたま遺ったのではなく、「遺されるべくして遺った」と考えるのが「理」である、と私は思っています。なぜなら、人びとは、《偉い人たち》が思うほど、愚かではないからです。

3)について
たしかに「資料数」:「遺されている事例」数は僅かです。
しかし、「遺されている事例」は決して「特殊なものではない」ことは、それぞれの内容:つくりかた:を見れば明らかです(どの事例も、「手慣れた」手法・技法でつくられていることは、すでに観てきたとおりです)。

ということは、「遺されている事例」の「背後」には、「同様の考え方によりつくられた事例が、数多く存在している」、つまり、「そういう考え方はあたりまえだった」と考えられることになります。
私は、このように考えるのが、これも論理的にごく自然な道筋だ、と考えています。


私はむしろ、「僅かな数の実物大実験」を基に、「基準」をつくろう、などと考える方がナンセンス( nonsense )、すなわち、「理」「筋」の通らない考え方だと思っています。

なぜなら、その実物大の試験体が、「背後」に「共通の(common と言える)考え方」を内包しているものである、という「保証」がないからです。

これまでの例で、そういう「保証」を示した上で行われた「実験」があったでしょうか?
その「保証」が示されない以上、それは「恣意的な」実験にほかなりません。
実際、これまでの「実験結果」の扱い方を見れば、それら「実験」が「為にする」ものであることは明らかです。

一方、「歴史的な資料」は、その「背後」に、それぞれの時代の「共通の(common と言える)考え方」を内包しています。
つまり、「歴史的な資料」は、単に「古いもの」「過去のもの」、もちろん、「現在にとって無意味なもの」なのではなく、
まったく逆に、
常に「各時代の、人びとの共通の(common と言える)考え方」を内包した、その意味ではきわめて優れた「試験体」なのです。

   註 さらに言えば、各時代の諸事例は、相互に無関係ではなく、常に、前代を「継承」している、
      という「厳然たる事実」を認識する必要があるでしょう。
      もちろんそれは単に「形式」を倣っているのではなく、「考え方」を倣っているのであって、
      だからこそ、その内容:具体的方法・仕様:が、用に応じて変容するのです。
      つまり、同じ環境に暮す限り、人びとは、常に自ら考える、そして、考えることは、各時代共通だ、
      ということです。[註記追加 23日 19.09]

したがって、「歴史」は、e-ディフェンスよりも数等すぐれた「実験施設」にほかなりません。

「歴史的資料」を、単なる「趣味」や「観光」の対象と見なしてしまっては、それらの「事例」をつくり上げた人々に対して、きわめて失礼だ、と私は考えます。
「文化財」を「遺す」ということの「意味」を、あらためて考えたいと思います。

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-4・・・・「島崎家」の場合

2010-06-17 11:42:06 | 「壁」は「自由」な存在だった
[文言追加 15.33][カッコ内文言追加 20.33]



これは、長野県塩尻市の東、広丘というところに復元保存されている「本棟造(ほんむね・づくり)」の原型と考えられる重要文化財「島崎家」の南~西面(正面)です。
   註 「本棟造」としては、普通、同じ塩尻市の堀の内にある「堀内家」の豪壮な姿が有名ですが、
      その姿は、見栄えをよくするために、明治になってから改修されたものです。

「島崎家」は、江戸時代中頃、享保年間(1716~1735年)の建設と考えられ、以後、少なくとも約250年(1735年建設として解体修理時までの年数)、代々、時々の暮しに応じて改造・改修を加えて住み続けられてきた建物で、各時代の暮し方を知る記録が残されている点でも貴重な事例です。[カッコ内文言追加 20.33]
その間、建物の基本的な骨格は、まったく変っていません。1987年に解体調査、当初の形に復元されました。

なお、07年にも同じ写真を使って紹介しています(下註)。屋内の写真は今回よりも多く載せています。
   註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b1cceff176f783b66cf4e8c161bb7a55

次の図は復元平面図ですが、今の暮しのために便所などが付け加えられています。
  なお、写真と図面は「重要文化財 島崎家住宅修理工事報告書」からの転載で、図は文字など手を加えてあります。



下の写真は、左が「大戸口」を望む正面、右は「カミザシキ」の縁先。



次は、建物の復元断面図。



柱は4寸3分角。基準柱間は、6尺1分:1821mm。6尺に1分を足すのは、当時の松本平一帯の「慣習」のようだ、とのこと。
その他、材料や仕様は、07年の記事で詳しく触れています。[文言追加 15.33]

