今から4・5千年前の縄文遺跡:青森の三内丸山遺跡では、地面に三角形の屋根を架ける「竪穴式の建物」と「掘立の柱で屋根を受ける建物」が並存していたようだ。掘立式の建物は、倉などに使われたらしい。
しかし、軒高のない「竪穴式」から、軒高の確保できる「掘立式」への移行は自然の流れだろう。
掘立式の方法は、立てる柱よりひとまわり大きな穴を地面に掘り、柱を立て、石や土をまわりに詰めて柱を自立させる(上掲の図参照)。こういう柱を2本立て、それに横材を架け渡す、この架構を何列か横並びにしてそれに三角形の屋根の下地:又首(さす)を載せれば建物全体の骨格ができあがる。
註 上の説明は、2本の柱に梁を架けできる逆コ形を横に並べる場合。
2列の柱列にそれぞれ桁を架け、桁の間に梁を架け渡す方法もあった。
三内丸山遺跡の掘立柱は、径が1m近いクリの丸柱を2mほどの深さの穴に埋められていたというが、普通の建物ならば、持ち運びや作業性を考えると、どんなに太くても直径5寸~7寸程度だったろう。
このことは柱の上に架け渡す横材:梁にも言え、作業性から長さも太さも決まってくる。
現在でも、人力だけで作業をするとなれば、直径は5~7寸くらい、長さは3間:5.4mぐらいが限界だろう(江戸中期の農家で、柱が4~4.5寸角、梁が径6寸前後長さ3~5間である)。つまり、つくられる空間の大きさは、作業性の限界から、自ずと決まってしまう。しかし、それでは空間の大きさが足りない場面が当然生じる。
そのようなとき、空間の大きさを拡大する最も簡単な方法が、最初につくった「本体」に「付け足し」を加える方法である。
通常、本体を「身舎または母屋(もや)」あるいは「上屋(じょうや)」、付け足しを「庇または廂(ひさし)」あるいは「下屋(げや)」と呼んでいる。
註 社寺などでは「身舎・母屋」「庇・廂」、
一般の住居では「上屋」「下屋」が使われている。
「庇・廂」「下屋」は、本体のどの面にも任意に付けることができるが、その例を示したのが上掲の図である。
「入母屋」屋根の語源は、この構造方式にある(母屋:本体の四周が庇・廂で取り囲まれている)。もっとも、現在の「入母屋」屋根は、形だけ「入母屋」型にした、いわば「似非・入母屋」である。
掘立式の場合、柱は自立するから、横材:梁や桁を架けることは比較的容易である。だから、柱への梁の取付けも簡単で済み、簡単な方法:仕口で梁は柱に架けられた(上掲の図参照)。
註 ただし、掘立式は、地震があった場合、地面に追随して架構が揺れる。
「掘立式」の最大の問題は、柱自体が腐ることである。
柱の腐蝕は、柱と地面の接点近くで起きやすい。腐蝕菌に適度な酸素と水分が供給される場所だからである。逆に、常に水分が補給されるような地下水位より下にある場合(水中なども含む)は、酸素の供給が不足し、腐蝕しにくい。三内丸山遺跡一帯は地下水位が高く、それゆえ、数千年もの時を経ても柱脚が遺っていたのである。
この地面際の腐蝕を避けるため、上層階級の建物から徐々に、「礎石」を据え、その上に柱を立てる方法へ転換する。
註 掘立式は、明治年間でも農家住宅では見られたという。
「礎石建て方式」は、「掘立式」とは大きく異なる。「礎石建て」は、柱の自立が難しく、よほど大径の柱でないかぎり、自立は不可能である。
したがって、柱を立てるには「仮設」工事が必要になる。多分、斜め材:筋かいで仮止めする方法が採られただろう。少なくとも柱4本、横材4本で直方体が組まれるまでは仮設は不可欠だった。
「礎石建て方式」になっても、「身舎・母屋+庇・廂」「上屋+下屋」の架構法は継承され、はからずも、「庇・廂」「下屋」が、「身舎・母屋」「上屋」を横から支える「控柱」「控壁」の役割を担うことになる。
註 社寺の屋根の「反り」は、当初、
「身舎・母屋+庇・廂」の架構法でつくられていた。
すなわち、「身舎・母屋」に段差なしで緩勾配の「庇・庇」を付け、
「逆ヘの字」型をつくり、土居土を敷き並べ反りをつくっていた。
しかし、「礎石建て」では、直方体が構成されても、「掘立」方式に比べ、数等不安定であり(特に地震や大風)、当然、横材と柱の取付け:仕口も含め、倒壊を防ぐ工夫が必要になる。実際、倒壊事例はかなりあったようだ。
それゆえ、「礎石建て」になってからの工人たちの工夫・対応は、地震や台風の多い日本の木造建築技術の進化・展開の原点と言えるだろう。次回以降、触れることにする。
註 上掲の水抜き溝を彫った法隆寺・食堂の礎石は、
きわめて丁寧な仕事であり、現在でも有効な方法である。
昨年10月20日に紹介の浄土寺・浄土堂の
柱底面に彫られている通気のためと思われる溝のように、
