床の間 考-2 (補足・「日本家屋構造」-9 )・・・・ 「用」とは何か

2013-01-16 11:32:44 | 「日本家屋構造」の紹介
[以前の記事へのリンク追加 17日10.00]

先回は、前置きだけになってしまいました。
床の間の話です。
先回引用した「解説」では、床の間をはじめとした座敷飾が何に使われたか、いわゆる「機能」「用」で説明されています。そういう「機能」「用」のためにを設けるようになった・・・。
しかし、もしそうならば、他にもいろいろと「機能」「用」はあります。当然、それに応じたものが、別のなどとして生まれていてもよい。しかし、存しない。何故いわゆる座敷飾だけ特化したのか、この点が解明されないのです。

私は、まったく別の視点で考えてきました。

たとえば、初期の代表的な座敷飾を有するとされる園城寺・光浄院客殿を例に考えてみます。
先ず、客殿の配置図と平面図。
   配置図は西澤文隆氏の実測、平面は「日本建築史基礎資料集成」から転載・加筆。
          


平面図を見て、そして実際に訪れて見て、不可解なのは、「玄関」と呼ばれる場所の様子です。
   「玄関」とは、元は仏教の用語。広辞苑には次のようにあります。
   玄妙な道に入る関門。禅寺の方丈に入る門。寺院の表向き。・・・転じて一般に建物の正面に設けた出入口。
配置図で分るように、光浄院客殿は広大な敷地の中にあります。ところが、「玄関」は、下の写真の階段のところ。いささか唐突な感じを否めません。
辛うじて「玄関」らしい、と思わせているのは、屋根の唐破風。それさえも取って付けたように見えます。



また、平面図の右下に「中門廊」と名付けられた場所があります。これは「寝殿造」にあった呼称。「中門」からの「廊下」。しかし、光浄院客殿では、広縁が少し広がっただけの場所。
一時代前の寺院の「方丈」にも、似たような場所がありますが、その場合は、そこが「玄関」であり、「門」に連なっています。ただ、廊下様ではありません。
たとえば大徳寺・大仙院の配置図と平面図は下図の通りです。これも、配置図は西澤文隆氏の実測、平面は「日本建築史基礎資料集成」から転載。




方丈の建物では、来訪者は、門を入り、玄関から広縁へ上り、広縁を歩いて方丈(大仙院では「室中」)へ、南面から入ります。その際の室中の見えかたが下の写真です。
大仙院より前の建立された龍吟庵・方丈も大仙院と大差ありません。



古代寺院では南面を正面として、左右対称が普通です。そして、正面から、その中央へと向い歩を進めます。
方丈の建物でも、主なる場所は中央にあります。古代寺院との違いは、主室への歩みかたの違いだけである、と言ってよいでしょう。
何故そのように変ってきたのか。
推測に過ぎませんが、方丈を営もうとした人びとは、方丈と呼ばれる建物だけを求めたのではなく、配置図で示されている「築地塀で囲まれた一帯」を求めていたのではないか、と思われます。方丈は、「住持」の空間としてつくられたからです。
古代寺院のように建物の中央へ正面から向うと塀で囲まれた一帯が二分されてしまう、それでは目的に合わない。そこで、一帯を横に見ながら、端部から建物に上がる方策を採ったのでしょう。
大仙院など方丈を主体とする塔頭を訪れて抱く感懐は、古代寺院のそれとはまったく異なります。それは「築地塀で囲まれた中に在る」ことに拠って「そこにいると気持ちが落ち着き安らぐ」からではないかと思います。つまり、「住まい」にいるように感じられる。

光浄院客殿の建物の形は、方丈建築を引継いでいるのではないかと考えられますが、しかし、様態はまったく異なります。
たとえば、建物の南側に広縁があり、山水もありますが、極端な言い方をすれば、それらはあえてなくてもよいのです。
なぜなら、方丈建築では、来訪者は、玄関から「礼の間」に通され、「室中」での法事のあと、左手の「檀那間」で主と客は接したものと思われます。その際の移動は、広縁が使われたと思います。そして、方丈・室中がきわめて威儀を正す場所であり、その左にある室(檀那間)ではどちらかと言えば日常に再び戻ります。
南面の広縁と西面の広縁との間には仕切りがありますが、檀那間は、その仕切りを越えた西面の広縁に開いていて、方丈(室中)前の広縁とはまったく趣きが異なっていることにそれが現れています(この「発展した形」が、大徳寺・孤篷庵と考えられます)。寝殿造の建物も、多分、方丈と同じであったと思われます。   
   大徳寺・孤篷庵については、下記で触れています。
   「日本の建築技術の展開-19
   「日本の建築技術の展開-20
それに対して、光浄院客殿では、広縁を歩むのではなく、六畳間(鞘の間という呼称もあるようです。狭屋の間の意)⇒次の間⇒上座の間と、畳の部屋を歩みます。それゆえ、来訪者には広縁も山水も目に入らないはずです。また、光浄院客殿でも四周に縁はまわっていますが、平面図で分るように、西側の縁は付いているだけで、どの室も縁に接する面は壁で閉じられています。つまり、西の広縁はなくてもよいのです。
このことは、光浄院客殿では、「四周を囲まれた畳敷の空間」の造成に意がそそがれていることを示していると言ってよいでしょう。
その空間は、入口から奥へ向い細長い縦長の空間。しかも、その両側は、開口装置があるといっても、ほとんど閉じられているに等しい。
   開口装置は、引き違いの板戸2枚と明り障子1枚。
   来訪者があるときは、板戸1枚分開けて、明り障子にするか(広縁、山水は見えない)
   ことによると板戸も開けなかったかもしれません(板戸に絵が描かれている)。

