正体 露顕

2015-06-27 14:32:48 | 近時雑感
沖縄の新聞二社は潰せ・・、こういう「発言」が公党の「勉強会」であった、という昨日のニュースには、正直たまげました
この「勉強会」は現首相のいわば「とりまき」によって企画されたそうで、まさに現首相をはじめとする方がたの思想の根幹を世の中に広く露顕させた、という点では、表彰ものの企画だっと言えるかもしれません。

当然ながら、名指しされた沖縄タイムス琉球新報二社(両紙のHPにリンクしています)は、編集局長連名で「抗議声明」を出しています。
この「声明」と、今日27日付の両社の「社説」を、前記両社の web 版から転載させていただきます。


琉球新報の社説

沖縄タイムスの社説


他の地方紙、大手紙の論調も、ほぼ同様でしたが、私が目を通した中で、ただ一紙だけ、例の「御用学者の薦め」を説いた大手紙だけ、歯切れが悪く、そこには次のような一節があります:曰く「辺野古移設は、市街地の中心部にある普天間飛行場の固定化を避けるための実現可能な唯一の選択肢だ。「移設反対」を掲げる沖縄2紙の論調には疑問も多い。」この新聞の本音は、「勉強会」と同じなのではないか、と私には思えました。

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
こういう飛び入りの「事件」のおかげで、「中世ケントの家々」の続き、編集が遅れています。ご容赦を。

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これが「丁寧な」言葉か?

2015-06-25 09:56:49 | 近時雑感
「丁寧」という言葉は、ここしばらく、政府要人の口からよく発せられる言葉です。

6月23日の「沖縄全戦没者追悼式」での現首相の「挨拶」内容を新聞で読んで、何という通り一遍な・・・、これは「丁寧」なんてものではない、と感じたのは、私だけではないようです。

先回載せましたが、「丁寧」とは、「相手の立場・気持ちを考えて、真心のこもった応対をする様子」のことを言います。
ところが、首相の「挨拶」は、むしろ、参列した沖縄の人びとの心をいたぶるもので、「帰れ!」コールや「戦争屋!」というヤジが飛び交い、沖縄県知事の「挨拶」に対する「熱狂的」反応とは対極にあったようです(拍手したのは自民党県議数名だけだったとのこと)。

このあたりについて、直截な「解説」が、信濃毎日新聞の24日付社説にありました。web 版から転載させていただきます。

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美辞麗句で誤魔化されまい!

2015-06-19 11:31:43 | 近時雑感

梅雨時はやはりアジサイ。
今日は梅雨寒。厚着してます。
[写真追加 19日2.40pM]

末尾に、東京新聞 web 版から 瀬戸内寂聴氏の、国会前の安保法制反対集会で行なったスピーチを転載させていただきます。[19日3.15pm追記]


平和安全法制整備法案」「国際平和支援法案」、現在国会で審議中の法案の正式呼称です。
この法律を《整備》する要点は、「武力行使」を容易に行えるようにしよう、ということに尽きるでしょう。つまり、「平和」「安全」とは真逆な行為を行いやすくしようというもの、と言えるはずです。だから、「戦争法案」と指摘された。

この「平和・安全」という文字が付け加えられたのは、どうも、そういう指摘が顕著になったからのようです。憲法学者の多くから、「違憲」「9条に明確に抵触する」と断じられたことも契機のようです。
「平和、安全」という「衣」を被せることで、「正体」を隠そうという小賢しい「意図」が見え見えです。
新聞にもその趣旨の投稿が多く在りました。かつて、全滅を「玉砕」、敗退を「転進」と言い換えたことに通じるという指摘もありました。いずれにしろ、「言葉」というものに対して失礼極まりない。そういえば、敗戦と言わず終戦と言うのも、本当のことを認めたくない、言い替えかも・・・。

一般の方がたの「感覚」は、時に、「有識者」などよりも、鮮烈な場合があるように思います。
いつであったか、「平和憲法」という呼び方をやめ、もっと直截に、「不戦憲法」と呼ぼう、「9条」は、「不戦条項」「不戦宣言」だと言おう、という投稿を見かけたように思います。
そう呼ぶようにすれば、「憲法改正を望む」、「9条改正」を望むと言うことは、「不戦」を否定し、「戦いたい」「武力を振りかざしたい」と言うことにほかならなくなる、つまり、「改正」論者の「意図」が、より鮮明に示されるようになるではないか、と論じていました。大いに納得しました。

言葉を「都合よく」使う人たちが、最近の「偉い人」たちの中に数多く居られるように思っています。「美辞麗句」で「誤魔化そう」とする方がたです。しかも、それをもって、(人びとに対して)「丁寧に説明している」ことと勘違いしている・・・・。
「丁寧」とは、「相手の立場・気持ちを考えて、真心のこもった応対をする様子」のこと(「新明解国語辞典」)。
時の総理の国会審議での「応答」のどこに「丁寧」がある?と思うのは私だけでしょうか。



