「道 の 理」 1983年度「筑波通信№11」 

2020-02-25 10:51:25 | 1983年度「筑波通信」

PDF「道の理」1983年度「筑波通信№11」 A4版7頁

「道 の 理」    1984年2月

 いささかあわただしかったのだが、昨年の暮も押しつまったころ、用あって(というより、用をまとめてこなすべく)甲州・牧丘、信州・駒ヶ根、そして上州・松井田と駆け足で巡ってきた。甲州・牧丘は甲府盆地の東北端、武田信玄の根拠地であった塩山(えんざん)から更に数kmほど笛吹川をさかのぼった所にある町、信州・駒ヶ根は信州と言っても言わゆる南信、諏訪湖に発する天竜川が大地を切りこんでつくった伊那谷にある町、東に赤石山脈(南アルプス)西に木曽山脈(中央アルプス)がそびえ連なっている。駒ヶ根の名は木曽駒ケ岳の根もとにあることからつけられた、もちろん町村合併にともなう新しい名である。さきほどの牧丘も同じく新しい名である。上州・松井田は、これは古くからそう呼ばれていて、関東平野のどんづまり、山一つ越えれば信州という碓氷峠の下にある町である。

 牧丘と駒ヶ根は共に中央自動車道沿いにあるから、車を使うと一時間半かかるかどうかの近さである。鉄道(中央線、飯田線)を乗り継いでも二時間半程度で行けるもっとも乗り継ぎの便がよければの話である)。しかし、駒ヶ根から松井田へとなると、いささかやっかいである。その問には八ケ岳山塊や秩父山塊が横たわっているから、山を越えるか、山をまわるかしなければならない。だから、駒ヶ根あたりから見ると、松井田|など、はるか山の彼方の町、遠い何の関係もない町のように思えてしまう。しかし、駒ヶ根と松井田が、互いにまったく関係のない町であったかというと、そうではない。古代の主要幹線道である東山道(とうさんどう、あづまやまのみち)は、この二つの町を通っていたのである。それぞれの町の近くに、東山道の宿駅が設けられていた。因みに、現在の中央自動車道のルートは、信州以南では、ほほ東山道のルートに沿っている。中央道は恵那山トンネルで美濃へ抜けるが、東山道もそのあたりで峠越え(神坂峠)をして美濃へ通じていた。

コピーにたえる地図がないので鉄道と主たる道だけ書きだしました。詳しくは、お手元の地図帳(中部地方)をご覧ください。

 

 駒ヶ根あたりから上州へ抜けようとすると、今ではいくつもの立派な道ができている。けれども、それらは決して新しい道なのではなく、そのほとんどが古来存在していた道すじに手を加えたものなのだ。あの東山道のルートも、多少の変更はあるものの、現在も生きている。東山道がどのようなルートをたどったかについては、細部においては諸説あるらしいが大略次のようなものであったらしい。天竜川沿いにその右岸:西岸を上ってきた道は、辰野(たつの)のあたりで天竜すじから分れ、塩尻(しおじり)へ向い山越えをする。そのときの峠が1982年4月の「通信」に記した善知鳥(うとう)峠で、この道すじに沿って中央線が走っている。(中央線は諏訪から天竜に沿って南下し、またこの道すじに沿って北上するというえらく遠まわりのルートをとっているのである。)このあと東山道は今の松本へ向い北上して、松本をすぎたあたりで東に転じてまた山越え(今の保福寺峠越え)をして現在の上田あたりへ出る。あとはほぼ現在の信越線・国道18号ルートと同じルートを通り、上州へと向う。

 地図でも分るとおり、この道すじは大変に遠まわりのルートである。その時代に別のルートがなかったわけではない。同じ山越えをするのでも他にいくつものルートがあったことが知られている。江戸期の幹線道であった中山道は、このような遠まわりではなく山を越えている。そのルート、上州から佐久を通り一直線に諏訪へ抜けるルートも、しかしそのとき新たに開発されたわけではなく、これも既に古来存在した道すじであったらしい。つまり、南信から中信・上州へと通じる道すじ(いずれも山越えをともなう)には古来いく通りものやりかたがあって、言わゆる官道(古代の東山道、江戸の中山道など)は、それら既存の道すじのなかから一つを選んで整備したにすぎないということだ。とかく官道などとそれだけを数えあげたりすると、その他には道などなかったかのような錯覚についおちいりがちなのだが、それはあやまりで、道はたくさんあったのだ。そして今、多分それらを踏襲したと思われる立派な山越えの道が、いくつも通じているのである。