このような細長い空間を歩むと、奥に行けば行くほど威儀を正さなければならない気分になるのが普通です。しかも、仕切りの戸襖が、途中に2箇所ある。これが、更にその気分を強くします。
このような空間の典型は神社です。大きな神社では、鳥居を数箇所設ける。鳥居をくぐるたびに身は更に引き締まる。客殿の2箇所の仕切りは、鳥居様の効果があることになります。
どういう機会で見出したのかは分りませんが、それまでは、正面から赴いていた建物に、側面から歩んでゆくと同様な「効果」を得られることを知ったのでしょう。客殿では、方丈建築とは異なり、奥へ行くほど室の大きさも大きくなります。これも、「効果」を意識してのことと考えられます。

こういう「効果・効能」を「発見」したにも拘らず、建物の形は寝殿造以来の「形式」を「尊重しなければならない」と思い込んでいるため、縁を四周に廻し、中門廊なる場所も設けた、多分、そうして生まれたのが光浄院客殿なのです。
これは、「形式に従うことこそ伝統である」と思い込み「形式」を重視する上層階級の人びとの、いかんともしがたい習性(因習と言ってもよい)なのかもしれません。長押が不要になっても、長押を設けなければ寺院ではない、という思い込みに通じるところがあります。
その意味で、光浄院客殿は、寝殿造という「形式」に拘った場面でのいわば完成形なのでしょう。
   一般の人びなら、「形式」に拘ることなく、「自由に」つくりだしています。
   それが、各地に遺されているいわゆる「民家」の姿ではないでしょうか。
   おそらく、光浄院客殿に至る過程の建物があっただろうと思われますが寡聞にして知りません。

幅が狭く奥深い空間のどん詰まり、神社の場合なら、そこに本殿があります(本殿がなく、自然の地物の場合もあります)。
しかし、客殿の場合は、そこに居るのは神体ではなく、そこの当主です。
そして、その当主の背後に見えるのが座敷飾

ようやく座敷飾に到達しました。
いわゆる座敷飾と呼ばれるのは、平面図の最も左側にある上座間の左手側面の部分。
この部分を正面から見たのが次の写真。


おそらく、当主は写真の正面奥の押板:床の間の前、の柱のやや左側、背景の絵の松の幹のあたりで、こちらを向いて座り、客と対面、対話するでしょう。
もしかすると、光浄院の場合は、上段の間から降りて、背後の松の幹の左手のあたりで、やや斜めに向いて客と対面するかもしれません。

このとき、当主の背後が、何もない「ただの壁」であったならば、つまり押板違い棚もなく、押板の前面の位置がであった場合を想像してみます。
幅が狭く奥深い空間のどん詰まりがだった。当時の壁ですから、紙張りか塗り壁のまま。
もしもそうであったならば、私の想像では、当主は、座る位置を、ずっと手前、つまり壁から1間近く離れて客寄りに座るであろうと思います(ゆえに、客の座る位置も後退する)。
そして、客の側からは、当主が「ただの壁」の前にぽつねんと座っているように見え、「威厳」も何も感じられないでしょう。当主の側も、多分居心地が悪い。居る気がしない、「当主」と「自覚」できない。

この「ただの壁」に絵を描く発想は、おそらく、そんな場をしっくりくるように変えるために生まれたのではないでしょうか。
当主がそこにいてふさわしい「場所」をつくるのです。そこには、能舞台の「舞台装置」がヒントになったのかもしれません。現に、光浄院の場合は、能舞台と同じく松が描かれています。
   書院造に見られる「障壁画(障屏画)」は、「その場所」を創りだすための重要な「一部」である、と私は考えています。
   単なる絵、「観賞用の絵」ではない、ということです。
   その在る場所からはずして「襖絵」だけを展覧することがありますが、
   それでは、その「襖絵」の真の意味を見えなくしてしまう、と私は考えています。
   更に言えば、その絵に心血をそそいだ絵師の真意、心意も分らなくなるのではないか、とも思います。
   現代の某画伯の描かれた某寺院の書院の新しい「襖絵」の展覧会を百貨店のギャラリーで見たことがあります。
   しかし、これが実際の書院に設置されたら、書院の空間が死んでしまうように、私には思えました。
   京都・地積院(ちしゃくいん)に長谷川等伯の大襖絵が、保存されています。
   その襖絵があった大書院は焼失したのではなかったか。襖絵だけは助けられた。それを見せていただいたとき、
   往時の書院を訪ねて見たかったと思いました。これは「場の造成」のための絵だ、即座にそう思えたからです。
   柳宗悦氏も、ロマネスクの紹介著書で、伽藍にある彫像や壁画を切り取って云々することを戒めています。
   