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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-15

2015-06-15 16:01:19 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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今回は、
5.Construction and roofs : late 13th and early 14th centuries の紹介です。

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   5.Construction and roofs : late 13th and early 14th centuries   13世紀後期~14世紀初頭の工法と屋根

ケント地域に現存する中世最古の住居の構築法についての論議は、僅かに遺されているきわめて断片的な諸特徴を基に進めるしかない。
初期の石造家屋にはかなりの数の部分が遺っているが、その屋根の多くは完全に造り替えられているいる場合が多く、当初の形状が遺されている事例は皆無に等しい。また、木造家屋の場合では、前章で触れた端部の全面的造り替えの他に、壁が堅い材料で造り替えられたり、内部に用いられる木材が、部屋を大きくあるいは高く改造するために取り替えられている事例も多い。それゆえ、13世紀から14世紀中期にかけての工法を考えるための資料は、完全な姿が健在の小さな事例とそれ以外の事例の断片的部分しかないのである。それゆえ、形成期の工法発展の様態を考察・推察するにあたっては、このような場合によく起きがちなのだが、これらの少ない資料を必要以上に重視しすぎないように心しなければならないのである。
中世の初期の工法を形体の上で単純に図式化してまとめることはできない。あえて言えば、14世紀中期以前の工法は、編年的に粗く整理すると、特徴から四つに分けられる。第一は、「古風な」工法による木造建築で、そこでは、交叉する斜材や後の時代には取り替えられた部材を用い、継手・仕口も旧い形式で、いかなる垂直方向を支える部材(註 束柱の類か?)も使われていない。第二は、第一のグループとそれほど大きくは違わない工法で、主に石造建築に見られるが、屋根を承ける垂直部材がなく、簡単な scissor braces や、collar (beam) (小屋組の中段に設ける部材、母屋の類を言うようである)、時に crown struts棟束の類か:後掲 fig41 参照)が使われる。これらの事例は比較的よく記録に遺されているが、第一のグループと次の第三のグループとの時代的な関係は議論の余地がある。第三のグループは、木造、石造両様在る。このグループの主な特徴は、小屋組を承けるための垂直部材を用いる点にある。よく使われるのは、collar purlin (母屋)で、crown post や king strut の支持の役割を持つと同時に、当初の小屋組の横方向の強度を高めるにも効いているが、使われている木材や細部は初期様相を思わせる形状をしている。また、木造部を有する場合、多くは aisle 形式の架構で造られている。第四のグループは、必ずしも第三のグループと簡単に区別できるわけではないが、それは、base crucks など独立の arcade post上屋柱に相当する柱列の意と解します)を取り去ることのできる工法( aisle 形式ではない、という意と解します)で造られた建物群である。
ここで触れた各種架構法は、14世紀ちゅき以前にすべてケント地域に出現しているが、同じ時期にいくつものタイプが同時に存在している場合もあるので、それらを正確に編年・整理することは容易なことではない。また、壁を石造にするか、木造にするかが屋根の形状に大きく影響していることも否めず、そういった材料の選択には、建て主の財産や社会的な地位の様態がおそらく関わっているものと考えられ、状況の解釈は簡単なことではない。

      Early wall construction and interrupted sills  初期の壁の構築法と「土台」の利用

   註 interrupted sills :直訳すれば、中途を横断する「台」(窓台、敷居の類)の意になりますが、図から、日本の「土台」に相当する材と解しました。
     日本でも、古代は、柱は直接「地面」に立つものとされ、「土台」が現れるのは、中・近世の城郭建築からと言われています。
     多分イギリス(西欧)でも同様で、それがinterrupted という表現になるのではないかと思います。後掲の fig36 の解説を参照ください。
     なお、日本の「土台」の造りかたについては、下記に詳しく説明してあります。
     「補足・『日本家屋構造-1』

