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「冬の情景・・・・それぞれの冬」  1982年3月

2019-04-23 09:00:01 | 1981年度 「筑波通信」

 

      冬の情景  ・・・・それぞれの冬・・・・    1982年度「筑波通信 №12」

 北国から便りがあった。

 寒い。夜になると気温は急激に下り、寒いという感じを通り越し、ぴりぴりとした無数の冷たい細い空気の糸をひっかきながら歩いているような感じになる。朝、バスに乗れば、乗客の吐く息が窓ガラス一面に氷となってはりついて、外は何も見えない。ときどき、外を見ようとして恥しげもなく(と便りの主は書いている)息を吹きかけてみるのだが、それもたちまち凍ってしまう。あきらめてガラスの上の氷の模様などながめいるうち、ふと気がつくと、先きほどまであった氷模様が、ほんとに一瞬のうちに水滴に変っている。いつも、その変容の瞬間を見たいと心しているのだけれども一瞬いつもおそすぎるようだ。

 これは、ある一人の人の、言わば全く個人的な、その人の情景の描写にすぎないのであるけれども、氷点下〇〇度あるいは積雪〇〇センチなどという表現より、よっぽど確実にその地の冬のありさま:リアリティを私に伝えてくれる。私に伝ったと私が思っていること、それがこの人の情景と全く寸分違わず同一のものであるという保証はない。しかし、分る。この人の直面しているリアリティそのものには決して直面できているわけではないが、極めて近くまで近づいていることだけは確かである。

 筑波も寒い。凍える、という感じである。そうは言っても、この便りのようにぴりぴりした感じには程遠い。しかし夜空はあくまでも透明に凍てつき、星がおそろしいほどにまたたいている。そんな夜、車から降りて身をちぢめて小走りに戸口へ向うときなんとも言い表しようのないにおいに気づくときがある。冬のにおい。冬のにおいとしか言いようのないにおい。澄んで冴え冴えとしたにおい。そういうとき私は、思わず立ち停って深くその空気を吸いこんでいる。冷い空気が内側に浸みわたる。風はない。あたりは森閑としてただひたすらに冷えきっている。それは、雪が降り積もって森閑としている様とは違い、言うならば底ぬけの森閑さだ。こういう冬を筑波に来るまで、私は久しく忘れていた。そうなのだ忘れていたのだ。その昔子どものころ、東京でこういう冬を味わったことがあるような気がする。

 こういった私のなかに「冬」というものを形づくってきた諸々の冬の体験を、いつのまにか私自身みな忘れさってしまい、ただ「冬」の存在だけが残ってしまっていた、そんなことをこの筑波の冬は、そしてこの北国からの便りは、私に思い起こさせてくれる。

 

 こう言ってしまえばなんていうこともなくきこえるかもしれないが、私たちが「冬」というものを知っている根には、その地その地のそれぞれの冬の事象が存在するということだ。それを忘れて、ただなんとなく「冬」が分ってしまっていたような気になっていた身には、例えば先号のあとがきに書いた「ふっこし」という冬独特の、しかもあの地域特有の現象、そしてそれにあてがわれた「ふっこし」ということばに出くわしたり、この北国からの便りを受けとったりすると、それまで持っでいた「冬」の概念も吹っとんでしまい、あらためて冬が新鮮に見えてくる。

 私たちは普通、冬になったとか冬が終って春が来たとか簡単に言って済ましてしまっているけれども、いざ「冬とはなにか」などとことあらたまって問われでもしようものなら、冬とはこれこれだなどという明確な定義などできはしないだろう。数行まえで「冬の概念」などと書いたけれども、それがどういうものかと尋ねられたところで極めて漠然としていて定かにはその抽象的イメージを伝えることはできないのだ。私たちが具体的に伝え得るイメージは、つまるところ私たち自身のそれぞれの冬でしかないのである。

 私たちそれぞれが、その地その地での冬の事象、イメージをもっている。それらは具体的には皆お互い違ったものだ。だからと言って、お互いに「冬」が伝わらないかと言えば、そうではない。先ずおそらく、いまは冬だ、と共通に認めあうだろう。認めあえるだろう。だから私たちは、お互い違う事象に巡りあいながらも、決して明確な線では区画できないけれども、「冬」というあるあいまいな概念は共有していると言うことができるだろう。と言うよりもむしろ、そういう、決して定かではないあるかたまりに対して、私たちは〈冬〉という字をあてがってきたのである。そしてまた私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきたのでもある。

 しかし私たちが、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを忘れてしまったり、気づかなくなったり、あるいはそういう事象がそれ自体存在しなくなったりしたときには、そのときには、「冬」の概念だけが独り歩きをはじめてしまい、そういった概念の根にあったはずの私たちの冬自体の存在さえも、はじめからなかったの如くに扱われだしてしまうのだ.

 私が「ふっこし」のことばに感嘆し、北の便りに心ひかれ、夜気のにおいにたちどまったのも、冬=寒い、厳しい、などと簡単に済ましていたのが、そんな他愛ないものではない、もっともっと生々しいリアリティがその裏に隠されているということに思いを至らしめてくれたからなのだ。それぞれの冬が在ってはじめて「冬」があるのだということを気づかしてくれるからなのだ。

 

 ここに書いたのは、言わば形のないものの理解のしかたについてであった。しかし形あるものに対しては、形ある故に、より一層その理解のしかたが拙劣になってきている。もの私たちにとってのリアリティ:ものの名の名づけ親としての私たちを捨て去った。辞書に書かれている解説文的ものの理解があたりまえになっている。

 最近のこと、いまは造園関係の設計事務所に勤めている卒業生がたずねてきた。いま、学園都市につくる歩行者用道路の設計をしていて、現地を見にきたのだという。きいてみると、計画ではその道のそちこちに、昔の道の四つつじなどによく見かけた石の道しるべをたてるのだそうである。私は思わず道しるべ?とききかえした。

 おそらくこの設計者たちは、歩行者道ということで昔の街道すじでも思い起こしたのだろう。昔の街道は人:歩行者が主人公だった(そんなことは言うまでもない、車がなかったのだから)。そしてそういう街道すじには、そちこちに〇〇へ〇里〇丁などと記した道しるべがたっていた。いまでも古い道沿いなどにこけむした道しるべを見つけることがあり、人々はそれを見てある感懐を抱く。それは現代の標識に比べたらずっと人間的だから(実は、これからあとの展開のしかたがおかしいのだが)この人間優先の街道すじを成りたたしめていた重要な人間的要素であった道しるべを、現代の人間優先の道:歩行者道にも、それをより人間的であらしめるべく、導入・復活させようではないか。これが、この設計者たちが考え思ったことのなかみだと断言して先ずまちがいないだろう。

 

 ここには、二段構えの誤解がある。先ず昔の道しるべに対しての、現代からの思い入れがある。自然石やざっくり切った切石に刻まれた筆書きの字。人間味あふれる道しるべ。しかし、そう思いを入れるまえにもう少しめてものを見ることができないものだろうか。彼らが彼らの時代、道しるべを何でつくろうかと考えたとき、彼らの手にすることのできる材料のなかで、全く当然の帰結として石が選ばれたにすぎないのである。ペンキもプラスチックも活字印刷技術もなかったのだ。別にそういう道しるべの材料や形、あるいは筆の運び、そういったものに人間味があるからという理由でそうしたわけではないのである。それが人間味があっていいなあ、などと思うのは(思うのは全く自由だけれども)現代の人の他の現代的なものとの比較において勝手に思いこんだ思い入れにすぎず、当の道しるべをつくった人たちがそんなはなしをきいたらただただ仰天するだけだろう。

 ところが、こういう思い入れによる理解が、かの道しるべの本質であるかに思いこむと、そこに二段目の誤まりが生れてくる。つまり。道すじを人間味あるものにしているのは、こういう人間味あふるる要素をあしらってあるからだ、という思いこみである。既にそこには、最近よく言われる「人間のための街路」の概念が、そこはかとなく見えてくる。人のための道は、人間味あふれるいろいろな要素を組み合わせることでできあがる。あちこちにべンチなどのいわゆるストリートファニチュアーを置き、樹木をそれらしく植えこみ、路面には色つきタイル・ときには絵なども焼きつけ、歩く部分は直線をきらって人間的な曲線として・・・・これがいま流行りの「人間のための街路」概念を具体化した姿であり、実際にいま、あちらこちらの公園だとか〇〇モールとかで目にすることができる。そういう「人聞のための街路」を歩いていて、歩いているつまり私が自分で自分の意志に従って歩いているのではなく、歩かされているという気分になって白けてくるのは、私が少しばかりひねくれているせいなのだろうか。設計者の親切な人間的配慮にただ従順に従うのが人間的ということなのだろうか、ばかにしないでよとつぶやきたくなるのだ。私には、歩けば足もとから土煙りのあがるような田舎道の方が、よっぽど人間的に思える。

 

 おそらくこういう設計者の頭のなかには、道だとか道しるべだとかを成りたたせ、あらしめてきた、人々の営みの存在は忘れ去られ、ただ、そういった営みの結果成りたった道だとか道しるべを、単にWhatとHowの問いだけで問うてつくりあけた道や道しるべについての概念があるだけなのだ。それは丁度、先々号において書いた、蔵とは物をしまうところ、という理解で済ましてしまうのと同様の理解に他ならない。道とは交通の空間であり、人のための道は人間味のある交通空間である。道しるべとは、人のための道を人間的にあらしめている重要なアクセントである。こういう概念が、多分大かたの設計者には通用しているはずである。言うなれば、道とか道しるべとかいうことばが、その本義とは無縁なところでとびかっているわけで、そういう字に、実にいいかげんなイメージを託して済ましているのである。

 この文のはじめに私は、私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきた、と書いたけれども、いまここで書いた普通一般になってしまっている道や道しるべという字:ことばへのイメージの託しかた、そのなかみは、それとは全く比較さえもできない根なしぐさの虚像である。一言で言うならば、そこには、「私」「私」たち、がぬけおちていて、あるのは「他人」の目、局外者の目、観察者の目、だけなのである。

 考えてもらいたいのは、私たちのことばは、かならず「私」「私」たち、に根ざしていたということだ。ことばが抽象的概念を託されているというのは事実ではあるけれども、しかしそれは、決してこの根と縁を切ることではない。

 

 ほんの一寸たちどまって考えてもらえば分かることだと思うが、道しるべとは道案内いま風に言えば道路標識、そしてそんなものはなければないに越したことはない、そういうものではなかろうか。

 しかし、それがないと迷って困るときがある、場所がある、あるいはあとどのくらいあるのか知りたいことがある。そういったことへの対処として、道しるべはたてられた。だから道しるべは、そういう道行く人々の場面に即応したかたちで、最少必要限でたてられている。決してやたらにあるのではなく、もちろん人間味を付与するためのアクセントなんかでもない。もし強いてそこに人間味を見るとすれば、それは、先ず道というものが道行く「それぞれの人」にとっての道であり、道しるべはその「それぞれの人」にとっての案内であった、そうなるべくつくられていた、という点にある。

 それぞれの人、つまり道行く人々には旅なれた人も旅なれない人も、その地が初めての人も、もう何度も訪れた人もいる。よく知っている人は、道しるべなどに用はない。先ず見向きもしないだろう。しかし、よく知らない人が、ふと不安になったとき、そういう場所は限られるものだが、尋ねて確かめたいと思ったとき、そこに道しるべがたっている。書かれていることはと言えば、まさにそこで尋ねられるだろう当然のことが記されている。尋ねられて応える人の代りにそれはたっている。人ならば、尋ねる人の立場立場に応じた応答ができるだろう。道しるべはそうはゆかない。そうなると、そこに記されることが吟味されねばならないことになる。尋ねられるだろう当然のことその吟味である。そしてそれは当然のことだけれども、道ゆく人々として不特定多数的にくくられた人々ではなく、それぞれの人に思いをはせなければできないのである。そして、そうやってそれらはつくられていたのである。だから、道しるべを不要な人にまで、決して道しるべがしゃしゃりでることはないのである。(いまはどうかといえば、不要な人にまで見えたがる。)

 道そのものにしたって同じである。道がなにゆえに道として成りたつのかは既にして忘れられ、勝手な概念のもとに人間的と称していじくりまわされている。道行く人々、それは、先にも書いたとおりそれぞれの人だ。先を急ぐ人もいるだろうし、あわてる必要のない人もいる。悲しみにくれている人もいるし、有頂天の人もいるだろう。それが人生というもの、人間というものではないか。だから、一本の同じ道を、それぞれの人がそれぞれなりの歩みをもって歩むのだ。道ばたの草木一本一本に見入る人もあろうし、光景にしばし歩を息む人もいる、わき目もふらずしゃにむに歩き続ける人もいるだろう。一本の道、道すじの諸々施設は、そのそれぞれの人に適宜応えていた。人々は、それぞれなりの判断で歩をすすめたのだ。道は、それに応えていた。

 ところがいまの「人間的街路」はどうだ。曲る必要を認めない人も、無理に人間的曲線なりに歩かされ、見たくもない人まで強引に、用意された光景を見させられ、見る用もない道しるべを読まないと通れない。この「人間的街路」では、人々は一つのパターンの歩みだけ用意されている。それに基いてのみ考案されている。人々は、それぞれの人ではなく、あるいは、それぞれの人であってはならず、設計者の設定したところの「期待される人間」でなければならない。そして、あろうことか、人々の多くもまた、そうすることが、そうすることのみが現代的であるとでも思うのか、唯々諾々とその期待に従っている。いや、自らの感性に拠る判断、あるいは感性そのものを押しころすことがよいことのように思って済ましている。道や道しるべというもの、あるいはそういうことば、そして歩むということ自体、それが個々人それぞれにとって何であったか、何であるかが省みもされず、リアリティとの直面をきらい、いつの日にかに(他人の手により、あるいは目によって)つくられてしまっていたできあいの虚像のことばでことを処理して済ますのに慣れきってしまっている。

 

 なるほど確かに一つ一つのことがらについてその根:リアリティへの直面:にまでさかのぼってみるということは、できあいのことばで済ましてしまうよりも、しんどくて時聞のかかることであり、その意味では(とにかくことを一見早く片づけてしまうという意味では)決して効率的とは言い難く、忙しい日常では一々そんなことやっていられるかと思いたくもなり、あるいはせっかくそういうできあいのことばが既にあるのだからそこからスタートする方が効率的だと思いたくなるのも人情というものかもしれない。しかし、おそらくこれがー番(人間にとって)危険なことなのだ。特に効率的=合理的=望ましきこと、と見なしがちな現代において最も危険なことなのだ。そして特に、ものを考えたり行動したりすることに対して、一定の定型・規範が提起されるようになってきているいま:教科書を一定の型に整えようとする動きなどはその最もたるものだ:極めて危険がことなのだ。

 なぜなら、人間の係わることも含めて一切のことがらが、効率的であらんがため、そしてまた(勝手につくられてしまった)一定の定型・規範に則らせようとして、一定、特定の「機構」のなかに封じ込められてしまうからだ。そして、そうするために、個々の特殊:それぞれの人のありかたが、徹底的に切り捨てられてしまうからだ。一般的あるいは普遍的であるがためには、個々の特殊は切り捨てなければならぬとする空恐ろしくもものすごい神話が、まるであたりまえのようにはびこっている。人間的であるということさえも、人間的であると称するある一つの定型のうちに押し込められてしまうのだ。

 

 私たちの身に降りかかってくるこのような危険を避ける唯一の方法は、私たちが私たち自らの判断をする権利を留保することでしかないだろう。もし仮にいまの体制をくつがえす革命が成就したとして、しかしそれの目指すものが別種のよき定型であるならば、あの空恐ろしい神話は不滅であり私たちには相変らず危険が降りかかる。だから、つまるところ、私たちがしなければならないことは、個を捨ててよき定型を探し求めることなのではなく、私たちが私たち自らによるとことんつきつめた判断を積み重ねることなのだ。先ず初めに抽象的な冬を語るのではなく、先ず初めにそれぞれの冬を語らねばならないのだ。そして、それぞれの冬を語るためには、私たちは私たちそれぞれの感性に信をおかねばならない、それぞれの感性を研ぎ澄ませなければなるまい。

 

 春を待ちこがれる想いが、美しい言葉をつくりあけた。あざやかな日本の自然が生んだ「言葉の宝庫」、すなわち「感性の辞典」。 これは最近見かけたある「歳時記」の広告にあったキャッチフレーズである。そして、陽春・芳春・・・春寒し・おそ春・春めく、といったいくつかのことばが例記され、更に、「四季を知る。言葉を知る。日本を知る。〇〇歳時記」とある。

 私も歳時記を見るのがきらいではない。見事なことば、鋭い感性に圧倒される。四季を知る、言葉を知る、日本を知る、確かにそれはうそではない。感性の辞典、それも確かである。

 しかしふと思う。こういたことばまでもが、既にして「文化財」になってしまっているのではないか。あるいは、日常の世界においてではなく俳句の世界においてのみ、しかも既にリアリティとの対応は失い、ただリアリティとの対応のあった時代にそのことばにこめられてきたイメージ:いまではもう仮構のものでしかないイメージ:にのみ頼って、それらのことばが使われているのではないか。もちろんそれをやみくもに否定するつもりはない。それはそれで一向に構わない。それもことばというものの宿命なのだから。

 けれども、もとをただせば、これらのことばは皆、日常のことばであった。決して特殊な世界のことばでなかった。日常における感性の発露であったのだ。そしていま、私たちは私たちの感性を、どうして詩の世界にのみ押しこめてしまうのか。日常の世界からしめだしてしまうのか。「文化財」にしてしまうのか。私たちの日常に、感性の発露の場面がないとでもいうのだろうか。そんなことはない。何も感性が季節あるいは季節の移り変りに対してのみ向けられていたのではない。それは日常の生に向けられていたのだ。ただ、その日常の生活が、いまよりも、より季節とともにあった、だからそういう感性の発露:ことばを季節でもって括ることができた、それだけのことだ。いま、私たちには私たちの、いまの日常がある。

 私が「ふっこし」ということばに感嘆したのは、そこに、他のだれのでもない、まさにそこにいま生き住まう人たちの感性を見るからなのだ。そしてそのことばは、そこに往きあったその土地の者でない私にも瞬時にして「分る」ことばだからなのだ。そのことばが「本質」を示してくれるからなのだ。冒頭に引いた北国からの便りにあった言を借りるならば「大地と風と生あるものと。そこには、形をなすものたちの根源的な係わりあい、係わりかたがある」からなのだ。

 北国からの便りは、次のように終っていた。「冬は厳しい。しかし、冬の厳しさには甘えがあります。」

 

あとがき 

〇季節はずれの題目なのは、これを書きはじめたのが二月初旬のことだったからである。

先号あとがきの「ふっこし」のはなしも、先号の本文を書き終わったあとでの体験であり、もう少し早くその目に会っていたら、当然本文中で触れただろう。辛うじてあとがきに間にあった。

〇あまりに私がこのはなしにこだわるものだから、まわりの人は少しばかりけげんな顔をし、私もこれは少しばかり感激のしすぎかなと思っていたのだが、どうもそうでもないらしく、本文よりもこのあとがきのはなしに関心を示した感想がいくつかきこえてきた。今号に引いた北国の便りもその一つである。

ついでに言えば、「ふっこし」ということばが通じるのは極めて限られた地域のようだ。そこから東に二十kmほどはなれた前橋で育った人は、このことばをきいたこともないという。北に十数km行った榛名町(榛名山南ろくの町)の人は、たまたま電話したとき「いまちょうどふっこしでうっすらと白くなっています」と言っていたから、そこでは通用するのである。このことばの通用する土地を地図上に色塗りしてゆくと、おそらく、ほんとの意味の風土地図が描けるだろう。それは人と土地との係わりあいを示す地図である。このことばは言って見れば「方言」なのだが、しかしそれは、そういう事象の起きない場所には絶対輸出されないことばなのだ。

 〇試みに手もとの辞書で「ふゆ」とひくと。四季のー、秋の次の季節、四季のうちで一番寒い季節。通常十二月から二月までを言う、旧暦では・・・・などとでている。こうなれば、「あき」とひくとどう書かれているか、ひかなくたって分ってしまう。

「みち」とひくと、人や車の往来するところ、「みちしるべ」は、道すじを示すもの、道案内。これが辞書の解説である。

これらの辞書の解説は決してうそではない。まちがってはいない。しかし私が今号で言いたかったことは、こういう辞書的理解で全てを律することは危険である、少なくともものをつくる、あるいは私たちの生活を考える場面において、こういう辞書的理解から出発することはまちがいだ、ということだ。

ものをつくる、あるいは私たちの生活を考えるということは、すなわちそれらの存在の(私たちにとっての)意味を考えることだ。そうであるとき、〈冬〉も〈道〉も〈道しるべ〉も、どれも皆そのことばが先に在ったのではなく、それらは全て私たちが(古来人々が)名づけ、つくり、そしてまた妥当な名づけであるとして、妥当なものとして、認めてきたものなのだ、こういう視点で理解をすべきことなのではないだろうか。私はこのことを言いたかったのだ。そして。名づけること、つくること、すなわち生活の営み、それを根底的にとりしきってきたもの、それはつまるところ私たちそれぞれの感性なのだ、このことを言いたかった。うまく伝わる文になったか、いささか心もとない。

 〇今号でちょうど一サイクルが閉じる。来号を1号にして、また出なおして続けさせていただきます。今後もご笑覧、そしてご批判ください。

〇それぞれなりのご活躍を祈ります。そして、そのそれぞれが共有されることを!