そして更に、座る位置の背後の壁が少し後に「ふくらみ」があると、数等「居心地」がよくなることを、おそらく何かの機会、別の場所での経験で知っていたに違いありません。
それが、押板、違い棚の「凹み」「ふくらみ」を創らせたのではないでしょうか。
その場合、全面がふくらんだのでは、壁が単に後退したに過ぎません。一部分が後退して初めて効果があるのです。
その「効果」を決めるのが、小壁の高さ、つまり写真の落掛鴨居の位置:高さ。上段への開口上部の小壁の高さも関係します。
   日本の建物の場合、内法の高さが(この例では内法長押の位置・高さ)が「基準」になります。
   そのため、それより上にあるか、下か、で様相が異なってくるのです。
   なお、写真の右手、一段段になって開口がありますが、これは納戸構え。 
この押板のある部分は、「ふくらみ」を設けるために「追補的」に設けられたことは、桁行の断面図(下図)の左側端部を見ると分ります。

図で分るように、押板・棚の部分は、建物の四周を巡るの部分に「追加」されているのです。そして、押板・棚の上部、小壁の後に空洞があります。単に空間を広げるのであるならば、そこも取り込むことができたはずです。しかし、そこは取り込んでいない。一部分に「ふくらみ」があればよいと考えていたからだ、と思われます。
実際、小壁部分まで追加されていたら「様」になりません。

別の例で考えてみます。

下は、妙喜庵・待庵の平面図と躙口(にじり ぐち)側から見た室内の写真です。ただ、この写真は、躙口をくぐったときの視座よりは高い位置のように思えます。



入った途端、目線の向うにが見えます。
この場合も、もしもこのの「凹み」がなかった場合を考えてみます。つまり、目線の向うが
正面が一面の壁であったならば、躙口から入った人は、すごく窮屈な場所に来たな、と思うに違いありません。
そして、この「凹み」がきわめて重要な意味を持っていることに気付く筈です。
この場合も、「凹み」が壁面全体ではなく、小壁で限定されていることが重要なのです。
このことも、小壁がない場合を想像すると分ると思います。

この「実験」の結果、は、単に花を活けたり、置物を置いたり、あるいは書画を掛ける場所が必要である、として設けられているのではない、ということを示している、と考えてよいのではないでしょうか。
空間としての、こういう広がりが欲しかった。そこは花を活けたり軸を掛けたりするのにも丁度いい・・・。
花を活けたり軸を掛ける場所が欲しいからをつくったのではなく、
そこに「凹み」が欲しかったからをつくった、そこに花を活けたり軸を掛けるのに丁度よかった・・・、
すなわち、発想の順番が逆だった、というのが私の理解です。
   なお、だいぶ前になりますが、下記で、待庵の写真、その場所について紹介しています。
   「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3:妙喜庵 待庵」
   「日本の建築技術の展開-18・補足・・・・妙喜庵・待庵のある場所」
西欧の建築にも、ニッチと呼ばれる「場所」があります。そこには彫像などが置かれています。
普通は彫像を置くためにニッチをつくる、と解釈されているようですが、ニッチのつくられる場所を見てみると、これも、発想の順番が逆なのではないか、と私は考えています。
   ニッチには、日本語で言う「隙間」という意味があるそうです。
   ニッチに限定的な「用」がないからかもしれません。
   最近の設計で、廊下様の空間が直角に折れて廊下様の空間に T 型に繫がらざるを得ない場面が生じました。
   何ともブザマなので、片側の角の一画を少しえぐって崩して棚のような場所をつくりました。
   大方の人に聞かれたのは、何を置く棚ですか、という質問。
   この「崩し」の意味の説明は、はなはだむずかしい。何でもいいですよ、と答えるしかありませんでした。
   何か「実用」に供せられないもの、それは無意味。これは現代人に共通する「感覚」なのかもしれません。
   先回の冒頭に掲げた西域の開拓農家の場合。
   時間が経過すると、絵を張っている壁の位置に、恒久的な壇が設けられるかもしれません。

私は学生時代、建物を見て歩いていて、いいな、と思ったとき、次のような「実験」をするのがクセでした。そのクセは今も変りありません。
たとえば、光浄院客殿の場合で言えば床柱の位置、小壁の高さをいろいろと変えてみた場面を想像するのです。
これらの位置の「可能性」は、それこそ無限にあります。そういう試みをしているうちに、やはり、今見ている姿が、最高だ、そう思えるのがどうやら「いいな」という感想を抱くもののようなのです。

光浄院客殿の場合、上段の間へは床が一段上がります。そして、その場所では、鴨居も高くなります。この鴨居の位置:高さと落掛の位置、高さの差、これをいろいろと変えてみるのです。そしてその結果は、この位置しかないな、と納得するのです。
つまり、この位置は、「適当に」決められているのではない、あるいは何らかのアンチョコに従って決められているのではない、と私は思います。この建設に携わった人の「感性」が決めたのです。
逆に、あれっ、何か変だな、と感じたとき、同じ試みをすると、例えば、天井の高さが低すぎるのでは・・・、床柱の位置が変だ・・・、柱が太すぎる・・などと気付くのです。

街なかでも、同じ「試み・実験」をやっています(街なかといっても、最近の東京ではやりません。無意味だからです。東京で感じるのは、早く立ち去りたい・・・という思い)。
よく試みているのは、いい雰囲気の通りだな、などと思ったとき、その「横断面図」を頭の中で描いてみることです。これは屋根の勾配がきつ過ぎる、もう少し軒を出てれば、とか、壁が出すぎてる、あの増築はまずい・・・、などと試みながら歩いています。
いわゆる「自然の風景」に対しても同じ。いいな、と感じたとき、地形図を描いてみる。これを続けていると、逆に、地形図から風景を想像することもできるようになるようです。