ケント地域の遺構の発掘から、13世紀後半以降の木造架構の建物の「壁」は、石造の壁体の上に設けられ、 aislearcade の柱も padstone (「礎石」の意と解します)上に置かれていることが分っている。
   註 padstone :直訳すれば「枕石」「詰石」の意になりますが、「石材の承け台」:「礎石」の意と解しました。
ただ、かなり旧いあるいは原初的と考えられる遺構事例でも、 HERTFORDSHIRE(大ロンドンの北に隣接する) や EAST ANGLIA (イングランド東部)で見付かるような earth-fast post :掘立柱は見付かっていない。数は少ないが、基底部まで現存する独立の arcade post上屋柱が見付かっているが、その多くは、後世に足元が切られ、石材など堅い材料が積まれ、padstoneあるいは stylobate の存在が発掘でも明らかになっている。このような上屋柱の建て方は、14世紀初期建設の NURSTEAD COURT などでも使われている。
   註 stylobate :辞書には、柱列(特にギリシャ建築の)の礎石の最上段を言う、とあり。
     この段落は、「礎石建て」(「石場建て」)の発生経緯についての解説と思われる。何故か、木部の腐朽についての説明がない。
初期の木造建築は、ほとんどがその外部に面する壁が建て替えられているが、多くの場合、木材の sill beam (先の interrupted sills :「土台」と同義と解します)が石を積んだ低い壁の上に置かれている。しかし、時には、柱は sill を横切り礎石に達している場合があり、sill は柱の両側面に枘差で取付いている。
   註 この仕様は、日本の「隅柱」と「土台」の仕口に相当すると思われます。下掲 fig36 の隅の柱参照。
LEIGH MOAT FARMKENT PLUCKLEYPIVINGTON 、そして SUSSEX SALEHURSTPARK FARM の3遺構の発掘により、13世紀後期~14世紀前半にはこの工法が存在していたことが明らかになった。そして、これらより多少遅れるが、1380年代に建てられたと思われる事例が、TEYNHAMLOWER NEWLANDS に現存する( fig36 下図)。

この事例では、主な軸組の柱以外は sill beam土台より下に伸びている。同様な収まりは、fig10 (下に再掲)の14世紀初期の数少ない遺構 CHILHAMHURST FARM でも見ることができる。この事例では、主な二つの軸組の柱は、高い位置の sill beam 土台に据えられていて、出入口の枠材を兼ねている隅柱は、地上面に置かれている低い方の sill beam 土台まで伸びている。また、高い位置のsill beam は、柱(枠材を兼ねる)の側面に枘差で取付いている。

この手法は、早くから、イングランド北部ではごく普通の工法であったが、14世紀末になると、南東部にも、広く普及したようである。

      Timber-framed aisled halls and passing braces

現存する遺構から、初期の事例のうち1~2事例は、13世紀中期に生まれているのではないかと推察されるが、大部分は世紀後半の建設と見た方がよいだろう。正確な年代判定は至難の技であり、現在のところ、確とした建設年代が分っているのは、年輪測定法で1294~95年頃と判定された EASTRY COURT の事例だけである。実際のところ、ケント地域には、初期の工法による建物は現存していない、と言ってよいのである。たしかに古式の braces :斜材を用いた建物、各種の枘差仕口を用いている事例も散見されるが、古式の典型の重ね継lapping jointing )を用いた事例はきわめて少なく、CANTERBURYGOGAN HOUSE ぐらいしかない。ここでは、1238年以前の構築と考えられる aisle 形式の小屋組の brace斜材を「重ね」部で相互を段状に刻んで交叉させている。また、BORDENTHE PLESTOREAST FARLEIGH6 ADELAIDE COTTAGE などでは、 brace の交叉部の重ねの痕跡を遺す古材が使われている。fig37 はその古材使用例である。

passing brace は、fig8EASTRY COURTfig38aEASTLING MANORSATTON VALENCEBARDINGLEY FARMHOUSEfig38b TONGENEWBURY FARMHOUSE に使われていて、いずれも上部では重ねで交叉させ、斜材の下部は柱に枘差となっている。
おそらく最初の2事例が最も旧いと考えられるが、そこでは、 brace :斜材自体が直ではなく先細に加工されており( fig8 が分りやすい)、頂部では collar :繋ぎ梁 brace :斜材は重なり、端部は 垂木に一本の釘で取付いている。いずれの場合も、斜材arcade post :上屋柱で途切れ、必要に応じて、側廊部には別の brace :斜材が加えられる。