     1982.3.1                     下山 眞司 


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「『今昔』 の評釈について」  1982年2月

2019-04-11 12:18:51 | 1981年度 「筑波通信」

 

       「今昔」の評釈について       1981年度「筑波通信 №11

秦恒平著「梁塵秘抄」

 〈熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も達からず〉

熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽賜べ若王子〉

結局はどっちも「遠い」ということを歌っている・・・・  

 和歌山県南端の紀伊熊野の本宮、新宮への参詣は十二世紀ごろにわかに盛んとなりとくに後白河院は生涯に三十三度もはるばる往来されたと申します。‥‥

 熊野へ参る道は、京都から、大きく分けて三通りほどございました。が、いずれを通っても難路峻路。途中、「――王子」と申しまして宿舎にもあてられるいくつもの末杜があった。一行は王子ごとに神前に歌を献じたり、今様の遊びを楽しんだり、そこへ遊び女たちも寄ってきたりして、信仰と物見遊山との入り混じった行楽気分もたしかにあったわけです。が何しろべらぼうに遠い。・・・・・・・・

・・・・私どもは飛行機も新幹線ももっている。そのためにかえってせかせかしています。歩いて三十分などという距離を昨今の都会人なら決して歩こうとせず、乗物を求め、乗物がない場所を称して不便な場所という。

 その感覚で昔のものを続みますと、例えば京都から熊野まで生涯に三十三度も通う人物がいるのが信じれない。現代人にはただの一度でさえそんなことを試みる人はいない。物理的に違いどころでない、心理的に迫っつかない遠さを感じてしまいます。

 むろん「うた」にもあるように昔の人にも遠かった。そして危険で不便で難儀でした。のに、くりかえし往反する。・・・・

 西行や芭蕉の漂泊感覚と、それを現代から想いやる漂白への想像とには、よほど時間感覚や距離感覚に違いがあったことをよく弁えないととんだ錯覚を生じます。現代の論者はやたら彼らの漂白を過大に評価しすぎます。一度家を出れば生涯帰らぬかもしれぬ中国人の長旅とは違います。そのまねなのです。その実はちゃんと用向きのある旅をけろっとした顔でしていたわけです。

 歩くしかない時代に時間をかけて歩いて行くことは、乗物万能の時代の人間には分らないタチの当然という感覚が働いていたはずです。私は熊野路をバスや車で二度通っています。遠いなあ、よくこんな処を歩いたものだとあきれ返ったものですが、それは比較してものを言うのであって、昔の人にはせいぜい大空の鳥の翼を想うしかなかった。自分の脚しかなかったのだから、行きたければ歩いて行き、歩いて行ける処までは遠くても構わず疑いもせずに歩いて行った。・・・・・

 

 この正月休み、本を読むことに徹してすごした。といって、そんなに重い本ではない。ここに引いたのは、そのなかの一冊、秦恒平著「梁塵秘抄」のなかに見つけた文章である(NHKブックス311)。全般に、この著者の評釈は、私にもよく分り楽しかったのだが、丁度№10で峠道のことを書いたばかりでもあったから、この部分が私の目をひいたのである。

 実際、古文をこういう形で評釈している本には初めてぶつかったような気がする。高校あたりで習った古文は、考えてみれば実につまらなかった。こういう類の評釈も混えて教えられたならば、それは単に古きものという趣味を越えて、より生き生きとしたものとして私たちに吸収されただろう。得るところがもっともっと多かったに違いないとつくづく思う。(本当に、何故古文が教えられているのだろうか。)

 私はいま、この文章を「遠さ」のはなしにひかれて引用したのだが、実は著者は、時間感覚の時代による違いについて述べんがためにこの一節を書いている。「梁塵秘抄」に集められている「うた」は、どれも本当に「うたう」もの、つまりただ文字を目で追い読むものではなかった。著者は、それがどういう調子、どういうテンポでうたわれるのか知りたかった。残念ながらレコードも録音機もない時代のはなしである。「秘抄」には楽譜が示されているようだけれども、しかしそれだけでは調子もテンポも分らない。一度、「秘抄」の「うた」の復元の試みがなされ、著者もそれを聴いたのだが、あまりにも悠長で納得がゆかなかった。だが、納得がゆかないと思っているのは、あくまでも現代の自分であって、彼等の時代はこれでよいのかもしれない。それでもなおかつ、「うた」のなかみから考えると、いま一つその復元だという「うたいかた」に対して疑念がわいてくる。つまるところ、分らない。このことにからんで著者は上記の評釈を書いたのである。そしてその節のおしまいごろで著者は次のように書いている:「この時間感覚(上記引用部分で書かれたことを受ける)を思えば、「秘抄」の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するより、それが当時の人には十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しまれていたことを信じるので、足りているのだなと私は思うのです。」

 

 この評釈に誘われて、今回は、時代の違い、あるいは違う時代につくられたものを「分る」ということについて、少しばかり考えてみようと思う。

 いま私自身この「秘抄」に集められている「うた」の数々を読んでいると、素直にすんなりと分る(という気になる)もの:〈遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ〉などはその一例:と、うたわれていることつまり文意は分るけれどもなかなかそのリアリティにはたどりつき難いものとがある。引用した文の頭初の「うた」はこの後者の例だ。そのリアリティに到達するには、その状況をつかむために相当の想像力を働かせなければならない。

 そして、そのリアリティへの近づきかたの程度によって、その「うた」の分りかたの深浅もまた変ってくる。かといって、このリアリティなるものも、これがそれだというような絶対的な確としたものがあるわけではなく、それもまた想像力の産物以外のなにものでもない。その「うた」が言おうとしていること、その概念はすぐ分る。遠かっただろう、それは分る。そのとき、極力それが詠まれたであろう(と思われる)状況を想定して、そこへ我が身をのめりこませていったとき、その「速さ」が単なる言わば抽象的な「速さ」ではなく、「その遠さ」としてみえてくるような気になってくる。つまるところ、その状況に実際にいたわけでもない私にできることといえば、そこまでである。

 それ故、それから先、考えかたが二つに分かれてしまう。すなわち、古のものあるいは古の状況は「だから絶対に分らない、分り得ない」とするか「それでも相対的に分る。分り得る」とするかである。古の状況がいま見られるわけはないし、そのとき人々がなした営為、その過程は、あたりまえだが、その場ですぐ見えなくなる性質のものだ。残っているのは「結果」だけ。具体的に目に見える形で在るものにしか信がおけないとするならば、前者の立場になるだろう。そのときそれは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として扱い済ます立場にもうすぐだ。

 私は無論後者の立場をとる。人々のなした営為は、それが目の前に形をなして存しなくても見えるとする。つまり、決して絶対ではないが、相対的に分るのだとする立場をとる。私は人間の感性を信ずるからである。その普遍性を信ずるからである。

 いまの私たちの時間感覚、距離感覚をもって先の「うた」を分ろうとしたら、到底信じられない、ばかなことをやったもんだと思うのがおちだろう。しかし、彼等のいたと思われる状況が想定し得たとき、その想定した状況に放りこまれた私が思うことは、彼等が思ったことと、ほとんど変りないはずなのだ。感性を信ずるというのは、そういう意味だ。(なにもいまと昔とのはなしに限らず、いま私たちが互いに話ができるというのも、私たちが互いの状況を想定しそこで思うだろうことを想定し得るということに裏打ちされているのだ。互いの感性に信がおけるからこそ言葉というものが存在するのではなかったか。少なくとも日常的に私たちが使っている言語:自然言語はそれ故に存在すると言ってよいだろう。

 しかしいま、数式に代表されるような科学言語の方に信がおかれ、自然言語をも、従って人間のやることをも、科学言語的に扱おうとする気配がありはしないだろうか。自然言語つまり普通の言葉はあいまいで絶対的でなく相対的だからに違いない。しかし、自然言語というのはいわゆる科学的分析により保証されたものでなく、私たちそれぞれの感性に保証されているわけであるから、その自然言語に信がおけないということは、すなわち私たちの感性に信がおけないということに他ならない。つまりいま私たちは、日常的に自然言語は使っているのに、互いに互いの感性を信じなくなったということだ。

 「自然言語の概念は、漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として作られた科学言語の明確な言葉よりも、いっそう安定しているように思われる。これは事実驚くには当らない、というのは自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。なるほど非常にはっきりとは定義されていないが、従ってまた数世紀の間にリアリティそのものと同じように変化を受けるかもしれないが、しかしいつになってもリアリティとの直接の連絡を失うことはない。・・・・科学言語は、理想化の過程と明確な定義とを通すことにより、リアリティとの直接の連絡は失われる。その概念は研究の対象であった自然の部分においてはリアリティとやはり非常に密接に対応しているが、しかし他の現象を含む別の部分においては、対応が失われるおそれがある。」これは、いまや人文科学の分野の人たちまでもが理想の形式としてそれへの傾斜を深めているところの、当の自然科学の一つ、ある物理学者の言である。:ハイゼンベルク「現代物理学の思想」1958

 

 先にも書いたが、およそ人のやることは、それはある状況において人がやることなのだが、「結果」は残っても、その状況はもとより、そこにおいて人がやった「過程」は残らず消えてしまう。そして、考えてみれば、いま私たちのまわりをとり囲んでいるものの大部分は、そういった「結果」の群なのだと言っても決して言いすぎでないだろう。言いかたを変えれば、過去の「遺物」にとり囲まれているのである。しかし私たちは、よほどのものでない限り、それらを「遺物」とは思わずに暮している。ということは、それらの過去の「結果」が、少なくともいまのところ、私たちの日ごろの暮しに何らかの係わりを(十分かどうかは別として)はたしていてくれることを認めているということだ。

 それはすなわち、それらの過去の「結果」が、いまの私たちによって(それが過去になされたことであるにも拘らず)分るということに他ならない。つまり、その「結果」の私たちにとっての意味が分るということだ。しかし、その分りかたが、それらの「結果」をあらしめた人たちの分りかた(あるいはその状況)とまるっきり同一であるとする絶対的保証は残念ながらない。というより、あたりまえなこととして存在しない。だからといって短絡的に、それ故過去のものは絶対に分らないとするのは早計というものだろう。私たちには、その分りかたの深浅はともあれその本質は、いつの時代であれ、相対的に分ることができるのだ。私は、そう見たい。

 

 常陸風土記をはじめとする風土記において、それを編んだ人たちの生活に何の係わりもない得体の知れない「遺物」(彼等にも、得体は知れないが、自然のものでなく人為的なものと見えたのだ)に対して、彼等が彼等なりの説明を懸命に(現代の目から見ればこっけいに)施そうとしているのを読むことができる。」

 この「遺物」それは例えば、現代の考古学的知識で言えば、縄文の堅穴住居跡や貝塚である。彼等がそこら辺に住みだしたとき、それらは既にそこにあった。明らかに人為的だ。だれかが何かをやったのだ。が、彼等の生活とは何の係わりもない。「遺物」でしかない。けれども彼等はそれを放っておかなかった。彼等はそれら「遺物」と自分たちのいまとの間の空白を埋めるべく、壮大な物語を案出する。いわゆる巨人伝説につながる話などがそれだ。(当時の)海岸よりはるか離れた、それ故運ぶのさえ大変だと思われるような所に海の貝がらが山と積まれて捨てられていて、近くには大きな穴があたかも足跡のように残っている。そこで人々は、海岸とその土地を一またぎするような巨人がいて、そこで貝をとっては食べたのだという壮大な物語をつくりあげたのである。そういう人々のなかに伝わっていた話などを基に編まれたもの、それが風土記なのだ。

 そこには、こういう話の他にも、土地の名前の由来だとか、ものの由来だとか、思わず楽しくなるような大らかな解説が書かれている。言うならば荒唐無稽な話ばかりだ。しかし、壮大な物語だとか荒唐無稽だとか評しているのは、やはり、あくまでもいまの私たちの状況に身をおいての見かたなのであって、それは彼等の、その得体の知れな人為的な「遺物」と自分たちとの間の断絶を埋めようとする、彼等にあってせいいっぱいの合理化作業:科学的営為だったと見るべきだろう。(私たちが、当時の状況にいたとしたら、私たちもまた同じような話をつくったに違いないと私は思う。)

 私はいつも思う。彼等は、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として済ましてしまういまの一部の人たちよりも、数等秀れて健全な精神の持主であったと。なぜなら彼等は過去といまとの連関を問おうとした。

 しかしいま、「結果」と他の「結果」の間の連関を問おうとさえしなくなりつつあるし、ましてそのそれぞれの「結果」を成らしめた状況:人々のおかれた状況そしてそこで人々の思った情況:を想像力を駆使して思いやるなどということもなくなりつつある。むしろ、いまでは、科学的であろうとすればするほど、そんな不確なことばかりに忌みきらわれるのがおちである。

 しかしながら私たちをとり囲んでいるものの多くが、過去の「結果」であるというのは厳然たる事実のはずなのだ。それらを、いまの私たちが分るか分らないかが、だから問題なのだ。そして普通は、日常的には分っているのである。それが意識されていないだけなのだ。だから、よほどのことでもない限り、そういう過去に成されたものに対して、それを「遺物」だとは思わずにいまのもの同様に扱っている。これは、古来人々がやってきたことと、何の変りもない。そして、これは既に何度も言ってきたことだけれども、人々はそれらのものがよほどのことになってくれば、つまり状況が変ってもはや「遺物」になりかかりそうになってくれば、すすんでつくりかえを試みるのである。それは部分的な改造であるかもしれないし、あるいは全面的な更新であるかもしれない。その行動の拠りどころになっていること、それは「分る」ということであった。しかしそれは、新しいものあるいはいまが分るということではなく、既に在ったもの、とりこわそうとしているもの、それをも「分る」ということである。すなわち。ものの(私たちにとっての)意味が、時代を越えて、私たちに(相対的に)分るということが前提にあって可能であったのだ。そしてそれは、つまるところ、ものに対する人の感性に信をおいていたということに他ならないだろう。

 しかしながらいま、分るということが、目に見えるものを知ることのみであるかのように誤解される傾向が強いから、目には見えないそれを成した人々の営為が黙殺されてしまう。ある時代の結果は、ある時代の人々の成した結果であるにも拘らず、そして人々の成したことは相対的に分る性質のものであるにも拘らず、単純に古くて役にたたないもの、せいぜいある時代の記念碑としてのみ扱い済まされてしまうのである。

 確かに一方で、古いもの、伝統(的なもの)を大事にする人たちがいるけれどもその人たちの多くは、言わば骨とう趣味的に古いものに興味を示しているに過ぎないと言ってよく(先号で書いた例のように)、構造的には、上述した役たたずとして無視する立場を裏返した見かたでしかないと、私は思う。ともに、人の営為を見ず、見ようとせず、見えるもの:結果だけをあげつらう点において何の違いもない。先号の言いかたで言えば、What だけで問うようになってしまっているのである。そして、こういう傾向が強くなったからこそ、過去と現在の間に、どうしようもない裂け目が入り、そしてそれがますます大きくなってゆくのである。「伝統」などという言葉がことさらに言われるようになるということは、その裂け目に目が向きだしたことには変りないけれども、しかしそれをWhat だけで問うている限りでは、これもまた、あの風土記の時代の人々よりも数等質が悪いように、私には思えてならない。

 

 私はいま、ある住居の設計で、現場で大工さんと接している。三十代後半の人たちのようだ。私は驚いたのだが、いわゆる建築用語で言うところの見えがかりのおさまりについて、私の方がよく知っているのだ。

 見えがかりのおさまりというのは、二つ以上のもの(材料)がぶつかったときの、そのぶつけかたの作法だと言えばよいだろう。私は設計屋ではあっても大工さんではない。作業の手順だとか材料の加工だとか、たとえ知るように努めたところで、所詮それは知識の域を出ることはない。だからいつも設計図を描いて、いま一つ頼りなく、大工さんに一目おかざるを得ない、そう思いつついままで過してきた。おさまりについても、自分でいろいろ見て学んだこともあるけれども、大工さんによって教えられたことも数多くあったのである。だから、大工さんなら、いろんな場面に見合った手練手管を知っているものだ。そう私は思っていた。見えがかり、できあがったときの見えかたについても、大工さんというのは非常に神経を使うものだ、そう思ってきた。

 ところがそうでなかったのだ。至極当然だと思えること(常識的だと思えること、あるいは普通の感覚ではあたりまえなこと:それらは当然のことだと思うが故に強いて図面としては描かない)、それが当然ではなかったのである。私は困惑した。非常に安易なやりかたで、見てくれをごまかそうとするのである。表面だけつくろおうとする言うならばつくろい仕事なのだ。そこにおかれる材料に対しての(大工さんなら持っていて当然の)感覚・感性というものがまるでない。(といって、別にいわゆる技術面で下手だというわけではない。もっとも、技術というのにそこまで入れるべきだとすれば別だが。)大工さんならいろいろな実例を仮に自分がやったことはなくても当然知っていてよいと私は思うのだが、知らないのである。