 

 だから、駒ヶ根から松井田にまわろうとする私の前には、今、いく通りもの道がある。どの道をとったらよいか、となるといささか思案せざるを得ない。このいく通りもの道のなかで、そのうちのいくつかは既に通ったことがあるから、物好きの私としては、できれば通ったことのない道を走ってみたい。例の古代東山道ルート:保福寺峠越えもやってみたいのだが、今年はいつになく寒い。多分道はいたる所で凍結しているにちがいない。私のタイヤはスパイクではない。チェーンは持ってはいるものの、つけっぱなしで走るのはいやだし、かといってつけたりはずしたりするのもわずらわしい。結局のところ、峠越え山道はあきらめ、少しばかり遠まわりなのだが、それらの山をぐるりとまいて、松本から長野まわりで上田へ出ることにした。松本から長野までは国道19号、長野からは18号、という月並みな道である。

 このルートも、特に松本・長野間の犀川(さいがわ)沿いの道すじは通ったことがないから、多少の遠まわりも苦にすることもない。地図を見ると判るのだが、松本から長野へはもう一本ルートがある。国鉄・篠ノ井線に沿い篠ノ井経出で長野に向う道である(と言うより、その道に沿って鉄道が敷かれたのである。)これは、先のルートが川沿いなのに対して、全くの山越えルートで、だから、鉄道もトンネルだらけである。姥捨(うばすて)伝説の冠谷(かむりき)山はその近くである。この道の交通量は、今は少ないようである。

 

 犀川(さいがわ)は松本から善光寺平・長野へとそそぐのだから、地図の上などで単純に考えると、なにも山越え道など通らずに犀川沿いに下った方が、ずっと楽のように思えるのだが、実際に走ってみて、そうではないことがよく分った。松本から長野までおよそ20km、その間の標高差は200m、これを犀川は一気に駆け下りる。それゆえ大地はV字型に深く切りこまれ、少し大仰に言うと、両岸には切りたった壁が連なっている。道は当然下り坂で、その谷間の底を曲りくねりながら走り、今でこそ道幅も広く楽に通れるけれども、その昔には通り抜けるには相当に苦労する難所であったにちがいない。山越えの道はたしかに疲れはするだろうが、その点ではむしろ安全で楽であっただろう。

 考えてみると、古代の東山道が、江戸期の中山道のルート:木曽川すじを通らずに天竜川に沿った理由の一つも、木曽川すじの地形的険しさが手に負えなかったからではないだろうか。木曽川すじとはちがって、天竜沿いには長大な河成段丘が発達しており、その段丘を横切るいくつかの河川(天竜の支流である)の川越さえ克服さえすれば、あとはその段丘上をたどる平坦で楽な道を得ることができる。実際この河成段丘はみごとなもので、山脈に沿い、その山脈の足元から天竜川までの数kmの幅の大地が、およそ30分の1の傾きで横たわっている。そこに立つと、少し大仰に言うと、平衡感覚がゆらいでくる。しかし、この段丘上は、牧地や畑地としては絶好の地で、人々もかなり古くから住みついていたらしく、今でもあちこちに数多くの遺跡が眠っているようである。古代において、このあたり一帯はかなり栄えていたのである。そして、東山道がここを通ったもう一つの、そしてより大きな理由は、ここが栄えていたからだ。東山道という官道の目的は、時の中央政府のそれによる地方管理にあり、管理するに耐えない(つまり、栄えていない)土地を通ることはおよそ無意味だからである。木曽路の険しさは、単に通行にとってだけではなく、人々の生活にとっても険しかったのである。東山道が天竜に沿って諏訪に出るルートをとらず、途中から分れ、諏訪を横目に松本へ向ったのも、そうすることによって、諏訪だけではなく松本平から先、善光寺平、安曇野、そして更に越の国をも掌握できるとの算段があったからだと見ることができるのではないだろうか。

