建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「筑波通信№12」 1981年度

2019-04-23 09:00:01 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №12」1982年3月 A4版8頁   

     「筑波通信 №12」 1982年3月

      冬の情景  ・・・・それぞれの冬・・・・

 北国から便りがあった。

 寒い。夜になると気温は急激に下り、寒いという感じを通り越し、ぴりぴりとした無数の冷たい細い空気の糸をひっかきながら歩いているような感じになる。朝、バスに乗れば、乗客の吐く息が窓ガラス一面に氷となってはりついて、外は何も見えない。ときどき、外を見ようとして恥しげもなく(と便りの主は書いている)息を吹きかけてみるのだが、それもたちまち凍ってしまう。あきらめてガラスの上の氷の模様などながめいるうち、ふと気がつくと、先きほどまであった氷模様が、ほんとに一瞬のうちに水滴に変っている。いつも、その変容の瞬間を見たいと心しているのだけれども一瞬いつもおそすぎるようだ。

 これは、ある一人の人の、言わば全く個人的な、その人の情景の描写にすぎないのであるけれども、氷点下〇〇度あるいは積雪〇〇センチなどという表現より、よっぽど確実にその地の冬のありさま:リアリティを私に伝えてくれる。私に伝ったと私が思っていること、それがこの人の情景と全く寸分違わず同一のものであるという保証はない。しかし、分る。この人の直面しているリアリティそのものには決して直面できているわけではないが、極めて近くまで近づいていることだけは確かである。

 筑波も寒い。凍える、という感じである。そうは言っても、この便りのようにぴりぴりした感じには程遠い。しかし夜空はあくまでも透明に凍てつき、星がおそろしいほどにまたたいている。そんな夜、車から降りて身をちぢめて小走りに戸口へ向うときなんとも言い表しようのないにおいに気づくときがある。冬のにおい。冬のにおいとしか言いようのないにおい。澄んで冴え冴えとしたにおい。そういうとき私は、思わず立ち停って深くその空気を吸いこんでいる。冷い空気が内側に浸みわたる。風はない。あたりは森閑としてただひたすらに冷えきっている。それは、雪が降り積もって森閑としている様とは違い、言うならば底ぬけの森閑さだ。こういう冬を筑波に来るまで、私は久しく忘れていた。そうなのだ忘れていたのだ。その昔子どものころ、東京でこういう冬を味わったことがあるような気がする。

 こういった私のなかに「冬」というものを形づくってきた諸々の冬の体験を、いつのまにか私自身みな忘れさってしまい、ただ「冬」の存在だけが残ってしまっていた、そんなことをこの筑波の冬は、そしてこの北国からの便りは、私に思い起こさせてくれる。

 

 こう言ってしまえばなんていうこともなくきこえるかもしれないが、私たちが「冬」というものを知っている根には、その地その地のそれぞれの冬の事象が存在するということだ。それを忘れて、ただなんとなく「冬」が分ってしまっていたような気になっていた身には、例えば先号のあとがきに書いた「ふっこし」という冬独特の、しかもあの地域特有の現象、そしてそれにあてがわれた「ふっこし」ということばに出くわしたり、この北国からの便りを受けとったりすると、それまで持っでいた「冬」の概念も吹っとんでしまい、あらためて冬が新鮮に見えてくる。

 私たちは普通、冬になったとか冬が終って春が来たとか簡単に言って済ましてしまっているけれども、いざ「冬とはなにか」などとことあらたまって問われでもしようものなら、冬とはこれこれだなどという明確な定義などできはしないだろう。数行まえで「冬の概念」などと書いたけれども、それがどういうものかと尋ねられたところで極めて漠然としていて定かにはその抽象的イメージを伝えることはできないのだ。私たちが具体的に伝え得るイメージは、つまるところ私たち自身のそれぞれの冬でしかないのである。

 私たちそれぞれが、その地その地での冬の事象、イメージをもっている。それらは具体的には皆お互い違ったものだ。だからと言って、お互いに「冬」が伝わらないかと言えば、そうではない。先ずおそらく、いまは冬だ、と共通に認めあうだろう。認めあえるだろう。だから私たちは、お互い違う事象に巡りあいながらも、決して明確な線では区画できないけれども、「冬」というあるあいまいな概念は共有していると言うことができるだろう。と言うよりもむしろ、そういう、決して定かではないあるかたまりに対して、私たちは〈冬〉という字をあてがってきたのである。そしてまた私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきたのでもある。

 しかし私たちが、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを忘れてしまったり、気づかなくなったり、あるいはそういう事象がそれ自体存在しなくなったりしたときには、そのときには、「冬」の概念だけが独り歩きをはじめてしまい、そういった概念の根にあったはずの私たちの冬自体の存在さえも、はじめからなかったの如くに扱われだしてしまうのだ.

 私が「ふっこし」のことばに感嘆し、北の便りに心ひかれ、夜気のにおいにたちどまったのも、冬=寒い、厳しい、などと簡単に済ましていたのが、そんな他愛ないものではない、もっともっと生々しいリアリティがその裏に隠されているということに思いを至らしめてくれたからなのだ。それぞれの冬が在ってはじめて「冬」があるのだということを気づかしてくれるからなのだ。

 

 ここに書いたのは、言わば形のないものの理解のしかたについてであった。しかし形あるものに対しては、形ある故に、より一層その理解のしかたが拙劣になってきている。もの私たちにとってのリアリティ:ものの名の名づけ親としての私たちを捨て去った。辞書に書かれている解説文的ものの理解があたりまえになっている。

 最近のこと、いまは造園関係の設計事務所に勤めている卒業生がたずねてきた。いま、学園都市につくる歩行者用道路の設計をしていて、現地を見にきたのだという。きいてみると、計画ではその道のそちこちに、昔の道の四つつじなどによく見かけた石の道しるべをたてるのだそうである。私は思わず道しるべ?とききかえした。

 おそらくこの設計者たちは、歩行者道ということで昔の街道すじでも思い起こしたのだろう。昔の街道は人:歩行者が主人公だった(そんなことは言うまでもない、車がなかったのだから)。そしてそういう街道すじには、そちこちに〇〇へ〇里〇丁などと記した道しるべがたっていた。いまでも古い道沿いなどにこけむした道しるべを見つけることがあり、人々はそれを見てある感懐を抱く。それは現代の標識に比べたらずっと人間的だから(実は、これからあとの展開のしかたがおかしいのだが)この人間優先の街道すじを成りたたしめていた重要な人間的要素であった道しるべを、現代の人間優先の道:歩行者道にも、それをより人間的であらしめるべく、導入・復活させようではないか。これが、この設計者たちが考え思ったことのなかみだと断言して先ずまちがいないだろう。

 

 ここには、二段構えの誤解がある。先ず昔の道しるべに対しての、現代からの思い入れがある。自然石やざっくり切った切石に刻まれた筆書きの字。人間味あふれる道しるべ。しかし、そう思いを入れるまえにもう少しめてものを見ることができないものだろうか。彼らが彼らの時代、道しるべを何でつくろうかと考えたとき、彼らの手にすることのできる材料のなかで、全く当然の帰結として石が選ばれたにすぎないのである。ペンキもプラスチックも活字印刷技術もなかったのだ。別にそういう道しるべの材料や形、あるいは筆の運び、そういったものに人間味があるからという理由でそうしたわけではないのである。それが人間味があっていいなあ、などと思うのは(思うのは全く自由だけれども)現代の人の他の現代的なものとの比較において勝手に思いこんだ思い入れにすぎず、当の道しるべをつくった人たちがそんなはなしをきいたらただただ仰天するだけだろう。

 ところが、こういう思い入れによる理解が、かの道しるべの本質であるかに思いこむと、そこに二段目の誤まりが生れてくる。つまり。道すじを人間味あるものにしているのは、こういう人間味あふるる要素をあしらってあるからだ、という思いこみである。既にそこには、最近よく言われる「人間のための街路」の概念が、そこはかとなく見えてくる。人のための道は、人間味あふれるいろいろな要素を組み合わせることでできあがる。あちこちにべンチなどのいわゆるストリートファニチュアーを置き、樹木をそれらしく植えこみ、路面には色つきタイル・ときには絵なども焼きつけ、歩く部分は直線をきらって人間的な曲線として・・・・これがいま流行りの「人間のための街路」概念を具体化した姿であり、実際にいま、あちらこちらの公園だとか〇〇モールとかで目にすることができる。そういう「人聞のための街路」を歩いていて、歩いているつまり私が自分で自分の意志に従って歩いているのではなく、歩かされているという気分になって白けてくるのは、私が少しばかりひねくれているせいなのだろうか。設計者の親切な人間的配慮にただ従順に従うのが人間的ということなのだろうか、ばかにしないでよとつぶやきたくなるのだ。私には、歩けば足もとから土煙りのあがるような田舎道の方が、よっぽど人間的に思える。

 

 おそらくこういう設計者の頭のなかには、道だとか道しるべだとかを成りたたせ、あらしめてきた、人々の営みの存在は忘れ去られ、ただ、そういった営みの結果成りたった道だとか道しるべを、単にWhatとHowの問いだけで問うてつくりあけた道や道しるべについての概念があるだけなのだ。それは丁度、先々号において書いた、蔵とは物をしまうところ、という理解で済ましてしまうのと同様の理解に他ならない。道とは交通の空間であり、人のための道は人間味のある交通空間である。道しるべとは、人のための道を人間的にあらしめている重要なアクセントである。こういう概念が、多分大かたの設計者には通用しているはずである。言うなれば、道とか道しるべとかいうことばが、その本義とは無縁なところでとびかっているわけで、そういう字に、実にいいかげんなイメージを託して済ましているのである。

 この文のはじめに私は、私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきた、と書いたけれども、いまここで書いた普通一般になってしまっている道や道しるべという字:ことばへのイメージの託しかた、そのなかみは、それとは全く比較さえもできない根なしぐさの虚像である。一言で言うならば、そこには、「私」「私」たち、がぬけおちていて、あるのは「他人」の目、局外者の目、観察者の目、だけなのである。

 考えてもらいたいのは、私たちのことばは、かならず「私」「私」たち、に根ざしていたということだ。ことばが抽象的概念を託されているというのは事実ではあるけれども、しかしそれは、決してこの根と縁を切ることではない。

 

 ほんの一寸たちどまって考えてもらえば分かることだと思うが、道しるべとは道案内いま風に言えば道路標識、そしてそんなものはなければないに越したことはない、そういうものではなかろうか。

 しかし、それがないと迷って困るときがある、場所がある、あるいはあとどのくらいあるのか知りたいことがある。そういったことへの対処として、道しるべはたてられた。だから道しるべは、そういう道行く人々の場面に即応したかたちで、最少必要限でたてられている。決してやたらにあるのではなく、もちろん人間味を付与するためのアクセントなんかでもない。もし強いてそこに人間味を見るとすれば、それは、先ず道というものが道行く「それぞれの人」にとっての道であり、道しるべはその「それぞれの人」にとっての案内であった、そうなるべくつくられていた、という点にある。

 それぞれの人、つまり道行く人々には旅なれた人も旅なれない人も、その地が初めての人も、もう何度も訪れた人もいる。よく知っている人は、道しるべなどに用はない。先ず見向きもしないだろう。しかし、よく知らない人が、ふと不安になったとき、そういう場所は限られるものだが、尋ねて確かめたいと思ったとき、そこに道しるべがたっている。書かれていることはと言えば、まさにそこで尋ねられるだろう当然のことが記されている。尋ねられて応える人の代りにそれはたっている。人ならば、尋ねる人の立場立場に応じた応答ができるだろう。道しるべはそうはゆかない。そうなると、そこに記されることが吟味されねばならないことになる。尋ねられるだろう当然のことその吟味である。そしてそれは当然のことだけれども、道ゆく人々として不特定多数的にくくられた人々ではなく、それぞれの人に思いをはせなければできないのである。そして、そうやってそれらはつくられていたのである。だから、道しるべを不要な人にまで、決して道しるべがしゃしゃりでることはないのである。(いまはどうかといえば、不要な人にまで見えたがる。)

 道そのものにしたって同じである。道がなにゆえに道として成りたつのかは既にして忘れられ、勝手な概念のもとに人間的と称していじくりまわされている。道行く人々、それは、先にも書いたとおりそれぞれの人だ。先を急ぐ人もいるだろうし、あわてる必要のない人もいる。悲しみにくれている人もいるし、有頂天の人もいるだろう。それが人生というもの、人間というものではないか。だから、一本の同じ道を、それぞれの人がそれぞれなりの歩みをもって歩むのだ。道ばたの草木一本一本に見入る人もあろうし、光景にしばし歩を息む人もいる、わき目もふらずしゃにむに歩き続ける人もいるだろう。一本の道、道すじの諸々施設は、そのそれぞれの人に適宜応えていた。人々は、それぞれなりの判断で歩をすすめたのだ。道は、それに応えていた。

 ところがいまの「人間的街路」はどうだ。曲る必要を認めない人も、無理に人間的曲線なりに歩かされ、見たくもない人まで強引に、用意された光景を見させられ、見る用もない道しるべを読まないと通れない。この「人間的街路」では、人々は一つのパターンの歩みだけ用意されている。それに基いてのみ考案されている。人々は、それぞれの人ではなく、あるいは、それぞれの人であってはならず、設計者の設定したところの「期待される人間」でなければならない。そして、あろうことか、人々の多くもまた、そうすることが、そうすることのみが現代的であるとでも思うのか、唯々諾々とその期待に従っている。いや、自らの感性に拠る判断、あるいは感性そのものを押しころすことがよいことのように思って済ましている。道や道しるべというもの、あるいはそういうことば、そして歩むということ自体、それが個々人それぞれにとって何であったか、何であるかが省みもされず、リアリティとの直面をきらい、いつの日にかに(他人の手により、あるいは目によって)つくられてしまっていたできあいの虚像のことばでことを処理して済ますのに慣れきってしまっている。

 

 なるほど確かに一つ一つのことがらについてその根:リアリティへの直面:にまでさかのぼってみるということは、できあいのことばで済ましてしまうよりも、しんどくて時聞のかかることであり、その意味では(とにかくことを一見早く片づけてしまうという意味では)決して効率的とは言い難く、忙しい日常では一々そんなことやっていられるかと思いたくもなり、あるいはせっかくそういうできあいのことばが既にあるのだからそこからスタートする方が効率的だと思いたくなるのも人情というものかもしれない。しかし、おそらくこれがー番(人間にとって)危険なことなのだ。特に効率的=合理的=望ましきこと、と見なしがちな現代において最も危険なことなのだ。そして特に、ものを考えたり行動したりすることに対して、一定の定型・規範が提起されるようになってきているいま:教科書を一定の型に整えようとする動きなどはその最もたるものだ:極めて危険がことなのだ。

 なぜなら、人間の係わることも含めて一切のことがらが、効率的であらんがため、そしてまた(勝手につくられてしまった)一定の定型・規範に則らせようとして、一定、特定の「機構」のなかに封じ込められてしまうからだ。そして、そうするために、個々の特殊:それぞれの人のありかたが、徹底的に切り捨てられてしまうからだ。一般的あるいは普遍的であるがためには、個々の特殊は切り捨てなければならぬとする空恐ろしくもものすごい神話が、まるであたりまえのようにはびこっている。人間的であるということさえも、人間的であると称するある一つの定型のうちに押し込められてしまうのだ。

 

 私たちの身に降りかかってくるこのような危険を避ける唯一の方法は、私たちが私たち自らの判断をする権利を留保することでしかないだろう。もし仮にいまの体制をくつがえす革命が成就したとして、しかしそれの目指すものが別種のよき定型であるならば、あの空恐ろしい神話は不滅であり私たちには相変らず危険が降りかかる。だから、つまるところ、私たちがしなければならないことは、個を捨ててよき定型を探し求めることなのではなく、私たちが私たち自らによるとことんつきつめた判断を積み重ねることなのだ。先ず初めに抽象的な冬を語るのではなく、先ず初めにそれぞれの冬を語らねばならないのだ。そして、それぞれの冬を語るためには、私たちは私たちそれぞれの感性に信をおかねばならない、それぞれの感性を研ぎ澄ませなければなるまい。

 

 春を待ちこがれる想いが、美しい言葉をつくりあけた。あざやかな日本の自然が生んだ「言葉の宝庫」、すなわち「感性の辞典」。 これは最近見かけたある「歳時記」の広告にあったキャッチフレーズである。そして、陽春・芳春・・・春寒し・おそ春・春めく、といったいくつかのことばが例記され、更に、「四季を知る。言葉を知る。日本を知る。〇〇歳時記」とある。

 私も歳時記を見るのがきらいではない。見事なことば、鋭い感性に圧倒される。四季を知る、言葉を知る、日本を知る、確かにそれはうそではない。感性の辞典、それも確かである。

 しかしふと思う。こういたことばまでもが、既にして「文化財」になってしまっているのではないか。あるいは、日常の世界においてではなく俳句の世界においてのみ、しかも既にリアリティとの対応は失い、ただリアリティとの対応のあった時代にそのことばにこめられてきたイメージ:いまではもう仮構のものでしかないイメージ:にのみ頼って、それらのことばが使われているのではないか。もちろんそれをやみくもに否定するつもりはない。それはそれで一向に構わない。それもことばというものの宿命なのだから。

 けれども、もとをただせば、これらのことばは皆、日常のことばであった。決して特殊な世界のことばでなかった。日常における感性の発露であったのだ。そしていま、私たちは私たちの感性を、どうして詩の世界にのみ押しこめてしまうのか。日常の世界からしめだしてしまうのか。「文化財」にしてしまうのか。私たちの日常に、感性の発露の場面がないとでもいうのだろうか。そんなことはない。何も感性が季節あるいは季節の移り変りに対してのみ向けられていたのではない。それは日常の生に向けられていたのだ。ただ、その日常の生活が、いまよりも、より季節とともにあった、だからそういう感性の発露:ことばを季節でもって括ることができた、それだけのことだ。いま、私たちには私たちの、いまの日常がある。

 私が「ふっこし」ということばに感嘆したのは、そこに、他のだれのでもない、まさにそこにいま生き住まう人たちの感性を見るからなのだ。そしてそのことばは、そこに往きあったその土地の者でない私にも瞬時にして「分る」ことばだからなのだ。そのことばが「本質」を示してくれるからなのだ。冒頭に引いた北国からの便りにあった言を借りるならば「大地と風と生あるものと。そこには、形をなすものたちの根源的な係わりあい、係わりかたがある」からなのだ。

 北国からの便りは、次のように終っていた。「冬は厳しい。しかし、冬の厳しさには甘えがあります。」

 

あとがき 

〇季節はずれの題目なのは、これを書きはじめたのが二月初旬のことだったからである。

先号あとがきの「ふっこし」のはなしも、先号の本文を書き終わったあとでの体験であり、もう少し早くその目に会っていたら、当然本文中で触れただろう。辛うじてあとがきに間にあった。

〇あまりに私がこのはなしにこだわるものだから、まわりの人は少しばかりけげんな顔をし、私もこれは少しばかり感激のしすぎかなと思っていたのだが、どうもそうでもないらしく、本文よりもこのあとがきのはなしに関心を示した感想がいくつかきこえてきた。今号に引いた北国の便りもその一つである。

ついでに言えば、「ふっこし」ということばが通じるのは極めて限られた地域のようだ。そこから東に二十kmほどはなれた前橋で育った人は、このことばをきいたこともないという。北に十数km行った榛名町(榛名山南ろくの町)の人は、たまたま電話したとき「いまちょうどふっこしでうっすらと白くなっています」と言っていたから、そこでは通用するのである。このことばの通用する土地を地図上に色塗りしてゆくと、おそらく、ほんとの意味の風土地図が描けるだろう。それは人と土地との係わりあいを示す地図である。このことばは言って見れば「方言」なのだが、しかしそれは、そういう事象の起きない場所には絶対輸出されないことばなのだ。

 〇試みに手もとの辞書で「ふゆ」とひくと。四季のー、秋の次の季節、四季のうちで一番寒い季節。通常十二月から二月までを言う、旧暦では・・・・などとでている。こうなれば、「あき」とひくとどう書かれているか、ひかなくたって分ってしまう。

「みち」とひくと、人や車の往来するところ、「みちしるべ」は、道すじを示すもの、道案内。これが辞書の解説である。

これらの辞書の解説は決してうそではない。まちがってはいない。しかし私が今号で言いたかったことは、こういう辞書的理解で全てを律することは危険である、少なくともものをつくる、あるいは私たちの生活を考える場面において、こういう辞書的理解から出発することはまちがいだ、ということだ。

ものをつくる、あるいは私たちの生活を考えるということは、すなわちそれらの存在の(私たちにとっての)意味を考えることだ。そうであるとき、〈冬〉も〈道〉も〈道しるべ〉も、どれも皆そのことばが先に在ったのではなく、それらは全て私たちが(古来人々が)名づけ、つくり、そしてまた妥当な名づけであるとして、妥当なものとして、認めてきたものなのだ、こういう視点で理解をすべきことなのではないだろうか。私はこのことを言いたかったのだ。そして。名づけること、つくること、すなわち生活の営み、それを根底的にとりしきってきたもの、それはつまるところ私たちそれぞれの感性なのだ、このことを言いたかった。うまく伝わる文になったか、いささか心もとない。

 〇今号でちょうど一サイクルが閉じる。来号を1号にして、また出なおして続けさせていただきます。今後もご笑覧、そしてご批判ください。

〇それぞれなりのご活躍を祈ります。そして、そのそれぞれが共有されることを!

     1982.3.1                     下山 眞司 


「筑波通信 №11」 1982年2月

2019-04-11 12:18:51 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №111982年2月 A4版10頁   

    「筑波通信 №11」  1982年2

      「今昔」の評釈について

秦恒平著「梁塵秘抄」

 〈熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も達からず〉

熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽賜べ若王子〉

結局はどっちも「遠い」ということを歌っている・・・・  

 和歌山県南端の紀伊熊野の本宮、新宮への参詣は十二世紀ごろにわかに盛んとなりとくに後白河院は生涯に三十三度もはるばる往来されたと申します。‥‥

 熊野へ参る道は、京都から、大きく分けて三通りほどございました。が、いずれを通っても難路峻路。途中、「――王子」と申しまして宿舎にもあてられるいくつもの末杜があった。一行は王子ごとに神前に歌を献じたり、今様の遊びを楽しんだり、そこへ遊び女たちも寄ってきたりして、信仰と物見遊山との入り混じった行楽気分もたしかにあったわけです。が何しろべらぼうに遠い。・・・・・・・・

・・・・私どもは飛行機も新幹線ももっている。そのためにかえってせかせかしています。歩いて三十分などという距離を昨今の都会人なら決して歩こうとせず、乗物を求め、乗物がない場所を称して不便な場所という。

 その感覚で昔のものを続みますと、例えば京都から熊野まで生涯に三十三度も通う人物がいるのが信じれない。現代人にはただの一度でさえそんなことを試みる人はいない。物理的に違いどころでない、心理的に迫っつかない遠さを感じてしまいます。

 むろん「うた」にもあるように昔の人にも遠かった。そして危険で不便で難儀でした。のに、くりかえし往反する。・・・・

 西行や芭蕉の漂泊感覚と、それを現代から想いやる漂白への想像とには、よほど時間感覚や距離感覚に違いがあったことをよく弁えないととんだ錯覚を生じます。現代の論者はやたら彼らの漂白を過大に評価しすぎます。一度家を出れば生涯帰らぬかもしれぬ中国人の長旅とは違います。そのまねなのです。その実はちゃんと用向きのある旅をけろっとした顔でしていたわけです。

 歩くしかない時代に時間をかけて歩いて行くことは、乗物万能の時代の人間には分らないタチの当然という感覚が働いていたはずです。私は熊野路をバスや車で二度通っています。遠いなあ、よくこんな処を歩いたものだとあきれ返ったものですが、それは比較してものを言うのであって、昔の人にはせいぜい大空の鳥の翼を想うしかなかった。自分の脚しかなかったのだから、行きたければ歩いて行き、歩いて行ける処までは遠くても構わず疑いもせずに歩いて行った。・・・・・

 

 この正月休み、本を読むことに徹してすごした。といって、そんなに重い本ではない。ここに引いたのは、そのなかの一冊、秦恒平著「梁塵秘抄」のなかに見つけた文章である(NHKブックス311)。全般に、この著者の評釈は、私にもよく分り楽しかったのだが、丁度№10で峠道のことを書いたばかりでもあったから、この部分が私の目をひいたのである。

 実際、古文をこういう形で評釈している本には初めてぶつかったような気がする。高校あたりで習った古文は、考えてみれば実につまらなかった。こういう類の評釈も混えて教えられたならば、それは単に古きものという趣味を越えて、より生き生きとしたものとして私たちに吸収されただろう。得るところがもっともっと多かったに違いないとつくづく思う。(本当に、何故古文が教えられているのだろうか。)

 私はいま、この文章を「遠さ」のはなしにひかれて引用したのだが、実は著者は、時間感覚の時代による違いについて述べんがためにこの一節を書いている。「梁塵秘抄」に集められている「うた」は、どれも本当に「うたう」もの、つまりただ文字を目で追い読むものではなかった。著者は、それがどういう調子、どういうテンポでうたわれるのか知りたかった。残念ながらレコードも録音機もない時代のはなしである。「秘抄」には楽譜が示されているようだけれども、しかしそれだけでは調子もテンポも分らない。一度、「秘抄」の「うた」の復元の試みがなされ、著者もそれを聴いたのだが、あまりにも悠長で納得がゆかなかった。だが、納得がゆかないと思っているのは、あくまでも現代の自分であって、彼等の時代はこれでよいのかもしれない。それでもなおかつ、「うた」のなかみから考えると、いま一つその復元だという「うたいかた」に対して疑念がわいてくる。つまるところ、分らない。このことにからんで著者は上記の評釈を書いたのである。そしてその節のおしまいごろで著者は次のように書いている:「この時間感覚(上記引用部分で書かれたことを受ける)を思えば、「秘抄」の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するより、それが当時の人には十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しまれていたことを信じるので、足りているのだなと私は思うのです。」

 

 この評釈に誘われて、今回は、時代の違い、あるいは違う時代につくられたものを「分る」ということについて、少しばかり考えてみようと思う。

 いま私自身この「秘抄」に集められている「うた」の数々を読んでいると、素直にすんなりと分る(という気になる)もの:〈遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ〉などはその一例:と、うたわれていることつまり文意は分るけれどもなかなかそのリアリティにはたどりつき難いものとがある。引用した文の頭初の「うた」はこの後者の例だ。そのリアリティに到達するには、その状況をつかむために相当の想像力を働かせなければならない。

 そして、そのリアリティへの近づきかたの程度によって、その「うた」の分りかたの深浅もまた変ってくる。かといって、このリアリティなるものも、これがそれだというような絶対的な確としたものがあるわけではなく、それもまた想像力の産物以外のなにものでもない。その「うた」が言おうとしていること、その概念はすぐ分る。遠かっただろう、それは分る。そのとき、極力それが詠まれたであろう(と思われる)状況を想定して、そこへ我が身をのめりこませていったとき、その「速さ」が単なる言わば抽象的な「速さ」ではなく、「その遠さ」としてみえてくるような気になってくる。つまるところ、その状況に実際にいたわけでもない私にできることといえば、そこまでである。

 それ故、それから先、考えかたが二つに分かれてしまう。すなわち、古のものあるいは古の状況は「だから絶対に分らない、分り得ない」とするか「それでも相対的に分る。分り得る」とするかである。古の状況がいま見られるわけはないし、そのとき人々がなした営為、その過程は、あたりまえだが、その場ですぐ見えなくなる性質のものだ。残っているのは「結果」だけ。具体的に目に見える形で在るものにしか信がおけないとするならば、前者の立場になるだろう。そのときそれは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として扱い済ます立場にもうすぐだ。

 私は無論後者の立場をとる。人々のなした営為は、それが目の前に形をなして存しなくても見えるとする。つまり、決して絶対ではないが、相対的に分るのだとする立場をとる。私は人間の感性を信ずるからである。その普遍性を信ずるからである。

 いまの私たちの時間感覚、距離感覚をもって先の「うた」を分ろうとしたら、到底信じられない、ばかなことをやったもんだと思うのがおちだろう。しかし、彼等のいたと思われる状況が想定し得たとき、その想定した状況に放りこまれた私が思うことは、彼等が思ったことと、ほとんど変りないはずなのだ。感性を信ずるというのは、そういう意味だ。(なにもいまと昔とのはなしに限らず、いま私たちが互いに話ができるというのも、私たちが互いの状況を想定しそこで思うだろうことを想定し得るということに裏打ちされているのだ。互いの感性に信がおけるからこそ言葉というものが存在するのではなかったか。少なくとも日常的に私たちが使っている言語:自然言語はそれ故に存在すると言ってよいだろう。

 しかしいま、数式に代表されるような科学言語の方に信がおかれ、自然言語をも、従って人間のやることをも、科学言語的に扱おうとする気配がありはしないだろうか。自然言語つまり普通の言葉はあいまいで絶対的でなく相対的だからに違いない。しかし、自然言語というのはいわゆる科学的分析により保証されたものでなく、私たちそれぞれの感性に保証されているわけであるから、その自然言語に信がおけないということは、すなわち私たちの感性に信がおけないということに他ならない。つまりいま私たちは、日常的に自然言語は使っているのに、互いに互いの感性を信じなくなったということだ。

 「自然言語の概念は、漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として作られた科学言語の明確な言葉よりも、いっそう安定しているように思われる。これは事実驚くには当らない、というのは自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。なるほど非常にはっきりとは定義されていないが、従ってまた数世紀の間にリアリティそのものと同じように変化を受けるかもしれないが、しかしいつになってもリアリティとの直接の連絡を失うことはない。・・・・科学言語は、理想化の過程と明確な定義とを通すことにより、リアリティとの直接の連絡は失われる。その概念は研究の対象であった自然の部分においてはリアリティとやはり非常に密接に対応しているが、しかし他の現象を含む別の部分においては、対応が失われるおそれがある。」これは、いまや人文科学の分野の人たちまでもが理想の形式としてそれへの傾斜を深めているところの、当の自然科学の一つ、ある物理学者の言である。:ハイゼンベルク「現代物理学の思想」1958

 

 先にも書いたが、およそ人のやることは、それはある状況において人がやることなのだが、「結果」は残っても、その状況はもとより、そこにおいて人がやった「過程」は残らず消えてしまう。そして、考えてみれば、いま私たちのまわりをとり囲んでいるものの大部分は、そういった「結果」の群なのだと言っても決して言いすぎでないだろう。言いかたを変えれば、過去の「遺物」にとり囲まれているのである。しかし私たちは、よほどのものでない限り、それらを「遺物」とは思わずに暮している。ということは、それらの過去の「結果」が、少なくともいまのところ、私たちの日ごろの暮しに何らかの係わりを(十分かどうかは別として)はたしていてくれることを認めているということだ。

 それはすなわち、それらの過去の「結果」が、いまの私たちによって(それが過去になされたことであるにも拘らず)分るということに他ならない。つまり、その「結果」の私たちにとっての意味が分るということだ。しかし、その分りかたが、それらの「結果」をあらしめた人たちの分りかた(あるいはその状況)とまるっきり同一であるとする絶対的保証は残念ながらない。というより、あたりまえなこととして存在しない。だからといって短絡的に、それ故過去のものは絶対に分らないとするのは早計というものだろう。私たちには、その分りかたの深浅はともあれその本質は、いつの時代であれ、相対的に分ることができるのだ。私は、そう見たい。

 

 常陸風土記をはじめとする風土記において、それを編んだ人たちの生活に何の係わりもない得体の知れない「遺物」(彼等にも、得体は知れないが、自然のものでなく人為的なものと見えたのだ)に対して、彼等が彼等なりの説明を懸命に(現代の目から見ればこっけいに)施そうとしているのを読むことができる。」

 この「遺物」それは例えば、現代の考古学的知識で言えば、縄文の堅穴住居跡や貝塚である。彼等がそこら辺に住みだしたとき、それらは既にそこにあった。明らかに人為的だ。だれかが何かをやったのだ。が、彼等の生活とは何の係わりもない。「遺物」でしかない。けれども彼等はそれを放っておかなかった。彼等はそれら「遺物」と自分たちのいまとの間の空白を埋めるべく、壮大な物語を案出する。いわゆる巨人伝説につながる話などがそれだ。(当時の)海岸よりはるか離れた、それ故運ぶのさえ大変だと思われるような所に海の貝がらが山と積まれて捨てられていて、近くには大きな穴があたかも足跡のように残っている。そこで人々は、海岸とその土地を一またぎするような巨人がいて、そこで貝をとっては食べたのだという壮大な物語をつくりあげたのである。そういう人々のなかに伝わっていた話などを基に編まれたもの、それが風土記なのだ。

 そこには、こういう話の他にも、土地の名前の由来だとか、ものの由来だとか、思わず楽しくなるような大らかな解説が書かれている。言うならば荒唐無稽な話ばかりだ。しかし、壮大な物語だとか荒唐無稽だとか評しているのは、やはり、あくまでもいまの私たちの状況に身をおいての見かたなのであって、それは彼等の、その得体の知れな人為的な「遺物」と自分たちとの間の断絶を埋めようとする、彼等にあってせいいっぱいの合理化作業:科学的営為だったと見るべきだろう。(私たちが、当時の状況にいたとしたら、私たちもまた同じような話をつくったに違いないと私は思う。)

 私はいつも思う。彼等は、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として済ましてしまういまの一部の人たちよりも、数等秀れて健全な精神の持主であったと。なぜなら彼等は過去といまとの連関を問おうとした。

 しかしいま、「結果」と他の「結果」の間の連関を問おうとさえしなくなりつつあるし、ましてそのそれぞれの「結果」を成らしめた状況:人々のおかれた状況そしてそこで人々の思った情況:を想像力を駆使して思いやるなどということもなくなりつつある。むしろ、いまでは、科学的であろうとすればするほど、そんな不確なことばかりに忌みきらわれるのがおちである。

 しかしながら私たちをとり囲んでいるものの多くが、過去の「結果」であるというのは厳然たる事実のはずなのだ。それらを、いまの私たちが分るか分らないかが、だから問題なのだ。そして普通は、日常的には分っているのである。それが意識されていないだけなのだ。だから、よほどのことでもない限り、そういう過去に成されたものに対して、それを「遺物」だとは思わずにいまのもの同様に扱っている。これは、古来人々がやってきたことと、何の変りもない。そして、これは既に何度も言ってきたことだけれども、人々はそれらのものがよほどのことになってくれば、つまり状況が変ってもはや「遺物」になりかかりそうになってくれば、すすんでつくりかえを試みるのである。それは部分的な改造であるかもしれないし、あるいは全面的な更新であるかもしれない。その行動の拠りどころになっていること、それは「分る」ということであった。しかしそれは、新しいものあるいはいまが分るということではなく、既に在ったもの、とりこわそうとしているもの、それをも「分る」ということである。すなわち。ものの(私たちにとっての)意味が、時代を越えて、私たちに(相対的に)分るということが前提にあって可能であったのだ。そしてそれは、つまるところ、ものに対する人の感性に信をおいていたということに他ならないだろう。

 しかしながらいま、分るということが、目に見えるものを知ることのみであるかのように誤解される傾向が強いから、目には見えないそれを成した人々の営為が黙殺されてしまう。ある時代の結果は、ある時代の人々の成した結果であるにも拘らず、そして人々の成したことは相対的に分る性質のものであるにも拘らず、単純に古くて役にたたないもの、せいぜいある時代の記念碑としてのみ扱い済まされてしまうのである。

 確かに一方で、古いもの、伝統(的なもの)を大事にする人たちがいるけれどもその人たちの多くは、言わば骨とう趣味的に古いものに興味を示しているに過ぎないと言ってよく(先号で書いた例のように)、構造的には、上述した役たたずとして無視する立場を裏返した見かたでしかないと、私は思う。ともに、人の営為を見ず、見ようとせず、見えるもの:結果だけをあげつらう点において何の違いもない。先号の言いかたで言えば、What だけで問うようになってしまっているのである。そして、こういう傾向が強くなったからこそ、過去と現在の間に、どうしようもない裂け目が入り、そしてそれがますます大きくなってゆくのである。「伝統」などという言葉がことさらに言われるようになるということは、その裂け目に目が向きだしたことには変りないけれども、しかしそれをWhat だけで問うている限りでは、これもまた、あの風土記の時代の人々よりも数等質が悪いように、私には思えてならない。

 

 私はいま、ある住居の設計で、現場で大工さんと接している。三十代後半の人たちのようだ。私は驚いたのだが、いわゆる建築用語で言うところの見えがかりのおさまりについて、私の方がよく知っているのだ。

 見えがかりのおさまりというのは、二つ以上のもの(材料)がぶつかったときの、そのぶつけかたの作法だと言えばよいだろう。私は設計屋ではあっても大工さんではない。作業の手順だとか材料の加工だとか、たとえ知るように努めたところで、所詮それは知識の域を出ることはない。だからいつも設計図を描いて、いま一つ頼りなく、大工さんに一目おかざるを得ない、そう思いつついままで過してきた。おさまりについても、自分でいろいろ見て学んだこともあるけれども、大工さんによって教えられたことも数多くあったのである。だから、大工さんなら、いろんな場面に見合った手練手管を知っているものだ。そう私は思っていた。見えがかり、できあがったときの見えかたについても、大工さんというのは非常に神経を使うものだ、そう思ってきた。

 ところがそうでなかったのだ。至極当然だと思えること(常識的だと思えること、あるいは普通の感覚ではあたりまえなこと:それらは当然のことだと思うが故に強いて図面としては描かない)、それが当然ではなかったのである。私は困惑した。非常に安易なやりかたで、見てくれをごまかそうとするのである。表面だけつくろおうとする言うならばつくろい仕事なのだ。そこにおかれる材料に対しての(大工さんなら持っていて当然の)感覚・感性というものがまるでない。(といって、別にいわゆる技術面で下手だというわけではない。もっとも、技術というのにそこまで入れるべきだとすれば別だが。)大工さんならいろいろな実例を仮に自分がやったことはなくても当然知っていてよいと私は思うのだが、知らないのである。

 どうしてなのだろう。いろいろ考えてみると、どうも最近はそういうことを気にする仕事をしないようなのだ。なぜかと言えば、いわゆる多種多様の新建材が出現して以来、それらを表面にぺたぺた張りつけるやりかたが増え、もののおさまりと言えばそれらの化粧シートの張りつけかたのおさまりだけになってしまったと言ってもよいくらいになっているからだ。れんが積を写真で撮りそっくりに印刷したシートなどがあるから、到底れんが積があり得るはずがない(と れんがを知っていれば思う)ようなところ:例えば、か細い木の柱に支えられた壁面だとか、ときには天井:に平然と張られたりする。これは大工さんだけが悪いのではない。設計屋さん自体もそうなのだ。もののあたりまえな在りかたが分らなくなっている。道の舗装に使う御影石の切石が、舗装をそのままひっくり返してぶらさげたように張られた天井を実際に見たことがあるが、これには二の句がつげなかった記憶がある。この設計屋さん、いい神経しているとつくづく思う。科学技術が進歩すると(というのはどんな重量物だって天井につるすことぐらい何でもない)私たちの石というものに対する感性までも変ってしまうとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それは人をばかにしたはなしである。

 ものごころついたときが戦前で、以後、戦前の様を辛じて、そして戦中、戦後とめまぐるしく変ってきた時代を通して過ごすことのできた私たちの世代、その世代に属していることが幸せであったと思うことがときどきある。なぜなら、私は、戦前、戦中、戦後の生活:三代のめまぐるしく変った生活を辛じて知っているからである。もちろん、町や村、家々、つまりそれぞれの時代につくられたもの、も知っている。しかもそれは日常のなかで知っているのであって、歴史の教科書で知ったのとは訳が違う。もののつくりかた一つをとってみてもそのやりかたの変遷を身をもって知っていると言ってもよいだろう。大きく変った生活の変遷、それを幸か不幸か知っている。だから、別に子どものころから建築に関心があったわけではないが、いろんな空間、いろんな場面、(それも現代的なやりかたによるものに限らない)を体験としてもっている。そして、思いだしてみると、設計をしているとき、そういった体験のいくつかが必らず頭をよぎっている。過去の体験というなら、だれにもあるではないかと思われるかもしれないが、私たちの世代のそれには、いまのような画一化したものでない、つまり現代のものだけでないそれだ。変遷自体が体験になっている。

 ところが、この大工さんの世代だと、戦前は戦中によって断絶させられた「遺物」にすぎず、戦後のやりかたしかその体験のなかにはないはずだ。おまけに戦後、戦前は意識的に切り捨てられたし、近代的・合理的やりかたが主流となる。建物も、昔からのつくりかえの理論でないやりかたのものが多くなる。言うならば、相互の連関を見失った独立・突発型とでも言うべきやりかたの建物だらけとなる。材料もまた、先に触れたような状況となる。いずれにしろそういった戦後の様は、人々の一貫して筋の通った感性によって裏打ちされたものではない。人々の感性は、むしろそうした感性を無視した大量のもののなかに埋められてしまう。人々は自らの感性に信をおくことが不安になる。この大工さんたちも、体験もなく、自らの感性に拠り考えることもしない、やることといえば、別に深くも考えずに、どこかにあったやりかたでお茶をにごす。

 そして、この大工さんたちがこうなったもう一つの考えられる理由。それも戦争のせいだ。唐突にきこえるかもしれないが、明らかにそのせいだと私は思う。この大工さんたちの上にたつ大工さんたちがいないのだ。全然いないのではない。相対的に少ないのだ。その世代の農民や職人たちは、お国のために、死んでいったのである。つまり、戦前と戦後をつなぐなかつぎの世代が欠けている。それは全く人為的な、無用な断絶に他ならない。この大工さんたちには、大工さんたることを教えてくれる先輩つまり妙なことをしたときチェックする役割をもったうるさい人たちがいない、少ないのである。いつの世でも、若手の人たちは、このうるさい人たちに一定の反発を感じながら、そしてまた一定程度そのうるささの理に納得しつつ、そのなかで引き継がれるべきものは継がれ、乗り越えられるものは越えられ、その時代時代の技術として成熟していったのだ。だからそれは、前に「つくりかえの論理」と私は呼んだけれども、より正確に言うなら「乗り越えの論理」と言う方がよいかとも思う。ただそれは、決して、乗り越えるからといって「無視の論理」ではないということなのだ。そして、そういう論理を保証していたものが何であったかといえば、それは、その時生きていた人々のものを見る目、もののとらえかたの確かさであったのだ。そしてそれは、その確かさは何であったか。それは決して他から与えられた理論や理屈に頼った、いま流に言えば専門家によって与えられた確かさではなく、人々それぞれの、それぞれの感性によって裏打ちされた自前の確かさであった。私は、そう思う。(いま、各地にある職業訓練校には、大工さん養成の課程がある。ところが、聞いたところによれば、そこで教えられていることは、各土地土地で培われたその土地の大工技術ではなく、むしろそれを無視黙殺した全国一律の教科書によっているのだそうである。)

 いま私が、この大工さんたちとのつきあいで感じたことは、なにも大工さんの技術に限ったはなしではないように思う。全ての局面で同じことが言えるように思う。どこにおいても、それぞれの感性に、それによって裏打ちされた自らのものの見かた、とらえかたに、自信をもてなくなってきている。もたなくなっている。裏を返せばそれは、(他)人(の感性)を信じないということに他ならない。つまり、自らのではなくもちろん他人のでもない、それとは全く別のいわゆる客観的と称する物指しで計らないと、ものが見えた気になれない、そういう状況になっているわけだ。そして、その物指しを唯一持っていると自称する人たち、それが今様の専門家 なのだ。

 そしてまた、そうであるが故に、どの局面においても、「つくりかえの論理」「乗り越えの論理」すなわちあたりまえの「創造の論理」が「無視の論理」に置き代えられてしまっている。まさに風土記の作者たちの時代以下である。