 どうしてなのだろう。いろいろ考えてみると、どうも最近はそういうことを気にする仕事をしないようなのだ。なぜかと言えば、いわゆる多種多様の新建材が出現して以来、それらを表面にぺたぺた張りつけるやりかたが増え、もののおさまりと言えばそれらの化粧シートの張りつけかたのおさまりだけになってしまったと言ってもよいくらいになっているからだ。れんが積を写真で撮りそっくりに印刷したシートなどがあるから、到底れんが積があり得るはずがない(と れんがを知っていれば思う)ようなところ:例えば、か細い木の柱に支えられた壁面だとか、ときには天井:に平然と張られたりする。これは大工さんだけが悪いのではない。設計屋さん自体もそうなのだ。もののあたりまえな在りかたが分らなくなっている。道の舗装に使う御影石の切石が、舗装をそのままひっくり返してぶらさげたように張られた天井を実際に見たことがあるが、これには二の句がつげなかった記憶がある。この設計屋さん、いい神経しているとつくづく思う。科学技術が進歩すると(というのはどんな重量物だって天井につるすことぐらい何でもない)私たちの石というものに対する感性までも変ってしまうとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それは人をばかにしたはなしである。

 ものごころついたときが戦前で、以後、戦前の様を辛じて、そして戦中、戦後とめまぐるしく変ってきた時代を通して過ごすことのできた私たちの世代、その世代に属していることが幸せであったと思うことがときどきある。なぜなら、私は、戦前、戦中、戦後の生活:三代のめまぐるしく変った生活を辛じて知っているからである。もちろん、町や村、家々、つまりそれぞれの時代につくられたもの、も知っている。しかもそれは日常のなかで知っているのであって、歴史の教科書で知ったのとは訳が違う。もののつくりかた一つをとってみてもそのやりかたの変遷を身をもって知っていると言ってもよいだろう。大きく変った生活の変遷、それを幸か不幸か知っている。だから、別に子どものころから建築に関心があったわけではないが、いろんな空間、いろんな場面、(それも現代的なやりかたによるものに限らない)を体験としてもっている。そして、思いだしてみると、設計をしているとき、そういった体験のいくつかが必らず頭をよぎっている。過去の体験というなら、だれにもあるではないかと思われるかもしれないが、私たちの世代のそれには、いまのような画一化したものでない、つまり現代のものだけでないそれだ。変遷自体が体験になっている。

 ところが、この大工さんの世代だと、戦前は戦中によって断絶させられた「遺物」にすぎず、戦後のやりかたしかその体験のなかにはないはずだ。おまけに戦後、戦前は意識的に切り捨てられたし、近代的・合理的やりかたが主流となる。建物も、昔からのつくりかえの理論でないやりかたのものが多くなる。言うならば、相互の連関を見失った独立・突発型とでも言うべきやりかたの建物だらけとなる。材料もまた、先に触れたような状況となる。いずれにしろそういった戦後の様は、人々の一貫して筋の通った感性によって裏打ちされたものではない。人々の感性は、むしろそうした感性を無視した大量のもののなかに埋められてしまう。人々は自らの感性に信をおくことが不安になる。この大工さんたちも、体験もなく、自らの感性に拠り考えることもしない、やることといえば、別に深くも考えずに、どこかにあったやりかたでお茶をにごす。

 そして、この大工さんたちがこうなったもう一つの考えられる理由。それも戦争のせいだ。唐突にきこえるかもしれないが、明らかにそのせいだと私は思う。この大工さんたちの上にたつ大工さんたちがいないのだ。全然いないのではない。相対的に少ないのだ。その世代の農民や職人たちは、お国のために、死んでいったのである。つまり、戦前と戦後をつなぐなかつぎの世代が欠けている。それは全く人為的な、無用な断絶に他ならない。この大工さんたちには、大工さんたることを教えてくれる先輩つまり妙なことをしたときチェックする役割をもったうるさい人たちがいない、少ないのである。いつの世でも、若手の人たちは、このうるさい人たちに一定の反発を感じながら、そしてまた一定程度そのうるささの理に納得しつつ、そのなかで引き継がれるべきものは継がれ、乗り越えられるものは越えられ、その時代時代の技術として成熟していったのだ。だからそれは、前に「つくりかえの論理」と私は呼んだけれども、より正確に言うなら「乗り越えの論理」と言う方がよいかとも思う。ただそれは、決して、乗り越えるからといって「無視の論理」ではないということなのだ。そして、そういう論理を保証していたものが何であったかといえば、それは、その時生きていた人々のものを見る目、もののとらえかたの確かさであったのだ。そしてそれは、その確かさは何であったか。それは決して他から与えられた理論や理屈に頼った、いま流に言えば専門家によって与えられた確かさではなく、人々それぞれの、それぞれの感性によって裏打ちされた自前の確かさであった。私は、そう思う。(いま、各地にある職業訓練校には、大工さん養成の課程がある。ところが、聞いたところによれば、そこで教えられていることは、各土地土地で培われたその土地の大工技術ではなく、むしろそれを無視黙殺した全国一律の教科書によっているのだそうである。)

 いま私が、この大工さんたちとのつきあいで感じたことは、なにも大工さんの技術に限ったはなしではないように思う。全ての局面で同じことが言えるように思う。どこにおいても、それぞれの感性に、それによって裏打ちされた自らのものの見かた、とらえかたに、自信をもてなくなってきている。もたなくなっている。裏を返せばそれは、(他)人(の感性)を信じないということに他ならない。つまり、自らのではなくもちろん他人のでもない、それとは全く別のいわゆる客観的と称する物指しで計らないと、ものが見えた気になれない、そういう状況になっているわけだ。そして、その物指しを唯一持っていると自称する人たち、それが今様の専門家 なのだ。

 そしてまた、そうであるが故に、どの局面においても、「つくりかえの論理」「乗り越えの論理」すなわちあたりまえの「創造の論理」が「無視の論理」に置き代えられてしまっている。まさに風土記の作者たちの時代以下である。

 

 おそらくいま、私の属する世代の人々は、その過ごしてきた時代体験を無視あるいは捨てることなく、自らの感性に裏打ちされた私たち自らのものの見かた、とらえかたを、より強く打ちだすべきであるように、私は思う。それはなにも、私たちだけがものごとをよく分っている、そしてそれをひけらかす、などという思いあがった意味でではない。そうではなく、つくりかえられる、乗り越えられるその対象として、その対象を強く打ちだすことだ。(もし私たちの世代自体が「無視の論理」だけでことを処理することをやり続けるなら、私たちもまた無視の対象とされてしまうだろう。)私たちが、そしてそれぞれの時代が、つくりかえられ、乗り越えられるものであったとき初めて正当な世代交代が行なわれるはずなのだ。私たちは、(若い人たちから)もっともっとうるさく思われる人たちでなければならないと、私は思う。そして、そのように身構えたとき、私たちそれぞれは、自らの感性に裏打ちされたものの見かた、とらえかたに、自信と責任を持たざるを得なくなるのである。そしてまた、そのように身構えない限り、私たちのものごとの「分りかた」自体、極めてひとりよがりな、あたかも幼児語的段階に止まり、決して「自然言語」としては通用しないだろう。

 

あとがき

前号あたりから、「感性」ということばを表にだすようにしてきている。このことばを表に出すには少しばかりためらいがあった。しかし、いろいろ考えてみて、やはりこのことばを表に出した方がよいと思うようになったのである。なぜためらったかといえば、「感性」などという言わば個人的なことばをもちだしたとき、通常ひきおこすであろうある種の誤解を気にしたからに他ならない。けれども、つまるところ私が言い続けたいのは、現在あたかも常識の如くに言われ行なわれていることどものおかしさについてであり、そのおかしさに気がつくには私たちの「感性」に拠るしかないのであるから、そのことばをもちださないということは私の考えかたから見て、つじつまのあわないことになってしまうのである。もちろん、ここでもちだす「感性」が、皮相的な、言わば皮膚感覚的な意味あいでないことはお分りいただけると思う。

ところで、ふと私にちのまわりを見まわしてみたとき、自らの感性に拠って(おかしさについて)思うところを述べる人たちが、私の経験では、いつでも、またどこでも、小さくなっているように思えてならない。そんなこと言って、先例があるの?とか、それが正しいという(目に見える)証拠は?などと言われてビビるのである。考えてみれば、王様の裸を(見えた通りに)指摘したのは子どもであって、王様に対して裸でないと思わせた(信じこませた)のも、見えている裸を裸として見なかったのも大人であった。そしてまた、(多少とも思うところのあった)大人は、自分の家の他人に知られないところで、つぼに向って「王様の耳はロバの耳」とどなるのがせいいっぱいだった。

〇久しぶりに、中野の人にちに会うために東京へ出た。その帰りの列車のなかで読んだ新聞の評論が私の目をひいたので、その一部をそのまま次に書き写してみる〈毎日1月23日夕刊山田宗陸〈虚国〉日本を撃つ:現代短歌に寄せて)。

 俳句と短歌は全く別物だが、主として俳旬を例に、日本の伝統的な短詩形を第二芸術として批判しさった論は、たしかに鋭利明快で、戦後の一つの性格であった近代主義においてきわだった説であった。  しかしいまになって、戦後を死なせ、あるいは日本を死なせたものが、ほかならぬ近代主義による近代化であったことも、また明白である。

 そして短歌の世界で、近代化機構の乾燥度に対する感性の批判、情念によるプロテストが存在することは、上に見てきた(注:引用略)とおりである。 なにも近代だけではない。どの時代にもその時代の合理主義があった。 時代がゆきづまったとき、合理のパラダイムに挑んだのは、感覚の反乱であった。

 すべての短歌がそうであるとは、もとより言わない。 道浦母都子『無援の抒情』(では)六八年の全共闘運動に参加し、やがてその新左翼の「党」の荒寥に傷つき、ひとり時にその傷をこするように、時になめるように〈無援の抒情〉を、一首一首、紡ぎだしている。

 人憎まねば立ち直れぬのか弾きて不意に涙あふるる

 生きて会う人の苦しみ悲しみの極みのごとき原色を見つ

 蒼ざめし馬にまたがり逃がれゆく雪の降る夜のわが幻は

  新左翼の向こうには当然に旧左翼がある。後者から前者への過程が、近代の生んだ革命党のマイナスの面のひきつぎにすぎなかったことは、だれの目にもあきらかである。〈無援の抒情〉は、たんに特殊な政治的ラジカリズムの局面にだけうかんでいるのではない。それはあきらかに近代のパラダイムヘのーいまは〈無援〉かもしらぬが一感性の反乱の一部である。 無援の抒情だからこそ、あげて近代のパラダイム機構である現代日本を、普遍的に撃つところに立っている。

・・・・・・・・ たんに現代を、前衛を、論じ歌うものを、わたしは信じない。たんに古代を、原始を、論じ歌うものを、わたしは信じない。その二つを結ぶ「もがり縄」こそが、「虚国(むなぐに)」日本を撃つのである。

 中野の人たちとの雑談のなかで、先号の峠道の話にからんだ話題になった。その人は諏訪の人で、小さいころ八ヶ岳のふもとを歩きまわったとき、山と山の聞の切れこんだところを「きれと」と呼ぶということを教わったのだが、そういうところに建っている山小屋が、知らない間に「キレット小屋」などと、あたかも外国語のように言われているのに気がついたというのである。私もそう言われて、山と山の切れ目の呼称にそういうのがあったのを思いだした。大学に戻って二三の人に尋ねてみたところ、ドイツ語じゃないの、という答がかえってきた。手元にあった国語辞典をひいたところ、「きれっと、きれと:切れ処」としてひらがなでちゃんとでていた。

碓氷峠のふもとへ出かけた。早春のようなうららかな日和が再び冬型へと急変するときに丁度ぶつかったらしい。平野のまんなかで風が急に荒れだし、いままで遠くに春のようにかすんでいた赤城山をはじめとする平野を囲む山々に、それこそ見る見るうちに一見して雪雲と分る灰色の雲がかかりだし、それもうずを描くように激しく動いている。碓氷峠:妙義山に近づくと、風はますます強く、ときどき日差しが雲にさえぎられるようになり、風花も舞いだし、ついにすっかり雪雲の下に入りこんでしまった。雪片が斜めに無数の筋を描いて吹き飛んでゆく。ついさっきまでの小春日和がうそみたいである。一瞬のうちの吹雪模様。妙義ももうすっかり見えない。私がいささか驚いているのに気づいた訪問先の奥さんの、「ふっこしだから直ぐやみますよ」ということばをきいて私は思わず、「これ、ふっこしって言うんですか?」と尋ねつつ、ほとんど同時に「吹っ越し」という字が頭のなかに浮んできた。どうやらそれで間違いないようであった。山あいの「きれと」から、山の向うの冬が疾風(はやて)の如く「吹き越し」てきたのである。気象学的に言えば、寒冷前線が山なみを越えるときの一時的現象なのに違いない。この辺のこどもたちは、こういうとき、「はーて(あるいは、はあて)が来た」とも言うのだそうである。これはおそらく「はやて」のなまりではないだろうか。私は、あたりの光景に感嘆するとともに、こういうことばの根ざすリアリティへの確かさに驚嘆した。

 いずれ、皆様がたそれぞれの「通信」も載せさせていただければ、などとも考えています。

寒いなか、皆様のそれぞれなりのご活躍を祈ります。

    1982年2月1日                       下山 眞司         

 


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「『峠」 を越えられるか・・・・5W1Hの復権」  1982年1月

2019-04-01 09:45:02 | 1981年度 「筑波通信」

 

       「峠」を越えられるか・・・・5W1Hの復権・・・・ 1982年度「筑波通信 №10」

 昨年の春以来、この三月に卒業してゆく学生の数人が協働して、鉄道の枕木を使った山小屋を実際に造っている。これが彼等の卒業設計なのだ(建築を学ぶ学生には、卒業論文の他に卒業設計が課せられるのである。しかし普通は設計図の提出であって実物を造ることはまずない)。なにしろ資金集めから木材を加工して組立てるまでの全般、そのほとんど全てを自分たちが中心になってやるのだから、これは教室できく下手な授業よりも数等ましてよい学習になったようだ。機会(これも彼等が見つけたのだが)に恵まれたからだとはいえ そしていろんな目にあったとはいえ、おそらくこれは、大学時代、というよりも青春の日の最も充実した体験として、今後彼等それぞれのなかに、必らずや何らかの形を成して残ってゆくのではなかろうか。

 この彼等の山小屋の現場は、今ごろはもう雪の中だ。

 中部地方の地図を開いてもらうとよいのだが、丁度信州の中央部、西に松本・北に上田、小諸・北東に佐久・南に諏訪そして少し離れて南東に甲府の町々があり、それらの町々がある平地・盆地にとり囲まれた形で一連の山塊がある。西から言えば、美ヶ原・霧ヶ峰・蓼科(たてしな)そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、言わずと知れた観光地の一帯である。そして、彼らの現場はこの蓼科の山中、大門峠という峠を少し北に下ったところ、標高1400mに近い地点にある。

                          「長野県の地名」平凡社より(図の挿入と青文字は投稿者によります。)

 いま名前を出した峠を含め、この山系には、先に記した町々、特にその山系の南と北に展開する町々を結ぶ山越えの道:峠が古来数多く開かれていたらしい。古代の近畿と東国を結ぶ主要国道:東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中仙道は諏訪から佐久へとまさにこの山中を縫っている(いまの国道142号はほぼその道すじに従っている)。だからこの山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠がならんでいたのである。その多さは一寸類を見ないほどだ。

 私は以前から、このいくつもの峠が横ならびしている場所に興味があった。何故にかくも多くの峠があるのか、そして何故にこんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからである。ここは高冷・寒冷の地なのだ。

 そしてまた、この山系のふもと、現在の町々があるところより一段上った斜面、ことに南側の、いま開拓地や別荘地として開発が進みつつある高原状の斜面一帯には、縄文期を中心とする住居跡・集落跡:遺跡群が、まさに所狭しとばかりに密集しており、これもまた私の興味をそそるものであった。どうしてこんなところにと、これも不思議でならなかったからである。

 藤森栄一という諏訪に生まれ諏訪を愛した民間の考古学者がいるが、彼の沢山の著書で、その辺のことについて私はいろいろと教えてもらい、一度は実際に歩いてみたいというのが、かねてからの思いであった。

 そして昨年の夏、学生たちの山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも、歩きまわることができ、貴重な体験を得ることができた(正確には乗りまわったのであるが)。そこで今回は、そのうちの「峠」について考えていることを書いてみたい。

 

 いま仮に、諏訪に住んでいる人が小諸・佐久あるいは上田や長野に行こうとする場合を考えてみよう。極く普通に行くとなると鉄道を使うことになるが、地図を見ればすぐ分るように、鉄道はこれらの山々をまいた形で走っているから、かなり時間をくい、地図上の直線距離は近くても、鉄道に頼るのに慣れている限り、はるか山の彼方の遠い町へ行く感じを持つはずである。ついでに言えば、いま鉄道は、中央地方中心都市とを結ぶには非常に便がよいけれども、地方の町々を結ぶことに関しては一時よりもかえって便が悪くなっているから、東京から長野に行くよりも諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また自動車で行くにしても、名の知れた主要な道(例えば、20号、18号、19号など)を使うと、それらは大体鉄道と並行しているから、これも時問がかかる。

 考えてみれば、鉄道も主要道も、それは地方の町々を結ぶというよりも、地方中央に結びつけることに意がはらわれるから、こういう山の向うとこちらをつなぐなどということは念頭になく、もし山を越えた町をつなぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの中央にとって都合がよいからだと言って言いすぎではあるまい。

 中央が近畿にあった古代にあって東山道は東国への近道だし、江戸期の中仙道も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし中央が東東だけになってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は抜かされ、山の両側にそれぞれ東京と長野、東京と松本をつなぐ鉄道が敷かれることになる。それは必らずしも山越えが技術的に難しかったからだけではないはずで、それは碓氷峠のこと(先進技術を導入して、あの峠を登りきっている)を考えてみれば明らかだろう。中仙道を全て鉄道化する必要を認めなかったのである。その結果、鉄道化からはずされたあの山越えの部分:諏訪から佐久までは忘れ去られる破目になり、山の向うとこちらという感じで見られるようになってしまったのだ。先に私は極く普通に行くとなるとという書きかたをしたけれども、この極く普通にというのは、だから、鉄道ができてから普通になったのであって、それ以前ならば、この山越えの方が普通だったに違いなく、おそらくそのときは、山の向うとこちらという感じはそれほどなく、両側はもっと密で近しい関係にあっただろう。

 しかし、いざ鉄道が開通したとなれば、速度も速く、輸送量も多く、第一疲れないで済む鉄道に、いかにそれが遠まわりであろうが、頼ることは必然で、結果は町々の関係も一変させてしまったのだ。だれもわざわざ山越えをして上田へ行こうなどとは思わなくなったのだ。人々は歩かなくなった。

 

 そしていま、皮肉なことに、人々の往来が少なくなって、人々の往来に拠っていたその町の生活が言わばその活動を停止し変化が止まった(というより変ることができなくなった)その道すじの町々が、伝統的街並と称されてもてはやされている。