ところで、「日本家屋構造」をはじめ、多くの建築の書物(いわゆる「木割書」も含みます)には、床の間についての「定型」が紹介されています。
茶室についても、いろいろと、茶室があるべき「仕様」が、こと細かに示されています。
けれども、ここまで書いてきた視点で見ると、それは「真意」「心意」を見誤らせるのではないか、と思います。
なぜなら、何のためにそうするのか、その「謂れ」のない「もぬけの殻」をつくることになるからです。
あくまでも場面場面に応じて「その場面に相応しい『場』をつくる」という視点が必要なのです。
「相応しい『場』」とは、そのとき人のまわりに在ってほしい空間の様態、すなわちそこに在るべき surroundings の姿にほかなりません。
   以前に、有名な木割書「匠明」の示す「書院の模範的木割」の通りの事例は、少なくとも私の知る限り、
   重要文化財の書院には見当たらないこと、
   それぞれが、それぞれ独自の「木割」でつくられていること、
   そして、その「木割書」に拠って図を描いてみると、見られたものでないこと、について触れました。

しかし、そういう「公式」「定型」が、広く世で語られる。特に近世末に多くなります。
それはどうしてなのか。
おそらく、初期につくられた床の間のある書院造茶室に実際に触れた方がたは、そこで新鮮な「驚き」を感じたに違いありません。
問題は、その先にある、と私は考えています。
書院造床の間について言えば、そこで感じた「新鮮な驚き」の因は、そこで見た「床の間」にある、と早合点した、
茶室で言えば、小さな空間、そこらへんにある材料、身をかがめてはいる入口、花が活けられ道具の置かれている床、あちらこちらに散りばめられている小窓・・・、それらの「形」が決めてだ、と早合点したからではないか、と私は考えています。
端的に言えば、「見えているもの」に判断の「拠りどころ」を求めてしまいがちだ、ということです。
   現代の多くの人びとにも、この傾向があるように、私には思えます。特に、「建築家」に著しい・・・。

武家の方が、ある格上の武家を訪ねた。
客間に通される。当主が床の間を背に接してくれた。当主は、床の間を背に、「格上」どおりの威厳を見せている。客は、この威厳は、当主自身の備える威厳もさることながら、その舞台装置がそれを高めている。舞台装置すなわち床の間、そう理解した。そういう形で、目下の人たちに接したいものだ・・・、と考える。
そして彼は、そこで見た舞台装置そのものをそっくり写せばよい、コピーすればよい、と考えてしまった。
つまり、そこで彼が感じた素晴らしさは、床の間の「形」にある、と勘違いしてしまった、ということです。
   例えて言えば、
   大事なのは「文意」であるにも係わらず、「立派な語彙」を並べればそれで立派な文になる、という思い込み。
   ときに、子どもの素朴なことばによる文章に打たれるのは、文意が率直だからです。   
   普通の人びとは、身のまわりにあるもので素晴らしい surroundings をつくってきた。
おそらく、こういった「過程」で、床の間の「形式化」が進んでいったのではないか、と私は考えます。
この「過程」は、更に「先」へ進みます。
床の間・棚は、自らの地位の標榜のためにある、とする「理解」が現れるのです。
そして、その場合、今の言葉で言えば、床の間の「差別化」が為されるようになります。
最も端的なのは、床柱の「特化」。床柱だけ、やたらと目に付く。けったいな姿の柱がもてはやされる・・・。床柱を見せるために床の間をつくる・・・。
   似たような「現象」は、差鴨居の使用にも見られます。
   差鴨居の大きさが、地位の物指しになってしまうのです。
   差鴨居は、端的に言えば、柱間を大きくするための工夫。
   近世末、商家などで、差鴨居によって柱間を飛ばすつくりが増えた。大きな商家からそれは始まる。
   そこで、差鴨居=大きな商家の標識サイン、という誤解が起きる。
   そして、差鴨居は、特にその大きさが、地位を表示するモノに化ける。
   その結果、骨組の均衡が崩れ、破壊に至る・・・などという事例も現れる。

これは、人の世で(特に上層階級を任じる人びとの間で)、ややもすると生じる一つの「現象」、「本質が見えなくなる病」と考えてよいかもしれません。それは多分、「形式」を護ることが先に立ってしまうからです。
その点、一般の人びとは自由です。茶室を生み出したのは商家の人でした。 

長々と書いてきましたが、
要は、何々をする、たとえば食事をする、寝る、・・・花を活ける、飾る、・・・という個々の「行為」を「用」と考え、そのための場所を用意する、と考えるのではなく、
場面場面に応じて「その場面に相応しい『場』をつくる」、このことこそが、建物づくりに於いて考えなければならない「用」である、と私は考えます。
個々の行為は、そうして確保された『場』で、自由に、奔放に、展開できるのです。
此処はこういう行為をするところ、と決めてかかるのは間違い、なのです。

逆に、「個々の行為」を「用」である、と考えると、自ずと「個々の行為」に重み付けがなされることになります。何々が一番大事、何々は当面不要・・・・。
戦後の公営住宅で、床の間は無用である、とされたのは、計画者が、ものを飾ったりする行為は、その時勢では不要不急である、と考えたからにほかなりません。
恣意的な基準を(勝手に)設け、人間の暮しかたを「評価」したのです。