 江戸期の中山道は、同じ官道でも、東山道のやりかたとは全く異なっている。人が住み、栄えている土地土地をつないでゆく代りに、むしろ最短ルートをとった気配がうかがわれる。上州・佐久・諏訪、という山越えルート上はもとより、その通った木曽路も全く山のなかで、沿道に栄えた所があったわけではない。むしろ、それとは逆で、官道が通ったために宿場町として栄える村々が生まれてくる。それゆえに、宿場の町としてのみ初めて栄えるという状態になることのできた村々は、ひとたび官道が官道でなくなってしまうと、具体的に言えば、新たな官道:鉄道でも敷かれたりすると、それはずっと以前の宿場町ではなかった時代の、ただひたすらその土地:大地にのみ依存せざるを得ない状態に戻ってしまうのである。これに対し、かつて、はるか昔に東山道の通っていた村々の土地は、東山道が東山道でなくなっでも、相変らず、一定程度栄える可能性のある土地であることには変りはなく、中山道沿いの宿場だけに拠って栄えた町々のように、急転して落ちこむようなことはなかったのである。

 ひところ流行ったような(最近もないわけではないが)鉄道や新しい交通路の開設によってさびれてしまい、ただ昔の面影だけを残している元宿場町を昔のようににぎやかにしよう、などと考えて観光地化に走る試みは、私に言わせれば、その町にとってほんとによいことだとは思えないのである。その町の拠ってたつ基盤が変ってしまったとき、それにも拘らずその過去の幻影に拠ってのみ暮しをたてることには自ずと限界があり、時計の針を停めて暮すようなものだからである。

 ただひたすらその土地に拠って暮さねばならないとしたとき、過去の幻影、過去の栄華のみを夢見るのではない新しい暮し、新しいたたずまいが生まれるはずであり、それがたとえかつての宿場町としてのそれに比べ、一見したところ、見劣りするものであったところで、それは決して悪しきことなのではなく、むしろそれこそがその土地の正当な姿と言うべきではないか、と私には思えるのである。

 

 犀川沿いの道すじには、このような外的な要因による栄枯盛衰とはおよそ縁のなさそうな村々、家々があった。もちろんそれは、あくまでも見かけの上の話で、内実は多様な変化をしているのだろうが、それらは道が拡がろうが、国道に指定されようが、そういったこととは全く係わりのない風情で昔ながらに在るのである。

 先にも書いたように、この川すじの道の両側は切り立ち、道はその最低部を川すれすれに曲りくねって下ってゆくのだが、そこから見上げる両側の山の斜面のはるか高い所に、まさに文字どおり、家々が張りついている。それらは、目線を意識的に上げて初めて視界に入ってくる、と言ってもよいほど川面からはかなり高い所にへばりついているのである。いったいあそこへたどりつく道はどこにあるのだ、という思いが極く自然にわき起ってくると同時に、今走っているこの道と彼らの家々とは、ことによると関係ないのではないか、とさえ思えてくる。一度これは調べてみる価値がありそうである。

 そのうちの、比較的国道に近い集落と、それへつながると思われる道を見つけて寄り道をしてみた。これと同じような感じの集落は、笛吹川の上流でも見かけたことがある。道のとりつきもそっくりである。道はかなりの急坂で、車一台がやっとの幅しかない。集落に行きつくと、道はそこでほぼ終る。ほぼと言ったのは、道はまだどこかへ続いていそうなのだが、あまりも細すぎ、私の車ではあきらめざるを得ないからである。あたりの急な斜面は細々と耕され、ほんとに猫の額ほどの田んぼもある。そのわきのちょっとしたひそみに、茅ぶきの家がひっそりと、しかしある温もりを感じさせて建っていた。それはまわりの地物とすっかり同化してしまっているように見え、建っていると言うより植っている、あるいは生えていると言った方がよさそうである。それはなにも家だけではない。耕された田も畑も、そしてところどころに積まれた石の土留めさえもが人為のにおいを感じさせず、言わば人為のほどこされないずっと以前からそうであったかの風情でそこに在る。それは決して単に古びているからなのではない、と私は思う。

