索引・・・・記事一覧-6  2008年1月~

2008-01-30 12:49:10 | 索引:記事一覧1~
[2008年]

01月01日   新年にあたって 
01月03日   野の仏 村に暮す人たちの思い
01月06日   煉瓦造と耐震・・・・呆れた実物大実験
           擬似実物による試験体で何を得るのか
01月09日   木造家屋と耐震・耐火研究・・・・暮しの視点は?
           住まいは耐震のためにあるのではない
01月12日   区画整理と「心の地図」・・・・暮しと防災
           目の見える専門家には、ものが見えない
01月15日   災害復興と再開発・・・・これでいいのか?
           再開発に利用された災害:本当の復興とは
01月16日   “earth construction” の紹介
           視野の広い研究者たちの仕事の紹介
01月18日   煉瓦造の建物・・・・煉瓦造は弱いか?
           ものは使いよう:頭から忌避する前に
01月22日   「開発」計画・・・・その拠りどころは何なのか?
           環境を壊しつつ環境が大事という専門家        
01月24日   「たが」について考える-1・・・「たが」としての「長押」
           建物を、単なる構築物と考えない
01月27日   「たが」について考える-2・・「たが」としての「貫」「差鴨居」
           任意の場所に開口を設けるために
01月29日   煉瓦造と地震-1・・・・“earth construction” の解説から
           煉瓦造を禁止する前に・・煉瓦造を知ろう

02月01日   煉瓦造と地震-2・・・・“earth construction” の解説・続
           煉瓦造を丈夫にする工夫いろいろ
02月02日   紙箱はなぜ丈夫なのか  
           薄い紙でも立体になれば丈夫になる
02月05日   木造建築と地震・・・・驚きの《事物》実験
           基準や指針を、恣意的な実験を基につくるな
02月07日   木造建築と地震:補足・・・・パブリックコメントという「形式」
           民の声を聞いたふりして民主的を装う
02月08日   木造建築と地震・・・・構造計算データベース?
           矛盾だらけの論理でデータを収集してどうする?
02月09日   続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家
           群馬・富沢家
02月11日   続・日本の建築技術の展開・・・・二階建の養蚕農家・補足
           養蚕農家の諸型:秩父ほか
02月13日   怪談・・・・受講料350,000円也の講習会
           中小切捨ての行政・政策
02月15日   続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家
           山梨・塩山の茅葺切妻三層の「甘草屋敷:高野家」
02月16日   続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻の多層農家・補足
           高野家の原型:平屋建の棟持柱・茅葺切妻の広瀬家
02月19日   棟持柱の試み・・・・To邸の設計
           棟持柱+入側通し柱による架構
02月20日   棟持柱の試み・・・・To邸設計図抜粋  
           平面・矩計・伏図の紹介
02月23日   設計図で何を示すか  指図と建地割図の意味
           江戸城本丸御殿の土台・足固め・小屋梁伏図
02月23日   設計図で何を示すか・補足  建地割図の実例
           信州・善光寺の設計図:立面と断面を一枚の図に
02月24日   設計図で何を示すか・補足続き 
           後桜町院の長大な建地割図
02月26日   再び・設計図で何を示すか・・・・伏図の重視
           「伏図」で何を示すか
02月28日   失敗の修復で得たもの・・・・筑波第一小体育館の補修工事
           先人の知恵に潜む「理屈」を学ばねばならない

03月02日-1   煉瓦を積む-1・・・・木骨煉瓦造
03月02日-2   煉瓦を積む-2・・・・木骨煉瓦造・図面補足
03月02日-3   煉瓦を積む-3・・・・木骨煉瓦造・図面補足追加
03月05日   「手描きの時代」育ち-1・・・・途中の喪失
03月06日   「手描きの時代」育ち-2・・・・アアルトの設計図面(1)
03月07日   「手描きの時代」育ち-3・・・・アアルトの設計図面(2)
03月09日-1  「手描きの時代」育ち-4・・・・アアルトの設計図面(3)
03月09日-2  「手描きの時代」育ち-4:補足・・・・設計図面(3)の補足  
03月11日   怪談・・・・あこぎな話
03月12日   「手描きの時代」育ち-5・・・・アアルトの設計図面(4)
03月14日   「手描きの時代」育ち-6・・・・前川國男建築事務所の図面(1)
03月15日   建築写真・・・・何を撮るのか
03月17日   余談:美しい国・・・・民主主義とは何か?
03月18日   「手描きの時代」育ち-7・・・・前川國男建築事務所の図面(2)


 

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煉瓦造と地震-1・・・・“earth construction”の解説から

2008-01-29 20:34:04 | 煉瓦造建築

日本では、明治の初め、建物を煉瓦でつくることが建物の近代化:洋風化であるとして推奨されていた。西欧先進国の建物は、煉瓦造や石造ばかりだ、と思い込んでいたからである。
ところが、明治中期、大地震が発生、煉瓦造の多くが被害を蒙った(全部ではない)。
折しも、西欧では、既に新しい材料である鉄やコンクリートの建物が生まれつつあった。
いち早くこれを知った日本の建築学者の中には、もはや建物づくりは、木でもない、煉瓦でも石でもない、鉄とコンクリートだ、と思い込む人たちが生まれていた。
彼らは、地震をチャンスとばかりに、鉄、コンクリートの木や煉瓦に対する優越性を喧伝した。

材料そのものに優劣の差をつけて考えるのは、この頃から始まり以後延々と現在にまで至る日本の学者たちの「悪しき習性」と言ってよい。ついでに言えば、人にもまた優劣の差をつけて見るのが彼らの習い性であり、だから、大工職よりも自分たち学者がエライと思ってしまう。

現に、煉瓦造は、日本では禁止に近い状態に置かれ、その結果、明治以来良質の煉瓦を供給してきた「日本煉瓦製造株式会社」は、決して良質とは言いがたい海外からの廉価な煉瓦に押されて煉瓦製造をやめてしまった。
しかし、煉瓦・煉瓦造は、その性能上、一考に値する材料であり工法であると私は考えている。

   註 煉瓦・煉瓦造は、その恒久性(退化しにくい)、恒温・恒湿性
      などの点ですぐれていて、補強策を考えれば、十分今でも
      建てられるのではないか、と私は思う。


先日紹介した書“EARTH CONSTRUCTION”も(08年1月16日記事)、土造(版築や土の塊:ブロックでつくる)や煉瓦造(日乾し煉瓦:adobe を含む)の建物と地震の問題について、当然触れている。
上掲の文章と図は、同書の EARTHQUAKE-RESISTANT ENGINEERING MEASURES (耐震技術:工法)の節からの転載である(転載にあたって、見開き2頁を1頁に、図の位置も変え、編集し直した)。

内容は、Principles of earthquake-resistant engineering (耐震工法の原理・原則)と Action strategy (実施・行動戦略)に分かれる。

Principles として、①良好な建設場所を確保すること、②強い構造の建物をつくること、③建物の適切な維持管理を保つこと、の三つを挙げている。
いずれも当然のことなのだが、日本の「耐震」では、②についてのみ関心が示されているように思える。

Strategy で触れられている点は、傾聴に値する点が多い。以下、全文を意訳してみる。

「土造、煉瓦造は、地震によって最も被害を受けやすい構築物である。しかし、その地震による挙動は、これまであまり注意を払われておらず、知られてもいない。

ある人たちは、土や版築や日乾し煉瓦による建物は、最も耐震性の低い構築物であるから、そのような構築物は、地震の起きやすい地域では建造を禁止すべきである、と説く。

しかし、土造や版築、日乾し煉瓦による建造を禁止する、などというのは、簡単にできることではない。
なぜなら、土でつくる住まいが圧倒的な数を占めているのは、経済的に貧しい人びとが暮す地域であり、人びとが経済的に豊かにならないかぎり、その建造を禁止するなどということは現実性がない、つまり不可能であり、むしろ、土造の建物の耐震性を改善する方法を探ることこそ重要なのである。

そのためには、地震に対するために、何を考えるべきか、を明確にすることが必要である。
第一は、地震に強い建物をつくるための費用増大を押さえることもさることながら、先ず人命と財産の損失を低減すること、が肝要であり、そのため、建物の倒壊に伴う危険の防止に最大の注意が払われなければならない。
最低限求められるのは、比較的大きな地震の際の屋根の崩落と主要構造部の損傷を減らすことである。

また、地震に強い建物をつくるための原則と技術は、広く、多くの人びとに知られ、多くの人びとに受け容れられるものでなければならない。
そのため、実際の実施方法は、いかなるハイレベルの技術が必要であっても、各地域の社会経済的な状況に応じた方法でなければならない。
この点については、実際に地震の起きた地域の現地観察を通して、きわめて大きな教訓を得ることができる。

実際の地震の多い地域、あるいは被災が想定される地域へ向けての被災防止策として、すでに多数の提案がなされているが、しかし、乗り越えなければならない障害がいくつもあった。
けれども、1982年のアルバカーキ(アメリカ南部ニューメキシコ州)、1983年のリマ(南米ペルー)での国際会議では、いろいろな考え方が討論された結果進展が見られ、実際的、現実的な技術的推奨策がまとまった。
これは、この分野における興味あるスタートでもあった。
科学技術的、経済学的、社会心理学的、そして文化的な障害を越えることができたからである。
たとえば、多くの地域では、円筒状、円錐状あるいはドーム状の建物について、それをやめるのではなく、適切な補強策によって改良するのが良い、ということになった。
けれども、まだ、乗り越えるべき問題が、この先に、数多く残されている。」