 確かに、鉄道が敷かれてからさびれてしまった中仙道沿いの町々には、歩いてみていま栄えている町々にはない心なごむものがあるのは事実のようだ。しかし一方で、それらの街並をそのようにあらしめた主要道:中仙道が既にその役割を失ない、その意味では言わばもう死んでしまったものだというのも事実である。

 つまり、いまそれらの町々は、中仙道に拠らない生活を、中仙道に拠ってその昔造ってしまったつくりのなかで、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。考えてみれば直ちに分ることのはずなのだが、中仙道の華やかなりしころ、その町すじの家々は活気あふれ、ひんぱんに建て替えが行なわれていたにちがいない。そのとき彼等は、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるべきものは捨てる、つまり彼等の主体的な判断のもとでことにあたったはずである。それはすなわち、過去につくられた物そのものを、単に保ち続けるというような安易な営みでは決してなかったのだ。そして、そういう言わばダイナミックな人々の活動が、鉄道の敷設とともに突然の停止を迫まられ、言うなれば時間が停まってしまったときの姿、それがいまもてはやされている伝統的街並に他ならない。

 だから私には、いま行なわれている街並保存の動きがいま一つ納得できないでいる。

 一つには、そういった保存運動というのが大抵よそもの鉄道で訪れた:の発想であって、そこで生活している人たちのことが念頭にないからである。そこで生活する人たちに、時間を停めて生きろということに他ならないからである。いったいだれに、そんな僭越なことが許されているのか。そして一つには、そういった旧い物を保存することによって満足している、その安易な考えかたが気に入らないからである。

 なるほど確かにこういった心なごむ街並みがどんどん消えてゆく。心なごまない、むしろ逆なでされるようなものになってきている。それとの対比のなかで。旧きものによさを見出したからといって、ただそれらを物として保存すれば済むというものではない。まして、それらを保存すれば、それが現代のやりかた・やられかたへの免罪符になるわけでもない。こういう単純に、というか単細胞的に、よいものを残しておけばよいとする考えは、私には、まさにいまの町々街並を心なごまないものにしているつくりかた・その考えかたの裏返したもの、つまり構造が全く変りない同じ穴のむじなに見えてしまう。彼等には、彼等がよいと思う町々や街並の、その形成:生成のダイナミズムが全くもって見えないのだ。人びと:そこに生きた数代にわたる人々の、そのときどきの主体的な、自らの感性に拠る判断の積層のうちにそれらが成ったことが見えず、そのよさの因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま残ってしまった)目の前に在る物、その物の形:造形そのものに求めようとしているのだ。 

  いま書いてきたような場面について言えば、人間の歴史は、まさにつくりかえの歴史であると言ってよいだろう。だから、私たちが保存しなければならないのは、できあがった結果としての物そのものではない。そうではなく、その物をあらしめたつくりかえの論理:すなわちものづくりの論理、そしてそれを支えてきた感性の存在である。そしてまた、その存在を保証することである。そうでなければ、いま私たちがやることは、決してそのよき旧きもの以上のものには成り得まい。そしてまたそうでなければ、旧きよきものそのものを保存することは、いわゆる骨とう趣味と何ら変りないことになってしまうだろう。

 

 ここまで書いて、つい最近の経験を思いだした。ついでだから書いておこう。先月(12月)の初め、学生たちと桂離宮を見学した。それはいま修復中で、屋根のひわだぶきも新しくなって、それまでの見慣れた黒っぽいいわゆる古色とはまるっきり違って、建設当時はこうだったろうという色になっていた。それについてのある人たちの感想(デザイナーを自負する人たちなのだが)は、まわりとなじんでいなくてあの桂離宮のよさがなくなってしまった、元通りになるのにどれだけ時間がかかるだろう、というものであった。私に言わせれば、これが、この新しい色が元通りなのだ。いや木材もなにも新しい色をしていたとき、それが元通りなのだ。この山荘を実際使ったのはたかだか数十年だから、そのときこの建物は未だ古色にはなっていなかったはずだし、造った人も三百年以上だってのよさを思って造ったわけでもあるまい。そうだとすると、桂離宮がいいと言っている人は何を見て、何をもっていいと言っているのか、そのいいのなかみを疑いたくなった。いま自分が(勝手に)いいと思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思いこんでいる。だからここには誤まりが二重に積み重なっているのだ。

 そして、そうか、こういう見かたで、見かただけで教育が行なわれてきたのだな。これは大変なことだ、とあらためてことの重大さを気づかされたのである。

 碓か中学のころであったか、英語の時間に5 W1Hということを習った覚えがある。いつ(When)どこで(Where)だれが(Who)なにを(What)なぜ(Why)いかに(How)したか、これを問えば文意が通じるというようなことではなかったかと思う。なにも英語をもちだすまでもなく、人間のやることは、これらの問いで問いつめられる。そして、考えてみると、伝統的街並保存のはなしも、この桂離宮の例も、そこにはWhen、Where、Who、Whyの問いが欠落し、あるのはWhatとHowだけなのである。はたして、それだけの視点で人間のやることを語れるか、ものがつくれるか? 否である。否のはずである。少なくとも、旧きよき街並を実際に造ってきた人たちや桂離宮を造った人たちは、あたりまえなこととして、これらの問いの全てを備えていたはずなのだ。それを忘れてしまったのは、いまの私たちだけだ。それを忘れたからこそ、以前書いた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という発想が大手をふって歩きだすのである。

 旧きものも新しいものも、この全ての問いで問うとき、当然のこととして、その本当の姿、その存在の意味が見えてくるように思う。少なくとも私が旧きものに学ぶのは、必らずしもその形ではない。そうではなく、それらを造った人たちの5W1Hに対する身の処しかたなのだ。そして、もし保存しようとするならば、その身の処しかたをこそ保存しなければならないのだと私は思う。

 

 峠の道から大分はずれてしまったようである。山越えの道が、鉄道の開通とともに廃れてしまったという話をしていたのである。

 いま、この廃れた道が、再び装いを新にして復活してきている。専ら歩くしかなく鉄道に比べて全く分の悪かった峠越えの山道が、自動車の普及とともに見なおされてきたのである。

 そしていま、実際に車で走ってみて、山のこちらと向うが、驚くほど近いということをあらためて発見する。徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後培れた感覚:はるか山の向う側という感覚とは違って、やはり近しい間がらであったと考えざるを得ないのである。

 いま、これらの峠道は見ごとな舗装道路となっている。そしてその道すじは、ほとんど古来の道を踏襲しているらしい。

 それにつけても、こういう道すじを見つけだした先人たちの営為には驚くほかはない。なにしろ、私たちとは違い、彼等は正確な地形図など持ってはいなかった。現代の道路は、おそらくこの正確な地形図の上で考案されるのだろうが、彼等は違うのだ。だから、道のつけ方が根本的に異なると言ってよく、それは既に通信の2号で少し触れたとおりである。因みに、いま話題にしている山系の蓼科(たてしな)から美ヶ原にかけて、ビーナスラインなるはなはだ芳しからぬ名のついた道が造られているが、そこを車で通った例の山小屋づくりの学生たちが、古来の道すじを踏襲したと思われる道を走っているときは、例えば蓼科山はいつも前方の方向に、多少右左によることはあっても、見えがくれするのだが、このビーナスラインでは一定せず、ひどいときには突然後に見えたりして、ついには走っている方向が分らなくなり、正確な地形図上に指示された目的地に行くのにさえ(いまいるところが分らなくなり)えらく苦労したとこぼしていたけれども、これはまさに、古今の道のつくりかたの違いを見ごとに語ってくれている。

 それにしても、この山越えの最短ルートはいかにしてつくられたのだろうか。おそらく中仙道のような主要道が通る以前からこういうルー卜がいくつかあったに違いなく、主要道はそのなかから選ばれ整備されたに違いない。しかし、それらのルートはどのように(地形図もないのに)見つけられたのか。

  これについてはいろいろ考えられるし、また語られている。

 初めにも書いたけれども、いま主に人が住んでいる低地よりも一段高い高原状の一帯は、低地農業に拠る以前の、概して縄文期の人々の居住地であった。彼等は、そこより下の低地よりもむしろ、背後に拡がる山地一帯をその生活圏としていた。というより、そういう山地があったからこそ、彼等はその一帯に住んだのだ。だから、その一帯は、言うならば「彼等の地図」に組み込まれていた。そして、一帯を我がものにしてゆくなかで、はるか山中に、彼等の時代の貴重品:黒曜石の鉱脈を発見したのである。ここ産の黒曜石がこの地を越えたはるか彼方で見つかっていることから、この一帯のなかでの道の他に、その彼方を結ぶ道も既にあったのだと見られている。というよりも、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、それを黒曜石が通過していったと言った方がよいだろう。そして、そういったルートが、時代を越えて受け継がれてきた、これが一つの有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったものもあるだろうが)。

 またこの地は、古代、低地農業主体になる以前に(なってからも)この山地にかけて盛大に牧畜が行なわれたらしい(この地に限らず信州から群馬の山地一帯が馬の産地であった。〇〇牧などという地名として、それが名残りをとどめている)。だから、この山地に人が係わらなかったという時代がなく、有史以前からの道の遺産が脈々と受け継がれてきた、ということもできるのである。

 それでは、それらのルートはいったいどういうところを通っているだろうか。

 こういう山地に古来からある道には、そのルートのとりかたにいくつかのやりかたがある。それは、そういうところを歩いてみればすぐ分るし、いまでも、あたりまえな感覚で道をつけようとすれば多分そうなるだろう。一つは、等高線沿いにいわゆるトラバースしてゆくやりかたであるし、これは各地の山村の集落間を結ぶ道によく見られる。距離は長くなっても一番楽な歩行ですむし、特に稲作農業主体の集落になってからは、集落の立地条件(すぐ使える水が得やすい)をみたす土地は、大体等高で並ぶから、当然道も等高線沿いになる。因みに、関東平野北辺を通っていた東山道を復原してみると、赤城山塊の自然湧水点がほぼ等高線上に点在し、それに拠る村々をつないだ形で走っているという。もう一つは高低をつめる場合の道で、それには谷すじ道と尾根道がある。古来の道で、斜面をやみくもに登りつめるような道のつけかたは先ずないと言ってよいのではなかろうか。唯一私が知っているそういうつけ方の道は、武田信玄が上杉攻略のために造ったという甲府から善光寺平へ向けての軍事用直線道路だけである。信玄棒道と称されて、いま話題にしている山系の高原の一画に、その跡が残っている。これは、地形図でみると、全くあきれるほど見ごとに最短距離を、強引に突走っている。これは例外だろう。

 そして、山越えの道は、尾根道より谷道の方が圧倒的に多そうだ。それも、考えてみれば、あたりまえなのかもしれない。

 いま、実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道の峠の位置を、おおよそ比定することができる。そこは大体、山々のくびれの部分である。いわゆる鞍部である(峠にあたる外国語を探すと、鞍部を意味するcolとでてくる。外国でも峠はそういう場所を通るわけだ。他には、そういう形状は示さないpassという語が対応する)。このくびれの部分というのは、必らず川が切りこんでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている。しかも、その鞍部を境にして両側に川が必らずあると言ってよい。それは全くの自然現象である。

 すなわち、山越えの道は両側から谷川沿いに登りつめ、最後にこの鞍部で顔をあわせているわけである。そして、水というものの性質上当然なのだが、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。だから、谷川すじというのは、もし通れれば、下からその峠部へ行く最も能率のよい道すじとなる。第一谷川という目印があるから、支流さえまちがえなければ迷うことも少ない。おそらくそういった谷川すじのなかで通れるものが道として確立していったのである。そしてまた、実はそういった河川が平地へ出るあたりには、これも自然現象として、扇状地をはじめとする台地が形成される。そこには人が住みつく。特に低地農業主体となったとき、そこは暮してゆくのに絶好の場所である。いま見る町々のうちの大きな町は大抵そういう場所にある。そういう場所に住む人たちにとって、例え農業が主たるものであっても、背後の谷川をさかのぼった山地もまた手の内であったろう。

 つまり、彼等の「私の地図」に組み込まれていたはずである。だから、山のこちら(の町)と向う(の町)とを結ぶ最短ルートが後になって意図的に造られたかのように、いま私たちはつい思ってしまいがちだが、むしろそれぞれの側で人々が、そこに展開している自然現象に素直に対応して住みつき、生活圏が確立していったとき期せずして、あの鞍部:峠で両者が顔をあわせたに過ぎなかったと見た方があたっているように思える。言うならば、理の当然として、あるいは自然現象的に、そのルートは最短であったということだ。そして、その向うとこちらの生活圏で交流が盛んになれば、当然その峠道も整えられるだろうし、事実、平地内あるいは平地間の言わば等高線上のつきあいとほとんど変らずに、山越えの交流も盛んだったと思われる。おそらくこういう山越えの交流ルート:峠道はいろいろあって、それらのなかから取捨選択して、そのときどきの中央の為都合のよい道すじを設定した、それがその時代の主要道であったのであり、たまたまその道すじにあった村々は、そこにあったが故に、単なる農業集落ではなく、道に拠った暮しをする村々、町々として変っていった、多分これが峠道が成りたっていったすじがきであると私は思う。先の信玄棒道が、今様の正確な地形図なしでできたというのも、その土地に住みついた人々の生活圏を詳さに知り、それをモザイク状につなぎあわせてできる全体像を、見えるものをもとに想定し得るだけの感性があったからこそ可能であったのだ。そういった意味では、正確な地形図を持っていて、なお且つ各種の情報を持っている私たちよりも数等秀れたものの見かた、とらえかたを彼等は身につけていたということができるだろう。そういった感性というものを、いったい私たちは、どこへ置き忘れてきてしまったのだろうか。そして、そういう感性を失なってしまった人たちが、いい街並だ、とか、桂離宮はすばらしい、などと言い、保存を説き、それならまだしも、人々の生活に係わりをもつものを平然と造っているのだ。

  

 このごろは写真の技術が進み、非常に精密な航空写真が撮れ、このごろの地形図はそれが基になっているらしい。また、その航空写真(空中写真と呼ぶようだが)も市販されていて比較的安く手に入る。それを見ると直ちに、古来からと思われる道と最近造られた道とを見わけることができる。地形・地勢とは言わば無関係に、強引に造られているもの、そうでないものが際だって見えてくる。言わずと知れた前者が最近のやりくちで、それは地形・地勢から見る限り、極めて非合理な形状を示しているのである。(もっとも、この非合理という言いいかたには私の考えかたが入っているから適切ではないかもしれない。)それに対して古来のものと思われる道すじは、それこそ淡々と、地形・地勢のなかに通れる場所を選んで走っていて、だから地形・地勢にすっかりなじんでしまい、道だけが浮きたって見えてこない。先日、機会があって、人工衛星から撮った関東北部から信越へかけての地域の写真を手に入れたのだが、私はあまりの見ごとさにほんとに驚いた。別に現代の科学技術のすごさに驚いたのではない。それも全くないわけではないが、そんなことよりも、こういう便利な地図や写真もない時代からこの地上において人々のやってきたこと、その方に驚くのである。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども全て人が住みついていると言ってよく、それらをつないで非常に自然なかたちで道がついている。そこに見られる。人の住んでいる所といない所のモザイク、つなぐ道の網目、この合理性は、全く現代の合理性による諸々の計画を圧倒しており、古来の営為の跡に比べれば、現代のそれはさながらひっかき傷のようなものでしかない。それは、大地という自然が備えている合理性に対し、科学技術という偏狭な合理性によって対抗した手負い傷のように私には見える。最近いわゆるスーパー林道が是か非かと騒がれているけれども、そして多くそれは道の開設による自然破壊が議論の焦点になっているのだが、こういう写真を見ていると、開発論者も反対論者も少しは古来人々がつくってきた道の合理性その原理原則というものを研究したらどうかと思いたくなる。なにがなんでも自然破壊反対だという言いかたをするなら、この地上で人々のやってきたことはどれも自然破壊に他ならず、なにがなんでも開発だと言うならば、大地の備えた合理性も知らないままの開発など、人々は古来少しもやってはこなかった(いまを除いて)。

 

 過去の遺物・遺産を保存すること、それは博物館的な意味では確かに必要なことだろう。しかし、私たちがしなければならないのは、それだけで十分なのではなく、そういったものを成らしめた原理原則(それは、そのときの人々が考えたことだ)を読みとり、いま使えるものは使い、捨てるべきものは捨て、いまの原理原則を主体的に考えだすことなのではなかろうか。そうでない限り、いま私たちがやっていることは、決して後世において、価値あるものだから保存しようなどと、思われもしないだろう(別に、そうなることを唯一の目標にしてつくれ、などと言っているのではない。私たちのいまの日常の意味が認められないだろうということだ)。

 

 ところで、ここで使ってきた「峠」という字は、漢字ではなく国字である。峠的地形が中国にないはずがないから、彼等はそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、一昨年の夏中国を訪れたとき、それについて中国人の通訳にしつこく尋ねてみた。ところが、当方の納得ゆく答が少しも返ってこない。頭をひねっては、「頂」かなぁ、などとどうも私たちが持っているイメージにはぴったりしないような答しかもどってこないのである。結論的に言うと、どうも私たちの「峠」に相応の字はないらしいのである。考えてみれば当然で、もしもあったならば、国字がつくられることもなく、その漢字が使われていたはずなのだ。では、彼等はなぜ「峠」に対応する字を持ってないのだろうか。

 いろいろと考えてみて、ひょっとすると私が「峠」という字に対して持っていた観念がまちがっていたのではないかと思うようになった。私はそれを、道が登りきった所、それから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す地形名称だと思っていたのである。おそらくそれは、そういう単なる形状を示すものではないのである。峠的場所に対する地形名称では「たわ」とか「たるみ」とかいうのがある。これは、鞍部:col に相当する(大だるみ峠などというのが相模湖のそばにある。たわんでいる、たるんでいる場所という意味かもしれない)。だから、地形的名称で済ますならば、あえて「とうげ」なる言いかたをしなくてもよく、字をつくりだすこともなかったろう。そして、峠の所在を地図や実地に見ていて思い至ったのは、これは地形そのものではなく、そういった地形的場所が持つ、言わば生活的な息がこめられているのではないか、ということであった。簡単に言ってしまえば、二つの生活圏」の接点を意味するのではないかと思う。峠を越えるということは、暮し慣れた所を離れ、違う所に行くということだ。峠に神をまつる、それは単なる交通の安全を祈念する以上のもの、それぞれの生活圏の境を守る神そして、それぞれの郷土の神に前途の安全を頼んだのではなかろうか。峠を境に二つの生活圏、文化圏が隣りあう。それぞれは、それぞれが独自であって峠越しに交流する。交流されたものを、また、それぞれなりに消化し成長してゆく。それが隣あっていた。だから、峠の両側は、似ているようで違う。

 ふと思い出して、柳田邦夫の「地名の研究」を読みかえしてみた。そのなかに、峠の字を「ひよう」あるいは「ひよ」と読む所のあることが紹介されている。彼の見解によれば、それは境を示す「標」の音読みではないかという。峠的地形が村界であったというわけである。そして、その「ひよう」にあとになって新字の「峠」があてがわれ、読みだけが残ったのではないかというのである。

 なぜ中国に「峠」に相当する字がないのか。おそらくそれは簡単なはしなのだ。彼の地においては、峠的地形は境界ではなかった、というよりそうなるような形状の大地ではなかった。そして第一、彼らの生活圏の境界は、そういう固定的・恒久的自然地形に拠ることはほとんどなく、言うならば自らが(勝手に)仮に設定するものであった。それは、彼の国の確固とした城壁・市壁:囲壁があるのに、我が国にはない、彼の地の文化を積極的にとりいれても、あのような確固とした囲壁をつくろうとはしなかった、そのことにつながってくるはずである。そして、そうであるとき、彼の国においては、峠の字は必要ないのである。そしてわが国では、それを必要とした。

 

 いま、我が学生たちの自力小屋建設は、いよいよ峠にさしかかったようである。私の立場では、ただ無事の落成を祈るのみである。

 

あとがき

〇私の目の前に、人工衛星から撮った写真がはってある。見ていて少しも飽きない。載せられないのが残念なくらいである。

〇私はよく車を乗りまわす。年間にして20,000kmぐらい走っている。(おかげで暴走族だなどと言われているらしい。)なぜ距離が増えるかというと、例えば片道150kmのところへ行く場合、時間のゆとりがあると、決してまっすぐには帰ってこないからである。言わばアドリブであちこち道くさをする。バイパスがあれば、わざわざ旧道を通る。自然と距離がのびる。そういうとき、大抵は一人なのだが、ときどき、そういったなかで目にすることがらで思ったこと、感じたことについて議論できる人が傍に乗っていてくれるとありがたいと思うことがある。かと言って、だれでもよいわけではない。同じように、言うならばやじうま精神あふれる人でないとだめだ。何の関心も示さない起こさない人ならば、寄り道せずに近道見つけて早々に帰った方がましというものだ。そういう意味で傍に乗ってもらいたい人は。数えるほどしかいない。

〇初めてのところに赴くとき、私は予め地図は見ない。見てもほんとにあたりをつける程度である。迷ったりしながら、「私の地図」ごしらえをする。そして、それから地図を見る。ときには帰ってから地図を開いたりもする。ある意味では合理的・能率的でないのは確かである。けれども、私にとっては、どうもこの方がよくものが見えるようなのだ。ずぼらな性格も手伝って、昔からこうなのだ。これも結局走行距離をのばすことになる。もっとも、こういうことをくり返してきたせいか、道のつくられかた、村や町のつくられかたの構造的原理が体にしみついて、走る方向についての言わば動物的は鋭くなったみたいである。(それが通用しなくなるのは、最近できた道にのってしまったとき。)

〇十分煮つめないで書くことがかなりあるように自分でも思っている。お気づきの点や異論を是非おきかせ願いたい。

〇今年もまた、それぞれなりのご活躍を!