人は普通、ものを飾ったりするために、それ専用の場所が必要だ、なければならない、とは考えません。必要と感じたら、「適当な場所を見つけて」飾ります。当たり前です。
先回の冒頭に掲げた敦煌の開拓農家の住人は、何の変哲もない壁に、意を尽くして絵や写真を飾っているではありませんか。
公営住宅に暮さなければならなかった人びとも、適宜、場所を探して何かを飾り、適宜、場所を見つけて位牌を置いたのです。

建物づくりでの「用」とは、「何々をどうする(たとえば花を活ける・・・)ための場所を用意する」などということではなく、「そこに在るべき surroundings の姿」は何か、考えること。私はそう考えています。
この見かたを採ったとき、床の間も茶室も・・・、その存在の意味が、はじめて理解できるのではないでしょうか。
第一、この視点に立たなければ、各地域の原初的な「住まい」が、さまざまな様態を採る謂れを、認識・理解できないはずです。

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この国を・・・・41:使用量の格差

2013-01-09 11:20:12 | この国を・・・
当地では、上下水道の使用量検針は毎月20日ごろ為されています。
先月、検針の方が、わざわざ立ち寄ってくださいました。使っていないのに、メーターが動いている。漏水しているらしい、使用量も前の月の倍近くになってます、とのこと。
設備屋さんにみてもらい、漏れているゾーンは判明。近年にない寒さで凍結事故が多く、おまけに年末、忙しくて手がまわらない、というので、自力で掘削、漏水箇所を特定。T型分岐部品(通称チーズ)に12月はじめにあった地震で無理がかかり、ヒビが入ったらしい。
水道管は塩ビ管。ヒビ部分にボンドを厚塗りし、ヴィニールテープで包帯。以来10日あまり、何とか漏れは納まっています。

ところで、通常、下水道の使用量の算定根拠は、上水の使用量に拠っています。
つまり、下水の利用量=下水への排出量=上水の使用量。上水を庭に散水しても、その使用量は下水道使用量になるわけです(井戸水を使い、排水は下水道利用の場合は井戸水の使用量を測らなければなりません)。この数量にそれぞれの単価をかけて、それぞれの料金が算出されます。

この使用量と排出量の関係について、1月5日の東京新聞:TOKYO Web:に興味深い記事が載っていました。コピーして転載させていただきます。

暮の選挙でも、一票の格差は問題にされました。
一票の格差、という論議には、根本的に異議があることは以前にも書きました。まして、小選挙区制度の下で一票の格差を論じるのは更におかしい。なぜなら、同じ投票率でも、比例代表制だったら、結果が変ってくるはずだからです。制度の論議なしで格差を論じるのは私には理解不能です。

さて、上記の記事。
この記事を書かれた記者は、通常の生活にともなうゴミは、発生した地域内で処理するという原則で行なわれているが、
この「原則」を、原発の廃棄物:核のゴミ:にも適用してよいだろうか、という重大な問題提起をされてる、と考えてよいでしょう。
そして、記者は、ゴミを発生した結果生じた産物の利用量でゴミの処理に当たるのが妥当ではないのか、という「論理」に拠って実情を調べたのです。電気料金、上下水道料金などは、利用量・使用量で計算するのだから当然です。
その結果、記事のような結果が出た。
今、いわゆる「除染」で出たゴミも、発生した地域で処理するという「方針」が採られています。これも、ゴミは発生場所で処理する、という一見すると筋の通った「論理」に拠っているようです(ご都合主義ですね)。

では、一票の格差を問題にする方がたは、都会の方がたや弁護士が多いようですが、この記者の調べた「結果」に対して、いかなる対応をされるのでしょうか。
これまで、交付金をたくさんもらってきているのだから、いいではないか、という「論理」での対応があるかもしれません。
ただし、その「論理」で押し通したいのならば、その交付金が、原発事故被災地の「被災」状況に見合うものである、という論証がなければなりません。
しかし、その「論証」が為された気配はない。
第一、それは不可能だ。人の暮しを金銭に換算するなどということ、数値化できると考えること、それ自体がそもそも不埒なのです。たとえば、心労を換算できますか?迷惑量を数字に換算できますか?
拠って立つのは数字ではない。あくまでも「理」、「人としての理」のはずだ、私はそう思います。「人としての理」は数字で示すことはできないのです。

東京新聞は、年頭から、「年のはじめに考える」とい社説を連載しています。
その中から、1月4日付の社説を TOKYO Web からコピーし転載させていただきます。
あるブログの中で、東京新聞の社説は「原理主義だ」と書かれていました。
悪い意味ではなかったようですが、私は「主義」という語に違和感を感じています。
「主義」として片づけることのできない非常に radical な、字の通り根源・本質に立ち帰った、したがって何人も否定できない「理」を述べているのだ、そのように思っているからです。
   「理」をもって否定できない、しかし否定したい、そのとき持ち出されるのが、
   それは精神論だ、「現実」的でない、との言い分。
   その人たちにとって「現実」とは何なのでしょうか。

 

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床の間 考-1 (補足・「日本家屋構造」-8)・・・・はじめに

2013-01-05 11:42:59 | 「日本家屋構造」の紹介
下の写真は、30年ほど前、敦煌の郊外の開拓地で見かけた農家の「主」室。
写真の右手手前に出入口。この壁の反対側は、壁に沿い土で壇を築いた寝所。
つまり、出入口を入って右手、1間半ほど奥にこの壁があり、入口を入って左手すぐが寝所。寝所の方がやや明るい。
部屋(房と呼んでます)は、出入口の左右で、雰囲気が異なるのです。
右手奥の壁には、写真のように、写真や絵などが貼られています。
その前に机が一脚。その上には湯飲みが供えられているようです。位牌のごときものも置かれているのではないかと思います。
ここには何か「台」が欲しかったのでしょう。「台」として、手近かにあった机で間に合わせている、多分。