 

 おそらくいま、私の属する世代の人々は、その過ごしてきた時代体験を無視あるいは捨てることなく、自らの感性に裏打ちされた私たち自らのものの見かた、とらえかたを、より強く打ちだすべきであるように、私は思う。それはなにも、私たちだけがものごとをよく分っている、そしてそれをひけらかす、などという思いあがった意味でではない。そうではなく、つくりかえられる、乗り越えられるその対象として、その対象を強く打ちだすことだ。(もし私たちの世代自体が「無視の論理」だけでことを処理することをやり続けるなら、私たちもまた無視の対象とされてしまうだろう。)私たちが、そしてそれぞれの時代が、つくりかえられ、乗り越えられるものであったとき初めて正当な世代交代が行なわれるはずなのだ。私たちは、(若い人たちから)もっともっとうるさく思われる人たちでなければならないと、私は思う。そして、そのように身構えたとき、私たちそれぞれは、自らの感性に裏打ちされたものの見かた、とらえかたに、自信と責任を持たざるを得なくなるのである。そしてまた、そのように身構えない限り、私たちのものごとの「分りかた」自体、極めてひとりよがりな、あたかも幼児語的段階に止まり、決して「自然言語」としては通用しないだろう。

 

あとがき

前号あたりから、「感性」ということばを表にだすようにしてきている。このことばを表に出すには少しばかりためらいがあった。しかし、いろいろ考えてみて、やはりこのことばを表に出した方がよいと思うようになったのである。なぜためらったかといえば、「感性」などという言わば個人的なことばをもちだしたとき、通常ひきおこすであろうある種の誤解を気にしたからに他ならない。けれども、つまるところ私が言い続けたいのは、現在あたかも常識の如くに言われ行なわれていることどものおかしさについてであり、そのおかしさに気がつくには私たちの「感性」に拠るしかないのであるから、そのことばをもちださないということは私の考えかたから見て、つじつまのあわないことになってしまうのである。もちろん、ここでもちだす「感性」が、皮相的な、言わば皮膚感覚的な意味あいでないことはお分りいただけると思う。

ところで、ふと私にちのまわりを見まわしてみたとき、自らの感性に拠って(おかしさについて)思うところを述べる人たちが、私の経験では、いつでも、またどこでも、小さくなっているように思えてならない。そんなこと言って、先例があるの?とか、それが正しいという(目に見える)証拠は?などと言われてビビるのである。考えてみれば、王様の裸を(見えた通りに)指摘したのは子どもであって、王様に対して裸でないと思わせた(信じこませた)のも、見えている裸を裸として見なかったのも大人であった。そしてまた、(多少とも思うところのあった)大人は、自分の家の他人に知られないところで、つぼに向って「王様の耳はロバの耳」とどなるのがせいいっぱいだった。

〇久しぶりに、中野の人にちに会うために東京へ出た。その帰りの列車のなかで読んだ新聞の評論が私の目をひいたので、その一部をそのまま次に書き写してみる〈毎日1月23日夕刊山田宗陸〈虚国〉日本を撃つ:現代短歌に寄せて)。

 俳句と短歌は全く別物だが、主として俳旬を例に、日本の伝統的な短詩形を第二芸術として批判しさった論は、たしかに鋭利明快で、戦後の一つの性格であった近代主義においてきわだった説であった。  しかしいまになって、戦後を死なせ、あるいは日本を死なせたものが、ほかならぬ近代主義による近代化であったことも、また明白である。

 そして短歌の世界で、近代化機構の乾燥度に対する感性の批判、情念によるプロテストが存在することは、上に見てきた(注:引用略)とおりである。 なにも近代だけではない。どの時代にもその時代の合理主義があった。 時代がゆきづまったとき、合理のパラダイムに挑んだのは、感覚の反乱であった。

 すべての短歌がそうであるとは、もとより言わない。 道浦母都子『無援の抒情』(では)六八年の全共闘運動に参加し、やがてその新左翼の「党」の荒寥に傷つき、ひとり時にその傷をこするように、時になめるように〈無援の抒情〉を、一首一首、紡ぎだしている。

 人憎まねば立ち直れぬのか弾きて不意に涙あふるる

 生きて会う人の苦しみ悲しみの極みのごとき原色を見つ

 蒼ざめし馬にまたがり逃がれゆく雪の降る夜のわが幻は

  新左翼の向こうには当然に旧左翼がある。後者から前者への過程が、近代の生んだ革命党のマイナスの面のひきつぎにすぎなかったことは、だれの目にもあきらかである。〈無援の抒情〉は、たんに特殊な政治的ラジカリズムの局面にだけうかんでいるのではない。それはあきらかに近代のパラダイムヘのーいまは〈無援〉かもしらぬが一感性の反乱の一部である。 無援の抒情だからこそ、あげて近代のパラダイム機構である現代日本を、普遍的に撃つところに立っている。

・・・・・・・・ たんに現代を、前衛を、論じ歌うものを、わたしは信じない。たんに古代を、原始を、論じ歌うものを、わたしは信じない。その二つを結ぶ「もがり縄」こそが、「虚国(むなぐに)」日本を撃つのである。

 中野の人たちとの雑談のなかで、先号の峠道の話にからんだ話題になった。その人は諏訪の人で、小さいころ八ヶ岳のふもとを歩きまわったとき、山と山の聞の切れこんだところを「きれと」と呼ぶということを教わったのだが、そういうところに建っている山小屋が、知らない間に「キレット小屋」などと、あたかも外国語のように言われているのに気がついたというのである。私もそう言われて、山と山の切れ目の呼称にそういうのがあったのを思いだした。大学に戻って二三の人に尋ねてみたところ、ドイツ語じゃないの、という答がかえってきた。手元にあった国語辞典をひいたところ、「きれっと、きれと:切れ処」としてひらがなでちゃんとでていた。

碓氷峠のふもとへ出かけた。早春のようなうららかな日和が再び冬型へと急変するときに丁度ぶつかったらしい。平野のまんなかで風が急に荒れだし、いままで遠くに春のようにかすんでいた赤城山をはじめとする平野を囲む山々に、それこそ見る見るうちに一見して雪雲と分る灰色の雲がかかりだし、それもうずを描くように激しく動いている。碓氷峠:妙義山に近づくと、風はますます強く、ときどき日差しが雲にさえぎられるようになり、風花も舞いだし、ついにすっかり雪雲の下に入りこんでしまった。雪片が斜めに無数の筋を描いて吹き飛んでゆく。ついさっきまでの小春日和がうそみたいである。一瞬のうちの吹雪模様。妙義ももうすっかり見えない。私がいささか驚いているのに気づいた訪問先の奥さんの、「ふっこしだから直ぐやみますよ」ということばをきいて私は思わず、「これ、ふっこしって言うんですか?」と尋ねつつ、ほとんど同時に「吹っ越し」という字が頭のなかに浮んできた。どうやらそれで間違いないようであった。山あいの「きれと」から、山の向うの冬が疾風(はやて)の如く「吹き越し」てきたのである。気象学的に言えば、寒冷前線が山なみを越えるときの一時的現象なのに違いない。この辺のこどもたちは、こういうとき、「はーて(あるいは、はあて)が来た」とも言うのだそうである。これはおそらく「はやて」のなまりではないだろうか。私は、あたりの光景に感嘆するとともに、こういうことばの根ざすリアリティへの確かさに驚嘆した。

 いずれ、皆様がたそれぞれの「通信」も載せさせていただければ、などとも考えています。

寒いなか、皆様のそれぞれなりのご活躍を祈ります。

    1982年2月1日                       下山 眞司         

 


「筑波通信№10」 1981年度

2019-04-01 09:45:02 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №10」1982年1月 A4版10頁   

   「筑波通信 №10」  1982年1月

      「峠」を越えられるか・・・・5W1Hの復権・・・・

 昨年の春以来、この三月に卒業してゆく学生の数人が協働して、鉄道の枕木を使った山小屋を実際に造っている。これが彼等の卒業設計なのだ(建築を学ぶ学生には、卒業論文の他に卒業設計が課せられるのである。しかし普通は設計図の提出であって実物を造ることはまずない)。なにしろ資金集めから木材を加工して組立てるまでの全般、そのほとんど全てを自分たちが中心になってやるのだから、これは教室できく下手な授業よりも数等ましてよい学習になったようだ。機会(これも彼等が見つけたのだが)に恵まれたからだとはいえ そしていろんな目にあったとはいえ、おそらくこれは、大学時代、というよりも青春の日の最も充実した体験として、今後彼等それぞれのなかに、必らずや何らかの形を成して残ってゆくのではなかろうか。

 この彼等の山小屋の現場は、今ごろはもう雪の中だ。

 中部地方の地図を開いてもらうとよいのだが、丁度信州の中央部、西に松本・北に上田、小諸・北東に佐久・南に諏訪そして少し離れて南東に甲府の町々があり、それらの町々がある平地・盆地にとり囲まれた形で一連の山塊がある。西から言えば、美ヶ原・霧ヶ峰・蓼科(たてしな)そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、言わずと知れた観光地の一帯である。そして、彼らの現場はこの蓼科の山中、大門峠という峠を少し北に下ったところ、標高1400mに近い地点にある。

                          「長野県の地名」平凡社より(図の挿入と青文字は投稿者によります。)

 いま名前を出した峠を含め、この山系には、先に記した町々、特にその山系の南と北に展開する町々を結ぶ山越えの道:峠が古来数多く開かれていたらしい。古代の近畿と東国を結ぶ主要国道:東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中仙道は諏訪から佐久へとまさにこの山中を縫っている(いまの国道142号はほぼその道すじに従っている)。だからこの山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠がならんでいたのである。その多さは一寸類を見ないほどだ。

 私は以前から、このいくつもの峠が横ならびしている場所に興味があった。何故にかくも多くの峠があるのか、そして何故にこんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからである。ここは高冷・寒冷の地なのだ。

 そしてまた、この山系のふもと、現在の町々があるところより一段上った斜面、ことに南側の、いま開拓地や別荘地として開発が進みつつある高原状の斜面一帯には、縄文期を中心とする住居跡・集落跡:遺跡群が、まさに所狭しとばかりに密集しており、これもまた私の興味をそそるものであった。どうしてこんなところにと、これも不思議でならなかったからである。

 藤森栄一という諏訪に生まれ諏訪を愛した民間の考古学者がいるが、彼の沢山の著書で、その辺のことについて私はいろいろと教えてもらい、一度は実際に歩いてみたいというのが、かねてからの思いであった。

 そして昨年の夏、学生たちの山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも、歩きまわることができ、貴重な体験を得ることができた(正確には乗りまわったのであるが)。そこで今回は、そのうちの「峠」について考えていることを書いてみたい。

 

 いま仮に、諏訪に住んでいる人が小諸・佐久あるいは上田や長野に行こうとする場合を考えてみよう。極く普通に行くとなると鉄道を使うことになるが、地図を見ればすぐ分るように、鉄道はこれらの山々をまいた形で走っているから、かなり時間をくい、地図上の直線距離は近くても、鉄道に頼るのに慣れている限り、はるか山の彼方の遠い町へ行く感じを持つはずである。ついでに言えば、いま鉄道は、中央地方中心都市とを結ぶには非常に便がよいけれども、地方の町々を結ぶことに関しては一時よりもかえって便が悪くなっているから、東京から長野に行くよりも諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また自動車で行くにしても、名の知れた主要な道(例えば、20号、18号、19号など)を使うと、それらは大体鉄道と並行しているから、これも時問がかかる。

 考えてみれば、鉄道も主要道も、それは地方の町々を結ぶというよりも、地方中央に結びつけることに意がはらわれるから、こういう山の向うとこちらをつなぐなどということは念頭になく、もし山を越えた町をつなぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの中央にとって都合がよいからだと言って言いすぎではあるまい。

 中央が近畿にあった古代にあって東山道は東国への近道だし、江戸期の中仙道も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし中央が東東だけになってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は抜かされ、山の両側にそれぞれ東京と長野、東京と松本をつなぐ鉄道が敷かれることになる。それは必らずしも山越えが技術的に難しかったからだけではないはずで、それは碓氷峠のこと(先進技術を導入して、あの峠を登りきっている)を考えてみれば明らかだろう。中仙道を全て鉄道化する必要を認めなかったのである。その結果、鉄道化からはずされたあの山越えの部分:諏訪から佐久までは忘れ去られる破目になり、山の向うとこちらという感じで見られるようになってしまったのだ。先に私は極く普通に行くとなるとという書きかたをしたけれども、この極く普通にというのは、だから、鉄道ができてから普通になったのであって、それ以前ならば、この山越えの方が普通だったに違いなく、おそらくそのときは、山の向うとこちらという感じはそれほどなく、両側はもっと密で近しい関係にあっただろう。

 しかし、いざ鉄道が開通したとなれば、速度も速く、輸送量も多く、第一疲れないで済む鉄道に、いかにそれが遠まわりであろうが、頼ることは必然で、結果は町々の関係も一変させてしまったのだ。だれもわざわざ山越えをして上田へ行こうなどとは思わなくなったのだ。人々は歩かなくなった。

 

 そしていま、皮肉なことに、人々の往来が少なくなって、人々の往来に拠っていたその町の生活が言わばその活動を停止し変化が止まった(というより変ることができなくなった)その道すじの町々が、伝統的街並と称されてもてはやされている。

 確かに、鉄道が敷かれてからさびれてしまった中仙道沿いの町々には、歩いてみていま栄えている町々にはない心なごむものがあるのは事実のようだ。しかし一方で、それらの街並をそのようにあらしめた主要道:中仙道が既にその役割を失ない、その意味では言わばもう死んでしまったものだというのも事実である。

 つまり、いまそれらの町々は、中仙道に拠らない生活を、中仙道に拠ってその昔造ってしまったつくりのなかで、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。考えてみれば直ちに分ることのはずなのだが、中仙道の華やかなりしころ、その町すじの家々は活気あふれ、ひんぱんに建て替えが行なわれていたにちがいない。そのとき彼等は、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるべきものは捨てる、つまり彼等の主体的な判断のもとでことにあたったはずである。それはすなわち、過去につくられた物そのものを、単に保ち続けるというような安易な営みでは決してなかったのだ。そして、そういう言わばダイナミックな人々の活動が、鉄道の敷設とともに突然の停止を迫まられ、言うなれば時間が停まってしまったときの姿、それがいまもてはやされている伝統的街並に他ならない。

 だから私には、いま行なわれている街並保存の動きがいま一つ納得できないでいる。

 一つには、そういった保存運動というのが大抵よそもの鉄道で訪れた:の発想であって、そこで生活している人たちのことが念頭にないからである。そこで生活する人たちに、時間を停めて生きろということに他ならないからである。いったいだれに、そんな僭越なことが許されているのか。そして一つには、そういった旧い物を保存することによって満足している、その安易な考えかたが気に入らないからである。

 なるほど確かにこういった心なごむ街並みがどんどん消えてゆく。心なごまない、むしろ逆なでされるようなものになってきている。それとの対比のなかで。旧きものによさを見出したからといって、ただそれらを物として保存すれば済むというものではない。まして、それらを保存すれば、それが現代のやりかた・やられかたへの免罪符になるわけでもない。こういう単純に、というか単細胞的に、よいものを残しておけばよいとする考えは、私には、まさにいまの町々街並を心なごまないものにしているつくりかた・その考えかたの裏返したもの、つまり構造が全く変りない同じ穴のむじなに見えてしまう。彼等には、彼等がよいと思う町々や街並の、その形成:生成のダイナミズムが全くもって見えないのだ。人びと:そこに生きた数代にわたる人々の、そのときどきの主体的な、自らの感性に拠る判断の積層のうちにそれらが成ったことが見えず、そのよさの因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま残ってしまった)目の前に在る物、その物の形:造形そのものに求めようとしているのだ。 

  いま書いてきたような場面について言えば、人間の歴史は、まさにつくりかえの歴史であると言ってよいだろう。だから、私たちが保存しなければならないのは、できあがった結果としての物そのものではない。そうではなく、その物をあらしめたつくりかえの論理:すなわちものづくりの論理、そしてそれを支えてきた感性の存在である。そしてまた、その存在を保証することである。そうでなければ、いま私たちがやることは、決してそのよき旧きもの以上のものには成り得まい。そしてまたそうでなければ、旧きよきものそのものを保存することは、いわゆる骨とう趣味と何ら変りないことになってしまうだろう。

 

 ここまで書いて、つい最近の経験を思いだした。ついでだから書いておこう。先月(12月)の初め、学生たちと桂離宮を見学した。それはいま修復中で、屋根のひわだぶきも新しくなって、それまでの見慣れた黒っぽいいわゆる古色とはまるっきり違って、建設当時はこうだったろうという色になっていた。それについてのある人たちの感想(デザイナーを自負する人たちなのだが)は、まわりとなじんでいなくてあの桂離宮のよさがなくなってしまった、元通りになるのにどれだけ時間がかかるだろう、というものであった。私に言わせれば、これが、この新しい色が元通りなのだ。いや木材もなにも新しい色をしていたとき、それが元通りなのだ。この山荘を実際使ったのはたかだか数十年だから、そのときこの建物は未だ古色にはなっていなかったはずだし、造った人も三百年以上だってのよさを思って造ったわけでもあるまい。そうだとすると、桂離宮がいいと言っている人は何を見て、何をもっていいと言っているのか、そのいいのなかみを疑いたくなった。いま自分が(勝手に)いいと思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思いこんでいる。だからここには誤まりが二重に積み重なっているのだ。

 そして、そうか、こういう見かたで、見かただけで教育が行なわれてきたのだな。これは大変なことだ、とあらためてことの重大さを気づかされたのである。

 碓か中学のころであったか、英語の時間に5 W1Hということを習った覚えがある。いつ(When)どこで(Where)だれが(Who)なにを(What)なぜ(Why)いかに(How)したか、これを問えば文意が通じるというようなことではなかったかと思う。なにも英語をもちだすまでもなく、人間のやることは、これらの問いで問いつめられる。そして、考えてみると、伝統的街並保存のはなしも、この桂離宮の例も、そこにはWhen、Where、Who、Whyの問いが欠落し、あるのはWhatとHowだけなのである。はたして、それだけの視点で人間のやることを語れるか、ものがつくれるか? 否である。否のはずである。少なくとも、旧きよき街並を実際に造ってきた人たちや桂離宮を造った人たちは、あたりまえなこととして、これらの問いの全てを備えていたはずなのだ。それを忘れてしまったのは、いまの私たちだけだ。それを忘れたからこそ、以前書いた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という発想が大手をふって歩きだすのである。

 旧きものも新しいものも、この全ての問いで問うとき、当然のこととして、その本当の姿、その存在の意味が見えてくるように思う。少なくとも私が旧きものに学ぶのは、必らずしもその形ではない。そうではなく、それらを造った人たちの5W1Hに対する身の処しかたなのだ。そして、もし保存しようとするならば、その身の処しかたをこそ保存しなければならないのだと私は思う。

 

 峠の道から大分はずれてしまったようである。山越えの道が、鉄道の開通とともに廃れてしまったという話をしていたのである。

 いま、この廃れた道が、再び装いを新にして復活してきている。専ら歩くしかなく鉄道に比べて全く分の悪かった峠越えの山道が、自動車の普及とともに見なおされてきたのである。

 そしていま、実際に車で走ってみて、山のこちらと向うが、驚くほど近いということをあらためて発見する。徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後培れた感覚:はるか山の向う側という感覚とは違って、やはり近しい間がらであったと考えざるを得ないのである。

 いま、これらの峠道は見ごとな舗装道路となっている。そしてその道すじは、ほとんど古来の道を踏襲しているらしい。

 それにつけても、こういう道すじを見つけだした先人たちの営為には驚くほかはない。なにしろ、私たちとは違い、彼等は正確な地形図など持ってはいなかった。現代の道路は、おそらくこの正確な地形図の上で考案されるのだろうが、彼等は違うのだ。だから、道のつけ方が根本的に異なると言ってよく、それは既に通信の2号で少し触れたとおりである。因みに、いま話題にしている山系の蓼科(たてしな)から美ヶ原にかけて、ビーナスラインなるはなはだ芳しからぬ名のついた道が造られているが、そこを車で通った例の山小屋づくりの学生たちが、古来の道すじを踏襲したと思われる道を走っているときは、例えば蓼科山はいつも前方の方向に、多少右左によることはあっても、見えがくれするのだが、このビーナスラインでは一定せず、ひどいときには突然後に見えたりして、ついには走っている方向が分らなくなり、正確な地形図上に指示された目的地に行くのにさえ(いまいるところが分らなくなり)えらく苦労したとこぼしていたけれども、これはまさに、古今の道のつくりかたの違いを見ごとに語ってくれている。

 それにしても、この山越えの最短ルートはいかにしてつくられたのだろうか。おそらく中仙道のような主要道が通る以前からこういうルー卜がいくつかあったに違いなく、主要道はそのなかから選ばれ整備されたに違いない。しかし、それらのルートはどのように(地形図もないのに)見つけられたのか。

  これについてはいろいろ考えられるし、また語られている。

 初めにも書いたけれども、いま主に人が住んでいる低地よりも一段高い高原状の一帯は、低地農業に拠る以前の、概して縄文期の人々の居住地であった。彼等は、そこより下の低地よりもむしろ、背後に拡がる山地一帯をその生活圏としていた。というより、そういう山地があったからこそ、彼等はその一帯に住んだのだ。だから、その一帯は、言うならば「彼等の地図」に組み込まれていた。そして、一帯を我がものにしてゆくなかで、はるか山中に、彼等の時代の貴重品:黒曜石の鉱脈を発見したのである。ここ産の黒曜石がこの地を越えたはるか彼方で見つかっていることから、この一帯のなかでの道の他に、その彼方を結ぶ道も既にあったのだと見られている。というよりも、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、それを黒曜石が通過していったと言った方がよいだろう。そして、そういったルートが、時代を越えて受け継がれてきた、これが一つの有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったものもあるだろうが)。

 またこの地は、古代、低地農業主体になる以前に(なってからも)この山地にかけて盛大に牧畜が行なわれたらしい(この地に限らず信州から群馬の山地一帯が馬の産地であった。〇〇牧などという地名として、それが名残りをとどめている)。だから、この山地に人が係わらなかったという時代がなく、有史以前からの道の遺産が脈々と受け継がれてきた、ということもできるのである。

 それでは、それらのルートはいったいどういうところを通っているだろうか。

 こういう山地に古来からある道には、そのルートのとりかたにいくつかのやりかたがある。それは、そういうところを歩いてみればすぐ分るし、いまでも、あたりまえな感覚で道をつけようとすれば多分そうなるだろう。一つは、等高線沿いにいわゆるトラバースしてゆくやりかたであるし、これは各地の山村の集落間を結ぶ道によく見られる。距離は長くなっても一番楽な歩行ですむし、特に稲作農業主体の集落になってからは、集落の立地条件(すぐ使える水が得やすい)をみたす土地は、大体等高で並ぶから、当然道も等高線沿いになる。因みに、関東平野北辺を通っていた東山道を復原してみると、赤城山塊の自然湧水点がほぼ等高線上に点在し、それに拠る村々をつないだ形で走っているという。もう一つは高低をつめる場合の道で、それには谷すじ道と尾根道がある。古来の道で、斜面をやみくもに登りつめるような道のつけかたは先ずないと言ってよいのではなかろうか。唯一私が知っているそういうつけ方の道は、武田信玄が上杉攻略のために造ったという甲府から善光寺平へ向けての軍事用直線道路だけである。信玄棒道と称されて、いま話題にしている山系の高原の一画に、その跡が残っている。これは、地形図でみると、全くあきれるほど見ごとに最短距離を、強引に突走っている。これは例外だろう。

 そして、山越えの道は、尾根道より谷道の方が圧倒的に多そうだ。それも、考えてみれば、あたりまえなのかもしれない。

 いま、実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道の峠の位置を、おおよそ比定することができる。そこは大体、山々のくびれの部分である。いわゆる鞍部である(峠にあたる外国語を探すと、鞍部を意味するcolとでてくる。外国でも峠はそういう場所を通るわけだ。他には、そういう形状は示さないpassという語が対応する)。このくびれの部分というのは、必らず川が切りこんでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている。しかも、その鞍部を境にして両側に川が必らずあると言ってよい。それは全くの自然現象である。

 すなわち、山越えの道は両側から谷川沿いに登りつめ、最後にこの鞍部で顔をあわせているわけである。そして、水というものの性質上当然なのだが、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。だから、谷川すじというのは、もし通れれば、下からその峠部へ行く最も能率のよい道すじとなる。第一谷川という目印があるから、支流さえまちがえなければ迷うことも少ない。おそらくそういった谷川すじのなかで通れるものが道として確立していったのである。そしてまた、実はそういった河川が平地へ出るあたりには、これも自然現象として、扇状地をはじめとする台地が形成される。そこには人が住みつく。特に低地農業主体となったとき、そこは暮してゆくのに絶好の場所である。いま見る町々のうちの大きな町は大抵そういう場所にある。そういう場所に住む人たちにとって、例え農業が主たるものであっても、背後の谷川をさかのぼった山地もまた手の内であったろう。

 つまり、彼等の「私の地図」に組み込まれていたはずである。だから、山のこちら(の町)と向う(の町)とを結ぶ最短ルートが後になって意図的に造られたかのように、いま私たちはつい思ってしまいがちだが、むしろそれぞれの側で人々が、そこに展開している自然現象に素直に対応して住みつき、生活圏が確立していったとき期せずして、あの鞍部:峠で両者が顔をあわせたに過ぎなかったと見た方があたっているように思える。言うならば、理の当然として、あるいは自然現象的に、そのルートは最短であったということだ。そして、その向うとこちらの生活圏で交流が盛んになれば、当然その峠道も整えられるだろうし、事実、平地内あるいは平地間の言わば等高線上のつきあいとほとんど変らずに、山越えの交流も盛んだったと思われる。おそらくこういう山越えの交流ルート:峠道はいろいろあって、それらのなかから取捨選択して、そのときどきの中央の為都合のよい道すじを設定した、それがその時代の主要道であったのであり、たまたまその道すじにあった村々は、そこにあったが故に、単なる農業集落ではなく、道に拠った暮しをする村々、町々として変っていった、多分これが峠道が成りたっていったすじがきであると私は思う。先の信玄棒道が、今様の正確な地形図なしでできたというのも、その土地に住みついた人々の生活圏を詳さに知り、それをモザイク状につなぎあわせてできる全体像を、見えるものをもとに想定し得るだけの感性があったからこそ可能であったのだ。そういった意味では、正確な地形図を持っていて、なお且つ各種の情報を持っている私たちよりも数等秀れたものの見かた、とらえかたを彼等は身につけていたということができるだろう。そういった感性というものを、いったい私たちは、どこへ置き忘れてきてしまったのだろうか。そして、そういう感性を失なってしまった人たちが、いい街並だ、とか、桂離宮はすばらしい、などと言い、保存を説き、それならまだしも、人々の生活に係わりをもつものを平然と造っているのだ。

  

 このごろは写真の技術が進み、非常に精密な航空写真が撮れ、このごろの地形図はそれが基になっているらしい。また、その航空写真(空中写真と呼ぶようだが)も市販されていて比較的安く手に入る。それを見ると直ちに、古来からと思われる道と最近造られた道とを見わけることができる。地形・地勢とは言わば無関係に、強引に造られているもの、そうでないものが際だって見えてくる。言わずと知れた前者が最近のやりくちで、それは地形・地勢から見る限り、極めて非合理な形状を示しているのである。(もっとも、この非合理という言いいかたには私の考えかたが入っているから適切ではないかもしれない。)それに対して古来のものと思われる道すじは、それこそ淡々と、地形・地勢のなかに通れる場所を選んで走っていて、だから地形・地勢にすっかりなじんでしまい、道だけが浮きたって見えてこない。先日、機会があって、人工衛星から撮った関東北部から信越へかけての地域の写真を手に入れたのだが、私はあまりの見ごとさにほんとに驚いた。別に現代の科学技術のすごさに驚いたのではない。それも全くないわけではないが、そんなことよりも、こういう便利な地図や写真もない時代からこの地上において人々のやってきたこと、その方に驚くのである。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども全て人が住みついていると言ってよく、それらをつないで非常に自然なかたちで道がついている。そこに見られる。人の住んでいる所といない所のモザイク、つなぐ道の網目、この合理性は、全く現代の合理性による諸々の計画を圧倒しており、古来の営為の跡に比べれば、現代のそれはさながらひっかき傷のようなものでしかない。それは、大地という自然が備えている合理性に対し、科学技術という偏狭な合理性によって対抗した手負い傷のように私には見える。最近いわゆるスーパー林道が是か非かと騒がれているけれども、そして多くそれは道の開設による自然破壊が議論の焦点になっているのだが、こういう写真を見ていると、開発論者も反対論者も少しは古来人々がつくってきた道の合理性その原理原則というものを研究したらどうかと思いたくなる。なにがなんでも自然破壊反対だという言いかたをするなら、この地上で人々のやってきたことはどれも自然破壊に他ならず、なにがなんでも開発だと言うならば、大地の備えた合理性も知らないままの開発など、人々は古来少しもやってはこなかった(いまを除いて)。

 

 過去の遺物・遺産を保存すること、それは博物館的な意味では確かに必要なことだろう。しかし、私たちがしなければならないのは、それだけで十分なのではなく、そういったものを成らしめた原理原則(それは、そのときの人々が考えたことだ)を読みとり、いま使えるものは使い、捨てるべきものは捨て、いまの原理原則を主体的に考えだすことなのではなかろうか。そうでない限り、いま私たちがやっていることは、決して後世において、価値あるものだから保存しようなどと、思われもしないだろう(別に、そうなることを唯一の目標にしてつくれ、などと言っているのではない。私たちのいまの日常の意味が認められないだろうということだ)。

 

 ところで、ここで使ってきた「峠」という字は、漢字ではなく国字である。峠的地形が中国にないはずがないから、彼等はそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、一昨年の夏中国を訪れたとき、それについて中国人の通訳にしつこく尋ねてみた。ところが、当方の納得ゆく答が少しも返ってこない。頭をひねっては、「頂」かなぁ、などとどうも私たちが持っているイメージにはぴったりしないような答しかもどってこないのである。結論的に言うと、どうも私たちの「峠」に相応の字はないらしいのである。考えてみれば当然で、もしもあったならば、国字がつくられることもなく、その漢字が使われていたはずなのだ。では、彼等はなぜ「峠」に対応する字を持ってないのだろうか。

 いろいろと考えてみて、ひょっとすると私が「峠」という字に対して持っていた観念がまちがっていたのではないかと思うようになった。私はそれを、道が登りきった所、それから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す地形名称だと思っていたのである。おそらくそれは、そういう単なる形状を示すものではないのである。峠的場所に対する地形名称では「たわ」とか「たるみ」とかいうのがある。これは、鞍部:col に相当する(大だるみ峠などというのが相模湖のそばにある。たわんでいる、たるんでいる場所という意味かもしれない)。だから、地形的名称で済ますならば、あえて「とうげ」なる言いかたをしなくてもよく、字をつくりだすこともなかったろう。そして、峠の所在を地図や実地に見ていて思い至ったのは、これは地形そのものではなく、そういった地形的場所が持つ、言わば生活的な息がこめられているのではないか、ということであった。簡単に言ってしまえば、二つの生活圏」の接点を意味するのではないかと思う。峠を越えるということは、暮し慣れた所を離れ、違う所に行くということだ。峠に神をまつる、それは単なる交通の安全を祈念する以上のもの、それぞれの生活圏の境を守る神そして、それぞれの郷土の神に前途の安全を頼んだのではなかろうか。峠を境に二つの生活圏、文化圏が隣りあう。それぞれは、それぞれが独自であって峠越しに交流する。交流されたものを、また、それぞれなりに消化し成長してゆく。それが隣あっていた。だから、峠の両側は、似ているようで違う。

 ふと思い出して、柳田邦夫の「地名の研究」を読みかえしてみた。そのなかに、峠の字を「ひよう」あるいは「ひよ」と読む所のあることが紹介されている。彼の見解によれば、それは境を示す「標」の音読みではないかという。峠的地形が村界であったというわけである。そして、その「ひよう」にあとになって新字の「峠」があてがわれ、読みだけが残ったのではないかというのである。

 なぜ中国に「峠」に相当する字がないのか。おそらくそれは簡単なはしなのだ。彼の地においては、峠的地形は境界ではなかった、というよりそうなるような形状の大地ではなかった。そして第一、彼らの生活圏の境界は、そういう固定的・恒久的自然地形に拠ることはほとんどなく、言うならば自らが(勝手に)仮に設定するものであった。それは、彼の国の確固とした城壁・市壁:囲壁があるのに、我が国にはない、彼の地の文化を積極的にとりいれても、あのような確固とした囲壁をつくろうとはしなかった、そのことにつながってくるはずである。そして、そうであるとき、彼の国においては、峠の字は必要ないのである。そしてわが国では、それを必要とした。

 

 いま、我が学生たちの自力小屋建設は、いよいよ峠にさしかかったようである。私の立場では、ただ無事の落成を祈るのみである。

 

あとがき

〇私の目の前に、人工衛星から撮った写真がはってある。見ていて少しも飽きない。載せられないのが残念なくらいである。

〇私はよく車を乗りまわす。年間にして20,000kmぐらい走っている。(おかげで暴走族だなどと言われているらしい。)なぜ距離が増えるかというと、例えば片道150kmのところへ行く場合、時間のゆとりがあると、決してまっすぐには帰ってこないからである。言わばアドリブであちこち道くさをする。バイパスがあれば、わざわざ旧道を通る。自然と距離がのびる。そういうとき、大抵は一人なのだが、ときどき、そういったなかで目にすることがらで思ったこと、感じたことについて議論できる人が傍に乗っていてくれるとありがたいと思うことがある。かと言って、だれでもよいわけではない。同じように、言うならばやじうま精神あふれる人でないとだめだ。何の関心も示さない起こさない人ならば、寄り道せずに近道見つけて早々に帰った方がましというものだ。そういう意味で傍に乗ってもらいたい人は。数えるほどしかいない。

〇初めてのところに赴くとき、私は予め地図は見ない。見てもほんとにあたりをつける程度である。迷ったりしながら、「私の地図」ごしらえをする。そして、それから地図を見る。ときには帰ってから地図を開いたりもする。ある意味では合理的・能率的でないのは確かである。けれども、私にとっては、どうもこの方がよくものが見えるようなのだ。ずぼらな性格も手伝って、昔からこうなのだ。これも結局走行距離をのばすことになる。もっとも、こういうことをくり返してきたせいか、道のつくられかた、村や町のつくられかたの構造的原理が体にしみついて、走る方向についての言わば動物的は鋭くなったみたいである。(それが通用しなくなるのは、最近できた道にのってしまったとき。)

〇十分煮つめないで書くことがかなりあるように自分でも思っている。お気づきの点や異論を是非おきかせ願いたい。

〇今年もまた、それぞれなりのご活躍を!

   1982.1.1                             下山 眞司

 

投稿者補足

「信玄の棒道」: 武田信玄が信濃攻略のために作った軍事上の道路で、諏訪方面に上・中・下の三筋と南佐久郡に一筋ある。いずれも八ヶ岳の裾野を南から北へほぼまっすぐに等高線沿いに通ったのでこの名がある。   「長野県の地名」平凡社より

故人の研究室にあった「衛星写真」部分: 左隅に松本市、諏訪湖、八ヶ岳へと続く山塊、諏訪湖の北北東に火口がわずかに赤く見えるのが浅間山です。

   


「筑波通信№9」 1981年12月

2019-03-20 10:27:52 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №9」1981年12月 A4版8頁   

   「筑波通信 №9」  1981年12月

      「蔵」のはなし・・・・必要ということ・・・・

  「こがねむしはかねもちだ、かねぐらたてた、くらたてた・・・・・・」という童謡は、おそらくどなたも知っているだろう。

 単なる童謡なのだからどうでもよいようなものの、こういう詞は、蔵というのが金持ちの象徴なのだという通念があるからこそ生まれるのだと見てよいのではないだろうか。蔵というのは、いわゆる財産(蓄財したもの)をしまっておくためのもの、それ故富裕でないと持ち難い、そういう理解である。私も実は、なんとなくそんなように思いこんでいたような気がする。

 

                                                                                              「福島県の地名」平凡社(この図は投稿者によります。)

  新潟で日本海にそそぐ阿賀川をさかのぼると、越後平野を通り過ぎ山あいを峡谷上に北上し一度会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山々をまいた形でその東側を再び峡谷状を成し南へと上流へ向う。つまり会津盆地を曲りの部分としたU字形を成し、その囲まれたところに山系があるということだ。その上流を総称して南会津と呼ぶ。因みに、その川を更にさかのぼる(つまり概ね南へと向うことになるが)と、峠を越えて今度は鬼怒川の上流に出る。日光へはもう直ぐである。江戸と会津をつなぐ重要な街道の一つで川路(かわじ)と言ったらしい。いまの川治温泉は川路温泉だったわけである。

 それはさておき、先のU字形に囲まれた山系のなかに、これこそまさに辺地を絵に描いたような山村O村がある。この村へは、西側から阿賀川支流を入るのが比較的ゆるやかな道で、あとは会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬期の積雪は村うちで3mを軽く越えるから、冬期、村と他の町村との交通は、先の支流沿いの道(これとても途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。言うならば孤立するのである。

 村域は川沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、もともとは二つの村であったという。一つは概ねその川の中・下流域の比較的平らな部分、一つはその上流、低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこは独立してO村であったのである。だから、このO村は最奥ということになる。このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通りぬけてさかのぼって行き、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、前方に突然家々の屋根がひしめくように、ほんとにあっけにとられるような形で目の前に現われる。確かに村を名のってもおかしくない大きな集落である。いまは自動車で行ってしまうけれども、もし歩いて訪れたとしたら、そしてそれが春先きの花でも咲いているときならなおさら、まさに桃源境にでも入りこんだような気分になるに違いない。そのとき同行した人が一様に思ったのは、こんなところに人が住んでいるという驚きに近いものだった。

 ところで、このこんなところにもという感想は曲者で、よく考えてみる必要があると思う。人里からあまりにも遠く離れたところにも人がいる、という意味も含まれていれば、普通考えられる人の住めそうな場所の通念からみれば人の住めそうもない所に住んでいる、という驚きも含まれているだろう。けれども、ひっくりかえって、東京を見て、こんなところに人が住んでいるとはどうして思わないのだろうか。それこそほんとに、こんなところにうじゃうじゃと人が住んでいるといって驚いたっていいと思うのに、ほとんどだれもそうは言わない。だれも不思議に思わないのだ。そうしてみると、こんなところにという感想は、ある特定の視座から一方的に見た、そのことによる感想にすぎないということになる。

 その特定の視座というのが何なのかということが、だから、問われなければなるまいと私は思う。人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て、こんなところにと驚いても一向にかまわないし、また当然であるけれども、しかし、その見かた、それによる驚きが、直ちに一般的・普遍的かのように思ってしまっては誤まりだろう。人それぞれの存在がそれでは消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてやそういう視座が、多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたりしたり、よいものと思われてしまったりしては論外のはずなのだ。けれどもいま、大多数は都会に住むし、その人たちの先祖だってこういう山村的生活をしていたかもしれないなどということは忘れ、都会的生活に慣れきってしまっているから、彼らの見かたこそが唯一絶対かの錯党を持ってしまうのだ。

 実際村に住んでいる人の立場から見ればこんなところにと思われること自体、不可思議だし、ことによると不当に思えるだろう。彼らは彼らなりの生活を、そこなりにしてきているのである。とりわけ、情報がとびかうことのなかった時代にあっては、自ら辺地住いだなどという意識など全く思いもしなかっただろう。よきにつけあしきにつけ、彼らの世界は、村うちだけで閉じていたからである。しかしいまは、対比する町や都会がある。そうであってもまだ、こんなところにという感想は、彼らにとっては不当であることに変りないはずであると、私は思う。

 随分まわりくどい言いかたをしているけれども、要は、私たちの多くは都会的生活に慣れ親しんでいるのだけれども、それが唯一最高の、それ故に目ざすべき標的であるかのように単純に見なしてしまう私たちの悪い癖をやめようではないかと言いたいのである。ちょうど期待される人間像などというのが全く人を人と思わない不当なものであるのと同様に、あるべき生活像みたいなものを抽象的に、またワンパターンで定型化しようとするのも、これも全く不当なことだと思うからである。

 よく私がこれにからんでもちだす例が「みちのく:陸奥」ということばである。いまこそ大方の人たちは、そのことばそのものの意味を問わずに単純に、東北地方を示す一つの優雅な言いかたとしてしかみないだろうが、やはりこれは、そのときの中央から見ての方向感覚・上下感覚の入っていることばに他ならないのである。彼らが自らを「みちのく」と言うわけがあるまい。よく我が国を称して「極東(far east)」の小国などと言うけれども、これも日本人自らが言うとなると、国際感覚がおありのことでとからかいたくなる。

 

 さて、私がこの村むらで印象深く見たものが何であったかというと、それが立派な蔵だったのである。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な蔵をかならずもっている。遠望してもそれらが際だって見えるくらいなのである。

 一見したところ、この村むらは決して豊かな、つまり農業生産高の高いところには見えない。両側から、比高はそれほどないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから稲作がここまで普及したのもそんなに旧くなく比較的最近だろうと思える。おそらくはもともと、畑作や林業が主な生業だったのではなかろうか。因みに「越後上布」の名で知られる織布の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培のやりかたはまさに焼畑そのものである。こういう山間のあちこちの村むらでつくられた繊維が集められ加工され「越後上布」の名で献上されたりしたのであろう。

 すなわち、この限られた、しかも気候的にも厳しい土地からのあがりは決して豊かなものではなく、その生産高は逆にそこに住める人間の数を規定してしまうと言っても言いすぎではあるまい。実際のはなし、この村の役場の経済課長(この人がまた先号、先々号で紹介したT氏のような人物なのであるが)によれば、この村の適正人口は三千人(正確な数字は忘れた)ぐらいであるという。そのくらいなら、自前でなんとか生きてゆけたのだそうである。つまり、そのくらい厳しい生活条件なのである。余剰物、ましてや財産が残るなどとはとても思えない。

 にも拘らず蔵がある。しかも全ての家に蔵がある。

 これは、私が勝手に思いこんでいた蔵というものに対しての考えかたと全く相容れないことである。なぜこの貧しい村の家々において蔵が立派なのか。

 あらためて考えなおしてみて、そして話をきいてみて、それが至極当然であるということに気がついた。それは、食糧の備蓄のための倉庫なのである。このごろまた起きているけれども、ほんとについ最近まで冷害はこの地方ではいかんともしがたい現象として年中行事のように起きていた。従って、来年の収穫までの食いぶちは当然として、更にその翌年の一年分までを最低限保持することが、この土地で生きてゆくためには必要なことだったのである。余剰物をしまうのではない、必需品をしまっていたわけで、この土地で暮してゆくための、絶対に欠くことのできない建造物だったのである。(いまは?空っぽである。)それに暮しがかかっているから、自ずとそれは立派になる。

 そのように気がついたとき、蔵というものを単に一般的な意味での倉庫とみなして済ましていた自分自身のあほらしさにも気がついた。確かに倉庫であることに何ら違いはないのだけれども、それだけの理解では十分な理解ではないのである。単なる倉庫という分類法に従うならば、町なかの蔵も、この村の蔵も、皆同じものになってしまうのだが、そして私たちが通常多く見ているのは町なかの商家のそれであるが故に、あるいはまた豪農の家のそれであるが故に、蔵というとすぐに、なんとなく蓄財の象徴のように見てしまうようになってしまうのである。