 

 よく時代がつくというような表現がなされるけれども、どんなものでも古くなれば昧がでてくるというわけではない。言わゆる現代建築のなかで、時代がついて昧がでたという例は皆無に近いだろう。それらは古くなると、廃墟というより廃棄物になってしまう。廃墟にはそこにまだ人間の存在を思わす何ものかを見ることができるのだが、廃棄物にはなにもない。今私の目の前にあるいささか傾きかけ、山はだにへばりついている農家には、古いからと言って、廃棄物のおもむきなど何一つない。私がその家に感じた温もりは、決して、単にそこが陽だまりであったとか、あるいはそこで使われている材料が身近かななじみやすいものであるからだとか、そんなことから生じたものではないだろう。たしかにそれが一つの要因であることについては私も否定はしないけれども、しかし、同じような所に同じような材料を用いて建てたからといって、直ちにそれがある温もりを感じさせるものとなる、とは言えないのもまたたしかなことだからである。

 そうだとすると、この温もりは何なのだろうか。

 おそらくそれは、先に書いたあの人為のにおいを感じさせない人為、その人為が持つ本来的な温もりのせいなのではなかろうか。別な言いかたをすれば、そこでなされていることが全て、現代普通に使われる意味ではなく本質的な意味での合理精神に拠ってなされているからなのだ、と言ってもよいだろう。それはすなわち、そこで生きる人間にとってあたりまえと思えるように、あたりまえのことがあたりまえになされる、ということだ。そこに生きる人間をとりまくあらゆるものの存在とそのありようを素直に認め、そのありようを拒否も否定もせず、かと言ってそれにいたずらに押しひしがれるわけでもなく、それらをそれらのありようの理に従って自らの生活のために使いこなしてゆく精神、それが彼らの精神なのだ(もっとも、彼らがそう意識していたかどうかは知らない。)彼らがやってきたことには、てらいはもとより無理がないのである。そして無理がないということこそ、そのことばの本来の意味で、合理的ということに他ならないのである。

 

 そう考えなおしてみると、私がここで見てきた信州のいくつもの道も、古来よりあるものは、まずほとんどが(そのときどきの人々の立場に立ってみると)無理のないものであったことに気づく。それは現今いろいろと問題にされているスーパー林道という名の観光道路のルートのとりかた、つくりかたの無理さと比べると、一層きわだって見えてくる。

 現代の道づくりも、そして家づくりも、それらは全て、合理の名のもとになされているのであるが、そのときの合理のなかみは、明らかに、古来の道や、あるいは今私の目の前にある傾きかけた家をつくってきた人たちの合理とは異なったものなのだ。現代的なやりかたでは、その合理の規範を、そこに生きる人間にとってあたりまえであること、人間をとりまくあらゆるもののありようからみてあたりまえであること、という根本をはなれ、全くちがう何か別のものに求めてきてしまっているのであり、しかも今なお、求めたがっているのである。合理とは、私たちの外に、私たちとの関係を断ち切った形で存在するものでも、するべきものでもなく、あくまでも、私たちにとって合理でなければならないはずではないだろうか。

 

 谷間に入っておよそ一時間半、両側の山も低くなり、谷幅も広がり、それとともに、家々もだんだん低い位置に下りてくる。そして前方の視界が開け、善光寺平とその向うの雪を被った高山が、盆地特有のもやのかかった空気のなかにかすんでいる。道は犀川の北岸を、そのまま進むとまっすぐ善光寺そのものにぶつかる形で善光寺平へと入りこむ。右手には、一段下って、今の長野市の市街が拡がっている。信越線を使ってしか長野市を訪れたことのない私にとっては、善光寺そのものの立地の意味がいまひとつ分らなかったのであるが、今回このようなルートで訪れてみて、初めてそれが分ったように思えた。それは善光寺平の、言わばへりにあたるちょっとした高みにあるのである。そして、今の市街地は、かつてはどうしようもない低地であったにちがいない。善光寺の立地そのものも、これは極めてあたりまえな(もちろんその当時の人々にとってであるが)ことだったのである。