「床の間」についての私見を書く前に、少し「くどい」ことを書きます。
[追記加筆 23.20]

「床の間」とは、何なのでしょうか。
何となく、いわゆる「座敷」につきものの「飾り物」、「実用」性のないもの、なくても何の支障もない・・・というように見られているのではないか、と思います。
   戦後大量につくられた公営住宅、公団住宅で、床の間は「無用」のもの、「実用」がない、とされました。
   「機能主義」が「教条」として全盛だったからです。
   しかし、「用」とは何か、という論議はまったくありませんでした。

では「座敷」とは?

「国語辞典」でそれぞれを引くと、
「床の間」:座敷の上座に、床(ゆか)を一段高くしたところ。床に鼻や置物を、壁に掛け物を飾る。(「新明解国語辞典」)
      :ゆかを一段高くし、正面の壁に書画の幅などを掛け、床板(とこいた)の上に置物・かびんなどを飾るところ。
      近世以降の日本建築で、座敷に設ける。室町時代の押板(おしいた)が起源。(「広辞苑」)
「座敷」:日本間(の客間)。・・(「新明解国語辞典」)
     :(昔の屋内は板張りで、茵(しとね)・円座などを敷いてすわったから座を敷くという)
      ①すわるべき所。居場所。・・・②畳を敷きつめた部屋。特に、客間。・・・(「広辞苑」)
とありますから、大方の方がイメージする「解釈」と、大差ありません。

少し専門的な書物ではどうなっているか。
「日本建築の観賞基礎知識・・・書院造から現代住宅まで」(平井 聖・鈴木 解雄 著 至文堂 刊)のなかから、少し長くなりますが、「書院造の定義と成立時期」の章から、当該箇所を引用させていただきます。段落は、読みやすいように変えてあります。

   書院造とは、(武家の)屋敷全体に対応する様式と考えられる。
   宇和島藩江戸中屋敷の図では、表向きの建物書院という名前がついており(下図)、
   このように書院と名付けられた建物を最も重要な建物として全体が構成されていること。
    
   そして、複数の書院で主要な御殿が構成されていること、
   その書院と呼ばれる建物は、床の間、付書院、違棚から成り立つ座敷飾を備えた部屋を主室として、
   通常一列に並ぶ二部屋あるいは三部屋から成り、南側に入側縁があり、  
   そして主室上段になっていることが多く、部屋はみな畳敷になる。
   天井は格式に応じて各種の格天井竿縁天井を使い分けており、
   間仕切は主としてで、部屋と入側縁の間は障子になる。
   外廻りには、端に戸袋のある雨戸を用い、入口として玄関を設けるのも、書院造の特徴である。・・・
次に、書院造の特徴の一、床の間の成立についての解説。
   ・・・座敷飾が定型化するのは、だいたい1600年より少し下る頃になる。
   違棚・付書院・床等は、それぞれ発生が異なり、組み合わされる時にも始めは用途に応じていた。
   しかし、江戸時代になると現在の・・・ように、床の間が基本で、これにまず違棚が加わり
   次に付書院を加え、さらに立派なものを考えるときに初めて帳台構が加わるという法則のようなものが
   無意識に誕生してくる。
   それと同時に座敷飾の配列にも、・・・決まった形式ができあがる。
   ・・・(これを)座敷飾の定型化と名付けている。・・・・

「床の間について」書け、とでもいう学校の「宿題」に対して、この「知識」だけでも、十分な「評価」の得られるレポートが書けるでしょう。

私は大学時代、日本建築史の講義の期末テストで、
「人は、いにしえより、自らの暮す場所のありようを考え続けてきているはずで、それは時代によることなく、地下水流となって脈々と流れ続け、地表に泉となって湧き上がる。
時折り、その泉は、印象深く、人の目を奪う姿となることがある。
この印象深い姿(だけ)を並べ綴ったのが、(今の)建築史なのではないだろうか。
印象深い姿(だけ)の変遷を追うのは、価値が無いことではないとは思うが、
より大事なのは、地下水流のありようについて問うことではないだろうか。」
とのような主旨のことを書いて(これよりも更に拙い文だった)、見事に最低点:可:をもらった記憶があります。

また、かつて、日本美術史の研究者に誘われて、敦煌を訪れたときのこと、
ある窟は、唐の時代の画像の上に、後の西夏の人びとが新たに土を塗り被せて彼らの画像を描いた窟でしたが、
多くの研究者が、西夏は唐の文化を破壊して怪しからぬ、との言を発していました。
私は違和感を感じて外に出たところ、そこに数人の方がたが居られました。
率直に私の感想を述べたところ、実は皆もそう思って窟から出ていたのだそうで、少しばかり安堵したことを覚えています。