   1982.1.1                             下山 眞司

 

投稿者補足

「信玄の棒道」: 武田信玄が信濃攻略のために作った軍事上の道路で、諏訪方面に上・中・下の三筋と南佐久郡に一筋ある。いずれも八ヶ岳の裾野を南から北へほぼまっすぐに等高線沿いに通ったのでこの名がある。   「長野県の地名」平凡社より

故人の研究室にあった「衛星写真」部分: 左隅に松本市、諏訪湖、八ヶ岳へと続く山塊、諏訪湖の北北東に火口がわずかに赤く見えるのが浅間山です。

   


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「『蔵』 のはなし・・・・必要ということ」  1981年12月

2019-03-20 10:27:52 | 1981年度 「筑波通信」

 

       「蔵」のはなし・・・・必要ということ・・・・   1982年度「筑波通信 №9」 

  「こがねむしはかねもちだ、かねぐらたてた、くらたてた・・・・・・」という童謡は、おそらくどなたも知っているだろう。

 単なる童謡なのだからどうでもよいようなものの、こういう詞は、蔵というのが金持ちの象徴なのだという通念があるからこそ生まれるのだと見てよいのではないだろうか。蔵というのは、いわゆる財産(蓄財したもの)をしまっておくためのもの、それ故富裕でないと持ち難い、そういう理解である。私も実は、なんとなくそんなように思いこんでいたような気がする。

 

                                                                                              「福島県の地名」平凡社(この図は投稿者によります。)

  新潟で日本海にそそぐ阿賀川をさかのぼると、越後平野を通り過ぎ山あいを峡谷上に北上し一度会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山々をまいた形でその東側を再び峡谷状を成し南へと上流へ向う。つまり会津盆地を曲りの部分としたU字形を成し、その囲まれたところに山系があるということだ。その上流を総称して南会津と呼ぶ。因みに、その川を更にさかのぼる(つまり概ね南へと向うことになるが)と、峠を越えて今度は鬼怒川の上流に出る。日光へはもう直ぐである。江戸と会津をつなぐ重要な街道の一つで川路(かわじ)と言ったらしい。いまの川治温泉は川路温泉だったわけである。

 それはさておき、先のU字形に囲まれた山系のなかに、これこそまさに辺地を絵に描いたような山村O村がある。この村へは、西側から阿賀川支流を入るのが比較的ゆるやかな道で、あとは会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬期の積雪は村うちで3mを軽く越えるから、冬期、村と他の町村との交通は、先の支流沿いの道(これとても途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。言うならば孤立するのである。

 村域は川沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、もともとは二つの村であったという。一つは概ねその川の中・下流域の比較的平らな部分、一つはその上流、低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこは独立してO村であったのである。だから、このO村は最奥ということになる。このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通りぬけてさかのぼって行き、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、前方に突然家々の屋根がひしめくように、ほんとにあっけにとられるような形で目の前に現われる。確かに村を名のってもおかしくない大きな集落である。いまは自動車で行ってしまうけれども、もし歩いて訪れたとしたら、そしてそれが春先きの花でも咲いているときならなおさら、まさに桃源境にでも入りこんだような気分になるに違いない。そのとき同行した人が一様に思ったのは、こんなところに人が住んでいるという驚きに近いものだった。

 ところで、このこんなところにもという感想は曲者で、よく考えてみる必要があると思う。人里からあまりにも遠く離れたところにも人がいる、という意味も含まれていれば、普通考えられる人の住めそうな場所の通念からみれば人の住めそうもない所に住んでいる、という驚きも含まれているだろう。けれども、ひっくりかえって、東京を見て、こんなところに人が住んでいるとはどうして思わないのだろうか。それこそほんとに、こんなところにうじゃうじゃと人が住んでいるといって驚いたっていいと思うのに、ほとんどだれもそうは言わない。だれも不思議に思わないのだ。そうしてみると、こんなところにという感想は、ある特定の視座から一方的に見た、そのことによる感想にすぎないということになる。

 その特定の視座というのが何なのかということが、だから、問われなければなるまいと私は思う。人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て、こんなところにと驚いても一向にかまわないし、また当然であるけれども、しかし、その見かた、それによる驚きが、直ちに一般的・普遍的かのように思ってしまっては誤まりだろう。人それぞれの存在がそれでは消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてやそういう視座が、多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたりしたり、よいものと思われてしまったりしては論外のはずなのだ。けれどもいま、大多数は都会に住むし、その人たちの先祖だってこういう山村的生活をしていたかもしれないなどということは忘れ、都会的生活に慣れきってしまっているから、彼らの見かたこそが唯一絶対かの錯党を持ってしまうのだ。

 実際村に住んでいる人の立場から見ればこんなところにと思われること自体、不可思議だし、ことによると不当に思えるだろう。彼らは彼らなりの生活を、そこなりにしてきているのである。とりわけ、情報がとびかうことのなかった時代にあっては、自ら辺地住いだなどという意識など全く思いもしなかっただろう。よきにつけあしきにつけ、彼らの世界は、村うちだけで閉じていたからである。しかしいまは、対比する町や都会がある。そうであってもまだ、こんなところにという感想は、彼らにとっては不当であることに変りないはずであると、私は思う。

 随分まわりくどい言いかたをしているけれども、要は、私たちの多くは都会的生活に慣れ親しんでいるのだけれども、それが唯一最高の、それ故に目ざすべき標的であるかのように単純に見なしてしまう私たちの悪い癖をやめようではないかと言いたいのである。ちょうど期待される人間像などというのが全く人を人と思わない不当なものであるのと同様に、あるべき生活像みたいなものを抽象的に、またワンパターンで定型化しようとするのも、これも全く不当なことだと思うからである。

 よく私がこれにからんでもちだす例が「みちのく:陸奥」ということばである。いまこそ大方の人たちは、そのことばそのものの意味を問わずに単純に、東北地方を示す一つの優雅な言いかたとしてしかみないだろうが、やはりこれは、そのときの中央から見ての方向感覚・上下感覚の入っていることばに他ならないのである。彼らが自らを「みちのく」と言うわけがあるまい。よく我が国を称して「極東(far east)」の小国などと言うけれども、これも日本人自らが言うとなると、国際感覚がおありのことでとからかいたくなる。

 

 さて、私がこの村むらで印象深く見たものが何であったかというと、それが立派な蔵だったのである。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な蔵をかならずもっている。遠望してもそれらが際だって見えるくらいなのである。

 一見したところ、この村むらは決して豊かな、つまり農業生産高の高いところには見えない。両側から、比高はそれほどないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから稲作がここまで普及したのもそんなに旧くなく比較的最近だろうと思える。おそらくはもともと、畑作や林業が主な生業だったのではなかろうか。因みに「越後上布」の名で知られる織布の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培のやりかたはまさに焼畑そのものである。こういう山間のあちこちの村むらでつくられた繊維が集められ加工され「越後上布」の名で献上されたりしたのであろう。

 すなわち、この限られた、しかも気候的にも厳しい土地からのあがりは決して豊かなものではなく、その生産高は逆にそこに住める人間の数を規定してしまうと言っても言いすぎではあるまい。実際のはなし、この村の役場の経済課長(この人がまた先号、先々号で紹介したT氏のような人物なのであるが)によれば、この村の適正人口は三千人(正確な数字は忘れた)ぐらいであるという。そのくらいなら、自前でなんとか生きてゆけたのだそうである。つまり、そのくらい厳しい生活条件なのである。余剰物、ましてや財産が残るなどとはとても思えない。

 にも拘らず蔵がある。しかも全ての家に蔵がある。

 これは、私が勝手に思いこんでいた蔵というものに対しての考えかたと全く相容れないことである。なぜこの貧しい村の家々において蔵が立派なのか。

 あらためて考えなおしてみて、そして話をきいてみて、それが至極当然であるということに気がついた。それは、食糧の備蓄のための倉庫なのである。このごろまた起きているけれども、ほんとについ最近まで冷害はこの地方ではいかんともしがたい現象として年中行事のように起きていた。従って、来年の収穫までの食いぶちは当然として、更にその翌年の一年分までを最低限保持することが、この土地で生きてゆくためには必要なことだったのである。余剰物をしまうのではない、必需品をしまっていたわけで、この土地で暮してゆくための、絶対に欠くことのできない建造物だったのである。(いまは?空っぽである。)それに暮しがかかっているから、自ずとそれは立派になる。

 そのように気がついたとき、蔵というものを単に一般的な意味での倉庫とみなして済ましていた自分自身のあほらしさにも気がついた。確かに倉庫であることに何ら違いはないのだけれども、それだけの理解では十分な理解ではないのである。単なる倉庫という分類法に従うならば、町なかの蔵も、この村の蔵も、皆同じものになってしまうのだが、そして私たちが通常多く見ているのは町なかの商家のそれであるが故に、あるいはまた豪農の家のそれであるが故に、蔵というとすぐに、なんとなく蓄財の象徴のように見てしまうようになってしまうのである。

 考えてみれば自明なことなのだが、しかしとかくそれを忘れ勝ちなのだが、一つの建物をつくるという大変な営みをするにあたって、単に、家というものには一般的に収納場所としての倉庫が必要である、などという安易な発想でそれがなされるわけがない。もっと具体的な彼らの日常に直に結びついた発想のなかからつくられるのである。極端なことを言えば、毎年毎年何の苦もなく食いぶちの得られる場所に住みついた人たちには、この村のような蔵をつくるという発想は、どこをつついてもでてきはしないはずである。そして逆に、この村のような厳しい村々には、単なる富の象徴のような蔵ではなく、まさに生活そのものの表われとしての蔵が存在するものと思われる。

 いま、会津盆地の北方、喜多方(これは「北方」によき字をあてたのだそうである)が蔵の町として観光的にもてはやされだしているけれども、実は盆地のいたるところで私たちは見事な蔵を目にすることができる。喜多方は碓かに商家が多いけれども、盆地のなかのほとんどは農家のそれである。しかし見る人の多くは、専門家も含め、有名になってしまった町なかの蔵にばかり目がゆくから、どうしても蔵づくりすなわち富の象徴的理解で終わってしまうのである。例えば、いわゆる土蔵づくり(土塗壁でくるむ:骨組みは木造である)は防火のために発達したというような説明をよく耳にするが、この村の蔵:これも土蔵づくりである:の場合などは、家と家の間は大分はなれていて、防火上の配慮とは思えない。壁は土塗だが、屋根はかやぶきなどというのさえある。土蔵づくりが防火のために発達したというのは、だから、町なかにおいてのみ言い得ることなのであって、同じ土蔵だからといって、一律の説明で村の蔵まで理解しようとすること自体が既に誤まりなのである。

 

 そして私は、それは全く当然なことなのだが、建物の理解(既存のものも、これからつくるものも)は先ずもって、そこに係わる人々の生活そのものの理解‥‥それはすなわち、「人たちのもつ私の地図」の理解に連なるのだが‥‥この場所で生きてゆく人たちの生活の理解、に始まらなければならないというあたりまえなことを、あらためて、いやという程思い知らされたのである。

 言うならば、地方には地方なりの生活があるという私の考えかたそのものが、未だに観念的、理屈の上のそれであったということであり、私は強烈なアッパーカットをくらったのである。しかし、マットには沈まず、おかけで目がさめ、それ以来、相変らずあちこち歩きまわっているのだが、そのたびに、そこここで見かける蔵が気になってならないのである。そして、見えかたが違ってきていることは、はっきりと説明できるわけでないけれども、確かなようである。それにしてもいままで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

 

 この村のほぼ中央に、もうぼろぼろの、しかし決してとりこわせない、正確に言えば、もうしばらくの間とりこわせない、強いて呼ぶならば「集会所」と呼ぶしかない木造の建物があった。補助金をもらって公民館として建て替えることはできるのだが、それはいまはできない。とりこわす気になれないからだという。なぜか。

 これは、先に書いた、この村の適正人口と深く関係する建物なのである。と言っても未だ分りにくいかも知れない。

 実際にこの村では、その昔(つい最近まで)人口をこの適正人口におさえる策がとられていたのである。すなわち、結婚は長男(男がいなければ長女:養子をもらう)しか認めなかった。娘は必死になって嫁入り先を探し嫁がせる。しかし、二男、三男は、本人の意志で二男、三男になったわけでもないのだけれども、全く運命的に一生言うならばその家の下男同様の生活をして過ごすのだそうである。長男が嫁をもらったあと、彼らは夜はもちろんのこと、家に居づらくなる。(いわゆる大家族的な家族が一軒の家で生活していたのである。だから家一軒が、白川郷ほどではないが、それに少し似たところもある大きな小屋裏のあるつくりになっている。)そこで、昭和の初めころであったか、各家の、夜居づらくなった似たもの同士が集まって、夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場へ、土地を提供してくれ、そうすれば小屋は自分たちが廃材などを工面して自前でつくるからと申しでた。そして土地があてがわれ、かの集会所ができたのだそうである。

 これは、なみの集会所ではない。彼ら二、三男たちの生活必需品であったわけなのである。この運動への参加のしかたは、各人の立場に応じて、現物提供、金の提供、技術提供、労力提供といった具合にいろいろあったとのことであった。いまでこそ碓かにこういう非人間的二、三男の生活はなくなったようだけれども(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多く都会へ出る:で農業以外で働くことになる) しかし未だ、この設立に係わった人たちが健在である。もういまは用がないからといって、この建物をとりこわすなんて、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけなのであった。材の一本一本に、彼らの切ない想いが浸みこんでいる、こういう話をきいたあとでは、ただのぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、言うならば神聖なものに見えてきだ。これもまた、私の観念的理屈にとって、十分すぎるほど衝撃的であった。

  おそらく村々のたたずまいというものは、いや人々が自らの生活に根ざしてやってきたということは、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、成りたってきたに違いない。

  私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そしてできあがったものに対して人々が対してきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら.この過程は決して目に見える形では存在しない。それは、いかんともし難く、そういうものだ。しかし、私たちは、目に見えるものの背後を、目に見えるものを見ることを通して、なんとかして見なければならないのだ。けれどもこれは、理屈では分かっていても、言うやるでは大違いなのである。そういった意味で、この昨年夏の経験は、私の太平の夢破るできごとであった。

 

 ところでいま。私たちのまわりでは、いろいろな種類の「公共建築:施設」がつくられている。社会のニーズをとらえてだとか、建物の使われ方の研究の結果、だとか称して、それらがつくられてゆく。私はいまここに書いた村の二、三男の集会場はまさに「公共建築」のつくられかたのーつであると思うのだけれども、そういった意味での生活の必需品としての発想で、ニーズ使われかたも考えられたことがあるのかどうか、はなはだ疑問に思う。専門家に見えているのは、彼ら自らの表現にいみじくも示されているように、それは建物の使われかたなのであって、決して人々の使いかたなのではなく、そして、仮に人々を彼らが気にしたとしても、そのときの人々人一般としての人々であって、このこの村の人々では決してないのである。

 彼らが何故使われかた見ようとするかと言えば、おそらくそれは簡単な理由による。使いかた言うとき、そこには必らず使う主体としての「個人」が存在せざるを得なくなるからである。そんな具体的にして生身の人間は扱えないということだ。そんなことをしたら、客観的:科学的であるべきことがらが、そうでなくなってしまうと愚かにも(と私は思うのだが)信じこんだか、信じこまされているか、そのどちらかだからである。

 こういう専門家には、決してこの村の二、三男の人たちのニーズなどは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを専門家としてあがめていて、はたしてほんとによいのだろうか。そして、いったいだれが彼らに専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちが、その称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。

 同じ専門家でも、昔の職人たちのもっていた意識と、そこのところは根本的に違っていると見てよいように思う。彼らは専門家である前に、先ずもって一人の人間であった。いま専門家は、言ってみれば、論語読みの論語知らずであって、ほんとのことを知ろうとしない。一人の人間である前に、先ずもって専門家になり下ってしまっているわけなのだ。どう考えたって、それではさかさまなのだ。

 そして、理屈の上では、私はこうありたくない、そう思い続けてはきたのであったのだけれども、この昨年夏のS村訪問で、未だに悪しき習癖がぬぐい去られていない自分を、あらためて思い知らされたのであった。

 

 私がこの通信文を書いていたとき、新聞に、加藤周一氏のスタインバーグ(風刺的、諧謔な絵を描く)との会見をもとにした一文が載っていた。(11月10日付朝日新聞夕刊「山中人間話」)そのなかの一節が、私にとって印象的であったので、それをここに再録して、今月は(今年は)終わりにしよう。

 『・・・・の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、‥廊下を‥歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。

 「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。』

 

あとがき

〇一年間、と言っても四月からだけれども、拙い私の文をお読みいただき、しかも無理にお読みいただいたわけで、ほんとにうれしく思っている。

〇また、手紙や電話、そして時には筑波に来られた折に、いろいろとご意見やご批判をいただくことがあり、それもほんとにうれしいと思う。そんなとき、はじめのうちいったいどうなることか、自分自身でもわからなかったのだけれども、やはりやってよかったと思うのである。いまや、この通信をだすことが私のペースメーカーになってしまった。大学教師という太平の夢をむさぼるわけにゆかなくなってしまって、言ってみれば楽しいのである。もっとも、その私の勝手を読んでもらおうというのだから太平楽なはなしなのだが。

〇私は(昔から)文章はうまくない。ときには、十分な説明を端折ってしまうようで、その都度、途中が抜けているというおしかりをうけることがしょっちゅうあった。その途中の説明こそが大事なんじゃないか、というわけである。大分気をつけているつもりではあるけれども、なかなかなおらない。

〇私はいま、あらためて、私はなんて素晴らしい人たちとつきあってこれたのか、という変な感慨を抱いている。この人たちは皆決して有名ではない。けれども皆、自分を生きている。そして、それが一番専門家にとって怖いことだということを、数多くのこの人たちの日常によって見せてもらってきた。だから、私はこの人たちに信頼を抱く。この人たちに学ばねばならないと思う。そして、そのそれぞれの間題を、またそれぞれなりの問題に対する対しかたを、互いに知るべきだと思う。だから、この通信の役割の一つとして、今後更に、七戸のT氏の例のような話を紹介しようかと考えている。それは、私にとっても貴重な学習になる。

 〇七戸から便りがきた。例年になく、もう白一色だという。私はその普、雪の実態を知りたい、などとかっこいいことを口走ったおかけで、雪の積った小学校の建設予定地を、これでもかと言わんばかりに、吹きだまりに身を没したり、転んだり、徹底的に、T氏に引きまわされたことを思いだした。ロマンチックに考えるなよ、そういう思いやりのようであった。

 〇筑波大学というのは、やはり余程悪名高いらしい。筑波大学にいる人がこんな内容の通信をだすなんて、という感想がきこえてくることがある。しかし、私のやっていることは、別に筑波大学という包装紙とは関係ない。教師の場面で突然筑波大学の包装紙を被るわけでももちろんない。問題は、個々人が何をするかだけだと思う。

 〇書く話題が種切れになりはしないかと、一時は本気になって考えたこともあったけれども、そんなことはあるわけがなさそうだ。当分続けられる。

 〇来年も、それぞれなりのご活躍を!