 

あとがき

〇どうもこのところ、せわしいことが続いて、落ち着いて書けない。多忙は犯罪である、気をつけろ、との忠告をいただいた。今回もまた、日をおいて書いているので、どうも集中力に欠けてしまったようである。

〇信州はほんとに山国である。どこへ出るにも必らずどこかで峠を越えなければならない。峠を介して他国とつながっているのである。峠と道、これは興味をもちだすと尽きることなく面白い。できることなら、この信州へ通じる峠と道を、くまなく、四方八方から歩いてみたいと思う。峠の向うとこちら、そのありようのちがいはまことに興味深いのである。地図もない時代に、こういう数多くの道を見出した人たちの道理にも興味がわく。そしてそれはまた、おそらく、水理、すなわち河川に対する人々の考えかたに対しての興味にも連なるだろう。

〇こういうように各地を見て歩いていつも思うのは、どうして今、極くあたりまえの屋根の家が、地方からもなくなってきつつあるのか、ということだ。新しい家の半分は、まわりにある先人の知恵の集積に対して何の関心もはらいもせずにつくられている。だれがこうしてしまったのか。

〇今年は寒い。既に雪は二度も降った。

〇それぞれなりのご活躍を!

     1984・2・1           下山 眞司


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「我が村 ・ 桜村」 1983年度 「筑波通信 №10」

2020-02-11 10:13:02 | 1983年度「筑波通信」

 

PDF「わが村・桜村」(含「枯れ木に花は咲かない」「住宅建築」1983年掲載)A4版9頁

「わが村・桜村」        1984年1月    

 衆議院議員の選挙も終り、諸人こぞっての政治評論の季節も、また元どおりに何事もなかったように、折からの師走のあわただしさのなかに消えていってしまうにちがいない。それにしても、今年の冬は寒い。

 この選挙の一週間前に、わが村でも村長選挙があった。

 わが村桜村は、いわゆる研究学園都市の大部分が属している村である。人口も、昔からの村人たちと、開発とともに新しく流入してきた人たちとから成っている。大学生の大部分が桜村民である。そして、ここでは通常、昔からの村人を旧住民、流入組を新住民と呼んでいるが、もう少し詳しく語りたい人たちは、昔からの村人たちを原住民、流入組の内でも開発当初の何もないころからいる人たちを先住民、いろいろできあがってから入ってきた人たちを新住民と呼ぶことが多い。流入組をこのように分けるにはそれなりの理由がある。同じようによそ者でありながらも、この二者ではものの感じかたがまるっきりちがうからである。この後者の分けかたでの先住民(つまり、何もないときに流入してきた人)たちは、この村が不便であるとか文化がない、などとは決して軽々しくは言わないのだが、新住民(つまり、ある程度までできあがってから移ってきた人たち)は、概して、そういうことを平気でいう。一例で言えば、旧住民はバスの便がよくなった、と言い、新住民はバスの便が悪いという。なぜこうちがうのかと言えば、それは極めて単純な理由によってである。よいか悪いか、その評価基準がちがうからなのである。何もないところに、いわば開拓者のごとくに移り住んだ人たちにとって、一日に数えるほどしかなかったバスの便に比べたら、今はまさに雲泥の差である。こんなにも便利になったのである。そして彼らは、生活の利便を向上させるために、いろいろとやってきた。そういう所で生活するにはどうしたらよいか、身をもって考えてきた。というより、考えざるを得なかった。郷に入ったら郷に従ったのである。