大変下手な訳で恐縮。

この書に、というより、この著者たち:研究者たちに、一貫しているのは、常に、「建物」すなわち人が暮す空間の「耐震」を考えることであって(その意味では、私流に言えば「対震」)、「構築物の耐震」だけを考えれば済むものではない、とする思想・思考である。
おそらく、日本の専門家も、アルバカーキやリマで開かれた国際会議には出席しているのだろう。
しかし、日本の専門家・研究者から、この著者たちと同じ思想・思考が語られることを、いまだ私は一度も聞いたことがない。それぞれの地域の状況に応じる、などということは、まったく彼らの脳裏にはないのではなかろうか。

おそらく彼らは、危ない建て方は禁止すべきであると、先頭に立って主張する人たちなのだ。なぜなら、日本で彼らが推進している「耐震のすすめ」は、それ以外の何ものでもないからである。
日本の建築の専門家で、単に技術的なことだけではなく、人文・社会的な視野、文化的な視野・・・で建築を考える人は少なすぎるように思う。

もしかしたら、そんなことは「理科系」の建築の専門家には必要がないことだ、と思っているのかもしれない。
しかし、技術とは、所詮、人にかかわることで成り立つもの。人とのかかわりを欠いたならば、少なくとも建築の技術ではあるまい。建築とは、人がかかわるものなのだから。

パキスタンの煉瓦造の破壊実験(08年1月6日、18日記事参照)を試みる方々も、当然、パキスタン各地域の文化的、社会経済的・・・人文的な諸状況、諸情況を十分に知った上で行っているのであろう、と私は信じたい。
もしもそうでないのならば、それは現地の人たちに対して失礼千万だ。
これまで日本国内で人びとに失礼を繰り返して来たのと同じことを、他国に輸出してはならない、と思うのは私だけなのだろうか。

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「たが」について考える-2・・・・「たが」としての「貫」「差鴨居」

2008-01-27 19:07:04 | 建物づくり一般
[表記変更:1月28日、1.12][文言追加:1月29日、9.55]

先回に続き、「たが」について考える。

12世紀末ごろから使われるようになる「貫」工法も、見方を変えれば、柱群に、水平の「たが」を何段もはめて締める工法と見なすことができるのではないか。
しかも、この場合は、「長押」と大きく違って、外周だけではなく、内部の柱群にも「たが」をはめることができる。一つの直方体が、面を共有した「たが」をはめられた小長方形の集合体となる(小直方体に分節される)。
さらに、「長押」に比べて材料の断面は小さくてすむ。それでいて柱に楔で締められるから、柱群をより強固に締め付けることができる。

こうして、はめられる箇所すべてに「たが」がはめられた直方体は、それ自体で自立できる立体になり、当然、変形とはほとんど無縁になる。東大寺・南大門のような、壁もほとんどなく、平面に比べてとてつもない高さの建物が、礎石に置かれただけで自立できている。

別の言い方をすれば、柱・横架材で構成され、「貫」という「たが」が何層にもかけられた各面開放の直方体は(もっとも底辺は柱が突き出している恰好だが)、形を維持したまま、クレーンで持ち上げることができるだろう。
実際、最近の地震でも、寺の四脚門などが、形を維持したまま転倒したり、あるいは位置を移動したりしている例が見られる。

戦国時代の頃から、「土台」の上に柱を立てる方法が発案される。
それに「たが」:「貫」が嵌められると、足元も含めて稜線すべてが木材でつくられ、いわば各面が「貫」を含め骨だけでつくられたサイコロ様になる(もちろん、直方体の内部にも骨がまわる)。だから、仮に転がしても、形を維持し続けるだろうし、また、クレーンで持ち上げることがますます可能になる。

   註 もちろん「貫」が使えるようになるには、柱を貫く孔を
      開ける道具がなければならないから、その時代までには、
      道具にも進展があったのである。

日ごろ工作に従事している工人たちにとって、「貫」工法のすぐれた効能を理解することは、何の苦もないことだったにちがいない。
実際、「大仏様」(架構だけで空間を作り上げる方法)は、重源の時代だけ行われ、広く使われることはなかったが、そこで用いられた「貫」だけは、広く、しかも早く、広まっていった。
もちろんそれは、現代のように、《専門家》や、ときの政府がその技法・工法を推奨したわけではない。その技法のすぐれた点が、広く工人の間で理解され、評価されたからなのだ(これが技術の進展の本来の姿である)。

しかし、柱相互をやみくもにすべて「貫」を通すのでは、単なる「構築物」。「建物」の場合は、どこもかしこも「貫」を通す:「たが」をはめるわけにはゆかない。開口が必要だからである。「住まい」の「建物」は特にそうだ。
「貫」を通せない、言い換えれば「たが」をはめられない箇所と、「たが」が十分にかけられる箇所とができてしまうのが「建物」。

一般に、日本の建物では、通常、出入口の高さを一定にし(「内法寸法」)、小さな開口は、その位置からどれだけ下げるかで下枠の寸法を決めていることを、以前紹介した。

   註 「建物づくりと寸法-2」(07年2月26日)参照。
      内法寸法の測り方は、昔と今では、若干異なる。

「貫」が一般に使われるようになると、社寺建築などでは、開口部の上枠、つまり「鴨居」の外側に、構造部材として使われなくなった「長押」様の「付長押」と呼ぶ材を添えるのが普通になった。

   註 柱の外側を水平にまわる「付長押」は、空間を横長に見せる
      効果があり、それが好まれたようで、和様」「和式」として
      その手法は、現在でも使われている。
      この点については、内法寸法の話に続いて、2月27日に
      F・Lライトが多用した trim に関連して触れている。

平安時代の頃から、社寺や公家系の建物で、軒を深く出すために「桔木(はねぎ)」を用いる手法が使われるようになるが、このような形式を採った建物では、開口の上部:鴨居から小屋組を支える桁までの部分(「小壁」)の丈が高く(内法が1間だと、「小壁」も1間はあった)、そこに、鴨居レベルの「内法貫」のほかに数段の「貫」をまわすことが可能だった。
また、足元まわりでは、礎石上に立つ柱の床レベルに、「足固め貫」または「足固め」をまわすのが普通であった。

  註 「貫」の厚さは、柱径の3/10~2/10程度が普通。 
     たとえば、4寸3分角の柱の場合、
     「貫」の断面は〔3~4寸〕×〔1寸~1寸3分〕程度。
     現在の市場流通品のヌキは「貫」用の材ではない。[表記変更]

その結果、架構の直方体は、開口部を除いて、上下に何段もの「たが」:「貫」がまわされ、締められていたことになる(この方式は、「書院造」に典型的に示されている)。
さらに、この直方体の上に載せられる桔木を使った小屋組は、一層直方体の変形を防ぐのに効果的であった(いわば、樽、桶の蓋の役割)。

このような架構形態のゆえに、建物の開口部を自由、任意の大きさにすることが、「長押」の時代よりも、より一層保証されるようになったのである。

と言うよりも、「開口部を自由、任意につくるべく、この方式が考案された」と言った方が適切だろう。
「建物」は、単なる「構築物」ではないからである。

   註 このあたりのことについては、07年2月24~26日の
      「建物づくりと寸法」で紹介した龍吟庵方丈、光浄院客殿、
      あるいは「日本の建築技術の展開」で紹介した大仙院方丈
      などの全面開放のつくりを見ていただければ、お分かり
      いただけるのではないかと思う。
      これらの建物は、内法下にはほとんど「壁」がないのである。
      しかし、地震などで大きな被害を蒙ったという事実はない。
     
このように見てみると、「貫」もまた、「たが」の理屈で考えることができそうに思える。
すなわち、林立する柱群を「貫」という「たが」をはめ、締めつける技法は、とりたてて「壁」を設けなくても架構が自立でき、しかも地震などの外力によっても大きな影響を受けないことを、工人たちは、経験で分っていたのである。

考えるまでもなく、もしも自立もできず、地震で容易に影響を受けることが分っていたならば、この方式を長きにわたって使うはずもない。
逆に言えば、長い間、しかも広く、この工法が使われてきた、ということは、それだけ信頼度の高い工法であった、という証にほかならないのである。

   註 当今の《構造専門家・学者》は、この歴史的事実を
      残念なことに、まったく認めないのである。
      と言うより、その事実を知らないか、知っていても
      そこから学ぶ術を持っていないのである。
      その言い訳の最たるものは、「(この技法・工法は)
      現代科学と無縁に発展してきたものであるだけに、
      その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態
      で(ある)」(坂本功)というもの。[文言追加]
                        
     

一方、庶民の建物では、社寺等とはちがい、背丈が低いから、内法上の「小壁」の丈を高くとることはできなかった。つまり、開口上部に何段もの「貫」を通すことはできなかった。
しかし、開口は十分にとりたい。
これはまったくの私見だが、そこで生まれたのが「差鴨居」「差物」の技法だったのではなかろうか。「差鴨居」「差物」に、数段の「貫」の役割を代替させたのである。
これは、「差鴨居」の技法が、商家や農家には見られても、社寺等には一般に見られないことからの推測である。

庶民の建物以外で「差鴨居」「差物」が使われているのは、城郭建築だけではないだろうか。城郭建造には、その地域の工人が参画している。地域の工人すなわち庶民の建物をつくる工人にほかならない。多分、庶民の工人の知恵が城郭建築に注がれたのであろう。