そうして仕上がる室内は、下の写真。
左は「オエ」の北東を見たところ、右は同じく「オエ」の南西面、ただし、右の写真は、畳を仮敷した状態。他の箇所については、前掲註の07年の記事をご覧ください。



では、約250年間、どのような変遷をたどったのか、修理工事報告書の調査報告を基に、新たに「間取りの変遷」をつくり直しました。それが下の図です。
この間で変らないのは、梁組。一貫して同じです。

A~Dは、用途を示すゾーン分けです。A~Cについては、http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3での分類に同じです。Dは接客用の空間を指しています(「島崎家」は、村役を務めていたので、武士の訪問があった)。

   註 近在には、接客空間のない(A~Cだけの)6間×8間程度の切妻のつくりが多くあるとのこと。    



  なお、この図の「当初平面図」と、先の「復元平面図」では、北側が異なります。この図が「当初」の姿です。

この変遷図から、間仕切などの変更は、明治・大正頃までは、それぞれのゾーン内での変更が主であることが分ります。

報告書によると、梁組と鴨居:内法から桁・梁までの部分:「小壁」は、この間一貫して変化はありませんが、鴨居:内法下の「壁」は、間取りの変遷図で分るように、開口にしたり、また壁にしたりと、随時、変えられています。

ということは、「壁」は、柱間の「充填材」に過ぎない、ということになります。すなわち、その部分を変更しても、架構は維持されてきた、つまり、この建物の架構は、「壁」に依存していない、ということです。

  なお、「壁」の仕様は、図でDと表記した部分では、縦の間渡し材は割り木、横は女竹、
  縄の代りに蔓性植物を用いた細づくりでていねいな仕事で、壁厚2寸:6cm程度の色土仕上げ。
  それ以外では、小舞に粗朶(そだ)を使い、荒壁のままあるいは漆喰仕上げ。
  1間柱間の中央に、内法貫~梁下端に幅2寸×厚1.5寸の力骨を入れ、
  竹、割り木、粗朶などの間渡し材を、縦は@8~9寸、横は内法貫~梁下端に6本設けている。
  土間まわりの「壁」では、粗朶を直接地面に差し込んである箇所もある(「古井家」「箱木家」と同じ)。
  壁下地に、粗朶は日本各地でかなり使われているようです(竹のない西欧ではあたりまえ)。
  なお、「小壁」部分も、鴨居下の「壁」の変更にともない、改修は何度も行なわれています。

この建物の建つ塩尻のあたりは、日本列島の分水嶺の一。高冷の地です。したがって、「壁」の部分は相対的に多い。そういうつくりが適切な地域です。
しかし、架構自体は、その「壁」に依存していたわけではないことは、先に触れたとおりです。
架構が「壁」に依存する、「壁」が架構維持の「必需品」であるならば、簡単には変更はできません。しかし、頻繁に変更している。
つまり、「壁」は、「自由な存在」だった。
   註 前掲07年の記事では、明治には「見栄え」のために「無理な」改造が行われ、
      危険な状態が生じていたことを紹介しました。
      「堀内家」の改造が行われた頃です。当時「見栄え」がもてはやされたのです。

      当初の工人たちの考えていた「理」が、分らなくなる、継承されない「時代」があるようです。
      「科学全盛」の現在も、そうなのかもしれません。

では、なぜ、この建物は、約250年間、健在だったのでしょう?

07年の先回の記事でもある程度は触れましたが、頭の「店卸し」をして、かつての工人たちの考え方:「理」を、あらためて探って見たいと思います。[文言追加 15.33]

   註 「島崎家」と目と鼻の先に「重要文化財 小松家」がある。これは茅葺き。
      先回の記事で、板葺きの「本棟造」と茅葺きがなぜ併存するか分らない、と書きましたが、
      「報告書」を読み直したところ、「小松家」は、「本棟造」の生まれる前段の姿ではないか、と推察しています。
      私の、読み落としでした。

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-3・・・・「開けっぴろげ」は人びとの願望

2010-06-14 17:23:23 | 「壁」は「自由」な存在だった
[註記追加 15日 8.39]



これは、先回の「龍吟庵 方丈(りょうぎんあん ほうじょう)」と同じ塔頭(たっちゅう)の建物。京都・大徳寺の塔頭「大仙院 本堂」です(大徳寺には、20を越える塔頭があります)。ここでは「方丈」ではなく「本堂」と呼ぶようです。
「大仙院」は、大徳寺の塔頭の中では最古と言われ、「龍吟庵」より85年ほど経った1513年に建立されたことが分っています。

