建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

感想・・・・続々・素晴らしい論理

2011-07-20 19:31:13 | 専門家のありよう
今月いっぱいに何とか恰好をつけたい設計、暑さと湿気の中で、まさに追い込みの最中。
そんなわけで、「『形』の謂れ-6」の編集、遅滞しています。
ことによると、月末まで、できない・・・。

下図は、いずれ紹介させていただくつもりでいる DAVID MACAULAY 著 “CITY’に載っている古代ローマの木造橋建造の様子。



  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[追録追加 21日 6.17、24日 9.59]]

今日(20日)の毎日新聞に、経団連の会長とのインタビュー記事が載っていました。

会長曰く(要約です)、
  脱原発が進み、おまけに、再生エネルギー買取り法案などが通れば、
  電力が不足し、電気料金は上がり、企業は海外に出ざるを得なくなり、
  日本の産業が国際競争力を失う。
  そんなことを進めたら、「国敗れてソーラーあり」という世の中になる・・・・。

これは、最近の経済産業省の大臣の発言:日本の産業が空洞化する、だから、原発を・・・という素晴らしい論理と、軌を一にしています。
   私は、海外に出て行きたいなら、勝手にどうぞ、と思っています。
   それでは国内の仕事が減り、「国民」が困るぞ、などというのは、勝手。
   国内にいたくないのなら、どうぞ。
   その国外だって、いつまでも廉い電力が得られるとは限らない。
   そしてまた、廉い国へ出てゆく・・・のですね。
   そうして、「根無し」になる・・・。それでいいのでしょう。
   「その先」がない。これは論理的必然。

こういうことを言う人たちには、福島原発事故で居住地からの避難を余儀なくされている方がたの姿が目に見えないのでしょう。

同じような事故が起きたら(起きないという保証は、これまでの《安全神話》のように、「起きないと思い込む」以外、まったくない)、
「国敗れて、原発(のみ)あり」ということ。人が居ないのです。居られなくなるのです。
「国敗れてソーラーあり」ならば、人が居ます。居られます。
この違いが分っていない。
「分る」のは、どれだけ「儲け」が出るか、だけの《計算》。

もしかしたら、人の住めなくなった一帯の地価が安くなるはずだから、買い占めて、放射線量の減った将来、工業用地にしよう・・・、などと考えているのでは、と思いたくなります。《安全な原発》を新設して・・・。
だけど、そこで、誰が働くのでしょうね?
廉い労働力を、安全だからと説いて、支援・協力という《大義》で、海外から人寄せする?

私にはよく分らないのが、最近の大方の「企業」の、「生産」に必要なものは、自前ではなく、他に廉く求めて、「利」を得る、という発想。簡単に言えば、楽して儲けるという策。
例えば、工業用地。主要な設備が整っている用地を求める。整っていなければ、地域の自治体に、その整備を望む。してくれなければ、立地をやめる。・・・
いつから、こうなってしまったのだろうか。

それについて思い出すのは、明治の企業人の考え方。
たとえば、足尾鉱山の経営と小坂鉱山の経営の違い、そのあたりに「起源」があるのかもしれない、そう思えます。

片や汚染水垂れ流し、指摘されても直さない。どこか、東電に似ていますね・・・。
片や、最初から汚染防止の策を講じた・・・。こういう企業、今、あるのかなァ?

発電機、発電所、いろいろな機械、建材(煉瓦など)、水道、住宅、病院、学校・・・こういった必要なもの一切を自前でつくったのが小坂。
これについては、下記で書きました。
「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山

同じことは、鉄道建設の変遷にも現れているように思います。
現在、「儲からない」鉄道路線は(もちろんバス路線も)直ちに廃止する、それが当然と思われています。
しかし、ある時代までは違いました。
これについては、下記を。
鉄道敷設の意味:その変遷-1
鉄道敷設の意味:その変遷-2
鉄道敷設の意味:その変遷-3

喜多方の煉瓦蔵がどうして生まれたか、それも、往時の人びとの考え方の結果。
「実業家」たちの仕事-1
「実業家」たちの仕事-2

「近江商人」の考え方も、現代の大方の「商」の考え方とは、雲泥の差。
これについても以前に触れました。
近江商人の理念

明治維新が目指した「いわゆる《近代》」とは、「今」のような「世界」「社会」になることが「本望」だったのでしょうか?


