“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-22

2015-10-30 14:23:54 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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 The problem of low ground-floor rooms in storeyed ends
初期の木造二階建て建屋は、二階を設けた場合、地上階の天井が低くなり使いにくくなるのが欠点で、15世紀末になると、人びとの間に、それを改良しようという動きが現れてくる。fig60(下図) の STAPLEHURST に在る COPPWILLIAMは、片側だけが sisle 形式hallと、同時代に造られた二階建ての付属屋からなっているが、いずれも1370~71年の建設とされている。この建物には、当初の屋根の形が存在せず、また他の付属屋に係る何の痕跡も遺っておらず、しかも煉瓦でくるまれている。その当初の hall と現存の二階建て建屋の階下の天井高は、僅か 1.7m≒ 5.5ft(1ft=0.348m)である。しかし、付属屋の天井高は、当初の1.3m:4ftよりも高くされているように見受けられる。そうだとすると、付属屋の地上階は、当初は、居住用としてではなく倉庫・物置として使われていたのではなかろうか。またこの建屋の上階は、前面にはね出しているが、多分側面も同様であったと思われるから、新しく煉瓦を造り、その壁で床根太を承ける方策が採られる以前は、全面の建て替え以外に階下の天井を高くする方策はなかっただろう。
   註 煉瓦壁を新設したのは、使いやすい二階建てにするためであった、という意と解します。

このCOPPWILLIAMの事例は、初期の二階建木造家屋では、地上階の天井はきわめて低く、部屋として使うのではなく、単なる床下と考えられていた、ということを示している。もっとも、1.3mという天井の低さは、この地域で見付かった事例の中で唯一の例である。しかし、同様に階下の天井の低い事例が、OXFORDSHIREASTON TIRROLDThe COTTAGE である。この建物は年輪時代測定法で13世紀後期の建設と比定されている。ケント地域で、14世紀後期以前に建てられた木造の付属棟が一つも遺っていないのも、いずれもこのような造りだったからと考えられる。現存する中世後期の家屋の地上階の天井高は 1.5~1.7mの例が多いが、いずれも、後になって改築されたものである。これは、fig57fig58LYDDRYPE COTTAGEWESTBEREASHBY COTTAGE など貧しい下層の人びとの建物(いずれも当初の上階部分は改造で遺っていない)だけではなく、SMARDENThe FLEET HOUSEfig61EAST SUTTONDIVERS FARMHOUSE など上層の事例に於いても見られる。これらは、全面にはね出しのある WEALDEN 地方の建物だが、きわめて低い地上階に固執している。The FLEET HOUSE では、、木造の壁をそのままで天井を高くすることはさほど難しくはないにもかかわらず、はねだしのない面の地上階の天井は、約1.5mという最低の高さである。その一方、DIVERS FARMHOUSE は、当初は前面と側面の一方にはねだしのあるWEALDEN 地方特有の建物 だが、その地上階の天井は 1.7mしかなく、この場合は、17世紀に側壁を煉瓦造に改造するまでは高さを高くすることはできなかった。
つまり、二階の跳ね出しがあり、階下の天井の高さがきわめて低い木造建物の建物の場合には、側壁を煉瓦に造り替える以前は、天井を高くすることは容易ではなく、使い難さから全面的に取り壊されたり建て替えられたりされることが多かったのではなかろうか。




                                            この節 了   
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長くなりましたので、先回予告した The implications of partial survival の節は次回にまわすことにいたします。
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読後の筆者の感想                       
  日本でも木造架構の建物を煉瓦壁でくるむ工法があります。いわゆる「木骨煉瓦造」です。
  日本の木骨煉瓦造では、二階床を造る場合、根太は木造の梁桁材に架け、煉瓦壁で承けることはしません。煉瓦はあくまでも充填材なのです。
  木造の二階床を煉瓦壁で承けるのは煉瓦造、石造、いわゆる組積造の場合です。その場合、根太を承ける台になる木材:枕木、敷桁をあらかじめ煉瓦壁に
  設置するのが普通です。
  そのあたりの図解を以前の記事から再掲します。
   
  イギリスの場合、二階の木造床を、どのようにして煉瓦壁で承けているのかは、図がないので詳しくは分かりませんが、おそらく、上図の「組積造」と同じではな
  いかと思います。
  木骨式もできるように思えるのですが、多分、組積造:石造の「伝統」、「組積造・石造は木造よりも優れる」という意識が根強いからではないでしょうか。
  あるいは、材料:広葉樹ゆえに、細工がしづらかったか?