次の図が平面図です。


この建物も、平面図を見ていただければ分りますが、壁と言える壁は、建物北側の仏壇が安置される室:「真前」の北側の幅1間半の壁だけ。この壁は仏壇の背面ですから、なくすわけにはゆかないのです。
この建物の基準柱間は6尺5寸。柱寸法は、広縁外側を除き、5寸弱角です。
ただ、「室中」の正面の柱間は1間半。

「龍吟庵」にしろ「大仙院」にしろ、なぜ、ほとんどの外壁、間仕切を建具にするのか。

これは、後の客殿も書院造も、そして武家の住居にも、商家の住居にも、もちろん農家の住居にも言えることですが、
「開けられるような状況ならば、開けられる所はすべて開けたい」
これが、当時の人びと、それは上層階級、一般を問わない、すべての人びとの「願望」だったのです。

「開けられる」状況とはどういう状況か。
大分前に触れましたが、それは、「屋敷」を囲うことのできる、そういう状況。
塀なり垣なりによって囲まれた空間が確保できれば、あるいは、ここは自分(たち)だけの空間と思えるような空間・場所が確保できたと思えれば、「建屋」だけが居所ではなくなり、その囲まれた空間すべてが「住まい」:「自分の居所」となる。そうできるような状況です。
そして、そういう状況下では、「建屋のすべてを開けっぴろげにする」ことが「願望」だった。

なぜなら、そうすることが、今の用語で言えば、最高の「空気調和:エア・コンディショニング」だったからです。暮しやすい環境確保のための最高の手だてだった。
だから、そうできるように懸命になって工夫した。そうしても、建屋が自立できるように工夫した。
だから、そういう建屋が、数百年も健在なのです。

   註 このあたりのことについては、いろいろな所で触れてきました。
      たとえば、建物づくりの原型:住居とは何か:については
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3
      これは3年前の記事です。
      「屋根がある所だけが住まいではない」、ということについては     
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b [註記追加 15日 8.39]   

この建物の断面図は以下のとおりです。
今回は、編集する手間を省いてしまったので、平面図、桁行断面図、梁行断面図の縮尺がそれぞれ異なります。恐縮ですが、棒尺を参考にご覧ください。



「龍吟庵」よりは、85年分少ないだけで、当然大地震に遭っています。

では、なぜ、このような開けっぴろげの建屋が500年近く、健在であり得たのか。
もちろん、何回も修理をしていますが、一度として、倒壊寸前というような状態にはなったことはありません。そういう記録はないのです。

健在である、というのは厳然たる「事実」です。
なぜ、開けっぴろげで健在であり得たのか、「龍吟庵」と並べて考えてみませんか。頭に刻み込まれてしまっている《知見》を一旦棚上げにして・・・。商店だって、定期的に「店卸し」をするのですから・・・。

なお、大徳寺の塔頭は、すべて開けっぴろげの建屋です。

  図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」、写真は「原色 日本の美術」(講談社)より。

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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-2・・・・「龍吟庵方丈」を考える

2010-06-09 23:21:33 | 「壁」は「自由」な存在だった
[文言改訂 10日 9.04][図版、説明追加 10日 12.15][図版再更改 10日 17.55]



上の図は、室町時代、1428年頃の建立とされる京都・東福寺の塔頭「龍吟庵方丈」の建設当初の姿に復元された平面図と断面図(上が桁行、下が梁行)です。
もちろん「礎石建て」です。
柱間基準寸法は、6尺8寸、広縁の奥行:幅だけ8尺5寸あります。
柱は、広縁の外側の柱以外は、仕上りで4寸8分角の大面取りです。

断面図で軒を支えている斜めの材は「桔木(はねぎ)」です。
早くは奈良時代末、一般には平安時代に始まった屋根を二重にしてできる屋根裏(天井裏)に仕込んで深い軒をつくる工夫(これによって古代以来の「斗栱」が不要になった)。

軸組部:柱と梁・桁でつくる屋根の下の直方体部分:には「足固め兼大引」、「貫」(内法貫など)が入れられています。

上の断面図では分りにくいので、新たな図版を追加します。上が「桁行」、下が「梁行」。
色塗りをしたところが屋根裏(小屋裏)、実線の赤丸は「貫」の位置、破線の赤丸は「大引兼足固め」です(桁行断面図の床下にあります)。[図版、説明追加 10日 12.15][図版再更改 10日 17.55]