たとえば、白鳳期と天平期の建物や彫刻などの特徴を論じることは為されてきています。
ただ、それぞれの時代、それらをつくりだした人びとの、いかなる思いがあったのかについては、そして、なぜ違いが生まれるのか、その謂れについては触れられることがないように思えます。つまり、結果論。
いかなる人が関わったかさえ分らないのだから、それは無理だ、と言ってしまえばそれまで。それでいて、何々は他の何々に比べてこの点で秀逸だ・・・などと語られる。
敦煌の窟では、西夏人の窟は、隋・唐のそれに比して劣る、にもかかわらず西夏人は、平気で隋・唐の窟を破壊している、まことに怪しからぬ話だ・・・と語られる。
これは、ともに、根が同じである、と私は考えます。
言わば勝手につくりだした物指しで対象を測ってしまう。今の言葉で言えば、(恣意的につくった)「基準」を基に「評価する」
   敦煌の場合、それぞれの窟についてはいろいろと語られますが、何故あの地に窟が掘られ、仏画が描かれたのか、
   このことについて語られるのを、あまり聞いたことがありません。
   窟の上はゴビが迫っています。
   ゴビの平原が、そこで数十メートル急に落ち込んで崖地を為している、そして落ち込んだ一帯には、
   きれいな水が湧き出している。調べてはありませんが、断層ではないでしょうか。
   そして、崖は、ゴビの上を吹きすさぶ砂嵐を遮る屏風の役をしてくれる・・・。
   私には、その点の方がより重要に思えます。
   なぜならそこは、比類ないオアシス、遊牧の民の定住地:集落になった。旅の人びとも立ち寄った。
   しかし、定住できても、まわりは、一歩出ればゴビ。暮し続けるには厳しい状況。
   そこに窟を掘り、(仏)画を描く。人びとをしてそうさせたものは何なのか。
   それは、そうしなければそこに暮し続けることができない、という人びとの心情の現れ。
   日本の村々にそして屋敷に、鎮守の社(それは自然そのものの場合もある)を設けるのと同じ。
   そして、いつの間にか、そこは、人びとの聖地になっていった・・・。
   私はそう考えています。日本の大きな社寺仏閣の類も、元をただせば同じではないか。
  
異なる時期に人の為した「成果物」を比べて、どちらが良いか悪いかを語る、そこには、それに「かかわった人びと」が見えません。無視されている。
正確に言えば、悪いと評価された時代の人びとの存在が無視されている。
西夏の人びとは、後世の人びとの「よき評価」を得るために窟をつくったのではありません。隋・唐の人びとだってそうだ。
飛鳥の人も、白鳳の人も、天平の人も、そしてこれらの名称で括られない時期に生きた人びとも、皆、そんな「評価」などを考えて生きたわけではなく、つくったわけではないのです。
それを生み出したもの、それは、その時どきの人びとの中に流れていた地下水流。そのように私は考えます。
   「人」の「評価」ばかり考える現代の「芸術家」とは違うのです。

この視点を採れば、美術史も相当に変っていたはずだ、と私は考えています。   
すべてはギリシアに始まるという「文化論」があります。そして、その視点で多くの文化史が語られてきました。日本の史学にも少なからずその影響が見られます。
当然、ギリシアから遠い所は文化果つる所と見なされる。
その文化果つる極東の日本にあるすばらしい仏像群は、はるか彼方のギリシアからシルクロードを伝わった技法でつくられた・・・。
もちろん、隣り合う地域は、互いの「文化」に影響しあいます。当然です。
しかし、ギリシア生まれた技法が、そのまま、シルクロードを運ばれてきた、と信じるなど、私には考えられないのです。
実際にシルクロードに立ったとき、その気の遠くなりそうな「距離」に、この説の阿呆らしさに、確信を持って気付きます。
   西欧でも、たしかギリシアから遥かに離れた地域に、地中海よりも数等高度な石造遺跡が見つかり、
   多くの文化史家を戸惑わせたことがあるそうです。
   いわゆる「民家」の「間取り」を並べ、この「間取り」がこの「間取り」へと変ってゆく・・・
   などという「間取りの系譜」論なども、その一例です。
   これでは、何か「自然と住居ができてしまう」ように聞こえるではないですか。
   そこには、「住居」は、その地に暮す人びとが、その地に暮すために、つくりだすのだ、という視点
   もっと言えば、「その地の人びと」を見る視点、それが抜け落ちている
   だから、「その地」についての認識も抜け落ちる
   たとえば、養蚕農家である、とまでは見ても、なぜその地では養蚕なのか、についての認識が抜けるのです。
   関東平野を取り囲む山地の縁では養蚕が盛んでした。そして特徴のある住まい:養蚕農家がつくられた。
   なぜ、山地の縁なのか。それは、地形・地質ゆえだろう、と私は考えています。
   関東山地に連なる甲信地域の山梨もまた養蚕が盛んだった。
   いたるところが桑畑だった。時が過ぎ去り、養蚕が衰えていった。その桑畑はどうなったか。
   そこは、ブドウやモモ・・の果樹園になっている。なぜ?地質です。地形です。
   私の住む一帯も、今は、果樹栽培が盛んです。その果樹栽培地も、元は桑畑。
   桑とブドウなどは、同じ地質・土質を好むのです。地質・土質と地形は大きく関係します。
   平野の真ん中、流れてきた土の堆積した場所は、桑や果樹の成育は悪いのです。
   そこでの農業は、水田:稲作が主体となり、それ相応の住まいをつくる。
   農家と言うと直ぐに稲作農家を「連想」してしまう「民家研究者」がいます。
   たとえば、私の暮す場所の近在にある「椎名家」、これを稲作農家として紹介している書がある。
   しかし、「椎名家」の近くには水田は少ない。主に畑作と牧畜、これが「椎名家」の農業。

   「歴史主義の貧困」で、著者のK・ポッパーは、「結果」を並べて、そこに「歴史の法則」を見るなどというのは
   愚の骨頂である、と徹底的に批判しています。
   表現を正確にしたいと思い、本を探したのですが、どこかにしまい込んで分らない!