これらの事例に使われている木材は、ほぼ正方形断面の直材である。しかし、NEWBURY FARMHOUSE は少し異なり、交叉する brace の下側には湾曲し化粧彫りのあるアーチ形の方杖があり、軒先部は、ashlar piece :束柱で支えられていて、その三角形の側面には当初は板が張られていたらしい( fig39 a 部を参照)。
   註 ashlar piece: Short post from a tie beam to a rafter near a masonry wall.
     fig38 aは、tie beam からではない。
     short post :束柱(短い柱)。「束」は「束の間」の「束」。
     このような三角形状にするのは、合掌材:垂木にかかる荷重を、先端の一点ではなく、分散させて壁体に伝えるための(現場の)工夫でしょう。
     三角部に板を張るのもそのためです。これは、「構造力学」誕生以前の智慧です。
この建物は、他の事例に比べると、全体に洗練されていて手の込んだつくりになっている。その横断面図は、HERTFORDSHIRE IPPOLITTSALMSHOE BURY (礎石に施されている dog-tooth の装飾から、13世紀中期の建設と比定)に似ている。しかし、dog-toothは、最近の SUSSEXWARBLETON OLD RECTORY の調査では、1294~95年頃のものと比定されているから、(NEWBURY FARMHOUSE)は13世紀のかなり遅い時期の建設と考えた方がよいのではないだろうか。
   註 dog-tooth :イギリスの初期ゴシック建築の「犬歯飾り」。適切な参考図を探索中ですが未発掘。
実際、ケント地域では、枘差仕口の使用状況や、年輪測定法で1294~95年頃の建設と判定されたEASTRY COURTの存在から、 aisled hall が、当初はこの地域の一般的なつくりではなかったことを示していると見てよいだろう。CANTERBURYGOGAN HOUSE の他には、LIMPERFIELDOLD COURT COTTAGE に比べることのできる構造・つくりをもつ aisled 形式の木造家屋は見付かっていない。OLD COURT COTTAGE は、SUSSEX との境に近くに在り、13世紀中期の遺構と比定されている。
初期の遺構の建設時期の比定が後にずれ込む傾向に対して異論が出るのはおかしくない。と言うのも、次の形態の木造架構が現れるのは世紀の替り目頃かそれよりも遅れるのだが、その間のギャップは、あまりにも大きいからである。このあたりを正確に跡付けるには、初期の遺構の建設時期を(いろいろな方策で)探究するしかないだろう。

        この項終り
      *************************************************************************************************************************

次回は、Early roof construction in stone-walled buildingsの項を紹介の予定です。

     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この項の筆者の読後の感想

先回の「感想」でも触れましたが、あらためて、日本の木造技術・工法の「自由度」の高さに気付きます。
どういうわけか、イギリスでは The Last of the Great Aisled Barns -7 に紹介した base cruck のような 「合掌」形式に強い「拘り」が在るようです。
なお、この 「The Last of the Great Aisled Barns 」の紹介では、 aisle 形式の諸相を紹介していますので、折りを見てご覧ください(下記)。

The Last of the Great Aisled Barns -1
The Last of the Great Aisled Barns -2
The Last of the Great Aisled Barns -3
The Last of the Great Aisled Barns -4
The Last of the Great Aisled Barns -5
The Last of the Great Aisled Barns -6
The Last of the Great Aisled Barns -8:最終回
コメント (2)
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《大新聞》、「御用学者のすすめ」 を説く !!

2015-06-07 09:58:31 | 近時雑感
ここ数日、メディアを騒がせているのは、「憲法審査会」で参考人がいわば異口同音に現在審議中の安全保障関連法案は違憲であると述べた、というニュースです。
参考人は、与党、野党から推薦されるようですが、政権与党推薦の参考人からも、違憲と断じられたのです。

少なくともこの見解は、私ならずとも、一般の人には、至極当然の見解である、として承けとめられたと思うのですが、どうやら、ある人びとにとっては、「非常識」な見解であったようです。
いろいろな新聞の社説を読み比べましたが、大勢は、「違憲」という見解に対して肯定的であったのに対し、唯一ある《大新聞》だけが「異を唱えて」いたのが目につきました。
その部分を、下に引用します。
   「・・・・看過できないのは、政府提出法案の内容を否定するような参考人を自民党が推薦し、混乱を招いたことだ。
   参考人の見識や持論を事前に点検しておくのは当然で、明らかな人選ミスである。・・・」
敢えて新聞名は書きませんが、見当は付くでしょう。

この《見解》を私なりに「意訳」すると、政権与党は、政権の見解に添う見解の持ち主を参考人として指名せよ、ということであり、更に言えば、政権から推薦された人物は、政権に対して批判的な見解を述べてはならない、ということです。
これは即ち、「御用学者」であれ、ということです。招致した参考人に対して礼を失している。
以前から、現政権が好む「有識者」会議なるものを胡散臭いと感じているのは、政権に「都合のよい見解を持つ《有識者》」を集めているように見受けられるからですが、この《大》新聞は、そういう「方策」を是としている、としか思えません。つまり、自ら進んで「御用新聞」になっている・・・。

怖ろしい世の中になってきた、そう思えてなりません。

このあたりをやんわりと皮肉っていたのが、7日付信濃毎日新聞のコラム、「斜面」でした。下に web 版から転載させていただきます。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-14

2015-06-04 14:55:14 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、
今回は、以下の部分の紹介です。

   Lower-end accomodation in stone houses
     Layout and circulation
     The first floor: access and accomodation
   Subsidiary accomodation in stone houses : conclusion
    Subsidiary accomodation in timber-framed houses
     Cross wings
      Evidence for secondary rooms in single-range structures
     The form of early timber ends and the reasons for their disappearance

     *************************************************************************************************************************
Lower-end accomodation in stone houses 石造家屋の下手側の附属諸室について