次の図は、「足固め兼大引」の詳細と「貫」の詳細図です。いずれも赤枠内の詳細。





下の写真は、こういうつくりかたでつくった建物の外観です。
はじめに西南から見た全景。1970年に行われた修理工事の竣工写真。

   なお、一般図と写真は「重要文化財龍吟庵方丈修理工事報告書」から、
   詳細図は「文化財建造物伝統技法集成」からの転載です。



次は北側(背面)全景。これも竣工写真。



これで分るように、四周には、鴨居上の小壁以外には壁はまったくありません。すべて建具が入っています。
中もほんの一部を除き、間仕切はすべて建具(前回の平面図参照)。小壁部は欄間の箇所もあります。
なお、小壁部分の壁内にあるのは竹小舞だけです(詳細図参照)。

そして次は、建物の南面にある「広縁」の写真。
この建物は、柱間の基準寸法が6尺8寸、この広縁の幅だけは8尺5寸。

平面図でも分りますが、あるべき柱が、中央部で2本、両端では1本ずつ抜いてあります。柱は、ひとまわり太くしていますが、それでも今では考えられないこと。しかし、平気なのです。



次は、修理に入る前の南面の写真。建立後約550年経った姿です。



玄関部が傾いていますが、本体は軒先が暴れている程度で、大きく傾いたりはしていません。柱をとばした広縁の部分にも変容は見られません。


「龍吟庵方丈」が建立後たどった歴史を簡単に見ますと、「東福寺」は禅宗寺院で(京都五山の一)、はじめのうちは禅宗が武家に受け容れられたために権勢を誇りますが、「応仁の乱」後、急速に窮乏し、「方丈」のみを残し、他の堂塔は身売りをしています。
残った「方丈」は、江戸時代に数回改造修理が行なわれ、幕末1816年に、「杮葺き(こけらぶき)」が「瓦葺き」に替えられています(修理前の写真は「瓦葺き」です)。

いずれの改造修理も、当初の建物を消滅させるような類の工事ではなく、それゆえその後1940年代になって、現存最古の塔頭・方丈建築として注目されるようになり、第二次大戦後重要文化財に指定され、1970年に当初の姿に復元されました。

現在、木造建築は、その構造が、すべからく「耐震」で云々されます。
そこで、ざっと、建立後、修理時の1970年までの間、この建物が遭遇したであろう地震を、理科年表で調べてみたところ、M6以上の地震の記録が23回ほどあります。しかし、この建物が、震災にあったという記録はありません。

では、現在の木造理論では容認されない「いわば、骨だけ」の建物が、いったいなぜ550年以上健在だったのでしょうか。

健在だ、という「事実」は事実です。
このブログを読んでくださっている方がたも、建築構造力学の知見など、一切の先入観を棄てて、みんなで、その理由を探求してみませんか。[文言改訂10日 9.04]
それはすなわち、当時の工人たちの、近代的学問:構造力学などとは縁のなかった工人たちの、「知恵」に迫る道でもある、と私は思っています。

なんとかたどりついた私のおぼろげなる「答」は、いずれ書くつもりです。
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-1

2010-06-04 20:36:41 | 「壁」は「自由」な存在だった
[文言追加 5日 7.10][文言、註記追加 5日 7.33][文言追加 5日 7.37][文言追加 5日 7.43]
[文言・註記追加 5日 17.28][文言改訂 5日 17.32][註記追加 5日 19.03]

たとえば、数百年いや数千年もの間、幾多の天変地異に遭いつつも生き永らえてきた生物がいたことが分ったとしたら、人はどのように対応するでしょうか。
いわゆる「進化論」は、そういう「事実」に当面したときに生まれた「理論」だったと思います。
   註 「進化」という語は、誤解を生むので、私は使いたくはありません。
      「進化」「発展」という語は先験的に「評価」が入ってしまうからです。
      あえて言えば「展開」というぐらいが適切なのではないでしょうか。
      evolution の語の原義も、「展開」のはずではなかったかと思います。

おそらく、そういう「事実」に当面したとき、人は驚愕し、どうしてだ、なぜなのだ、と思うのが普通でしょう。決して、その「事実」が存在しなかった、として扱うことはないはずです。