経団連の会長さんや、東京電力・九州電力の会長・社長さん、もちろん、偉い大臣たちに、「お幾つになられました?」と訊きたくなります。
なぜなら、「理」の通らない「素晴らしい論理」で、平然として、あたりまえの顔をして、いろいろと語っていらっしゃる。
いい歳をして・・・・!

それとも、こういう私が時代錯誤なのでしょうか?

追録 [21日 6.17] 
  註 以下のリンク先は、削除されたようです。[10月29日 11.20追記]
毎日JPに、「どうする電力総連:経営者と一体で原発推進の果てに・・・誰が命を護るのか」という特集記事が載っています。
東電の労働組合も傘下にある「電力総連」の原発事故に対する「対応」について、書かれています。
「電力総連」支援で当選の参議院議員の素晴らしく怖ろしい発言には、心底驚きます。

追録-2 素晴らしい発想 [24日 9.59] 
「誰が原発の天井に穴をあけるのか・・・」

参考:「評価」の内容・・・・ご都合テストで「評価」して 再稼動?!

2011-07-12 12:05:03 | 専門家のありよう
ムクゲ、満開になりました。これから、次から次へと咲き続けます。



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「化学業界の話題」というブログの11日に発表された「政府の統一見解」紹介記事の中に、
EUの「原発ストレステスト」の詳細が載っていました。

文中に、
「3月11日の福島の事故を受け、この事故を教訓に同様の事故がEUで発生しないよう、すべての原発を再評価するもので、早くも3月25日に欧州委員会でこの問題を議論し、EUの全ての原発のストレステストを行うことを決めた。」
とあるように、
EUでは、4ヶ月ほど前に原発の「安全」について、検討が始まっています。

その間、手を拱いていた日本で、突然のように浮上した日本版ストレステストがいかなるものになるのか、
比較するために、以下に、そのまま転載します(読みやすいように、段落を変えてあります)。
  どうやら、日本版ストレステストは、
  「再稼動」が「目的」の non scientific な《テスト》になりそうです。
  「普通の人びとの原発事故によるストレスが、いかに増大するかを評価」するためのテストになるのではないでしょうか。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  EUは、域内の原発143基のすべてについて6月1日からストレステストを行っている。
  3月11日の福島の事故を受け、この事故を教訓に同様の事故がEUで発生しないよう、
  すべての原発を再評価するもので、
  早くも3月25日に欧州委員会でこの問題を議論し、EUの全ての原発のストレステストを行うことを決めた。

  EUは「福島事故で、考えられない事態が起こること、
  2つの自然災害が同時に起こること、
  全電源の喪失が起こることを学んだ」としている。

  テストは包括的なもので、以下の事態に耐えうるかどうかを調べる。

  ①天災
   地震、洪水、極端な低温、極端な高温、雪、氷、嵐、竜巻、豪雨、その他
  ②人の起こす危険(失敗、行為)
   飛行機墜落、原発近辺での爆発(ガスコンテナー、近くでのタンカー爆発)、火災。
   テロ攻撃(飛行機での突っ込み、爆弾)

  地震に関しては、操業前に、過去の地震を参考にし、
  その地域で予想される地震に耐えられるかどうかについてはチェックを受けている。
  しかし、福島の例で、過去にその地で起こったよりも強い地震がありうることが分かった。
  このため、Richter scale 6に耐えうるとして設計された原発は、それ以上の地震にも耐えられるかどうか、
  即ち、すべての安全機能が稼働するか、安全に停止できるか、電力の供給は十分か、
  放射性物質が放出されずに閉じ込められるかどうかをチェックする。
  洪水や、他の天災についても同様。

  電源に関しては、どんな事態でも、電源がカットされた場合に十分なバックアップ電源を持つこととしている。
  数日間電源がカットされても大丈夫か、
  最初のバックアップのバッテリーが動かない場合にどうするかなどにも答える必要がある。

  飛行機墜落(災害、テロとも)については、原発の格納容器が厳しいダメージを受けるかどうかをチェックする。
  そのため、材質、壁の厚さ、接近する飛行機の重量、スピードなどを検討する。

  ドイツは最近の専門家による安全検査の結果、南部にあるビブリス原発など4基が、
  飛行機の墜落に構造的に耐えられないと判定されている。

  爆発、火災についても同様。

  このほか、テロ攻撃に対する予防措置が検討されるが、これは各国のセキュリティに関するもので、
  公表できないという理由で(ストレステストは全て公表される)、「専門家委員会」を別途設置して調査する。