 だが、まるっきりの新住民たちはちがう。彼らの基準は、たとえば東京にある。なにごとも東京なみでなければならないと思う。それでいて緑が多く、空気のきれいなのがよい、などという。言ってみれば勝手なものだ。そういったよさは、あたりが東京なみでないからこそ得られているのにも拘らず、それを(なにもしないで)両方ともいただこうというのである。そして、ここには文化がないと言う。そのときの文化とは、いわゆる東京の文化である。東京の文化というのがいったいあるのかどうかは知らないけれども、とにかく最新の東京の文化、(あるいは情報と言った方がよいのかもしれない)のことなのだ。あるいはそれは、西欧の文化のことなのかもしれない。桜村などでは、東京とちがって西欧からあまりにも遠すぎるというのだろう。それはそうだ。開発区域をちょっとはずれて、同じ村のなかの昔ながらの場所へ行けば、そこにあるのは日本の(あくまでも日本の)農村であり、田舎の香水はときおりただようことはあっても、いうところの西欧の香りなど、これっぽっちもないからである。文化とは西欧の文化を言うのだと(未だに)信じている人が多く、とりわけ学園都市に移り住んだ人たちには学者・文化人と世で呼ばれる人たちが多く、彼らのあこがれはあくまでも西欧であるらしいから、学園都市には文化がない、文化をつくりだすためには教会がなければならない、などと真面目に言いだす文化人さえいるのである。(もちろん新住民の全部がそうだというわけではない。)これは少し度はずれた例ではあるが、しかし、移住者の多くは東京をはじめとした都会での生活に慣れ、いろいろの情報のなかから(つまり選択肢のなかから)選ぶのをあたりまえとしてきているから、そして、選べるものがたくさんあることが文化だと感ちがいしているから、自ら創出しなければなにもない村の状況は、文化がないように見えるのであるにちがいない。

 開発の当初に移り住んだ人たちもまた、当然のことではあるけれどもその移住地のありさまに対して、りつ然とした思いを抱いたはずである。なぜなら、そこには研究学園「都市」の歌い文句とはうらはらに、何もそれらしきものはなかったからである。あるのは、これも場ちがいに見えたはずだが、突然そそりたつ公団住宅風のアパート(つまり彼らの住み家)と建設中の研究施設、そしてはてしなく続く山林田畑と、一雨降れば泥沼になる道・・・・だけ。夜になれば漆黒の闇。住む所があるだけ、まだよしとしなければならない。私白身、1970年ごろであったか、その一角に建てる学校の敷地の下見に来て、いささかどころか大分、その状況に驚いた覚えがある。ここに都市ができるのだろうか、という思いもなくはなかったけれども、それ以上に、関東の東京からわずかしか離れていない所にこんな場所があったのか、という驚きの方が強かったように思う。延々とうねるように続く大地。その上にところどころに散在する村落。そのときの私にとっては、まさに「こんな所に人が住んでいる」という驚きが先にたったのである。バスの便は極端に悪く、かと言って車で歩くにも道をよく知らないと迷うだけ。遠くに筑波山が見えるときだけが唯一のたより。よもや数年後にここに移り住むとは夢にも思わなかったのだが、しかしそのとき既に、あの先住民たちが居ついていたのである。学校用地の下見をそのころやっていたくらいだから、当然新設の学校などあるはずはなく、子どもたちは昔からの村の学校に通い、従って村人たちのつきあいも結構あったらしい。村人たちによる野菜などの青空市場もよく開かれていたようである(このごろはあまり聞かないが、それでも週に一度ぐらい、泥だらけのとったばかりの野菜などをもって、村のおばあさんが尋ねてくる)。

 この先住民たちは、状況が状況だから、かなり早い時点で、ここで都会なみの生活慣行を求めることが無意味であることを悟り、そこでの生活のありかたを考えだすのである。商店が近くにあるわけではなく、あっても雑貨屋さん程度だから、そこで、たとえば週に一度の買だめがあたりまえとなり、そしてそのショッピングのためには、、バスに期待をもてないから、車が必需品となり免許をまず取得することとなる。考えてみると、これはこのあたりの昔からの村人たちのやっているのと同じパターンなのだ。ただ、村人たちは、ある程度まで食糧は自給しているけれども、この先住民たちにはそれがないだけのちがいである(もっともそれは重大なちがいなのだが)。妙な話だが、こういう所に住むと、大型冷蔵庫の意義、そのあるべき姿がよく見えてきて、デザイナーはいったい何を考えてデザインしているのか、文句の一つや二つが言いたくなる。簡単に言えば、そういう状況の下で生活すると、もののありかた、ものへの対しかたはもとより、生活のすすめかたに至るまで、少しばかり大仰に言うと、根源的に考えざるを得なくなるわけなのだ。裏返して言えば、都会的生活での慣行がいったい何であったのかが問われるのである。