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続・何のためのデータ?

2015-10-25 11:01:08 | 近時雑感


例の「杭打ちデータ事件」、杭打ち施工を担当した技術者一人に「責任」を負わせようとする「動き」があるように思えます。理不尽な話です。
通常、杭打ちが終ると、次に、建物の底になる部分を杭頭に載せる工事に入ることになります。当然、建設工事担当業者:いわゆる工事施工会社の現場統括責任者:現場事務所長:は、「次の段階に進められるかどうか」の「判断」を行うはずです。それゆえ、今回の「事件」は、その段階で、現場責任者は「GOの判断」すなわち「次の段階に入ってよい」という判断を下した、ということになります。「適切に杭打ちが完了した」という「判断」です。これが、いわゆる「監理」です。したがって、事後に「杭打ちが適切でないということが分った」としたら、その責任は、単に一技術者の問題ではなく、「現場事務所」=「施工会社」の(設計監理業務を請け負った事務所があればその事務所も含め)、「工事に対する姿勢」の問題になるのが当然なのです。
ところが、事態の経緯を見ていると、いわば「懸命になってそうなることを避けようと動いている」、としか見えません。世の中の「信頼が揺らぐことを恐れている」のでしょうが、かえって逆に「信頼を損ねることになる」のが分っていないようです。
メディアもようやくそのあたりに言及しはじめたようです。今朝の毎日新聞に、建設地の地盤の成り立ちについても含め、解説する記事が載っていました(用語が、記事では「管理」になっていますが、「監理」の方が適切だと思います)。
   監理:物事が順調に進行するように責任をもって監督・指導すること。(「新明解国語辞典」)

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-21

2015-10-19 17:30:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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The heightening of low halls with open ends-in line
初期の高さの低い建屋は、使いやすい付属室を設けたいという要望に応える点でも大きな障碍となった。
既に触れたが、初期の石造家屋には(使いやすい部屋を設けた)二階建ての居室棟は普通に在ったが、14世紀後期以前に建てられたケント地域の木造家屋では現存事例はきわめて少ない。しかし、14世紀後期、15世紀初頭になると状況は一変する。多くの家屋では、hall付属屋が共に現存し、更に、それら付属屋が、その後に増改築もされず原形の遺っている場合が多い。
最も初期の( hall に直交して建てられている)付属屋は、高さも高く、丁寧に造られている例が多い。例えば、CHART SUTTONOLD MOAT FARMHOUSEfig103a :下図)の1377年に建てられた総二階の建屋は、三方向に跳ね出し、crown post の屋根を架け、二階の主要木材には、当初の窓枠も含め、すべて丸面取りquater-round moulding)が施されている。
   註 quater-round mouldingを「丸面取り」と訳しましたが、写真を見る限り、日本でいう「面取り」には見えません。
     おそらく、「木材の各稜線を整えて仕上げてある」ということと解します。

この程度の造りの建物の多くは、この時期:14世紀後期:に建てられている。その一つに、SITTINGBOURNECHILTON MANOR の当初の aisled hall の端部を移設した桁行3間の建屋があるが、おそらく、以前から当該部は使いにくいと見なされていたがゆえに造り替えられたのだろう。多くの場合、端部に増補される建屋は、側壁を hall と同列上に揃え、aisle 形式寄棟屋根とするのが普通であったから、改造はきわめて難しく、建て替えるしかなかったのであろう。
側壁を既存部に揃える建て方は15世紀中行なわれ、以前の事例と同じくfig57(下図) の LYDDRYPE COTTAGE のような aisled 形式の高さの低い建物に多く見られる。その他の事例は aisled 形式ではない。