かつての工人は、木材の特徴、その維持に対して、
きわめて慎重に気を配っていたことが分かる。
しかし、軒高のない「竪穴式」から、軒高の確保できる「掘立式」への移行は自然の流れだろう。
掘立式の方法は、立てる柱よりひとまわり大きな穴を地面に掘り、柱を立て、石や土をまわりに詰めて柱を自立させる(上掲の図参照)。こういう柱を2本立て、それに横材を架け渡す、この架構を何列か横並びにしてそれに三角形の屋根の下地:又首(さす)を載せれば建物全体の骨格ができあがる。
註 上の説明は、2本の柱に梁を架けできる逆コ形を横に並べる場合。
2列の柱列にそれぞれ桁を架け、桁の間に梁を架け渡す方法もあった。
三内丸山遺跡の掘立柱は、径が1m近いクリの丸柱を2mほどの深さの穴に埋められていたというが、普通の建物ならば、持ち運びや作業性を考えると、どんなに太くても直径5寸~7寸程度だったろう。
このことは柱の上に架け渡す横材:梁にも言え、作業性から長さも太さも決まってくる。
現在でも、人力だけで作業をするとなれば、直径は5~7寸くらい、長さは3間:5.4mぐらいが限界だろう(江戸中期の農家で、柱が4~4.5寸角、梁が径6寸前後長さ3~5間である)。つまり、つくられる空間の大きさは、作業性の限界から、自ずと決まってしまう。しかし、それでは空間の大きさが足りない場面が当然生じる。
そのようなとき、空間の大きさを拡大する最も簡単な方法が、最初につくった「本体」に「付け足し」を加える方法である。
通常、本体を「身舎または母屋(もや)」あるいは「上屋(じょうや)」、付け足しを「庇または廂(ひさし)」あるいは「下屋(げや)」と呼んでいる。
註 社寺などでは「身舎・母屋」「庇・廂」、
一般の住居では「上屋」「下屋」が使われている。
「庇・廂」「下屋」は、本体のどの面にも任意に付けることができるが、その例を示したのが上掲の図である。
「入母屋」屋根の語源は、この構造方式にある(母屋:本体の四周が庇・廂で取り囲まれている)。もっとも、現在の「入母屋」屋根は、形だけ「入母屋」型にした、いわば「似非・入母屋」である。
掘立式の場合、柱は自立するから、横材:梁や桁を架けることは比較的容易である。だから、柱への梁の取付けも簡単で済み、簡単な方法:仕口で梁は柱に架けられた(上掲の図参照)。
註 ただし、掘立式は、地震があった場合、地面に追随して架構が揺れる。
「掘立式」の最大の問題は、柱自体が腐ることである。
柱の腐蝕は、柱と地面の接点近くで起きやすい。腐蝕菌に適度な酸素と水分が供給される場所だからである。逆に、常に水分が補給されるような地下水位より下にある場合(水中なども含む)は、酸素の供給が不足し、腐蝕しにくい。三内丸山遺跡一帯は地下水位が高く、それゆえ、数千年もの時を経ても柱脚が遺っていたのである。
この地面際の腐蝕を避けるため、上層階級の建物から徐々に、「礎石」を据え、その上に柱を立てる方法へ転換する。
註 掘立式は、明治年間でも農家住宅では見られたという。
「礎石建て方式」は、「掘立式」とは大きく異なる。「礎石建て」は、柱の自立が難しく、よほど大径の柱でないかぎり、自立は不可能である。
したがって、柱を立てるには「仮設」工事が必要になる。多分、斜め材:筋かいで仮止めする方法が採られただろう。少なくとも柱4本、横材4本で直方体が組まれるまでは仮設は不可欠だった。
「礎石建て方式」になっても、「身舎・母屋+庇・廂」「上屋+下屋」の架構法は継承され、はからずも、「庇・廂」「下屋」が、「身舎・母屋」「上屋」を横から支える「控柱」「控壁」の役割を担うことになる。
註 社寺の屋根の「反り」は、当初、
「身舎・母屋+庇・廂」の架構法でつくられていた。
すなわち、「身舎・母屋」に段差なしで緩勾配の「庇・庇」を付け、
「逆ヘの字」型をつくり、土居土を敷き並べ反りをつくっていた。
しかし、「礎石建て」では、直方体が構成されても、「掘立」方式に比べ、数等不安定であり(特に地震や大風)、当然、横材と柱の取付け:仕口も含め、倒壊を防ぐ工夫が必要になる。実際、倒壊事例はかなりあったようだ。
それゆえ、「礎石建て」になってからの工人たちの工夫・対応は、地震や台風の多い日本の木造建築技術の進化・展開の原点と言えるだろう。次回以降、触れることにする。
註 上掲の水抜き溝を彫った法隆寺・食堂の礎石は、
きわめて丁寧な仕事であり、現在でも有効な方法である。
昨年10月20日に紹介の浄土寺・浄土堂の
柱底面に彫られている通気のためと思われる溝のように、
かつての工人は、木材の特徴、その維持に対して、
きわめて慎重に気を配っていたことが分かる。