 考えてみれば自明なことなのだが、しかしとかくそれを忘れ勝ちなのだが、一つの建物をつくるという大変な営みをするにあたって、単に、家というものには一般的に収納場所としての倉庫が必要である、などという安易な発想でそれがなされるわけがない。もっと具体的な彼らの日常に直に結びついた発想のなかからつくられるのである。極端なことを言えば、毎年毎年何の苦もなく食いぶちの得られる場所に住みついた人たちには、この村のような蔵をつくるという発想は、どこをつついてもでてきはしないはずである。そして逆に、この村のような厳しい村々には、単なる富の象徴のような蔵ではなく、まさに生活そのものの表われとしての蔵が存在するものと思われる。

 いま、会津盆地の北方、喜多方(これは「北方」によき字をあてたのだそうである)が蔵の町として観光的にもてはやされだしているけれども、実は盆地のいたるところで私たちは見事な蔵を目にすることができる。喜多方は碓かに商家が多いけれども、盆地のなかのほとんどは農家のそれである。しかし見る人の多くは、専門家も含め、有名になってしまった町なかの蔵にばかり目がゆくから、どうしても蔵づくりすなわち富の象徴的理解で終わってしまうのである。例えば、いわゆる土蔵づくり(土塗壁でくるむ:骨組みは木造である)は防火のために発達したというような説明をよく耳にするが、この村の蔵:これも土蔵づくりである:の場合などは、家と家の間は大分はなれていて、防火上の配慮とは思えない。壁は土塗だが、屋根はかやぶきなどというのさえある。土蔵づくりが防火のために発達したというのは、だから、町なかにおいてのみ言い得ることなのであって、同じ土蔵だからといって、一律の説明で村の蔵まで理解しようとすること自体が既に誤まりなのである。

 

 そして私は、それは全く当然なことなのだが、建物の理解(既存のものも、これからつくるものも)は先ずもって、そこに係わる人々の生活そのものの理解‥‥それはすなわち、「人たちのもつ私の地図」の理解に連なるのだが‥‥この場所で生きてゆく人たちの生活の理解、に始まらなければならないというあたりまえなことを、あらためて、いやという程思い知らされたのである。

 言うならば、地方には地方なりの生活があるという私の考えかたそのものが、未だに観念的、理屈の上のそれであったということであり、私は強烈なアッパーカットをくらったのである。しかし、マットには沈まず、おかけで目がさめ、それ以来、相変らずあちこち歩きまわっているのだが、そのたびに、そこここで見かける蔵が気になってならないのである。そして、見えかたが違ってきていることは、はっきりと説明できるわけでないけれども、確かなようである。それにしてもいままで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

 

 この村のほぼ中央に、もうぼろぼろの、しかし決してとりこわせない、正確に言えば、もうしばらくの間とりこわせない、強いて呼ぶならば「集会所」と呼ぶしかない木造の建物があった。補助金をもらって公民館として建て替えることはできるのだが、それはいまはできない。とりこわす気になれないからだという。なぜか。

 これは、先に書いた、この村の適正人口と深く関係する建物なのである。と言っても未だ分りにくいかも知れない。

 実際にこの村では、その昔(つい最近まで)人口をこの適正人口におさえる策がとられていたのである。すなわち、結婚は長男(男がいなければ長女:養子をもらう)しか認めなかった。娘は必死になって嫁入り先を探し嫁がせる。しかし、二男、三男は、本人の意志で二男、三男になったわけでもないのだけれども、全く運命的に一生言うならばその家の下男同様の生活をして過ごすのだそうである。長男が嫁をもらったあと、彼らは夜はもちろんのこと、家に居づらくなる。(いわゆる大家族的な家族が一軒の家で生活していたのである。だから家一軒が、白川郷ほどではないが、それに少し似たところもある大きな小屋裏のあるつくりになっている。)そこで、昭和の初めころであったか、各家の、夜居づらくなった似たもの同士が集まって、夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場へ、土地を提供してくれ、そうすれば小屋は自分たちが廃材などを工面して自前でつくるからと申しでた。そして土地があてがわれ、かの集会所ができたのだそうである。

 これは、なみの集会所ではない。彼ら二、三男たちの生活必需品であったわけなのである。この運動への参加のしかたは、各人の立場に応じて、現物提供、金の提供、技術提供、労力提供といった具合にいろいろあったとのことであった。いまでこそ碓かにこういう非人間的二、三男の生活はなくなったようだけれども(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多く都会へ出る:で農業以外で働くことになる) しかし未だ、この設立に係わった人たちが健在である。もういまは用がないからといって、この建物をとりこわすなんて、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけなのであった。材の一本一本に、彼らの切ない想いが浸みこんでいる、こういう話をきいたあとでは、ただのぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、言うならば神聖なものに見えてきだ。これもまた、私の観念的理屈にとって、十分すぎるほど衝撃的であった。

  おそらく村々のたたずまいというものは、いや人々が自らの生活に根ざしてやってきたということは、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、成りたってきたに違いない。

  私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そしてできあがったものに対して人々が対してきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら.この過程は決して目に見える形では存在しない。それは、いかんともし難く、そういうものだ。しかし、私たちは、目に見えるものの背後を、目に見えるものを見ることを通して、なんとかして見なければならないのだ。けれどもこれは、理屈では分かっていても、言うやるでは大違いなのである。そういった意味で、この昨年夏の経験は、私の太平の夢破るできごとであった。

 

 ところでいま。私たちのまわりでは、いろいろな種類の「公共建築:施設」がつくられている。社会のニーズをとらえてだとか、建物の使われ方の研究の結果、だとか称して、それらがつくられてゆく。私はいまここに書いた村の二、三男の集会場はまさに「公共建築」のつくられかたのーつであると思うのだけれども、そういった意味での生活の必需品としての発想で、ニーズ使われかたも考えられたことがあるのかどうか、はなはだ疑問に思う。専門家に見えているのは、彼ら自らの表現にいみじくも示されているように、それは建物の使われかたなのであって、決して人々の使いかたなのではなく、そして、仮に人々を彼らが気にしたとしても、そのときの人々人一般としての人々であって、このこの村の人々では決してないのである。

 彼らが何故使われかた見ようとするかと言えば、おそらくそれは簡単な理由による。使いかた言うとき、そこには必らず使う主体としての「個人」が存在せざるを得なくなるからである。そんな具体的にして生身の人間は扱えないということだ。そんなことをしたら、客観的:科学的であるべきことがらが、そうでなくなってしまうと愚かにも(と私は思うのだが)信じこんだか、信じこまされているか、そのどちらかだからである。

 こういう専門家には、決してこの村の二、三男の人たちのニーズなどは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを専門家としてあがめていて、はたしてほんとによいのだろうか。そして、いったいだれが彼らに専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちが、その称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。

 同じ専門家でも、昔の職人たちのもっていた意識と、そこのところは根本的に違っていると見てよいように思う。彼らは専門家である前に、先ずもって一人の人間であった。いま専門家は、言ってみれば、論語読みの論語知らずであって、ほんとのことを知ろうとしない。一人の人間である前に、先ずもって専門家になり下ってしまっているわけなのだ。どう考えたって、それではさかさまなのだ。

 そして、理屈の上では、私はこうありたくない、そう思い続けてはきたのであったのだけれども、この昨年夏のS村訪問で、未だに悪しき習癖がぬぐい去られていない自分を、あらためて思い知らされたのであった。

 

 私がこの通信文を書いていたとき、新聞に、加藤周一氏のスタインバーグ(風刺的、諧謔な絵を描く)との会見をもとにした一文が載っていた。(11月10日付朝日新聞夕刊「山中人間話」)そのなかの一節が、私にとって印象的であったので、それをここに再録して、今月は(今年は)終わりにしよう。

 『・・・・の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、‥廊下を‥歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。

 「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。』

 

あとがき

〇一年間、と言っても四月からだけれども、拙い私の文をお読みいただき、しかも無理にお読みいただいたわけで、ほんとにうれしく思っている。

〇また、手紙や電話、そして時には筑波に来られた折に、いろいろとご意見やご批判をいただくことがあり、それもほんとにうれしいと思う。そんなとき、はじめのうちいったいどうなることか、自分自身でもわからなかったのだけれども、やはりやってよかったと思うのである。いまや、この通信をだすことが私のペースメーカーになってしまった。大学教師という太平の夢をむさぼるわけにゆかなくなってしまって、言ってみれば楽しいのである。もっとも、その私の勝手を読んでもらおうというのだから太平楽なはなしなのだが。

〇私は(昔から)文章はうまくない。ときには、十分な説明を端折ってしまうようで、その都度、途中が抜けているというおしかりをうけることがしょっちゅうあった。その途中の説明こそが大事なんじゃないか、というわけである。大分気をつけているつもりではあるけれども、なかなかなおらない。

〇私はいま、あらためて、私はなんて素晴らしい人たちとつきあってこれたのか、という変な感慨を抱いている。この人たちは皆決して有名ではない。けれども皆、自分を生きている。そして、それが一番専門家にとって怖いことだということを、数多くのこの人たちの日常によって見せてもらってきた。だから、私はこの人たちに信頼を抱く。この人たちに学ばねばならないと思う。そして、そのそれぞれの間題を、またそれぞれなりの問題に対する対しかたを、互いに知るべきだと思う。だから、この通信の役割の一つとして、今後更に、七戸のT氏の例のような話を紹介しようかと考えている。それは、私にとっても貴重な学習になる。

 〇七戸から便りがきた。例年になく、もう白一色だという。私はその普、雪の実態を知りたい、などとかっこいいことを口走ったおかけで、雪の積った小学校の建設予定地を、これでもかと言わんばかりに、吹きだまりに身を没したり、転んだり、徹底的に、T氏に引きまわされたことを思いだした。ロマンチックに考えるなよ、そういう思いやりのようであった。

 〇筑波大学というのは、やはり余程悪名高いらしい。筑波大学にいる人がこんな内容の通信をだすなんて、という感想がきこえてくることがある。しかし、私のやっていることは、別に筑波大学という包装紙とは関係ない。教師の場面で突然筑波大学の包装紙を被るわけでももちろんない。問題は、個々人が何をするかだけだと思う。

 〇書く話題が種切れになりはしないかと、一時は本気になって考えたこともあったけれども、そんなことはあるわけがなさそうだ。当分続けられる。

 〇来年も、それぞれなりのご活躍を!

  1981.12.1                              下山 眞司

 


「筑波通信 №8 前半」 1981年11月

2019-03-07 20:17:52 | 1981年度 「筑波通信」

 

                                                                                                              設計 東京大学吉武研究室

PDF「筑波通信 №8」1981年11月 A4版16頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

   「筑波通信 №8」  1981年11月

      七戸物語(その2)‥‥ふるさとは一日にして成るか‥‥

 いったい私たちにとって、暗やみとは何なのだろうか。

 私たちは、七戸に着いた夜まさに文字通り手厚い歓待を受けたのち、その日の宿舎だという「青年の家」へ向った。ただ「青年の家」とだけしかきいておらず、それがどこにあるのかも分らないまま、先導の車のあとを追うようにして暗やみのなかをついて行くしかなかった。道は暗い木立ちのなかをぬけ、国道をはなれ、右や左へ微妙に曲りくねり、ついに私は道を頭に刻みつける作業を断念した。もうそれこそ必死に尾燈のあとを追うだけである。道は低湿地に入ったらしく、筑波の近郊と全く同様にときおり強い霧がたちこめてきて全く何も見えず、路面の起伏や感触から、橋を渡ったらしいなどと思うだけである。辛じてそういう状況と私のもっていた地図の知識から、これはこの辺での低地:小川原湖に向っていると想定するのがせいいっぱいであった。その想定はまちがっていなかった。しかしそれは、着いてから人にきいて分った話であって、実際のところは、暗やみのなか、どっちがどっちだか、むろん小川原湖がどこにあるのかさえ全く分らなかった。

 翌朝、なんとなく南だろうと思っていた方角に、なんと八甲田山が朝もやのなかに浮んでいるではないか。私はしばらくの間自分の方向感覚を修正するのに手間どった。八甲田山は西に見えるはずなのだ。それが南に見えるほど昨晩は走ってないのは碓かである。修正するには90度回転すればよいのだが、しかしそれは言葉で言うほど簡単ではない。昨晩以来もっていた感覚がべったりくっついていてなかなかはがれないのである。納得ゆくまで本当に時間がかかった。(ところがいま考えなおすと、また分らなくなってくる。そして地形図を見ては止むを得ず納得する。)

 そして、もしこのとき雨でも降っていて八甲田山が望めなかったならばどうであったろうか。おそらく私は、ずっと、初めになんとなく南だと思ったまちがった方角をそのまま南だと思い続けたであろう。

 そうすると、いったいこのまちがいというのは何なのだろう。そしてそもそも、私はなぜその方角を南だと思いこんでいたのだろう。もっとも、こういう疑問をもつこと自体、いま普通はなかなか認めてもらえまい。厳然たる事実に反した錯覚にすぎない、まちがえたお前が誤りだ、として片づけられるのが普通だろう。厳然たる物理的事実との整合を判断基準とするのが正しいことだと思われているからである。だが私はそうは思わない。いかに事実とくい違おうが、そのように思ったということは、私にとって事実だからである。極端な言いかたをするならば、もし物理的事実に即することのみを是とすることに徹しようとすると、私たちは、日の出、日の入ということばをも撒回しなければなるまい。

 冗談はさておき、なぜ私は事実と違うことを事実と思いこんだのだろうか。おそらく私たちは常に、自分が行動を無事に続けるための拠りどころを求めているのだ。勝手知ったところでは私たちは自由に行動できる。だから未知の場所に出会うと、それこそ必死になって、そこを勝手知ったところにしようとするのにちがいないのだ。勝手知ったところでは、いま自分がどこにいるのか、なにをやっているのか、それが分って安心していられるからである。この勝手知ったところ、それがすなわち先号まで度重ねて書いてきた「私の地図」に仕上がるわけなのだ。だから「私の地図」が私の行動の拠りどころなのである。そして普通は、目に見えるものを頼りにしてその「私の地図」は拡大してゆくのだが、この場合のように暗やみのなかを引きまわされたときはどうなるか。

 いま私は暗やみのなかからまさに突然明りのついた青年の家の玄関についた。実際、暗やみの中に見出した点のような明りぐらい、人をほっとさせるものはない。このときも、もうしばらくの間私たちは完全に「私の地図」をはなれ且つまた「私の地図」を組みたてることも不能な状況に放りだされ、まさに字の如くやみくもに尾燈のあとを追っていたわけだから、本当にほっとしたのである。けれどもそれは、いままでの私のいた世界から切り放された、それとの連続性:途中をもぎとられたようなものである。そこで止むを得ず私は、全く新たに今夜泊まる場所に対して、『私の地図』の作成にとりかかる。

 そしてそのとき、私は全く勝手に、その玄関の面している広場が、建物の南側にあるものと思いこんでしまったのである。おそらくその想定は、私の過去の建物の経験に拠ったにすぎないと思う。たとえば、こういう建物は大体南に向くものだ、そう勝手に思ってしまったのに違いない。もしこれが暗やみでなく、昼間であったならば、絶対にこういうまちがいはしなかっただろうと思う。既に知っていた場所からの連続性:途中が消えてしまうことがないからである。

 かくして、私が安心した気になって一晩すごせるべく、その初めての場所を勝手知ったところにしようとした私自身の独りよがりの試みは、私にべったりくっついてしまって、翌朝そのまちがいが明らかになる事態にたちいたっても、なかなかそれをはぎとることができなかったのである。

 思い返していただければ、こういうような体験は、場面は違っても、おそらくだれにでもあることに気づかれると思う。ただそれを、単なる勘ちがいだとして見すごしてしまっているのである。

 しかし、これは単なる勘ちがいで済ますわけにはゆかない、と私は思うのだ。まさにこれは、私たちが日常、意識しないままに、私自身の「私の地図」をつくり、もち、それに拠って行動しているということの証なのだ。頼りない情報だけでも言わば強引に自分の都合のために地図をつくり、より詳しく情報を手にしたとき、勘ちがいだと気がつくのである。

 暗やみには、私たちの拠るべきものがないから、だから私たちは暗やみに耐えられないのである。怖いのである。もののけがでるのである。

 いま、都会的な生活では、ここで経験したような暗やみは存在しない。言ってみれば全ては日の目を浴びている。見えすぎるほどよく見えている。夜になっても、暗やみがあることを忘れるほどである。だからであろうか、見えているものを全て、初めから見えていた、分っていたと思うようになってしまっている感じさえある。再びもう一度、五号に引用した臼井吉見の随筆を思いだしていただけるとありがたい。あの地元に根づいた生活をしている番頭のものの見かたは、決してそうではなかった。自分の生活にとって拠るべきものは、決して目の前に見えるもの全てではないのである。暗やみとの対比がそれを明らかにしてくれるように、私には思える。

 いま都会には、やたらと案内標識があるのが目につく。そして、地下街などでは、いくら案内標識がたくさんあっても、少しも分らない、迷う、そして地上にでてあたりを見まわしてほっとする(あるいはとんでもないところに出てびっくりする)というような経験はしょっちゅうあるはずだ。これはさしづめ、明るい暗やみに引きこまれたのと同じことなのだ。「私の地図」が描けなくされているのである。「私の地図」は決して標識をもとにしては描けないのにも拘らず、描けると思っている人たちが、それをつくる人たちの大半を占めているのである。そのような場所で災害が発生したときにパニックが起きるのは、決して非常口が分りにくいからなのではなく、それ以前のはなしとして、その暗やみと既に自分の勝手知ったものとなっているところとの連続性:途中が消失してしまっている、つまり「私の地図」を描けなくさせているからなのだ。ちょうどこの青年の家で私がもったと同じような勘ちがいを、そこにいる人たちそれぞれが勝手にもってしまうからこそ、それがぶつかりあいパニックとなる。だから、非常口の標識をいかに目立つものにしたところで、非常時には役立たないだろうと私は思う。

 考えてみればいま、なにも地下街だけでなく、地表においても全て、この「私の地図」の存在が忘れ去られているのではなかろうか。それを忘れて建物や町がつくられていやしないだろうか。私たちにとっての暗やみの存在を十分に分っていた時代に生きた人たちがやってきたこと、それが二号に書いた「あて山」のはなしなのである。彼らの方が、どうも人間がよく分っていたとしか思えない。

 

 いま朝日新聞に、「盲と私たち」という特集が連載されている。その10月10日の文中に次のような盲人の体験が紹介されている。

 「あんたも目がつぶれたらすぐにわかるけど、見えないってのは、ひとりで、じっとしていられない。こっちが動かないと、まわりの世界が動きだして、こわくて‥‥」

 「ひとり歩きする盲人ならだれでも自分のコースを頭の中の地図、足裏の感触、全身の体感で覚えている。道路の材質、凸凹・傾斜・段差などの微妙な変わりようを、環境からのメッセージ(音・風・声・におい・明暗)と組み合わせて歩くのだが、その足元が日々変わるのだから始末が悪い。とくにスッテンと転んだら方角がわからなくなる。」

 「盲人の歩行は踏み出しの第一歩が肝心で、わずかな角度の違いで、とんでもない方へ行ってしまう‥‥」

 確かに、目の見えない人の立場は、目の見える私たちの想像を絶するものがある。私たちに日常化できない条件の適いがある。けれども。ここに紹介されている体験をみる限り、この人たちの行動が、目の見える人たちのそれと、構造が同じであるように、私には思える。私たちが目に見えるものを主たる拠りどころにしているのに対し、この人たちはそれ以外のものを頼りにしているのだ。

 そしていま、目の見える人たちは、目の見えない人たちの立場を分る以前に、同じ目の見える人たちの立場さえも分らなくなっているのではないかと私は思う。つまり、私たちがだれによらず常に、頭のなかに「私の地図」を描いている、そしてそれに拠っている、ということが分らなくなっているのである。

 

 七戸物語の続きを、いきなり暗やみの話で始めたのには訳がある。いったい私たちに見えているものというのが、私たちにとって何なのだろうか、それを考え続けていたからである。目の前にあるもの、目に見えるもの、見ているもの、知っているもの‥‥これが全部、その意味することが違うのだということを知らなければならないと私は思う。私たちが、暗やみに何を見るかそして陽あたりで(つまり明るいところで)何を見ているのか、考えてみたかったし、また今回、ほんとに久しぶりに暗やみを味わうことが、いい具合にできたのである。手前みそでいうならば、いずれにしろ、どこにいようが、「私の地図」をどう描くかが肝要なのだと思う。

 そして先回書いた「懐しさ」も、そこに生きているということの象徴・履歴として心に沈潜して懐しさとなると簡単に書いてしまったけれども、それも結局「私の地図」との係わりのなかで生じる心情なのだと思う。つまり、見慣れた風景だから懐しいのではない。もしそうなら、観光で見た風景にも懐かしさを覚えなければならなくなる。そうではなく、それは、ここしばらくすっかり忘れていたある昔の「私の地図」(それにはその風景がからんでいる)が、その風景を見たことにより、突然きのうのことのようによみがえってきた、そのことに係わった心情なのだ。そして全く逆に、ふるさと遠く離れて生活しているとき、普段はすっかり忘れていたことが、ふとしたことで思いかえされるとき、その昔の自分の生活:「私の地図」の展開した具体的な場面をかたちづくるものとしての風景が、目の前に浮んでくるのである。

 そして、どう考えても、建物は「私の地図」が展開する場面をかたちづくるものの一つなのであって、それ故然るべく考えられなければならないのだと私は思う。

 従って、建物は、それができあがったというだけではほとんど意味がなく、それが一つの場面として、あるいは一つの風景として、どれだけ「私の地図」に位置づけられるか、定着するかにこそ、その真価がかかっているのではなかろうか。

 だからおそらく、建物づくりというのは、そして町づくりというのは、ものすごくスパンの長い、先を見た話でなければならないのだ。けれどもそれは、通常よくあるような、到達目標としての「絵に描いたもち」の如きものなのではなく、またそうあってはならず、そうではなく、日々を過ごしてゆくその過程のなかで、言わば積み重ねられ定着してゆくものでなければなるまい。そしてそれは、どこかのだれかが考えて定型として与えられるものなのではなく、そこで生活する人たちのその生活遂行において定着するものなのだ。けれどもいま、どれだけの専門家がかく考えていてくれるだろうか。彼らは大部分、この肝心な点を完全に見すごしているように、私には思えてならない。彼らは、一人一人の人間の主体性を無視しているのである。彼らにとって一人一人の人間は、一般大衆であり、故に不特定多数であり、人格のない単なる操作対象にすぎないと言ってよいだろう。人々はそんなにもばかなのだろうか。

 

 私たちが泊った青年の家の名称は、「公立」小川原青年の家という。そこから1㎞ほどはなれたところにあるこの春開設されたばかりの心身障害者更生施設もまた「公立」ぎんなん荘と名づけられている。県立でもなく町立でもなく村立でもない。まし国立でもなく「公立」を名のる。この名称の「公立」というところにこれら建物:施設づくりの特色が秘められているのだ。そしてこの「公立」は、通常言われる私立学校に対しての公立学校などというときの公立とは本質的に意味が違うように私には思える。私にはそれは、これから書く如く、英語のpublicに対応する意味での「公」立であると見えるのである。

 実は、これらの施設の運営は、「上北地方教育・福祉事務組合」が行なっているのである。当然、その設立も同様である。すなわち、七戸町の他数ヶ町村の広域行政の一つとして営まれているのである。「公立」という一見奇異な呼称となっているのも、そうだからである。通常では、これらの施設は県立の多いことは各地の例を見ればわかるとおりである。なぜここではそうでないのか。

 

 ある地域に住んでいる人たちが、ある施設の開設を望んだとしよう。たとえば、青少年のための研修の場が欲しいと思ったとする。しかし、それをその町や村単位でもつには、町や村は人口的にみて小さすぎるし、仮につくるとしても到底財政的に不可能に近い。かと言って、県単位ではこんどは大きすぎ、その位置が問題となり、実際利用面でも小まわりがきかなくなる。その設置位置をめぐって誘致合戦がくりひろげられ、政治屋がからむなどというのはよくある話である。こういう研修施設なら、まだそれに代る既存の施設の利用ということも考えられるけれども、心身障害者施設となるとそうはゆかず、まして町で欲しくても、その成立は、これは完全に不可能である。だから普通、小さな町村は、こういった施設に縁遠い存在を余儀なくされているというのが現状なのだ。その他のいわゆる公共施設も含めて全て、都会に比べて、都会が決して十分だとは言えないにしても、決定的に不利な状況なのである。しかし、この状況を、都会にいてはたして本当に想像することができるだろうか。分るだろうか。

 私はここで、昨年書かされたアンケートのことを思いだした。確かそれは、筑波研究学園都市に最後に移住してきた某研究所の労働組合が行なったものであった。そのアンケートの問いの一つに、学園都市の交通の便・不便についてのものがあった。学園都市は共用交通としてはバスしかないがその本数は、常にバス時刻表を携帯を必要とするぐらいの本数しかない。それが便か不便かという見えすいた問であった。いったい便とか不便だとか、何をもとにいうのだろう。いまでも学園都市の範囲をちょっとはなれると、それこそ一日に二本しかバスが走らないというようなところだってあるのである。彼らに対して、それが便か不便かときくことができるか。むしろ無意味に近いだろう。便・不便の絶対的な基準など、どこを探してもないはずだからである。

 都会での習慣をもってものごと全てを律してもらってはいけないのだ。そういう無意味なアンケートをするまえに、どうして、なぜ都会ではバスがひっきりなしにきて、こういうところでは日に二本なのかと自ら問い考えてくれないのだろうか。そして、なぜそういう不便なところに人々が生活しているのか、してきたのかと問わないのか。

 それにも増して不愉快なのは、筑波は辺地なのだから辺地手当をよこせという要望であった。都会的でないところを辺地とみなし、自分たちは(自分たちだけは)そういう辺地にあっても都会的生活をする権利があるとでもいうかのようだ。辺地の生活はまるで人間の生活ではないとでも思っているのではなかろうか。どこにでも人々は生活している。しかしそれは一律的な便・不便で片づけられるようなものではない。それぞれの場所でそれぞれのやりかたで生きてきたし生きている、どうしてそういうように見ようとしないのか。そして、忘れてもらっては困るのは、そこに住んできた人たちも、やはり人間だということだ。

 いまここに書いたアンケートを考えたような人たちと同様な考えかたが、しかしいま一般的なのではなかろうか。言ってみれば都会偏重:辺地切捨、都会型願望が強い。だから全てを都会的基準で律してしまう。

 

 大かたの国の施策もまた、概して一律的である。たとえば行政改革で問題になっている各種の補助金がある。実際おどろくほどの多様な種類がある。それをーまとめにして町村が自由裁量できたらどんなによいかと思うが、それはひもつきでできない。全国ほぼ一律のわく組みによりしばられる。そして、あくまでも補助金であるから、町村はそれに見合った負担を必要とする。従って限界がある。だから、財政的に弱体な町村は、大きなことはできず、不便は不便として放置せざるを得ず、やろうとしたってできないからやろうともしないという悪循環さえ起しかねない。かと言って、たとえば、そういう町村に心身障害者がいないわけではない。人口が少ないから絶対数としては少ないが、確立的事実として必らずいるはずだ。しかし町村では対応できないのが目に見えている。国や県の施策を待てばよいか。それはいつのことか分らない。それに、その場合も必らずその効率性の点から、大規模でどこか遠くにまとめてつくられるに決っている。それでは収容所ではないか。そのとき既に、いったいその施設づくりが何を目ざすものであったのか、その根本が忘れ去られ、いたずらに施設をつくることで満足してしまう。あればよいではないか、ということになる。人々にとって、どこに、どうあればよいか、この肝心な点が雲散霧消してしまうのだ。先々号で書いたような、半径500mの円を描いて、そこに一つづつ児童館があればよいとするのは、その典型である。

 しかし、そんなものが欲しいのではないのである。では、本当に町や村で欲しいものを、人口も少なく、財政も乏しい町村がどうしたらもてるか。そこで考えだされたのがこの「上北地方教育・福祉事務組合」だったのである。言ってみればそれは、同じような望みと悩みをもつ町村の「共同体」なのである。

 このとき普通だれもが思うのは、そうならば町村合併すればよいではないか、という疑問である。けれどもそれも、やはり都会的あるいは中央の発想なのだ。これらの町村が合併ではなく共同体を選んでいるのには極めて正当な理由がある。そこには、それぞれの町村はそれぞれなりの特性があるとする認識が根底にあるからだ。それぞれの地域にはそれぞれ特有の問題があり、それは各地域ごとに解決してゆく、しかし共同で解決できるもの、またそれでなければできないものに限って共同で策を施す。これがその理由である。

 実際歴史地理的に調べれば分ることなのだろうが、それら町村は、過去の合併にも拘らず、地理的にもそれぞれあるまとまりをもっており、きくところによればこの共同体の総面積は香川県に匹敵するほど広いのだそうである。当然場所場所で違いがあることは目に見えているのであって、人々が住む視点にたつならば、大きいことは必らずしもよいことではない、そのことが十二分に分っているのである。こういうやりかたを強力におし進めてきたT氏が、これをヨーロッパ共同体と同じだよ、とこともなげに言ったのが印象的であった。自立した個人の集団としての組織であるというわけだ。

 

 広域行政というのは、これは中央:国、県の側から強力な指導のもとで各地に展開されているわけだが、ここの場合はむしろ完全に地元主導型ですすめられてきたのだということができるだろう。因みに、「教育・福祉事務組合」という広域事業組合は全国探してもそうざらにはないはずである。

 ここの場合、中央から示される制度を、言うならば逆手にとって地元主導型で読みかえ実行したと言えるだろう。それは各種の補助金や融資制度の活用についても全く同様で、それらを全て、言うならば地元の視点で読みなおし組みたてなおして巧みに運用するのである。従ってここでは、補助金もなにも全て活きているのだ。

 いまここでは下水についての広域事業にとりかかろうとしていた。広域下水道については、これもまた中央からの指導がなされているのだが、いまちょうどその指導に対して地元主導型への読みかえ作業のため奮戦中であった。中央推薦の広域下水道はこれは全く都会的発想であって、各家庭からの排水を下水管(かなりの太さになる)にてーヶ所の処理場へ集め処理する方式である。しかしこれは都会ならいざしらず、実にばかけたことになる。この広大な土地一面に都会のように人が住んでいるわけではないから、下水管だけが無人の野を延々と走るということになる。言うならば、全く新たに、他に利用の方法もない下水の小河川を一本つくるようなものだ。そしてもし上水を自然の川からとるとすると、極端に言えば、自然の川の水はなくなり人工の川:下水管に移ってしまう。農業用水はどうするのだ。第一大量になった末端処理場の処理は決して理屈どおりに処理されていないのは各地の例で明らかだ。であるならば、この同じ広域をただーヶ所でカバーするのではなく、各集落毎で処理したらどうか、その処理も大地にかえす方法があるのではないか、そうであれば自然河川は従前どおり自然河川であり続ける。人口が少ないことが逆にその方法を可能にさせるはずである。経費は明らかに十分のーで済む。これが奮戦にあたっての論理であった。けれども硬直した中央は、なかなかこの発想に応じないのだそうである。技術自体そして技術者自体、巨大技術に酔って発想の転換をしてくれないのだそうである。そして三百億円かかるものが三十億円でできてしまっては、政治的メリットが少ないのだそうである。

 しかしT氏は奮戦中であった。汚水処理の本を読み、土木技術や生態学を自ら学び武装してことにあたっていた。各地へとび実際を調べまわっていた。ことわっておくが彼はそういう方の専門家なのではない。言うならば彼は事務屋さんなのだ。なぜ彼がそこまでしなければならないのか。一言で言ってしまえば、専門家が信用できないからである。より正確に言えば彼らは確かに、学識はあるだろう。しかし、それぞれの地方の特性にみあった解決法をあみだす力に彼らは欠けているのである。いやむしろ地方地方に特性があるということ(つまり地方があるということ)さえ見えないし、それぞれに知恵の蓄積があるということなど、もちろん見えないし見ようとしないのである。あるのは、通りいっぺんの、それこそ中央で、何も見ずに机上で考えたワンパターンの方法だけだ。T氏はいう、護岸工事でもそうだ、コンクリートで固めればいいと簡単に思ってしまう。うちの方には昔から「しがらみ」と言って、木のくいをうちこみ、それにやなぎの枝をきってきて絡みつけて土どめにする方法がある。数年もたたないうちにやなぎが根づいてしまう。その方が結局ながもちする。第一風情のある川岸になるじゃない。なのにコンクリー卜でないと公認してくれない。こういうことが多すぎる、と。

 私は彼の見解に全く賛成する。というより、現場での裏づけをもとにした見解であるから、その迫力に圧倒される。

 ある土地に住む人たちは、その土地で生活してゆくために、その地域の特性に応じて、それなりのやりかたをあみだし、技術の面でも蓄積を残してきたのだが、いま中央の言わば机上で考えられた独断的な一律の基準がそれらの存立を許さなくなっているのである。大工技術:木造技術も全くそうで、たとえば住宅金融公庫の指示する基準、そしてそれ以上に建築基準法の諸規定は、そういった知恵の集積を無視し駆逐する役割をはたしてきたといってよい。その背後には中央の建築学者がいること、これは十分に反省されねばならないと思う。彼らは彼らのつくった基準こそが科学的・合理的だと思いこんだのである。彼らは、それこそ重大な勘ちがいをしているのである。私にはむしろ、各地に蓄えられた技術の方がよほど合理的であるように思えてならない。なるほどそれらはいわゆる科学的分析によって生みだされたのではないのは確かだが、しかしそれは長年風雪にさらされるという実験を経て生き永らえてきたというのも確かである。要は、合理的基準の「合理」の根拠を何に求めるかなのだ。

 因みに、わが研究学園都市のなかの建築に少しでも係わりそうな研究機関で、木造技術についてどれだけ研究がなされているかについて調べた人がいるのだが、それによれば、なんと皆無なのだそうである。木造建築の国日本において、皆無なのである。新技術には目が向くが、何の新味もない木造に関心がない(その実、建築物の大半は、いまデータがないが、木造のはずである)ことと、たとえば構造力学的な面でも木造はその解析法がなく、従ってだれもやらないのだそうである。研究者たちの目には、新しいこと、すぐできることだけが目にうつるらしい。なぜなら、その方がすぐに成果がでるからである。言いすぎかもしれないが、研究のための研究が表通りを歩いている。そうであるにも拘らず、昔からの知恵の蓄積を認めない基準がつくられる、いったいこれはどういうことか。

  とはとかくこういうものなのだ。それぞれの地域の独自性:主体性を無視し、それを統御しようとする、まさにそのことだけに中央は中央の意義!を認めていると言ってよいだろう。そして、こういう中央にまつわりつくことに、とかく多くの専門家や学者・研究者は意義!を認めているのだと言っても、これもまた過言ではあるまい。いつもふと思うことがあるのだが、この人たちが人々に係わるものごとを扱う専門家だと、いったいだれが決めたのだろうか。多くの場合、それはその関係の学問を学んという言わば自称ではなかったか。彼らにいったい、それについてどれだけの自覚があるのだろうか。そしてまた、彼ら専門家が、人々に係わるものごとを扱うことを委ねられたとき、はたして彼らのどれだけが「委ねられる」ということの本当の意味を理解していてくれるのだろうか。

 そうであるとき。地方の時代などという中央からきこえてくるかけ声の、なんと白々しいことか。地方とは相変らず統御対象としての「対中央」の意味でしかないのである。

 そして、だからこそ七戸町を軸にT氏たちは奮戦する破目になるのである。なんと労力を要することか。しかしいま、地方を真に地方たらしめようとすると、それなりの労力としたたかさを必要とするのである。

 そしてT氏たちは、もうここ20年近くもそうしてきたのである。そうさせるもの、20年近くも奮戦させてきたもの、それはいったい何なのであろうか。普通の役所の役人なら、こんなバカげたまねはしないだろう。つつがなく毎日がすぎてゆけばそれにこしたことはない。ところがこの人たちは、わさわざ仕事をつくっては、それを自らこなしてきたのである。何がそうさせるのか。しかしそれは詮索したってはじまらない。彼らは自分の町が無性に好きだ、人たちが無性に好きだ、ただその一言につきるだろう。だからいい町にしたいのだ。都会の人たちだけが恵まれていていいはずがないではないか。都会に負けないものを!

 それ故、その初めは、一つの建物をつくるにも、都会にひけをとらないものをつくりたい、それが原動力だったと思う。ある意味では当然で、一つの目ざすべき一段上に位置するものとして都会の文化があった。しかし、いまはもう、そういうようには考えられていないことは、既に書いたとおりである。目ざすべきものは、自分たちのなかにある。その自信に充ちあふれている。

 

 だから、最近実現させてきた諸施設は、どれもその考えかたが極めて新鮮である。たとえば「公立ぎんなん荘」の場合、一見して予算が苦しかったなと分る建物だが、そんなことが吹きとんでしまうほど独特な考えかたでつくられている。戸建て住宅が数戸ならんでいるように見えるのである。実際そう考えられているのである。要するにここは家族からはなれているけれども園生たちの家であることに変わりない、だからそうするのである。一戸に10人ほど住み、簡単な食事もつくれるようになっている。大食堂と浴室(これはこの建物のために掘った温泉である。温泉は暖房の熱源にも使われる)は別棟にあり、しかしそれらをつなぐ渡り廊下がない。銭湯にゆくつもりで歩いてもらうというのである。食堂は八甲田山を展望できる、人数に比べ少しばかり広すぎる大きさの室であった。

 私たちが泊った青年の家とここは約1㎞ぐらいはなれていると先に紹介したけれども実はこれはともに、先の共同体を構成するある町の町立牧場の一画にある。だから1㎞は牧場のなかを歩いてきたのである。はえやあぶの多いのが難だけれども、まわりはまさに広々とした牧歌的風景が展開する。そして、青年の家に宿泊した青少年は、昼食をこのぎんなん荘の食堂で、身障者と一緒に食べる機会が設定されるのだそうである。食堂が大きいのはそのためなのだ。計画の最初からそう考えていたらしい。通常青年の家は教育委員会の管轄、そして身障者施設は厚生関係の管轄となるから、こんなわけにはゆかない。ところがこの「教育・福祉組合」立では、平然とそれをやってのけているわけである。

 この施設を牧場のまんなかにつくるというのもそれなりの考えがあるようだ。先ず町有地の一画だから土地代はただ。しかしそれだけで決っているわけではない。ここに住んでいるのは晨業者の子弟である。彼らに身につけてもらう作業能力の養成に、この地方の主産業の一つ、牧畜:牧場を利用しようというのである。彼らの家族の日常と大差ないことが、指導されるわけなのである。そのなかみは、すなわちまた牧場の日常以外のなにものでもない。

  ここにあるのは、諸々の事実を、機械的な分掌主義によってばらばらに運用するのではなく、全体を適切な相互関連をもたせつつ運用しようとする「意志」である。そしてそれは、単なる身すぎ世すぎのための役人商売では絶対に出てくるわけがない。つまるところ、彼は町が好きなのだ、人たちが好きなのだ。そして、町役場に勤めるとは、つまり役人とは何なのか、自覚しているのである。そして、こういう町の町役場の職員は九割九分その町に住んでいるということも考えられてよいだろう。彼らのやることは全て、町の住人としての自分にもふりかかる。因みに、東京の区役所の職員の半分以上は、その区の住人ではなく、埼玉、千葉、神奈川から来ている人もいるそうである。彼らがその区の(住人の)ことを分かるためには並大抵のことでは済まないはずである。住人が何を見ているのか、その住民たちの地図を知ろうとしなければならないのだが、それができるか、しているか?