  1981.12.1                       下山 眞司

 


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「七戸物語(その2)・・・・ふるさとは一日にしてなるか」  1981年11月

2019-03-07 20:17:52 | 1981年度 「筑波通信」

 

                                                                                                              設計 東京大学吉武研究室

 

   

      七戸物語(その2)‥‥ふるさとは一日にして成るか‥‥  1981年度「筑波通信 №8」

 いったい私たちにとって、暗やみとは何なのだろうか。

 私たちは、七戸に着いた夜まさに文字通り手厚い歓待を受けたのち、その日の宿舎だという「青年の家」へ向った。ただ「青年の家」とだけしかきいておらず、それがどこにあるのかも分らないまま、先導の車のあとを追うようにして暗やみのなかをついて行くしかなかった。道は暗い木立ちのなかをぬけ、国道をはなれ、右や左へ微妙に曲りくねり、ついに私は道を頭に刻みつける作業を断念した。もうそれこそ必死に尾燈のあとを追うだけである。道は低湿地に入ったらしく、筑波の近郊と全く同様にときおり強い霧がたちこめてきて全く何も見えず、路面の起伏や感触から、橋を渡ったらしいなどと思うだけである。辛じてそういう状況と私のもっていた地図の知識から、これはこの辺での低地:小川原湖に向っていると想定するのがせいいっぱいであった。その想定はまちがっていなかった。しかしそれは、着いてから人にきいて分った話であって、実際のところは、暗やみのなか、どっちがどっちだか、むろん小川原湖がどこにあるのかさえ全く分らなかった。

 翌朝、なんとなく南だろうと思っていた方角に、なんと八甲田山が朝もやのなかに浮んでいるではないか。私はしばらくの間自分の方向感覚を修正するのに手間どった。八甲田山は西に見えるはずなのだ。それが南に見えるほど昨晩は走ってないのは碓かである。修正するには90度回転すればよいのだが、しかしそれは言葉で言うほど簡単ではない。昨晩以来もっていた感覚がべったりくっついていてなかなかはがれないのである。納得ゆくまで本当に時間がかかった。(ところがいま考えなおすと、また分らなくなってくる。そして地形図を見ては止むを得ず納得する。)

 そして、もしこのとき雨でも降っていて八甲田山が望めなかったならばどうであったろうか。おそらく私は、ずっと、初めになんとなく南だと思ったまちがった方角をそのまま南だと思い続けたであろう。

 そうすると、いったいこのまちがいというのは何なのだろう。そしてそもそも、私はなぜその方角を南だと思いこんでいたのだろう。もっとも、こういう疑問をもつこと自体、いま普通はなかなか認めてもらえまい。厳然たる事実に反した錯覚にすぎない、まちがえたお前が誤りだ、として片づけられるのが普通だろう。厳然たる物理的事実との整合を判断基準とするのが正しいことだと思われているからである。だが私はそうは思わない。いかに事実とくい違おうが、そのように思ったということは、私にとって事実だからである。極端な言いかたをするならば、もし物理的事実に即することのみを是とすることに徹しようとすると、私たちは、日の出、日の入ということばをも撒回しなければなるまい。

 冗談はさておき、なぜ私は事実と違うことを事実と思いこんだのだろうか。おそらく私たちは常に、自分が行動を無事に続けるための拠りどころを求めているのだ。勝手知ったところでは私たちは自由に行動できる。だから未知の場所に出会うと、それこそ必死になって、そこを勝手知ったところにしようとするのにちがいないのだ。勝手知ったところでは、いま自分がどこにいるのか、なにをやっているのか、それが分って安心していられるからである。この勝手知ったところ、それがすなわち先号まで度重ねて書いてきた「私の地図」に仕上がるわけなのだ。だから「私の地図」が私の行動の拠りどころなのである。そして普通は、目に見えるものを頼りにしてその「私の地図」は拡大してゆくのだが、この場合のように暗やみのなかを引きまわされたときはどうなるか。

 いま私は暗やみのなかからまさに突然明りのついた青年の家の玄関についた。実際、暗やみの中に見出した点のような明りぐらい、人をほっとさせるものはない。このときも、もうしばらくの間私たちは完全に「私の地図」をはなれ且つまた「私の地図」を組みたてることも不能な状況に放りだされ、まさに字の如くやみくもに尾燈のあとを追っていたわけだから、本当にほっとしたのである。けれどもそれは、いままでの私のいた世界から切り放された、それとの連続性:途中をもぎとられたようなものである。そこで止むを得ず私は、全く新たに今夜泊まる場所に対して、『私の地図』の作成にとりかかる。

 そしてそのとき、私は全く勝手に、その玄関の面している広場が、建物の南側にあるものと思いこんでしまったのである。おそらくその想定は、私の過去の建物の経験に拠ったにすぎないと思う。たとえば、こういう建物は大体南に向くものだ、そう勝手に思ってしまったのに違いない。もしこれが暗やみでなく、昼間であったならば、絶対にこういうまちがいはしなかっただろうと思う。既に知っていた場所からの連続性:途中が消えてしまうことがないからである。

 かくして、私が安心した気になって一晩すごせるべく、その初めての場所を勝手知ったところにしようとした私自身の独りよがりの試みは、私にべったりくっついてしまって、翌朝そのまちがいが明らかになる事態にたちいたっても、なかなかそれをはぎとることができなかったのである。

 思い返していただければ、こういうような体験は、場面は違っても、おそらくだれにでもあることに気づかれると思う。ただそれを、単なる勘ちがいだとして見すごしてしまっているのである。

 しかし、これは単なる勘ちがいで済ますわけにはゆかない、と私は思うのだ。まさにこれは、私たちが日常、意識しないままに、私自身の「私の地図」をつくり、もち、それに拠って行動しているということの証なのだ。頼りない情報だけでも言わば強引に自分の都合のために地図をつくり、より詳しく情報を手にしたとき、勘ちがいだと気がつくのである。

 暗やみには、私たちの拠るべきものがないから、だから私たちは暗やみに耐えられないのである。怖いのである。もののけがでるのである。

 いま、都会的な生活では、ここで経験したような暗やみは存在しない。言ってみれば全ては日の目を浴びている。見えすぎるほどよく見えている。夜になっても、暗やみがあることを忘れるほどである。だからであろうか、見えているものを全て、初めから見えていた、分っていたと思うようになってしまっている感じさえある。再びもう一度、五号に引用した臼井吉見の随筆を思いだしていただけるとありがたい。あの地元に根づいた生活をしている番頭のものの見かたは、決してそうではなかった。自分の生活にとって拠るべきものは、決して目の前に見えるもの全てではないのである。暗やみとの対比がそれを明らかにしてくれるように、私には思える。

 いま都会には、やたらと案内標識があるのが目につく。そして、地下街などでは、いくら案内標識がたくさんあっても、少しも分らない、迷う、そして地上にでてあたりを見まわしてほっとする(あるいはとんでもないところに出てびっくりする)というような経験はしょっちゅうあるはずだ。これはさしづめ、明るい暗やみに引きこまれたのと同じことなのだ。「私の地図」が描けなくされているのである。「私の地図」は決して標識をもとにしては描けないのにも拘らず、描けると思っている人たちが、それをつくる人たちの大半を占めているのである。そのような場所で災害が発生したときにパニックが起きるのは、決して非常口が分りにくいからなのではなく、それ以前のはなしとして、その暗やみと既に自分の勝手知ったものとなっているところとの連続性:途中が消失してしまっている、つまり「私の地図」を描けなくさせているからなのだ。ちょうどこの青年の家で私がもったと同じような勘ちがいを、そこにいる人たちそれぞれが勝手にもってしまうからこそ、それがぶつかりあいパニックとなる。だから、非常口の標識をいかに目立つものにしたところで、非常時には役立たないだろうと私は思う。

 考えてみればいま、なにも地下街だけでなく、地表においても全て、この「私の地図」の存在が忘れ去られているのではなかろうか。それを忘れて建物や町がつくられていやしないだろうか。私たちにとっての暗やみの存在を十分に分っていた時代に生きた人たちがやってきたこと、それが二号に書いた「あて山」のはなしなのである。彼らの方が、どうも人間がよく分っていたとしか思えない。

 

 いま朝日新聞に、「盲と私たち」という特集が連載されている。その10月10日の文中に次のような盲人の体験が紹介されている。

 「あんたも目がつぶれたらすぐにわかるけど、見えないってのは、ひとりで、じっとしていられない。こっちが動かないと、まわりの世界が動きだして、こわくて‥‥」

 「ひとり歩きする盲人ならだれでも自分のコースを頭の中の地図、足裏の感触、全身の体感で覚えている。道路の材質、凸凹・傾斜・段差などの微妙な変わりようを、環境からのメッセージ(音・風・声・におい・明暗)と組み合わせて歩くのだが、その足元が日々変わるのだから始末が悪い。とくにスッテンと転んだら方角がわからなくなる。」

 「盲人の歩行は踏み出しの第一歩が肝心で、わずかな角度の違いで、とんでもない方へ行ってしまう‥‥」

 確かに、目の見えない人の立場は、目の見える私たちの想像を絶するものがある。私たちに日常化できない条件の適いがある。けれども。ここに紹介されている体験をみる限り、この人たちの行動が、目の見える人たちのそれと、構造が同じであるように、私には思える。私たちが目に見えるものを主たる拠りどころにしているのに対し、この人たちはそれ以外のものを頼りにしているのだ。

 そしていま、目の見える人たちは、目の見えない人たちの立場を分る以前に、同じ目の見える人たちの立場さえも分らなくなっているのではないかと私は思う。つまり、私たちがだれによらず常に、頭のなかに「私の地図」を描いている、そしてそれに拠っている、ということが分らなくなっているのである。

 

 七戸物語の続きを、いきなり暗やみの話で始めたのには訳がある。いったい私たちに見えているものというのが、私たちにとって何なのだろうか、それを考え続けていたからである。目の前にあるもの、目に見えるもの、見ているもの、知っているもの‥‥これが全部、その意味することが違うのだということを知らなければならないと私は思う。私たちが、暗やみに何を見るかそして陽あたりで(つまり明るいところで)何を見ているのか、考えてみたかったし、また今回、ほんとに久しぶりに暗やみを味わうことが、いい具合にできたのである。手前みそでいうならば、いずれにしろ、どこにいようが、「私の地図」をどう描くかが肝要なのだと思う。

 そして先回書いた「懐しさ」も、そこに生きているということの象徴・履歴として心に沈潜して懐しさとなると簡単に書いてしまったけれども、それも結局「私の地図」との係わりのなかで生じる心情なのだと思う。つまり、見慣れた風景だから懐しいのではない。もしそうなら、観光で見た風景にも懐かしさを覚えなければならなくなる。そうではなく、それは、ここしばらくすっかり忘れていたある昔の「私の地図」(それにはその風景がからんでいる)が、その風景を見たことにより、突然きのうのことのようによみがえってきた、そのことに係わった心情なのだ。そして全く逆に、ふるさと遠く離れて生活しているとき、普段はすっかり忘れていたことが、ふとしたことで思いかえされるとき、その昔の自分の生活:「私の地図」の展開した具体的な場面をかたちづくるものとしての風景が、目の前に浮んでくるのである。

 そして、どう考えても、建物は「私の地図」が展開する場面をかたちづくるものの一つなのであって、それ故然るべく考えられなければならないのだと私は思う。

 従って、建物は、それができあがったというだけではほとんど意味がなく、それが一つの場面として、あるいは一つの風景として、どれだけ「私の地図」に位置づけられるか、定着するかにこそ、その真価がかかっているのではなかろうか。

 だからおそらく、建物づくりというのは、そして町づくりというのは、ものすごくスパンの長い、先を見た話でなければならないのだ。けれどもそれは、通常よくあるような、到達目標としての「絵に描いたもち」の如きものなのではなく、またそうあってはならず、そうではなく、日々を過ごしてゆくその過程のなかで、言わば積み重ねられ定着してゆくものでなければなるまい。そしてそれは、どこかのだれかが考えて定型として与えられるものなのではなく、そこで生活する人たちのその生活遂行において定着するものなのだ。けれどもいま、どれだけの専門家がかく考えていてくれるだろうか。彼らは大部分、この肝心な点を完全に見すごしているように、私には思えてならない。彼らは、一人一人の人間の主体性を無視しているのである。彼らにとって一人一人の人間は、一般大衆であり、故に不特定多数であり、人格のない単なる操作対象にすぎないと言ってよいだろう。人々はそんなにもばかなのだろうか。

 

 私たちが泊った青年の家の名称は、「公立」小川原青年の家という。そこから1㎞ほどはなれたところにあるこの春開設されたばかりの心身障害者更生施設もまた「公立」ぎんなん荘と名づけられている。県立でもなく町立でもなく村立でもない。まし国立でもなく「公立」を名のる。この名称の「公立」というところにこれら建物:施設づくりの特色が秘められているのだ。そしてこの「公立」は、通常言われる私立学校に対しての公立学校などというときの公立とは本質的に意味が違うように私には思える。私にはそれは、これから書く如く、英語のpublicに対応する意味での「公」立であると見えるのである。

 実は、これらの施設の運営は、「上北地方教育・福祉事務組合」が行なっているのである。当然、その設立も同様である。すなわち、七戸町の他数ヶ町村の広域行政の一つとして営まれているのである。「公立」という一見奇異な呼称となっているのも、そうだからである。通常では、これらの施設は県立の多いことは各地の例を見ればわかるとおりである。なぜここではそうでないのか。

 

 ある地域に住んでいる人たちが、ある施設の開設を望んだとしよう。たとえば、青少年のための研修の場が欲しいと思ったとする。しかし、それをその町や村単位でもつには、町や村は人口的にみて小さすぎるし、仮につくるとしても到底財政的に不可能に近い。かと言って、県単位ではこんどは大きすぎ、その位置が問題となり、実際利用面でも小まわりがきかなくなる。その設置位置をめぐって誘致合戦がくりひろげられ、政治屋がからむなどというのはよくある話である。こういう研修施設なら、まだそれに代る既存の施設の利用ということも考えられるけれども、心身障害者施設となるとそうはゆかず、まして町で欲しくても、その成立は、これは完全に不可能である。だから普通、小さな町村は、こういった施設に縁遠い存在を余儀なくされているというのが現状なのだ。その他のいわゆる公共施設も含めて全て、都会に比べて、都会が決して十分だとは言えないにしても、決定的に不利な状況なのである。しかし、この状況を、都会にいてはたして本当に想像することができるだろうか。分るだろうか。

 私はここで、昨年書かされたアンケートのことを思いだした。確かそれは、筑波研究学園都市に最後に移住してきた某研究所の労働組合が行なったものであった。そのアンケートの問いの一つに、学園都市の交通の便・不便についてのものがあった。学園都市は共用交通としてはバスしかないがその本数は、常にバス時刻表を携帯を必要とするぐらいの本数しかない。それが便か不便かという見えすいた問であった。いったい便とか不便だとか、何をもとにいうのだろう。いまでも学園都市の範囲をちょっとはなれると、それこそ一日に二本しかバスが走らないというようなところだってあるのである。彼らに対して、それが便か不便かときくことができるか。むしろ無意味に近いだろう。便・不便の絶対的な基準など、どこを探してもないはずだからである。

 都会での習慣をもってものごと全てを律してもらってはいけないのだ。そういう無意味なアンケートをするまえに、どうして、なぜ都会ではバスがひっきりなしにきて、こういうところでは日に二本なのかと自ら問い考えてくれないのだろうか。そして、なぜそういう不便なところに人々が生活しているのか、してきたのかと問わないのか。

 それにも増して不愉快なのは、筑波は辺地なのだから辺地手当をよこせという要望であった。都会的でないところを辺地とみなし、自分たちは(自分たちだけは)そういう辺地にあっても都会的生活をする権利があるとでもいうかのようだ。辺地の生活はまるで人間の生活ではないとでも思っているのではなかろうか。どこにでも人々は生活している。しかしそれは一律的な便・不便で片づけられるようなものではない。それぞれの場所でそれぞれのやりかたで生きてきたし生きている、どうしてそういうように見ようとしないのか。そして、忘れてもらっては困るのは、そこに住んできた人たちも、やはり人間だということだ。

 いまここに書いたアンケートを考えたような人たちと同様な考えかたが、しかしいま一般的なのではなかろうか。言ってみれば都会偏重:辺地切捨、都会型願望が強い。だから全てを都会的基準で律してしまう。

 