小さな室を増補できた fig51(下に再掲) の PETHAMOLD HALL や、桁行1間の open hallfig58(下図) のWESTBEREASHBY COTTAGE では、当初の hall の端部の上に二階が設けられている。


ASHBY COTTAGEは、おそらく1500年に建てられただけで、既存部に二階を挿入するなどの増補が何も為されなかったきわめて稀な事例である。この類の事例はほとんど残存しておらず、このような方策は当時当たり前であったものと思われ、(仕切り壁などのない)自由な梁間を持ち、側壁の高さが2~3mある建屋は、遺るべくして遺っていると言うことができ、それゆえ、更なる増改築にあたっても取り壊されないで済むのである。
高さの低い建物の側壁を、当初の形状全てを壊さないで高くすることも可能だった。時には、小屋組を承ける桁となる側壁を高くするために、従来の柱に添えて新しく高い柱を設けることが行われている。その一例が fig59b(下図) の SPELDHURSTに在る The OLD FARMHOUSEhall である。あるいは、fig59aDETLING に在る WELL COTTAGE のように、短い新しい柱を既存の桁上に据えて新設の桁を設ける例もある。また、SMARDENThe DRAGON HOUSEYALDINGNIGHTINGALE FARMHOUSE でも、束柱を立てて高さを上げている。

いずれの場合も屋根は架け替える必要があり、WELL COTTAGEのように架け替えに古材を再利用する場合もある。
しかし、このような手間のかかる改築はきわめて事例が少ないが、それはおそらく、人びとが、なるべく楽に建て直しをしたかったからではないか、と思われる。
   註 「既存建物の取り壊し→新築(古材再利用も含む)」の方が、「既存建物の一部改築による更新」よりも容易である、という意と解します。
                                          この節 了
      *************************************************************************************************************************   次回は次の節の紹介の予定です。
 The problem of low ground-floor rooms in storeyed ends
 The implications of partial survival

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――                                                            筆者の読後の感想
  日本の場合、二階を設けるために柱を継ぎ足すという事例を、私は一度だけ、秩父の養蚕農家で見たことがあります(下の写真、柱の下の部分に継手部分が
  かろうじて写っています。)
    
  元茅葺の屋根を板葺に変えるときに(更にその後瓦葺になる)、大黒柱を継ぎ足したようです。そうすることで、小屋裏を天井の高い二階に変えて、養蚕の部屋
  に使ったのです。その後、この形式の建物が一帯に定着し、新築の際は、最初からその形で計画されるようになったようです。

  ところが、イギリスの木造は、増改築がかなり面倒くさそうです。秩父のような方策は、材料の点でも到底できそうにない。柱を継ぎ足すなどは論外。改築よりも
  取り壊して新築することが多い、というのも納得がゆきます。
  ここでも、改めて日本の木造工法の特色を再認識した次第です。

                                                        

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何のためのデータ?

2015-10-17 15:33:16 | 近時雑感

草刈り前の空き地、オギの穂が揺らいでいます。
ここしばらく、産業界でのデータの《偽装》《ねつ造》の話題が騒がしい。最新は、建物の基礎杭にかかわるデータ偽装の話。
私の関わった設計でも杭工事を必要とする事例がいくつかありました。当然ながら、杭を必要とするのは、建設地の地盤が軟弱な場合。
地盤の状態は、外見では分らない場合があります。
「筑波研究学園都市」の最初の小学校「旧桜村立(現つくば市立)竹園東小学校」もその一つです。
筑波研究学園都市」の開発地域は、一見すると良好な地盤のように見えますが、実際は東京下町の江東地区とほとんど変わらない軟弱地盤(硬い地盤は地表から40m以上のところにある)の一帯です。それもそのはず、地形図を見れば分りますが、一帯は霞ヶ浦にそそぐ河川が長い年月の間につくりだした土砂の堆積地なのです。だからと言って、生活のための水:井戸水:が得やすいかというとそうではない。よい飲み水は、よほど深く掘らないと得られない。そのため、一帯は集落が生まれず、外地からの帰国者の開いた戦後の開拓地も、場所がきわめて限られ、一帯はほとんどが雑木林・赤松林だった。そのいわば「無住地帯」が「研究学園都市」の「開発地区」となったのです。