  テスト方法については欧州委員会とEuropean Nuclear Safety Regulators' Group (ENSREG) とで協議して決めた。

  ストレステストは3段階で行われる。
  ①Pre-assessment
   原発の操業責任者がストレステストの質問に答え、証明する資料や研究、計画を提出する。
  ②National Report
   各国の規制当局が上記回答が正しいかどうかチェックする。
  ③Peer reviews
   多国籍チームが②をレビューする。
   このチームは欧州委員会の1人と27か国の規制当局から6人の合計7人から成る。現地訪問も行う。

  ストレステストは2012年4月末までに完了する。
  ストレステストの結果を受け、各国はどうするかを決定する。
  その国の責任ではあるが、
  EUとしては、対応が技術的にか、経済的にかでできない場合、停止されると信じるとしている。
  報告は公表されるため、停止しない場合にはその国は国民に理由を説明する必要がある。
  欧州委員会はまた、EU域外の諸国(スイス、ロシア、ウクライナ、アルメニア)の原発事故の影響を受けるため、
  各国と原発の再評価の話し合いをを行っている。
  各国とも前向きで、ロシアは既に国際的な核の安全のフレームワーク作りの具体的提案を行っている。

  欧州委員会は更に、IAEAや途上国に対し、安全レビューや国際的な枠組み作りの協力の用意があるとしている。

  付記 
  アルメニアの原発は「EU全体にとって危険な存在」とされている。
  旧ソ連の第一世代型VVER440/V-230タイプの耐震性を改良したV-270型で、Metsamor に2基あった。
  出力はそれぞれ40.8万Kwで、1号機は1977年から、2号機は1980年から操業を開始した。
  1988年12月7日にアルメニアで地震が発生した。
  地震による被害はなかったが、原発からスタッフが逃げてしまい、原子炉加熱の危機も生じていたとされる。
  旧ソ連閣僚会議はアルメニア原発の停止を決め、1989年に2基とも停止した。
  その後、アゼルバイジャンとアルメニアの戦争が起こり、
  自国に化石燃料をもたないアルメニアは化石燃料をまったく輸入できない状況となった。
  このため、6年半にわたり、極度の電力不足の状況となった。
  アルメニアは1991年末に旧ソ連から独立し、原発の運転再開と新規建設への支援を西側に求めた。
  米・仏・露社の技術支援を得て、1995年11月に第2号機の運転を再開した。
  EUは2004年までに閉鎖することを求めたが、現在も運転を続けている。

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残念ながら、ジャーナリズムは、「一般」向けに、上っ面だけしか報じていません。
以下は、NHK online にあった解説。

  欧州連合(EU)が実施している原発のストレステストでは、他国の専門家を含めた相互評価が実施される。
  EU=ヨーロッパ連合の「ストレステスト」は、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、
  これまで想定していなかった事態も含めて原発の安全性を再確認する評価の仕組みで、
  5月にテストの実施について合意し、域内にある143基すべての原子力発電所が対象となっています。

  テストでは、地震や洪水などの自然災害で異常事態が発生した場合の備えなどについて評価するほか、
  発電所の近くでの火事や爆発、それにテロ行為なども想定することにしています。
  そして、外部電源やバックアップの発電機などすべての電源が失われた場合や、
  冷却水が失われるケースなど、炉心冷却の機能が失われた場合の備えについて
  評価することを義務づけています。
  ストレステストは先月1日から始まり、このうち第1段階のテストは、EUが定めた手順書に従って
  原発を運営している企業がみずから行ったうえ、10月31日までに報告書を提出します。
  この報告書を基に、各国の原子力規制当局が12月31日までに第2段階の評価を行ったあと、
  各国の代表などからなるチームが最終となる第3段階の評価を行います。第3段階の評価を行うチームは、
  実際に原子力発電所への立ち入り調査を行う権限も与えられていて、来年4月末までに最終的な報告書を作成し、
  EUの首脳会議に提出することにしています。
  最終報告書では、ストレステストを通じて明らかになった問題点とともに、
  その対処方法についても盛り込まれることになっていますが、
  EUでは、多額の費用がかかるなどの理由で対処が不可能な問題が分かった場合には、
  その発電所を閉鎖することもやむをえないとしています。

「形」の謂れ(いわれ)-5・・・・橋の形・その1

2011-07-08 09:50:40 | 形の謂れ
「感想・・・・続・素晴らしい論理」に、「やらせメール」への感想を追加しました。

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[註記追加 8日16.24][文言追加 8日 18.40]