また、武家の住まいにも、「差鴨居」は本格的に使われた例は少ないようだ。
武士たちは、接客を重視することから「書院造」様の空間構成:間取りを好んだ。しかし、大名屋敷の建屋などの大建築を除き、中流以下の武家の住まい:建屋は、架構の点では「書院造」とは違い、内法上の「小壁」の丈がなく、したがって「貫」:「たが」の効果を得にくかった。けれどもそこで、農家や商家の技法はほとんど使われなかったようだ。つまり、書院造の「形式」にこだわったように思える。

以前にも触れたが、明治、大正の震災で被害が多かった家屋には、新興の都市住民の住まいが多かった。それらはほとんど、武家の住まいの系譜のつくりであった。なぜなら、新興の都市住民は、圧倒的に、廃業した武士が多かったからである。しかも、その大半は、地盤の悪い土地に建てられていた。

つまり、「地盤の悪い土地」に建つ「構造的に弱い架構」のつくり、これがあいまって、倒壊家屋を増やしたように考えられる。
震災を蒙ったのは、すべての木造家屋ではなく、被害の少ない、あるいは受けなかった木造家屋もあったのである。

そして、現在のいわゆる「《在来》工法」とは、「新興の建築学者」たちの、「悪い地盤に建つ、華奢(きゃしゃ)なつくりの都市住民の住居」の「救済」から始まった、と考えてよい。新興の学者たちは、華奢なつくりの建屋は、木造建築のごく一部に過ぎないことを知らなかったのである。
なぜ知らなかったか。
日本の文物は捨て去るべきもの、と信じていたからだ。今でも、その風潮が残っていないか?だからこそ、木造工法を、《在来》と《伝統》に分けて平然としていられるのだ。


以上、柱群に「たが」をはめる、という考え方で、いわば強引に、日本の木造建築技術をながめてみた。
それを通じてあらためて感じたことは、建築とは「建物をつくること」であって、「単なる構築物」をつくることではない、という事実。
残念ながら、いま盛んな「耐震補強」は、どうみても「単なる構築物の耐震補強」になっているような気がしてならない。
「人が暮す空間」としての視点が忘れられていないだろうか。

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「たが」について考える-1・・・・「たが」としての「長押」

2008-01-24 18:32:27 | 建物づくり一般
[文言追加、1月24日、23.25]
[タイトルに副題を追加、1月27日、19.27]

ここへきて、「ホールダウン金物使用規定(告示第1460号)が示していること(07年2月20日)」を読まれる方が増えている。なぜなのだろうか。

読まれる方は、そこで書いたことに対して、「ウソだろう」と反発し「金物は入れれば入れるほど安全のはずだ」と不満をおぼえる人、「そうだったのか」と納得される方、とに大きく分かれるのではないだろうか。
今までの経験では、行政や建築確認業務にかかわっている方、筋かいを入れなければ木造建築ではないと思われている方(住宅メーカーを含む)の大方は、反発を感じるらしい。

それはともかく、いったいなぜ「ホールダウン金物」という金物が出現したか、その過程については、「《在来》工法はなぜ生まれたか」のシリーズで触れた。そして「ホールダウン金物使用規定が示していること(07年2月20日)」は、そのシリーズの補足として、難解な表現の「告示第1460号」の内容を、国交省お墨付きの「解説書」の文言に基づいて、詳しく見てみたもの。

現在の建築界には、「《在来》工法は昔からの日本の建物づくりの技術である」、あるいは、「昔の建築技術による建物は地震に弱かった」という「誤解」が蔓延している。
しかし、地震は日本で最近突然起きだした現象ではない。
地震は、日本では昔から頻繁に起きる自然現象。昔の工人たちが、地震と建物について考えないわけがない。

   註 最近、「中公新書」から「地震の日本史」という本が出た。

そういう地域である日本での、古代からの建物づくりの流れ、考え方について、ごく簡単に触れたのが「日本の建築技術の展開」のシリーズ(書き足りない箇所が、まだたくさんある・・)。
これをお読みいただければ、日本の建物づくりの技術に於いて、筋かいをはじめとする耐力壁に依存する「《在来》工法」は、きわめて異質、特異な工法であること、そしてそれが現在主流と見なされるようになったのは、「法定」になったからであって、それが如何に奇異な、不条理なことであるか、お分かりいただけるのではないか、と思っている。

   註 「法定」でなければ、主流にはなり得なかったはずである。
      そういう技術に進展はあるのだろうか?
      あるとすれば、法律に迎合した《技術》だけだろう。
      たとえば、各種の《免震器具》のような・・・・


ところで、先日、煉瓦造あるいは土造の建物の補強に、ring-beam という方法があることについて触れた。そして、それは、いわば木の桶や樽の「たが」に相当する役目を担っているのでは、と書いた。
そして、それを書きながら、古代:奈良時代に発案された「長押」の技法も、見方を変えれば、並び立つ柱を束ねる「たが」と考えることができることに気がついた。
そして、「たが」の視点で、日本の建物づくりの技術を眺めてみる気になった。以下、徒然に書いてみよう。


桶や樽は、側板が互いに接して円柱状の殻を形成し、それを「たが」で締める。
空き樽、空き桶がとりあえず形を保てているのは、「底板」があるからで、「底板」の抜けた空の桶や樽は、外からの力で簡単に壊れる。「底板」があっても、上の方を横から押せば形が歪み、遂には壊れる。「底板」と「上蓋」があれば、空き樽、空き桶でもひしゃげることはない。

桶や樽で、「たが」が効果を最大に発揮するのは、中にものが詰められたとき。外へ出ようとする内容物の圧力と「たが」の締め付けが呼応して、蓋がなくても樽、桶は形を保つ。それに蓋がされれば、一層びくともしない。

   註 日本の樽や桶は、底面より上面が大きいこと、
      そして、底板も上蓋も、円筒に「嵌め込む」方法を
      採っていることに注目したい。


奈良時代の建物は、先ず礎石上に立つ柱を横架材でつないで「直方体の外形線」をつくる。柱は長方形上の礎石に一定間隔で立つが、その足元は、地面が変形しないかぎり、整形を保ち続けることができるが(樽や桶の底板にあたる)、上部の骨組:立体は変形しやすい。

その変形には、直方体が単純に傾く場合と、捩れながら傾く場合が考えられる。
単純に傾く場合は、水平に切って見た断面は整形:長方形のまま、捩れながら傾く場合は、水平断面は平行四辺形になる。
そこで、その直方体を形成する柱群の外周に、水平の「たが」をまわす。
「たが」が足元と同じく「整形を保つ=長方形を維持する」ことができれば、少なくとも、「捩れながら傾く」ことは避けられる。
このような「たが」を何段も設ければ、より一層「捩れ変形」は避けられるだろう(余談:「たが」を隙間なく設ければ、何のことはない、柱をくるんだログハウスになる)。
しかし、この場合の「たが」は、樽や桶のそれとは若干役割が異なる。中にものがつめられるわけではないからだ。つまり、空き樽、空き桶が常時の姿。
だから、「たが」自体が整形:長方形を維持しなければならない。それには、大断面の材で、しかも柱を内外から挟む形で取付ければよい。そうすれば、一定程度、整形を維持できる。
こうして付け加えられるようになった「たが」が、すなわち「長押」である、と考えることができるはずだ。
さらに、「たが」:「長押」をまわすことで、捩れて傾くことだけではなく単純に傾くことも、完全とは言えないが、避けられることも分ってきた。

こうして一定程度安定した直方体に「小屋:屋根」をかければ、「小屋:屋根」のつくる立体は、直方体上部の整形を維持する:長方形を維持する手助けをし(樽や桶の上蓋に相当する)、一層直方体が捩れることを低減する。

次いで、この架構に「壁」や「開口装置」が後入れ:充填される。この「壁」は、さらに整形を保つのに有効に働く。ときに、「開口装置」も同様の働きをすることがある。

奈良時代に採用された「長押」工法を、以上のように、「たが」の理屈で考えることができるのではないか。

   註 いまでも、日曜大工で、台のような四面が抜けた直方体を
      つくるとき、形を安定させる有効・簡単な方法である。


古代の工人たちも、日ごろの工作のなかで、柱・梁でつくる直方体の変形に対して、「壁」が有効に抵抗してくれることは知っていたはずである。
では、なぜ、「壁」に頼ろうとしなかったのだろうか。

それは、彼らは、単に「構築物」をつくればよい、とは考えていなかったからだ。

単なる「物」をつくればよいのならば、「箱」をつくることに専念しただろう。それならば、簡単に安定した「構築物」:立体物がつくれる。
しかし彼らは、「それでは『建物』にならない」ことを知っていたのである。

「建物」とは、そこを拠点に「人が暮す場所:空間」。

   註 今の《木造の専門家=在来工法の信奉者》は、はたして
      「構築物」と「建物」の違いを、考えているのだろうか。
      「建物」の耐震を考えないで、「構築物」の耐震ばかり
      考えていないだろうか。[文言追加]

日本では、有史以前から、建物を木でつくってきた。材料の木が容易に得られ、しかも加工しやすい材料だったからだ。
     
   註 木の得にくい地域だったならば、土や石を使っただろう。

木でつくり続けてきたことで、任意に開口がつくれ、任意に壁がつくれ、しかもいつでも暮しに応じて任意に取り替えられ、ときには移し替えることもできる・・、それが木でつくる建物の特徴であり、そして、そのようにすることが、木の建物のもつべき必須の要件であることを、日ごろの暮しを通じて、身をもって知っていたに違いない。
それゆえ、「壁」に頼ることをせず、工夫をこらして柱・梁を先ず建てる方式にこだわったのである。
そして、この「こだわり」があったからこそ、「長押」の工法は生まれたと考えられる。