この小学校の杭工事は、たしか、「摩擦杭」だったと思います。建物が軽いため、硬い地盤まで杭を打たず、杭とまわりの土との摩擦で重さを承けようという方法。不足する耐力を本数で支持力を補うわけです。当然、事前に地質調査を行います。
硬い地盤まで杭を打つのは、東京都職員組合青山病院と都立江東図書館の工事で体験しました。
前者では、既製のコンクリート製杭を、杭打機で打ち込む方法、後者では、現場で必要箇所に太い孔を穿ち、その孔に組んだ鉄筋を差し込みコンクリートを打設するいわゆる現場打ち杭。
前者の場合の打ち込みの適不適は、杭打機:ハンマーが杭頭をたたいた時の杭の沈下量で確認したと記憶しています。
報道によると、現在は沈下量はセンサーで測るようですが、当時は(今からほぼ半世紀前のことです)、杭に記録紙を添え、その脇に固定した鉛筆を紙にあてがって、沈下の様子を紙に記録する、という方法で確認していました。地盤が硬いところに到達すると、一回の叩きに拠る量が小さくなってくるのです。きわめて原始的な方法ですが、硬いところに到達したことを、実感で受けとめられるのです(杭を打つ音も変ってきます)。設計監理者は、全部の杭打ちに立ち会っていたと思います。要するに全数検査です。杭打機が杭を叩くとき落とす油を雨のように受けながら、鉛筆をあてていたことを覚えています。
後者の現場打ちの場合、孔の深さの適否は、ドリルが掘り出す土の質、様態を事前の地盤調査の試料と比較して確認していたと思います。

今話題の杭打ちは先端にドリル状の刃が付いている鉄製の杭を土中にいわばねじ込む方式らしい。その土中への沈下量はドリルの回転の際の負荷の大小をドリルの回転の様子で測定するようです。硬くなると回転が鈍くなり、それが数値化されて記録される。おそらく、杭打ちのハンマーの打音を避けるために開発された工法でしょう。

かつて私が立ち会った杭打ちの適否の確認はアナログだったのですが、今はそれもデジタル化されているのです。そして多分、機械のプリントアウトするデータは、現場の汚れが着いている鉛筆手書きのデータに比べ一見「精確」あるいは「科学的」に見えるかもしれません。
しかし、そうではない、と私には思えるのです。何故なら鉛筆手書きのそれには、必ず「立会者の現場での実感」が伴っているからです。
杭打ちの様子は、一本ごと、場所ごとに微妙に違って当り前で、手書きにはその状況がそのまま素直に現れます。
それゆえ、手書きの場合には、今回の事件で言われているような「実測データの《創作》」や、「《他の杭のデータの転用》使用」などはできません。つまり、その意味では、数等「正確」「現場に忠実」「科学的」なのです。

逆に言えば、《作業の合理化=経費の削減=データの機械測定・デジタル化》が今回の「事件を生んだ温床」だったと言えるのかもしれません。「現場離れ」の作業現場が当り前になってしまったのです。
もちろん、機械によるデータの測定を否定するつもりはありません。常に、測定が現場に即しているか否か、の確認が必要である、ということです。
すなわち、「『何のためのデータ』測定か?」ということについての「認識」です。
報道を見ていると、今回の「事件」では、「データを採ること」が単なる工事進行上の一《儀式・セレモニー》になっているような印象を受けました。建物が自立できるか、ということを確認するための作業である、という「認識」が視野になかったように思えます。[文言補訂18日9.45am]
第一、あの敷地にあのような高密度の計画がはたして妥当か?という疑問も私は抱きました。
硬い地盤は地下で平坦ではなく谷があり、その谷へ橋を架けるように建物を建てる計画のようです。計画検討段階で、昔の地形図も参考にすれば、計画も変ったと私には思えるのです。《経済的合理性》:《どれだけ儲けられるか》、という「計算」が先行したのではないか、とも思えました。