ところが、こと日本の建物づくりの場面では、そうではなかったのです。

建物の場合には、数千年もの間という例は存在しませんが、数百年生き永らえてきた事例はかなりの数あります。
たとえば、東大寺・南大門は、ほぼ創建のままの材料で、800年を越える期間健在です。400年、500年という建物も珍しくありません。

では、建築の世界では、そういう事例に当面したとき、それに対して、人はどのように反応してきたでしょうか。

「人」と言っても、多様です。
かつて「普通の」人びとは、そういう事例に会えば、そこから「長寿」のコツを学ぼうとしました。
そして、そういう「普通の」人びとの「感覚」「感性」が疎んじられることもありませんでした。
なぜなら、人びとは、すべからく、先ず「普通の」人だったからです。

江戸時代には、他よりも「抜きんでた」人が多数輩出していますが、私の知る限り、誰一人として、抜きんでているがゆえに「普通の」人びとを疎んじたり、見下したりした人はおりません。と言うより、だからこそ、「普通の」人びとから「抜きんでている」と認められたのです。
もちろん、「普通の」人とは別に、特定の「評価する人」や「評価・認定機関」があったわけでもありません。

ところが、いわゆる「近代」になってからというもの(つまり、明治以降ですが)、話がおかしくなります。「人の上に人をつくる」ための「画策」が、ときの政府により、為されるようになってしまったのです。
「天は、人の上に人をつくらず」という「名言」は有名です。これは、「人は、人の上に人をつくらず」と言っていないところがミソ。それゆえ、以来およそ1世紀半、「人の上に人をつくる」世の中になってしまったのは紛れもない事実です。

そして、「人の上に立つ」と「自認する」人たちは(これがいわゆる「学者・研究者」「有識者」なのですが)、数百年生き永らえてきた事例が多数あるにもかかわらず、見ようともせず、見ても驚愕もせず、どうしてだ、なぜなのだ、とも思わず、端的に言えば、見ても見ぬふりをして済ましてきてしまったのです。そんなものは「存在」して欲しくなかったのでしょうね。[文言追加 5日 7.10]

ところが、いかに強く「人の上に立つ」と自認したところで、「普通の」人びと、「普通の」人びとの「感性」「感覚」を完全に抹殺することはできませんから、その「普通の」人びとの「感性」「感覚」が、鬱勃と陽の目を浴びるようになってきた昨今では、「最新の科学的理論でつくられたものでないから扱えない」と広言してきた「人の上に立つ」と「自認する」人たちまで、自らの「最新の科学的理論」の「延命」をかけて、「事実」を「理論」に合うように「捻じ曲げて理解しよう」とする「偉大な試み」に懸命になっています。

以前にも触れましたが(下註)、今、文化財建造物に於いても、「耐震補強」の「大義名分」の下で、2×4(ツーバイフォー:枠組工法)化が進んでいるのだそうです。
   註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/46f7af2ac0209504ca429d24eac67c9f
      ここには、後で載せる古井家の図が載っています。今回の図は、その一部です。
     ついでに、この記事もお読みいただければ幸いです。[註記追加 5日 19.03]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/fe7d7978b5995b3f4280d4d999488f47
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/35246bc9744ecd5c97dceb6e6a97c304
これは、百年はおろか場合によれば数百年以上も健在だったという「事実」よりも、《科学的理論》の方に「価値」を認める、という《考え方》。
私は、「事実」の方を採ります。なぜなら、それを採る方が「科学的」対応と思うからです。
その建物がなぜ永らく健在であったかを何一つ説明できない《理論》に、どうして依拠・依存してものごとを考えようとするのでしょう?そのどこが「科学的」なのでしょう?
「文化財建造物」にかかわる「文化庁」は「文部科学省」の内局です。このような対応は、文部「科学」の名に恥じることだ、と「文部科学省」の方がたは誰も思わないのでしょうか。[文言、註記追加 5日 7.33]

次に掲げる図は、一つは室町時代、1428年(応永3年)頃に建てられた京都の東福寺にある「竜吟庵(りょうぎんあん)方丈」、もう一つは同じ室町時代の後期に建てられた住居:兵庫県にある「古井家」の復元平面図です。いずれも以前に紹介しています。

下は「龍吟庵 方丈」 平面図  
赤線部分は板張りの真壁、その他の外壁、間仕切は、すべて開口装置、つまり、建具が入っています。[文言追加 5日 7.43]
この建物は、1間=6尺8寸で計画されています。