   註 壁の量を一定程度とらなければならない、などという制約とは
      まったく無縁だった。
      これは土の建築、石の建築との大きな違いである。

まだ「長押」が構造材:補強材=ring-beam として使われていた奈良時代~平安時代にかけて、特に公家系の建屋に「長押」が多用されている。
それは、彼らが広い屋敷に住み、建屋自体を開放的につくった、つくりたかったからだと考えられる。もっとも、建屋の中には、「塗籠」のような空間もある。
彼らのつくる建物は、全面開け広げることも、全面閉じることも、任意にできたのである。

一方、そのころの民衆の住まいの建屋は、絵図などでしか分らないが、おそらく、屋敷をもたないため、四周をほとんど壁で充填した閉鎖的な空間だったろう。ゆえに、「長押」による補強は要しなかったと考えてよさそうだ。


では、次代の「貫」は「たが」: ring-beam の考え方で説明がつくだろうか。
次回に考えてみたい。

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「開発」計画・・・・その拠りどころは何なのか

2008-01-22 01:07:14 | 居住環境

[解説文言追加:1月22日23.22]

1月12日、災害復興の名の下に行われた区画整理事業によって、長年住み慣れた町が変貌してしまい、目の見えない方の「心の地図」が消されてしまった、という新聞報道を紹介した。
そして、実は、目の見える人も、日ごろ、「心の地図」「頭の中の地図」を拠りどころにして暮しているのであり、だから同様に「頭の中の地図」を消されてしまっているのだが、ただ、そのことに気付いていないだけなのだ、とも書いた。

しかしおそらく、この点についての認識の欠如、つまり、人は日常「頭の中の地図」を頼りに暮しているという認識の欠如は、とりわけ、現代のいわゆる「都市計画・設計、地域計画・設計」「建築計画・設計」にかかわる専門家たちに於いて著しいのではないかと思う。
なぜなら多くの「計画・設計」は、「公共のため」という「大義」の下、この認識を欠いたまま、あたかも白紙の上にフリーハンドで描くかのごとくに為されているからだ。

  註 このような「頭の中の地図」の存在を忘れた考え方の設計を
     病院を例にして、06年11月23日に触れた。
     「道・・・・道に迷うのは何故?」参照。

上に掲げた3枚の航空写真は、いま日本中で最もはなばなしく「開発」が行われていると考えられる「つくば」界隈の、撮影時の異なる写真である。
上から、①戦後間もなくの1945年、米軍の撮影、②研究学園都市の開発が始まったころの1976年、国土地理院の撮影、そして、③最近のつくば新線開通後のgoogle- earth からの転載。①と②は同一縮尺(①②は原版の撮影範囲が異なっているので、「刈間集落」を目印にして見てください)。

この一帯は、太古よりの河川の氾濫原と言ってよく(07年12月18日、「千年前の利根川周辺」の地図参照)、霞ヶ浦や牛久沼にそそぐ何本かの河川のほかは、台地状の土地が広がっている。それらの台地は、一見可耕地・耕作地、居住可能な地に見えるが、実は全てがそうなのではない。
氾濫原であるため、粘土層、腐植土層、礫層が数メートルずつ交互にあり、堅い盤に到達するには40メートルほど掘らなければならない(江東区とほとんど同じだという)。
また、良質の地下水も、その程度の深さでないと得られない。
実際には、ほんの数メートル掘ると水は出るが、それは上層の粘土層上に溜まった水。降った雨が、浸透してそこに溜まったもの。飲み水にはならない。逆に言うと、水はけもきわめて悪い。だから、つくばでは、今でも雨が降ると、非舗装部分の水が溢れ、あちこちに水溜りができる。
このことは、台地上の大部分が、水道ができないかぎり、居住にも向かないことを意味していて、台地上には、ほとんど住居址など古代の遺跡がない。
そしてそこは、雑木林や松林となり、燃料が石油やLPガスに替るまで、長いこと周辺の集落の人びとの薪炭林の役割を果たしていた。
   
   註 人びとは、台地を刻む大小の谷地田の周辺に集落を構えていた。
      これは航空写真、特に1945年の写真でよく分る。

また、江戸時代には、この薪炭林で得られた薪炭は、水運で江戸に運ばれていたという。写真にある「刈間(かりま)」集落「上宿」は土浦~下妻、北条~谷田部の街道が交差し、元は、街道筋の半商半農の集落であった。

①の1945年の頃は、台地上はほとんど赤松林になっていた。戦争のため、燃料:松根油を得るために松が植えられたのである。そのことを除けば、江戸時代以来の姿を残していると言えるだろう。
この頃、この一帯では、多分、土浦と下妻を結ぶバス路線以外、徒歩が交通手段だった(土浦、下妻、そして筑波山麓・北条へは、それぞれおよそ15キロほど、歩けば4時間)。

この台地に、戦後、満蒙開拓から帰国した人たちが数多く入植した。つくば市内に松見・竹園・梅園という名のついた場所があるが、それらはその人たちの入植地の名という。そのほかにも入植はしたが諦めざるをえなかった土地が、あちこちに残っている。それほど、開拓には不適な土地だったのである。

②の1976年の写真には、自動車研究所の周回高速実験コースと研究学園都市の特徴的な南北に「鼓型」をした街路が見える。
なお、「鼓型」をなす二本の道路の一番狭くなっている所の間隔が1キロである。

自動車研究所のコースは、1960年代につくられたらしい。この頃は燃料がガスに替りだし、薪炭林:雑木林が荒れだした頃。研究学園都市の開発が始まる15~20年ぐらい前の計画。コースの用地は、1945年の地図から推定すると、林地と少しの畑地のようで、集落や水田は含まれていないようだ。コース内の畑地、林地へ行く道が見えるから、そこへの出入りは自由だったと思われる。

刈間集落の右に見えるのが、建設が始まった学園都市の街路。建物はまだ少なく、公務員宿舎、筑波大学など僅か。
06年12月6日に、この刈間集落を通る街道をはじめ、多くの道路が学園都市の開発計画で分断されたことを書いた(「道・・・・つくばの道は」参照)。なぜ、従来の街道を無視するのか、と訊いたところ、計画担当者から、以前よりも多い交通量をまかなえる道路を代替につくったから問題ない、という返事をもらい驚いたことも書いたと思う。
実は、その返事にこそ、人の空間認識のしかた、「頭の中の地図」の存在についての認識欠如が示されている、と言ってよいだろう。

  註 従来の道は、今は「多くの交通量」をまかなえるはずの
     新設道路の渋滞を避ける「抜け道」化している。

12月6日のときは地図だけで説明したが、航空写真で見れば、なぜ昔の街道がそのようなルートを採っているのか分り、そして、いかに無残に「開発」がそれを破壊したかもよく分る。
そして、あたりを歩いてみると、「心の和む空間」と、「無味乾燥な空間」とがないまぜになっていることを実感できる。もちろん、前者は昔の道筋である。
しかし、最近は、特につくば新線開通後、ますます「無味乾燥な空間」が増える一方だ。ちなみに、つくば新線は、刈間集落の真下をトンネルで抜けている。
この鉄道もまた、これまで培われてきた一帯の地図を破壊してしまった。

なお、つくば新線は、日本自動車研究所のコース移転地内を抜けていて、そこが現在、学園都市の新開発拠点となっている(「筑波研究学園」駅)。

  註 今回は触れないが、関西・京阪神の私鉄、特に京阪、阪神と
     阪急のルートの採り方は比較すると、明治の人間と、大正・
     昭和以降の人間の考え方の違いが、きわめて顕著に分る。
     関東では、東武、西武、京王、京成と東急、小田急の違い。
     これについてはいずれ詳しく見てみたい。
     そして、つくば新線は、阪急型の延長上にある。

すべての土地・大地には、かならず地物があり、自然の法則により成型された地形があり、植生を生み・・・、そしてそれらを勘案して人びとは暮しを営んできた。これが、この大地の歴史であり人の居住の歴史にほかならない。

しかし、現代の「開発」は、人が生きてゆく上で必須な「心の地図」「頭の中の地図」の存在はおろか、それを描く拠りどころとなっている地物、植生・・・をも、まったく無視してしまうのがあたりまえになってしまった。
しかし、人為的な計画都市:条里制の平城京、平安京では、そういうことはしていない。
私の知るかぎり、現代の開発のような暴挙は、現代以外では、古代ローマ帝国や、アメリカ大陸、列強諸国の「植民地」に於いてしか例がないのではないかと思う。
つまり、多くの「計画者」は、相変わらず、専制的「植民地主義者」なのだ、と言ってよいのかも知れない。[解説文言追加]

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煉瓦造の建物・・・・煉瓦造は弱い?