 大かたの国の施策もまた、概して一律的である。たとえば行政改革で問題になっている各種の補助金がある。実際おどろくほどの多様な種類がある。それをーまとめにして町村が自由裁量できたらどんなによいかと思うが、それはひもつきでできない。全国ほぼ一律のわく組みによりしばられる。そして、あくまでも補助金であるから、町村はそれに見合った負担を必要とする。従って限界がある。だから、財政的に弱体な町村は、大きなことはできず、不便は不便として放置せざるを得ず、やろうとしたってできないからやろうともしないという悪循環さえ起しかねない。かと言って、たとえば、そういう町村に心身障害者がいないわけではない。人口が少ないから絶対数としては少ないが、確立的事実として必らずいるはずだ。しかし町村では対応できないのが目に見えている。国や県の施策を待てばよいか。それはいつのことか分らない。それに、その場合も必らずその効率性の点から、大規模でどこか遠くにまとめてつくられるに決っている。それでは収容所ではないか。そのとき既に、いったいその施設づくりが何を目ざすものであったのか、その根本が忘れ去られ、いたずらに施設をつくることで満足してしまう。あればよいではないか、ということになる。人々にとって、どこに、どうあればよいか、この肝心な点が雲散霧消してしまうのだ。先々号で書いたような、半径500mの円を描いて、そこに一つづつ児童館があればよいとするのは、その典型である。

 しかし、そんなものが欲しいのではないのである。では、本当に町や村で欲しいものを、人口も少なく、財政も乏しい町村がどうしたらもてるか。そこで考えだされたのがこの「上北地方教育・福祉事務組合」だったのである。言ってみればそれは、同じような望みと悩みをもつ町村の「共同体」なのである。

 このとき普通だれもが思うのは、そうならば町村合併すればよいではないか、という疑問である。けれどもそれも、やはり都会的あるいは中央の発想なのだ。これらの町村が合併ではなく共同体を選んでいるのには極めて正当な理由がある。そこには、それぞれの町村はそれぞれなりの特性があるとする認識が根底にあるからだ。それぞれの地域にはそれぞれ特有の問題があり、それは各地域ごとに解決してゆく、しかし共同で解決できるもの、またそれでなければできないものに限って共同で策を施す。これがその理由である。

 実際歴史地理的に調べれば分ることなのだろうが、それら町村は、過去の合併にも拘らず、地理的にもそれぞれあるまとまりをもっており、きくところによればこの共同体の総面積は香川県に匹敵するほど広いのだそうである。当然場所場所で違いがあることは目に見えているのであって、人々が住む視点にたつならば、大きいことは必らずしもよいことではない、そのことが十二分に分っているのである。こういうやりかたを強力におし進めてきたT氏が、これをヨーロッパ共同体と同じだよ、とこともなげに言ったのが印象的であった。自立した個人の集団としての組織であるというわけだ。

 

 広域行政というのは、これは中央:国、県の側から強力な指導のもとで各地に展開されているわけだが、ここの場合はむしろ完全に地元主導型ですすめられてきたのだということができるだろう。因みに、「教育・福祉事務組合」という広域事業組合は全国探してもそうざらにはないはずである。

 ここの場合、中央から示される制度を、言うならば逆手にとって地元主導型で読みかえ実行したと言えるだろう。それは各種の補助金や融資制度の活用についても全く同様で、それらを全て、言うならば地元の視点で読みなおし組みたてなおして巧みに運用するのである。従ってここでは、補助金もなにも全て活きているのだ。

 いまここでは下水についての広域事業にとりかかろうとしていた。広域下水道については、これもまた中央からの指導がなされているのだが、いまちょうどその指導に対して地元主導型への読みかえ作業のため奮戦中であった。中央推薦の広域下水道はこれは全く都会的発想であって、各家庭からの排水を下水管(かなりの太さになる)にてーヶ所の処理場へ集め処理する方式である。しかしこれは都会ならいざしらず、実にばかけたことになる。この広大な土地一面に都会のように人が住んでいるわけではないから、下水管だけが無人の野を延々と走るということになる。言うならば、全く新たに、他に利用の方法もない下水の小河川を一本つくるようなものだ。そしてもし上水を自然の川からとるとすると、極端に言えば、自然の川の水はなくなり人工の川:下水管に移ってしまう。農業用水はどうするのだ。第一大量になった末端処理場の処理は決して理屈どおりに処理されていないのは各地の例で明らかだ。であるならば、この同じ広域をただーヶ所でカバーするのではなく、各集落毎で処理したらどうか、その処理も大地にかえす方法があるのではないか、そうであれば自然河川は従前どおり自然河川であり続ける。人口が少ないことが逆にその方法を可能にさせるはずである。経費は明らかに十分のーで済む。これが奮戦にあたっての論理であった。けれども硬直した中央は、なかなかこの発想に応じないのだそうである。技術自体そして技術者自体、巨大技術に酔って発想の転換をしてくれないのだそうである。そして三百億円かかるものが三十億円でできてしまっては、政治的メリットが少ないのだそうである。

 しかしT氏は奮戦中であった。汚水処理の本を読み、土木技術や生態学を自ら学び武装してことにあたっていた。各地へとび実際を調べまわっていた。ことわっておくが彼はそういう方の専門家なのではない。言うならば彼は事務屋さんなのだ。なぜ彼がそこまでしなければならないのか。一言で言ってしまえば、専門家が信用できないからである。より正確に言えば彼らは確かに、学識はあるだろう。しかし、それぞれの地方の特性にみあった解決法をあみだす力に彼らは欠けているのである。いやむしろ地方地方に特性があるということ(つまり地方があるということ)さえ見えないし、それぞれに知恵の蓄積があるということなど、もちろん見えないし見ようとしないのである。あるのは、通りいっぺんの、それこそ中央で、何も見ずに机上で考えたワンパターンの方法だけだ。T氏はいう、護岸工事でもそうだ、コンクリートで固めればいいと簡単に思ってしまう。うちの方には昔から「しがらみ」と言って、木のくいをうちこみ、それにやなぎの枝をきってきて絡みつけて土どめにする方法がある。数年もたたないうちにやなぎが根づいてしまう。その方が結局ながもちする。第一風情のある川岸になるじゃない。なのにコンクリー卜でないと公認してくれない。こういうことが多すぎる、と。

 私は彼の見解に全く賛成する。というより、現場での裏づけをもとにした見解であるから、その迫力に圧倒される。

 ある土地に住む人たちは、その土地で生活してゆくために、その地域の特性に応じて、それなりのやりかたをあみだし、技術の面でも蓄積を残してきたのだが、いま中央の言わば机上で考えられた独断的な一律の基準がそれらの存立を許さなくなっているのである。大工技術:木造技術も全くそうで、たとえば住宅金融公庫の指示する基準、そしてそれ以上に建築基準法の諸規定は、そういった知恵の集積を無視し駆逐する役割をはたしてきたといってよい。その背後には中央の建築学者がいること、これは十分に反省されねばならないと思う。彼らは彼らのつくった基準こそが科学的・合理的だと思いこんだのである。彼らは、それこそ重大な勘ちがいをしているのである。私にはむしろ、各地に蓄えられた技術の方がよほど合理的であるように思えてならない。なるほどそれらはいわゆる科学的分析によって生みだされたのではないのは確かだが、しかしそれは長年風雪にさらされるという実験を経て生き永らえてきたというのも確かである。要は、合理的基準の「合理」の根拠を何に求めるかなのだ。

 因みに、わが研究学園都市のなかの建築に少しでも係わりそうな研究機関で、木造技術についてどれだけ研究がなされているかについて調べた人がいるのだが、それによれば、なんと皆無なのだそうである。木造建築の国日本において、皆無なのである。新技術には目が向くが、何の新味もない木造に関心がない(その実、建築物の大半は、いまデータがないが、木造のはずである)ことと、たとえば構造力学的な面でも木造はその解析法がなく、従ってだれもやらないのだそうである。研究者たちの目には、新しいこと、すぐできることだけが目にうつるらしい。なぜなら、その方がすぐに成果がでるからである。言いすぎかもしれないが、研究のための研究が表通りを歩いている。そうであるにも拘らず、昔からの知恵の蓄積を認めない基準がつくられる、いったいこれはどういうことか。

  とはとかくこういうものなのだ。それぞれの地域の独自性:主体性を無視し、それを統御しようとする、まさにそのことだけに中央は中央の意義!を認めていると言ってよいだろう。そして、こういう中央にまつわりつくことに、とかく多くの専門家や学者・研究者は意義!を認めているのだと言っても、これもまた過言ではあるまい。いつもふと思うことがあるのだが、この人たちが人々に係わるものごとを扱う専門家だと、いったいだれが決めたのだろうか。多くの場合、それはその関係の学問を学んという言わば自称ではなかったか。彼らにいったい、それについてどれだけの自覚があるのだろうか。そしてまた、彼ら専門家が、人々に係わるものごとを扱うことを委ねられたとき、はたして彼らのどれだけが「委ねられる」ということの本当の意味を理解していてくれるのだろうか。

 そうであるとき。地方の時代などという中央からきこえてくるかけ声の、なんと白々しいことか。地方とは相変らず統御対象としての「対中央」の意味でしかないのである。

 そして、だからこそ七戸町を軸にT氏たちは奮戦する破目になるのである。なんと労力を要することか。しかしいま、地方を真に地方たらしめようとすると、それなりの労力としたたかさを必要とするのである。

 そしてT氏たちは、もうここ20年近くもそうしてきたのである。そうさせるもの、20年近くも奮戦させてきたもの、それはいったい何なのであろうか。普通の役所の役人なら、こんなバカげたまねはしないだろう。つつがなく毎日がすぎてゆけばそれにこしたことはない。ところがこの人たちは、わさわざ仕事をつくっては、それを自らこなしてきたのである。何がそうさせるのか。しかしそれは詮索したってはじまらない。彼らは自分の町が無性に好きだ、人たちが無性に好きだ、ただその一言につきるだろう。だからいい町にしたいのだ。都会の人たちだけが恵まれていていいはずがないではないか。都会に負けないものを!

 それ故、その初めは、一つの建物をつくるにも、都会にひけをとらないものをつくりたい、それが原動力だったと思う。ある意味では当然で、一つの目ざすべき一段上に位置するものとして都会の文化があった。しかし、いまはもう、そういうようには考えられていないことは、既に書いたとおりである。目ざすべきものは、自分たちのなかにある。その自信に充ちあふれている。

 

 だから、最近実現させてきた諸施設は、どれもその考えかたが極めて新鮮である。たとえば「公立ぎんなん荘」の場合、一見して予算が苦しかったなと分る建物だが、そんなことが吹きとんでしまうほど独特な考えかたでつくられている。戸建て住宅が数戸ならんでいるように見えるのである。実際そう考えられているのである。要するにここは家族からはなれているけれども園生たちの家であることに変わりない、だからそうするのである。一戸に10人ほど住み、簡単な食事もつくれるようになっている。大食堂と浴室(これはこの建物のために掘った温泉である。温泉は暖房の熱源にも使われる)は別棟にあり、しかしそれらをつなぐ渡り廊下がない。銭湯にゆくつもりで歩いてもらうというのである。食堂は八甲田山を展望できる、人数に比べ少しばかり広すぎる大きさの室であった。

 私たちが泊った青年の家とここは約1㎞ぐらいはなれていると先に紹介したけれども実はこれはともに、先の共同体を構成するある町の町立牧場の一画にある。だから1㎞は牧場のなかを歩いてきたのである。はえやあぶの多いのが難だけれども、まわりはまさに広々とした牧歌的風景が展開する。そして、青年の家に宿泊した青少年は、昼食をこのぎんなん荘の食堂で、身障者と一緒に食べる機会が設定されるのだそうである。食堂が大きいのはそのためなのだ。計画の最初からそう考えていたらしい。通常青年の家は教育委員会の管轄、そして身障者施設は厚生関係の管轄となるから、こんなわけにはゆかない。ところがこの「教育・福祉組合」立では、平然とそれをやってのけているわけである。

 この施設を牧場のまんなかにつくるというのもそれなりの考えがあるようだ。先ず町有地の一画だから土地代はただ。しかしそれだけで決っているわけではない。ここに住んでいるのは晨業者の子弟である。彼らに身につけてもらう作業能力の養成に、この地方の主産業の一つ、牧畜:牧場を利用しようというのである。彼らの家族の日常と大差ないことが、指導されるわけなのである。そのなかみは、すなわちまた牧場の日常以外のなにものでもない。

  ここにあるのは、諸々の事実を、機械的な分掌主義によってばらばらに運用するのではなく、全体を適切な相互関連をもたせつつ運用しようとする「意志」である。そしてそれは、単なる身すぎ世すぎのための役人商売では絶対に出てくるわけがない。つまるところ、彼は町が好きなのだ、人たちが好きなのだ。そして、町役場に勤めるとは、つまり役人とは何なのか、自覚しているのである。そして、こういう町の町役場の職員は九割九分その町に住んでいるということも考えられてよいだろう。彼らのやることは全て、町の住人としての自分にもふりかかる。因みに、東京の区役所の職員の半分以上は、その区の住人ではなく、埼玉、千葉、神奈川から来ている人もいるそうである。彼らがその区の(住人の)ことを分かるためには並大抵のことでは済まないはずである。住人が何を見ているのか、その住民たちの地図を知ろうとしなければならないのだが、それができるか、しているか?

 

(「筑波通信№8 後半, あとがき」 に続きます。)


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「七戸物語(その2)」 後半, あとがき

2019-03-07 20:17:18 | 1981年度 「筑波通信」

                                           (校舎は現存していません。)

「筑波通信№8 前半」より続く

 

  T氏とのつきあいは、先にも書いたが、もう20年になる。そのときT氏は七戸町の教育委員会の事務局の一職員であった。そのとき町では学校の再編成の仕事にとりかかっていた。ちょうど、いくつもの学校や分校を統合する策が全国的にすすめられていたころである。町では、中学校を一つにまとめ、小学校は逆にいままで一校、町の中心の城跡にあったものを、ほぼ町の中央を東西に流れる川を境に南北二校にしようとする計画をたてていた。おそらくその企画もT氏の手によるものと思われる。普通ならそこですぐ、極く普通の学校が建ってしまうところだったのだが、T氏はそうさせなかった。どうせ建てるなら最先端のものを建てよう、そう考えたT氏は、当時学校建築について研究を重ね種々の提言を行っていた東大の吉武泰水氏のところに現れ助力を求めたのである。そのころ校舎の不燃化にあわせ、それもそのころ出現した軽量鉄骨による学校建築が推進されていたのだが、その結果、軽量鉄骨造の中学校がいち早くこの東北の一角に誕生したのであった。見学者あとを断たず、T氏も悪い気はしなかったろう。そのときT氏は血気盛んな(いまも変らないが)30そこそこであった。

  そして、次の小学校の新設計画のときもまた、彼は東京に現れた。そしてその設計を、全く幸か不幸か、私が担当することになったのである。私もまた血気盛んであったから(本人はいまも変らないつもりでいるのだが)私はいたく彼の情熟にほだされた。それに応えなければならないと思った。そして私の側で言えば、ちょうどそのころ、当時建築の世界でやられていることに疑問を抱いていたときでもあった。私は考えた。そこで私が考えたこと、またそこで考えたことがその後の私の方向を決めたこと、それは先号で書いたとおりである。

  けれどもそれが私の方向を決めるものになろうとは、そのとき予想できていたわけではない。むしろ、ふりかえってみたらそうだったというにすぎない。ただ、まじめに考えたのは確かである。そうしなければ、彼とのつきあいに応えることにならないからである。一番初めにこういう設計の場面にめぐりあえたということは、いま考えてみて、こんなに幸せなことはないのではないかと、つくづく思う。私はついていた。

  そのころから現在にいたるまで、この町では、そしてまわりの町村を含め、文字どおり精力的に、乏しい財源のなかで、それを巧みに運用して着々と絶えまなく、ほんものの地域計画を、自らの手で企画立案し実現させてきたのである。町(の人々)にとって必要な教育施設(学校、幼稚園、公民館など)厚生関係施設(保育所、病院など)上水、消防、などなど、それらはこの20年の聞に碓実に整備されてきた。

  先の広城事業のやりかたは、消防がその手始めであったように思う。私が例の小学校の設計のため通っていたころ、隣りの天間林村との広域消防の設立に向けて、T氏が奔走していたのを覚えている。いまそれは更に他町村を加えて、より広域化している。そしてその広域事業は当初、あくまでも消防のためだけのそれであった。つまり一事業一組合で対応していた。上水その他も同様であった。けれどもいまでは、各種事業つまり複数の事業が一組合で営まれている。事業の数だけあった組合が一つにまとまったのである。それは最近のようだ。

 これも机上で考えると、初めから、つまり一事業一組合をたくさんつくらずに、各種事業を営む一組合をつくった方が合理的且つ効率的であるように思えるかもしれないが、実はそれは的を得た評ではない。それは結果だけしか見ない人が言うことばである。机上で描いた理屈でやったのならばつまり初めからそれをつくろうとしたならば、多分それは失敗しただろう。そうではなく内側からのながい時間をかけての積み重ねがあったからこそ共同体の意義がリアリティをもって定着したのである。そしてまたそうでなければならないことを十二分にわきまえていたのである。

 しかしながら、中央やえらい学識経験者の言うことは常に、あるべき結果の形についてのみであり、それらのあるべき姿へ、どういう道すじで到るのか、そのことについては全く考え及ばない、というのが実態である。ちを絵に描くことぐらい簡単なことはない。要は、どうやったらできるかなのだ。

 しかし、この町で試みられてきたような内側から徐々に熟成させてゆくやりかたは、その効果が直ちに目に見えないやりかたである。ある年度に投資した100のものが、その年度中に100の成果となって表れるといった類のものではない。だから、そういうことをのみ期待する人たちからの、つまり単年度決済主義者からの中傷や批判は多々あったろうと思われる。けれども、この町でやられてきたような、あちこちで一見したところばらばらに仕込まれた事業は年月の経過とともにそれぞれが、そしてそれら相互が総合的にからみながら醸成し、単年度では100にみえなかったものが、それ以上の成果となって現れる。と書くとえらく簡単にきこえるが、それは批難や中傷に耐え、常に現実の本質的問題をとらえ目先のことにとらわれず、そして同時に常に先を見るというしんどい作業を必要とするのである。目に見える成果だけを期待するいわゆる政治屋的やりかたでは、到底これはついてゆけない。息のながい話である。

 先にも既に書いたことなのだが、実際の話、町づくり施設づくりというのは建物としての施設、つまり物をつくることでできあがるのではない。このあたりまえなことに、私たちは気がつかなければなるまい。それらが重要なことは事実である。しかし言ってみればそれは舞台をつくっただけにすぎないのである。そこで人々が生活し、そして生活してゆくのに必然的なものでなかったならば単なる物のまま死んでゆくだろう。新たに造られた場所が、いかに人々になじまれ、定着してゆくか、それこそが問題なのであり。だから、建物の完成は施設づくりの一環のほんの一段階にすぎないのである。息のながい話なのである。

 

 私たちは、できたばかりの身障者施設を案内してもらったあと。再び七戸町へ向った。道はまっしぐらに八甲田を目ざし、丘陵台地をすすむ。ときおり谷地を横ぎるから、大きく上ったり下ったりする。ちょうど筑波の平野を横ぎるときに似ている。まわりは一面のとうもろこし畑やながいもの畑が続いている。これはこの夏に経験して思ったことだが、昔はこういう一面に同一の作物の畑であるということはなかったように思う。この夏、軽井沢の北嬬恋村を走ったとき、丘という丘が全部キャベツ畑であるのを見て、壮観というよりも、異様という感じをもったのである。ほんとにそれは異様・異常な風景であった。おそらく、現在の農業を象徴する風景だと、そのとき私は思った。ここでも同様なのだ。