先回、古い住宅の又首・合掌は、最も単純なトラス組である、と書きました。
次の図は、何度も紹介しています「古井家」の断面図です。



この小屋組について、「日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録」で記した説明を抜粋します。

   ・・・・・
   柱寸法は、「上屋の柱」(「おもて」や「にわ」の室内に表れている柱)が平均して約16.5cm(5.5寸)角、
   「下屋の柱」(建物外周壁の柱)は約12.7cm(4.2寸)角。太さには1本ごとかなりの差があります。
   「上屋」の「梁」や「桁」は、ほとんど「(上屋の)柱」と同寸程度の材が使われています。
   このような細身の材で屋根が組めるのが
   「又首(扠首)組:さすぐみ」の利点・特徴です(原初的なトラス組にほかなりません)。
   なお、「又首(扠首)組」の中央に「束」(「真束」のように見える)がありますが、
   ・・・・これは・・・「真束」ではなく、「棟木」を支えているだけです。

つまり、「古井家」の小屋組では、柱と柱の間、水平距離3m余りに架かる梁や桁は、柱とほぼ同寸の5.5寸角程度という細身の材なのです。
これを、現在普通に見られる「束立組(いわゆる和小屋)」でつくるならば、梁は、もう一回り大きい、たとえば8寸×4寸程度の角材を使います(いわゆる「在来工法:建築基準法準拠工法」なら、9寸×4寸以上使うでしょう)。

「古井家」の又首・合掌に使われている丸太は、「修理工事報告書」には材寸の記載はありませんが、図から末口(丸太の先端部の径)3~4寸程度と推定できます。
又首・合掌の勾配は45度以上ありますが、45度としても又首の長さは4.4m、実際は約4.7~4.8mほどはあるでしょう。
つまり、「古井家」の小屋組の又首・合掌の斜材は、長さが約4.5mありますが、末口3~4寸程度の丸太でOKということ。

場面を変えて考えてみます。

今、山の中で出くわした幅4m程度の小川を渡るために、丸太で橋を架けようとしています。丸太としては、両岸の掛かりの分を含め、最低でも5m。
丸太は近くの林から伐ってくることに。
どんな丸太にするか。
探すのは、小川の幅、つまり必要な丸太の長さから判断して、これでいいだろう、と思う太さ:径の丸太です。
そのためには、その判断ができる人がいることが必要です。
   当然、これでいいだろう、という判断には、川幅の目見当も含まれます。
   測量器具もないとき、どうやって幅を推定するか。

これでいいだろう、という判断は何に拠るのか。
それは、小川に架けた丸太の上を、人が歩ける幅を確保でき、しかも人が歩いたとき、撓んでも折れない、ということの「想定」です。
   1本でこの要件を充たすには、太い径の丸太が必要、しかしそれでは重過ぎる、
   したがって、細い丸太を数本並べる方策を考えるでしょう。
   この判断も「想定」のうちに含まれます。
   また、その丸太を渡る頻度をも考えるかも知れません。
   頻度が多いと、つまり今後も大勢の人が渡るとなると、少人数の場合よりも「もち」が悪いからです。
   つまり、今回だけ役に立てばよいのか、その後も一定期間使えることを考えるか、
   それも、判断の拠りどころになるはずです。
   すなわち、その丸太橋の「役目」をも考えての「想定」です。

この「想定」、つまり判断のできる人は、なぜ、それができるのか?

日ごろの「経験」で、川幅の目見当で推定する方策も、そしてまた丸太の「クセ」についても、よく知っているからです(もちろん、樹種による違いも知っています)。

丸太橋の上を人が歩くと、丸太は撓みます。
太ければ、簡単には撓みません。
   太い丸太も、撓もうとしているのですが、目に見える撓みが生じないだけ。
だから、使う丸太は、太ければ太いほどビクともしません。しかも歩きやすい。
しかし、太いほど、丸太は重くなる。仕事が容易ではない。
そこで、橋の「役目」に見合い、しかも撓んでも折れない程度の太さの丸太を探します。
   このように考えるのが「設計」ということである、と私は考えています。
   「撓まないこと」だけや、「渡りやすさ」だけを考えるのは、「設計」ではない、ということです。
   「つくりやすさ」も考えなければならない。そのどれか一つでも忘れたら、それは「設計」ではない。