 

(「筑波通信№8 後半, あとがき」 に続きます。)


「筑波通信 №8 後半, あとがき」

2019-03-07 20:17:18 | 1981年度 「筑波通信」

                                           (校舎は現存していません。)

「筑波通信№8 前半」より続く

 

  T氏とのつきあいは、先にも書いたが、もう20年になる。そのときT氏は七戸町の教育委員会の事務局の一職員であった。そのとき町では学校の再編成の仕事にとりかかっていた。ちょうど、いくつもの学校や分校を統合する策が全国的にすすめられていたころである。町では、中学校を一つにまとめ、小学校は逆にいままで一校、町の中心の城跡にあったものを、ほぼ町の中央を東西に流れる川を境に南北二校にしようとする計画をたてていた。おそらくその企画もT氏の手によるものと思われる。普通ならそこですぐ、極く普通の学校が建ってしまうところだったのだが、T氏はそうさせなかった。どうせ建てるなら最先端のものを建てよう、そう考えたT氏は、当時学校建築について研究を重ね種々の提言を行っていた東大の吉武泰水氏のところに現れ助力を求めたのである。そのころ校舎の不燃化にあわせ、それもそのころ出現した軽量鉄骨による学校建築が推進されていたのだが、その結果、軽量鉄骨造の中学校がいち早くこの東北の一角に誕生したのであった。見学者あとを断たず、T氏も悪い気はしなかったろう。そのときT氏は血気盛んな(いまも変らないが)30そこそこであった。

  そして、次の小学校の新設計画のときもまた、彼は東京に現れた。そしてその設計を、全く幸か不幸か、私が担当することになったのである。私もまた血気盛んであったから(本人はいまも変らないつもりでいるのだが)私はいたく彼の情熟にほだされた。それに応えなければならないと思った。そして私の側で言えば、ちょうどそのころ、当時建築の世界でやられていることに疑問を抱いていたときでもあった。私は考えた。そこで私が考えたこと、またそこで考えたことがその後の私の方向を決めたこと、それは先号で書いたとおりである。

  けれどもそれが私の方向を決めるものになろうとは、そのとき予想できていたわけではない。むしろ、ふりかえってみたらそうだったというにすぎない。ただ、まじめに考えたのは確かである。そうしなければ、彼とのつきあいに応えることにならないからである。一番初めにこういう設計の場面にめぐりあえたということは、いま考えてみて、こんなに幸せなことはないのではないかと、つくづく思う。私はついていた。

  そのころから現在にいたるまで、この町では、そしてまわりの町村を含め、文字どおり精力的に、乏しい財源のなかで、それを巧みに運用して着々と絶えまなく、ほんものの地域計画を、自らの手で企画立案し実現させてきたのである。町(の人々)にとって必要な教育施設(学校、幼稚園、公民館など)厚生関係施設(保育所、病院など)上水、消防、などなど、それらはこの20年の聞に碓実に整備されてきた。

  先の広城事業のやりかたは、消防がその手始めであったように思う。私が例の小学校の設計のため通っていたころ、隣りの天間林村との広域消防の設立に向けて、T氏が奔走していたのを覚えている。いまそれは更に他町村を加えて、より広域化している。そしてその広域事業は当初、あくまでも消防のためだけのそれであった。つまり一事業一組合で対応していた。上水その他も同様であった。けれどもいまでは、各種事業つまり複数の事業が一組合で営まれている。事業の数だけあった組合が一つにまとまったのである。それは最近のようだ。

 これも机上で考えると、初めから、つまり一事業一組合をたくさんつくらずに、各種事業を営む一組合をつくった方が合理的且つ効率的であるように思えるかもしれないが、実はそれは的を得た評ではない。それは結果だけしか見ない人が言うことばである。机上で描いた理屈でやったのならばつまり初めからそれをつくろうとしたならば、多分それは失敗しただろう。そうではなく内側からのながい時間をかけての積み重ねがあったからこそ共同体の意義がリアリティをもって定着したのである。そしてまたそうでなければならないことを十二分にわきまえていたのである。

 しかしながら、中央やえらい学識経験者の言うことは常に、あるべき結果の形についてのみであり、それらのあるべき姿へ、どういう道すじで到るのか、そのことについては全く考え及ばない、というのが実態である。ちを絵に描くことぐらい簡単なことはない。要は、どうやったらできるかなのだ。

 しかし、この町で試みられてきたような内側から徐々に熟成させてゆくやりかたは、その効果が直ちに目に見えないやりかたである。ある年度に投資した100のものが、その年度中に100の成果となって表れるといった類のものではない。だから、そういうことをのみ期待する人たちからの、つまり単年度決済主義者からの中傷や批判は多々あったろうと思われる。けれども、この町でやられてきたような、あちこちで一見したところばらばらに仕込まれた事業は年月の経過とともにそれぞれが、そしてそれら相互が総合的にからみながら醸成し、単年度では100にみえなかったものが、それ以上の成果となって現れる。と書くとえらく簡単にきこえるが、それは批難や中傷に耐え、常に現実の本質的問題をとらえ目先のことにとらわれず、そして同時に常に先を見るというしんどい作業を必要とするのである。目に見える成果だけを期待するいわゆる政治屋的やりかたでは、到底これはついてゆけない。息のながい話である。

 先にも既に書いたことなのだが、実際の話、町づくり施設づくりというのは建物としての施設、つまり物をつくることでできあがるのではない。このあたりまえなことに、私たちは気がつかなければなるまい。それらが重要なことは事実である。しかし言ってみればそれは舞台をつくっただけにすぎないのである。そこで人々が生活し、そして生活してゆくのに必然的なものでなかったならば単なる物のまま死んでゆくだろう。新たに造られた場所が、いかに人々になじまれ、定着してゆくか、それこそが問題なのであり。だから、建物の完成は施設づくりの一環のほんの一段階にすぎないのである。息のながい話なのである。

 

 私たちは、できたばかりの身障者施設を案内してもらったあと。再び七戸町へ向った。道はまっしぐらに八甲田を目ざし、丘陵台地をすすむ。ときおり谷地を横ぎるから、大きく上ったり下ったりする。ちょうど筑波の平野を横ぎるときに似ている。まわりは一面のとうもろこし畑やながいもの畑が続いている。これはこの夏に経験して思ったことだが、昔はこういう一面に同一の作物の畑であるということはなかったように思う。この夏、軽井沢の北嬬恋村を走ったとき、丘という丘が全部キャベツ畑であるのを見て、壮観というよりも、異様という感じをもったのである。ほんとにそれは異様・異常な風景であった。おそらく、現在の農業を象徴する風景だと、そのとき私は思った。ここでも同様なのだ。

 しばらく走ると、もう見慣れた場所が増えてくる。先導の車を見失なってももう平気である。「私の地図」の領域に入ってきたのである。

 城南小学校の近くは、当初延々と続く畑であって、春先は菜の花が一面に咲き、遠く近くに唐松林が芽をふき、八甲田だけがまだ冬の気配を残して輝いているといったたまらない風景が展開したものだが、いまはとびとびではあるが人家で埋められはじめている。それでも敷地は一万坪以上あるから大勢は変っておらず、むしろ、昔冬の夕暮れときに感じたような人里離れたというようなさびしい感じがなくなって、かえってよくなったかもしれない。この学校ができてから、町の中心部に、それこそ肩を寄せ合うようにして住んでいた人たちが、この丘のあたりに移って来はじめたのだそうである。(人口が都会のように増えてこうなったのではない。人口はほとんど変っておらず、横ばいかむしろ減少しているはずである。) これもまたT氏の計画に入っていたことなのかもしれない。言うならば、学校をつくったことにより、新しい集落:住宅地が生まれつつあるわけだ。

 

              「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より   設計:東京大学 吉武研究室

 昔もいまも変らない大きなケヤキ(この辺ではツキノキというらしい)の木立ちの下をぬけると、城南小の敷地の北辺にでる。そこからひろがるゆるい南下りの斜面が校地なのだ。建物はそこから100mほど歩いたところに入口がある。右手には、はるかに八甲田を見はるかすグラウンド、そして左側には体育館(というより講堂に近い)がある。それに沿って歩いてゆくと、平家建の建物が。だんだん迫ってくる。正面にこれともう一箇所だけが唯一二階建なのだが、図書室のあるブロックがある。入口前の前庭である。ここは、冬になると八甲田おろしがまともに吹きよせ、雪のときなどは吹きだまりになってしまって実にやっかいなところになるのだが、しかし、それ以外の季節、ある程度晴れてさえいれば、学校から帰るとき、玄関から外にとびだすと目前に、グラウンドの続きの、このごろは人家もまばらにまじる平原越しに、あの八甲田が一望のもとに見渡せるのだ。

 実はこれが、私の設計の際考えた大事な点の一つだったのである。どういう風に、この町の八甲田を見せるか、いろいろ考えたのだけれども、地形の状況などを勘案して、結局こういう形に落ち着いたのである。印象に残る形で見えるのは、ここと、先に書いた二階の図書室へ登る階段を上がりきって図書室へ入ろうとする(あるいは図書室から出ようとする)ときだけである。教窒の窓からも見えるところがあるけれども、それはあくまでも窓外の一風景以上にはならないはずである。この二箇所においてのみ八甲田の存在をあらためて心に思って欲しかったのだ。

  この学校には職員室がない。小さな会議室が一つあるだけだ。教室は、低学年、中学年、そして高学年とに分かれている。低学年は、先の前庭に南を向いて立つと、その右手にグラウンドに沿って、一・二年生用六教室が平家で延びている。それ用の玄関を入ると小さなプレイルームと称する室があり、そこから吹き放し(つまり屋根だけ)の渡り廊下が教室の南を走っている。

 中学年・高学年は、前庭から見て左手、それ用の玄関の奥に、一つの中庭を囲んである。そこは一段地形なりに落ちているから前庭からは見えない。高学年は中庭の南、敷地の南端に二階建である。しかしそこでは更に敷地は一段落ちるから、階段のおどり場の位置に、これも吹き放しの廊下でつながっている。中庭の北側にあるのが中学年の教室である。これは平家建。つまり、教室は、二学年づつの言わば分棟式になっているわけで、実はそれぞれに、まことに小さい準備室と称する室があり、先生がたは普段そこにいるのである。それ故職員室がないのである。

  いま、七戸町教育委員会にある施設台帳を見ると、その図には、先ほど来書いてきた渡り廊下がのってない。なぜか。

 この学校の四・五・六年生用の教室は、それぞれ三教室なのだが、その北側に幅が4m近い廊下と通称する場所がある。普通、廊下は2m 50cmぐらいであり、子どもたちがそこをどやどやと通りぬける。けれどもここの場合はいずれも、言わば袋小路になって、通るのはその学年の子どもたちだけなのだ。だから廊下としてなら広すぎる。実は、その学年の子どもたちたまりを、廊下と称してつくってしまったのである。低学年のプレイルームにしろ、こういうたまりにしろ、いまではさほど難しくないのだけれども、当時はそんな面積的な余裕はなかったのである。面積すなわちお金だからである。だから、これらの室も、先の準備室と称する学年職員室もみなそれは、台帳にない渡り廊下を食いつぶして生まれたものであったのだ。渡り廊下はこういう雪の降るところでは冬場はだめだろう。おそらく批判がでるだろう。しかしそれらは甘んじて受けておこう、これがT氏と私の間の密約であった。12・ 1・ 2月だけ我慢してもらえば、あとは天国のはずなのだ、そんな負け惜しみを言いながら。

 

「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より    

  

☆アプローチ 前庭より図書館、プレイルームを見る           ☆1.2年入口からプレイルームを見る

  

☆プレイルーム内部                               ☆1.2年教室

  

☆3.4年ホールから西を見る      ☆3.4年ホール周辺 ☆教室南側渡り廊下、スノコは冬期のみ ☆4年廊下(奥は教員控室) ☆3年教室前

  

☆5.6年教室北側                      ☆ 6年南バルコニー ☆6年廊下  ☆5.6年棟入口ホール

  

レイルームと図書館                  ☆あそび庭よりプレイルーム・1.2学年教室を見る(後方は八甲田連山)

 

 完成当初、だいたいのところはなじんでいってくれるだろうと思いはしたものの、この点、職員室がないということについては全く自信がなかった。不満がふきだすのではないか、これはT氏も私もともにもっていた気がかりであった。なぜなら、子どもたちというのは、どんな初めての場所に当面しても、それに対応し、住みこなしてゆくものだが、大人はなかなかそうはゆかない。普通の学校に慣れきってしまっていると、普通でない建物は全く異形に見えるだけになる。先生というものは職員室にたまっているものだという慣習になじんでいると、この学校は理不尽に思えるはずだ。

 ところが、そういう不満は、少なくともおもてだってはきこえでこなかった。今回私たちにいろいろ話をしてくれた校長先生は、完成当時この学校で教えていた方で、そのあと周辺の市町村の学校をまわって、二年ほどまえから、この学校の校長として赴任されたのだそうである。完成当時のとまどい、他の学校、そして再びこの学校へしかも校長として、という貴重な体験をしてこられたことになる。その先生の話によれば、職員室は別段問題にはならなかったのだそうである。唯一学年準備室:職員室が狭すぎることを除けば。碓かに初めて赴任した先生は、初めのうちとまどうそうだが、ここのやりかたが気に入り、すぐになじむという。どうも見ていると、低・中・高学年ごとの一種の自治国家が確立したかのように、それぞれの自主性が強く出てくるのだそうである。従って全校的会議も元気がでてくる。(それは小さな会議室で行なわれるのだ。)まして、子どもたちの傍にいつもいるから、子どもたちの日常も手にとるようによく分る。要するに、地方の先生がたは概ねそうなのだが、それに輸をかけて活気があるのだ。そのせいか、他の学校と違い、放課後すぐに帰らず、明日の準備だとかなにかを、その準備室でごそごそやっている先生が多いのだそうだ。それにつけてももうーまわり大きければというわけである。冒険をしたT氏と設計者にとってこれはまことにうれしいことであるけれども、しかし、本当のところはむしろ意外であった。建物のせいで止むを得ずそうなったのではなく、積極的にそうしているからである。そして、もし積極的でなかったならば、大抵の場合だと、因習を維持するために必らずどこかの室を昔ながらの職員室に仕立てなおしただろう。

 また、この学校では、普通の学校でよく見かける「廊下を走るな」という指導をやってない。走ることもないし、走ったって別に問題がないからなのだという。むしろ授業から開放されたら思いきり廊下でもどこでもとびはねてこいというのだそうである。実際のところ建物がそうなっているので、大体子どもたちは外にとびだしてってくれるそうである。(子どもたちは、上はきのまま、つまり一度玄関を入ったあとは、教室前に拡がる庭には、そのまま出ていってかまわないのだ。うるさいことを言われない。)

  要するにこの学校では、普通の学校のように、先生の側があらかじめもっている一般的学校生活の定型を、ただいたずらに子どもたちに押しつけるのではなく、むしろ逆に、子どもたちがこの建物で自ずと展開している生活をじっくりと追いつづけ、見つづけてゆくなかで、徐々にこの学校なりの定型をつくりだし、指導してきたと言い得るだろう。この学校が風変りで、一般的定型が通用しなかったからだと言ってしまえば元も子もないが、そうではなく、ここでの子どもたちの自ずとしている生活が、だれの目にも(つまり先生にも)納得のゆくものだったからだと、私は思う。

 けれども、このこの学校なりのやりかたというのは、絵に描いたもちのように初めにあったものでもないし、また簡単に、一朝一夕にしてなったわけでもない。そのように定着するには、いろいろな試行錯誤があったし、ながい時間がかかっているのである。それは、代々の先生がたが、意気に感じてやってきたことであり、現にやりつつあることなのだ。だから、定着したといっても、固定したのではないのである。

 こういう使いかたをしているのを、何年もたってから見れるとき、設計者は、少し大げさに言えば、涙がでるほどうれしいのである。いかに下手な設計であっても、いかにローコストの建物であっても、建物が活きていたのを見ることぐらい、うれしいことはない。

  こういう単年度計算でものごとを考えずに、言わば一代計算で考え町づくりをする人たちに、かなり若いときからつきあいがもてたということは、どんなに幸せなことであったかと、いまになって思う。そう思うと、人と人との出会いというのが、本当に不思議に思えてくる。と同時に、その気さえこちらが常にもっていれば、そういう機会は必らずどこかにあるのだ、そういう確信がわいてくる。この四月の通信発刊の辞に書いた中野や小金井の人たちに会えたのも、なにやってんだと忠告してくれる学生に出会えたというのも、別に運命論者ではないけれど、運がいいと思う。その代わり、そういう人たちに会うごとに、こちらとして、あとがなくなる、逃げ口・出口がふさがれてしまうのだけれども。

 

 今回再び七戸を訪れて、またまたうれしくなって帰ってきたのであるが、ただ少し気がかりな点が、この文章を書きつつ、心にうかんできた。

 その昔、鉄道に反対し、その意味での発展からはとり残されたと先号に書いたけれども、こんどは東北新幹線がこの町を通り、ことによると近くに駅ができるかもしれないのだという。単純によろこんでいてよいのだろうか、それに対して適切な対応が考えられているだろうか。それが気がかりの一つであった。

 そしてもう一つ、こちらの方が重要なのだが、この20年間T氏たちが言わば身を挺してやってきたことの意味が、はたして若い世代にも理解され根をはり、本当の意味の「伝統」になっているかということ、それが気がかりに思えてきたのだ。なぜなら人はどうしても「結果」だけを見て、それに到る「過程」の存在を忘れてしまうからである。そして、その「過程」は、与えられるものではなく、自らかやることなのだということが忘れられるからである。人間らくが好きだからである。

 いずれも単なる私の思いすごしにすぎなければ幸いである。

 

あとがき 〇ある学生に、あることについてどう考えているかと尋ねたところ、いま勉強中なので分からない、という返事がかえってきた。ことによると、あることが分るということは、それについてのある絶対的な理解というものが存在し、それを知ることなのだとも思っているのではないか。そんな風な気がしてならなかった。たとえば、人間が分かるには、生理学やら心理学やらを全ておさめることが先決だということになる。

〇そんなとき、集中授業に来られた方が、男の返事は六つしかない、好きか、きらいか:分かるか、分からないか:やるか、やらないか、これしかない、そうじゃない下山さん?と言うのである。一瞬とまどったけれど、言えている。確かに、この積み重ねである。そうであって、初めて反省が成り立つのだ。何もしないで、いま考えてます、またいずれ、これは確かにらくらくだ。

〇またこんなことがあった。ある仕事をある人たちにお願いしてあった。そろそろまとまってよいと思えるころあいに、ある問題について考えてあるかと問うたところ、考えていない、考えなければならないことなら、初めに言ってくれればよいのに、時間がもったいない。こういう返事が返ってきた。これも、らくをしたいのだろう。いい目だけみたいのだ。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、そんな言葉がでかかった。ある人とは大学院生である。

〇若い人たちに言わせると、中年世代のヒステリー?なのだそうである!

〇ご感想、ご意見を、おきかせください。  〇それぞれなりのご活躍を!

1981・11・1                        下山 眞司

 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 写真 13頁」  (5.0MB)

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 文章,平面図 4頁」 (3.7MB) 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 図面 8頁」    (6.1MB)

 

 


「筑波通信№7 前半」 1881年10月

2019-03-02 08:47:52 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №7」1981年10月 A4版16頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

  「筑波通信 №7」  1981年10月

     七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか・・・・

  青森県上北(かみきた)郡七戸(しちのへ)町と言っても、知る人は少ないだろう。東北本線の特急で上野からちょうど8時間三沢で私鉄に乗りかえ30分、終点の十和田市から更にバスで30分、国道4号(陸羽街道)沿いにある小さな町である。地図(別図)でわかるとおり、八甲田連山の東側のすそ野にひろがる火山灰台地に切りこまれたひだのような低地:数本の小河川の合流点にある町だ。

 

 それらの河川は全て小川原(おがら、あるいは、おがわら)湖にそそぎ、周辺には縄文期の遺跡が点在するそうである。古来、この火山灰台地では馬の放牧がさかんであったようで、江戸時代南部支藩七戸藩の城下町(柏葉城という:いまはわずかに跡をとどめるのみ)陸羽街道の宿場町として栄えるとともに、本邦産馬の中枢地(七戸馬として世に知られたという)としても大いに栄えた町であったようである(いまから18年ほど前訪れた当時、まだ馬市場が残っていたように思う)。いまでも人々の生業は、低地での水田(特に第二次大戦後発展)台地での畑作(殼類の他に、ながいも、たばこを多く見かける。以前は桑も多かった)と馬(戦前は軍馬、戦後は競走馬)牛(肉牛:昭和30年代より)の放牧が主たるもののようである。人口は現在約一万三千。一歩町なかをはずれると、一見のどかな風景が展開する。それというのも、明治の鉄道敷設に反対したため、東北本線は野辺地(のへぢ:下北半島の入口)まわりとなってしまい、そういった意味での発展からはとりのこされたからであろう。しかし、いま考えてみて、それが町にとって損失であったとは一概には言えないように私は思う。

 この町のどこを歩いていても大概、ふと西の方を見やると、八甲田連峰のすばらしいながめを目にすることができる。秋から冬へ、冬から、春へ、この山は季節の移り変りをもののみごとに表現してくれる。

  今回と次回、この七戸町との係わりにまつわることどもを中心に書いてみようと思う。というのも、私にとって、この七戸町との出会いというのが即ち設計という行為との初めての、そしてほんとうの出会いに他ならず、そのとき手さぐりで考えたことというのが、おそらくその後の私の建築に対する考えかたそのものに、決定的といってもよい影をおとしているように思えるし、また、この間七戸町において行なわれてきた各種の建物づくり:町づくりというのは、これは十分注目に値することのように思えるからである。

  

 いまから18年前(1963年)私この町の小学校を設計した(私の意識では、この町小学校を設計したというのではない)。私が26歳のときである。はるか昔のことである。

 この8月の末、久かたぶりにそれを見に七戸町へ行ってきた。その学校の完成以来ほぼ五年に一度は訪れているし、設計の前年から工事中にかけての数年間というものは、ひっきりなしに通いつめたから、町なかの様子も大概分っているつもりではあったのだが、それでもやはり役場が新しくなっていたり、道が付けなおされていたりして、多少道に迷うこともあった。けれども雰囲気は相変らず昔のままであった。

  

「航空写真」は次号「筑波通信№8」より  (校舎は現存しません。)

「建築 1965年5月号」より 青銅社  設計 東京大学吉武研究室   (後方の山は八甲田連山。2枚の画像は共に投稿者による挿入です。)

 

 今回は初めて、鉄道を使わず車で訪れたのであるが、着いた日の夕刻、七戸の手前十和田市のあたりから見えだした落日の八甲田連山は、思いのほか大きく、おそらく初めてそれを見た同行の人たちも、きっとその姿に感激をおぼえたことと思う。実際それはすばらしかった。

 けれども私は、それにも増して、その姿に「懐しさ」を覚えたのである。「帰ってきたな」「着いたな」そういう少し大げさに言えば胸さわぎを覚えるような、そんな感じを抱いたのである(おそらく同行のだれ一人として、この私の気持には気づかなかったと思う)。それは、すばらしい風景が見えたなどという以上の、そんなのとはまるっきり違う感情である。そして私は、その町に住んでいない、住んだことのない私が、そういう「懐しさ」を覚えたということで、実はほっとしたのである。

 それはどうしてか。

 ある所に住んでいる限り、どうしようもなく気にかかって(というより、気にかかるように)見えてきてしまう地物などの光景というものがあるが(いま書いている話では八甲田山がそれにあたる)、それを見るあるいはそれが見える、見えてしまう、ということは、そこに住む人々にとって、極めて重要なことなのだ。それは単なる観光的景色:最観なのではなく、自分の住む場所、あるいは住んでいるということそれ自体を言わば象徴する(それが見えるということが即ち生きている、住んでいることに他ならず、そのことの象徴・履歴として、永く心に沈潜し、故に「懐しさ」となる)従って、そこに住む以上欠くべからざることなのであって(先号の言いかたで言うならば、「私の地図」のなかに、かならずその姿が表われでるということ)、だから、そうである以上、設計をする:その町に住む人たちの生活が展開する場所づくりに係わる:にあたって決して見逃がすことのできないことである。これが、その当時、その小学校を設計したとき、私が考えた極めて重要なポイントの一つであった。前ページの末尾で、この町ではなくてこの町のという意識であると書いたのはこういう意味なのである。

 普通、学校といえば、「子どもたちの教育の場」であると考えられ設計されるのが常なのだが、私がここで言ったのはこの学校に来るのは「一般的な子どもというもの」という子どもたちなのではなく、あくまでも「この町の」子どもたちなのだということなのである。そして、「この町」の「この」の内容を特定するものの一つとして、こういったどうしても「気になる」地物などの光景が重要な役割をはたしているのだ。こう考えたのである。その当時、一般には、この「この」なしに、つまり固有:特定名詞でなく一般名詞でことが処理されてゆくのが常で(いまだって変りないのだが)、それに対し、それは絶対に誤まりであると私は思っていた。

 

 しかしながら、いまここで書いてきたようなことがらというのは、言わば「見えない」ことの話であるから、当時、このことについていくら口で説明したり文章を書いたりしたところで、なかなか分かってもらえなかったし、とりわけ、建築をやっているなかまのなかで、私の言わんとしたことを分かってくれる人、分かろうとしてくれる人は、ほんとに少なかった。それに、第一私自身、先回書いたように、そういった気になる地物を目の前にするような生活というのは、疎開のときのほんの一年そこそこの体験しかないし、それだって竜王での南アルプスは八甲田の山容に比べめりはりがなく壁のようで、気になりかたが少なかったように思う。だから、いま簡単に述べた私の考えかたというのは、私自身のほんのわずかな体験が基になり、あとは言わば頭のなかで組みたてた、どちらかといえば、私の「推量」にすぎないことであった。きっと確かなことなのだとは思っても、「実証」し「説得」する力に欠けていた。

 当時、この説明の為によく使ったのが、「ふるさとは遠くにありて想うもの」ということばであった。ふるさとに居続けるかぎり、さしづめ空気のようにその存在の有無が分らないものとなっているふるさとも、そこを離れたとき初めて見えてくる、しかもそれはかならず、そのふるさとを言わば象徴する光景の姿を想い描くことによってなのだ、それをこのことばは言っているのである。私はこう説明した。その場所を離れ、あるいは十年後、二十年後、時間が離れたとき、初めてその意味が明らかになるはずだ。十年後、ここに育った町の人に尋ねてみたい、尋ねてみれば分る、苦しまぎれにこうも言った。しかし、ほんとはそれは難しい。いまここで言っているようなことは、そういう状況のまっただなかに在る人は意識しておらず。むしろ、知らず知らずのうちに浸っている言った方があたっている。尋ねられたところで答えようがない。そういうことは、よほどのことでもないかぎり、普段は意識にのぼらない。いったいこれを、どうやって「実証」したらよいのだろう。

 いま現実に十数年たってみて、私自身、その光景に「懐しさ」を覚えたとき。これでよい、これで十分だと私は思った。誤っていない。私の考えていたことは、当っている。自分自身の体験という「実証」ができつつある、そう思ったのだ。だから内心ほっとしたのである。そこに住んでいる人に比べれば、私のその町での体験は全くとるに足らないほど少ない。そうであるにも拘らず、その私が「懐しさ」しかも「帰ってきた」という感情さえもったのだから、あとは推して知るべし、そう思ったのだ。

 けれども一瞬、しかしこれは、自分が設計したという「思い入れ」がそうさせているのではないかという疑念が頭のなかをよぎった。しかし、設計当初はともかく、設計して十年以上もたってしまうと、設計者は意外と冷静でいられるもので、その建物を客観的、第三者的に見ることはもちろん批判・批評することもできるようになるものである。設計者であり同時に観察者であるということが、ほぼ可能になってくる。言うならば、昔の恋人に会っても、確かに一方である種の感懐を抱きつつも、割とクールに話ができるような、そういった年月というフィルターがかかってしまうようなのだ。というか、年月がいろいろな夾雑物を流し去ってしまうのだろう。私はそんなことを頭のなかで反すうしながら車を走らせていた。そして、何度も思いなおしながら、やはりこの「懐しさ」はほんものだ自然にわき起ってきたものだ、そう確信に近い感じを抱いたのであった。

  

 私は先号のあとがきで、いつも山々に囲まれている人たちが、いまその山々にいかに対しているか尋ねてみたいと書いた。先々号でも、「幼き日の山やま」という随筆を引用して、山への対しかたの話を書いた。しかし、先々号の場合には、そり焦点は別なところを目ざしていた。けれども、私がこの随筆に目をとめたというのも、このある程度確信はもてても、いま一つ「実証」し難いこういう地物の光景の人との係わりそしてその大事さということに対して、この間ずうっと関心があったからなのだと思う。考えてみれば、私はこの間、はるか昔に考えたことを、自分の身で体験し感じて「実証」するために生きてきたのかも知れない。それはきっと、私自身が体験をつみ重ねてゆくなかで、徐々にその姿が明らかになってくることなのだろう。これは人間の心情に係わることだから止むを得ない。

  けれども、十分にかたちを成していなくても言わなければならない。そう私は思い続けてきた。こういった「目に見えない」ことは、「目に見える」ことだけにかかずりあい、それらに分解するだけでこと足りるとする「合理主義」の下では、どんどん無視されていってしまうからである。「体験の内容と成り得る」ものが無視され、忘れ去られてしまうからである。そのように、どうしても私には思えてならなかった。だから、どうしてもそれを言わなければならない、しかも、建物づくりをしつつ、あるいはそれを通じ、言わなければならない、そう思ってきた。しかしながらそれは、それを確かなものにしようとしつつある途中の(その途中がいつ終るのか分らない、というよりむしろ多分終わりがない)段階で言わなければならないことだ。だからずうっと、はがゆく、もどかしいことの連続だった。ときには、これは全く私の独りよがりの考えかたなのではなかろうか、既にして出だしを誤まったのではなかろうか、そう思うこともたびたびあった。そのたびに、こう考えた方が、人々の諸々の営為:人々が生き暮してきたこと、やってきたこと、・・・・言集のほんとうの意味、詩や文学の存在の意味、そういったことが、少くとも私にはよく分るような気がしたし、それにも増して、ほんの少しではあるけれども現に同じように思い、語りかけてくれる人たちがいるではないか、そう思いなおしては、気をとりなおしてきた。

 翌日の朝のこと、同行した人の内の一人が、朝もやのなかに浮いた八甲田山をながめていて、しばしの沈黙ののち、いつもこれを目の前にしている人たちには、これはどう見えるのだろう、そういった内容のつぶやきをもらすのをきいて、だから私は、無性にうれしかった。この人も、単に景色を見ているのではないぞ、そう私には思えたからである。

  

 いま私は、八甲田の光景から話をすすめてきた。けれどもそれは、なにもこういった目だった地物についてだけの話ではない。私たちをとり囲んでいる一切のものというのが、それなりにそれぞれ、私たちにとって、「気になる」ものとして存在しているのだと言った方がよいのである。けれどもこれも、そのことに先ず気づくことから始めなければならない。いま、そのことの一環として、先ず、このような「目だった」ことの話からすすめたにすぎないのである。

 私たちは私たちが「私たちの地図」をもっていることに気がつくべきだ、このように私は先号で書いた。いま書きつつあることは、これに関係してくる。いったい何故、こういったことに気がつくべきだと言うのか、どうしてもこの点についてもう少し説明を、無理してでも、する必要に迫られる。

  私たちがいま、たとえば、ハイキングなり山歩きをしていると仮定しよう。大分歩いておなかが空いてきた、ころあいもよいし昼食にしようということになる。そのとき私たちはどうするか。目的は「空腹を満たすこと」にあるとして、所構わずすぐさま弁当をひろげるだろうか。そんなことはない。ないはずである。私たちは、場所を探し腰をおろす。そして、落ちつけたことを言わば確認して、それからおもむろに弁当をひろげる。だいたいそういう手順になるはずだ。

 

 私の住む筑波研究学園都市のある小学校のグラウンドは、起伏のある広い芝生、樹林、池(林や池は、大かた昔からのもの)のある公園に隣りあっている。ここでは、学校にも公園にもヘイというものがないから、どこまでが学校で、どこからが公園なのか、一見したところ区別がつかない。この小学校の秋の運動会は、これまたいま都会では考えられないほど昔風で、学校の行事ではあるけれど、むしろ子どもを軸にした家族ぐるみ町ぐるみの行事として、結構にぎわいをみせる。その運動会の昼の休憩は、それぞれの家族が思い思いに、このグラウンドから公園に散らばって昼食をとるのであるが(運悪くその日親が都合のつかなかった子どもたちは、よくしたもので、知人の家族と一緒にやっている)、それを観察していると、その席とりの様子が、まことにむべなるかなという様相をとるのがよく分る。決して、どこでもよい、というようなことにはならない。出おくれた家族が、止むを得ず、所在ない場所にとり残される。

 二年ほど前、子どもと八ヶ岳の一画に登ったとき、一休みしようとして腰をおろし、持参のカンジュースをのみ、ふと座ったところの地面に目をやったところ、そこにカンジュースの引きぬいたフタが数個、泥にまみれて落ちているのを見つけ、なんだ、みんな私と同じ格好をしてここに腰をおろしたなと思い、なんとなくおかしく思ったことがある。

 こういったことはまた、喫茶店の席とりのことを頭に浮べてもらっても分る。だれと(何人で)いかなることのために、つまり、恋人と密やかに人目を気にしてお茶をのむのか、公然とのむのか、あるいは一人で物思いにふけりたいためか、単なる時間つぶしか、あるいは数人集まって楽しい話をするのか、それとも深刻な話をするのか、‥‥それによってみな座りたい場所がちがっていて、ときには喫茶店そのものの選びかたさえも違ってくる。

 いまここに思いつくままにならべた事例をどう見たらよいか。

 これは、私たちがなにかを為す場合、そのなにかを為すためのそれなりの場所を要しているということであり、また、私たちのまわり(の空間)には、そういう具合に私たちがなにかを為すのに向いたそれなりの場所、つまりいろんな性格を感じさせる場所、というものが無数に存在し・・・・より正しい言いかたをするならば、私たちが私たちをとり囲む空間のなかに、いろんな性格の存在を(瞬間的に)感じとっている‥‥私たちはそのなかから適宜、そのときの私たちのありように応じ、それなりの場所を私たち自らの感じるままに(瞬間的に、そして決して信号機の青・赤の約束ごとに機械的に従うようにではなく、言わば主体的に)取捨選択し探している、ということなのである。

 

 先日の夜、我が住む町の近くを車で走っていたときのこと、隣りに座っていた私の友だちが、まわりに展開してゆく景色を見ていて(私は目をこらして道を見ているからそういう余裕はないのだが)「こわい森だ」とか「心なごむ林だ」とか「ほっとする揚所だ」とか感想を述べ続けていた。昼間見なれた風景も、夜になると際だってその特徴が露わになって見えてくるものだ。そしてこういう感想は、次の段階として、ここなら住めるとか、ここには怖い伝説でも生まれてもおかしくないとか、そんな話へ発展していった。つまり、ある感じをいや応なく私たちに抱かせる光景(場所)というものが、私たちのまわりには充ち充ちており、それがそこでの私たちのふるまいを、言わば支配するのであり、また当然のことのように、私たちは私たちのふるまいを(実際に行動に移さなくても)予測することができるのだ。

 いったいなぜ、単なる木の集まりにすぎない森が、ある森は人をして「怖い」と思わせ、またある森は「なごんだ」と思わせるのか、これは詮索したらきりがない。しかしここでは、そういう事象があるということ、そういうものなのだということ、このことを認めてもらうだけで十分だ。

 

  私たちの普段の生活において、かくあることがある以上、建物づくりもまた、まさにこういうことを認め、理解することから始まるべきではないか、なぜなら、建物づくりによってできてくる場所というのもまた、いま述べてきたような場所の一員になかまいりすることになるからだ、これが、その昔私の考えたことであった。以来、基本的には少しも変っていない。

 だから、先号で書き、またこの文の初めにも触れた「私の地図」というのは、私のまわりにある場所のなかに、そのときの私なりに(子どもなら子どもなりに)いろんな性格の差をみつけだし、それらを私なりに頭のなかで組みたて描いている、そういった地図のことだ。それは決して測量図としての地図そのものではなく、それに比べれば不完全だ。けれども普段、私たちには測量図は必要でなく、こういった「私の地図」で十分間に合ってしまう。そして、私たちがなにかをしようとするとき、私たちは即座にその「私の地図」の一郭に、そのための湯所を探しだし、あるいは逆に(子どものころを思いだしてもらえば分ると思うが)その地図に描かれた、自分のものとなっているあたりをなんとなくそぞろ歩いていて、出くわした場所場所で、そこなりの遊び(やること)が触発される。

 先回、川を渡った向う岸は「私の地図」には載っていないという書きかたをした。けれども実は、その言いかたはほんとは正しくない。載ってはいるのだ。ただその載りかたがちがう。なにか得体の知れない場所、怖い場所、ない方がいいけれどある、そういう場所としては載っていたはずなのだ。なにかおどろおどろしい場所がそこにある、近づけない、そういう風に。そのかわり、それに対置して、こちら側には、私の意のままになるところが、ちゃんとあるのである。これが「私の地図」なのだ。

 おそらく人々が「測量した地図」というものをもっていなかったとき(先回、これを私は「本物の地図」と表現したのだが、この通信をいつも熱心に読んでくれ必らず批評してくれる人から早速クレームがついた。本物は「私たちの地図」の方なのではないかと。そこで今回は、測量した地図と言いなおしているのである)、人々はこういう具合に、住める・住めない、行ける・行けない、等々といったことに基いた「地図」をもっていた。そして、それに拠って自分たちの住む場所を確保してきた。もちろん何を食べて生きてゆくか、それは住む場所を決めてゆく必要な条件であったことは確かではあるけれど(採集経済と農耕経済では場所がちがう)、それで十分な条件なのでは決してなく、つまり食えればどこでも所構わず住んだのではないことは、こういう見かたで遺跡分布図などを見てゆくと、自ずと明らかになってくる。むしろ、いま以上によく考えられていたのではないかとさえ思いたくなる。いまの文明下の生活に比べれば比較にならないほど貧しい生活の時代(つい最近まで)人々はむしろいま以上に、自らの心情において豊かであった、こうも言えるのではなかろうか。

 

  先ほどの山歩きのときのはなしだとか、いくつか思いつくままに記した事例について、多分(というより、きっと)全ての人が、そういったことがあることを、共感をもって認めてくれるはずである。であるにも拘らず、いま、人々は、「食う」ということは「食べものを食う」ことであればよいとして平然としていられるし、「住む」ということは家さえあればどこでもできる、つまり必要条件だけでこと足りると思いこんで平然としていられる。平然としているように見える。十分な条件など願っても無理だし、それは付加的な価値、ゆとりあってのはなしなのだ、そう思われているのではなかろうか。そこにあるのは、必要な条件と十分な条件が、それぞれ独立にあり、しかも必要な条件の上に十分な条件(強いてなくてもよい)が追加される、なにかそんな風な考えかたがその根底にあるのではなかろうか。しかし。こういう考えかたは先の全ての人の共感が得られるはずの事例とは、全く相反することであるのは明白である。そして、現実にはむしろ、この私たちの日ごろのふるまいかたと相反する方向でことが進んでいる。それがすなわち、私が何度か書いてきた、私たちの日常を「逆なでする」方向に他ならない。

 

 言うまでもないことだが、ある事象は、必要にして十分な条件がそなわらなければ成りたたない、これは確か中学校あたりの数学で習った論理学の初歩だ。にも拘らずその一方だけでことがなりたつと、どうして思うようになってしまったのか。

 いつの日からか、人間(の生活)を対象として観察し、人間の生活とは、その観察において見えてくるところの、食う・働く・寝る・・・・といった「行為」の(単なる)集合だとみなす癖が横行しだしてしまったのである。そこでは、その観察の対象となっている人間の生活というのが、実は、その生活をまさにしている、営んでいる人間の主体的な活動の結果物なのだということが、もののみごとに忘れられ、見失なわれているのである。更に、忘れている、見失なっていること自体さえも忘れ、見失なっているのである。

 だからいま、この文の初めの部分で書いたように、この町学校でなく、この町学校をつくっても平気でいられるし、先号で書いたように、半径500メートルの円を描いて、そのなかに住む子どもたちがみな一様にこぞってその円の中心の児童館によろこんで集まってくるなどと思って平然としていられるのだ。そんなことでつくられるものが「体験の内容と成り得る」ものとなるわけがない。そこでは初めから、人々の主体的な活動:主体性を無視している、というよりその存在が認められていないのだ。体験とは主体的なものなのであって、信号機にただ従順に従うようなものなのではない。

 

 いったいなぜこういう事態になってしまったのか。私はこの通信でほとんど毎号、こういう事態に到らしめたのは、その基にある、近代的、近代合理主義的、「合理主義」的、あるいは都会的等々といった言いかたで呼んだ独特なしかも支配的な考えかたにあるのだと書いてきた。この考えかたのよってきたること、その内容の分折・検討といったことは、だから絶対にしなければならないことだ。近代とはなにか、ということである。かといって、そういう大上段にふりかぶって攻めるなどというのは、私には不向きであるし、第一そういう能力はほんとのところない。だから、というかむしろ、現実の局面で私たちが遭遇する諸々の事象の解釈を通じ、そういった近代の考えかたの落とし穴を露わにしてゆきたいというのが私の思うところであり、またその方が、理論的分析よりもほんとは強い、そう内心では思っている。なにしろ私は、現実に建物づくりをしなければならないという破目のなかで考えてきたから、いまさら哲学教師評論家にはなれないのである。それ故いまここでは、この近代について述べられた平明にして要をえた文章を引用するに止めておこうと思う。

 「日本の中世文化は、人間を深く究め、その主体的可能力を発掘しようとする生き方によって生産されたものである。古代文化は、これと違って、人間を超越した神を畏れ、魂を信じ、その働きに寄り縋ろうとする生き方から生産されたものであった。近代文化は、そういう超人間的なものに寄り縋ろうとするのでもなく、また、人間の可能力に頼ろうとするのでもなく、対象としての自然および社会を究め、そこに行なわれている法則を発見することによって、対象の世界を客観的に認識し、それを支配しようとする生き方によって生産されつつある。

 現代は、このようにして、自然を究め、そこに行なわれている法則を客観的に認識することによって、自然を支配するために、かえって、その自然に随順するほかはなくなり、自然に支配されようとしているのが、人間である。言い換えると、近代文化は、人間の主体性を喪失することによって成立し、発展している。これこそ人間の危機でなくて何であろうか。人間は、このような危機に直面して、われわれの生活と文化の中に人間の主体性を確立しようともがいているのが現状である。(西尾 実:中世文学と道元に関する党え書:1962年著:冒頭より、道元と世阿弥 所戴)」

 

 私の見解と多少違うのは、その最後の部分である。むしろ私は、いま、人間はそんな危機にも気づかず、その気のついていない、危機を危機と見ることもできない状況へ、自ら進んで、ときにはよろこびいさんで、入りこもうとしているのではないかとさえ思いたくなる。とりわけ、私のまわりの建物づくりや町づくりに係わりをもつ人たちの世界は、残念ながら、まさにそういう状態だ。彼らの多くは(大半は)人間を単に観察の対象としてしか見ない。人間の主体性など、つめのあかほども念頭にないのである。そうすることが、そうすることこそが「科学」だと主張するのだ。そのように見るのが「研究」であり「学問」であると強弁するのだ。ことによると(おそらくきっと)彼らは、彼らだけが主体性をもっているとでも思っているのだ。人間は、彼らにとって、操作の対象でしかない。彼らは既に、「お上」を「公共」と言いくるめる側にたっている。彼らには、人間の主体的営為というものが全く分らない。だから彼らには、古代とはなにか、中世とはなにか、人間の歴史とはなにか、そういう視点はどこを探してもないだろう。それはもう終わった話。それはそれ、なのである。昔は昔なのである。これこそ危機なのだ。

  

 私が何を考えていたか、考えてきたか、それをなんとか説明しようとしているうちに、大分遠くまできてしまった。再び元へ戻ろう。要するに私がその学校の設計に際し考えたことは、一言で言えば、この町の子どもたちの「体験の内容と成り得る」場所をつくるということであった。(もっともこういう便利な言いかたは、当時思いつかなかった。)

 それではそのとき、「学校とは教育の場である」という言いかたのなかの「教育の場」は、どこへいってしまうのか。その点についても、私は少し変わった考えをもっていた。

 

(「筑波通信№7後半、あとがき」に続く) 


「筑波通信№7後半. あとがき」

2019-03-02 08:47:15 | 1981年度 「筑波通信」

 (「筑波通信№7 前半」より続く)

 

 学校建築については、当時既に、学校において行なわれる教育の形態(授業形態)が実地に観察され、細かく分折・検討が行なわれ、いろいろな室や運動場などの(教育の場としての)備えるべき条件だとか、それらの並べかたの方法などについて、学校建築の専門家たちが研究を重ね、またそれに拠る各種の提案やモデル建築が提示されていたのであるが、しかし現実に建っている模範的と言われた実例は、正直言って合点がゆかず、私の通った古い木造の学校の方が、私には数等なじめるとひそかに思ったものである。私の疎開先の学校は、木造平家建の教室がハモニカ様に並んだ校舎が三本平行し、それを「王の字」型に廊下がつないでいる、昔よくあった型であったけれども、うす暗い教室のすみっこなどは結構楽しかったし、とりわけ二列の校舎の間の幅2メートル(もっとあったかとも思う)ぐらいの小川(用水路)がきれいな水をたたえて流れていた、その細長い空間は、もたれかかってなにかをした校舎の木の外壁とともに、別にこれといった細工など何も施されていなかったけれども、最もなじんだ場所であって、いまではもっと美化された形で思い出として浮んでくる。

 そういった学校建築の専門家たちの研究成果のとりこまれた学校がなじめない、いったいそれはなぜなのか。

 私の行きついた結論は、この人たちの学校建築について考えていることには、子どもたちの生活が欠落している、そこにあるのは、子どもたちの教育(授業)との係わりという局面での諸行為としての意味の生活だけなのだ、そういう結論であった。そして、学校建築というのは、そういう単なる「教育の場」として限定して考えてしまう前に、ほんとの意味での「生活の場」として先ず考えるべきだと考えるようになったのである。

 

 子どものころを思いだしていただければ直ちに分ることなのだが、たとえば学校の建物や校庭のほんのちょっとした一偶や、校庭にあった木、草むら、あるいは往復の二十分もあれば行きつくのに小一時間もかかった道すがら(いま私は、あの疎開先の学校を思い出しながら書いている)、そういった光景とそこでの私の姿が次々と、月なみの表現でいえば走馬燈の如くに、思い出される一方で、たとえばどんな具合にしてかけ算やわり算を習ったか、その授業形態その場面としての教室の光景というのは、けろりと忘れていることに気がつくはずだ。授業がらみで思いだすことがあるとすれば、廊下に立たされたとか、指されたけれど答えられなくて弱ったことだとか、私の場合そういうえらく情けない話だけだ(これについては、ことあるたびに大人の人に尋ねてきたのだけれども、思い出すのが授業外のことである点は全く同様であった)。

 すなわち、大人が必死になって考えている「教育」の局面は、子どもの私たちによって、こういった生活のほんの一部に押しやられ、あるいは一部としてくるまれてしまっていたということなのだ。

 

 唐木順三の「途中の喪失」という随筆のなかに、次のような一節がある。

  「私たちの子どものころは途中で友だちを誘い合いさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるという具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語り合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったように思う。途中は目的地への最短距離ではなくて、少年たちの共通の広場であり、空想の花園でもあり、遊びの場所でもあった。ときには上級生の下級生への制裁の揚所にもなり、教室から開放された悪意の腕のふるい場所でもあったが、それはそれなりの秩序をもっていた。教室で学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」

 