    Layout and circulation   諸室の配置と導線

現存する石造家屋の(下手側の)サービス諸室に供される側は、上手側とは異なり、一つの同じ屋根の下に hall の続きに並んで置かれることが多い。 CHARTHAM を除けば、CHRIST CHURCH PRIORY (修道院)の官邸全てがこの形式を採っていて、NURSTEAD COURT HORD FARM も、そしておそらく IGHTHAM MOTESOUTHFLEET RECTORY も同じと見てよいだろう。
石造家屋で下手側に附属棟を有する事例は僅か3例しか知られていない。すなわち、CHARTHAMの官邸、PENSHURST PLACEGALLANTS MANORfig30 、下図)である。しかし、SQUERRYES LODGE(平面図:fig5 下に再掲) についての言い伝えが正しいとするならば、そこにも13世紀の間に下手側に附属棟が建てられていたようである。


附属棟が hall の幅の内に配置されているからと言って、附属室の種類、規模などが限られていたわけではない。NURSTEAD COURT HORD FARMでは、附属室が梁間一つ以上にわたる痕跡は見当らず、COURT LODGECOPTON MANORMERSHAM MANOR など CHRIST CHURCH の官邸のいくつかでは、下手側に二階建ての建屋が特別に付け加えられている。そしてまた、PENSHURST PLACEGALLANTS MANORでも、同様な増補が為されているようだ。
また、hall と下手側の棟の間の壁には、三つの開口があり、両側の二つはサービスの部屋へ、中央は離れた位置にある厨房へ通じている例が多い。NURSTEAD COURT fig12fig29 下に再掲)には19世紀まで実在したし、また、PENSHURST PLACEGALLANTS MANORでは、現在でも見ることができるだろう。


また、COURT LODGEのように、一つ屋根の主屋の内部には、諸室への出入口の付いた木造の間仕切りが設けられていた痕跡がある(現存しない)。 そこでは、現在は窓に改造されている出入口が外壁の中央部に設けられ、Memorandam Book が記しているとおり、食品庫と配膳室が別棟の厨房へ通じる通路で仕切られていたことが分る(fig17 fig31 :下に再掲:参照)。


Cliffe-at-Hoo の牧師館邸では、前世紀の SQUERRYES LODGE 同様、サービス部への出入口は2箇所しかないが、おそらく厨房は後側の 出入口から hall に通じていたものと思われる。
また、fig13(下に再掲) の IGHTHAM MOTEには、現在2箇所の出入口しか遺っていないが、hall の端部の壁の中央にある出入口から察して、当初は出入口は三つそろっていたと考えられる。  
      
木造の間仕切の撤去は、小さく暗く暖房のない小部屋を、後に、大きく暖房された部屋に変えるためであったと思われる。また、サービス諸室が、hall に直交する建屋に設けられる場合には、低い天井を高める工夫がみられる。たとえば、SQUERRYES LODGEでは、軒先を支えるための過剰なほどの持出しが造られている。しかし、COURT LODGEMERSHAM MANORの閉鎖された出入口の高さから考えて、一般に、特に(サービス部が) hall と同じ並びに配置される事例では、天井の高さは、当時のまま変らずに現在に引き継がれてきたと見なしてよいだろう。
サービス諸室の中でも特別な用途の部屋は、大きな chamber よりも、どちらかというとそれほどしつらえられていない solar に附属することが多いという Memorandam Bookの記録に留意しておく必要がありそうだ。そして誰しも、二階に用意される特別な用途の部屋は、家屋の下手側の上手側の諸室に比べて用途に合った適切な天井高を持つ食品庫と配膳室である、という「当時の家屋の典型」を思い描くことができよう。これは、solar の上部は、低い undercroft 上の上手側に置かれることの多い大きな chamber に比べると印象が薄い、ということでもある。しかし、事例が少ないから、これ以上のことは言えない。いくつかの事例では、よくしつらえられた建屋が家屋のサービス部側に直交して置かれている。端部の両側の壁がよく遺っている数少ない事例であるCOPTON MANORには、後世に閉鎖された窓と出入口により、当初の天井高が分るのだが、そこからは、その両側の地上階の高さが異なっていたことを示す痕跡は何もない。しかしながら、多くの記録や建築的な形跡を総合すると、この「典型」は、時代の一つの傾向であった、と考えてよいだろう。

      The first floor: access and accomodation 階上へのアクセスと二階部分のしつらえ

二階部分の solar または chamber へ至る階段の存在を示す痕跡は断片的にしか遺っていない。COURT LODGEの場合は、階上へは、妻壁にある外部の出入口から入ることが明らかである。それゆえ、その側にある chamber 建屋にも同じく外出入口があった。おそらく、そこには、この二つの建屋にアクセスするために階段と木造のギャラリー:通路があったに違いない( 前掲の fig17、fig31 を参照)。COURT LODGEでは、solar は、 hall上手側の諸室とは、まったく分離されていたことを意味する。おそらく、COPTON MANOR でも同様の配置になっていたものと思われる。そこでは、サービス部側にある増築建屋にある外出入口が、そこに、主屋と増補部共通の階段とギャラリー:通路があったことを示している( fig18:下に再掲:平面図参照 )。
     