では、「古井家」の又首・合掌に使われている程度の末口3~4寸程度の丸太は、役に立つでしょうか。

現代の建築を学んでいる学生たち(あるいは学んだ若い人たち)で、こういう場面に出くわしたとき、こういう判断のできる人は、一人もいないのではないでしょうか。いたとしたら、きわめて稀有なことと言ってよいでしょう。
なぜなら、現代の若い人たちには、自分の「経験・体験から発想する習慣」がないように見えるからです。ことによると、一所懸命、断面係数を計算するかもしれません。

しかし、かつては、ほとんどすべての人が、このような丸太の「探索」を何ごともなく行うことができたはずです。
日ごろの暮しのなかでの「経験」「体験」の意味が分っていたからです。
と言うより、「経験」「体験」を通じて、「本物の知識」を身につけていたからです。それは「知恵」と呼んでもいいのかもしれません。   
   今の若い人たちの多くが判断できないのは、
   日ごろの「経験」「体験」とは無関係に、「学問的知識」だけを知っているからです。
   「力学」の根拠を得ないと、林に丸太を伐りに行けない。
   それは、「歴史的事実」と無関係に、《伝統的》工法を《解明》しようとする「大人の先生がた」も同じ。
   現代の学生たちの多くは、こういう先生がたの「教え」の下で《育つ》のです。
     実は、若い方がただって、日ごろの暮しのなかで、経験はしているのですが、
     その「意味」を「認識」していない。
     その「認識」よりも、教室で聞いた《知識》の方を、大事にするクセが身についている。
     つまり、先ほどの言い方をすれば、「知恵」として身についていない。
   そもそも、「力学」という「学問」の発端は、
   人びとのこのような日ごろの経験・体験の集積・展開に過ぎない、という「事実」が
   忘れられているのです。

   蛇足
   中世の能の演者、世阿弥が、   
   能の習練は、7歳ぐらいから、まず「型」「形」を「真似る」ことから始め、
   青年期になっても、幼少から真似して修得した「型」「形」の「意味」が理解できていない場合は、
   あるいは、理解できない場合、理解しようとしない場合は、
   その者は、能の演者としては先がない

   というようなことを書いていた、ように思います(どこに書いてあったか、現在捜索中です)。
   封建的な徒弟制度だ、とされる大工さんの修業も、つまるところ、同じだったのではないでしょうか。
   これは、過ごしている日常の事象の意味を、常に認識し続けよ、という教えである、と私は理解しています。

   たしかにものごとの修得は、いかなる場面であれ、先ず「真似る」「見習う」ことから始まります。
   それゆえ、世阿弥の言は、ものごとを会得してゆく課程・過程を言い得て妙である、と私は思っています。
     現在の(建築)教育には、
     ものごとの会得には、こういう課程・過程が存在する、という「事実」の認識が欠けているように思います。         
     日本語の「学ぶ」は、「真似ぶ」から生まれた語、と言われています。

おそらく、末口3~4寸程度の丸太は、撓みはしますが、橋にはなるでしょう。
ただ、1本では渡りにくいため、最低2本横並べにすることになります。
そして、近くに蔦でもあれば(ロープがあればそれを使い)横並べの2本を強く絡げるでしょう。
なぜ絡げるのか。
ただ2本並べるだけだと、足の載った方だけ撓み、歩く人は不安定な体勢になって歩きにくいため、2本を絡めると、それが避けられます。
さらに言えば、完全ではありませんが、横並べ2本で1材になり、その分、撓みも少なくなるのです。
   実際の丸太橋・丸木橋では、大抵、数本を鉄線で絡めています。

丸太橋を人が歩くと撓む、ということを、力学では、丸太に「曲げる力」がかかった、と言います。そして、丸太には、それによって「変化」が生じます。それを「応力」と言っています。
そんな面倒くさいことを言わなくても、かつての人びとは、丸太に人が載るとどんな様態になるか、身をもって知っていました。当然、樹種による違いも、知っていました。
   

この丸太橋(丸木橋)と同じ考え方で屋根を架けようと考えているのが、日本で普通に見かける小屋組にほかなりません。
2本の柱の間に「梁」を渡し、その上に何本かの短い柱:束(つか)柱を立て、その上にまた木材(母屋)を架け、屋根の概形をつくる。トラス組主体の「洋小屋」に対して「和小屋」と呼ばれる組み方。正式な呼び方は、その特徴から、「束立組」。