このような「ルーツ論」、あるいは「伝播論」「系譜論」には、(建築の世界では意外と多いのですが)私は同意できません。
「ルーツ論」「伝播論」「系譜論」に拠ると、いわゆる復元・東大寺で使われた技法(世に「大仏様」と称される技法)は、研究者が知っている前代までの(寺院建築の)技法と繋がりが見えない。ルートが見えない。突然出現した(ようにしか見えない)。
そうすると、外国(この場合は宋)の技法の導入だ、としてしまう。それで「繫がった」として「満足」する。
そうなるのは、「地下水脈」を見ていない、見ようとしていないからではないか、私が期末テストで書いたことは、この視点だったのです。

今の多くの建築家たちとは異なり、普通の人びとがつくった建物は、その人たちが暮してゆく、生きてゆく必然からつくりあげたもの。
それはすなわち、
暮してゆくための必要条件を充たし、なおかつ十分だと思うことのできる要件を備えた環境: surroundings を確保する営為。
   このあたりのことについては、以前 surroundings について書いたことを参照ください。
白鳳や天平の人びとも、敦煌に生きた人びとも、後世の人びとから話題にされることもない「無名の」人びとも・・・、皆、同じなのだ、私はそう思っています。
そして、いったい、この必要条件、十分条件とは何なのか、先ず、これについての認識を深めることが肝要ではないか、これが、学生時代から、そして今も変らない私の立位置・スタンスなのです。
   なぜこの立位置を採るようになったか。
   私は、学生のときから、他の人のように、設計に際し、「ある形体」が突然ひらめき浮かぶ、という「器用な」タイプでは
   なかったからです(今でもそうです)。
   それゆえ、先ずは、「先達」の「真似」をしました。「先達」の「仕事」をしつこく観ました。
   そうすることで、「先達」が、その「形体」をなぜ、なにゆえに採ったのか、それを考えていった結果、
   行き着いたのが、この立位置だったのです。
   私にとっての「先達」は、古建築であり、各地に遺る住居であり、いろいろな遺跡であり・・、
   つまり、かつての人びとの為してきた数々の営為の姿、
   そしてアアルトをはじめ、当時のフィンランドの建築家たちの仕事、そしてライトの一部の仕事でした。
   日本では、前川國男や吉村順三、村野藤吾、そして遠藤新・・・の仕事。
   同時代の人がいないのは残念ですが、しょうがない・・・。[追記 23.20]

   今のところ、この立位置から外れそうになると、必ず、私の内からチェックがはいります。まだ大丈夫のようです。

「床の間」について考える前段として、これまで、何度も、いろんな形で書いてきたことを、「くどい」ことを承知の上で、またもや書かせていただきました。
なぜなら、冒頭に紹介したような「機能」論では、「床の間を理解することはできない」、と考えているからです。  

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一陽来復

2013-01-01 11:17:44 | その他


大晦日は、夕方まで曇り空、時折り冷たい雨が当たりました。
今日は、快晴。
   これは、先日の快晴の朝、神社の杜を撮った写真です。

昨日の続きの今日、今日の続きの明日・・・・。
今年もよろしくお願いいたします。

ところで、暮に一番気になったこと。
時の首相は、福島を訪れたそうですが、無人の街へは足を一歩も踏み入れなかった。
先ず訪れたのが、原発の事故処理作業者の拠点になっているJヴィレッヂ。「保守」作業従事者への激励だそうです。
それが不要とは言いませんが、事故は起こるべくして起きたこと。
先ず「被害者」と「被害地」を直かに視ることではないか、と私は思いました。
そして、最後に、形だけ(のように私には思えたのですが)仮設住宅に暮さざるを得ない避難者のところを訪れた。
更に、あろうことか、福島の地で、新しく原発を設ける、と語ったそうです。
「新しい原発」は、福島第一のそれよりも安全だから(大丈夫)という「理由」が「根拠」らしい。廃棄物の処理に、何らかの「進歩」があったのでしょうか?だから、旧い原発は、皆、廃棄する、そして新しいのに変える、それで「経済」が「再生」する・・・、そう考えているのでは・・。
また、環境相兼原発事故担当大臣は、原発再稼動については「新しい安全基準」が出来次第考える、と言っているようです。原発依存から脱却するなどという馬鹿げた夢は持たない、つまり、原発に依存し続けたい、という「夢」を見ているらしい。

どうしても「経済再興」のために(一部の人の犠牲があってもいいから)「電力が欲しい」と言うことなのでしょう。
「経済」の本来の意味が忘れられている。

東京新聞の社説は、論旨が一貫してます。しかも難しいことばでくだくだ言わない。
歳の暮の「年のおわりに考える」、そして今日の「年のはじめに考える」を、転載させていただきます。
   東京新聞の社説=中日新聞の社説
また、大晦日の毎日新聞、山田孝男 氏のコラム、風知草もコピーして転載させていただきます。[追加 14.21]






数字でしかものが見えなくなる病、重症ですね。
   ここに書かれている「見かけなくなった野鳥」、幸い、皆、当地では住まいの近くまでやってきます。
コメント (2)
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