これら二つのCHRIST CHURCH PRIORY (修道院)の官邸の下手側の諸室のような分散した配置のしかたは、OLD SOAR の上手側の諸室の配置と似ていないわけではない。しかし、Cliffe-at-Hoo牧師館邸GALLANTS MANORでは、hall 下手側の壁の後ろ側の出入口は、内部階段に通じているように見える。ただ、残念なことに、Cliffe-at-Hoo牧師館邸のサービス部分はすでに存在せず、GALLANTS MANOR(平面図 fig30参照 )では、建屋の根太・梁を見ることができないので、はたしてそこに階段用に隙間が設けられていたのかどうか、分らない。
ここまで見てきたように、hall と同じ並びの上手、及び下手の建屋では、サービス諸室の上部の部屋(多くの場合は solar だが)のつくりはさほど印象に残るものではない。PENSHURST PLACEでは、上手側の部分ほどは大きくはないが、美しい頂部飾りのある窓から光を採っているし、GALLANTS MANORには、つくりの美しい crown post の小屋組が遺っている。この建屋は、実際は石造の地上階の上に木造で造られているのだが、このような混構造でありながら、IGHTHAM MOTE ( fig13 )と同じように、同時代の全石造の建物と同じ形をしている。

   Subsidiary accomodation in stone houses : conclusion 石造家屋の附属諸室:結論

石造家屋、石造・木造混淆造の家屋に於ける附属諸室のしつらえについての考察が重要であることは明らかである。
一般に、附属室は hall の両側に設けられ、hall から離れて設けられる場合も、NURSTEAD COURT のように hall と一体に設けられる場合も、その階上に chamber を伴うのが普通である。階上の上手側の部屋は大きく構える傾向があり、一方、地上階の諸室は用途が限られ家事用に使われることが多い。また、( hall の)両端には一つ以上の建屋が設けられることが多く、増築部が主屋に対し、異なる角度で配置される場合もある( 前掲fig17fig20:下図:再掲 参照)。
   
このように、当初は、多様な形を採っていた附属諸室は、中世後期になると、徐々に、それぞれの用途が明確な諸室の集合体として、一定の定型を持つように変容してゆくのである。

   Subsidiary accomodation in timber-framed houses 木造家屋の附属諸室

すべてが木造の家屋の附属諸室は、石造のそれとは様相ががまったく異なる。先ず第一に、現在まで管理されて遺っている例はきわめて少なく、また遺っている場合でも、石造事例の同様な個所とは、つくりがまったく異なっているのである。
木造事例の遺構には、三つの形態がある。すなわち、主屋に直交したつくり: cross wing 、主屋に並ぶつくり、そして、すでに建て替えられて当初の痕跡だけが分る事例、の三つである。以下、順番に見てゆくことにする。

     Cross wings

この時代(14世紀初期)の木造の cross wing :主屋に直交して建つ附属屋:の事例はきわめて少なく、そのうちの2例は石造家屋との併設である。その一つは1322年建設の GALLANTS MANOR の1330年代の建設と思われるIGHTHAM MOTE の上手側の二棟に類似の下手側の建屋の二階は木造架構であるが、それは石造家屋の hallchapel に似たつくりであり、一部が石造の地上階の壁の上に木造で造られている。
他に唯一現存するのは fig32(下図) の SMARDEN に在る1325~1350年ごろの建設と比定されてきた HAMDEN の事例だが、実際は、もう少し時代は下るのではないだろうか。

また、 EASTRY COURT の下手側の建屋は、おそらく、14世紀になって部分的に再建された hall と同じころに造られたようだ。

   Evidence for secondary rooms in single-range structures 独立棟の場合の附属室の痕跡

附属諸室の痕跡が多少でも遺されている事例は、別棟ではなく、一つ屋根の中に収まっている場合が多い。fig33 (下図)の SITTINGBOURNE に在る CHILTON MANOR(その古風な架構法と柱頭装飾から13世紀の建設と思われる)には、13世紀の hall が、梁間二つ分健在である。