 これは、子どもにとっての学校(生活)を十分に語って余りある文章だと私は思う。余談だが、私がこの随筆を初めて読んだのは、設計した小学校の工事監理のために七戸へ赴く夜行列車のなかのことであった。折悪しく夏の帰省時で寝台がとれず一等指定席(いまのグリーン車)中ほどより後の通路側、そんな席のことまで覚えている。設計のときいろいろ考え悩み、自信もそれほどないまま、言ってみれば半ば強引に自分の考えを押し通してきた私にとって、私と同じような考えを述べたこの文に出会ったということが、いかにうれしいものであったか。多分想像していただけるものと思う。

  ことによると、しかしこういうことは、あなたがたの世代の子どものころの話であって、たとえば通学路も指定され、また授業内容も比較にならないほどきつくなっているいまの子どもたちは、必らずしもそうではないのではないか。これは、あなたがた世代の懐古の情、歳とった証拠である、などと言われかねない、などという気もする。しかしそれは、いま子どもたちに尋ねたところで、はっきりとは分ってこない。分かるのは多分彼らの十年後二十年後だろうと思う。ただ、私事で恐縮だが、私が筑波研究学園都市に移住してしばらくたったあとで、私の子どもに、前いた東京の学校といまの学校(因果なことに、ほんとに幸か不幸か、私の設計に関係した建物だ)の違いについて尋ねてみたところ、「こんどの学校は、かくれんぼができない。」そういう答がかえってきた。それをきいて、いまだって、少しも変っていない、そう私は(勝手に〉確信をもったのである。

 それと同時に、この学校について、雨が漏る、暑い、‥といったいろいろな批判をうけていたのだが、そのどれにもまして、この「かくれんぼができない」という一言ほどぐさりときたものはなかった。えらそうなこと言って、既にして観念的になって、考えだけが上すべりしている、お前が七戸で考えたことは何だったのだ、どこへ行ったのだ、そういう詰問にきこえたのだ。いまでもこの学校のそばは、しょっちゅう通らざるを得ないのだが、その度に「かくれんぼのできない学校」という苦い思いがよぎるのである。

 

 なるほど確かに、学校での子供たちの「生活」時間を、時間数で計るならば、その7・8割は教育:授業に費されているはずなのであるが、子どもの私たちにとってそれは、いま書いてきたように、むしろ逆転した比率、あるいはそれ以下にしか記憶されないのだという事実、これは十分に考えられなければならない。

 考えてみれば、あるいは考えるまでもなく、学校の教育・授業(特に義務教育の)というのは大人の勝手、大人の論理なのであって、子どもの都合ではないし、子どもの都合が考えられているわけでもない。そして子どもは、そういう大人の思惑にも拘らず、それとは関係なく、そういった大人のつくった制度やわく組のなかで、それでもなおしたたかに子どもの論理を展開しているのである。

  子どもにとって、彼らの生活の(ほんの)一部に「教育」がある、先ずこのことを認めることから始めよう。これが私の考えたこと:「教育の場」である前に先ず「生活の場」であるこの基本である。

  ふと省みてもらえば分ることなのだが、これほど感受性豊かなときは他にないと思われる子ども時代の六年間という長い年月を、子どもたちは(彼らの意志によってではなく)学校ですごすのだ。そういう(彼らにとっていや応なく与えられる)場所での体験を経て、子どもは大人になる。これは何人も否定し得ない真実である。それが「生活の場」でなくして、いったい何だろう。

  だから私には、学校建築の専門家たちの考えていることは、ただ大人の論理に従順な子どもたちをつくる教育のための鋳型だけを考えているようにしか見えなかった。そこにも、(子どもたちの)主体性というものは、つめのあかほども考えられてはいないのだ。

 私は別に、ここで、子どもの論理を抽出して、言わばそれに迎合すればよい、などと言っているのではない。そうではなく、子どもたちでさえ(あるいは子どもたちだからこそかもしれない)主体的に生活をしている、そのことを知るべきだと言っているのである。この点については、最近車を走らせながらきいた、灰谷健次郎の語っていた言葉(正確ではないかも知れない)が印象に残っている。「私は教師であったとき、決して子どもに迎合しなかった。大人の論理をぶつけていった。しかしそれは、子どもの論理をないがしろにすることではなかった。」

 

 だから、私がこの七戸町の小学校の設計に際し考えたことを、いままとめれば(というのはそんなに理路整然と、その当時まとまっていたわけではなかったから)この町の子どもたちが、教育制度という他動的なわく組に括られつつも、そこで子どもたちが主体的に生活し、言ってみれば子どもたちの社会が展開する、歳を重ね成長してゆく、そういう彼らの「体験の内容と成り得る」場所として耐え得る場所を用意すること、こういうことになるだろう。そしていわゆる「教育」は、言ってみれば、その一郭で行なわれる。そしてこれは、当然のことながら、先に説明してきた私たちと場所との関係についての話に収束する。

 

 そして、七戸町立城南小学校は建った。そしてそれが、学校建築の専門家のなかで物議をかもしたのをうすうす知っていた。それが、少なくとも一見したところ、昔ながらの学校はもとより、当時学校建築の専門家によって推拳されていた模範的学校に比べて、どう見ても風変りであったから、専門家の間にさえ、その評価・位置づけをめぐって、少なからず途惑いが見られたのも、それは当然だったかもしれない。もちろん私には、風変りにすることが目標としてあったわけではない。

 私はこの学校の設計にからんで、かなり当時の私の立場にしては過激な表現で文章をものし、建築の研究や専門家のやっていることに対し批判を重ねていたから、そういうことへの言わば感情的反発も微妙に混じったかたちで物議をかもしたのである。私が一番気にくわなかったのは(いまでもそうなのだが)こういう研究者、専門家を自称する人たちが、決して根源にさかのぼろうとはせずに(問題の本質が何であったかと自ら問うことを忘れ)ただいたずらに、一次グラフ的に進む、進めると思っていることだった。そういうのが研究者だというならば、私は潔く研究者であること、そうなること、そう呼ばれること、それを拒否しよう、そう思ったし、いまもそう思っている(だから私は建築学会の会員ではない)。

 そして、いろいろな声やコメントが、直にではなく人や文章を介して私の目や耳に入ってきた。しかし、私にとってそれらはみなとんちんかんなことを言ってるようにしか見えなかった。

  そうは言っても、そういう声やコメントを知っているわけだから、私が彼らの評判を全く気にしていなかったと言ったら、それはうそになる。けれどもつまるところ、彼らは一介の見学者であり観察者にすぎず視線がただその表面をなでてゆくだけだ。建物の評価は、専門家の感想にあるのではない。ほんとの評価は、その建物を体験してゆく人々にとって、それがどうであるかそこにこそあるはずで、私にとってはそのことの方が気がかりであった。この学校がそこで育ってゆく子どもたちにとって、ほんとに「体験の内容」と成るだろうか、なじめるものになっているか、それとも所在ない場所でしかないのか、それが気がかりだった。

 しかし、それを直ちに確かめる術がない。唯一の方法は、それが定着してゆくか、そうでないか、それを十年、二十年と見続けることしかないだろう、そうするなかで見えてくるだろう。私は落成式の日、それはー段落してなんとなく気がぬけてゆくような感じになる日なのだが、これからが正念場、私が試される、びくびくせずに、しょっちゅう見に来よう、帰ってこよう、そう思ったのである。

 

 この設計は、私が責任をまかされた、そういう意味で、私の初めての設計であった。この「初めて」という状況は、こういうある種の判断をともなうことの場合、極めて気のはりつめた一種の極限状況のようなものらしい。できあがった建物をあとになって見てみると、解決のしかたの下手さだとか、技術的対応のまずさだとか、そういった点が確かに目につくのだが、考えられる限り考えてあるという点では、その後の設計より数等ましだと思えるような感じさえ受ける。そういった「初めて」という状況が、問題の所在を明らかにして見せてくれるのだ(というと他動的にきこえてしまうけれども、そうではない。考えてる方が、言わばあとがないというような気分でいるから、かえって問題がその軽重をきれいに整理されたかたちで見えてくるのである)。実際、考えられるだけ考えた、まちがったことは考えなかった、手ぬきはなかった、そういう充実感というものがあって、できあがったものの下手さ、まずさにも拘らずやったことに悔いがないから不思議である。

 むしろ、その後の設計の場合、確かに技術的な対応だとか解決の要領のよさだとかいう点では多少うまくなったとは思うが、どうしても目がそちらの方へ向いてしまって、問題の本質的な確認という点では、それをさぼる傾向があったのではないかと、いまふりかえってみると、思えてくる。

 

 たとえば、先の「かくれんぼのできない学校」とは何か。ここには、その考えかたにおいて何か欠落があったのだ。何かをさぼったのだ。私は「かくれんぼ」という遊びをさんざん考えた。つまるところ、「かくれんぼ」とは、人の意表をつく遊びだと言ってよい。普通なら居そうなところに居ない。隠れる。それを、探す方も考え、探す。つまり、日常の裏返しを楽しんでいるわけだ。一番うまい隠れかたは、私の言いかたで言えば、「私の地図」外のところ、あるいは探し手側の「彼の地図」外のところに隠れることだ。「私の地図」外のところというのは、そこへ行くこと自体言ってみれば冒険であるから、そういうところに隠れていると、見つからぬようにと思う心と同時に、あるいはそれ以上に、なんとなく尻の落ちつかないその場所の不安さに圧倒されて、心臓がどきどきする。おそらくこういう後ろのお化けを気にしながら隠れていたというような体験は、みながもっているはずである。実は、そういう体験の積み重ねで(なにもかくれんぼだけでなく)「私の地図」は拡大していったのである。

 「かくれんぼ」のできた学校、そこでは「私の地図」がいつも一枚しかないというのではなく、初めは狭い「私の地図」が、段々と拡大してゆき、ときには卒業するときになってもついに「私の地図」に載らないところが残ってしまった、そういう学校だと言ってよいだろう。「私の地図」が徐々に徐々に大きくなってゆくような、そういうつくりになっていたというわけだ。

 これに対し、「かくれんぼのできない学校」では、「私の地図」の段階的発達がない、その初めから、たちまち全体が即「私の地図」に描かれてしまうのである。次の段階の「私の地図」は、すぐさま学校外へとびだしてしまうのだ。確かにこの学校は分りやすいのだが、体験に成長がないのである。

 あえて言えば、この設計において私は、体験としての分り易さを追求はしたものの、体験の内容についての本質的な確認を、もうあたかも済ましてしまったかのように勝手に独り思いこみ、忘れてしまっていたのではないか。

 七戸の場合、そこではかくれんぼができる。そこでは私はちゃんと、本質的な問題の確認をやってある。自分で言うのも妙なものだが、いまとかく忘れてしまいそうなことが、ちゃんと考えられている。

 

 いま考えてみると、この学校はそれが私にとっての初めての設計であって、それが「初めて」であるが故に、私がその後考えてきた建築についての考えかたの大わく、骨組み:私にとっての問題の所在を、自ずと、垣間見せてくれたのだと思う。建築について私が考えてゆかなければならない問題が提起され(というより私に見えてきて)それに対してそのときの私なりに解答をだした、そのよし悪しはともかく、問題を考えられる限り考えた、おそらくそれが充実感とある種のさわやかさを私に味わせてくれたのだと思われる。言ってみれば、この設計は、いまの私の原点のようなものなのかもしれない。私はずっとそれを引きずってきた、あるいはそのとき浮んだ考え方の骨組み確認し、問題により深く答えることを目標にして過ごしてきたのではなかろうか。そして、だから、ときおりこの原点自体に不安をもつことがあったのだ。しかし結局、その骨組みを根本的に変えるような事態にはぶつからなかった。

 

 その後私は、いくつかのいろんな種類の設計をやってきた。その際私は、どの場合でも、いまここに書いてきたような考えかた(「体験の内容と成り得る」場所たり得ること)に基づいて、あるいは基づこうとする態度で、やってきたつもりではある。

 けれどもときおり、怠惰になり、ことの本質を忘れ、惰性でことをすすめてきたきらいがある。いまでも多分ときおりそうやっているだろう。そして、いい気になっているとはっとするようなことにぶつかる。分っていたつもりのこと、あるいは考えたつもりのことが、実は少しも分っていなかった、考えられてもいなかった、問題のまま放ってあった。そういうことに気づかされる破目になる。先の「かくれんばのできない学校」の例もそうだし、この通信の一号で書いた「自然発生的集落」についての質問もそうだった。考えられる限り考えた上なら未だ救われるが、そうでないとき、それは救い難い。自分の考えは何だったのか、何を考えてきたのか、ほんとに考えてきたのか、そう思うと情けなくなるときがある。そういうとき、私は無性に七戸へ戻りたくなる、行きたくなるようだ。何を考えていたのか、考えようとしていたのか、あの「初めて」のとき以上に深く考えられるようになっているのか、「初めて」のとき以上に充実感を覚えて考えたことがあるのか、要するに自分を見つめに、簡単に言えば、頭を冷やしに行きたくなる。どうもそのようだ。

 私はほぼ五年に一度、七戸を訪れている。それは、落成式の日に思ったこと、建物がどうなってゆくか見続けることの実行ではあった。しかし、むしろそれは、このことの裏返しとして、実は私は、私自身を見に行っていたのではないか、ふとそんな気がしてきてならない。七戸を訪ねよう、そう思いたつのに先だって、必らずふりだしに戻って考えなおしてみたい。みなければならないと思う何かが私の内にあったのではなかろうか(四年前のときは、「かくれんぼ」の一件のあとだ)。

 

 今年、私はやはり、無性に七戸に行きたくなっていた。どうしても夏までには行くぞ、そう春さきから思っていた。思いあたるふしがある。このところ、私はまた惰性で生きている。本質を見ようと(観念的に思っても)していない。そう指摘する人もいた。何やってんだ。自分が腹立たしかった。(そしてその一つの反省が「通信」になった)。

 予定は次々とくずれ、残すは八月末だけ九月になると忙しくなる、そんなことを考えているとき、七戸町のT氏から連絡が入った。もうじき20年になる。傷んできた。全面改築という話もあるがそうはしたくない。補修でゆきたい。相談したい。そういう電話であった。

 T氏は、この小学校の、言わばプロデュースを担当した、当時町の教育委員会事務局にいた人で、次回書くつもりだが、この20年近く、七戸町のいわゆる町づくりに、文字どおり身を挺してきた人の一人である。 渡りに舟とはこのこと、八月末、七戸帰りは実現した。

 

 故郷というものは見捨てたくなるものだそうである。そして、しかし、所詮見捨てることが、いかんともし難くできないものだそうである。私にとって七戸は、そしてそこでやった「初めて」の設計は、これもいかんともしがたく、いま私は何をしているか、それを量る物指しのO点になってしまっている。これから先もまた、何度も帰ってみることになるのではなかろうか。しかし、このことに気がついたのは、極く最近のことである。「初心不可忘」と言った先達のその言葉の意味が、いま、やっとなんとなく分りかけてきたように思う。

 

 18年後、学校はどうであったか、そしてそもそも、当時東京にいた私がなぜはるか離れた青森の七戸町へ出かけるようになったのか、その話が残ってしまった。特に後者はつまるところ、なぜ七戸町にあの風変りな学校が建つことが許されたか、あり得たか、という話であり、それは、その町の町づくりにかける情熱と、それを支える考えかたが何であったかという話に他ならない。「地方の時代」などと言われだす20年も前から、ここにしたたかな「地方」が在った、そのように私は思う。

 次回はそれについて書こうと思う。

 

あとがき   〇毎号私は、現状に対して批判的なことばを並べてきた。しかしその説明を詳しくせず、しても半ば抽象的であった。いつか具体的に説明する必要があると思っていたし、それを求める意見もきこえてきた。   〇七戸から戻ってきて、七戸の町の話でそれを試みてみようと思った。いままでの話の補足になれば幸いである。    〇ことの性質上、私がどう思ったかという言わば私的体験を語らねばならず、読む方もあまり気分のよいことではないのだが、しかしことの本質を理解しあう為には、ある状況を共有することから始めざるを得ず、止むを得ずそういう形になった。    〇しかし、このある状況を共有するということぐらい難しいことはないようだ。

〇たとえば、一つの言葉に人が思いをこめた、そのこめた思いというものを分る、分ろうとする、人が少なくなってきているのではないか。これは最近、私の同僚としょっちゅう問題にしていることだ。詩が、短歌が、そして俳句が分らなくなる時が真近かに迫っている。たとえば俳句を文字どおりに英訳したらなにがなんだかわけが分らなくなるのは目に見えているが、ところが、それ的理解、それ的解釈しかできない、つまり情景が想定できない人たちが確実に増えている。従ってそれを共有できない。というよりそれ以前である。ある精神科医が、精神科医は詩が分らなければその資格がないと書いているのを読んだが、それは建築家(ひろく私たちの住む揚所づくりに関わりをもつ人)に置き換えてもそのとおりだと思う。そして、言葉においてこういう状況であるならば「もの」に対しては推して知るべしである。

〇なぜ「かくれんぼができない」のか。その説明は、実はこの数年私の宿題であった。いまこの文を書いていて、自ずとその宿題が解けたように思っている。収穫であった。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。   

      1818年.10.1                       下山 眞司

 


「筑波通信№6 前半」 1981年9月

2019-02-15 09:26:03 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №6」1981年9月 A4版12頁 

 

  「筑波通信 №6」  1981年9月

     「8月15日」によせて‥‥‥「お国のため」は「公共のため」?

 いまから36年前の8月15日、私は小学校の3年生であった。正確に言えば「国民学校」3年生である(私の入学の年だったかに改名されたのだ。卒業のときは、再び小学校の名称になっていた)。

 そのとき私は、山梨県の竜王という町にいた。もともとは東京の(その当時の)西のはずれに住んでいたのだが、その町へ、いわゆる「疎開」をしていたのである。

 なぜ「避難」というような言葉でなく「疎開」を使ったのか、興味深い。

 普通「学童疎開」あるいは「集団疎開」の名称が有名であるが、「疎開」という言葉のもともとの意味を知るには「強制疎開」という言葉があったということを思いだすだけでよかろう。空襲などの被害を軽減するため、住人を追いだして家々を強制的にとり壊し空地をつくるのである。もうもうと土煙りが上り建物がこわされてゆく光景を審りながら見ていたのを不思議と覚えている。後になって考えてみると、そこは軍需工場のそばだったのだ。何の被害を軽減しようとしたか、言うまでもあるまい。「学童疎開」もまた、先きゆきの兵員確保のためであったことは、敵の攻撃による兵の損傷の軽減のため隊と隊の間をあけることを「疎開」というらしいから、自ずと明らかだろう。つまり、あたりまえと言ってしまえばそれまでだが、あくまでも学童のためでなく、「国」のため、軍事のため、軍事の都合上の方策を示す軍事用語であったわけだ。こういったもとの意味が忘れられ、ただ「そかい」という「ことば」になってしまうのは、たとえ言葉は風化すのが常だとしても、この場合のそれは、非常に怖いことだと思う。

  その疎開していた竜王という町は、甲府盆地北辺の西のはずれ、新宿を出た中央線が甲府盆地を離れ再び信州へと向い登りだす、丁度そのふもと、富士川上流の釜無川(かまなしがわ)の左岸にある小さな町である。まわりに田んぼがひろがり、北あがりの丘には桑畑、麦畑、そしてところどころにすももの畑があったように思う。そこを横切って蒸気機関車がほえるような汽笛の音をこだまさせて列車をひっぱってゆく光景は、絵になったし、そして夜などはなんとなくもの寂しい気分になったものであった。盆地のへりに位置しているからだろう、冬は雪はめったに降らなかったけれど冷えこみは厳しく、そして夏はかなりの暑さになった。(地図参照)

 その8月15日は、かんかん照りであった。地面は乾ききって、歩くとほかほかと白茶けた土煙りがたつほどであった。私は外にいた。何をしていたのか、それは記憶にない。乾いた土の色だけが昨日のことのように目に浮ぶ。昨年の夏トンコウの街なかを歩いていたとき、ほんとに珍らしいことなのだそうだが、雨がぱらぱらと数滴落ち黄土色の地面にありぢごくの巣のような跡だけ残して消えていった、それを見ていて、どういうわけかふとこの日のことを思いだした。そういえばあの時、空は見事に晴れていた。トンコウの乾ききった空の色や、あたりの土っぽい景色、おそらくそういった光景全体の感じが、日ごろ忘れていた幼き日の一瞬の情景の記憶をゆり起こしたのだと思う。やはりそれなりに、印象として強く残っているのだ。

  そんな日の昼下り、戦争は終った。しかし未だ私には、何の感懐もわかなかったように思う。私の1・2年生のときというのは、後にも書くようにただあわただしいだけで、「お国のため」の戦争が何であるかなどという以前の毎日であったように思う。その後3年の2学期まで竜王で過ごしたのだと思うが、学校で何を数わったのか、まるっきり覚えていない。単に忘れたのかごたごたしていて何もなかったのか、それさえもおぼつかない。

  実際、私の小学校生活前半の思い出というのは、ただもうあわただしいの一語に尽きる。1・2年生のころ(東京にいたわけだが)といえば、登校するとすぐ警戒警報そして追いかけるように空襲警報、サイレンにせかれるようにして、防空頭巾を被って必死になって逃げ帰った。そんなことしか浮かんでこない。みじめなものだ。だから唯一楽しい思い出というのは、疎開先の竜王の野山や小川で遊んだことぐらいである。

 3年の3学期、再びもとの東京の学校へもどった。いまから考えてみれば、教育はめちゃくちゃであった。教科の不当な箇所に墨をぬった。おそらく私たちが教科書に墨をぬった最後の世代ではなかろうか。次の代からは新しい教科書に全部変ったのだと思う。それ以後もずっと、私たちは常に、各種の新しい制度が定着する寸前の不安定の時期を通過してゆく破目になる。旧を新に改めるに伴う混乱の状況を、幸か不幸か味わうのだ。3年から4年にかけて、授業はしょっちゅう休みで、自習と称して、教室のなかでただわさわさするだけの、随分とすさんだ毎日であったような気がする。これまた、みじめである。

 そんななかで、5年と6年の担任となったN先生のことは忘れ難い。もしこの先生に巡り会わなかったら、私の小学校時代は、みじめなまま終ってしまったに違いない。そのときN先生は確か23・4歳、特攻の生き残りだときいた覚えがある。

 この先生が、私(たち)に、ほんとうの「民主主義」を教えてくれたのだと、いまでも私は思っている。色々な個牲や特能をもった私たちそれぞれが、それぞれなりにそれを発揮し、ときにはけんかや口論をしながら、それでもクラス全体の合意のもとで生活をしてゆく、そんななかで、ものごとの判断だとか、人への思いやりだとかを、観念的、標語的でなく、身をもって体得していったような気がする(それがいま、花咲き実をつけたかとなると、多少後ろめたい気もするが)。例えばこういうことがあった。当時お互いにみな貧しかった。6年の修学旅行は箱根行と決って、費用の積立てをはじめた。しかし、散人ほど、それも無理だから参加しないというものがでてきた。そうこうするうち、誰いうとなく、全員で行けるようにするため費用かせぎの内職(いま風に言えばアルバイト)をしようということになり、放課後、行くのを渋った人も舎め(もちろん先生も)、クラス全員でそれをやってのけ(百円ライターより少し大き目の停電用石油ランプづくりだったと思う)全員無事旅行に行ったのであった。私たちには、行けない人のためにやっているという気はなかったように思う。だから、行けないと言った人の名を覚えていない。覚えているのは、とにかく全員参加できたということだけ。幸せな時代であった。よき時代であった。数年前、30年ぶりかにクラスの三分の一ほどが集ったとき、なかの一人が言いだすまで、ほとんどみんなこのことをすっかり忘れていて、そういえば、という話になったものである。いまの学校では、色々な意味で、全くあり得ないことだらけであった。そしてみな一様に、自分たちの子どもの通っている「いまの学校」を、大けさにいえば嘆き悲しんだ。その日私たちは昔のように合唱をして別れたのであった(昔、音楽の時間、晴れていれば決まって外に出て、その辺の田んぼや小高い丘に日かげや日だまりを求めて・・・・その当時、東京にも田も林も丘もあったのだ・・・・思いきり歌うのを常とした。この私さえも。)

  時代の混乱していたときのこの2年間、これは、いま考えてみると、子どもの心に決定的な影響を与えたように思えてならない。観念的でなく身をもって、人が生きてゆく、集団で生きてゆく、そのゆきかたの基礎を、この先生は私たちに数えてくれたのだ。おそらくそれは、先生の戦時中の体験がそうさせたのだと、いま私は思っている。教師は子どもと触れあえる現場こそが大事だから、といって管理職試験の受験をすすめられるのを断っているのだと、その久かたぶりに会ったとき語っていた。

 それから30余年、旧から新への混乱のなかで大人になった私たちが自ら身につけたものから見れば、明らかに「民主主義」は風化してしまったように見える。いや、私たちに言わせれば、新しい制度が定着しだす私たちの数年後からして既に風化は始まっているように見える。いま「私たち」と書いたのは、そういう混乱の時期に少年時代を過ごした世代の「私たち」だ。そう思うのは、私たちの思いあがりか、それとも私たちがもう旧くなったせいなのだろうか。

 私は、そして私たちは、そうは思わない。私たちには、できあがった形式に流されるとか、もっともらしい言説をそのままうのみにするとか、そうすれば気楽でよいと思うのに、どうしてもそうはできないという悪い癖がある。そういう時代に育ってしまったせいか、結果は結果として、むしろ過程を大事にし、またなにごとによらず、自ら納得するまで確かめないではいられないという習性がついてしまっている。決してそれは人の言うことを信用しないというのではない。むしろ人の意見はよくきく方である。ただ、その過程・途中をも納得できない限り(これがあたりまえだと思うのだが)いかに偉い人の言であろうが納得しないだけである。そしてまた、私(たち)は、個人を大事にする。集団で行動するときでも、個人をないがしろにした集団の論理は信じない。あくまでも個々人の了解があって集団が成りたつ、こう考えるがある。形式的あるいは手続きのためにだけの民主主義?は好きではない(先号に書いたしたたな人たちも大体そうだ)。

      

 数年前、30数年ぶりに、竜王の町へ行ってみた。先に掲げた地図は最近の二万五千分の一地形図である。この地図の左上から右下へ斜めに走っている通称甲府バイパスは比較的よく通るのだが、ついぞ町へは寄らなかったのである。実は、この地形図はこの文を書くにあたって初めて見るのである。そのときも全く地図なしで、昔の記憶に頼ればよいと思い、竜王市街を指示する標識に従ってバイパスを下りたのである。しかし下りた辺は全く見慣れない風景である。止むを得ず、川にぶつかるはずだと思い西へ向う。そして、あっという間に信玄橋へ出てしまった。私の昔いたところはその手前だ。こんどはゆっくりともどった。そして、やっとなんとなく見覚えのある街かどに出る。郵便局もあった。だんだん見覚えあるものが増えてくる。というより、私の頭のなかから、目の前に移り変る光景とともに「昔」が発掘されるという感じである。街すじの家々も、私のいたころから大分たっているから改築されたりして変っているにちがいない。なんとなく見覚えがあるというのは、だから個々のものの覚えでなく、いわばその「雰囲気」なのではあるまいか。次いで私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが、どこだか分らず、やっぱり道を忘れてしまったのだと思い、あきらめて町を出た。

 町は思いのほか小さかった。いくら車で走ったからといって、あっという間に通り過ぎてしまう。それほど小さい。私の記憶ではかなりのものだった。しかし考えてみれば、あたりまえなのかも知れない。子どもの世界は、小さくても広いのだ

 またあらためて気づいたのだが、まわりに見える山が意外に大きい。それはそうで西に見えるのは南アルプスの山塊だし、北にあるの茅ヶ岳である。しかし当時、確かに山はあったけれども、はるか向うにあったような気がする。もちろんそういう山の名はあとになって知ったのだ。八ヶ岳の名は、それはそこからは見えず、甲州往還をもう少し信州よりへ進んでから見えはじめるのだが、それにも拘らず、八ヶ岳おろしの名でそれを知っていた。冬、峡谷沿いに寒風が吹き下りてくるのだ。

 その当時の私のものの知りかたは、全く先号で書いた番頭のそれに似ていた。私がよく知っていたのは、桑畑のひろがり(その名を思い出せないのだが、桑の実を食べにゆくのだ。うまかった。中央線の向う側には人がめったに行かないからたくさんあるとか、色々詳しかった)、用水沿いの足場の悪い学校への近道、竜王の駅へ行く微妙な近道、駅うらに野積みされている防弾ガラスの山(こするといいにおいがする子どもの宝物)、街すじをはるか南に歩いて行くと林の中に飛行機が隠してあること、そして一見道に見えるが紛れもなく隠し滑走路らしいものがあること(あまり広い道なので驚いた)、などなど専ら遊びがらみのことどもだ。いま考えてみれば、私のなかに、一枚の地図ができあがっていたのである。

 けれども、その地図には、信玄橋の向う岸だとか、街すじを北に上った線路を越えた上の方だとかは描かれてない。橋の向うなど、確かに行ったことはあるのだが、いつも橋の途中から気持が後へ向いてしまって、渡りきるとまた早々に逃げるが如く引返したものだ。それほど長く、どこかとんでもないところに行ってしまうような気がしたのだろう。北のはずれもそうだった。だから私の地図にはのってこない。

 いまこの機会に、あらためて本物の地図をながめてみて、意外と私の地図をそれにあてがうことができて楽しかった。そしてあれはこういうことだったのか、などという発見もあった。いま私たちは、なにかというとすぐ本物の地図を見ることから始めてしまうけれど、ほんとにそれでよいのだろうかと、ふと思いたくなる。本物を見てもよい。要は、その見かた、なにを見るかである。「私(たち)の地図」を本物にあてがうことは、30年も昔の、しかも子どものころのものでさえできるのだから、それは多分易しいことだ。しかし、本物の地図の上に「私(たち)の地図」を見ること、それができるか。けれどもそれをこそ見なければならぬのではなかろうか。その気がないと、その本物の地図に記されていること、道一本にしてさえ、そのほんとの意味が分らないのではないかと思う。本物の地図に記されていることは、いかにも現状の地表の表情:地形図ではある。しかしその大半は人々のやってきたこと:人間の営為の記録に他ならない。そしてその記録の大半以上がまだ本物の地図のなかった時代:あるとすれば「私の地図」しかない時代:のそれだということに気づいてよいと思う、いや気づくべきだ。つまり、地図に記されていることの大半は、本物の地図のなかった時代に生きた人々の、もろにその生きてゆかねばならなかった大地と格闘したそのあとなのだ。後に続く人々はみな、そのいわば上ずみをすくいとって生きてきた。そしてそのことを、ちゃんとわきまえていた。近代になって、それを全くわきまえなくなってしまったのである。いま、本物の地図の上にそれらを見る気のある人たちが(特に町づくりや建物づくりに係わりを持つ人々のなかに)どれだけいてくれるだろうか、考えると悲しくなる。

 先に私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが分らなかったと書いたけれど、分らなくて当然であった。本物の地図を見て判ったのだが、どうやら私の探し求めていた当の田や丘の辺を例のバイパスが通っているらしい。我が懐しの遊び場はドライブインやガソリンスタンドに占められ、その上を私白身しょっちゅう通過していたというわけなのだ。

 懐しの町は、だから、万里の長城のようなバイパスと大河のような車の流れによって、ものの見事に南北に分断されている。いまや一つの町ではない。向う岸である。いったい、こういう道路というのはどう考えたらよいのだろうか。

 先の私の竜王での幼き日の思い出をよく見なおしてみると、意外に「道すがら」の記憶だとか、道にからんだ話が多い。しかし、よく考えてみればあたりまえ、道というのは、私たちの子どものころ、そういう場所だったのだ。

 町のなかの道は、単に家々をつなぐ交通のため以上に、人々の交流の揚所だったし、実際道のつくりも家々の表情も、それに相応しいものだった。町と町をつなぐ道だって、私たちが必要あって歩くところだった。通学の途中いつも、我がもの顔に所狭しとばかりねり歩いたものだった。筑波には、いまでも少し奥に入ると、そういう昔ながらのところがあるし、時おり赴く山村などで、道ばたを清流が流れ、おかみさんが洗いものをし、わきで子どもが遊んでいたりするのをみて、そういえば竜王の家の前にも、もうほとんど使ってなかったように思うが、きれいな水が流れていたなどと思いだしながら、悲しいのは習性で、いつの間にか私は道の端を歩いている。車なんて通りもしないのに。

 いま私たちの大半は、こういう道のあったこと、道というのがこういうものであったことを、すっかり忘れてしまった。そして、道とは単に交通の場所だと思って別段不思議に思わない。そういう昔的な道というとすぐに、歩行者専用道路の発想になっでしまう。そこにあるのは、人が安全に通行できる、という視点のみだ。このごろは気分よく快適に人が歩けるためにと称してそれがデザインであると称して、わざと気分を変えるために(と思いこんで)色々と曲りくねらしてみたり、石を置いたり、舗装の色を変えてみたり、そういうことが流行している。残念ながら、それは、そうすることが、道の本質を考えたことなのでは決してない。むしろ、昔の道の方が、たとえ砂利道であろうが、数等秀れていたように私は思う。生活が快適だということは、単に視覚的に楽しいなどということではない。こんなことは、ことあらためていうまでもなくあたりまえだ。しかるに、人の住む場所という場所を、指折り数えあげて機能に分解した結果、道もまたこういうふざけた理解!になってしまったのだ。

 昔の町なかの道は町を一つにまとめる役割をはたしていた。よくいう向う三軒両隣り、それは道を介してのはなしであるし、なんとか小路という類の地番表示も、その道を介してのはなしであった。道によるまとまりがあったのだ。いま、町なかの道は町を分けるものになった。向うは向う岸、あるのは両隣りだけ。それは、いまの住居表示のつけかたに端的に示されている。

 もちろん、こうなった最大の原因の一つは、(道の本質が分らなくなったことに加えて)車の増加である。昔からの甲州街道は、甲府の目扱きを通っていた。というのは正しくない。甲州街道の通っていたところが目抜きになったのだ。街道という街道みなどこでもそうだった。それは必らず町々を通過してゆき、その町に用のない人々も必らずその町を通らねばならなかったし、また別にそれを不都合だとも思わなかった。むしろそのことに、町の人も通りすがりの人も、ともにある種の意義や楽しみを認めていたのではなかろうか。街道もまた、とにかく町と一体のものとしてあったのだ。

 こういう道に車が入ってきたときに、しかも大量に入ってきたときに話が一変する。

 車の流れ、その渋滞。町は道により細かくこまぎれに分断される。そして車の側からみれば、別に用のない町なかで、かといって気晴らしに車を離れてぶらぶらするわけにもゆかず、またそうするには駐車場所を探さねばならず、止むを得ず車にこもっていらいらしながら渋滞に耐えるしかない。その意味で、それは全く無用な「途中」である。自動車という乗物は、だから、出発点と目的(到着)点とにだけ係わる乗物だといってよいかもしれない。よその土地を通過するというより、(たまたまよその土地を通過している)道路の上を通過するにすぎない。(これに対して、先にも書いたが、歩いての移動はもとより、鉄道やバスによる移動は、本人の意志に拘らず、必らず他人との係わりをもつ。よその土地を通過するだけでなく、よその人とも触れあわざるを得ない。そういう「途中」をもたなければ、先に進まない。)

 そういうわけで、町のなかから町にとって不要な車を追いだすこと、車にとって無用なところで滞らないこと、これを一石二鳥的に解決しようとする策:バイパスという発想が生まれてくる。道路は交通の揚所だと考えるときの当然の発想だといってよいだろう。

 バイパスはその目的から、市街地(家のたてこんだ所)を離れた場所に建設されるのが常だ。甲府バイパスの場合、先に掲げた地図の元図を拡げてもらえば一目で分るけれど、東の端から西の端まで、甲府市街地を南回りで大きく迂回している。おそらく、バイパスの当初の目的はいまのところ達しているものと思う。実際、車の立場でいえば、片道二車線になったいま、通り過ぎるにはまことに快適で、逆に甲府市内に行くにはどうしたらよいか迷うくらいである。気をつけていないと通り過ぎる。

 これで一応、問題は解決されたようにみえる。しかしよく考えてみると、それは甲府市内の問題を解決したにすぎないのではなかろうか。なぜなら、このバイパスはとりたてて竜王にとって必要ではない。もともと大きな街道が通っているわけでもないから、車の量もさほど多くなく、別に問題があったわけでもない。そこへ、いわば突如として、万里の長城のような道路と車の大河が出現したのである。町はほぼ完全に二分されたのである。なんのことはない、市街地で不要と考えられたものが、もともと車とは縁の薄かった隣りの小さな町や村に肩替りされたのだ。けれどもそれが、迷惑の肩替わりなのであるとか、町や村を二分するものなのだ、というようなことは、それほど深く考えられたことはないだろう。そういうバイパスは、人家のない田畑・山林などをねらってつくられる。町うちを通過しているわけではない。むしろ空地を通っている、そういう意識の方が強いだろう。

 これは、都会的な感覚からいえば、むしろ当然かもしれない。代替地を用意、あるいは地価(市街地より安い。買う側にとって好都合だ)に応じて買収する、つまり代価を払えばよいと考える。これも考えてみれば都会的感覚だ。けれども、ちょっと考えてみれば直ちに分ることなのだが、田畑や山林は単なる空地ではない。それに依存して暮している町や村に住む人たちにとって、それは自分たちの住んでいる町うちと一体のものとしてあるし、またそういう土地が、何もしないで産物を生みだすわけでもない。土地の二分は生活の分断に等しく、買収はそういう生活をやめろということに等しいし、代替地は初めからやりなおせということに等しい。田畑は決してその初めからから田畑であったわけでない、という単純な事実さえもが忘れられているのである。そこに依拠した生活があるということが忘れられている。そこにあるのは、「土地」ではなく単なる「地面」の視点のみだ。

  こういう計画を考えるとき、せめて、都会的生活形態を唯一絶対とするのではなくそれぞれの村や町にはそれぞれなりの固有の生活の形がある、そのそれぞれの村や町の生活の構造を具体的に、彼等の立場にたつべく、謙虚に知ることから始められないものだろうか。(ほんとは都会のなかでも同じなのだ。村や町に都会的生活がぶつかるときに、問題が顕在化してあらわれてくるにすぎない。)

 それが、先に書いた、本物の地図に「私の地図」を見る、ということなのだ。

 先日のこと、東京・中野の人たちに呼ばれて、区の児童館計画について意見を求められた。見ると、ある空地があり、そこが建設予定地となって、その他の既存の児童館をプロットした地図に、館を中心に半径500メートルの円が書かれている。利用圏なのだそうである。私は、弱ったな、と思った。これは施設の利用圏域なるものをテーマに研究する人たちの常とう手段の応用なのだ。非常に巨視的に見るならば、つまりこれこれの人口の町に、館をいくつぐらい必要とするか、そういったあたりをつけるには、まあよいかもしれない。けれどもこれをいきなり、現実の生活レベルにまで応用されたのではたまったものではない。むしろ、ふざけるんじゃないよ、とさえ言いたくなる。敷地のまわりには当然道が通じているだろう。そしてそれは決して均質ではなく、広い、狭い、人通りが多い、少ない、通学路かどうか、まわりになにがあるか‥‥それぞれ性格があるだろう。子どもたちはそういう道を通ってくるに決っている。そういったことを実際に見るならば仮に館が建ったとき、どのあたりの子どもたちの「私の地図」にその館が組みこまれ得るか、およその見当がつこうというものである。集まるだろう子どもたちの想定さえも確かめもしないで(この碓かめは、自らの目を信ずるしかない)研究者の研究成果:客観的(と称する)データを(徒らに)信じて500メートルの円を書いて、十分に考えたとする、これはもう、なんと言ったらよいのだろうか。おそらくこの計画立案者は、敷地に行ったし、まわりも歩いただろう。しかし、何も見なかったにちがいない。いや見えなかったにちがいない。これは、児童館のなかみ以前の話であるし、またこうである以上当然なかみも推して知るべしであろう。

  先ほど来私は、都会的感覚だとか都会的生活、都会的発想という言いかたをしてきた。それはほぼ、近代的合理主義的な、という意味と同義だとみてもらってよいと思う。そういうものの見かたでは、本物の地図は、本物の地図としか見えず、というより本物の地図としてしか見ず、「私の地図」などという「主観的」なものの見かたは頭から否定されるのがおちである。

 実際、私の受けた建築の教育でも、半径500メートル的知識は多分に教えられはしたけれども、「私の地図」を私たちが持っているということ、それによって生活しているということ(現在も、そして大人も子どもも)、そういうことは、ついぞききもしなかった。「個人」の「主観」は省かれていた。

 かくして、極めてスムーズに流れる道路の狭間に、村や町の人たちが不便を強いられ生活し、子どもの地図に描かれもしないかもしれないような子どものための建物がつくられる。これがまさに現実の客観的事実なのだ。そして、私自身、こんなことを書きながら、甲府バイパスをかけぬけ、その利便を満喫(?)しているではないか!