 しかしいまや、この先住民たちの数は相対的に少なくなってしまい、新住民が圧倒的多数になっている。彼らの多くは、郷に入って郷に従うこと(つまり状況にあわせて生活を適応させること)をせずに、ただいたずらにないものねだりをしたがるのである。

 

 その一方で、この新住民のふるまいに似た考えかたが行政当局、とりわけ国や県のレベルにあるようだ。町村合併をして「都市」にしようというのである。ここは20万都市にするのが当初の計画だったのだが、いまでも開発地域はもとより周辺まで数えても、その半分にもなっていない。 20万都市の絵にあわせて道路その他を造ってあるから、その維持だけでもけたたましい額になる。村や町だけでは完全に持ちだし、赤字である。「市」にして国から金をせしめよう、というのが合併論の論理であって、そうすれば自ずと文化的にも向上する(その意味は都会なみになる、ということだ)というのである。その人たちは、これまた恐るべき発想をする。たとえば、いま村役場には大学卒がほとんどいない。だから運営が下手だ。市にして職員を精選すれば、ずっとよくなる。こう言うのである。これを合併促進の研修会で、町村職員を集めた席上で広言したというのであるから立派も立派、何をか言わんやである。市にして雇用が増えるというけれども、その職種がいかなるものか、推して知るべしだろう。

 

 この人たちのもう一つ面白い発想は、市になることによって、地価が上り、それはすなわちストック(財産の価値)が増えることであるから歓迎すべきだ、という考えかたである。実際に、いま学園都市開発域のまんなかあたりの地価は、住宅地で、坪あたり25万以上などというのがあたりまえになりつつある。たしかに土地持ちの資産は増えたかもしれないが、なにかそこで商売でもしないかぎり、普通のサラリーマンでその土地を買える人はそうざらにいない。だから、土地持ちの人たちは、やむを得ず草ぼうぼうにして、まさに土地を遊ばせるか、学生相手の下宿屋さんを営んで生活をしているのが多い。元通り畑を作ろうにも、もう作れるような状態では(人も土地も)ないのである。たまたま最近の朝日新聞の地元版に紹介された短歌が、そのあたりの状況を端的に語っているので、ここに転載してみる。

  学園におおかた耕地はつぶされて農婦人夫となり今日も出てゆく

                          (佐藤春介)

 

 開発が言われだしてからそろそろ二十年、実際にいろいろな研究施設が動きだし人が流入しはじめて十年(今年、開設十周年を祝った施設が多い)、開発当初のあの甘い話が決して甘い話ではなかったことを、地元の人たち(原住民たち)は、さめた目でながめはじめているようである。

 あの多くの開発がそうであったように、ここでも開発は地元の人たちすなわち先住民たちの存在を忘れ、あるいは無視した、一方的なものであったのである。

 

 さて、村長選挙はこういう複雑な状況をかかえた村で行われた。有権者数は、昔からの村人(すなわち原住民)約8,000、新たに移住してきた人たち(すなわち先住民と新住民)約17,000(このなかには学生がおよそ2,000はいるだろう)である。流入人口が完全に地元を圧倒しているのである。主たる候補者は、地元人たる元助役と、都市開発を推進したい人たちが強く推す新住民の弁護士。前回のときも同様に地元の元教育長とこの弁護士の対戦であったがわずかな差で地元人の勝利。従って今回の場合は、大方の予想では確実に新住民サイドの勝利になるだろうと思われていた。数の上の単純計算では、どう見ても元助役の側が不利に思えるのである。

 ところが、結果はちがっていた。元助役7,500、弁護士5,000、それにもう一人の共産党候補2,500という結果がでたのである(投票率60%)。

 これは、思いもかけない大差である。

 新聞記者の分析によれば、地元候補7,500の内、少なくとも2,000は移住した人たちからの票ではないか、とのことであった。たしかに、そう考えると勘定が合うのである。そうしてみると、移住民候補者ならびにその支持者たちは、同じ移住民の選択によって破れたのである。ものごとそう単純にはいかない見本のような話である。