北側(上図の左方と推察します)に三つ目の梁間が設けられているが、これは増補された部分で、おそらく14世紀の再建に際して造られたものであろう。この部分は、 hall の一部を構成していたか、あるいは、追加された aisle:側廊: を含んだ hall に次ぐ二番目の部屋となっていたのかもしれない。どの事例でも 、hall に増補された梁間部分があるが、しかし、その役割はいずれもはっきりしない。
LEIGH で発掘された MOAT FARM の考古学的資料では、梁間一つの hall の両側に設けられた独立の梁間が加えられて三つの梁間になったのか、それとも、梁間二つの hall に独立の梁間が一つ加えられて梁間が三つになったのか、はっきりしない。ケント地域以外でも、SASSEXSALEHURSTPARK FARM で発掘されたきわめて大きな aisled hall でも、同様に不分明な点が多いし、 OXFORDSHIREVALE of WHITE HORSE に現存するいくつかの事例でも、その謂れの説明はなかなかつけにくい。後になると、端部の梁間は、 hall から完全に仕切られた独立した部屋のためにつくられることが多くなるようだ。CHILTON MANORfig33 )はその例と言えよう。ただ、CHILTON MANORのどちら側が hall であったかの判断は難しい。しかし、屋根(の木材)が北に向いていることから察して、そちらが上手で、問題の北側の(増補の)梁間の下が、上座だったのではないだろうか。hall のはっきりしている他の事例や、中世後半に整えられた事例では、上手、下手も判定しやすい。 fig9 (下図:再掲)の AYLESHAMRATLING COURT では、spere truss がサービス部の側を示しており、隅棟の架かる trussのある側が上手であることを示している。

   註 spere truss : 第9回の fig46 をご覧ください。spere ≒ screen
また、fig34(下図) の PETHAMDORMER LODGE では、窓、出入口や spere truss の位置が、aisled hall の上手へと続く archade方杖の存在を示唆している(このあたりについても、第9回を参照ください)。

fig32 (前掲参照)の SMARDENHAMDEN では、hall の上手側の archade方杖「刻み」から、更に延長された部分があったことが分る。

けれども、以上はあくまでも、1370年代以前に建てられたと考えられる家屋に部分的に遺されている附属諸室の痕跡を総合して見た結果の推量に過ぎない。

  The form of early timber ends and the reasons for their disappearance  初期木造建物の端部の形態、その消滅の理由

現存する木造事例には、その終端部が判然としない例が多いが、しかしそれは、木造の hall がすべて附属諸室なしでつくられていた、ということを意味するわけではない。いくつかの事例では、当初、同じ棟続きに何かが在ったことを示唆する形跡をうかがうことができる。HADLOWBARNES PLACE の下手側の archade方杖 を承ける柱には、そこに厚板で造られた間仕切が在ったことを示す「刻み」がある。それは、 hall 側に面していて、外部に面する壁ではない。しかし、aisle 形式が端部まで続いている事例はどこにもなく、それゆえ、当初は、端部は別個の架構でつくられるのが普通だったのかもしれない。
同様な事例が多く見られることから、当初から、独立の架構で建てられる木造家屋が存在していたと考えてよい。しかし、この端部にあたる部分は、中世の間に、cross wing直交する別棟:に建て直されてしまう例が多く、残念ながら、当初の様態を遺している事例は、現存しない。また、hall 端部の壁に、いかなる状態の変化が起きたかを推察し得るような痕跡を遺す事例も現存しない。
初期の木造家屋の端部のつくりについていろいろな事例を考察した結果は、当初のつくりは、後世の使用に堪えなかった(それゆえ、改築を余儀なくされた)ということが判ってきた。この観点に立つと、木造家屋の端部の様態は、石造家屋のそれとは、いささか異なることになる。遺されている断片的痕跡からでは断言することは難しいが、初期の木造家屋の附属諸室は、屋根まで筒抜けか、あるいは地上床面が低い倉庫にしか使えないような場所であったに違いない。
一つ屋根の形を採るのは、aisle 形式hall の場合だけのようである。しかし、最もよく遺っている fig33(前掲) の CHILTON MANOR でさえ、aisle 形式の全体が遺っているわけではないので、端部のつくりのありようについて、合理的な解釈を見つけることは、きわめて難しい。aisle の壁部分が造りかえられていることは驚くに値しないが、ただ、内部間仕切りや床面の痕跡がないことから、北側の端部の梁間は屋根まで抜けていたと思われる。多分、これは、一つ屋根の家屋すべてに共通の形体と考えられる。たとえば fig35 の断面図(下図)のように、 NURSTEAD COURT の端部の寄棟部では、少なくとも上手側の端部は、当初は(屋根まで)抜けていて、そこにある床は14世紀後半になって後補されたものだ。