 もし仮に、ある町・村の田畑を横切ってバイパスを通す計画がもちあがり、ところが土地の人たちが生活の分断をきらって異論をさしはさんだとしよう。それへの対応は先に書いたとおり大体決っている。代書地を用意する、分断された二つの地区をつなぐ代替道をつくる、買収費の他に生活補償金!を積む等々である。それでだめなとき、必らずでてくることばがある。あなたがた、反対するほんのわずかな人たち、その反対のために、実に多くの人たちが不便を被るのだ、「公共の利益」を考えてほしいということばである。最近の例で、名古屋の新幹線騒音訴訟がよい例だ。速度をおとし騒音をさけるべきだというのに対し、判断は、この程度の騒音は「公共の」利便のために我慢すべきだというような趣旨だったように思う。これでは「利益」の享受者の数の多少が天びんにかけられるみたいである。少数意見は少数の異見にすぎず、ことによると多くの場合単なるエゴイズム扱いされる。しかし、ふとたちどまって考えてみると、むしろ多数の方がエゴイズムかもしれないのだ。第一、少数意見が少数なのは決りきった話だ。そこに住んでいるのはその人たちだけなのだから。極端に言えば、その人たち以外が「公共」だというのに等しくなってしまう。けれども、このような「公共」が、この「民主主義」の世のなかに横行しすぎるように思う。そうなると、その「民主主義」のなかみまで疑いたくなる。

 

 (次記事「筑波通信№6 後半,あとがき」に続く)

 (「1投稿の文字制限3万字」を越えるので、前半と後半に分けて掲載します。)


「筑波通信№6 後半, あとがき」 1981年9月 

2019-02-15 09:25:01 | 1981年度 「筑波通信」

(「筑波通信№6 前半より」続く)

 

 いったい。「公共」とは何なのか。

 「公共」施設、「公共」投資、「公共」の福祉、「公共」の利益・・・・微妙に意味が違うようだ。唯一共通していること、それは、ひびきがいいということだ。字づらからしてなにか「みんなのもの」というような甘いひびきがある。みんな、自分も「みんな」のうちに含まれているかのような幻想をもつ、そういうことばだ。

 しかし、この「みんな」のなかみを考えだすと、とたんにそれはあやふやになる。私に言わせれば、これは極めていいかげんで、それ故また極めて危険なことばである。それが甘いひびきをともなうが故に、なおさらそう思う。

  先日、行政マンと話をする機会があった。住民参加の行政、それが「公共」のためだと考えているという。ただ、多様の住民の意向のなかから「どうやって最大公約数を決めるか」それが問題なのだという。これは一見したところ、良心的なやりかたに見えるだろう。しかし、つまるところこの場合、「公共」とは人々の「最大公約数」だということだ。そこで単純に、「最大公約数」なのだから人々の共通の最低の意向がくまれている、などとよろこんではいけない。最大公約数ということばは、もののたとえにすぎず、人々の意向なるものは、「数」みたいに割り切って考えられはしないのだ。二人の意向を足して2で割ったら平均値になった、なんてことがあり得ないようにあり得ない。建築の世界で「公共建築」という言いかたがある。この意味は、「不特定多数」の人々が利用する建築:学校、病院、図書館‥‥つまり「公共」が利用する建築のことだ。「不特定多数」という言いかたは、個人対応の建築は特定の個人を対象とするが、「公共建築」の利用者は特定できない多数である、そういう見かたからでてくる言いかたである。つまり、この見かたでは、「公共」とは、特定できない大勢の人たちということになる。

 だから、公共建築の研究者たちは、大抵のっけから、その利用者を「群れ」として扱うことが多い。いろんな人がいて、つまり特定できないから、個々の人につきあえない、群れとしてしか見ることができないというわけだ。かくして、人々は「群」としてひとまとめに括られる。統計的に処理される。そこでは、「個人」は消去される。先の「最大公約数」の発想も、構造は基本的にこれと同じである。いずれにしろ、公共を考えるために、「個々人」は消去される。されねばならない。

 そしていま、仮に「公共」=不特定多数の「意向」が定まったとしよう。「公共の論理」が定まった。そうなると、いま大抵その「公共の論理」は(その成りたった過程を離れ)自立性を確立してしまう。簡単に言えば、「公共の論理」が「個人」を越え、「個人」を支配する、つまり「個人の論理」より上位のものとして機能するもののように、あたりまえのように、扱われてしまうということだ。なぜか。おそらくきっと、こういう答が返ってくるはずだ。公共、つまり不特定多数の人々とは、個人の集合であり、その集合から抽出したのが、この「公共の論理」である。故に、個人は公共に包含される、と。

 しかし、それはうそだ。論理のすりかえである。この「公共」理論では、「公共の論理」が「個人」より上位にたつというときになって初めて「個人」が顔を出すのが特徴だ。そのときまで、「個人」は消去され、不特定多数として扱われていたのではなかったか。

  「公共」という言葉が危険な言葉だと私が言うのはこのためなのだ。それが、「個人」を左右し支配するのに極めて有効に機能するのが、目に見えるようだからだ。先の新幹線の騒音問題の例のように、既にそのようになっている。「公共」が「個人」に優先するというのである。

 先きごろの教科書問題が世をにぎわしていたとき、批判派の人たちが、「公共の福祉」をもっと前面に押しだして書かれるべきだと言っているという新聞の見出しを読んで、一瞬とまどった。そんなはずはない彼らがそういうことを言うわけがない、福祉は金がかかりすぎると言っているのに、どうしてか。そうではないのである。記事を読んで納得した。原子力発電とか工業立地とか色々の「公共」投資に対して反対が多い(ためにことが運ばない)が、それは「公共」の利益つまりは「公共の福祉」に反することだ、この「公共の福祉」が(個人よりも先ず)大事であるということを、もっと前面に出して書<べきだ、というのであった。

  あるいは、事態はもうここまで来ていると言った方がよいのかもしれない。

  いま、ひょいと、この「公共」の文字のところを「国家」あるいは「お国」の文字に置き替えたとしよう。直ちに分ることだが、そのまま通用する。論理の構造は何も変ってないのである。36年前そのものだ。いずれの場合をとっても(つまり文字がどうあれ)、「個人」を支配する、あるいは、「個人」が自らを殺して従わねばならないより上位の概念・論理がある、という発想であることに何ら変りがない。

  怖いのは、いまのそれが、「公共」というなんとなく甘いひびきの言葉を使っていることだ。「公共」=「みんな」、この錯覚を巧みにあやつれば、なんでもできてしまう。

  「みんな」の利益になるのに、なぜあなたは反対するのか、ということは、あなたは「みんな」でない、「みんな」の一員でない、「みんな」の利益になることに賛成すれば、あなたも「みんな」になれる。この全くの逆転した(というかめちゃくちゃな)論理!に、大抵のあなたはびびってしまうのだ。なんのことはない、反対するのは、あるいは批判するのは「国賊」だ、というのと、いったいどこが変っていよう。「民主主義」というもの、敗戦を契機に獲得した「民主主義」というのは、こんなことだったのか。私には、とても信じられない。

  私の民主主義、私の自分で身につけたと思っている民主主義では、いかなる場合でも、「個人」は消えることはない。「個人」を認めないものは、私にとって民主主義ではない。だから、たとえば、「個人」の集まりを「不特定多数」で処理して済ますなどという考えは、それこそまさに、「個人」より上位の概念としての「公共」があるという考えをバックアップするようなものだ、いやことによると、もともとそういう考えだからこそ「不特定多数」がでてくるのだ、そのように私は思う。

  私には、「個人」のいない「公共」など全く思いも及ばないのである。いま、「公共」は、実体のないひびきだけよい「ことば」になってしまっている、むしろ、言うならば一種の「操作用用語」となってしまっているように、私には思える。

  このような「公共」「個人」の変な関係は、日本独特のものなのだろうと思う。いま、この「公共」と、それに対応すると思われるpublicについて、辞書は何と説明しているか、まるのまま転載すると次のようだ。

 

    

因みに「公」の字のもともとの意は、つつぬけである、つまり、閉じていない(open)ということの象形なのだそうである。

 彼我の差歴然たるものがあると思うのは私だけであろうか。我が日本において「公共」とは、社会一般であると同時に即「政府」「お上」なのだ。当の「お上」も、また「下じも」も、そう思ってきた、それが辞書の説明となって現われている、そう見てよいだろう。だから、普通publicを「公共」と訳して済ましてきているけれども、原文において「個人」が(あたりまえなこととして)生きていたものが、日本語になったとたん、ことによると(あるいはきっと)「個人」はどこかへ吹きとんでしまう、つまり、まるっきり意味が違って読まれてしまう可能性が強い。(こういう例は、前にちょっと書いたけれども、文明開化以来、非常に多いはずである。「地方」とloca lの例もその一例だ。)

 (もしかすると)日本人は、その長い習慣から、個人を越えた上位に、頼るべきよすがを欲しがる性向があり、そういう「お上のいうこと」にすなおに従う癖から、36年もたってもまだ、披けきれていないのかもしれない。

 しかしながら、辞書にも「公」は「私」と対をなすとある如く、「公」と「私」あるいは「個」は、それを正当に対置して初めて、そのそれぞれの意味が明らかになるはずで、そうせずに、どちらか一方のみでことが処理されるとき、事態がおかしなことになる。とりわけ、「私」の係わりないところで生まれた、得体の知れない「公」に「私」が押しつぶされるのは、全く許しがたいことだと私は思う。

  それゆえ、現実に目に見えた形となって現われてくるところの「私」たちの心情を逆なでするような諸々の(人為的)現象に対して異議をさしはさむのはもちろんであるが、むしろ、そういった現象の拠ってきたるものの見かた考えかた対して、より強く異議をとなえ続けたいと私は思う。それが、おそらく、私たちの世代の役目なのではなかろうか。

  私は、あの8月15日前の状況が何であるか、体でそれを感じたわけではない。それには幼なすぎた。しかし、いかなる理由があろうとも、あの8月15日以前には戻りたくないし、また決して戻したくないと思う。なぜなら、私は、私の身につけた民主主義は決し誤っていないと思うし、そして、それがきらいではないからだ。

あとがき 

 いまこの号は、八ヶ岳を目の前にして書いている。大分かすんでいる。秋から冬あるいは冬から春、それも朝か夕がたがほんとはいい。そういう山をみていると、山をみているようで、みている自分がそれに対置されてみえてくるような、なにかそんなこわい感じがしてくることがある。(こういうときのみるは、どの漢字をあてたらよいのだろうか。) そして、私のようにときおりではなく、いつも山に囲まれている人たちはいまどうなのか、一度尋ねてみたい気がする。

〇この8月15日、諏訪湖の花火を観に行った。ちょうど満月。盆地を囲む山々の稜線が、そこだけ月あかりに照らされ淡く輝きあとは空に溶けこんでいた。もう秋である。花火は壮観であった。ずしんと体にこたえるあの音、これがないと花火ではないのだが、あのシュルシュルという音とともに、それはどうしても高射砲と艦載機の機銃の音を思いださせ、慣れるまで、どうもいけなかった(東京の防空ごうにもぐっていたころのことだ)。こういうちょっとした光景や音、ときにはにおいまでも、それは突然忘れていた昔の一瞬の情最を頭のすみから掘りおこす。

 建物づくりや町づくりというのは、本質的に、いつの日にかこういう具合に掘りおこされる情景の根となるものをつくっているのだということに、気がつかなければならないと思う。

〇こんな内容の文を書きつつ、一方で私は車の利便に酔って?いる。車に限らず、諸々の近代「文明」のもとで暮している。それを統御しているのか、それに統御されているのか。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

                                            下山 眞司


「筑波通信№5」 1981年8月

2019-02-05 00:08:12 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №5」1981年8月 A4版10頁 

 

  「筑波通信 №5」  1981年8月

     「無名」抄・・・・名前を知ること=ものが分ること?

 山の季節だからというわけでもないが、今回は山について書かれた文章をもとに話をすすめようと思う。

 下に引用したのは、臼井吉見の随筆「幼き日の山やま」の一節である。勘のよい方は、この一文を続んで、私が何を言おうとしているか、およその見当がつくことと思う。この文章には、私たちの「もの」への対しかた、見かた、知りかた、の根本的な問題が、さりげない思い出というかたちであるが、実に見ごとに言い表わされていると思うのだ。      

 

            ・・・・・・・・・・・・・・・・

 宇野浩二に「山恋ひ」という中篇小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、あの高いのは何という山かね? ときかれた番頭は、さあ? と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存じませんという。木曽の御嶽ではないのかねとかさねて聞くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。君はこのごろ、どこかよそから来たのかね? と問うと、いいえ、私はこの町の生れの者でございます。と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。

 この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。

 信濃のように、まわりを幾重にも山にかこまれている国では、この番頭のようなのは、当時として、決して珍しくはなかった。むしろ、あたりまえだったといってよい。生れたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。わらびを採り、うさぎを迫い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。近くの山なら。松茸は、どことどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、知識経験の最富な蓄積があった。おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。                  

 現に信濃で生れ、信濃で育った僕の生家などは、あまりに山に近いので、前山のつながりの一つ奥の、一段と大きく高い鎬冠山(なべつかぶり)が威張っていて、その肩のあたりに、てっぺんだけのぞかせる常念岳にさえ気がつかなかったのである。

 常念岳の存在が大きく僕の前に姿を現してきたのは、小学校の三年生のときからである。三年生のとき、新しい校長がきた。なりは小さかったが、目は鋭く、黒いあごひげが胸の半ばまでたれていた。この校長は、月曜日の朝礼には、校庭の壇上から、毎回、常念を見よ!と呼びかけた。常念を見ろ! 今朝は特別よく晴れている。あんな美しい山はない、とか。常念を見ろ! 今朝はいたってごきげんがいい。あんな気持のいい山はない、とか。今朝は曇って常念が見えないのは残念だ、とか。常念を見ろ! あれはことしはじめて降った雪だ、とか。祭礼といえば、きまって常念の話だった。

 常念校長の呼びかけによって、僕らはこれまでとはまったくちがった思いを山に寄せるようになった。おおげさにいえば、常念岳によって、新しい精神の世界を発見したのである。常念岳は、わらびや、きのこや、栗や、小鳥や、うさぎの山とは、まったく別の山であった。それは眺める山であり、仰ぎみる山であった。

 東京や大阪など、都会の人たちが山について最初から持っているあたりまえの考えを、僕らはこの風変りな校長によって、はじめて教えられたのであった。しかし、常念小学校の生徒にとっては、常念はあくまでも眺める山であり、仰ぐ山だっただけに、常念登山などということは、まだ行われるに至らなかった。

 小学生の僕は。よく祖父のお伴をして、幌馬車で浅間温泉へ出かけたが、そのころ宿の上等の座敷というのは、むしろ山とは逆な方角に窓を開いていた。アルプスの見える窓などは、冬になると、寒い風が吹きこんでくるものとしか考えられていなかった。アルプスの見える部屋が。上等の座敷とされるようになってきたのは、僕が中学生になった頃からであった。

            ・・・・・・・・・・・・・・ 

 

  私たちはいま、ものについて知るということが、それの名前を知ることに等値であるかのようにみなして済ましてしまうことが多分にありはしないだろうか。あるいは又、目の前に在るというだけで、つまり見えるというだけで、それらのもの全てが均質・等質に見えているとのように思ってしまってはいないだろうか。存在するものを全て対象化して見るいわゆる自然科学的なものの見かたが隆盛を窮めるようになってからこのかた、ものが全て等値に見え、それ故ものの名前も又、それら等値のものの単なる区分上の符号になってしまったような気配さえ感じられる。

 いったい私たちにとって、あることを知るということ、知っているということ、あるいはあるものの名を知るということ、知っているということ、そしてより根本的には、あるものに名前をつけるということ、これらはいったい、もともとどういうことであったのか、数限りなく色々な知識や情報が満ちあふれているいま、これらについて一度落ち着いて考えてみてもよいのではないかと思い、この文章を話題にしようと思いたったのである。

 さて、この文章のなかの、番頭と中年の客のやりとりであるが、いったい何故このようなやりとりが生まれたのであろうか。

 彼の番頭は、木曽の御岳という(そう呼ばれる)山が在るということは、どうやら知ってはいるようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一角にそれが在るなどということは露知らない。ここで「知らない」というのはそういう呼称の山が在るということは(おぼろげながら)知っているが、その呼称に対応する具体的な山そのものは知らないということだ。おそらく、そういえばどこかで聞いたことがありますね、という程度ではなかろうか。

 それに対して、この中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)、しかもあんな有名な山を、どうして知らないのかと不思議に思ったのだ。そこには、毎日目の前にしているもの、しかも有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人々は、必らずそれを(直ちに指示できるぐらいに)知っていなければならない、それであたりまえだ、という考えが前提としてひそんでいる。だから、どこかよそから来たのかね、という言葉のうらには、明らかに、そんなことも知らないの!という、番頭の「無知」に対する非難の響きがのぞいている。文中にもあるが、いま私たちの大かたは、この中年の客に右同じだろう。しかし、この「無知」は、はたしてそんな単純に非難したり笑いものにしたりすることができる類のものなのであろうか。

 では、この中年の客:私たちの大かたの右代表の知っていることは、いったい何なのだろう。何故彼は木曽の御岳を知っているのか。彼がその実物を知らないことは、彼がそれを指示できなかったことで明らかである。ところが、どこかで聞いたことがありますね、などという以上に色々知っている。具体的に目の前にしたことのないものの具体的内容を結構よく知っているようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えてきたとしても(現にそうなのだが)あれこれと比定する手段は、自らのものとしては何も持ちあわせていない。人に尋ねるか、地図を見ることになる。(もちろん、勘によって、これだこれだと思うことはある。しかしそれは、あくまでも、これにちがいない、である。)

 そうすると、この中年の客が知っていることというのも、実に不可思議なものだという気がしてこないだろうか。

 中年の客が木曽の御岳(の名)を知っていること、それについて知っていること、それはきっと彼がどこから仕入れた「知識」なのである。それは本で読んだのかもしれないし、人に聞いたのかもしれない。あるいは学校で教えられたのかもしれない。いずれにしろ彼は、中部地方の一角、信州の南の方に木曽の御岳という山が在り、高さがどのくらいで、信仰の対象となっておりきわだって目だつ山だ‥‥といったこと:知識を持っているにちがいない。その知識を持って、その先何を思っていたかは詳らかではない。そういう有名な山なら一度は見てみたいと思っていたかもしれないし、ことによると登ってみたいと思ったかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、木曽の御岳の他にも、こういった「知識」をいっぱい仕入れてあるにちがいない。どこへ行ってもこれと同じようなことが起きただろう。

 そしていま、私たちも大概こうだから、例えばあれが槍、こっちが穂高・・・・といった具合に私たちの知っている名前が具体的に一つ一つその対象をあてがわれてゆくとなんだか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、なんとなく何かが分ったような満足な気分となり、感慨にふけることになるわけだ。けれども、あるものの名を知っている。何の名であるかも知っている。それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。実物により「知った」のではない。すると、その知っているというのは何なのか。そして又、それに実物があてがわれて分った気分になったとき、いったい何が分ったのだろうか。単なるカード合せの快感でなければ幸である。

 いま私たちの頭のなかには、見たことのないものも含めて、いっぱいのものの名前がつめこまれている。それは何なのだろうか。何のためにつめこまれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのか。そのためにつめこむのだろうか。しかしそれは、「自分の世界」が広くなったということと同じなのだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もあるだろう。しかし、そのときでさえその人にとって、そのつめこむべき「知識」の選別の拠りどころはいったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現われてきたものが、どこかきわだったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそ事前には名も知らないものであったとき、彼の目には何の気もひかないものとしてしか映らないであろうから、彼はそれを雑物として見すごしてゆくだろう。

 けだし、この中年の客的私たちの多くは、きれいな花をつける草木には(それがきわだって見えるということなのだが)それなりの名前をつけ、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、そうでないものはその他大勢、雑物雑草として、名もなきものとして(ときには、あたかも存在しないかの如くに)扱い済ましてしまうのだ。単に名前がない、名前を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前にそれらが在ったとしても、彼らの目には映らないのである。彼は何をみたのだろうか。彼の目には、「知識」という眼鏡がかかっているのである。

  ひとことで言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人右代表のこれらの「知識」はいわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、専門家ではないにしても、色々なものごとについて、それはかくかくしかじかのものなりという(だれかがつくってくれた)「知識」を、どこかで身につけたのである。しかしそれは、あくまでもつるしの「知識」を知識として仕入れたのであって、そのことが日ごろの自分の生活とどう結びついているかなどということとは全然別な話として、ただ自分がそういった諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に「意義」を見出しているのであろう。そういう「博識」こそが自分の人格を向上させるのだ、なにかそういう気分さえあるのである。

 いま私たちのまわりを見わたしたとき、こういう物識り顔、分け織り顔の人たちが幅をきかし、あの番頭のような「無教養」な人々が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。この随筆のエピソードは大正中ごろの話である。この中年の「教養人」と「無教養」な番頭の間の話のくいちがいのような例は、いまよりもずっと多かったと思われる。そして「無教養」な番頭の方も、少しも無教養だとは思わず、気の毒そうな顔つきのうら側で、変な客だ、なんで私が木曽の御岳を知ってなけりゃあいけないんだい、などと思っていたにちがいないのである。(しかしいまだったら、番頭もそれがサービスというものだと思って、ききもしないのに、さしづめバスガイドの如くに、山々の名を得々と説明しだすにちがいあるまい。)この話が大正中ごろだというのが象徴的である。おそらくこのころからこういう中年の客的人間が増えだしたのだと思う。自分で構築したものでない、あれもこれもの「知識」が、人々の(特に「教養」あることをほこりに思う人々の)頭のなかを占領しだしたのである。いまはもっと激しくなっているにちがいない。だからそういう意味で「無教養」な人々は、由なく非常に肩身の狭い思いをさせられるのである。

  それでは、かの番頭は何故、かの有名な御岳を(それが目の前に在るにも拘らず)指し示すことができなかったのか。

 その解答は既に先の文章中に書かれている。「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山々が、彼らの(その土地に住む人々の)生活そのものの範囲としてとりこまれたものとしてあったからなのだ。そこは、彼らの生活と切っても切れない関係にある。単なる見る景色、景観ではないのである。だから、目の前にするものが決して全て等質ではなく、そのうちの、彼らの生活に具体的に係るものが、先ず浮きあがって見えてくるのである。それらは、「教養ある」人々の目に見えている以上に(彼らの生活なりに)より細やかに、彼らには見えているはずだ(そして、同じよそもの、中年の客的でなく、彼らと同様な生活基盤をもつ人たちには、それが見えるだろう)。そしてそれらには、彼らによって、それなりの名前がつけられたのである。

  狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らに直接係わりのない高山にすぎないのであった。もちろんそれがもっと近くにあって、どうしても日常「気になって」しようがない山であったならば、たとえそれが直接的に生活の範囲でなくとも、それはそれなりの「気づかい」が見られるだろう。例えば諏訪ならば、蓼科山や八ヶ岳などは決して放っておかれずましてやその名も知らず、どれでしょうなどということはあり得ないのだ(事実それらは諏訪大社と密な関係がある)。それに比べ、木曽の御岳は彼らとの係わりからいえば「遠い」山であった。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それはそれぞれその地元の人たちが、そう尊称をもって呼んだのだ。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地にそれが在るということが分ってきてから、その区別が必要になってからのことである。番頭にしてみれば、いくら目の前にそれが見えようともそれは「地元の」山でなかったということなのだ。

 つまり、彼らが日常的に名づけて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上知っているものに限られ、従ってそれは、決して「全国的」に有名になるとは限らない類のものが大半を占め、従って又この中年の客などが興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳を知っていたのも、泊り客からでもきいたことにすぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ、というぐらいの、言わば彼にとっても余計な知識でしかなかっただろう。実際のはなし、その土地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしてもちろん東京さえも知らないで生きた人たちがいたにちがいないのである。そういう知識に対し、「無知」で生きたのである。生きられたのだ。

 だから、中年の客と番頭では、明らかにその「知っていること」のなかみがちがうのだ。この番頭に一代表される地元に根づいた生活をしてきた人たちの知識は、だからいわゆる「教養」ではない。「教養的知識」ではないのである。いまや(この現代において)こういう知識を何と呼んだらよいのだろうか。

 いま私たちが「教養的知識」として得ている例えば山の名前にしたところで、いま私たちはその名前によって、その名前のついたものについてのある程度詳細な事実をも思い浮かべ、名前=もののようにみてあたりまえのようになってしまっているわけだが、その名前というのは、実はそういう扱いをするようになった私たちによって名づけられたわけではないということ、もう一つ、その詳細な事実というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものでなく、従って、ものと私たちの「知識」との関には一つ「回路」がはさまっているのだということに、いまこそあらためて気がつかなければならないように、私は思う。(その「回路」が問題なのだ。)そして、実は、多くの場合例えば山の名前は、この番頭のような暮しかたをしていた人々、私たちがともすると「無教養」「無知」だとあきれるそういった人たちによって名づけられてきたものなのだということにも気がつくべきだ。同様に、それらについての詳細な知識というのも、その根は、そういった人たちの知識を集大成することからはじまったのだ。

 そしてこのことは、国土地理院:昔の参謀本部測量局(後の陸地測量部)の地図に記入される山などの地名は、そういった地元での呼称が採集され、そのなかから選ばれたということ、たとえばある山の名は、測量班が最初にその山のどちら側から近づいたかにより(たとえば飛騨側か信州側か)その初めに近づいた側で呼ばれる名のつけられることが多かったということなどで明らかだろう、(これは、一つの山に対して、いくつもの呼称があったということ、言いかえれば、いくつかの「地元」があったということである。そういった地元の呼称が無視されるときには、最初の測量者の名前:たとえばエベレスト:だとか、測量上の符号:たとえばK2:などで済まされる)。これは、しかし、地元の人たちの苦心の作たる諸々の概念の上っ面だけすくいとったことに他ならない。何故なら、実はそのときそれらの深い根や地下茎を、きれいさっぱり切りおとしてしまい、単なる符号としてしまったからである。

 それ以後、名前は単なる名前としてのみ通用するように(地元以外では)なってしまうのだ。(昭和初期以降の新興住宅地につけられる呼称が、その言葉のにおわすイメージやひびきだけでつけられているというのも、このことと関係があるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜ヶ丘、桜台、希望ヶ丘・・・・といった具合である。その土地からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。これが更に文学的イメージを切り捨て、物理的イメージに徹すれば、最近の住居表示で各地に見かける「中央〇丁目」などというのになる。)

  以上で明らかなように、番頭(に代表される人々)には、「目の前に在るもの」はいわばその「生活体系」のなかに、その生活との係わりの遠近あるいは濃淡の度合なりに整えられ位置づけられ、それが彼らの知恵となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人々)においては、それは、日ごろの彼らの生活自体とは関係のない、何らかの規範により選択をうけ、「知識体系」なるもののなかに、いわば「客観的」に位置づけられてゆくということになる。

 おそらくこれは、重要にして決定的なちがいのはずである。極端に言えば。近代的教養人にとって、その日常は、とるに足らない、下らないものとのうっとおしいつきあいに他なるまい。大事なのは、自分の仕入れた高尚な「知識」「教養」とつきあうことなのだ。自ずとそれは、自分をかけて社会に係わるのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識」体系を通じてのみ、それと係わり、それ以外は我関せずとして過ごしてゆくことになる。そして自ら称して「専門家」という。彼らは、いわばフィクションの世界に遊んでいるのである。具体的な生活という根がないのである。だから、逆説的に言えば、泥くさい根や地下茎に触れることを避けることによって、私たちは今様の「教養人」「知識人」「専門家」に、なろうと思えば簡単になれるのだ。 

 しかしいま、番頭に代表されるような草の根付きものの見かた、知識は一般的ではなくなっているから、その意味さえ分らなくなろうとしているといってよかろう。番頭と中年の客のちがい、それ自体が、もう分らなくなってきているのである。しかしいま仮に絶海の孤島にでも、突然私たちが放り出されたことを想定してみたとき、この違いが歴然として露になってくるだろう。そのとき初めて、フィクションの世界がフィクションにすぎないこと、つまり星座でなくて星の大事さが、そして初めて星座の意昧が、分ってくるだろう。知識というもののほんとの意味が見えてこよう。しかし、こんなことは、なにも絶海の孤島に出かけなくたって、それこそ日常において分らなければならないのだ。私たちはいま、「常識」という二重三重にも重なった星座でものを見る癖がついて(つけられて)しまっているのである。

 私は最近、子どもの本箱から「十五少年漂流記」をひっぱりだして続んでみた。昔懐かしい本であった。そしてふと思ったのである。これは単なる冒険ものではない。著者は、近代という時代のあぶなっかしい傾向に対して一言言いたかったのではなかったか。そこには、番頭的なのも、中年の客的なのも、もっと知識人的な(行動のともなえない)人物も、あたかもこの世の縮図のように(だから十五人に意味がある。ロビンソンでは迫力がない)でてくるのだ。少しばかりうがちすぎであろうか。

  私は別に、「知識体系」や「教養」をもつこと否定しているのではない。そうではなく、日常の営為とそれとの遊離、言いかえれば、生活の根や地下茎を切り捨てて済ますこと。それを問題にしているのだ。何らの正当な理由もないままそれを切り捨てる癖がついたからこそ「それはそれ、昔は昔、いまはいま」になってしまったのだと私は思うのだ。自らの生活の体系と知識の体系の遊離、そして知識体系への寄りかかり、現実からの逃避あるいは傍観者的態度、これはどうも頭初の文にもあったように、大正中ごろからこのかた、あたりまえになってきたような気がするのである。

  そしていま、私たちの身のまわりのものや町や建物などが、ほとんど全て、この私たち(の生活)との真の意味の係わり、つまり根や地下茎を見失なったかの中年の客的発想で語られ、そしてつくられるようになってしまっている。人々は抽象的人間として対象化され理解され、生身の人間はどこかに雲散霧消してしまい(またそうすることが科学的だなどと愚かにも思い)、目の前のものも、全てが「景色」や「景観」としてのみ扱われ、その見えがかり(分り易く言えば、写真映り)ばかりが問題にされて、決してそれらのもつ私たち(の生活)にとっての重い意味はかえりみられもしない。たとえ「教養」にもたれかかって現実から逃けだすことを願ったところで、それはできない相談である。必らず、大なり小なりその日常には、番頭的局面がある。であるにも拘らず、どういうわけか、この番頭(に代表される人々)の立場・発想が完全に切り捨てられてしまう。

 従って、そういうなかでつくられるものは、ほとんど全てが、私たちとの語らいを許さないような、白々しい、あるいは私たちの神経を逆なでするような、あるいは又私たちに一定の行動しか許さないような、そして、ある詩人の言葉を借りて一言で言うなら「体験の内容と成り得」ないもの、「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎ」なくなってしまっている。

  「私たちの祖父母にとっては、まだ家とか井戸とか、なじみ深い塔とか、それのみか彼等の着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。彼等にとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。それらはただの仮りの物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをそのなかにこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦薬をともにするところの、ものは、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。たぶん私たちは、このようなものを知っている最後の人々であろう。」

 これを読んで、いったいこの文がいつごろ書かれたものと思うだろうか。実はこれは、1925年に先のある詩人が記した手紙の一節なのだ。それから五十余年、いま私たちはヨーロッパから半世紀連れて最後に直面しているのだろうか。それとももう最後を通りすぎてしまったのか、まだ辛じて最後ひきずっているのだろうか。

 そして私は、「もはやこれを補う道もない」のかもしれない、という暗い気分にともすればおちいりそうになりつつも、しかしどうしてもそのままで済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たちこそがそれをしなくていったいだれがそれをするのか、そう思うだけである。それがきっと、いま生きている私たちの、私たちに課せられた、義務なのだ。そう思いたい。私たちはせいいっぱい、切ってしまった根や地下茎を再び探してつなげなおす責を、きっと負っているのである。

  私はここ十年近く、幸いなことに、学識のない無知の、専門家でもない人たちが、普通は素人は口をさしはさむべきでないとされるいわゆる専門的なことがらについて、学識ある、専門的知識あふれる専門家に対して、おずおずと、しかししたたかに、いうところの素朴な問いかけをする場面に何度も会ってきた。何故彼らがおずおずするかといえば、かならず専門のことは専門家のいうとおり聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などとだいたい門前払いをくうのが常だからである。そして何故したたかかといえば、それでも彼らは問い続けるからだ。何故彼らはあきらめないか。それは単純な、全く単純な理由である。おかしいと自らの体験で思ったことはおかしいという、そして、同じくどう考えても分らないものに対しては素直に分らない、説明してくれという。それだけである。しかしそれは、いかに並大抵でない「それだけ」か。世のなかの「常識」「慣習」という峠を何回も越えなければならないからだ。

 そして実にこういう問いかけこそが、まさに学識ある専門家たちを根底からゆさぶることになるという例に、ことあるたびにぶつかったのだ。なにしろ彼らのほとんどは根なし草だから、ひとたまりもない。生活にがっちりとした根をはっている人たちの素朴な問というのは、どうしたって根源的(radical)だからである。

 そして、このいわゆる素人たちは、その専門家たちとのやりとりのなかから、自分たちなりにどんどん「知識」を吸収し、自らの生活体系のなかに組みこんでゆく。そこには生活体系と知識体系の二本だてはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして花へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自らの生活をとりかこむものが「分って」くる。言うなれば、新しい型の番頭的人々が生まれているのである。そしてこの「無知」で「無名」な人たちが、「知識あふれる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。

 そうなると、ここであらためて、「専門家」とはいったい何かということが問われることになる。

  もちろん、未だこういうしたたかな人たちの数は絶対的に少い。あいかわらず多くの人たちは、自らを「無知」だときめこんで、雲の上のえらい人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることが、知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思っている。

 けれども現実に、あそこにもここにも、こういう自分たちの上におおい被さる暗雲をとり除こうとする人たち、自分たちの生活に根ざし、それを大事にする人たち、こういう人たちがいるということ、そして、そういうことの大事さに気のつく人がそのまわりに増えているということ、そういう現実を目のあたりにするとき、決して未だ「最後」ではないのだ、と私は思うのである。明らかに、根や地下茎を切ることを拒み、「間」抜けをきらう人たちが、いつも踏みつけにされながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。

 そしていつも、こういう素晴らしい「無名」な人たちの存在に、私は勇気づけられてきた。ここに「同志」がいる、一人ではないのだと。これはほんとに「幸いなこと」であった。

 

あとがき  〇猛烈な暑さである。そして、毎日のように雷雨。暑中お見舞申し上げます。   〇先号のあとがき中に引用した文章は、ソロー「森の生活」の一節である。同じく先号あとがきと今回引用した詩はリルケ「第九の悲歌」そして手紙は「ミュゾットの手紙」の一部である。なお後者は唐木順三「事実と虚構」中より孫引した。

この文を書いていて、この五月の末だったかに久しぶりに訪ねにきてくれた卒業生の話していったことを思いだした。   この人は、この春さき二ヶ月ほど信州白馬のペンションでアルバイトをしたのだそうである。その持主は都会のいわゆる脱サラで、とにかく無性に山が好きでそれをはじめたのだそうだ。しかしこの商売は言ってみれば季節もので、雪が消えたら客足はぱったりと途絶える。食えなくなる。どうするか。いわゆる日やといで土方をしてすごすのだそうである。彼の目ざすのは、より充実した「森の生活」なのだそうだ。かといって、ほんとの自給自足的「森の生活」ではない。森の生活というもののいわば口マンチックな側面がその想いの対象である。山が好きだというのも多分同じだろう。その実現のために(金がいるから)身すぎ世すぎのための金かせぎをするというわけだ。つまり生活が二重の構造で成り立っているのである。もっとえげつない言いかたをすれば、遊びのために金かせぎをするという生活である。これと、食うために働くこと自体が即生きることであり、その息ぬきとしてときたま湯治に赴く、という昔の農民の生活では、まるっきりちがうだろう。考えてみれば、近代人の生活は概ねこういう二重構造、二重生活になっているわけではなかろうか。好きなことをする「生活」とそれを行うための「生活」と。これも又、知識と生活、教養と生活、そしてこの場合は趣味と生活、この遊離だと言ってよいだろう。

 そしてこの卒業生、最初はこの人の生活が素晴らしいようにも見えたけれども、そのうちだんだんと、そのあまりの夢想にちかい根なしぐさの発想にいや気がさしてきたそうである。そして、おかげで、自分がしなければならないことが、おぼろげながら見えてきたらしかった。

〇先日の暑い夜、卒業生の一人から電話がかかってきた。いま、非常に問題だと思える計画をやっている。長い目でみたとき、いわゆる環境破壊以外のなにものでもないと思う。別のやりかたがあるはずだと言っても分ってもらえない。不本意ながらやってしまうことになる。いったいどうしたらいいのだろうか。ざっとこういう内容であったと思う。返答に窮した。この人が、その仕事から手を引けばよいというような問題ではない。五年後そして十年後、あなたが「分らない人だ」などと言われないように、それこそしこしこ、たとえ百分の一でもよい方向に向くように、あきらめないでしつこく毎日をすごすしかないのではないか、というまるで答にならない答を言うのがせいいっぱいであった。それとも、そんなこと自分で考えろ、とでも言うのがよかったのだろうか。こういうとき、教師とは何なのか、つくづく考えてしまう。

〇そうかと思うと、こういう物騒な手紙が来た。・・・・(世の中を)変えるよい方法があったら是非教えて下さい。爆破だろうが殺人だろうが(そんな単納な手段で世の中変えられたら悩みませんが)何でもできます!

〇たしかに、世の中、非常な危機感を感じる。あせってはいけないと思いつつ、どうしてもあせりたくなる。

〇どうにか五号までたどりついた。三号なんとかで終らなくて済みそうで、ほっとしている。でも、まだ先がある。

〇字の大きさを読みにくくするのが省資源とはこれいかに、という詰問をうけた。弁解の余地なし。老眼でないけれど、自分でも読みにくかったもの。よって修正する気になった。おかげで、一度打ったタイプを全面打ち直し!

〇それぞれなりのご活躍を!!

      1981年8月1日                        下山 眞司

 


「筑波通信№4」 1981年7月

2019-01-29 09:03:53 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №4」1981年7月 A4版8頁 

 

  「筑波通信 №4」  1981年7月

     「間」抜けの話・・・・・「間」が抜かされるということ 

 五月の末から六月のはじめ、季節はずれの夕立が数日続いた。それも雷雨である。

 そんなある夜、私の研究室に、学生の某君が興奮したおももちで本をかかえてとびこんできた。どうしてもこの本を見てもらいたいというのである。その本とは、帝国書院から出されている世界の地理教科書シリーズのうちのスイスの地理教科書(中学生対象ではないかと思う)であった。もちろん日本語訳である。不勉強でこういう本があるなどということは、ついぞ知らなかった(因みに、このシリーズに続いて、世界各国の歴史教科書シリーズが刊行されつつあることが、六月八日付朝日新聞読書欄に紹介されている)。

 たかが教科書ぐらいで、何をそんなに、と思うかも知れない。しかし、それにはそれなりの訳がある。今回は、この教科書をめぐって、この学生と語りあったこと、そしてそのあと考えたことをもとに書いて見ようと思う。

 それにしても、こういうように、心のうちになにか言いたいことをいっぱいもって話しにくる、そういうときの人の目の輝きというのが無性に好きだ。近ごろ、そういうきらきら輝くような目を見ることが少なくなったように思う。そういう人が居なくなったのか、こちらの目が曇っているのか。

  何故その学生が話をしたくなったか。実物を目のまえにすれば、それは直ちに分ると思うがいまそれができないのが残念である。

 ざっと目を通してみて、その学生が何かを言いたくなった気持が、私にもよく分った。私たちが学んだ(学ばされた)日本の地理教科書とは、まるっきり違うからである。常日ごろ望んでいたことが、この中学生あいての教科書に、大げさに言えば物の見事に書かれている(いま同じようなことを大学生に話さなければならないというのが、あほらしくなってくる)。

 一言で言ってしまえば、この教科書は、国土について、諸「知識」を単に並べたてたものではなく、国土を(そこに生活してゆくという視点で)どのように「把握」するかという見方で貫かれている、ということに尽きるだろう。(先に書いた目下刊行中の歴史教科書シリーズの紹介で、評者は、各国の教科書は日本のそれと違い、歴史を「羅列でなく構造として呈示しよう」と努めていると書いていたが、その点全く同様である)。

 詳しくいえば、スイスという国土を(子どもたちが)どのように把えるか、その把えかたを述べてある。たとえば、〇〇山脈がどこにどう走って、高さがどうで、地質やそのできかたがどうであるかというような、いわば物知りおじさん的「知識」ではなく、もちろんそれについても書いてはあるが、その「知識」だけで終るのではなく(従ってそれを無理して覚えればよいというのではなく)、そういう山脈があるところでは、どのような「自然」が展開し、そのような「自然環境」に在って人々はどのようにして暮さなければならなかったか、暮してきたか、暮しているか、つまりどのように人々の生活が変ってきたか、人々はどのようにその「自然」に対処してきたか、等々といったいわば現存の学問分野でいうところの「歴史地理学」「人文地理学」そして「集落地理学」にかかわる話が、実に分り易く淡々と述べられている。これが、それぞれの特性をもった地域ごとに語られ(特性が存在するからこそ、地方、地域という概念が生まれた、在ったのではなかったか。いま日本で「地方」「地域」というときは、はたして、そういう特性の存在を認めた上で言っているのだろうか)、それにより、スイスという国土とそこでの人々の生活が、実にはっきりと浮き彫りにされるのだ。そこには、何故ある地域がそういう地域となったのか、それを見る見かた把えかたが、それこそ懇切丁寧に書かれており、その一環としてたとえば、ある地域で暮らす人々の一日の、そして一年の生活が、その「地理」との関係で、さしずめ日課表の如くに語られ、もちろんそういう生活との関連で、彼らの家づくりのありかたにも触れられる。だから、これを読んでいると、私の行ったこともなく見たこともないスイスのある地方のありさまが、目のまえにありありと浮んでくる。そして、これが大事なことなのだと思うが、それは決して単にその地域について知ったということではないということだ。そう見てゆくなかで、たとえば我が国のあの地方のありさまは、いったいどうなのであろうか、といった具合に、それとの対比でものを見る私の視野が自ずと拡がってくるのである。つまり、一つのことを見ることが、十のことを見る見かたを示唆しているということである。ここまで書いて、私は私の好きな作家サン・テグジュペリのある文章を、どうしても引用したくなる。少し長いが読んでほしい(下段に引用、中途を省略してある)。

 サン・テグジュペリ「城砦」  山崎康一郎訳より 

……それゆえ私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。彼らの登山の質を楽しむためである。昇床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず,また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。たとえ、ただひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山を登撃しておのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力をそなえた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。

……私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗に濡れ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。言葉で示すことは把握することではない。

……言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう? それなら辞書と同様である。

 

  言いかたを変えれば、このスイスの地理教科書では、現象あるいはものごとの「結果」だけではなく、「過程」が語られているということである。この私をたずねてきた学生は、常日ごろ世のなか一般に「結果」だけ問題にされ、「結果」だけをつなげてものが語られ、学問・研究がされ、つまるところ、それに至る「過程」の無視されていることに言いようのない怒りを抱いており、たまたま私も、およそ人のやること、もちろん「結果」も大事だが、その「過程」:私の常用する言いかたで言えば「人間の営為」こそ大事であり、それを見るべきであると日ごろ言い続けていたものだから、私なら怒りをきいてくれるだろうと室をたずねてきたのである。

 そうなのである。毎回のように書くのだが、そしてこれからも言い続けると思うが、人が「どうしたか」「どうするか」こそ大事なのである。人のなした現象的結果をあれこれ言うことぐらい易しいことはない。しかしそこからは決して「人がどうしたか」は見えない。逆に人がどうするかが見えたとき、私たちはある一つの地域やあるいはある一つの現象を見ることで「やがて目にするべき一切の風景を理解する」ことができるようになるはずなのだ。もっともサン・テグジュペリなら、この教科書でも未だ不十分だと言うかも知れない。

  この教科書は、では、どういうかたちでその記述をしめくくっているかというと、地域ごとにその地域の特性:人々の生活を通観したあとすなおにその国土の将来の(あるべき)姿を、将来の(国土の)「景観」というかたちで書いて終っているのである。我々(スイス人)は将来へ向けて、いま何をなすべきかで終っているのである。

  ひととおり目を通して、たずねてきた学生に劣らず私も少なからず興奮し、なぜスイスではこうで、日本ではそうでないのか、少し大げさに言えば夜の白むまで話がはずんだのである。そして話をしてゆくなかで、その学生が頭にきたのには、もう一つ別の理由があることも、だんだん分ってきた。この学生は、実はこの本を地理の先生にその授業で紹介されたのだそうである。そこでこの学生は、先に少し触れたお得意の「過程」重視諭を述べたところ、彼の先生いわく、では書きかたの順序を逆にすれば良いのですかね、と言われたのだそうである。そこで先ず頭にきた。そんな書きかたの形式を言っているのではない、もっと本質的なことなのにというわけだ。そして更に、この先生、こうも言われたというのである。近ごろ建築(を学ぶあるいは研究する人たち)をはじめとして、地理学以外の人たちがどんどん地理学の分野に入りこんでくるものだから、地理学の独自性を保つために(実際こういう表現で言われたのではない。私がその趣旨をかいつまんで述べているにすぎない)地理学はいったい何をしたらよいのか、いろいろと論議がある、と。なるほど、これは私も頭にくる。この学生が頭にきて当然である。頭にこなければうそである。「ね、そうでしょう」と言って、この学生はほっとしたおももちになった。それが印象的であった。もちろん、ここでいう先生とは、大学の先生である。

  私は、なぜ日本にはこのような教科書が存在しないのか、考えた。そして、いまからでも、こんな具合の地理教科書をつくることができるだろうかと、しばらく考えた。子どもの教科書もながめてみた。そして、悲しいかな、書けないだろうという結論に達したのである。