次は「古井家」 平面図
四周(赤く色を付けた部分)は、ほぼ全面「土塗の大壁」です。   
その他の壁、開口の様子は凡例を参照してください(障子や襖などは、江戸期以降の改造で、ガラス戸は、明治以降の改造で使われ、したがってこの図には該当箇所はありません)。[文言追加 5日 7.37]
この建物は、長手:桁行方向は1間=約6尺5寸、短手:梁行方向は1間=約6尺9寸で計画。
何度も改造されていましたが、当初の姿に復元されています。この図は復元平面図です。



「龍吟庵方丈」は平屋の建物です。すでに、竣工以来580年余経過しています。
もちろん何度かの修繕は行なわれています。最近の修理は、1970年、昭和45年から行なわれています。重要文化財に指定されたことにともなうもの。修理前の状況の写真がありますが、大きく傾いたりしているわけではありません。

「古井家」も、400~500年は経過しています。
1970年頃、これも重要文化財指定にともなう解体修理工事が行われました。
この建物も、竣工以来、何度かの改造・改修が行なわれています。
修理前の状況の写真がありますが、この建物も、これまた、不陸などはあるものの、倒壊に至るほどにはなっていません。

もちろん、この2例とも、礎石建て(石場建て)です。つまり、礎石の上に置いてあるだけ。

今の木造建築を見慣れてしまった人は、あるいは、奨められてきた木造建築のつくりかたを信じている人は、「龍吟庵 方丈」はまったく理解できない、不可解でしょうし、一方、「古井家」は長持ちして当然だ、と思うでしょう。
その「判断」は、多分、「壁」の有無、あるいは「壁」の「量」を見てのものと思われます。
実際、今、「わが家の耐震診断」で「簡易判断」をしても、「壁」の量だけみれば、「龍吟庵 方丈」は不可、「古井家」は可となるでしょう(礎石建てですから、その点は両方とも不可ですが・・・)。

しかし、詳しく見ると、「古井家」の壁は、「耐震診断」のいう「耐力壁」にはなりません。
なぜなら、「古井家」は、「上屋+下屋」の典型的なつくりです。
しかし、寺院建築では「下屋」は「上屋」と「繋梁」で結ばれていますが、「古井家」の場合、「上屋」と「下屋」の繋ぎは、丈約11cm×幅約5cmの細い内法レベルの「内法貫」と床レベルの「足固貫」だけです。しかも、すべての柱通りに入っているわけではない。
   註 もう少し正確に言えば、垂木に相当する竹が、上屋の桁から下屋の桁に架かっています。
      上屋は折置組、柱・梁・柱で逆コの字型をつくり、それを横並びした上、
      柱上に長手に桁を架ける方式。[文言・註記追加 5日 17.28]

ということは、簡単に言ってしまえば、「下屋」は「上屋」とは、いわば独立していると言えるのです。
仮に地震があったとすると、分厚い壁に囲まれた「下屋」と「上屋」は、まったく別の動きをするのは明らかです。ということは、この壁は上屋に対する「耐力壁」にはならないのです。[文言改訂 5日 17.32]
第一、この四周の壁は、修理時には、すべて改造されてなくなっていました。開口部になっていたのです。このような改造は、江戸時代からすでに行なわれています。

このことは、「壁」が、「架構を維持するための必需品」ではなかった、という事実の明白な証拠なのです。どうしても必要なものならば、撤去するはずがない。


では、龍吟庵 方丈はどうしてくれる!
「今の理論では分らない」と言って済ませますか?
こういう建物が健在であることの理由を示せないならば、そういう「理論」は「理論」ではない、と言って言い過ぎでしょうか?

そういうわけで、「壁」は、日本の建物づくりでは、きわめて自由な「存在」であった、ということを、その点に絞って、事例で紹介してゆきたい、そう考えています。

先ずは、何の先入観も持たず、今まで身に付けてしまった「理論」も棚上げにして、虚心坦懐に、「事実」に対面しましょう。
そこから evolution は始まるのではないでしょうか。


  註 なお、いわゆる「学者・研究者」たちが「腐心」してつくってきた構造理論が、
     どのような経緯・過程を経て生まれたのかについて、
     論文等を精査して紹介されているブログがあります(下記)。
     是非、ご覧ください。「人の上に立つ」ことだけを欲する人たちの「精神」がよく分ります。
     そして、もちろん、そういう人たちばかりではないことも。しかし、常に「少数派」であることも・・・・。
     http://kubo-design.at.webry.info/201006/article_2.html

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