このように床を後補できたのは、NURSTEAD COURT の高さに余裕があったからで、他のほとんどの木造の aisled hall は、規模がこれほど大きくはない。それゆえ、そのような事例では、arcade のつくり(柱や方杖、繋ぎ梁など)が邪魔になるため、階上に部屋をつくることができるのは、中央部の上部しかないのが普通である。また、端部にあたる寄棟部は隅棟があるため、一般に、fig9(前掲) の RATLING COURT や、fig34DORMER COTTAGE のように、上階の部屋は、3面の傾斜屋根に囲まれる窮屈な場所にならざるを得ないのである。
   註 arcade のつくりについては、第9回を参照ください。
つまり、aisle 形式:上屋・下屋形式:の木造家屋では、端部(寄棟部)の上階に部屋を設けることはできなかった、と言ってよいだろう。それゆえ、後になって、上階に部屋が必要になってくると、端部を全面的に改築するようになるのである。NURSTEAD COURT 以外で、初期の aisle 形式で、寄棟部が改築されず、しかも上階が現存するのは、DORMER COTTAGE だけであり、そこでは寄棟部の中央の梁間だけに小さな食器庫がつくられている。
石造住居と木造住居の、建て主の 地位 による差異については既に3章で触れたが、その違いは、附属諸室の整え方に顕著に現れる。しかし、社会的な地位の違いが、二階建ての建屋を持つ石造家屋をつくるようにさせたわけでもなく、また木造家屋が屋根までの筒抜けの端部を持たなかったわけでもない。そして、13世紀後期から14世紀初頭にかけての南東部域の木造家屋では、少なくとも一棟の二階建ての部分をもっていたと考えられる。実際は、隅棟を有する寄棟部は、hall 自体と同時に建てられるときにだけ生まれ、また、hall の両側に寄棟部のある事例は少なく、これまで触れてきた事例では、上手側一方にだけつくられている例が多い。
   註 一般的に、石造住居は、社会的に上層の人びとにより建てられる傾向がある(第10回第11回参照)。
いずれにしろ、hall の端部:サービス諸室側の様態はさまざまで判断しづらい場所である。附属諸室として考えた場合、中世後期以前にはそこに十分確保できたとは言えず、多くの事例では、その場所をサービス用の別棟に建て替えている。しかしそれは、当初の建屋の端部が小さすぎたことを意味しているわけではなく、実際、石造家屋に比べると、必ずしも小さくはない。前掲の SMARDENHAMDEN の例で分るように、上手側だけに寄棟の端部があり、下手側には独立の別棟がつくられているし、 PIVINGTONJOYDENS WOOD での発掘事例でも、下手側が明らかに大きい。そして、後の14世紀後半の事例の観察から推察すれば、多くの家屋がサービス用の別棟を持ち、そのしつらえは、前代の人びとのそれとは比べものにならないほどよくできていたと言えそうである。
14世紀初期に下手側に別棟を設けるのが普通の建て方であったとしても、その理由は、たとえ14世紀後期のそれが規模が大きいからと言って、初期の事例の場合は、必ずしも規模とは関係ないように思われる。
むしろそれは、その形状と架構方式に拠ると考えた方が適切だろう。既に触れたように、多くの石造建屋の上手側の端部:寄棟部の地上階は、後世に天井を高く直すまでは、低く、光の入らない暗い場所であった。この改造は、石造の場合は比較的容易であったが、木造ではかなり難しいのである。つまり、改造よりも建て替えの方が簡単だったのである。14世紀後期の建物には、天井が極めて低く使いにく地上階が現れるが、それについては、後章で触れる。この時期の木造建築について分る適切な痕跡事例が少なく、初期の木造家屋の附属サービス諸室について、その展開の様態を知りうる形跡がなぜまったく喪失してしまったのか、その理由は皆目見当がつかない。

以上の推察に間違いがないとすれば、石造家屋と木造家屋は、その進展の方向・様態が異なっていたということになるだろう。
それにはおそらく建て主の社会的地位が関係していると思われ、木造を採用する人びとは二階建て建屋は一棟でよしとし、一方石造で建てる人びとは二棟以上を望んだのである。
一棟だけが可能な場合、それは主屋の下手側に置くのが適切と考えられたようだ。つまるところ、階上の部屋の位置決めは、サービス諸室の位置決めに比べ、重視されていなかったと考えられる。木造建屋の上手側も、当初の石造建屋のそれほどには重要視はされていないことは、後の多くの諸事例の痕跡の示すところでもある。
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strong>この項の筆者の読後の感想

強く感じたのは、日本の「上屋・下屋架構方式」では、四周に「下屋」を回すことをいとわないが、「 aisle 架構方式」では、そういう事例がない、ということ。
おそらく、二枚の壁の間に屋根を架ける、という石造の構築法が、強く念頭にあるからではないだろうか?
日本の場合、下屋が四周にあるので、隅棟もそれを利用して架けられるから寄棟部の架構も自由度が高く、左程苦にはならないが(垂木で形状を整えられる「入母屋形式」やいわゆる「和小屋」形式を生む)、ケント地域の屋根では、隅棟も梁として強固につくらなければならないのである(古井家の架構と見比べると明らかである)。

次の章から、木造による屋根の架構の解説が始まるので、楽しみにしています。


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次回は、次の章の紹介を予定しています。
5.Construction and roofs : late 13th and early 14th centuries


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