日本の建築技術の展開-27・・・・住まいと架構-その4:「貫+格子梁」のつくり

2007-05-24 00:31:50 | 日本の建築技術の展開
 
[記述追加:5月24日7.25AM]
[さらに補足追加:5月24日10.27AM、5月25日11.29AM]
 
 上掲の図、写真は、長野県塩尻市の郊外に保存されている重要文化財「島崎家」である。カラー写真は、正面入口側からの全景。
 壁貫材に書き残されていた墨書から、享保年間:1716年~35年ごろに建てられたと見られている。元は武士の出で、一帯の名主を務めた農家であったらしい(ゆえに、この建物にもゲンカンがある)。
 
 塩尻郊外には、緩い勾配の大屋根で建物全体をくるむ「本棟造」が多くあるが、「島崎家」はその原形と考えられている。

  註 普通、「堀内家」が「本棟造」の例として紹介される。
    しかし、その骨太な姿は、明治初めの改造によるものである。

 「島崎家」は、享保に建てられてから現在まで、幾度かの改築・改造はなされたものの、つい最近まで、島崎家により、代々住み続けられてきた。つまり、290年近く暮し、使い続けられてきたのである。

 建物は8間×8間を基本としたつくりで、緩い勾配の石置き板葺き、切妻の大屋根が架かっている(現在は、一部を除き鉄板葺きに変えてある)。
 そして、この8間×8間の各通りに、桁行を下木、梁行を上木にした末口6寸程度の丸太の格子梁が架けられている。長尺ものが多い(最大5間)。
 梁、桁の材種は、マツが主で、他にケヤキ、クリ、サワラも使われているとのこと。[さらに補足追加]

 梁、桁は、柱に「折置」、または「ほぞ差し込み栓」。桁・梁の交差部は、柱の「重ほぞ」、柱がない箇所は「大栓」で縫う。いずれもシンプルでしかも確実な仕口。
 この格子梁構造には、この間、改変・改造はまったく行われていない。

 柱は4寸3分角が標準、礎石建てで礎石に「ひかりつけ」(礎石と貫に残されていた墨で柱の寸法が分った)。決して太くはなく、またいわゆる「大黒柱」などはない。
 材種はカラマツ、サワラ、クリ、いずれも近在で収集。そのほか古材(ほとんどサワラ)が転用されており、転用材の寸面はばらばら。

  註 書院造や塔頭建築の柱も、大体が4寸3分角前後である。

    この建物には、たまたま解体修理中に訪れたのだが、
    「堀内家」が「本棟造」の「典型」と思い込んでいたので、
    その細身の姿に驚かされた。
    以来、「民家は骨太」という《通説》は、
    まったくの誤解だ、と思うようになった。
    骨太になるのは、幕末、明治初め頃からの現象。なぜか?

  註 この建物の基準柱間は、6尺1分:1821mm。
    6尺ではなく+1分になっているのには、意味があるらしい。
    当時、検地にあたり、6尺に1分を足して測るというきまりがあり、
    それが建物へも援用されたのではないか、という。
    このきまりごとの理由は不明。

 この建物には「差鴨居」は、わずかにゲンカンにあるだけで、構造材というよりも見かけのためらしい。したがって、鴨居は「薄鴨居」である。
 軸部は、足もとの「足固め」、そして内法上の「小壁」(かなり背丈がある)に仕込まれた「貫」で固められている(梁行断面図で小壁の背丈が高いことが分る)。「貫」は「足固め貫」も含め、4寸×1寸の材が使われている。[記述追加]
 いわゆる「耐力壁」になるような壁は存在しない。

  註 現在ヌキと呼ばれている木材では、「貫」の役割を果さない。
    丈は3.5~4寸、厚さは最低でも柱径の1/4~1/5は欲しい
    のではないか(4寸角で8分)。[註記追加:5月25日11.29AM]
    
 この建物が、なぜ、300年近く、使い続けることができたのか。
 その理由としては、
 ①構造がシンプルで、しかも丈夫であった
 ②当初の空間構成・各部の広さがきわめて妥当であった
 ③改造が可能な構造であったため、暮しの変化に改造で対応できた
 が挙げられよう。
 特に、単純な方形基準格子上に架けられた「格子梁」は、その格子の下ならば、間仕切りの追加、撤去は容易に行えたのである。実際、改造は常に格子上で行われてきている。

  註 《百年もつ家》などとよく言われる。
    しかし、仮に構造が百年もったとしても、
    暮しの変化に応じて改造もできないようなつくり
    :「筋かい」など「耐力壁」に依存するつくりの建物は、
    永く暮らし続けることはできない。
    2×4工法も同様である。
    これが、最近の木造住居が短命になった一つの理由。

 塩尻近辺には、8間×6間程度の(つまり、「島崎家」から接客部分を取り去った大きさの)「本棟造」が多い。冬の季節風が強く、ときには雪も積もる地域には、このような大きな「土間(ダイドコロ)」を持ったシンプルな形の建屋が適切であったのだろう。

 もっとも、この近在には、1月13日に紹介した茅葺又首構造の「小松家」のような建物も多数ある。
 この並存の理由は一体何なのか、いまだによく分らない。
 異なる文化が、この分水嶺の地において顔をあわせたのかもしれない。

  註 塩尻を境に、北側の水は日本海へ、南側は太平洋へと流れゆく。

 写真、図は「重要文化財 島崎家住宅修理工事報告書」(長野県)より転載。
 加筆は筆者。

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