したがって、「梁」は「屋根の重さ」を直かに支えていることになります。
この「梁」と「屋根の重さ」の関係は、先の「丸太橋と、そこを歩く人の重さ」の関係と同じです。
「梁」には、「曲げの力」がかかり、「梁」は撓もうとしているわけです。
だから、柱と柱の間の距離が長いと、つまり、「梁」の長さが長ければ長いほど、太い「梁」が必要になります。

「束立組」で3mの間隔の柱間に、「古井家」の又首・合掌の「斜材」と同じ丸太を使ったら、普通の屋根の重さで、目に見えて撓むはずです。
ところが、先の「古井家」の又首・合掌を構成する斜材は、撓んではいません。
これは、「斜材」に、曲げる力が大きくかかっていない、ということにほかなりません。正確に言うと、撓むほどにはかかっていない。
屋根の重さは、当然「斜材」にもかかっています。しかし、そのかかりかたは、「束立組」や先の丸太橋の場合のそれとは異なるのです。

この「現象・事実」、すなわち、なぜこのようになるかについては、中学程度の理科で習うはずです。そして、習わなくても、「経験」で知っているはずです。
同じ力がかかっているのに部材が撓まないのなら、力が「余っている」ことになります。その力は、「斜材を撓ませない代りに、部材の長手方向に向ったのです。
これが、中学で習う「力の分解」(と「力の合成」)の「基」になる現象。
  
この、人の重さの内、長手方向に向った分を「軸力」、この場合のそれを「圧縮の力」と呼んでいます(「力学」を習った若い人は、トラスと聞くと、直ぐに、この語を持ち出します)。

割り箸などで小さな逆V型をつくり、頂部をゴム輪で縛り、地上に軽く立て、斜辺あるいは頂点に物を載せると、割り箸は地面に刺さってゆきます。これは、重さが割り箸を伝わって地面に向ったからです。
もしも、地面が硬く平滑ならば、先端は地面に刺さらず地面上を滑ってしまい、逆Ⅴ型は開いて扁平になってしまいます。

古い住宅の又首・合掌は、下図のように、その先端(「合掌尻(がっしょう・じり)」)を鉛筆のように削り、水平の梁(「陸梁(ろくばり)」と呼んでいます)に穿った孔に差し込む形をとっています。
これは、又首・合掌が「開かないようにする」ためなのです。
その場合、「陸梁」は、屋根の重さは支えるのではなく、又首・合掌が開こうとするのを押さえ込む役割、又首・合掌の形を維持する役割を担っているのです。
別の見かたをすれば、「陸梁」は、「伸ばされようとしている」ことになります。
「力学」では、これを、「陸梁」に「引張りの力」がかかっている、と称します(「力学」を習った若い人は、トラスと聞くと、やはり、直ぐに、この語を持ち出します)。



   なぜ、先端を削って尖らすのか。
   それは、先端に重さ:力が集中し、安定度、孔への固定度が高まるからです。
   重さが集中する分りやすい例:ハイヒールで踏まれるとスニーカーで踏まれるよりはるかに痛い。
   小さな面積で、重さを引き受けているからです。
   地面に杭を打つとき、先を削った方が、打ち込みやすいのも同じ理です。[註記追加 8日16.24]

もちろん、このような手立ては、「力学」誕生以前のはるか昔に考えだされた技。
人びとは、「力学」の「教え」を知らなくても、事を処することができた、ということです。
これは、日ごろ、この「現象」を、経験で知っていたがゆえにできたのです。
   ある講習会で、この話をしたところ、
   又首・合掌が、陸梁の孔に刺さっているだけ、というのが理解できない、という方がおられました。
   簡単にはずれてしまうではないか、というのです。
   おそらく、陸梁と又首・合掌を緊結する必要がある、と言いたかったのでしょう。
   もしも、実際にそうする必要があるのならば、かつての建物でも、蔦や縄などで括りつけていたはずです。
   しかし、そういう例はない。
   ということは、経験上、その必要がない、と人びとは認識していたことを示しているのです。      
   ところが、この「そういう例はないという事実」を示しても、この方は合点がゆかないようでした。
   おそらく、「事実」よりも「学の教え」に信を置いているからでしょう。