このような[工学系の分野」に見られる「現象」が、明らかに、「原発事故」に連なっているのです。

数値信仰:データ至上主義に陥らないように気をつけたいと思います。「数字で示すこと=科学的」ではないのです。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-20

2015-10-12 12:14:57 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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The insertion of first floors in low open halls高さの低い hall に二階床を増補する方策のいろいろ

中世後半になると、open hall に造り付けの暖炉を設けたいという願望が強くなる。
hall 部分の二層化とともに急速に進んだ壁内の集合煙突は、暖房をよりよくし、付属室が設けやすく、二階諸室間の連絡をよくする効果があった。この変化は、現存する中世の建物すべてに見られるが、しかしそれは突然起きたのではない。open hall は、16世紀初期に、総二階建て建屋に替り始める。そして、当初の open hall に床を張ることは、それより少し遅れて始まっている。ケント地域の中世遺構の大半は、高さが高いため、二階床を設けることには何ら難しくなかったが、しかし全ての事例がそうであったわけではなく、このような改造が不可能な事例も多数あったことも知っておかなければならない。
14世紀後期までは、大抵の家屋は aisled 形式 quasi-aisled 形式だったようだ。かなりの大きさがない限り、二階を設ける際に難題が生じる。 二階床が設けられたとき、aisled halltie beam :繋梁は、下を通るには低すぎ、二階にできる空間の質は劣悪で用途が著しく限定されてしまうからである。おそらく、背の高い大きな aisled hall だけが生き永らえることができたに違いない。すなわち、かなり大きな aisled hall では、aisle の軸組・小屋組の一組を移動させることで、使いにくい屋根の三角部分をなくし、あらたに壁を立ち上げ窓を設けることもできたからである。このような改造は、fig 50 :下図:のように、すべての時代の aisled hall に見られる。

時には、aisle の部分が全面的に改造される場合がある。AYLESHAMRATLING COURTfig 9:下に再掲 )や HADLOWBARNES PLACEfig47:下に再掲 )のように、aisle :側廊・下屋:の幅を狭めることで高さを確保する方策が採られる例がみられるが、この方策例は、ESSEX では普通に見られる。


あるいはまた、EASTLINGDIVIAN COURT (解説図なし)のように、aisle :側廊・下屋:arcade上屋柱列: すべてを改造して側壁を高くする方策もあり、その場合は、当初の aisled hall の形状は、中央部の小屋組の tie beam :繋梁上にだけ遺されている。これらはいずれも、かなり大きな上屋部分の小屋梁を承ける arcadeの高さをを高めた家屋が普通であるが、このように頑丈で大きな事例は aisled hallbase-cruck hall にはまったく見かけない。また、PETHAMDORMER COTTAGEfig34 :下に再掲)や YALDINGNIGHTINGALE FARMHOUSEfig56:下図 )のような tie beam :繋梁が一段と低い事例では、こういう方策は不可能である。


DORMER COTTAGEでは、open truss は消失しているが、hall 上部の closed truss 越しに 戸棚の設けられた低い二階がわずかに遺されている。また、NIGHTINGALE FARMHOUSEでは、base-cruck truss 一組以外は全て取り壊され改築されている。他の aisled hall でも、多少でも原型を遺している事例はきわめて少ない。しかし、それが全てである、とは言い切れない。しっかりした二階を増築できるのは aisle 形式hall だけである、というわけではないのである。
このことは、やや時代は下る例が多いが、他の背の低い hall で為された改築の様態を見れば明らかである。
fig51(下図) の、PETHAMOLD HALL や、fig52(下図) の1380年建設の TEYNHAMLOWER NEWLAND は、背丈の低い hall に二階を増補した事例で、しかも稀に見るよくできた事例である。