2008-01-18 12:49:51 | 煉瓦造建築

[説明追加:15.09][同:1月19日、9.23] なお、一時(二時間ほど)、当方のミスで画像が消えていました。


先日、煉瓦造建物の「破壊実験」のTV放映について紹介した。
おそらく、あのTV映像を見た人は、煉瓦造の建物は危ないものだ、と思ってしまったに違いない。その意味では、悪しきプロパガンダと言ってもよいのかもしれない。

先回、この「破壊実験」は、現地の実際の建物とは「似て非なる」試験体で行っている、とだけ書いた。
今回は詳しく見てみよう。
そのために、先回防災科技研のHPから転載したパキスタン北部の煉瓦造住宅の工事中の写真と試験体の写真を再掲した。

先ず、開口部を詳しく見てみる。

パキスタン北部の住宅の写真は、煉瓦の段数から推測して壁の高さが約2.1m程度。開口部の頂部までが積まれていて、その上に、さらに7~8段程度積まれるものと考えられる。
当然、開口部の上に煉瓦を積むための用意が必要で、開口部には、見付、見込とも厚手の木材で、上枠:楣(まぐさ)と下枠:窓台・敷居の間を、左右の縦枠が支えるローマ数字のⅡ形をした「四方枠」が設けられている(さらに、中間に、2本の方立が立ち、上枠を支えている)。[説明追加]
上下の枠に「角柄(つのがら)」があることに注意したい。なお、出入口となる開口部の敷居は仮止めのようだ。

  註 「角柄」:方形の枠からとび出た部分を言う。納め方の一つ。
     一般に西欧の四方枠の隅は「留め」が多いが、
     古来、日本では縦勝ちに納める(縦枠に横枠を取付ける)のが
     一般的で、時に縦枠に「角柄」を出す納めが用いられている。

これに対して、試験体の開口は楣を細い材で支えているだけ。窓の楣は、こころなしか撓んでいるようにも見える。

つまり明らかに、試験体のつくりかたは、実際の建物とは「似て非なるもの」。

上図の左側は、先に紹介した“EARTH CONSTRUCTION”の Openings:Principles の解説からの抜粋である。
図の1~3番目の図は、楣だけを設けた開口の場合の様子。重力だけで、このような変形・亀裂が生じる、との説明図。
そして、4番目の左側の図は、推奨している方法である。
上下の枠は、左右に「角柄」を出している。これにより、隅部に力が集中せず、したがって亀裂を防止できる。
図は土のブロックによる構築を例にしているが、煉瓦積でも同じと考えてよい。

つまり、写真の工事中の例は、まさにこの方法を採っていることになる。
一方、試験体のそれは、重力だけでも危険をはらみ、採るべきではない方法。

なお、4番目の図の右側は、土のブロックによる構築の場合、開口の下部を煉瓦積にすることで亀裂を避ける方法である。
煉瓦造の場合は、左右の煉瓦部と縁を切る、あるいは、その部分だけ見込み(壁厚)を変えたり、後積みとする。
要は、開口部は、床まで開口としてつくり、腰になる部分は別の材でつくる(余分な開口を充填する)と考えればよいのである。

   註 この方法は、現在でも、RC造の壁に開口を設ける場合に
      応用できる。
      実際、30年ほど前に、この方法を採った建物では、
      現在でも亀裂が生じていない(腰はコンクリートブロック、
      あるいは木軸板張り)。


次に、壁の積み方を見てみよう。

工事中の建物には、窓下枠(窓台・敷居)の下、上枠:楣の上、そしてこの二段の中間に白っぽい帯が見える。
これは何か?
たまたまそうなった、とは思えない。

この部分と他の部分とでは目地材が異なり、白っぽいところはセメントモルタル、他は土あるいは砂漆喰とも考えられる。
あるいは、白っぽい段の部分には、壁を一周して、何等かの補強がなされているとも考えられる。

壁体の数段ごとに設ける「壁を一周する補強」のことを、“EARTH CONSTRUCTION”では ring‐beam と呼んでいる。

  註 これは、桶の「たが」のような役割をはたすもの
     と考えられる。[註記追加]

同書の Walls:reinforcement and ring-beams の解説からの抜粋が、上図の右側の列の図。
補強に使用する材料として、いくつか例が挙げられている(どの材料、方法を採るかは、地域の状況による)。

残念ながら、実験者のHPでは、壁の白っぽい帯についての説明はない。
しかし、現地の実例として例示する以上、具体的にその工法を調べ、開示するのが当然。そして、試験体もそれに倣うべきだろう。
もしかして、その段階の調査が行われていないのではないか?

いずれにしろ、現地の実際の建物は、煉瓦造なりの工夫をこらしている「本格的なつくり」と考えられる。
これに対して、試験体は、あまりにもひどすぎる。

いくらわが国では煉瓦造工法の歴史が明治、大正の大地震を契機に途切れ、ゆえに煉瓦造の知識がない、と言っても、あまりにもお粗末。組積造の原理、というより「構造の原理」をはずれすぎている。

実は、日本には、見事な組積造の事例が存在する。城郭等の石垣、九州に多い石橋・・である。
これらは長き年月にわたりびくともしていないのである。
しかもこれらは、いずれも、「構造力学」が存在しない時代の構築なのだ。


少なくとも、こういうお粗末な実験・研究を基にして、煉瓦造の先進国である諸国に対して、「耐震指針」を出し、「耐震指導」を行おうとするような愚行は、やめてもらわねばならない。

“EARTH CONSTRUCTION”には、地震などへの対処法も書かれているので、おって紹介したい。

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“EARTH CONSTRUCTION” ・・・・内容紹介

2008-01-16 17:32:24 | 煉瓦造建築
先日紹介した“EARTH CONSTRUCTION”(B5判、362頁)の表紙と序文である。

  註 序文は訳そうとも考えたけれども、下手な訳より、
     原文を読んでいただく方が、と考え原文を転載。

この本は、下記から1994年に公刊されているが(Originalは1989年にフランスで刊行)、序文にあるように、これは、1976年にバンクーバーで開催された国連のHuman Settlements:人びとの居住・定住に関する国際会議において、提示された提言が基になっている。

  註 英国のINTERMEDIATE TECHNOLOGY PUBLICATIONSの出版。
     [ISBN 1 85339 193 X]で調べられる。
     私が購入したのは1995年ごろ、7500円でした。

要は、経済的に恵まれていない地域の人びとにとっても、earthすなわち「土」は容易に得られる材料であり、earth constructionすなわち「土を使った工法」は、誰にでも自分たちで(自力で)つくれる工法である、として推奨し、なおかつ、実施するにあたって気をつけなければならない点を、各面から考察、具体的に示したガイドブックである。
その内容の密度の濃さは、以下に紹介する目次を見るだけでも分る。

この書の紹介する「土を使った工法」は、いわゆる「版築:練った土を形枠内に詰めて乾燥させる工程を繰り返す方法」、「土の塊を積む方法」、「日乾し煉瓦(土の塊)を積み上げる方法」、「焼成煉瓦を積み上げる」方法など多様で、それらを各種の手段で補強する方法も含まれる(補強材は、木材、竹、鉄材など、その地で得られるもの)。後掲の「目次」の8.Construction methods を参照。

どのような方法を採るかは、「地域の状況(気候、地質、生活様式、経済状態・・)に応じて決まる」のであって、工法に優劣の順番はつけていない。
そして、「それぞれの地域で、その地域の現状に応じて、よりよい暮しが行えるようにすること」というのがこのガイドブックの基本方針・思想であることは、大いに注目してよい。
なぜなら、日本の各種の「指針」「指導」は、地域の特性や暮しの様態を見ずして、一律に推し進めようとするところが特徴だからだ。
これは、一言で言えば、研究者の、質の違い、視野の狭さ、あるいは専門性に対する誤解・・に因があるのだろう。