さて、短い距離なら、梁は、1本の材の太さ:材寸を変えることで対応できます。
しかし、先の末口3~4寸の丸太で、もっと長い距離に架けよう、という工夫も編み出されます。
それは、梁を架け渡す2本の柱のそれぞれの頭部に適当な太さの短い木材をT字形に置き、その上に先の末口3~4寸の丸太を据える方法。
短い材を「肘木」と呼んでいます。「肘木」で梁を支える距離を調整するのです。
「肘木」を設けると、梁を細い柱の上に載せるのが、格段と楽になります。
また、「肘木」を、柱の上に安定して載せる工夫として、「斗(ます)」も使われます。言い方を変えれば「受け台」です。

その典型として、以前使った挿図を再掲します。
最も単純な「肘木」や「斗」が使われている法隆寺・東院 伝法堂の長手(桁行)の「断面と屋根裏の見上げ図」、および「肘木、斗の分解図」です。



   この「技術」は、西欧の木造建築にもあります。
   石造建築の「モデル」となったギリシア建築の「柱頭」も、この一つの変形と考えられます。
   「肘木」や「斗」を、単に「造形のための形」、一つの美的「様式」などとして扱うのは、明らかに間違い。
   こういう形にも、ちゃんとした「訳」:「謂れ」があるのです。
   しかし、残念ながら、建築史でそのような見かたを採る解説は、稀有なのです。[文言追加 8日 18.40]

このすぐれた「技術」の誕生は、きわめて古く、以来、長い間、いろいろと応用・展開して使われています。
その一例が、以前に紹介した下図の「猿橋」です。
これは、川幅およそ30mの渓谷に、橋脚なしで架けた木造の橋。
同じやり方で造った60mを超える例も、明治年間まで、富山県にありました(「愛本橋」)。





この構築法は、見かたを替えると、石造のアーチに相当する考え方である、と見ることもできます。
   おそらく、こういう構築法は、現在の《木造建築理論》からは生まれないでしょう。

大分字数が増えてしまいましたので、以降は、次回にまわします。

感想・・・・続・素晴らしい論理

2011-07-05 21:35:56 | 専門家のありよう


舌を噛みそうな名の花にきているキアゲハです。

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[リンク追加 6日 23.18][追記 8日 19.29][追記 9日 12.30]

九州電力の玄海原発の地元の町長が、再稼働を認める発言をしています。
曰く、安全性を国が保証しているから、そして、再稼働しないと《経済》が衰退するから、と。
これは、安全と考えているから安全だ、といういかんともしがたい詭弁の《論理》を鵜呑みにした結果です。
おそらく、財布の中身が心配で、福島の現状には思いが至らないのでしょう。
そんなことより、予算の60%を占める原発がらみの「現金」の方が大事、という論理。

当の九州電力の会長さんは、世の中の「脱原発」の動きは、「風評」によるものだ、と仰せられていました。われわれは「風評被害」を蒙っている、と言いたいのかもしれません。
これは、何処かの政党の偉い方の仰せられた、「これは集団ヒステリー」、との言に一脈通じます。
極めつけは、東電会長の、想定外の天災なのだから免責を・・・、という願望。


なぜ、原発立地町村が、偏在しているか。
それは、それぞれの町村が、財政的に苦しいからにほかなりません。ところが、原発立地を認めるだけで多額の「現金」が降ってくる。

では、なぜ、それらの町村は、財政が苦しいのか。
それは、「富」が都会に、特に大都会に集中する「構図」になっているからです。
財政的に苦しい町村をつくっておいて、「富」の集中する大都会の「消費」のためのエネルギー:電力を「安全な原子力」にたより、「安全だ」という「まことしやかな言辞」を弄して、それら財政的に苦しい町村に、その立地を押し付けてきたのです。

ものごとの理にしたがうのならば、必要とする大量のエネルギーは、それを必要とする地域でまかなうべきであり、その方がコストもかからない、そして、そこで生じる廃棄物も、その地域内で処理する、それが当たり前。地産地消です。
であるならば、原発も、そして使用済核燃料の保管も、電力の大使用地区である大都会が負うべきでしょう。安全なんだから・・・。
もっとも相応しい場所、それは東京や大阪です。キタナイものは他所にもってゆく、そういう論理は通りません。それこそ「無理」というもの。スジが通らない。

   私は、学生の頃の、御茶ノ水駅下を流れる神田川の光景を思い出します。
   いまや知っている人が少なくなっていると思いますが、
   江戸期には飲料水としても使われていた神田上水を、
   常に、何隻もの舟が列をなして下っていました。
   その舟は、水道橋の駅の近くにある配船所から出てくるタンカーです。
   タンカーの積荷は、都内から集めた糞尿。
   どこへ行くのか?
   東京湾外だと聞いたことがあります。
   そこで、海に捨てていた・・・。海には黄土色の筋ができたそうです。
   江戸期はどうしていたか。
   近郊の農村へ運ばれ、肥料になっていました。農家が収穫物を持って、その代替に持って帰ったのです。