 なぜか。なぜ在り得ないか。

 一つは、日本の現状が、このような具合の書きかたを受けいれないものとなっているからである。なるほどたしかに、ある時代までは、スイスと同じようなかたちで、国土と人々の生活について、つまり、「地理」と「人間の営為」とについて、雄弁に語ることができる。しかし、あるとき突然(ほんとは突然ではなく、下準備は着々となされていたのだが、時間を圧縮して書くと、ほんとにとうとつに見えるはずだ)、それからあと、地域の特性と人々の生活とは無関係となり、国土はそれぞれ特性をもった「土地」としてではなく、単なる「地面」として扱われ、特性もへったくれもなく、従ってどこでも全く軌をーにした生活が行い得るのだ、それがよいことなのだ、というはなしになってしまっている。だからいま(現代に生活するには)、「地理」は不要である。「地理」を学ぶこととその「生活」とは直接的に関係がないように見える。そうなっている。だからスイスの教科書のようには、すなおに淡々として書くことはできないのである。書こうとすればするほど、歴史的な意味での「断絶」と、「地理」を学ぶことと現実に行なわれている「生活」との間に横たわる「断絶」とが、より一層目に見えて明らかになってくるだけだからである。従って、できるのは、いままで慣習的(というより因習的)に行なわれてきたように、それに最新のものを盛りこむだけで、要するに地理学の諸「知識」を統的にきれいに整理して記述することしかないのである。かわいそうなのは子どもたちだ。彼らは、それらの諸「知識」が、自分たちの「生活」と何の関係があるのか分らずじまいのまま、つまり何のために「地理」を学ぶのか、学ばされるのか分らないままに、ただいたずらに暗記を強いられる。ということは、どういうことか。それは、前々号に書いた私の言いかたで言えば、子どもたちに、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」というものの見かたを教えていることに他ならないのである。

 しかし、「地理」は、「地理学」は、「地理の教科書」は、その「現実」との不整合に目をつぶってはいけないのだ。そこから逃げてはいけないのだ。「地理学」はいま何をしたらよいか、などというような世迷いごとを言うべきではないのである。まさに、この不整合な事態の不都合についてこそが、「地理学」が言及しなければならないことなのではないのか。それこそが、「地理学」の本務ではなかったのか。「地理学」とはそもそも何であったかということだ。それを忘れて、自らすすんで自分のなわばりを狭めてゆく。それから先はもう決りきっている。「学際的」研究とやらをとなえるだけだ。そして、だがしかし、そうしたからといって決して、先の不整合な事態の不都合については言及できないだろう。言及できないものがいくつ集まったところで言及できるようになるわけがないではないか。私はここに、いまの学問のありようの象徴的な姿を見る。

 そして、なぜスイス(別にスイスでなくてもよい)のような書きかたが在り得ないと私が思うか、そのもう一つの理由がここにある。

 つまり、このような書きかたのできる人が、「地理学者」「地理の教師」(つまるところ、地理の教科書を書くのは、地理学者か地理の先生である)のなかに、はたしているかということである。もしいるのならば、そんな教科書が一つや二つあってもよいではないか(それとも文部省の規制が強いからなのか?全部の教科書を調べたわけではないから、断言はできないが、必らずしもそういう外圧だけのせいではなさそうだ)。しかし、ありそうにない。ということは、私がその昔習ったことを思いだしてみてもそうだが、もともと「地理」を学ぶということは、我が国土を知るということ=我が国土についての地理学的諸知識を辞書的に積み重ねること、で長いあいだ済んできたのであって、そのことについて(その意味について)何ら考えられてこなかったのではないかと思う。辞書的編集に対し、何ら疑いがはさまれたことがないということである。もちろんそれは、書く側つまり教える側に、何の反省がなかったということであり、教えられる側は、意味不鮮明のまま(現実との不整合のまま)、やみくもに、それこそ字の本義どおりに「勉強」させられたのだ。(商人が勉強しときましよう、というようなときの「勉強」が勉強のもともとの意味であって、それが自らへ問題を課すというような自制的な意をこめた「学ぶ」ということのありかたの意に転じたのではないかと思う。いまそれは、他動的なそして受動的なそれに変ってきた。つまり「学習」がなくなった)。

 おそらく、こういう言いかたをしてくると、何も全てが現実(の生活)との係わりをもって語られる必要はないではないか。学問の成果は成果として教えてよいではないか。なぜならそれこそが、いま人間の到達している最先端なのであって、教育とは、その先端を将来更に延ばすことにあるのだ、と。そして(自然)科学・技術(にかかわる分野の教育)は、まさにこういう局面で実践しており、人文科学の分野もこれに追随しようとしているように、私には思えてならない。

 しかし私はあえて、これは誤っていると言おうと思う。なぜなら、いまの最先端とは、いかに、どれだけ、「人間として」の立場から遠く離れるかという意味の先端でしかないからである。

 学問というものが、進めば進むほど鋭角化し、知識自体もより細部にわたるようになることはそれは当然である。しかし、そうなるまでの過程が忘れ去られ、ただ目前の状況から前へのみその意味さえ忘れて進むということ、そして、それを最先端だと思ってしまって平気でいられるということに対して、私は疑いをさしはさみたい。過程を忘れるということは、人間としての立場から、どんどん遠くなってゆくことに他ならないのである。

 そしてまた、なぜなら、こういう人間としての立場からほど遠くなった、あるいは失なったものの見かたが平気で教えられる一方で、かならず、他人へのいたわりのこころ、だとか、自然を愛するこころだとか、はたまた「道徳」だとかが、これまた平然と教えられるのが常だからである。考えてもみたまえ、こんな論理的に矛盾するはなしはないではないか。いったい、どうやったら人間としての立場を失なったものの見かたに、人間的なるものが接ぎたすことができるのだろうか。私たちは、先ずもって人間なのだ。これは疑いようのない事実である。いや、事実以前のはなしである。だから、「人間的な」とか「人間として」とかいうことを、さしづめ形容詞の如くに、あとから追加しあるいは付加すればこと足りるとするようなやりかたは私には我慢がならないのである。それは、ごまかしであり、確実に誤まっている。

 言葉を変えて言えば、いかなる最先端であろうとも、それは、人間のなしてきた営為の一環としてあるのだという認識をもつ必要があるということである。そして私たちは、常にそれを問う必要がある。私が、現実との、あるいは、いまとの係りを問うのも、その為だ。そしてそれは、なにも私が、現実と係わりをもたざるを得ない建築という仕事をしているから言うのではない。それは、本質的なことだからである。

  ふり返って、もしかなり昔から、この「地理」の教育において、指折り数えて知識を積めこむのではなく、「地理」を把える教育が行なわれていたとしたならば、短絡的にすぎるかも知れないが、我が国の現在のような状況、つまり、先に記したような「地理」がもはや「生活」とは無縁な状態だとか、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」というが如き対しかた、にはなっていなかったのではないかと、私は思う。なぜなら単に学校の成績のためとしてでなく(従って、学校を出ればきれいさっぱりと忘れてしまうのではなく)生活上の「常識」となっていたならば、すなわち極く自然にその「把えかた」でものが見れるようになっていたならば、現在のような状況にいたる以前に、だれでもが極めて正当な批判力を行使したと思うからである。然るに、ばらばらの知識を教えることによって、その知識ではなく、ものごとをばらばらにしてみる見かたを教えてしまったのだ。この修復は大変である。

 いま、全ての領域にわたって、こういう傾向が見られる。ものごとを、数えあげられるようなかたちに分解し、そうして得た知識を数えあげることによって、ものごとが分った気になってしまう。そこでは人間が喪失する。なぜなら数えあげることができるような事項をいくつかとりだすという操作を施すとき、実は、そのとりだし残されたところにこそ、人間の真実があるからだ。事項と事項の「間」にこそ人間のほんとうの姿がある。

 なるほど、一歩ゆずって、ものごとをしゃべるときには、いくつかの事項を軸にしゃべるしかないのは認めるとしよう。しかしそれは、あくまでも「何かをしゃべるために」見出した事項にすぎないのであって、決してものごとがそれらの事項によって成りたっているというわけではないのである。それを多くの場合とりちがえるのだ。問題なのは「何をしゃべろうとしたか」つまり「何を見たか」なのだ。全く同様に何故それらの事項で見るようなくせになっているかをも省りみずに、はじめから当然のことのようにそれら事項が在るものとして、それによりものごとを見て平然としているのも誤まりである。それは、前に書いた、星を見るに、星を見ずに星座を見る見かたに他ならないからだ。

 こうしてみてくると、いまの世のなか、ものの見かた、把えかたが基幹であるというあたりまえなことが、いかに忘れ去られているかが、空恐ろしいほど浮きあがってくる。言うなれば「間」の抜けた、あるいは抜かれた、デジタル思考が横行しているのである。事項を指折り数え(デジタルの原義)その量でものごとが分るというのならば、サン・テグジュペリではないが、辞書でたくさんである。

 そして、それ以上に。教育(小学校から大学まで)の現状の空恐ろしさもまた、目に見えたかたちで見えてくる。

 いま教育は、そのどのステージにおいても、その場限りでは「知識」豊富な、あるいは、ある限られた範囲についてのみ「知織」豊富な、けれどもそうであるが故に、「間」抜けな(見かたしかできない)人間?をせっせと養成しているのではなかろうか。いまさかんに教科書問題が世上をにぎわしている。しかしそれは、どう見ても、そこに盛られる「知識」の質とその相対的な量の多少だけで論じられていて、もっと重要な。「問」抜け人間入門書になっていることについては、全くと言ってよいほど何も指摘されていないのが、私は残念でならない。意地悪く勘ぐるならば、は、世のなかの構造的な不整合が目に見えたかたちで見えてきて、それにつれて、ものごとを構造的に把えようとする人たちも増えてきた、そのくらい(彼らにとって)不都合なことはないから、教科書に盛りこみ羅列する事項の議論へ話をずらしこみ、ものの構造的な把えかたから焦点をずらさせようとしているのではないかとさえ思いたくなる。そしてまた、残念ながら、この構造的に把えようとすることについては、敵も味方も同様に欠けているのは。先に見た通りである。

 先日のこと、東大入学率の高さで有名な某国立大学付属高校の先生と話す機会があった。かねてから疑問であったことを、私は尋ねてみた。彼らは東大で何を学ぼうとしているのか、何をしようとして東大を選ぶのか、と。ところが、彼らは特に何かをしてみたい、というような関心というものがないというのが特徴なのだ(全部がそうだというわけではないが、ほとんどそうだ)というこたえが返ってきた。彼らが理科系や文科系を選ぶのは、全く単に自分の「点」によるのだそうである。私は、ある程度は予想はしていたものの、驚くというよりあきれてものが言えなかった。これは更に言えば恐ろしいことなのだ。このデジタル思考に秀でた「間」抜け人間たちは、いずれの日にか、その多くが役人として行政その他に絶大な権力をもつべく予定されているのである。とんでもない再生産が、むしろ悪循環が、堂々と行なわれているわけである。

 そして、私たちは、その抜かされた「間」に止むを得ず放り出され、不特定多数として十把一からげにして、まとめて数えあげられる対象にされてしまうのだ。彼らには、私たちがあまりにも多種多様、十人十色であるために、そのデジタル能力からはみだしてしまい、そのままでは数えられないからである。

  いま私は、止むを得ずり放り出され、と書いた。しかしそれは、彼らの視点からみてのはなしであって、私たちにとっては、それはあたりまえだ。止むを得ずどころか、十把一からげにされることの方こそが、私たちの望まざる姿なのだ。止むを得ず、そうされて黙ってきた。なぜなら指折り数えることのできない世界にいる私たちにとって、指折り数えるやりかたには、指折り数えられることを、それのみを、善とするやりかたには、一見したところ、打つ手がないからである。指折り数えられるものしか分らない、分ろうとしない、そういう人に、どうしたら指折り数えることのできないものごと:「間」を分らせたらよいのだろうか。はたして「間」抜けの人に「間」を分らせることができるのだろうか。

 しかし私たちは、ついうっかりと、彼らに抵抗しようとして、数えあげることのできないものを、数えあげてみようなどという気をおこして、彼らの土俵にひきこまれて失敗をくりかえす。私たちのなかのどこかに、未だに。「数」に対しての絶大なる信仰が巣くっているからだろうと思う。そして、よく考えてみると、そのような信仰がはじめから私たちのなかに在ったのではなく、それらはあとから私たちのなかに植えつけられたことに気がつくはずだ。何が、だれが、それを植えつけたのか。その一つが、そしてその最たるものが教育、特に初等教育であることは、隠れもない事実である。

 余談だが、このごろの小学生たち特に高学年の子どもたちは、大概腕時計をもっている。そしてその大半以上がデジタル表示である。その方が先進的でかっこよく、ナウいのだそうである(もっとも、これは小学生だけでなく大学生でもそうらしいが)。心配性の私は、また心配したくなる。先きゆき、「時」に対する見かたが、変ってしまうのではないか。永遠の時の流れ:時間、という発想はなくなって、時間とは時刻の集積であるという発想が先にくるようになるのではなかろうか(いまも、既に、そのような気配が感じられるが)。そもそも、私たちにとって、時の流れという感覚があった。いまと、一瞬まえと、一瞬あとと、そしてそのまえ、うしろと延々と、決して断続的でなく連続的に、絶えることなく続く流れの感覚があった。そしてそれを、それをなぞらえるものとして、針の回転運動(による時計)が考案された。砂や水の流れに、それをなぞらえた。それは、私たちの感じている時の流れそのものではないが、それをなぞらえたものである。そういう意味で、こういう表示のしかたを、デジタル表示に対して、アナログ(なぞらえる)表示というのである。なぞらえるやりかたのとき、時刻というのは、あくまでも便宜的なものなのであった。時刻が先に存在したのではない。時の流れ(の感覚)が先ず存在した。時刻は、あくまでも、人々の便宜のために設定されたのだ。このことが忘れられて、私たちにとっての時間というものが、この便宜的に(勝手に)設定された時刻によって左右されるというような。全くの逆転現象があたりまえのことになってしまうのではないかというのが、私の心配である。それは、ますます「それはそれ、‥‥」的思考に拍車をかけることになるだろうと思われるからである。ますます「間」抜けになると思われるからである。

  私が今回、地理の教科書の話からはじめたのは、別段「地理」に対して他意があったからではもちろんない。私たちのものの見かたが、私たちをとりかこむものごとが、あるいはそれらのつくられかた、ものの言われかた全てが「間」抜けな状況になっていること、そしてそれに気づいていないこと、気がつかなくてあたりまえになっていること、更にそれを押し進めようとしていること、それらの空恐ろしさを言いたかったからにすぎない。ものごとを指折り数えるその指のすきまから、だれかがつくった枠組によってものごとを見るその枠組から、私たちのほんとの姿がみなこぼれおち、捨てられる。その空恐ろしさを、どうしても言いたかったからなのだ。そして、なんとかしなければ、というあせりに似た気持になるからだ。

 でも、どうしたらよいのだ。いったいどうしたら「間」抜けを「聞」抜けでなくすることができるだろう。

 それとも、こんなことを思うのは、全くばかげているのであって、「現実」に逆らわずに、すなおに世の大勢に従うのが、りこうというものなのかも知れない。

 しかし、たとえ「現実」に逆らうことになったとしても、「私」自身には逆らいたくない、そのような「現実」に、人の心を逆なでしてもらいたくない、ということに、結局は行きついてしまう。きざっぽく言えば、人間を、人間の営為を、ばかにしてもらいたくないからだ。

 でも、どうしたらよいのか。 どうしたら「間」抜けでなく、私たちは在り得るか。  どうしたら、「間」を抜かされて扱われてしまい、捨てられることに抵抗できるか。

 どうしたら、「間」に生きる私たちの、十把-からげにできない、十人十色、多種多様の私たち個々の、その存在を、「間」抜けな人たちに分らすことができるのか。

 

 「返信」のなかから‥‥「あとがき」にかえて

〇この「通信」に対して、たくさんの返信をいただいている。「通信」のなかみそのものに対する感想、それに関係しての所感、近況報告を混えたもの、いろいろである。

 そのなかで不思議に思ったことがある。私の室をたずねて話をしてゆく学生諸君は、今回の通信の例のように、過去にも多少あった。その人たちが卒業し、この通信を介してのみ話を交わすことになった。そうしてみて、どうも、こういう通信を介してのやりとりの方が、面と向って話をしているときよりも、いわば奥行のある話ができているということに気づいたのだ。

 そんなことを思っているとき、ある文章に出会った。「小さな家でぼくが不便を感じるのは、むずかしいことばでむずかしい思想を議論しはじめると、相手と十分な距離がとれなくなるときだ。ぼくらの考えがちゃんと港へ着くには航海の準備をし、一度や二度走ってみるだけの余裕が必要なのだ。思想という弾丸は、聞くものの耳にとどく前に上下左右のゆれに打ち勝ち、最終的な安定した弾道に落ちつかなければならない。さもないと、それは相手の頭からこぼれおちてしまう‥‥。‥‥もしぼくらがそれぞれの内部にあって話すことのできないもの、あるいはそれを越えたなにかと深みのある交わりをしようとするならば、ぼくらは沈黙をまもるだけでなく、‥‥お互いの声が聞こえないほど肉体的にも離れていなければならないのだ。‥‥」

〇そんな返信のなかに次のようなのがあった。 「‥‥年年歳歳花相似タリ、歳歳年年人同ジカラズ。(という詩があるが)私はそう(ことばどおりには)思わない。人もまた花と同じではないだろうか。同じように見える花にも‥‥それぞれの個性があり美しさがある。花は一時咲きほこり、先を急ぐように散ってゆく。そして次の年になれば、また同じような、でも一本一本がそれぞれに異なった唯一の花を咲かせる。人もまた、大地の流れから、命の流れから見るならば、一時の間花開き次々に移りかわってゆく。どれ一つとして同じものはない。それは、花とどれだけのちがいがあるというのだろう」という趣旨のものであった。

 私は一瞬たじろいだ。それまで私は、たしかにこの句は知ってはいても、単に、人の世の無常を表わす常識的「成句」として扱い済ましていたからだ(つまり、「星座」で見ていたのである)。たしかに、この人のいう通りである。おそらくこれは、多少まだ観念的な気配も見えるけれども、自分がどう生きるべきか考えぬいたその延長上の解釈なのではないかと思う。私にも「星」があらためて見えてきた。そして、次の展開として。こんな詩を思いだした。「‥‥‥どのものも一度在る。一度だけでそれ以上ではない。そしてわれらもまた/一度だけ存在する。二度とない、しかし/たとえ一度だけだが一度存在したこと、/地上に存在したこと、これはかけ換えの無いことらしい。/‥‥‥旅びとが高い山の絶壁から谷間へと持ち帰るのは/だれにも言葉で確かにつかめぬような一握の土ではなく/それはむしろ、確かに獲得した純粋な一語--すなわち黄色や青のりんどうだ。たぶんわれらは、言うためにここに存在しているー一一/家・橋・泉・門・甕・果樹・窓一一一/せいぜいまた一一円柱・塔‥‥と言うために。しかし理解せよ、それは/物たち自身さえも内心に、そういうもので在るとは思いもかけなかったような風に言うためだ。‥‥‥・‥」 この返信の主のような人生観を、もしこの年年歳歳‥の作者がもっていて(多分もっていたと思うが)なおかつこういう「表現」をしたのであるとするとき、この詩の意味が、また一つ深いものになるなあ、私はそう思った。     いずれにしろこういう奥行のある「交流」は机をはさんでの対話では、たしかになかなか生まれないように思う。

〇次のような返信もいただいた。    「障害児や障害児の親のため、援助して下さる方がたくさんいます。その人たちは、逃げられるれど逃げない状態でいるときは、不安定ですけれど、楽しそうに気分よく手伝ってくれます。けれど、本職になったり、押しつけられたりして、逃げられない状態に追い込まれると、とてもつらそうになり、疲れるようなのです。はじめから逃げられない親にしては、何とも複雑な気持です。時には淋しくなります。そうしたことが見えた時に。

 親はまだ一部分逃げられるし、逃げられていた時代もあったのだけれど、本人ははじめから終わりまで逃げれないのだからと思いなおすのですけれど。‥‥」 私は先回、態度としての「逃げる」「逃げない」ということを、そのはじめの所で書いた。しかし、書いていま一つふっきれないものがあった。そこのところを、この返信は、もののみごとに掘りあててくれてしまった。 要は、いま何をするか、しているか、なのではないだろうか(常に苦い思いをかみしめつつ)。

〇返信の一部を勝手に引用したことを。お許しください。   〇今回から字の大きさを変え、レイアウトも変えました。省資源のためです!   〇それぞれなりのご活躍を祈ります。

    1981年7月1日                     下山 眞司 


「筑波通信 №3」 1981年6月

2019-01-21 12:42:21 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №3」1981年6月 A4版12頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

    「筑波通信 №3」  1981年6月

      「逃避」考・・・・・・・・・原子力発電所は「絶対に」安全なのか?

 この通信をはじめて、あっという間に二ヶ月が通りすぎてゆく。ほんとに早いと思う。あの新鮮に輝いていた樹木の緑も、うっとおしい色に変ってゆく。これから梅雨があけ夏の陽が顔をだすまで、この筑波は、一度雨が降ったら水気のなかなかぬけない、吸いこむだけ吸いこんで、それ以上吸いこめない水のたまった、早くいえば泥沼だらけの、いやな季節にさしかかる。しかし、この「いやな」という形容詞は、舗装された地面の上の生活に慣れきった私の言わば勝手気ままな感想にすぎず、そういう土地で、「人は生きてきた」のである。「いや応もなく」生きてきた。「住んだ」のである。人々は、逃げなかった。この場合、「逃げる」とは、その局面から逃けだすことだが、たとえ願望はあっても、それはできない。「そこ」にいることが生きることだからだ。

 正直言って、月に一度ずつ、何かを書く、ましてそれを人に送りつけ読んでもらうなどという大それたことをやれる自信があったわけでもなく、いまだってあるとは言いきれない。第一号をポストに入れるとき、一瞬の間ためらったというのがほんとのところである。しかしもういまさら、逃げだすわけにはゆかない。この場合の「逃げる」では、なにもこんなことをやらなければよいのだから、言わば私は「逃げる」ことのできる局面にいる。だから、逃げられるのに逃げだすわけにはゆかない、と私が思っているということになる。なぜそう思うのか。

 けれども、こういう「制約」を課したためだと思うが、毎日が、身のまわりのことどもが、新鮮に見えてくる。見ざるを得なくなってきた。そういうこともあるけれど、まあこの際目をつぶってまたいつか、などという「逃げ」がきかなくなった。そのせいか、せっかちになったような気がする。そしてたしかにくたびれる。というようなことを、ふとある卒業生にもらしたところ、「もうそんな弱気になってるんですか、だから大学の教師なんて‥‥」という痛烈な一言がかえってきた。どうしてこんなこわい卒業生をつくっちゃったのだろう?! それはともかく、せっかちなのは少し気をつけるとして、くたびれるなどということを口にすること自体、それは既にしてたしかに大学教師の特権(?)に甘えた「逃げ」口上だ。つまるところ、そういう状況をつくってしまった以上、いまさらそこから逃けだすことの合理化はできないのだ。この場合の「逃けだす」というのは、その状況にいることを「やめる」ことだ。大学教師は、なにもその状況のなかに身をおかなくたって、つまり「逃けだしたって」、「生きて」ゆける。しかし、その「生きる」は、農民の場合の「生きる」とは、意味がちがうように思える。大学教師は、なにもしない方が、むしろ安閑として生きてゆける。自分の「研究」という美名にかくれて、なにもしなくたって、なにも見なくたって、生活が保証されてしまう、という意味で「生きて」ゆける。農民はそうはゆかない。彼らは、「生きる」ために、いまいる状況から逃げだすことができない。逃げだすことは、即ち農民をやめることに等しいからだ。大学教師は、逃げだすことの意味も分らなくなっている。私は、そういう大学教師の定型から、「逃けだしたい」。

 こんなこと書くつもりはなかった。ぶっつけなもので、話がすぐ横道にそれる。実は今回は、「逃げる」はなしをしたかったのだ。

  

 昨年、折あって、中国の河西回廊いわゆるシルクロードを訪れることができた。それは非常に貴重な体験であった(それには二つの意味がある。一つはここに書くところの人々の住むすがた見たこと、もう一つは、たまたま一緒に行った人たちが建築の関係者でなく、その関心が私とはちがう研究者であったがために、学問とは何か、いま学問や研究というものが、一般に、どうなってしまっているのか、それがものの見事に見えてきたからだ。また横道にそれだしたくなるが、要は彼らは人々からの金でくらしているくせに、学者・研究者としては「生きて」はいるが、「人間として」の視点を欠いてものを見るだけだ。ああなると、人間の学問でなく、学問・研究のための学問になってしまう。)

 さて、シャンハイからセイアン(昔の長安)を経てトンコウまでおよそ三千km、これほど目に見えて変ってゆく「大地」あるいは、「自然」「風土」というのは、日本に住み慣れた目には、全く想像を絶するはなしであった。それにつれて、その大地への人の対処のしかたも、ものの見事に変ってゆく。

 普通、中国の建物というと、たいがい瓦屋根のそっくりかえったいわゆる中国風の建物を思いうかべるだろう。しかし、あれは中国の建物のなかの全く極く一部のものにすぎず、中国だからといってすぐその姿を思いうかべるのは、ヨーロッパの建物を全て石造りだと思いこんでしまうのと同様に誤りである。単なる事実の見誤りならまだ許せるが、そういう「事実」を基に、西洋の思想は「石の思想」で日本は「木の思想」だなどと言われると、全く困ってしまう。

  それはともかく、ここでは、その屋根のはなしにしぼろうと思う。シルクロードを東から西へ行くにつれ、はじめかなりの勾配(六寸勾配:水平に十行くと六だけ高くなる:以上もある)の瓦屋根であったものが、だんだんとゆるくなり、次いで瓦がなくなり土泥だけの屋根となり、そしてついにはほとんど水平に近い土泥の屋根になってくる(いずれの場合も、その骨組は木造のはりたるきの上によしの類を敷きならべ、その上に、屋敷まわりの土をこねた泥を塗りつけるのが基本となる。瓦は、その上にならべることになる)。

 この変りかた、それは実に見事に、あたりまえだと言ってしまえばそれまでだが、「雨次第」なのだ。

 日本においても、地方、地方によってそれぞれ独特な屋根の形が見られるが、日本のそれは、ただ見た限り、これほど単純明解にあっさりと「雨次第」などと言い切れるようには見えてこない。

 おまけに中国では、日本ではそれこそ絶対にお目にかかれない瓦屋根にぶつかった。

    

よく昔のお寺さんの屋根に見かける本瓦ぶきというやりかたがある。     というやりかたである。ところが、この上側のかぶせの部分のない、つまり      というふきかたに出会ったのだ。すきまからの雨は「問題ない」ということなのだろう(ふいているところを見ると、と石でといですりあわせていたけれども、それですきまがなくなるわけではない)。日本だったらとてもじゃない。

 そうかといって、かぶせがあるから、日本の場合瓦で完全に雨は防げているのだろうか。そうではない。雨だって、そんな他愛ない降りかたじゃない(中国の乾燥地帯に比べると、その百倍以上の雨の降るのが日本である)。中国の場合でも、いかに雨が少いからといって、雨はすきまから入っているはずである。いずれにしろ、雨は瓦の下まで入りこんでいる。瓦だけで雨は防げてない。

 それでいて、なぜ「問題ない」のか。

 要は、たしかに雨は瓦の下へ侵入している。しかし、ぬれては困るところへは顔を出さずに、その前にどこかへ消えてしまう。かといって、雨水がなくなったのではない。室内と関係のないところで処理されたということだ。それを、それ故「問題ない」というのである。

 昔から日本の建物は、四周に軒の出をもつ勾配屋根であった。私が建築を学びだした当時、一般になんとなく、そういう見慣れた屋根の形が古くさく感じられたものであった。平らな屋根の方が、なんとなく新鮮で、「現代的」な形であるように思えてしまい、平らでないとすれば、せいぜい片流れの屋根が「好まれた」のである。おまけに、軒の出も(特に片流れの屋根では)きらわれた。(ところがいまは、これもある卒業生にきいたはなしであるが、逆に平らな屋根に見慣れすぎて、勾配屋根の方が好まれるという。)

 その当時のことをふりかえってみると、屋根の形が「建物の形」としてしか見えず、「屋根の形」としては見えていなかったのではないかと思う。屋根の形は建物の形であることにちがいはないから、この言いかたは妙にきこえるかもしれない。要は、建物という「立体」の形が、それだけが考えられた、ということである。屋根は、ただその「立体」の一部として考えられ、従って、立体の形に対する美的!感覚だけが、その形の決定権をもっていたのだと思う。美的!感覚をくすぐるには、目新しいものの方が手っとりばやく、それ故、見慣れた形が見捨てられ、ただやみくもに「新しい」形が追いもとめられたということだろう。おそらく「新しい」ということの意味さえよく分らなかったのだ。

 そして、こういう傾向をたしなめるでもなく、むしろすすんで保証してくれていたのが、当時の(そしていまも大差ないが)一般的な建築に対する考えかたであり、その最も大きい影響源であるところの「大学教育」であったと、私は思う。屋根の例でいえば、屋根とは単純に、雨水を防ぐものであるから、そうであれば、いかなる形も考えられる、極端にいえば、そのように教えられたのだと言ってよい。

 しかし、建物に降る雨は、「一般的な」雨水ではない。つまり、どこでも同じ雨ではない。ここの雨と、あそこの雨とは、同じ雨でもちがうのだと先ず思わなければならない。場所、場所にその場所なりの雨が降るのだ。雨に限らず場所、場所なりにその場所の「自然」がある。その「場所」で「どう生きるか」、あるいはその「場所」の「自然」に「どう対処するか」(どう対処すれば生きてゆけるか)、それこそがその「場所」に「住んだ」人たちの考えた(別に書斎で考えたのではない)ことなのだ。そうだからこそ、地方、地方で独特な同じような建物ができあがったのだと考えなければならない。そこで「どうするか」と人々が考えた結果が、そういう形で「結果」したのだ。そうでなくて、どうしてああも同じようにならねばならない理由があろう。

 けれどもそれは、あくまでも同じような建物なのであって、決してどれ一つとして同じ建物のないことは注目する必要がある。この点こそ、建売住宅、プレファブ宅そして「公共」住宅の「同じ形」とは「同じ」の意昧のちがう点なのだ。端的にいえば、昔からの民家の群れは、その考えかた同じなのであり、それに対し後者はが同じなのだ。あるいは、前者では、その場所での生活が根にあるのに対し、後者では、その場所とは関係ない「一般的」な生活像?がその根にあると言えばよいだろう。あるいは、流行の言いかたで言えば、前者では「すまい」についての(住むということについての)ソフトウェアが確立しているのに対し、後者では、それなしに(そのようなことはあり得ないにも拘らず)ハードウェアだけがあると言えるだろう。そして、この後者すなわち現代的一般的やりかたの根が、まさに、「水」が防ければ、どんな形でもできるとするやりかたへと連なってゆく。

 私は前回、現代的なやりかたとは、「それはそれ、‥‥」とするやりかたなのだと書いた。そして、そういうやりかたをとる最も現代的な人たちは、自らの「考えかた」は実は自らの体験のなかから抽象されたものであるにも拘らず、それを忘れ「観念的」にそう思っているのだと書いた。しかし、それは好意的で善意ある言いかただったのではないかと、いま私は思う。ことは簡単なので、彼らは、「見えていない」し、「見ない」し又「見ようとしない」にすぎないのだ。仮に「見えて」いたとしても、そんなことに係わるのは面倒くさいから、その局面から逃げて済ますのである。それがつまるところ、「それはそれ、‥‥」という形に、現象として、結果する。そうするとどうなるか。ますます「見えなく」なり、「見よう」ともしなくなるのである。

 もっとも、こんな風な分ったようなことを言っている私自身、こういうとことがなんとなく分りだしたのは、大学を出てしばらくしてからだ。大学で教わったことを、「現場」に身をおく場面において、一枚一枚ひんむかざるを得ないことに気がついてからだ。悲しいかな、未だにひんむきかたがたりないのだ。(それにしても、大学とは、いったい「何」を「教える」ところなのか)。

 また本題からずれだした。もとへ戻そう。

 

 いま私たちが極くあたりまえに目にする平らな屋根、これが日本において流行りだしたのは、極く極く近々のはなしである。もちろん、いくらそれが元をただせば「洋風」だからといって、「洋風」自体が元々から平らな屋根であったわけでもなく、そちらにおいても同様に極く極く近々のはなしなのだ。西洋にだって、わらぶきも、かやぶきも、そして木造の建物さえざらにあり、平らな屋根も全く「雨次第」だったのだ。

「近代」が屋根の「平ら」なることをのぞみ、それを可としたということは、まことによく「近代」を象徴していると、私には思えてならない。

 この平らな屋根では、雨はどうなるか。分りやすく言えば、平らな屋根というのは、建物の上に「盆」がのっているのだと思えばよい。その「盆」にたまった水を、所定の場所から排水する、これが平らな屋根の原理である。万一所定の場所以外から水が流れるようなことがあれば、それは当然ぬれては困るところへ顔をだす、つまり雨もりとなる。しかし、所定の場所を所定たらしめることは、なかなかむづかしく、万一どころか、もっとひんぱんに設計者は、所定以外からの雨もりに悩まされているはずだ。

 こういった雨水の処理のことを一般に「防水」と建築用語では言うが、平らな屋根の場合、コンクリートなどで形づくられた「盆」の上にはられたアスファルトや合成樹脂の層や膜:防水層、防水膜がその役をはたす。この層や膜は、それが水を通さないということが前提となる。もしそれが水を通したら最後、雨水は室内へ顔を出す。それ故、平らな屋根が多用されるにつれて、この防水層、防水膜の技術は、それなりに格段の進歩をみたのは確かである。

 しかし、いまほんの数行まえに、「この層や膜は、それが水を通さないことが前提となる」と、いわば簡単に気楽に書いたけれども実はこれはそんな簡単で気楽なはなしではない。なぜなら、この前提は、それが「絶対に」水を通してはならないという極めて厳しい前提だからである。一滴たりとも水が通れば、すでにして当初の目的ははたされなくなるからである。

 けれども、私自身の経験からいうのだが、水がもるのは必らずこの「絶対に」水が通ってはならないとして処理した箇所からなのだ。すなわち、「絶対に」水の入らないはずのところが「絶対に」雨もり事故の最たるものとなっているというのは疑いない事実なのだ。

 そうだとすると、この平らな屋根を成りたたせる前提たる「絶対に水を通さぬ」技術の「絶対に」とは、いったいどういうことなのであろうか。

 実は、この「絶対」をどう考えるかという点こそが、平らな屋根に代表される現代的やりかたと、瓦屋根のやりかたとの、それこそ絶対的にして本質的なちがいに他ならないのである。いやむしろ、いわゆる伝統的技術(このことばぐらいきらいなことばはない)と一般的に称せられる、人々の間で長い年月にわたる体験をふまえて培われてきた技術と、現代の科学によって裏づけられたとする「現代技術」との、根本的にして本質的なちがいが、まさにここに象徴的に現われているのだと見ることができるだろう。

  屋根について、「伝統的技術」も「現代技術」もともに、その下の屋内に雨水がもれないことを考えた(とここまで書いて、ふと、全然雨の降らない土地にたつ家々にとって、屋根とは何だ、という疑問がわいてきた。これは重要なことだと思う。すまいの本質にかかわりそうだ。屋根は雨のためのみにあるのではないということだ。しかしこの際、雨のはなしに限っておこう)。しかし、この「屋内に雨水がもれないこと」を実現させるのに、この二つの「技術」は全く別のやりかたをとっているのである。

 いわゆる「伝統技術」においては、雨を防ぐからといって直ちに雨水を拒否するというような短絡的な手段はとられていない。むしろ彼らは、雨水を「絶対に」拒否するなどということが、それこそ絶対にあり得ないということを、絶対に知っていたのではないかと思う。それは単に、彼らの技術のレベルにおいてあり得ないというのではなく、そのようなこと、つまり雨水を「絶対に」拒否することが存在し得ないという意味においてである。けれども彼らにとって、雨がもってはならないということは、絶対に必要である。そこで、「絶対に」雨水のもってこない方法が考えられたのだ。彼らは、ちゃんと、雨水のもるのを防ぎたく思うのは、屋内で雨水にぬれるのが困ることだからだということを知っていた。だから、彼らにとってぬれては困るところに雨水が「絶対に」顔を出さなければよいではないかとしたのである。どうしたか。雨水が屋根材を通して入ってきても止むを得ない。しかし、それをそのまま下へは落下させずに、無難なところへ「逃がして」しまえばよいとしたのである。それなら「絶対に」可能である。存在し得る方法である。なぜなら水は高きから低きへ流れ、土にしみこめばいずれは蒸発するという真理をわきまえてさえいればよいからだ。

  このことに気づいたのは、もうだいぶまえのはなしである。なんの本であったか忘れたが、古い茶室のひわだぶき屋根にあけられた天窓の断面詳細図が載っていた。具体的にどうしていたかは覚えていないが、とにかくその見事な「逃げっぷり」(あるいは「逃がしっぷり」)に感嘆したのだけは覚えている。たしか、三段か四段構えで、内側へ侵入してくる雨水を最終的にはまた外側へ「逃がして」しまう工夫が施されていたと思う。そこには、雨水を「止める」という発想はどこにもない。あるのはただ、流れようとする水を「流す」ことだけであり、従ってもちろん、「ためる」などということは、全く考えられてはいないのである。変な言いかたかも知れないが、そこにあるのは、水の本性に対するゆるぎない「信頼」とでも言い得ようか。

 いま私は、日本を例にして見てきたのであるが、とぼしい資料ではあるが、それで見る限り、西洋においても「伝統的技術」にあってなされてきたことは、もちろん「雨次第」ではあるが、いずれにしろ原理的には何らの差が見出せない、つまり同様である。

 これに対し、「現代技術」の雨を防ぐやりかたは、既に書いたように、雨水を「絶対に」拒否する、あるいは断つ、止める、という発想が先にくる。つまり、元でとめれば、当然屋内に入ってくるわけがない、というその意味では何ら異義をさしはさめないくらい「合理的」な考えだ。そして、(私に言わせれば、ドンキホーテ的に)その「合理的」方向で突走ったのである。そのこと自体、いま書いたように、論理的には全くその通りであるから、文句は極めて言いにくい。しかし、論理的に合理的であるということと、それが可能である、存在し得る、ということは全然別である。この防水の例でいうならば、なるほど確かに「元でとめれば、屋内には入らない」だろう。しかしこれが成りたち得るためには、「絶対に、元でとめる」ことができた場合に限られる。(そうでなければ、つまり一滴でも水がもれば、この論理は合理的に破滅する。)けれども、直ちに分ることだと思うが、このような「絶対に」は、それこそ絶対にあり得ない。「努力目標」としての「絶対に」:「絶対指向」はあり得ても、「絶対に」そのものは存在することがあり得ないのである。だから通常言われる「絶対に」は、確率的に言えば、絶対側に近いということにすぎないのである。

 

 すなわち、「現代技術」の追っている「絶対に」と、「伝統的技術」が追ってきたそれとは、全く意味がちがうのだ。「伝統的技術」においては、その目標が何であるかを十分に知った上、それが絶対的に可能な局面において、それを解決しようとする。雨水を「絶対にとめる」ということは絶対にできないという「真実」を見ぬき、その局面には立ち入ることを避けている。逃げている。これに対し、「現代技術」は、きこえよく言えば、この不可能の局面に果敢にも挑戦する。しかし、つまるところは、それは「絶対指向」あるいは「相対的絶対」「確率的絶対」でしかあり得ない。

 この「伝統的技術」の、不可能な局面から逃避し、可能な局面で勝負するやりかたは、その逃避という文字からくる消極的イメージとは逆に、極めて思慮深い、しかも積極的なやりかたなのではないかと、私は思う。しかしいま、現代科学技術への無思慮な信奉は、この不可能な局面での挑戦、「現代技術」の方を正攻法と考えてしまう。だからドンキホーテ的だというのである(彼には申しわけないが)。かといって、私は別に現代の「雨を絶対に拒否するぞ!」を目ざす技術開発を全面的に否定しようとしているのではない。その点は誤解してもらいたくない。前にも書いたが、私は、なる懐古趣味や、文化財保護論で言っているのではない。そうではない。そういう技術開発は確かによいことだ。しかし、いかにしようが、その目ざす「絶対に」はあくまでも「努力目標」にすぎないのであって、そういう「絶対に」に拠ることで、あるいは、そういう性格の「技術」であることを忘れ、それに拠って、絶対に雨がもらない、と考えてしまいがちになるのが、あぶないことだと言っているのである。その点を、わきまえていなければなるまい、と言いたいのである。

 それに第一、雨を防ごうという同一の目的に対して、雨をとめればよいと考えるのと、雨にぬれなければ(「生活」が雨にぬれなければ)よいとすることでは、どちらが当初の目的の理解として正解と言えるだろうか、としばし考えてみるならば、明らかに軍配は、「伝統的技術」の側、つまり「生活」がぬれなければよい、と考える側にあけざるを得ないと、私は思う。なぜなら、もともと雨を防ごうと考えたのは、人々が、雨の日にも雨にぬれないでも生活が営める場所を確保するためだったからである。技術の根に、なによりも「生活」があるということだ。これ以上の正攻法がどこにあろうか。

 

 この現代的やりかたの「絶対(指向)」も、それが雨水に対する対しかたならまだ救われる。「絶対」が絶対でなく雨もりがあったところで、それは確かに困ったことではあるが、もれたのはあくまでもただの水にすぎない。しかしそれが、いま世上をにぎわしている原子炉の放射能もれ、放射性物質のもれであったらどうであるか。

 残念ながら、この場合のもれに対しては、「伝統的」やりかたは通用しない。放射能の特性に従い、それを「逃がして」しまおうというわけにはゆかないからである。水は、ぬれるのはたしかにいやなことではあるが、ただそれだけでは無害である。しかしこれはそうはゆかない。あるのは唯一「止める」「拒否する」ことだけである。

 だがそのやりかたは、既に水について書いたように、「絶対指向」はあり得ても、「絶対」はあり得ない。ということは、放射能、放射能物質は、ある確率で「絶対に近く」防ぐことはできるが、「絶対に」防ぐことはできないということに他ならない(これは、技術がそこまで到達してなくてできないのではない。「絶対」ということ自体が、それこそ絶対に具体的には存在しないという意味だ)。だから、もれることが必らずある。そこで「許容量」という概念が登場するのである。しかし、これは一見正当なことのように見えはするが、裏をかえせば、「絶対に近い」絶対?を「絶対」であるかに装うために、いわば巧妙にしかけられた概念なのではなかろうか。絶対を指向しつつ、早々にそこから逃げだしているのに等しい。第一、「許容」量そのものも、ひとたびそれを決めてしまってからあとは、あたかもそれが「絶対」であるかの如くあつかって、「絶対に近い」絶対を「絶対」だと思いこんで追求するわけだが、よく考えてみれば、それ自体、相対的にして任意の数値でなかったか。早いはなし、この「許容量」なる概念をもちだすことは、既にして、「放射能、放射性物質のもれは、絶対に防ぐことはできない」ということの、なによりの証に他ならない。

 それにも拘らず、「原子力発電所は、絶対に安全だ」と説かれるのは、いったいどういうことだ。(最近、「原発を東京に!」という本のあることを知って、私は非常にうれしかった。そうなのだ、「絶対に安全」なのだから、電力需要の最も大きい東京に原発を置くことぐらい合理的なはなしはないではないか!)