OLD HALLでは、open trusstie beam :繋梁の位置を変えることで目的を達している。すなわち、crown post の根元を切断し、残りをジャッキアップして新設した collar :梁で承けるようにしたのである。
LOWER NEWLANDでは、tie beam :繋梁:を一部切り取り、切断した木口:端部を、新設の出入り口の jamb :縦枠の柱に取り付ける方法で問題を解決している。
これらの場合、二階を増補する上での唯一の障碍は、open truss の部分であったと言えるだろう。何故なら、hall 端部では crown post を増築棟の高い壁で承けることができるからである。これに似た方策は、OLD HALL の増築部との接合部にも見られるが、しかしその上手側では、新設の二階部へは(低い tie beam の下を通らないですむように)独立の階段が必要になり、増築部は使い勝手が悪い。それゆえ、この方策は、建て主にとって必ずしも都合のよい手法ではなく、今日ではめったに見られない。
また、tie beam を切り取る方策を二つ以上の truss で為されている事例は稀で、おそらく、架構を危うくすることの少ない別の方策が種々検討されていたものと思われる。
たとえば、tie beam の位置が低い遺構のいくつかでは、( truss を切ることはせず、その箇所で)二つに分けて使うように改造していることに注目してよいだろう。
たとえば、1389年に建てられた STAPLEHURSTHILL CRESTKENT COTTAGELOOSE PEARTREE COTTAGEfig53:下図の上 ) がその例である。

いずれも、その改造が何時為されたかは不明ではあるが、tie beam を一組も切り取っていないという事実は、この分割利用は二階床の増補と同時か、あるいはそれ以前から行なわれていたものと思われる。
このような言わば家屋を二分する方策は、二階を増補するにあたっての一つの解決策であり、また既存の架構の著しい取り壊しを必要としない唯一の策でもあったことを示している。
多くの背丈の低い hall を持つ家屋では、軸組・小屋組は一つだけ活かされ、それ以外の軸組・小屋組は取り壊されている。
通常、fig54( 上図の下)の1466年建設の MOLASHHARTS FARMHOUSE のように、新たな妻壁に設けた集合煙突に接する open truss が現存している。そこでは、増補の付属諸室は、 hall と同時建設の( hall に直交して置かれた)背の高い別棟に設けられている。SELLINDGESOUTHENAY COTTAGEfig55:下図 )では、家屋の中心は、当初の hall の端部に移っている(そこは、16世紀の改築で大きくなった)。

これらの改築事例は、いずれも当初の建屋が、長く使えるだけの十分な高さがあった。しかし、そうでない事例もないわけではない。fig56YALDINGNIGHTINGALE FARMHOUSE には、後補の集合煙突の後側に base-cruck truss が一つ残存している。当初の wall plate (側壁上の桁の役割を持つ部分:図参照)は 2.1mの高さで後補の二階床のほんの少し上に位置し、それより少し高い位置にある arcade plate (上屋を承ける桁の役割を持つ部分)とともに、 open hall の全長にわたり通っていて、二階床を造るうえで邪魔になっていた。それゆえ、二階床と木材で支持する煙突を造るには、当初の hall の架構に手を付けざるを得なかったのである。上手側の付属室は、その形状は不明だが、(間仕切壁となる)closed truss を壊した新しい建屋として建て直されている。その際、arcade plate (上屋を承ける桁の役割を持つ部分)を移動し、壁高を高くし、屋根も全面的に造り直されている。後に、前面の壁も全て造り直され高さも高くなり、直交して置かれた建屋よりも更に背の高い建屋が増築されている。ここでは、新設の集合煙突が既存の open truss の一部を利用して造られ、建屋の下手側を取り壊しても特に通り抜けも考えていないため、base-cruck を壊さないで済み、現存している。
これに似たような改築・増築が為された形跡をうかがわせる事例は、かなり見つかっている。その増改築は、上手側であったり、下手側であったり、あるいは両側であったりときわめて多様である。