 

あ と が き

〇暮になってなにかと忙しく、なにがなんだか分らないうちに歳だけはとってしまいそうである。

〇暮の一日、所用で甲州、信州へ行ってきた。主要国道をほぼ一日車で走る破目になって、例のスパイクタイヤ公害の実態を十分に賞味させてもらった。ほんとにこれはすごい。立寄った家で出してもらったタオルで顔をぬぐうと、たちまちねずみ色である。それにしても、なんとトラックが多いことか。並行して走る国鉄の貨物列車は、機関車がもったいないような短い編成でさっさと行ってしまうのに、国道は荷を満載したトラックの列、おまけにのろのろの渋滞。鉄道線路がもったいない。 トラックは戸口から戸口へとどいて運賃も安いから荷はみんなトラック便に移ってしまったのだというけれども、それではなぜ運賃が安いのか。それは、道路の維持管理費を負担してないからである。国鉄はそれを一式自前でやっている。その費用は自動車諸税とは比べものにならないほどの高額なのである。もし自動車に、鉄道なみの維持管理費を自己負担させたならば、またたく間に自動車利用が減り、鉄道荷物・貨物が増えるはずだそうである。それによる連鎖反応(好ましい方向への)は大変なものだろう。

〇最近、「住宅建築」なる雑誌に寄稿した一文を付します。「通信」に書いてきたことを再編したようなもので、いつぞや紹介した「土は訴える」という本の評に名を借り、言いたいことを言ったという妙な文ですが、ついでにご笑覧ください。

〇新年もそれぞれなりのご活躍を!

       1983・12・29             下山 眞司

 

投稿者より    「筑波通信」の掲載は、今まで通り隔週とさせていただきます。 隔週の間の週は、しばらくお休みを頂きます。

       よろしくお願い致します。                                下山 悦子


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「参考 日本建築技術史年表」 日本の木造建築工法の展開 

2020-02-04 10:45:15 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の建築工法の展開 参考 建築技術史年表」.pdf

PDF「日本の木造建築工法の展開 目次 第Ⅰ章~第Ⅴ章」A4版2頁

 

参 考 建築技術史年表(2009年版)      奈良時代以後のスケールは年数に応じています

 

 

 投稿者よりご挨拶申し上げます。

 故人下山眞司作成の「日本の木造建築工法の展開」について、昨年2月より、本ブログに掲載を致してまいりました。

 第Ⅰ章から第Ⅴ章まで掲載が済み、残すところ最終章の「第Ⅵ章」のみとなりました。

 「第Ⅵ章」16頁は、現在の状況について述べている部分にあたります。

 ご推察いただける方もおいでと思いますが、第Ⅵ章は現在の状況についてのいわば直球ともいうべき内容が少なからずあり、この数か月、本ブログに掲載ができるか検討してまいりました。  

 できれば掲載したく、第Ⅵ章の再編成、掲載図版の再作成を試みておりましたが、部分的にせよ直球を変化球に転じることは、やはり容易ではなく、最終的に、本ブログへの掲載を行わないことに致しました。 

 最終章を掲載できずに終えてしまうということは、投稿者として残念で、またお読みいただいている皆様には大変申し訳ありません。

 

 故人の建築に対する姿勢は、すでに故人自身がこのブログで多岐にわたって述べております。 何かの折にはお寄りいただきたくお願い申し上げて、「日本の木造建築工法の展開」を終えさせていただきます。

 突然の終了ではありますが、どうぞご了承のほど、お願い申し上げます。

 

 「日本の木造建築工法の展開」には、様々な時代の建物の詳細な資料が集められています。 普段はなかなか目にすることのできないその貴重な資料を時代を追って掲載できたら というのが、当初投稿者が考えたことでした。 その望みがかないましたこと、厚く御礼申し上げます。 

 

 「同 展開」の投稿を終えるにあたって、故人が2009年に作成致しました「参考 日本建築技術史年表」を掲載させていただきます。 また第Ⅴ章までの目次(ノンブル入り)をPDFで添付致します。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。                           

                    2020.02.04                  投稿者 下山悦子 

 


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