それはさておき、目次を紹介する。

1. Earth Construction
   01 Diversity(多様性)
   02 Universality(普遍性)
   03 History:Africa 
   04 History:Europe and the Mediterranean  
   05 History:The East
   06 History:The Americas
2. Soil
   01 Soil formation(土の組成)
   02 Nature of Soil(土の性質)
   03 Air and Water 
   04 Organic and mineral matter 
   05 Clay types
   06 Binding forces 
   07 General properties 
   08 Fundamental properties
   09 Geotechnical classification(地質学的分類)
   10 Pedology classification(土壌学的分類)
   11 Specific soil types(特有の名を持つ土:ラテライト=赤土など)
   12 Distribution of soils(世界の土壌分布図)
3. Soil identification(土の検査・鑑定)
   01 Prospecting(試験体の採取)
   02 Preliminary tests(予備的テスト)
   03 Field classification procedure(屋外・現場での分類手順)
   04 Visual analysis of fines(試供体の視認分析)
   05 Texture:grain-size distribution analysis
   06 Texture:diagrams
   07 Plasticity
   08 Compressibility
   09 Cohesion(粘度・粘性)
   10 Mineralogy (鉱物性)
   11 Chemistry 
   12 Geotechnical classification
4. Soil stabilization
   01 Principles
   02 Mechanisms
   03 Densification by compaction
   04 Densification by grading
   05 Fibres(繊維、すさ)
   06 Cement(接合材):principles
   07 Cement:practice
   08 Lime(石灰):primciples
   09 Lime:practice
   10 Bitumen(瀝青、アスファルト):Principles
   11 Bitumen:practice
   12 Resins(樹脂)
   13 Natural products(自然素材)
   14 Synthetic products(合成素材)
   15 Commercial products
5. Soil suitability
   01 Soils:general evaluation
   02 Construction methods
   03 Rammed earth(突き固めた土:版築)
   04 Adobe bricks(アドービ、日乾し煉瓦)
   05 Compressed earth blocks
   06 Stabilization:general evaluation
   07 Fibres annd mineral aggregates(すさと骨材)
   08 Cement
   09 Lime
   10 Bitumen
6. Tests
   01 Principles
   02 Identification and development tests
   03 Performance and characterization
   04 Control and acceptance tests
   05 Laboratory equipment
7. Characteristics
   01 Earth as a construction material
   02 Mechanical properties
   03 Static properties
   04 Hydrous properties(含水状態の特性)
   05 Physical properties
   06 Thermophysical properties
   07 Norms,standards and recomendations
8. Construction methods
   01 Earth construction methods
   02 Dugouts(壕:地面を掘る)
   03 Earth sheltered space
   04 Fill-in(隙間に充填 ex現在のCBなどと同じ方法)
   05 Cut blocks(固い地面をブロック状に切る)
   06 Compressed earth(版築に相当)
   07 Shaped earth(練土を成型)
   08 Stacked earth(土の積み上げ)
   09 Moulded earth(鋳型による成型:日乾し煉瓦、焼成煉瓦など)
   10 Extruded earth(押出し成型)
   11 Poured earth(柔らかい練土を注ぐ:コンクリートの打設と同じ)
   12 Straw clay(藁を粘土で固める:セメント木毛板に類似)
   13 Daubed earth(塗り土)
9. Production methods
   01 Production technology
   02 Excavation and transport(掘削と輸送)
   03 Pulverization and mixing(粉砕と混合)
   04 Rammed earth:production and products
   05 Rammed earth:preparation of the earth
   06 Rammed earth:principles of formwaorks
   07 Rammed earth:types of formworks
   08 Rammed earth:formworks for corners
   09 Rammed earth:rammers
   10 Adobe:production and products
   11 Adobe:preparation of the earth
   12 Adobe:manual production
   13 Adobe:mechanized production
   14 Compressed blocks:production and products
   15 Compressed blocks:pulverization(粉砕)
   16 Compressed blocks:screening and mixing(ふるいかけと混合)
   17 Compressed blocks:principles of compression
   18 Compressed blocks:types of press
   19 Compressed blocks:manual press
   20 Compressed blocks:motorized press
   21 Compressed blocks:mobile units
   22 Compressed blocks:industrial units
   23 Factories
   24 Production-product quality relationship
10. Design guidelines
   01 Water pathology(水のもたらす症状)
   02 Structural pathology(構造に生じる症状)
   03 Foundations:priciples
   04 Fouundations:design details
   05 Base courses:principles(根積み:基底部)
   06 Base courses:desin details
   07 Walls:principles and mortars
   08 Walls:brickwork
   09 Walls:corners and partitions
   10 Walls:reinforcements and ring-beams(補強材と輪状補強)
   11 Openings:principles
   12 Openings:design details
   13 Openings:arches
   14 Ground floors:principles
   15 Ground floors:design details
   16 Floors:priciples
   17 Floors:design details
   18 Flat roofs:principles
   19 Flat roofs:design details
   20 Pitched roofs:principles
   21 Pitched roofs:design details
   22 Vaults:principles
   23 Vaults:design details
   24 Cupolas(半球天井・ドーム):principles
   25 Cupolas:design details
   26 Fireplaces
   27 Plumbing and electrical systems(給排水および電気)
   28 Renovation and conservation(修繕および維持管理)
11. Disaster-resistant construction
   01 Earthquakes:origins and mechanisms
   02 Earthquakes:natunal origins,magnitude and intensity
   03 Earthquakes:impact on soil structures
   04 Earthquakes:pathology of structures
   05 Earthquake-resistant engineering measures
   06 Principles of earthquake-resistat construction
   07 Earthquakes:some recomendations
   08 Storms:origins and mechanisms
   09 Hurricanes:some recomenndations
   10 Floods: origins and mechanisms
   11 Floods:some recomenndations
12. Earth wall finishes
   01 Basic considerations
   02 Surface protection
   03 Plasters and renderings(漆喰塗壁と下塗り)
   04 Earth renderings and plasters
   05 Paints and sealers
   06 Whitewashes(液状にした石灰)
   07 Slurries(液状にした土)
   08 Pathology
   09 Good practice
   10 Lathing and anchoring(木ずりなど下地づくりとアンカー)
   11 Finishes and decorations
   12 Tests
Bibliography
  
各節は、図と説明を見開き単位にまとめているので見やすい。
そのいくつかを、おって紹介する。     
コメント (2)
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災害復興と再開発・・・・これでいいのか?

2008-01-15 11:40:00 | 居住環境

阪神・淡路震災後の兵庫県や神戸市のかかわる「復興」について、「これでいいのか」と考えさせられる報道をいくつか紹介する。

上は、1月14日の毎日新聞朝刊の神戸新長田駅前の「復興市街地再開発事業」の現況についての記事。写真は同地区の航空写真、google earthからの転載。

そして、昨年1年間の兵庫県内の「災害復興住宅での孤独死」を報じる15日の毎日新聞ネット版の記事。この記事は新聞にも同文で載っている。
また朝日新聞にも同様の記事が載っているが、同紙では、毎日と同じデータに加え、「00年以降、独居死者数は522人に上り、復興住宅で家族らと同居して亡くなった282人の1.85倍にのぼる。性別では、男性が339人で、女性の183人を大きく上回っている。」と報じている。

また、15日の毎日新聞朝刊には次のような記事も載っている。

・・・・
国は05年、「災害時要援護者の個別(一人一人)の避難計画」の
策定を自治体に求めた。だが、神戸市保健福祉局の担当者は
「人のつながりが薄い大都市では無理」と漏らす。
同市の65歳以上の一人暮らしと75歳以上だけの世帯は計約6万。
生活実態の情報収集は約2100人の民生委員に頼る。
個人情報を守る意識が高まり苦労は増すばかりだ。集めた情報も、
福祉目的以外の使用は本人の同意が必要だとして、市は自治会や
消防団には伝えていない。災害発生直後には伝える方針だが、
間に合うのか――。
・・・・
長野県松本市は、勉強会などを開き住民の主体的な動きを促そう
としている。・・防災モデル地区に指定された城北地区では、
高齢者や障害者、小学生がいる家庭を町内会長らが訪れ、日常の
居場所、昼間よくいる部屋の場所までカードに記す活動を続け、
400人近くが登録した。
情報は市に渡さない前提だったが、「提供した方が良い」という
声も出始めた。
市はモデル地区を増やす計画だ。来年度には、全市で要援護者の
登録を呼びかける制度も始める。
同市など各地で防災の街づくりに協力する「コラボねっと」の
石井布紀子取締役は「行政だけでできる範囲は少ない。コミュニティ
を行政がサポートすれば前進するはずだ」と「地域の力」の大切さを
訴える。

以上は毎日新聞15日朝刊 特集「災害格差:阪神・能登・中越沖」より抜粋
全文は「毎日.jp」にも載っています。


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区画整理と「心の地図」・・・・暮しと防災

2008-01-12 01:23:25 | 居住環境

間もなく阪神・淡路震災から13年。
数日前の現地の新聞:「神戸新聞」のネット版に、「震災13年」という特集として、上掲の記事が載っていた。

震災後、復興に際して、防災上の観点から区画整理が行われた結果、目の見えない人にとって、自由に歩けない「分らない町」に変ってしまった、という記事。
なぜかと言えば、長年暮していると、目が見えなくても、実際に街並みが見えなくても、心の中に町の地図が自由自在に描かれていたのだが、区割りが変った結果、一から「心の地図」のつくり直しが必要になってしまったのである。
記事では、この自由自在に描けていた地図を「心に描いた地図」と表現している。別の言い方をすれば「頭の中に描く地図」「頭の中の地図」である。

   註 ことによると、目の見えない人は、見える人よりも、
      震災後でも、町なかを自由に歩けたのかもしれない。

   註 あの地震の直後、道幅が狭く、消防車が入れなかった、
      だから、区画整理で道路拡幅が必要、と説く《識者》がいた。
      私は、道幅の狭い所向きの消防車を用意してないのか、と
      訝った記憶がある。
      私の住む農村地帯には、大小の消防車がある。
      そうでなければ道の狭い集落の火事に出向けないからだ。 


実は、目の見える人たちも、皆「心の地図」「頭の中の地図」を、常に描いて日ごろ行動しているのだが、それに気付いていないだけである。

最近カーナビゲーションシステムが車の常備品のようになっているが、日ごろ住み慣れた地域でカーナビに頼る人はいないだろう。どこになにがあり、どう行けばよいか、即座に分るからだ。なぜ分るかと言えば、日ごろ目の前に広がる事物を見て、「心の地図」、「頭の中の地図」が描けているからである。

見慣れたものがすっかり変ってしまうと、目の見える人でも、元の「心の地図」「頭の中の地図」は使えなくなるが、目が見えるだけに新版をつくることは見えない人に比べれば数等容易である。
しかし、目の見えない人にとって、それがかき消されてしまうことは、しかも人為的に急激に消されてしまうことは、きわめて耐え難いことなのは想像に難くない。

町というのは常に変化するものではあるが、それは徐々に変ってゆくのが通常。そうならば、目の見えない人でも、見える人よりも時間はかかっても、「心の地図」「頭の中の地図」も、描き換えられる。しかし、広範囲にわたり、短時間のうちに変ってしまったら、それはきわめて難しいことだ。


常磐新線、通称TXの開通とともに、つくば市近在の農村地帯では、かつての道が新道に付け替えられ、様相がすっかり変ってしまい、これまでのイメージが激変し、わけが分らなくなってしまっている。
もともと「筑波研究学園都市の開発」は、一言で言えば、農村に暮す人びとの「心の地図のぶち壊し」だったのだ(2006年12月6日「道・・・・つくばの道は・・」参照)。