 もしどうしても原発が必要であるとするならば、「原発は決して絶対に安全ではない」という、あたりまえの認識から出発すべきである。それを、単なる論理操作を巧みに行うことによって、あたかも絶対に安全だと思わせるというのが、現代の科学であり技術であるというならば、それはそれこそ絶対に「伝統的技術」に比べ、あるいは比べるに値しないほど数等質が悪いと思わざるを得ないのだ。

 またくりかえすが、彼らは、雨にぬれないことを欲した。けれども彼らは、それが「雨を止める」ことによって求められる、などという短絡的発想はしなかった。彼らは「雨にぬれない」とはどういうことか(彼らの生活にとってどういうことか)知っていたのである。その意味で、彼らはまともに自らの生活において勝負した。彼らは、逃げなかった

 

あとがき 〇夜更け、ほととぎすのなきごえをきいた。夜きくあのなきごえは、思わず人の歩みを止めさせる。私は、たちすくむ。    〇過日、ある人と冷たい雨のなかにいた。うんざりなんだと言ったあと、しばらく間をおいて、でもこの雨で生きてる人がいるんだよね、うん、とその人はつぶやき、独りうなづいた。    〇きびしいことばを含め、いろいろとたよりをいただきほんとにうれしい。勝手な押しつけを、読んでくださった上でのはなしだから、なおさらそう思う。

〇訂正 前号の誤りを訂正します。   1)8ページ7行目 裕然→悠然     2)6ページ末行   そこで見る浅間山が「小ぶり」だと書きましたが、その後再びその場を通ることがあり、その表現は適切でないことに気づきました。そこで見えるそれは、小ぶりでなく、それなりに雄大です。それに比べれば、関東平野のまん中で見るそれは、頂きだけしか見えず、小さい。言いたかったのは、だから、そこでの私にとっての「切実さ」とでもいうべき「感動」の質が「小ぶり」だったとでもいうような、うまく言えないのですが、そういうことだったのです。   だからなのでしょうか、再び見るまでの私は、そこで見た浅間山は実際に小さかったと思い込んでいたのです。大きいとか小さいとか、それは単に絶対的大きさをいうのか、もの同士の相対的大きさをいうのか、それともそこにいる私にとっての大きさをいうのか、よく気をつけないといけないとつくづく思いました。

〇それぞれなりのご活躍を祈ります。

                                       下山眞司

  


「筑波通信 №2」 1981年5月

2019-01-15 11:52:02 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №2」1981年5月 A4版16頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

    「筑波通信 №2」  1981年5月

      「道」楽考・・・・・・・・・それはそれ、昔は昔、いまはいま!?  

 ここしばらく、筑波には新鮮な季節が居すわっている。いろとりどりの花と若緑色の葉は地にあふれ、天にはひばのさえずり、風はおだやかに、そして夜にはその風にのり、かえるの声が遠くの潮騒のようにきこえてくる。素直な自然がうらやましい。

 今日は、できることなら関東平野の地図を拡げながら読んでもらえるとありがたい。

  私が筑波に移り住んで五年目になる。私にとって、ながく東京に住んで都会でない風景に慣れていない私にとって(というより、都会でない風景のなかで長く暮したことのない私にとってーほんとに戦争中の疎開のとき以来である)そのなかで暮すことは、まことに新鮮な体験の連続であった。

 このごろ私は、年に数えるほどしか東京に行かなくなった(刺激がないと退化する、大勢にのりおくれる、おいてきぼりをくう、と「忠告」してくれる人もいる)。その代りというか、この広大な関東平野を歩きまわる(正確には乗りまわる)ことが増えた。そして、そのたびに、東京で考えられていることは大部分誤りに近いのではないか、私が机上で考えていたことも未だなまぬるい、と何度思ったかわからない。           

 たとえば、風土、風土とよくいうけれど、栃木の方から茨城へ向けて南下してくると(地図でいえば、矢板・真岡・下館・下妻・土浦という道すじ)それにつれ、このわずか数十kmの間で、土の色が変ってしまう、そしてそれとともに家々も街々の明るさも微妙に変ってくる、というのは全く目のさめるほどの驚きであった。同じ白壁も、栃木では輝くように土地に映え、南に下るほど沈んでしまう、第一白壁が少くなる。土の色が黒くなるのだ。そして、その目だった変り目が真岡と下館の聞、つまり昔からの栃木と茨城の県境であるというのも非常に興味深いことだ。因みに、近くを流れる鬼怒川も、その辺を境にして上流には砂利の川原も見られるが、それから下流は常に泥土のなかをその色を帯びながら流れてゆく。土地土地にこんな微妙なちがいのあることを、東京にいて分るだろうか、分る気が、分ろうとする気があるだろうか。分るまい、分ろうともしまい。「地面」として(土地としてでなく)均質に見るだけにちがいない。いったい、そんなちがいに何の意味があるかと思うだけだろう。そして、明らかにこの土地土地の人たちはこの微妙なちがいに微妙に対してきたのに(対してきたはずなのに)そうであるにも拘らず、この土地土地にまで「東京」的考えが猛威をふるいだしている、というのはいったいどうしたことか。(不勉強ながら、私の知る限り、この地域の例のちがいについて触れていたのは地理学の本であったと思う。しかし、それはあくまでも関東平野の地質について、ただそれのみについて書かれていたはずだ。)

 こう思うのは、私の、「地方」に移り住んだ私の、ひいき目のせいか。それとも、地元の人にとっては空気のような存在が、私にとっては、はじめての味いの空気のように感じられるからだろうか。あるいは、こんな風に思うなどということは全く異常であって、いかなるちがいがあろうとも、我々の最新「技術」をもってすれば、いかなるところにも同じものがつくれるではないか、そんなちっぽけなちがいなど気にしていたら日が暮れる、と思うことの方が現代的な生きかたなのだろうか。もしそれが「大勢」だというならば、私はあえてそのような「現代」には、たとえ「異常」であろうとも同調したくない。私は「異常」を言いつづけるだろう。なぜなら私は、私の日常を逆なでされたくはないからだ。そして第一、かの東京にだって土地土地の微妙なちがいがあることは、その上に密集した家々などを一皮はいでみれば直ちに分ることだし、そのちがいに応じて生成してきたということも見えてくる。

 私が「異常」なほど「大勢」にさからおうと思うのは、私が「地方」にいれこんだり、昔はよかったと懐古趣昧にふけっているからではない。全くそうではない。そうではなくて、それはそれ、昔は昔、いまはいま、といってすましていられること自体が愚かだと思うからなのだ。

          

          「大日本地図帳 日本区分図Ⅱ」平凡社 (図版の挿入は、投稿者下山悦子によります。以下同じ)

 このごろ、ある設計に係っている関係から、ひんぱんに関東平野を横断して歩いている。私のいる筑波は、広大な関東平野の東端に位置している。東に10 kmも行くと筑波山から連なる丘陵台地にぶつかって、様相も変ってくる。そして西はといえば、これは広大にして壮大、はるかかなたまでかすかな起伏をくりかえしながら平原が拡がっている(だから、その夕日はまさに一見の価値があり、いかに心の冷たい人も、四季それぞれのその表情に、思わず歩をとめ、物思いたくなるだろう)。そして、よく晴れ空気が透明な冬の一日、少し小高いところからは、ほんとにまれなことであるが、はるかかなたに富士山が望見できる。同じような日、これは冬に限らず、ずっと近くに関東平野北辺の那須・日光・赤城へと連なる山々がながめられる。この山なみが一つの谷間(上越線が通っている)をはさみ榛名へと続き、そこから山々は直角に南へ折れ、関東平野西辺の山々:秩父へと連なってゆくのだが、ちょうどその折れまがるあたり、碓氷峠(信越線と国道18号:中山道が越える)のふもとへ、しょっちゅうでかけているのである。つまり、関東平野を東の端から西の端へと、まさに横断するわけである。

 この横断ルートはいろいろあるが、一つは水戸から前橋をつなぐ国道50号にのる手である。筑波から北上し、下館・結城の辺でのり、あと小山(東北線・国道4号:奥州街道と交又)佐野、足利、桐生、前橋と先ほど記した関東平野北辺の日光連山の前山や赤城山のふもとづたいに走ることになる。いうなれば、下毛野国から上毛野国へ(そして信濃国へ)という道すじだ。その一部は、完全に昔の東山道に他ならない。従って、周辺には古代遺跡が集中している。このルートは山々のきわを走っているから、先に記した山々もほとんどその全容は見えず、目にはいってくるのは、それより手前にある山々である。赤城山さえ、小さく見える。しかし、道は常にその片側に山なみをかかえ、同じような小山の連続とはいえ、それなりに場所ごとに特徴があるから、大体どの辺を走っているか、夜なかでも標識を見ずしても見当がつく。

 最近使っているルートはこれとはちがう。それは、先のルートより南へよった平野のまっただなかを走る道である。筑波から下妻を通り、古河へ出る。古河で東北線と国道4号:奥州街道と交又し、古河の西側街はずれで渡良瀬川をわたる。因みにここで奥州街道を南へ、つまり東京よりへ数㎞ゆくと利根川をわたる。つまり、この辺で関東平野を流れる大河川が、それまでどちらかといえば東南へ流れていたのが、台地にぶつかって向きを大きく南へ変えるのだ。

        

         「全国20万分の1地図」財法人 日本地図センター 

 だから、同じように平原状ではあるが、筑波から古河までは台地の上だったのであり(従って畑作地帯であり、水田はその台地を刻むひだのような小河川、あるいは沼地の干拓地だけに見られる)、これから先、館林、太田、新田(にった)、伊勢崎、前橋あるいは高崎と、利根川と先の平野北辺の山々との間の河川の氾濫原を走るのだ。当然水田が圧倒的に多い。(書き忘れたが、50号沿いは畑地が多い。)

 しかしここで簡単に「当然」と書いたが、この辺から利根川南側の埼玉へかけての広大な水田地帯が、いま見るような「当然」の形を成したのはそんなに古くなく、江戸時代前期以後であり、館林、伊勢崎なども新しく、この辺が穀倉地帯になるとともに発展したはずである。新田も、館林などよりは古いけれども、字の如く50号沿いよりは新しい(しかし、「新田」であって、街としては大きくない)。もっとも、50号沿いの足利等の街自体は新しく、ここで言っているのは、50号沿いが早く開けた、だから古代道路:東山道もそこを通っている、それに対し、平野部が開けたのはそれよりおそいという相対的な意味である。               

 四月のはじめ、冬型気圧配置が一時もどってきた極めてよく晴れあがったある日、このルートを走ってみた。渡良瀬川を渡り、道はほぼ西北西に館林へと向う。ちょうど赤城山を目ざす格好になる。そのことははじめのうちそれほど気にしていなかったのだが、その後の体験は、それを気にしないわけにはゆかぬ、という気にさせたのである。

 館林市内に入って道は一旦北へ向う。それは、東京から北上して日光へ向う、奥州街道より一すじ西側の道に他ならない。そのとき私の目にとびこんできたのは、雪をかぶった実にみごとな山容の山塊である。一瞬後それが日光・男体山であることに気がつき、それと同時に、それこそ我が身を疑った。いったいどこへ向っているのかと思ったのである。先刻来、私は北だとか西北西だとか書いてきているが、しかしそれは、いまこの文意を書きながら、地図を見てもらう人たちへの説明のため、地図を拡げて確認しながら言っているのであって、そのときの私には、そのような絶対方位の感覚など全くなかったのである。そのとき私は、極めて大ざっぱに館林、伊勢崎、とだいたいその順に西へ向えばよいと思っていたのであり、そのときも単純に、伊勢崎方向を指し示す道路標識に従って右折したにすぎなかったのである。そして真正面がこれである。しかも、道の両側の家なみの間にくっきりと浮びあがっている。これは偶然ではない。明らかに「意識的」である。これは「あて山」なのだ。日光へ向う道は、まさにこの男体山を目あてに、平野部の湿地の中の微高地(周辺よりわずかに標高が高く比較的水の心配がない:人々はそこに住み、まわりの低地で水田を営む)づたいに走ってきたのだ。館林の遠望は、平野のなかに島のように見えるが、実際それは、湿地の中に浮いている他に比し相対的に大きな島なのだ。その大きさと、平野の中での位置に恵まれていたこと(江戸時代の主要通商路:河川に近い)がその発展を保証したにちがいない。(これに対し、新田(にった)のあたりは、古代末期の新田開発にはちょうどよくても、近世の発展には不向きであったのだ。古代以来村々には栄枯成衰があったのであり、その延長上にいまの町々がある。このことは、他の大きく発展した平野の中の町について共通に言えることだろう。そして明治の鉄道敷設が:通商路の変更が、又それを変えてしまう)。そして、館林の街は、男体山を真正面にすえることで成りたったのだ。おそらくこれは、まちがいない。

  こう分ってくると、館林までの道で見えた赤城山も、あれは「あて山」であったことに気づく。そうなると、それからあとの道のりが、がぜん楽しくなってくる。これから先、たぶん赤城山がより重要な意味をもってくるにちがいない。そして予想どおり、ときには真正面に、ときには右真横に見ながら進むのだ。実際標識は不要である、というより山そのものが「あて」すなわち標識そのものだ。(しかし、夜は全くあてにならない。あてが見えないから、どこを走っているか、まるっきり見当がつかない。これは50号との絶対的なちがいである。古代の道が山ぎわを通るのは、湿地帯が物理的に通りにくいということと同等に、あるいはそれ以上に、たとえ夜は歩かなかったにしても、遠くに見える「あて」よりも、近くにあるものの方をあてにしたかったからにちがいない。)

 このあたりから見る赤城山、これはすばらしい。50号で見るそれとは比較にならない。そしてその左に見える榛名も同様に大きいし、その両山の間に、一段奥に壁をなして輝く雪の山脈:上越国境の山々だろう:もまた見ごとである。

 こういった景色をながめていると、なるほどすぐの周りは平野だけれど、「ここ」つまりこの村々が成りたち得たのは、これらの山々:あてにできる山々があるからなのだ、そんな気が、実感としてわいてくる。具体的な証拠はないが、実際そうだったにちがいない。

 現代人にとってはもはや観光、観賞の対象:見る対象でしかないこういう山々は、ここに住みつく決意をした人々にとっては、そんなものではない、「たよりになる」あるいは「たよりにしなければ居られない」ものとして見えたにちがいない。東京にいて、最も「現代」的な東京にいて、このことの意味が分るだろうか、実感としてもてるだろうか。分りはしまい、もてもしまい。単に「景観」としてしか見ないだろう。にも拘らず、こういう人たちが、「地方」の都市計画や建物を平然とつくってしまう。(私は「景観」という言葉が大きらいです、と言った「地方」出身の卒業生を思いだす。)

         

         「全国20万分の1地図」財法人 日本地図センター 

 さて、館林・太田をすぎて伊勢崎へ向う。右手には、相変らず赤城、榛名の雄大な姿が見え続ける。そしてである。正面にまた見ごとに雪をかぶった山だ。どう見たってそれは浅間山だ。あまりのことに驚く以外ない。しかしそれは、私の知っている浅間山ではない。全く初めて見る、あれはこんなに見ごとだったかと思わずにいられないほど、他を圧して輝いている。私の知っている浅間山は、信越線あるいは国道18号:中山道を走りながら見た「景色」としての浅間山と、八ヶ岳の東側を小海から小諸に向う道すじで見た、もう少し小ぶりのそれだ(そういえば、その道も正面にこの山をすえていた)。 

 これはもう全く偶然ではない。完全に「意識的」だ。「あて山」という言葉はまえから知っていた。「あて山」としての筑波山の存在については、日ごろの実感として分っていた(遠出をして筑波に帰るとき、筑波山が見えてくると、ああ帰りついたな、まちがいなく帰ってきたな、とほっとするのである)。だから、おそらく関東平野において、他の山々がそういう意味を担っているだろうとは、ある程度予測はしていたのである。しかし、これほどまでとは、ついぞ思ってもみなかったのだ。

 そして、高崎をすぎ、安中、松井田と、いよいよ碓氷峠へと上りはじめると、当然ながら浅間山は手前の山に埋没して、あの丸味をおびた山頂がちらっと見えるだけになる。しかし道は、川沿いに上り山々のくびれ:峠をめざせばよく、両側には山はだが上るにつれ迫ってくるから、もう先ほどのようなあて「山」はいらなくてすむ。

  以上ながながと、筑波から西への、関東平野横断での情景を記してきた。そして、なにもこれは関東平野だけでの話ではない。どこでもそうのはずだ。少くとも、旧道はこうだ。だれでも一度は、道路標識のみに従い、まわりに拡がる景色を単なる「景観」として見る、というようなしかたでないしかたで歩いてみてもらえないだろうか。そしてもし、何の知識もないまま平野のまっただなかに放りだされたとしたら、我々の目はいったい何をさがし求めるか空想してみるのも一興である。そうすることによって、初めてそういう所に移り住む気になった人々や、そういう所を通過しようとした人々の「心境」に、ある程度は迫り得るのではないかと思うからだ。またそれをしないと、村や町も、「できあがってしまった」ものとしてしか見えず、「どうしてそうなったか」に対しては、全くといってよいほど関心がなくなってしまうからだ。

 先に、「少くとも、旧道はそうだ」と書いた。実際、このルートにおいても、いたるところに新道、バイ・パスがつくられている。そこでは既に、先のような情景は全く生まれない。もはや目あては、道路標識以外なく、さしずめベルト・コンベアにのっているかの如く走るしかなく、目的に近づいているかどうかは、極端にいえば距離計の目盛りだけがたよりとなる。だから、標識と標識との間を走っているときは、まさに「無用な」途中にすぎず、外に見える風景も白々しく思えてくる。まして標識に初めて知るあるいは予想外の地名でもでていると、これはもう、どうしようもなく不安でいらだってくる。その点、あて山を正面にすえた旧道では、絶対にそういうことはなく、標識を見ても、もうここまで来たか、あそこに行くにはここで分れるのか、などと裕然と構えていられるのだ。つまり標識自体を、それほど重視しないですましている。安心して走っているわけだ。無用な途中とは、少しも思わない。

 しかし、その旧道でも、その特性をなくしてしまうような建てかたの建てものが増えてきている。ここに住んでいる人たちもまた、この特性が分らなくなってきているにちがいない。

 けれども、この人たちの「分らない」ことと、東京の人たちにとっての「分らない」ことでは、その意味がちがうだろう。東京の人たちには、このようなことがあること自体が分らないのであり、ここに住んでいる人たちは、そうあることは分っている、しかしそれはこの人たちにとってはさしずめ空気のような存在だから気がつかない、そういう意味の「分らない」なのだと思われる。そのようなとき、何でも東京風にするのが「近代的、現代的」と思い、思いこまされれば、その「分らない」もまた、ますます東京流の「分らない」に近づいてゆく。そこの特性も、どんどん風化してゆくことになる。

 これも時代のすう勢、栄枯成衰の一形態として、黙って見過していればよいのだろうか。私はそうは思わない、思いたくない。

 いったい「地方」の時代などというけれども、何をもって「地方」というのだろうか。

  おそらくここまでの文章を読むと、なにか私が失なわれてゆくものへの愛惜の念にかられて、つまりある種の懐古趣味で言っているようにきこえるかもしれない。そうではない。この「そうではない」と言いたい、というのが今回の本題なのである。

 私は7ページで、村や町を「できあがった」ものとしてのみ見て「どうしてそうなったか」に関心がなくなる旨のことを書いた。しかし、「どうしてそうなったか」について関心が全く示されていないわけではない。各地方の郷土史研究者、愛好者を含めた歴史研究者、考古学研究者、地理学研究者、あるいは建築史学研究者等により、各地方の成りたちについて、立派な「郷土史」が著されている。それこそ各地で競ってその編さんが行なわれているといって過言でない。そしてまた、各地での新しい開発にともない(皮肉にも)いままで知られていなかった古代~中世遺跡が続々と発見され、新しい資料として加わってゆく。そしてまたそういった史・資料をもとに、横断的に(古代の)集落の成りたち・構成やその変遷等について、あるいは(古代の)道のつくられかたについて(あて山の存在の考証なども含め)など、ある時代の状況がいろいろと論究されている。私もまた、私なりの視点でこれらに対し関心がある。しかし、その関心の内容が、ちがうようだ。

 私が「どうしてそうなったか」と問うとき、なるほどこの問の形式は一見「客観的」なよそおいであるが、私の真意はむしろ、そこに係わりをもった人たちが「どうしてそうしたか」と問うている。

 これに対し、これらの論究のほとんどは、先ず「事実」の編年に終始し、その「事実」の流れの「変遷」に対し「客観的分析」が加えられるという方法(たとえば、ときの政治、経済、社会、技術‥‥状況による、いわゆる要因分析を行う)がとられ、そういう意味での「どうしてそうなったか」なのだといってよいだろう。

 しかし、ここでいう「事実」とは、明らかにいわゆる自然現象としての自然界に見られるそれとはちがう。人々との関係なく存在し得る類のものではない。人々が何かをした、その結果としての「事実」以外のなにものでもない。どうしてそういう「事実」として結果するようになったか、つまり、人々が「どうしてそうしたか」は、そのこと自体は絶対に「事実」としては残らないから、触れられないし、触れようとしないというのが実際である。それが「学的」態度というもので、それに触れるのは、歴史「小説」の世界であるかのようだ。(「常陸風土記」をはじめとする往古の「風土記」には、「どうしてそうなったか」に対して、「どうしてそうしたか」という語りくちで書かれている。その内容の、現代的意味での「事実」としての当否は別として、彼らは極めて「健全」であると思わざるを得ないのだが、それも私の視点がちがうからであろうか。)

 いわゆる「文化財」という概念は、この「学的」態度の延長上にあるのではないだろうか。ある時代の遺物・遺跡を、その時代を代表する「文化」財としてあつかう。そのこと、自体には、私も別段異論はない。しかし、何のために、そうあつかうのか。「学術的価値」の高い資料だからか、その昔こういう時代があった、ということを示すものを残しておきたいからか、あるいは「美的」価値の高いいわゆる「芸術」品だからか、あるいはまた、単に「古い」からか。もしそうであるならば、あえて言わしてもらうが、それは「趣味」。「趣好」以外のなにものでもない。学問自体も、それでは一趣味だ。もしそうだとすると、風土記の作者よりも、「健全」ではないのではなかろうか。彼らには、「いま」がある。「いま」のために「過去」をみている。しかし、「文化財」の発想には、「いま」がない、たぶんないはずだ。人類の「文化」遺産として、えらいことをしたもんだと、ただ感嘆するだけだ。

 しかし、私たちが私たちの「歴史」を知ろうとするのは、いったい何のためなのだろう。それぞれの時代の「事実」を知るということだけなのか。「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という事実を知るためなのか。むしろ、そもそも私たちが私たちの歴史を知ろうとするのは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」としてあつかわない、というより、あつかえない、からこそではなかったか。それはそれとして、どうしても独立の事象としてあつかいかねる、そこには連関がある、それを知ろうとしたのではなかったか。しかし現実はいまや全てにわたり「それはそれ、昔は昔、いまはいま」になってきている。

  この「それはそれ、昔は昔、いまはいま」ということばが頭にうかんだのは、都市計画や建築設計に係わっている人たちとのある会合の席上である。この人たちは、先ほどの表現でいえば、「できあがってしまった」町、そしてそれよりも、これから先「つくりあげる」ことに関心がある人々だといってよかろう。その席で私が「近ごろ学生のなかに、たたみの敷きかた:ならべかたや、障子やふすまなど引きちがい戸で向って左側が奥におさまる、ということを知らな人が増えてきた」という話をもちだしたところ、即座に「そんなこと、どうだっていいんじゃないか、目的がはたせればいいんだ」という反応がかえってきたのである。私には、すぐさま返すうまい言葉が見つからなかった。そして、口には出さず、「それはそれ、昔は昔、いまはいま、か」と思ったのである。この「単純機能主義者」:残念ながらこれも大学教師で都市デザインについての「権威者」で通っている:は明らかに誤っている。しかし、その誤りを指摘しようとしたら、それはもののみかたの根本にさかのぼるから、一昼夜でも済まないであろう。私は、その場での反論はやめにした。そして、これは大変だ、思っていた以上に大変なことになっている、とあらためて感じ、どうしようにもない白けた気分になったのを記憶している。彼は、なぜ学生たちがそういうことを知らなくなったかについて、少しも分っていないし、分ろうとしてもいない。知らないからといって、大したことでない、知らないなら知らないで、それはそれでいいではないかというのである。

 しかし、そういって済ますまえに、彼らが知らないのは、彼らの体験のなかにそれを知る機会がなかったからだ、そしてそれは彼らの住む家が「公団住宅」に代表されるタイプの家だからだ(因みに、「地方」の人にはそれが少い)、そして彼らが何かをつくりだすときの一つの拠りどころは、その彼ら自身の家での体験にある、という厳然たる事実に気がつかなければいけない。第一、「目的」さえはたせればよい、ということでさえ、当の本人が常識的なたたみの敷きかたや引きちがい戸のおさめかたを既に知っていて、そこから「目的」なることを抽象したのだということを忘れている。それともこの大学教師は、目的も機能も、全て自らの体験とは全く関係なく自分の頭の中で「純粋観念」としてでも生まれたとでも思っているのだろうか。おそらくそうなのにちがいない。というより、「忘れている」ことを忘れ、そう思っているのだ。彼ならびに同類の建築に係わりをもつ人々にとって、都市の機能も都市の構造もそして建築の機能も全て、私たちの体験、彼ら自身の体験とは全然別物としてあるにちがいない。いや、彼らには彼ら自身の体験のまえに、建築や都市の観念があるとでもいう方がより適切かも知れない。そう理解することによって初めて、彼らのデザインした都市や建物が、なぜああもそこに住む私たちの日常をさかなぜするものになるのか、よく分る。(しかし、こんなことが分ったってはじまらない。)

 この人たちは、ある町が「どうしてそうなったか」については、関心がない、上記のとおり、それはそれ、昔は昔、だと思っているからだ(もちろん、家々がどうしてそういうかたちになっているかについても関心がない、それは建築史学の関心事であって、彼には関係がないことなのだ)。そして、いまはいま、とばかりハッスルする。しかし、彼らにとって、「いま」とはなにか。私に言わせれば、彼らに「いま」などありはしない。いつだってよいのである。時間を超越しているとあさはかにも思い、それが「真理」だと(勝手にひとりよがって、しかし決してそれがひとりよがりだとも思わずに)思っているのである。彼らは、彼らの「いま」が、彼らだけ、純粋に彼自身によってのみによって、できていると思っているのだ。

 これは私にとって、想像を絶する恐ろしいことだ。なぜなら、それは人間を、人間のやってきたこと、していること:人間の営為をあまりにもばかにしているからだ。

 残念ながらいま、こういう人たちの考えかた、それはすなわちこれまで何度も書いてきた現代的、東京流の考えかたに他ならないが、が主導的になって、いろいろな町や都市やそして建物の計画が行なわれているのである。それがどういうものであるかは、既にこれまで書いてきたことで、ある程度分ってもらえているのではないかと信じたい。要は、「そこ」にいる私たちとは何の関係もないものが、白々しく存在するさまになるのである。おそらく未だかつて、このように恐ろしいかたちでものがつくられたことはなかったにちがいない。いや、なかったと断言していい。

 私は、私たちの生活を、私たちの日常を、私たちの卒直な素直なものに対する感じかた、見かたを先ず尊重したい、信じたいと思う。自信をもちたいと思う。

 いったい人々はいつから、私たちの体験、私たち自身に基づくものよりも、「客観的」データに基づくものの方を信じるようになってしまったのか。

 私たちは、私たちの体験:すなわち「私たち」の存在を忘れ、あるいは見失い、あるいは切り捨て、あるいは知らず、ただいたずらに「抽象的」に「人間的な」町づくり、「調和ある」開発、「豊かな」農村、「地方の」時代などなどの、おためごかしの言辞をもてあそぶ人たちに、たとえ彼らが「専門家」と自称しようが、立ちむかわなければならない。「専門」の何たるかを問い詰めなければならない。

 私たちは、私たちに係わるものごとを、「それはそれ。昔は昔、いまはいま」というかたちで処理することに慣れてしまった、あるいは慣れつつ、あるいは慣らされつつある。慣れてしまうと、人間はずっと昔からそうだったと思って不思議でなくなるから、ますます「それはそれ、‥‥」となってゆく。しかし、こうなったのは、極く近々なのだ。その根は、明治の「近代化」までさかのぼるかもしれないが、ここまで徹底しだしたのは、ここ二・三十年ではないかと思う。敗戦による「価値観」の単純な転換は、過去の「文化」の単純全否定までひきおこした(その同じ論理の上で、正反対の表れかたとしての「復古」願望が出現する)。そしてまた、戦後の、信仰に近いほどの「自然科学」あるいはその「方法」への傾倒は、それに輪をかけたと、私は思っている。この辺のことについては、改めて別に書く。

 私たちは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として、ものごとを「処理する」ことが確かにできる。そして、その方がやり易い。けれども、私たちの日常は、決してそうではない。私たちは、「それはそれ、‥‥」では生きてゆけないし、第一そのようには決して生きていない。前後の連関のない時間など私たちにとっては存在し得ないように、生きている私たちにとって、「それはそれ‥‥」などということは、論理的に言ってもあり得ない。もしも、「それはそれ、‥‥」として「処理する」ように生きているのだと思っている人がいるとすれば(現実にいるわけだが)、それは彼らが全く「うそ」をついているか、自分自身を全く「見て」いないからにちがいない。

 私たちが、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として「生きていない」と気がついたとき、そのとき、あのいわゆる「文化財」も初めて私たちの「いま」に係わってきて、ほんとの意味で「文化財」としてとらえられるのだ(もっともそのとき「文化財」と呼ぶかどうかはしらない)。

 最近、地名に関するシンポジウムが開かれたという。もっと地名を大事にし、それを破壊から守ろうというのであるらしい。その趣旨自体には、私も賛成する。しかし、参加者のなかに幾人かの建築や都市の設計・計画に係わりをもつ人(私には、破壊を卒先してやってきた人たちに見える)の名前を発見して驚いた。「いまさら地名が大事だって?地名に関心があることは、ないよりはよい。しかし、あなたがたがやってきたこと、やっていることこそ、地名を大事にしないことそのものではないのか?それに対して何らかの自己批判があったのか?それはそれとして、わきに置いといて、こんどは地名に口をだすのか?」私はこう尋ねたい。しかし彼らは、なぜ自己批判を求められるのか、そのことさえも分らないだろう。

 よくは分らないが、彼らがそれに参画するのは、地名は過去の時代の「文化」を示している、そして「いま」彼らこそが「いま」の「文化」創造に係わっている、同じ「文化」に係わる「文化人」としてそれに係わるのだ、多分こんなところだろう。要は、「いま」都市や地方の「文化」をつくるのは彼らなのだという「おごり」に近い「自負」があるにちがいない。それに、いまは「地方の時代」というのが流行だし‥‥。

 いまや「地名」まで「文化財」に成り下ってしまった(成り上ったと言うべきか)。そのシンポジウムのテーマ:「文学と地名」「歴史と地名」「地域文化と地名」「都市問題と地名」‥これらは分科会のテーマである:を見る限り(何が話されたかは具体的に知らないから誤解があるかもしれないが)、もしも、ある文学はある土地に根ざして生まれ、それゆえ文学に由緒ある地名がある、あるいはある時代の歴史が地名としてのこり、それゆえ歴史的に由緒ある地名がある、あるいはまた同様に地域文化に由緒ある地名がある、‥‥だからその由緒ある地名を破壊されないように守ろう、大事にしよう、というのであったならば、それだけがその論理、根拠であるとしたならば、残念ながら、それでは決してその破壊を防ぐ手だてにはなり得ない。なぜならば、これでは単なる懐古趣味にすぎず、地名もまた単なる「文化財」にすぎなくなってしまう。この見かたでは、これもまた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として「処理する」しかたの、別のかたちをとった表れかたにすぎないからだ。つまり、これでは、地名を破壊する側と全く同じ論理構造なのだ。同じ論理構造ならば、資本の論理で裏打ちされた側:開発し破壊する側が「勝つ」のは自明ではないか。

 だから無意味だなどと言っているのではない。地名に関心をもつことは、もたないことより、そのことに気がつかないより数等よいことだと思う。しかし、単なる愛惜の情や趣味や教養のためならばともかく、真にこのことを考えるならば、考えようとするならば、私たちは、同じ穴のむじなであってはならないだろう。私たちは、 「勝つ」論理をもたなければならないのだ。

  私はここで、私たちの居住環境:居住空間が、そのつくりかた、つくられかたが、私たちの日常の「感覚」を逆なでするものになってきた、なじまない、なじめないものとなってきていることを、半ば嘆きつつ述べてきた。しかし、分った風に嘆いたからといって、どうにもなりはしないのだ。なんとかしなければならない、私たちが、私たちに忠実に、「うそ」つかずに生きてゆけるために、私たちなんとかしなければならない。人に頼んでいたのでは、私たちの「文化」を人に「依頼」していたのではだめだ。私たちは、私たちで「勝つ」論理を見つけ、共有する必要がある。

  私たちは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という処しかたを、この安易なやりかたを、捨てた方がよい。

        

 そして、およそ人間の係わった、あるいは係わるものごとに対し「どうしてそうなったか」と「客観的」な言いかたで問うまえに、「(人々は)どうしてそうしたか」と問うべきだ。それはすなわち「私たちはどうなるか」ではなく、「私たち(なら)どうするか」という、私たちの問題に連なってくるはずだからである。

 そして全く同様に、およそ人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる「学問」そして「学者」に対し、「専門」ならびにその「専門家」に対して、同じ問いかけをしなければなるまい。この種の学問や専門が「それはそれ‥‥」的内容である限り、それは、私たちにとっても「それはそれ」でしかなく、そういうような「学問」や「専門」が、その「学識経験」に名をかりて私たちの上におおいかぶさることを、私たちは自信をもって拒否しよう。人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる学問や専門が、私たちの「いま」と係わらないということは、その学問、専門にとって致命的な欠陥なのだ。学問の名に値しない、単なる趣味だ。どうして私たちは、彼らの言いなりになる必要があろう!

 

あとがき

・こういうもののみかたというのは、既成の「わくぐみ」があまりにも強固で、そしてまた「教育」されているので、なかなか分ってもらえません。  それで、このごろ、こういう言いかたをすることにしています。  あなたがたが冬の夜空をながめたとしよう。     冬の夜空は全くきれいだ。  しかし、あなたはそのとき、星を見ているか?  「教養」がありすぎて、あなたが見ているのは、星ではなくて、星座(の名前)ではないか?   先ず私と夜空の星が存在し、そして星座(の名前)が、私(たち人間)によって生まれたのではなかったか、と。   どうしてそれを逆に考えてしまって平気なのか、と。

・タイプに向い、ぶっつけで思ったことを、それこそたたきつけております(もっとも電動ですから印圧にでませんが)。   そんなわけで、だらだらとまとまりなくなりました。

・電話や葉書や手紙で、いろいろ便りをいただきました。うれしく思っています。   なかにはいつものような「乱筆」の手書きがいいのに(卒業生の言ですが)などというのがきこえてきましたが、それはご容赦ください。   封筒の宛名ぐらい手書きにしようかとも思いましたが、これも「事務的」に割りきりますので、これもご容赦願います。その代り(!?)署名だけ手書きにします。

それぞれなりのご活躍を祈ります。      

                                 下山 眞司 


「筑波通信 №1」 1981年4月

2019-01-08 09:07:05 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №1」1981年4月 A4版5頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

   「筑波通信 №1」  1981年4月

       「落」語考  

 ことし卒業していった学生の一人から、卒業論文にからんで、よく「自然発生的な集落」などと言うけれども、「集落って何ですか」 「自然発生的というのはどういうことですか」という半ば挑発的にして容易ならざる質問をもらってうろたえたのは、あれはまだ寒い二月のころではなかったか。いまは四月、筑波の野にも陽炎がたち、花のにおいが空気にひそみ、そしてその彼女ももういない。

 そのときのうけこたえの内容はさておき、この「集落」の「落」の字が、やたらと気になってきた。集落、村落、部落、この「落」の字はいったい何か。

 漢和辞典で調べると、「落」の字には、「おちる」「おとす」「死ぬ」‥という「落」の字に対する日常的な感覚からいってまあ分る意味につづいて、「はじめ」「完成」という意味があるのにいささか驚く(とはいえ、我々は「落成」「落慶法要」といったことばを、「落」の字をとりたてて気にもせず、それなりの「成語」として平気で使っている)。そしてその次に、「むら」「むらざと」の意という説明がでてくる。つまり、「落」の字一つで既に集落の意味がこめられていることになる。それにしても、日常的感覚での「落」の意味、そして我々の日常的な「しゅうらく」「そんらく」ということばに対するイメージからは、ちょっと思いおよばない。

 「集落」を辞書的に説明すれば、「いくつかの住居が集まって生活が展開している場所をいう。……集落は村落と都市に大別される。」(平凡社:大百科事典による)。 しかし、この説明ではあまりにもstaticすぎる。なにかしらないが、人が(住居が)まったく偶然に天から降ってわいたかのおもむきがある。それでは、この語に対する外国語はどうか。英・独語では、それはそれぞれsettlement、siedlungになり、それは辞書によればいずれもその本義は、「ある土地への定住」を意味している。つまり、いわば「ただよって」いた人々が定住すること、定住したところなのであって、そこには「天から降ってわいた」という感じがない。人々の「意志」がある。因みにsettlementの語幹settleの項を見ていたら、「据える」「移住する」「落ちつかせる」「決定する」「片づける」という意味があり、私のひいたその辞書のこの語の解説の末尾に、日本語の「すむ」(=住む、済む、澄む)に同様、という説明があって驚いた。

 同様にsiedlungの動詞siedelnは、sitzen,setzen, と同源であるとされ、(動いているものが) 「すわる」あるいは「すわらせる」つまり「おちつかせる」という意味がある。こうみてくると、先に「集落」の説明をstaticに感じたのは、それは、その説明がいけないのであって、「集落」という語そのものには、もともとこれらの外国語同様の意味のあることに気づくのである。つまり、「落」の字の日常的意味、おちる、おとす、おちつく、といった意味が、きわめて重要な意味を担っているのにちがいない。もともとdynamicな意味をもつ事象であるにもかかわらず、説明がstaticにしてしまっているのだ。

 このように、我々がなにげなく使っていることばを次から次へと順にたどってゆくことは、そういうことばをもった我々人間の心が見えてきて、ふと我にかえる場面が多い、いってみれば収穫の多い作業なのだが、ここでは、単にことばのもつ隠れた意味に驚く以上に、もっと「まじめ」に(つまり単なる「教養」あるいは「ものしり」的興味としてでなく)驚き考えねばならないことがあるように思う。

 つまりいま、我々は「すむ」とか「すまう」とか「すまい」「住居」ということの(あるいは、ことばの)本来の重い意味を、あまり重く考えていない、あるいは考えないでまるで当然のように済ましてしまうようになってしまってはいないだろうか。

 いま我々は、とくに都会風に住むのになれた我々は、ある場所に住むということを、まことに他愛なく考えてしまう。それどころかそういう都会風な考えかたが、それこそが「中央文化」の模範であるかの如く、「地方」へも流れてゆく。その他愛なさとは、人はどこにでも住める、ある広さの「地面」さえあれば住める、と気楽に考えてしまう他愛なさである。先に見た集落、siedlung、settlementということばの本来の意味は、あきらかにこの他愛なさに抵抗を示すはずである。

  いま我々は、再びこの重い意味を考えなければならないときにきているのではないかと私は思う。なるほど確かにいま、都会には各地から(中央をめざして)人々が集まり定住するようになるという点は、「現象的」には集落の語義のとおりにみえる。しかしそのときその「定住」は、そもそも先に示した集落、settlement、siedlungなる語の意味では既にない。人々は、「ある場所」にたどりつき、落ちついたのではない、いわば金のなる木にたどりつく、いや、ことばが悪ければ「文化」にたどりつくのだ。「都会の文化」「都会の文化的生活」に。だから「文化」さえあればよいとしてしまう。「すまい」でいえば、「近代的、合理的、機能的」な「すまい」であればよいと思うのだ。いや、それでよいと思うように仕向ける人たちと、それに安易に従ってしまう人たちがいるのだ。 「すまい」の地面、「職場」の地面、「公園」の地面、「レジャー」の地面、‥そういった近代的・合理的・機能的に用意された地面があれば、我々の生活が total に遂行し得ると、あまりにも安易に考えすぎてはいないだろうか。こう考える限りにおいては、ある「土地」の必要はさらさらなく、「地面」がありさえすればたしかにそれですむ。

 しかし、たちどまって考えてみればすぐわかることだが、この考えかたの根には、明らかに、人間(の生活)を理解するには、それをいくつかの要素に分離・分解すればよいという、とんでもない考えがひそんでいる。我々の生活というのは、そんなに他愛ないものなのか。

 そして、いまのほとんどの建築や都市についての考えかたは、こういう「都会風」な考えかたがもとになっている。もはや「土地」ではなく、いかにその「地面(のひろがり)」を「有効に(そこからあがる収益がいかに高く、有効に)」使えるかという視点で律しようとする。よく考えてみると、いわゆる環境破壊というのは、この、ある土地に人がすむということの重い意味を見失なったことに発していると断言して、これは決してまちがいでない。だから、土地を地面としてしかみない人たちが、その一方で自然保護、環境保全‥をとなえたりするのは(つまり視点をかえないのでは)、まったく悲劇的な漫画なのだ。

 しかし、たとえはじめは「地面」にすみついたとしても、あるいは「地面」にすみついているのだという「習慣」にならされていても、人はふと、人が住むというのは「地面」に住むのでない、「土地」に住むのだと気のつくことがある。ことしの二月、世間を一定程度にぎわした中野の教育委員準公選制実現への原動力となった中野・江原の人たちの、あの息のながい運動というのも、この人たちが、このことに気がつき、そしてつい忘れそうになるのを忘れられなかったということにその一因があるのではないかと、私はこのごろ、しきりにそう思う。(この中野・江原の人たちのこと;、やってきたことについては、別の号で紹介をかね私の見方を語らせてもらおうと思う。たぶん、語ることをゆるしてもらえると思うから。)「地面」志向が「特色」の都会にも、「土地」に気づく人たちがいる一方で、いまや、本来それこそ地面でなく「土地」とむかいあわなければならなかったはずの農村にまで「地面」志向の考えかたが浸透しはじめているし、またそれを積極的に推進する人たち:専門家!がいる。それがまた同時に「地方の時代」や「伝統的環境の保護」を説いたりするから、はなしがややこしくなるのである。(因みに、研究社の英和辞典でlocalという単語をひいてみてください。そこに重要な注釈がかいてあります。

 私はよく学生諸君に、文化財なるものを保存・保護する(すればいい)というのはおかしい。古来人々はいさぎよくこわし、建てかえてきたではないか、どんどん建てかえよう!だいたい文化財などといいだしたのは、それをこわしてしまったあと、それ以上のものをつくれそうにないと(なさけなくも)思うようになってしまったからなんだ、とはなすのだが、そうすると、学生諸君は、まさかという顔をしてきいている。悪い冗談かもしれないが、しかし、半分以上本気である。要は、人々のやってきたことの重い意味を分る気もないままに、「伝統的環境の保護」だとか「地方の時代」とか、はたまた「人間的な都市」「豊かな農村」「調和ある開発」等々という、その場かぎりのおためごかしは、おことわりしたいのだ。

 ことばというのは、なんの気なしに慣れてしまうと恐ろしい。それを使う人の考えかたまで、ことによると左右しかねないからだ。最近ある人に教えてもらった田ケ谷雅夫氏の山梨新報にかかれたエッセイに、台湾では、国際「障害者」年のことを国際「残障者」年ということが紹介されていたが(その他、盲学校といわず啓明学校という、などいくつか紹介されている)、私はそこに重い意味の差、つまり、我々の「障害者」に対する対しかたまで左右しかねない重い意味の差を、どうしても見てしまう。 

 はたして、私たちの使い慣れていることばは、その重い意味を担っているか?                                                                                                                                                              1981・4・6

 

あとがき

こんな調子でかき続けたいと思っています。  いろんな人たちに会ってきたけれど、そしてその人たちと話をしたいのだけれど、  いかんせん、みんな遠すぎます。  そこで、こういう具合に一方的に話しかける方法を、  ある人の、ふとした一言をきっかけに思いついたわけです。  田ケ谷さんのエッセイのように、ともすれば埋もれてしまうようないいはなしがあったら、教えて下さい。  そして、こんな文でも読んでくれそうな人がいたら、教えて下さい。  五月にまたかきます。  それぞれなりのご活躍をいのります。                                                                         

                                                          下山 眞司