                                        以上で、この節 了 
     ************************************************************************************************************************* 
次回は次の節を紹介の予定です。
The heightening of low halls with open ends-in line
The problem of low ground-floor rooms in storeyed ends

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想
この節を読んで、あらためて、いわゆる「和小屋組」:「束立組」の効能を思い知らされました。その工法では多層の造りも容易につくれるからです。しかし、イギリスでは相当苦労している・・・。
   日本の多層建築の工法の技術の展開については、城郭建築~住居まで、2007年4月11日からの「日本の建築技術の展開」シリーズで触れています(住居に
   ついては5月20日以降になります)。
   バックナンバーから検索、お寄りください。
そして、なぜイギリスをはじめ西欧で、いわゆる「和小屋組:束立組」工法が主流にならなかったのか、考えざるを得ませんでした。
まったくの推量ですが、日本の主たる材料が針葉樹であること、そしてその材料に即した「貫」や、その延長としての「差物」を使用する技法の習得・普及、が関係しているように思えます。
しかし、針葉樹の得やすい地域は西欧にもある、しかし、そこでは「束立組」や「貫」、「差物」が見られるわけではない・・・。なぜか?
実は、筆者が今回この書物を詳しく見る気になったのは、多少なりとも、そのあたりが分るのではないか、という「期待」があったからなのです。しかし、今のところ、この「なぜ」の解は見つかりません。
分ったのは、建物づくりの歴史は、まったく、それぞれの地域特性に拠る、ということ。つまり、一様に考えられない、一様に考えてはならない、という「あたりまえ」のことでした。このことは、心しなければならない大事なことです。とかく忘れがちになるからです。
このあと、どういう展開になるか分りませんが、読解を続けます。




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一億総活躍社会??

2015-10-09 15:13:42 | 近時雑感

秋が早い!

「一億総活躍社会・・」、これは《新》内閣の政策の目玉の一つだそうです。
ある年代の方がたは、この文言で、あの「暗い時代」を想起するのではないでしょうか。戦時中の「国家総動員・・」「一億総動員・・・」のスローガンです。

大体、今現在わが国で暮している人びとは、それぞれが、それなりに「活躍」しているはずです。もちろん、なかには内容として好ましからざる〈活躍〉をしている人びとがいるかもしれませんが、決して全てではない。
むしろ現今の問題は、現政府が、そういう「「目玉」を掲げる一方で、人びとの真摯な「活躍」に対してブレーキをかけるような各種の施策を行なっていることだと思います。典型は次から次へ出されている「福祉関係」予算の削減策。
たとえば、介護関係の予算の削減→介護職の方がたの報酬の悪化、派遣労働の規制の緩和→労働者の差別の増加、医療費の削減→高齢者の生活の圧迫・・・。生活保護費の削減→人びとの生活権の侵害、・・・・。
つまり、これらは、一言で言えば、人びとの「健全な活躍」を妨げるための施策に他なりません。

であるとするならば、「一億総活躍」とは何か?
それは、「国家への活躍」を願っているように感じられます。いわば「国家への忠誠」を求めている。だから、かつての「総動員」を想起するのです。

現首相およびその周辺の方がたの「美しい国」願望は、遂にここまで来てしまったのか・・・。恐怖さえ感じます。

私たちは、甘言に惑わされず、いっときも、気を緩めてはならない、そのように私は思います。

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工事中のお知らせ

2015-10-05 11:12:44 | その他


10月に入り、「涼しさ」を通り越して「寒さ」を感じるようになりました。
冷たい東からの海風(いわゆる「やませ」)が吹き込むとき、茨城県は関東の中でも気温が低めになるのです。

「中世ケントの家々」の続き、編集(読解)に手間取ってます。あと数日かかりそうです。

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