農村地域の道は、微妙に曲がりくねり、道の分岐点はきまってY字型やカーブの地点である。つまり、車にとっては危ない箇所が分岐点、交差点になっている。
これは何故か。
歩くことが基本であった時代、人は無理をしないで地形に素直にしたがって歩くから、ほぼ等高線状に道ができ、あるいは分りやすくかつ歩きやすさを重視するため、尾根筋や谷筋を道に選んだ。
そして、道が分岐するときは、目印になる場所で分かれる。目印は、地形が大きく変る場所であったり、地物であったりする。それは、遠くに見える景色(たとえば筑波山)の場合もある。

目的地へ行くためには、直角に曲がるよりも斜めに分かれる方がスムーズ。
ある地域の人たちが、ある目的地へ向うことを主に考えて道がつくられる。だから分かれ道はY字型になることが多い。
Y字の片方の先端から来てもう一つの先端へV字型に曲がることは、めったにないこと。今、そういったV字の道を車で通るには、ハンドルを数回切り替えすことも必要になる。しかし、もともとこれは人の道、車の都合など考えていないのである。

こういう農村地域の道は、初めて訪れるときには、どこにいるのか不安になるが、住み慣れてしまうと何のことはない。なぜなら頭の中に地図が描かれてしまっているからだ。よそ者は、まわりが見えない夜は歩けないが、そこに暮す人は楽に歩ける。これも、「頭の中の地図」を基にして行動しているからだ。


かつての町や村は、こういう「人のあたりまえの行動」を基にして生まれていたと言ってよいだろう。なぜなら、町や村は、人があたりまえに毎日を過ごす所だからだ。
それに対して、近代的な町の計画は、いわば「ベルトコンベアの計画」になってしまった。人は、自らの感覚であたりまえな行動をすることが出来ない。案内板、サインが必要不可欠になっている。そして、そういう所ほど、「心の地図」「頭の中の地図」を描きにくいから、カーナビが必要になるのである。
住み慣れた町、住み慣れることの出来る町には、案内板はいらない。


人はコンベア上の物品ではない。目の見える人も、見えない人も、基本的に、「心の地図、頭の中の地図を拠りどころにして暮している」という事実、真実を、あらためて見直す必要があるように私は思う。

「防災」のために「日常の暮し」が壊される。「人にやさしくない防災」。「防災のためだけの防災」。これは、「耐震のためだけの耐震」同様、やはりどこかが間違っている、ボタンの掛け違いがあるのではなかろうか。
人は防災、耐震のために毎日を過ごしているのではない。
毎日を過ごしてゆくことを護る、これが防災であり耐震、つまり「対震」なのではないだろうか。

   註 「道」については、同様のことを 2006年11月23日、同11月25日にも書いています。 
コメント (1)
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木造家屋と耐震・耐火研究・・・・暮しの視点は?

2008-01-09 19:48:05 | 地震への対し方:対震

[字句追加:21.38][重複文言修正:1月10日10.38]

先回は年末のTVで放映された「気になる《研究・実験》」について書いた。
実は、暮れの新聞にも「気になる《研究》」の報告記事が載っていた。
上は、その記事のネット版からの転載である。

  ただし、この場合は、プレス・リリースではなく、
  あくまでも上記記事を読んでの感想である。

そして、記事を読むかぎり、私は、この[研究]に、先回の[煉瓦造破壊実験・研究]と同様の「違和感」を感じたのである。

関東大震災の火災拡大は、家屋の倒壊が誘引。それはその通りだろう。
気になるのは、「当時の木造建物すべてが現在の耐震基準を満たしていれば...」以下の部分。
これは、「だから、(大震災時の火災を回避するために)木造家屋は、すべて現行の耐震基準(いわゆる新耐震基準)で建てるべきだ」、さらには「新耐震基準でつくられていない木造家屋は、耐震補強すべきである」と続けたいのだ、と推察される。

ところが、上記記事に依れば、その「考察・解析」の前提には、「倒壊家屋数が大きいところ=震度が大きい地域」という「仮定」があるらしい。この「仮定」に従うならば、「倒壊が少ない⇒倒壊が少ない地域は震度も小さい」ということになるが、本当か?論理が自家撞着を起こしていないか?
つまり、「倒壊家屋件数の大小で震度を推測し、出火件数と相関させる」という手法は、あまりにもご都合主義、予定調和的、「結論が先にある分析」ではないか、ということ。よく言ってもaboutに過ぎる。


この点がきわめて大事なのだが、関東大震災では、すべての木造建物が倒壊したわけではない。そして、この「研究」の「仮定」によれば、震度が小さかったら倒壊しなかった、ということになるのだが、倒壊しなかった木造建物は、震度の小さい地域にあった、ただそれだけの要因で倒壊しなかった、と断定するのは適切ではない。

関東大震災の後、しばしば、木造と煉瓦造の建物は壊れた、鉄筋コンクリート造、鉄骨造は強かった、とまことしやかな言説が世間で喧伝された。なかには、言葉は悪いが、これで鉄筋コンクリート造が増える、と震災を喜んだのではないか、と思われる発言をする《専門家》もいた(下記「参考」参照)。
しかし、真っ当な人は、「地震で被害に遭ったのは、材料や構造の種類によるのではなく、一に、設計、構造、施工に意を尽くしているか否かによる」と喝破している。木造、煉瓦造でも倒壊しなかった例は多数存在し、鉄筋コンクリート造でも被災した例があったのである。簡単に言えば、「壊れたのは、壊れるべくして壊れた」のである。

   参考 「大正大震火災誌」(大正13年改造社刊)所載の論説より
     
     「・・鉄筋コンクリートと称する詞が新聞や雑誌に可なり多く
      散見するやうになった、人の口からも度々聞くやうになった、
      吾々鉄筋コンクリートに関係があるものはそれ程通俗化した
      ことを嬉しく思ふ。・・」                (土居松市)

     「・・明治24年の濃尾の大震災は非常に当時の建築家を驚かし、
      その設計、構造、施工に非常な注意を払ふに至った。それ故
      この頃の建築は煉瓦造でも今度の地震(関東大震災)に比較的
      安全で、被害も左程激甚でもなく、火事で焼かれたものでも
      復興は左程困難ではない。その後の建築の方が・・・反って
      油断の為に不成績を暴露したものが多い。・・」 (岡田信一郎)

     「・・最も強固であるべき鉄筋コンクリート建築は、設計者の
      疎漏や工事施工者の放漫によって最も危険なる建物になる。」
                                   (岡田信一郎)
  
たしかに、関東大震災で倒壊した木造家屋が多いのは事実である。
しかしこれは、もう少し別の視点で見る必要があるのではないか。

すなわち、幕藩体制が解体して職を失った各藩の武士のうち、帰農できなかった多数の者たちが、仕事を求めて都会・都市へ集まってきた。ときの政府が、彼らに居住場所を用意したわけではない。
それゆえ、人びとは自前で「とりあえずの住まい」を確保しなければならなかった。それらは、言葉の本当の意味でbarrackだったと言ってよいだろう。
彼らに、どんな地震にも耐える建物にせよ、などと求めることがどうして出来るというのだ。それはあまりにも非情、酷というもの。

つまり、端的に言えば、関東大震災の大被害の最大の要因を建物自体に求める前に、その大きな要因は、「とりあえずの住まい」をつくらざるを得なかった都市への異常な人口の集中にある、という視点を欠いてはならないのではなかろうか。
それは、各国の震災や洪水等の自然災害で被災するのは、決まって、「とりあえずの住まい」で暮さざるを得ない人たちの集まっている地域である、という事実にも現われている。
中南米の地震で、煉瓦造建物の被災がよく見られ、多くの《専門家》はそれを煉瓦造のせいにするのだが、「ちゃんとした専門家」は、古い煉瓦造に被害が少ないことに注目している。地盤の良い所に建てているからである。新たに都市へ集まった人たちは、地盤の良い所に住めなかったのである。
関東大震災で被害の多かったのも、かつては人が住もうとしなかった低湿地、悪い地盤の場所に暮さざるを得なかった人たちの住まい:家屋であった。

実は、これも端的に言えば、現在の「耐震規定」はもちろん「建築法令」自体が、「人びとがやむを得ずつくるとりあえずの住まい:家屋」の耐震性能を高めよう、といういわば小手先の手段に基づいている、と言ってよいだろう。
しかも、そこで規定された諸方策は、人びとが、とりあえずではなく、「落ち着いて、先まで見通して住まい:家屋をつくる」場合には、逆に、大きな障害として結果しているのである。
なぜか。提案される諸方策が、「本格的な木造家屋のつくりかた」を知らないままに考えられたからである。震災被災調査において、そこにこそ「耐震・対震」のヒントがあるはずの、「壊れなかった」建物を見ようとしなかったからである。

建築の専門家は、理科系かもしれない。だからと言って、耐震、耐火といった「物理的な」側面だけを見ていればよいのか。
「住居」「家屋」すなわち「人が暮す住まい」とは、どのようにして成り立ち存在し得るのか、この視点を欠いたなら、それは建築の専門家とは言えない、と私は思う。
ところが、《耐震の専門家》は、ほとんどが、この視点を欠いているのではないか。
「理科」とは、そしてscienceとは、ものごとの筋道・条理を究めることにあるのであり、「住居・家屋」の物理的側面だけを見るのでは、真の意味で「理科」ではないのである。
建築は、人の生活の表れ、ゆえに「社会:人の暮しのありよう」の視点を欠いては成り立たない。この新聞記事の研究の、どこにその視点があるのだろうか。