「経済」:「経世済民」とは、危ないものを危なくないとウソを言って現金を付けて他所に押しやり、その金で町村の財布が潤う、そういうことを言うのではありません。
このやり方は、金持ちが、貧乏人のほっぺたを札束でひっぱたいてよろこんでいるに等しい。


また、昨日であったか、中部電力の社長が、簡単に言えば、浜岡原発を止めるなら、金をよこせ、という「要求」をしていました。
「お客さまと株主に対して申し訳ないから」と言うのが、その理由。
おそらく財布の中身が心配で、やはり、福島の現状には思いが至らないのでしょう。
簡単に言えば、金に目がくらみ、想像力が衰えている・・・。

私が率直に思ったのは、どうしても再稼動したいのなら、使用済核燃料を、すべて電力会社の本社ビル内の一画で保管することを確約べきだ、ということ。できないわけがありません。安全なのだから・・・。場所が足りないのなら、超高層ビルでもどうぞ。

エコノミックアニマルという和製英語がありました。
相変わらず、多くの偉い方がたが、後生大事に、その系譜を引継いでいるらしい。
天秤にはかからない、かかるはずのない「安全」と「《経済》の安定」という範疇の異なるモノを天秤にかけている。
「科学」立国などとは言っても、決して理を通さない、理の通らない国、日和見・ご都合主義の国、それが現在の日本。

追記
本当の scientist の理の通った言説を教えていただきましたので、紹介します。
小出裕章氏が、この春、参議院で、参考人として述べられた「意見」の記録映像です。[追加 6日 23.18]

再追記
「やらせメール」発覚。
これまた、「民主主義とは、『理』ではなく、数の多少でものごとを決めること」、と思い込んだ人たちの「必死の」策なんでしょう。
政治の世界の「多数派工作」と何ら変らない。以前のタウンミーティングなるまやかしもそうだったのだから、今さら驚くにはあたらない。
けしからん、と語っている政治家たちが、本気にそう思っているとは、到底考えられないのです。いいところ、下手だなァ、ばれたのか、程度が「本心」では・・・。

ところで、「ストレステスト」なる「概念」が突然湧き上がりました。
よく聞いてみると、西欧では、すでに進行中とのこと。
ところが、そういう「事実」を報じたメディアがない、というのが不可思議です。
そして、ここにきて突然表面化したことが「波紋」を呼んでいる。

その「波紋」とは、ついそこまで来ていた「原発再稼動」が、「水をかけられ、できなくなったではないか、けしからん」というのが大方。
私には、本末転倒に聞こえます。「再稼動」が絶対の目標になっての態度だからです。
「ストレステスト」の妥当性が問われていない。

西欧でやっているものを、日本がやらない、ということは、「近代日本の『性格』」として、いまさらできない。だから、やらざるを得ない。

そこでおそらく、「再稼動が可という結果が出るような内容のテスト」にする画策がなされるでしょう。「やらせメール」と同じ構図です。
「科学」立国日本の、「科学」認識は、そんなものなのです。
つまり、「理」よりも「利」の論理。
財界の偉い方がたの仰せられていることも、それに尽きる。[追記 8日 19.29]

産経新聞に、このまま原発が再稼動しないと、電力不足で、日本の産業界の空洞化が著しくなり問題だ、という記事が載ってました(gooニュースにありました)。
要するに、そうなると生活も大きく影響を受ける、だから再稼動が必要だ、と言いたいようです。
福島原発の事故で、地域の空洞化が進まんとしています。簡単に言えば、人が住めなくなる。現になっている。
一旦事故が起きれば、無人の世界が広がる。そんなところで、産業が振興して、どうなるというのでしょうか。第一、働く人もいないではないですか。
さらに、火力発電が増え、二酸化炭素の排出量が増加、温暖化が進む、という「心配」もなさっています。核燃料廃棄物や放射能は問題ないんですね。

どうして、いい歳をした大人の日本人が、こういう非論理的は記事を書いて平気なのでしょう。
子どもの方が、もっと筋の通る見かたをするのではないか。なさけない話です。[追記 9日 12.30]
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