それゆえ、この新聞記事が紹介している研究に、根本的な点で、私は違和感を覚えたのである。

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煉瓦造と地震・・・・呆れた実物大実験

2008-01-06 19:23:17 | 地震への対し方:対震

[註記に字句(書名の和訳)追加:21.29]

年末に気になるTV放映があった。
パキスタンから取り寄せた煉瓦で造った煉瓦造建物の「実物大試験体」を、パキスタンで実際にあった地震と同じ振動を与えてその挙動を記録する、というもの。中近東に多い煉瓦造建築の耐震性を高めることを目的としているのだという。

放映された「試験体」は、縦・横・高さとも3mの立方体に開口を設けたもの。地震動で、瞬く間に派手に崩壊した。

しかし、私は腑に落ちなかった。試験体の建物が、あまりにもお粗末だったからだ。
私の知っている中東の煉瓦造建物には、こんな「ちゃち」なものはない。
私の手もとのアフガニスタン(パキスタンの隣国)の建築を紹介した書物や、土を材料とした建物づくりを推奨する“EARTH CONSTRUCTION”という書物にも、こんな粗末な煉瓦造建物はない。もしあるとするならば、それはバラック:barrack、「一時の間に合わせに立てる粗末な家屋」だ。バラックの耐震性を高めたいのか?

  註 上記書物の名称は下記
    1)AFGHANISTAN:
       an atlas of indigenous domestic architecture
       UNIVERSITY of TEXAS PRESS 刊
       あえて訳すと、
      「アフガニスタン各地域固有の自力建設建物大観」
    2)EARTH CONSTRUCTION:A comprehensive guide
       INTERMEDIATE TECHNOLOGY PUBLICATIONS 刊

そこで、もう少し詳しく知ろうと思い、実験を行った防災科学技術研究所のHPを見たところ、そこにはこの実験についてのプレス・リリースが公開されていて、パキスタンの実際の煉瓦造家屋と試験体の詳細が紹介されていた。上掲の図・写真はそれからの転載である。

これを見て、あらためて驚いた。驚いた点をいくつか挙げてみよう。
1)現地の煉瓦造家屋と、試験体とは、つくりかたがまったく違うではないか。
  著しいのは開口のつくりかたの違い。
  似て非なるものを、あたかも実物であるかのように装っている。
2)試験体は高さ3mを煉瓦1枚積みに見えるが、たとえパキスタンの煉瓦が
  大きいとしても(3mを34・5枚で積んでいるから、現行の日本の煉瓦より、
  一回り大きいと思われる)それはあり得ない。
  見たところ、現地の実例は1枚半か2枚に見える。
3)なぜ、現地の家屋と同じものを試験体としなかったのか、不可解である。
  3m四方のワンルームという家屋はなく、数室が連なっているはず。
  数室が連なる場合と単体では、強さもまったく異なるではないか。
4)試験体の開口のつくりが、現地のそれに比べあまりにもお粗末である。
  などなど

私はこれを見て、よく平然と、恥ずかしげもなく、現地の実際の家屋と試験体の写真を並べて載せたものだと「感心」した。はっきり言って、これは現地の方々に対して失礼きわまりない。
こんなお粗末な実験で、いかなる「指針」を出すというのか。
もしかして、日本の「建築基準法」を輸出しよう、などと考えているのではないか、といらぬ心配までしたくなる。

私は「富岡製糸場」の設立に関わったフランスの青年の故事を思い出す。
彼は、当時の生糸生産の先進地フランスから招かれたのだが、彼が日本にきて最初にしたことは、数年間、日本の生糸生産地を隈なく歩き回り、日本の生産の仕方を見てまわることであった。当時のフランスの技術を、そのまま日本に植え付けようとはまったく考えなかったのである。
富岡製糸場に設置された器械はフランス製ではあるが、それもすべて、日本での実地調査を踏まえて、彼が日本向けに新に設計したものなのである。

はたして、今回の煉瓦造実験研究者たちは、現地を隈なく調べたのだろうか。
仮に調べたとしても、他の《耐震専門家》と同じく、地震で壊れた例だけを見てまわったのではあるまいか。そして、現地の人びとの暮しの様など見なかったのではないか。
耐震の大事なヒントは、過去の地震で壊れなかったものを見ることで得られるはずなのだが、不可解なことに、《専門家》は決してそれに目を向けない。
そして、人びとの暮しの様を見れば、なぜバラックが建てられるのか、にも思いがゆくはずではあるまいか。

言うまでもなく、バラックは簡単に壊れる。バラックを耐震化する、それは結構だ。しかし、それには費用がかかる、それだけの費用があれば、バラックでない本格家屋をつくる。ないからこそ、とりあえずのバラックなのだ。
問題は、本格家屋がつくれない状況だからこそバラックをつくるのだ、というあたりまえの認識を持つことなのではないか。ここで、妙な「指針」などを出せば、バラックさえつくれない、つまり生活・暮しを維持できなくなる、ということだ。
「研究成果」を誇れる《耐震専門家》はそれでいいのかもしれない。しかし、それでいいのか?
先の“EARTH CONNSTRUCTION”の著者達の考え方は、それとはまったく異なる。

そして私は、ここで、私には程遠い存在の、かつての「地方功(巧)者」をまた思い出すのである(地方功者については、07年6月9日参照)。

なお、“EARTH CONNSTRUCTION”の内容については、近日紹介するつもりでいる。

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野の仏

2008-01-03 01:28:25 | 住まいの構え方

[記事、註記の内容追加:1月3日18.57]

私の暮す旧「出島村男神集落」界隈では、石に彫られた仏様を数多く見かける。
今は、その多くが墓地などにまとめられているが、おそらくあちらこちらから集められたか、あるいは各墓地の「近代化」にともなって集められたか、そのどちらかなのではないかと思う。

上の写真は、その一つ。
仏様を挟んで、右に「十九夜供養」、左には「享保十八年十月十九日、同行十四人」と読める。
「十九夜」というのは「十九夜講」であるらしい。そして、十九夜には如意輪観音に願いをかけたという。だから、この仏様は、「如意輪観音」と思われる。とても柔和ないい顔をしている。
昔から「月待ち」という行事が人びとの間で広く行われていたという。「十五夜」はよく知られているが、他に「十三夜」「十九夜」「二十三夜」など。このうち「二十三夜」は男の、あとの大半が女性の行事で、集落の人びとがその日に集まり、仏様に願をかけたりしたとのこと(近くで、「十三夜・・」「二十三夜・・」の石碑もよく見かける)。
「十九夜」講は、集落の若い女性が安産を願う集まりだとも言われている。そのときの仏様が「如意輪観音」。「如意輪」とは「思いのままに願いをかなえる宝珠」という意味。

ただ、「享保十八年」というのが気にかかる。なぜなら、あたりで見かける石仏に刻まれている年号に、「享保」、それに「天明」が多いからである。

「享保」年間というのは、西暦で1716年から1735年にあたる。徳川八代・吉宗の時代である。
そして、調べてみると、享保16年の冬から気候が不順で、翌年の享保17年(1732年)が、後に「享保の大飢饉」と呼ばれる年なのだ。
「享保の大飢饉」は、梅雨時から長雨・冷夏が二ヶ月以上にわたって続き、主に関西、特に瀬戸内の凶作が著しかったと言われている。
当然、関東地域がその影響を蒙らないわけがない。なぜなら、今でも茨城は、冬の終わりから梅雨時ごろ、東海上からの北東気流の影響を受けやすい地域。オホーツクから流れ下る海流起源の冷たい北東風が吹きつけ、寒い夏になる場合がある。いわゆる「冷害」は、この北東気流によるのであり、東北ではこれを「やませ」と呼んで忌み嫌っている。

「男神」は、稲作主体の集落である(12月7日の「屋敷構え-3」で紹介の一帯が中心)。

   註 「茨城県の地名」(平凡社)によると、男神村は「天正期以降佐竹藩、
      慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に移封後は水戸藩領となるも、
      正保3年(1646年)以降は天領。元禄郷帳では村高117石余。
      享保13年(1728年)の人数44人、宝暦9年(1759年)の戸数14、
      人数63」とある。 
     
おそらく、石仏がつくられた享保十八年の前年、つまり「大飢饉」の年、ここでも亡くなられた方々(多分、幼い子どもたち)がおられたのではなかろうか。
その供養のための石仏だったのでは。日ごろの「十九夜」講で、石仏をつくるとは考えられない。
「同行十四人」というのは、註記したデータから考えて、集落を構成する各戸と解釈できるのではなかろうか。

そして石仏に多い「天明」。これも飢饉の年。天明3年(1783年)の、主に東北地域を襲った飢饉である。少し他の石仏を調べてみようと思う。

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新年にあたって

2008-01-01 01:48:04 | その他

いつも、お読みいただき、ありがとうございます。

「条理をわきまえた」社会でありたい、と願いつつ、書けるまで書こう
と考えております。
本年も、お読みいただき、ご意見を賜れば幸いです。

   註 「道理をわきまえた」と書こうと思ったのですが、
      「道理」とは、本来、「世間で正しいと認めた行いの筋道」のこと
      だそうです(新明解国語辞典)。
      しかし、「世間」自体が「変な」ときは困ってしまいますね。
      そこで「条理」の方を採りました。
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