 しばらく走ると、もう見慣れた場所が増えてくる。先導の車を見失なってももう平気である。「私の地図」の領域に入ってきたのである。

 城南小学校の近くは、当初延々と続く畑であって、春先は菜の花が一面に咲き、遠く近くに唐松林が芽をふき、八甲田だけがまだ冬の気配を残して輝いているといったたまらない風景が展開したものだが、いまはとびとびではあるが人家で埋められはじめている。それでも敷地は一万坪以上あるから大勢は変っておらず、むしろ、昔冬の夕暮れときに感じたような人里離れたというようなさびしい感じがなくなって、かえってよくなったかもしれない。この学校ができてから、町の中心部に、それこそ肩を寄せ合うようにして住んでいた人たちが、この丘のあたりに移って来はじめたのだそうである。(人口が都会のように増えてこうなったのではない。人口はほとんど変っておらず、横ばいかむしろ減少しているはずである。) これもまたT氏の計画に入っていたことなのかもしれない。言うならば、学校をつくったことにより、新しい集落:住宅地が生まれつつあるわけだ。

 

              「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より   設計:東京大学 吉武研究室

 昔もいまも変らない大きなケヤキ(この辺ではツキノキというらしい)の木立ちの下をぬけると、城南小の敷地の北辺にでる。そこからひろがるゆるい南下りの斜面が校地なのだ。建物はそこから100mほど歩いたところに入口がある。右手には、はるかに八甲田を見はるかすグラウンド、そして左側には体育館(というより講堂に近い)がある。それに沿って歩いてゆくと、平家建の建物が。だんだん迫ってくる。正面にこれともう一箇所だけが唯一二階建なのだが、図書室のあるブロックがある。入口前の前庭である。ここは、冬になると八甲田おろしがまともに吹きよせ、雪のときなどは吹きだまりになってしまって実にやっかいなところになるのだが、しかし、それ以外の季節、ある程度晴れてさえいれば、学校から帰るとき、玄関から外にとびだすと目前に、グラウンドの続きの、このごろは人家もまばらにまじる平原越しに、あの八甲田が一望のもとに見渡せるのだ。

 実はこれが、私の設計の際考えた大事な点の一つだったのである。どういう風に、この町の八甲田を見せるか、いろいろ考えたのだけれども、地形の状況などを勘案して、結局こういう形に落ち着いたのである。印象に残る形で見えるのは、ここと、先に書いた二階の図書室へ登る階段を上がりきって図書室へ入ろうとする(あるいは図書室から出ようとする)ときだけである。教窒の窓からも見えるところがあるけれども、それはあくまでも窓外の一風景以上にはならないはずである。この二箇所においてのみ八甲田の存在をあらためて心に思って欲しかったのだ。

  この学校には職員室がない。小さな会議室が一つあるだけだ。教室は、低学年、中学年、そして高学年とに分かれている。低学年は、先の前庭に南を向いて立つと、その右手にグラウンドに沿って、一・二年生用六教室が平家で延びている。それ用の玄関を入ると小さなプレイルームと称する室があり、そこから吹き放し(つまり屋根だけ)の渡り廊下が教室の南を走っている。

 中学年・高学年は、前庭から見て左手、それ用の玄関の奥に、一つの中庭を囲んである。そこは一段地形なりに落ちているから前庭からは見えない。高学年は中庭の南、敷地の南端に二階建である。しかしそこでは更に敷地は一段落ちるから、階段のおどり場の位置に、これも吹き放しの廊下でつながっている。中庭の北側にあるのが中学年の教室である。これは平家建。つまり、教室は、二学年づつの言わば分棟式になっているわけで、実はそれぞれに、まことに小さい準備室と称する室があり、先生がたは普段そこにいるのである。それ故職員室がないのである。

  いま、七戸町教育委員会にある施設台帳を見ると、その図には、先ほど来書いてきた渡り廊下がのってない。なぜか。

 この学校の四・五・六年生用の教室は、それぞれ三教室なのだが、その北側に幅が4m近い廊下と通称する場所がある。普通、廊下は2m 50cmぐらいであり、子どもたちがそこをどやどやと通りぬける。けれどもここの場合はいずれも、言わば袋小路になって、通るのはその学年の子どもたちだけなのだ。だから廊下としてなら広すぎる。実は、その学年の子どもたちたまりを、廊下と称してつくってしまったのである。低学年のプレイルームにしろ、こういうたまりにしろ、いまではさほど難しくないのだけれども、当時はそんな面積的な余裕はなかったのである。面積すなわちお金だからである。だから、これらの室も、先の準備室と称する学年職員室もみなそれは、台帳にない渡り廊下を食いつぶして生まれたものであったのだ。渡り廊下はこういう雪の降るところでは冬場はだめだろう。おそらく批判がでるだろう。しかしそれらは甘んじて受けておこう、これがT氏と私の間の密約であった。12・ 1・ 2月だけ我慢してもらえば、あとは天国のはずなのだ、そんな負け惜しみを言いながら。

 

「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より    

  

☆アプローチ 前庭より図書館、プレイルームを見る           ☆1.2年入口からプレイルームを見る

  

☆プレイルーム内部                               ☆1.2年教室

  

☆3.4年ホールから西を見る      ☆3.4年ホール周辺 ☆教室南側渡り廊下、スノコは冬期のみ ☆4年廊下(奥は教員控室) ☆3年教室前

  

☆5.6年教室北側                      ☆ 6年南バルコニー ☆6年廊下  ☆5.6年棟入口ホール

  

レイルームと図書館                  ☆あそび庭よりプレイルーム・1.2学年教室を見る(後方は八甲田連山)

 

 完成当初、だいたいのところはなじんでいってくれるだろうと思いはしたものの、この点、職員室がないということについては全く自信がなかった。不満がふきだすのではないか、これはT氏も私もともにもっていた気がかりであった。なぜなら、子どもたちというのは、どんな初めての場所に当面しても、それに対応し、住みこなしてゆくものだが、大人はなかなかそうはゆかない。普通の学校に慣れきってしまっていると、普通でない建物は全く異形に見えるだけになる。先生というものは職員室にたまっているものだという慣習になじんでいると、この学校は理不尽に思えるはずだ。

 ところが、そういう不満は、少なくともおもてだってはきこえでこなかった。今回私たちにいろいろ話をしてくれた校長先生は、完成当時この学校で教えていた方で、そのあと周辺の市町村の学校をまわって、二年ほどまえから、この学校の校長として赴任されたのだそうである。完成当時のとまどい、他の学校、そして再びこの学校へしかも校長として、という貴重な体験をしてこられたことになる。その先生の話によれば、職員室は別段問題にはならなかったのだそうである。唯一学年準備室:職員室が狭すぎることを除けば。碓かに初めて赴任した先生は、初めのうちとまどうそうだが、ここのやりかたが気に入り、すぐになじむという。どうも見ていると、低・中・高学年ごとの一種の自治国家が確立したかのように、それぞれの自主性が強く出てくるのだそうである。従って全校的会議も元気がでてくる。(それは小さな会議室で行なわれるのだ。)まして、子どもたちの傍にいつもいるから、子どもたちの日常も手にとるようによく分る。要するに、地方の先生がたは概ねそうなのだが、それに輸をかけて活気があるのだ。そのせいか、他の学校と違い、放課後すぐに帰らず、明日の準備だとかなにかを、その準備室でごそごそやっている先生が多いのだそうだ。それにつけてももうーまわり大きければというわけである。冒険をしたT氏と設計者にとってこれはまことにうれしいことであるけれども、しかし、本当のところはむしろ意外であった。建物のせいで止むを得ずそうなったのではなく、積極的にそうしているからである。そして、もし積極的でなかったならば、大抵の場合だと、因習を維持するために必らずどこかの室を昔ながらの職員室に仕立てなおしただろう。

 また、この学校では、普通の学校でよく見かける「廊下を走るな」という指導をやってない。走ることもないし、走ったって別に問題がないからなのだという。むしろ授業から開放されたら思いきり廊下でもどこでもとびはねてこいというのだそうである。実際のところ建物がそうなっているので、大体子どもたちは外にとびだしてってくれるそうである。(子どもたちは、上はきのまま、つまり一度玄関を入ったあとは、教室前に拡がる庭には、そのまま出ていってかまわないのだ。うるさいことを言われない。)

  要するにこの学校では、普通の学校のように、先生の側があらかじめもっている一般的学校生活の定型を、ただいたずらに子どもたちに押しつけるのではなく、むしろ逆に、子どもたちがこの建物で自ずと展開している生活をじっくりと追いつづけ、見つづけてゆくなかで、徐々にこの学校なりの定型をつくりだし、指導してきたと言い得るだろう。この学校が風変りで、一般的定型が通用しなかったからだと言ってしまえば元も子もないが、そうではなく、ここでの子どもたちの自ずとしている生活が、だれの目にも(つまり先生にも)納得のゆくものだったからだと、私は思う。

 けれども、このこの学校なりのやりかたというのは、絵に描いたもちのように初めにあったものでもないし、また簡単に、一朝一夕にしてなったわけでもない。そのように定着するには、いろいろな試行錯誤があったし、ながい時間がかかっているのである。それは、代々の先生がたが、意気に感じてやってきたことであり、現にやりつつあることなのだ。だから、定着したといっても、固定したのではないのである。

 こういう使いかたをしているのを、何年もたってから見れるとき、設計者は、少し大げさに言えば、涙がでるほどうれしいのである。いかに下手な設計であっても、いかにローコストの建物であっても、建物が活きていたのを見ることぐらい、うれしいことはない。

  こういう単年度計算でものごとを考えずに、言わば一代計算で考え町づくりをする人たちに、かなり若いときからつきあいがもてたということは、どんなに幸せなことであったかと、いまになって思う。そう思うと、人と人との出会いというのが、本当に不思議に思えてくる。と同時に、その気さえこちらが常にもっていれば、そういう機会は必らずどこかにあるのだ、そういう確信がわいてくる。この四月の通信発刊の辞に書いた中野や小金井の人たちに会えたのも、なにやってんだと忠告してくれる学生に出会えたというのも、別に運命論者ではないけれど、運がいいと思う。その代わり、そういう人たちに会うごとに、こちらとして、あとがなくなる、逃げ口・出口がふさがれてしまうのだけれども。

 

 今回再び七戸を訪れて、またまたうれしくなって帰ってきたのであるが、ただ少し気がかりな点が、この文章を書きつつ、心にうかんできた。

 その昔、鉄道に反対し、その意味での発展からはとり残されたと先号に書いたけれども、こんどは東北新幹線がこの町を通り、ことによると近くに駅ができるかもしれないのだという。単純によろこんでいてよいのだろうか、それに対して適切な対応が考えられているだろうか。それが気がかりの一つであった。

 そしてもう一つ、こちらの方が重要なのだが、この20年間T氏たちが言わば身を挺してやってきたことの意味が、はたして若い世代にも理解され根をはり、本当の意味の「伝統」になっているかということ、それが気がかりに思えてきたのだ。なぜなら人はどうしても「結果」だけを見て、それに到る「過程」の存在を忘れてしまうからである。そして、その「過程」は、与えられるものではなく、自らかやることなのだということが忘れられるからである。人間らくが好きだからである。

 いずれも単なる私の思いすごしにすぎなければ幸いである。

 

あとがき 〇ある学生に、あることについてどう考えているかと尋ねたところ、いま勉強中なので分からない、という返事がかえってきた。ことによると、あることが分るということは、それについてのある絶対的な理解というものが存在し、それを知ることなのだとも思っているのではないか。そんな風な気がしてならなかった。たとえば、人間が分かるには、生理学やら心理学やらを全ておさめることが先決だということになる。

〇そんなとき、集中授業に来られた方が、男の返事は六つしかない、好きか、きらいか:分かるか、分からないか:やるか、やらないか、これしかない、そうじゃない下山さん?と言うのである。一瞬とまどったけれど、言えている。確かに、この積み重ねである。そうであって、初めて反省が成り立つのだ。何もしないで、いま考えてます、またいずれ、これは確かにらくらくだ。

〇またこんなことがあった。ある仕事をある人たちにお願いしてあった。そろそろまとまってよいと思えるころあいに、ある問題について考えてあるかと問うたところ、考えていない、考えなければならないことなら、初めに言ってくれればよいのに、時間がもったいない。こういう返事が返ってきた。これも、らくをしたいのだろう。いい目だけみたいのだ。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、そんな言葉がでかかった。ある人とは大学院生である。

〇若い人たちに言わせると、中年世代のヒステリー?なのだそうである!

〇ご感想、ご意見を、おきかせください。  〇それぞれなりのご活躍を!

1981・11・1                        下山 眞司

 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 写真 13頁」  (5.0MB)

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 文章,平面図 4頁」 (3.7MB) 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 図面 8頁」    (6.1MB)

 

 


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「七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか」前半  1881年10月

2019-03-02 08:47:52 | 1981年度 「筑波通信」

 

     七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか・・・・  1981年度「筑波通信 №7」

  青森県上北(かみきた)郡七戸(しちのへ)町と言っても、知る人は少ないだろう。東北本線の特急で上野からちょうど8時間三沢で私鉄に乗りかえ30分、終点の十和田市から更にバスで30分、国道4号(陸羽街道)沿いにある小さな町である。地図(別図)でわかるとおり、八甲田連山の東側のすそ野にひろがる火山灰台地に切りこまれたひだのような低地:数本の小河川の合流点にある町だ。

 

 それらの河川は全て小川原(おがら、あるいは、おがわら)湖にそそぎ、周辺には縄文期の遺跡が点在するそうである。古来、この火山灰台地では馬の放牧がさかんであったようで、江戸時代南部支藩七戸藩の城下町(柏葉城という:いまはわずかに跡をとどめるのみ)陸羽街道の宿場町として栄えるとともに、本邦産馬の中枢地(七戸馬として世に知られたという)としても大いに栄えた町であったようである(いまから18年ほど前訪れた当時、まだ馬市場が残っていたように思う)。いまでも人々の生業は、低地での水田(特に第二次大戦後発展)台地での畑作(殼類の他に、ながいも、たばこを多く見かける。以前は桑も多かった)と馬(戦前は軍馬、戦後は競走馬)牛(肉牛:昭和30年代より)の放牧が主たるもののようである。人口は現在約一万三千。一歩町なかをはずれると、一見のどかな風景が展開する。それというのも、明治の鉄道敷設に反対したため、東北本線は野辺地(のへぢ:下北半島の入口)まわりとなってしまい、そういった意味での発展からはとりのこされたからであろう。しかし、いま考えてみて、それが町にとって損失であったとは一概には言えないように私は思う。

 この町のどこを歩いていても大概、ふと西の方を見やると、八甲田連峰のすばらしいながめを目にすることができる。秋から冬へ、冬から、春へ、この山は季節の移り変りをもののみごとに表現してくれる。

  今回と次回、この七戸町との係わりにまつわることどもを中心に書いてみようと思う。というのも、私にとって、この七戸町との出会いというのが即ち設計という行為との初めての、そしてほんとうの出会いに他ならず、そのとき手さぐりで考えたことというのが、おそらくその後の私の建築に対する考えかたそのものに、決定的といってもよい影をおとしているように思えるし、また、この間七戸町において行なわれてきた各種の建物づくり:町づくりというのは、これは十分注目に値することのように思えるからである。

  

 いまから18年前(1963年)私この町の小学校を設計した(私の意識では、この町小学校を設計したというのではない)。私が26歳のときである。はるか昔のことである。

 この8月の末、久かたぶりにそれを見に七戸町へ行ってきた。その学校の完成以来ほぼ五年に一度は訪れているし、設計の前年から工事中にかけての数年間というものは、ひっきりなしに通いつめたから、町なかの様子も大概分っているつもりではあったのだが、それでもやはり役場が新しくなっていたり、道が付けなおされていたりして、多少道に迷うこともあった。けれども雰囲気は相変らず昔のままであった。

  

「航空写真」は次号「筑波通信№8」より  (校舎は現存しません。)

「建築 1965年5月号」より 青銅社  設計 東京大学吉武研究室   (後方の山は八甲田連山。2枚の画像は共に投稿者による挿入です。)

 

 今回は初めて、鉄道を使わず車で訪れたのであるが、着いた日の夕刻、七戸の手前十和田市のあたりから見えだした落日の八甲田連山は、思いのほか大きく、おそらく初めてそれを見た同行の人たちも、きっとその姿に感激をおぼえたことと思う。実際それはすばらしかった。

 けれども私は、それにも増して、その姿に「懐しさ」を覚えたのである。「帰ってきたな」「着いたな」そういう少し大げさに言えば胸さわぎを覚えるような、そんな感じを抱いたのである(おそらく同行のだれ一人として、この私の気持には気づかなかったと思う)。それは、すばらしい風景が見えたなどという以上の、そんなのとはまるっきり違う感情である。そして私は、その町に住んでいない、住んだことのない私が、そういう「懐しさ」を覚えたということで、実はほっとしたのである。

 それはどうしてか。

 ある所に住んでいる限り、どうしようもなく気にかかって(というより、気にかかるように)見えてきてしまう地物などの光景というものがあるが(いま書いている話では八甲田山がそれにあたる)、それを見るあるいはそれが見える、見えてしまう、ということは、そこに住む人々にとって、極めて重要なことなのだ。それは単なる観光的景色:最観なのではなく、自分の住む場所、あるいは住んでいるということそれ自体を言わば象徴する(それが見えるということが即ち生きている、住んでいることに他ならず、そのことの象徴・履歴として、永く心に沈潜し、故に「懐しさ」となる)従って、そこに住む以上欠くべからざることなのであって(先号の言いかたで言うならば、「私の地図」のなかに、かならずその姿が表われでるということ)、だから、そうである以上、設計をする:その町に住む人たちの生活が展開する場所づくりに係わる:にあたって決して見逃がすことのできないことである。これが、その当時、その小学校を設計したとき、私が考えた極めて重要なポイントの一つであった。前ページの末尾で、この町ではなくてこの町のという意識であると書いたのはこういう意味なのである。

 普通、学校といえば、「子どもたちの教育の場」であると考えられ設計されるのが常なのだが、私がここで言ったのはこの学校に来るのは「一般的な子どもというもの」という子どもたちなのではなく、あくまでも「この町の」子どもたちなのだということなのである。そして、「この町」の「この」の内容を特定するものの一つとして、こういったどうしても「気になる」地物などの光景が重要な役割をはたしているのだ。こう考えたのである。その当時、一般には、この「この」なしに、つまり固有:特定名詞でなく一般名詞でことが処理されてゆくのが常で(いまだって変りないのだが)、それに対し、それは絶対に誤まりであると私は思っていた。

 

 しかしながら、いまここで書いてきたようなことがらというのは、言わば「見えない」ことの話であるから、当時、このことについていくら口で説明したり文章を書いたりしたところで、なかなか分かってもらえなかったし、とりわけ、建築をやっているなかまのなかで、私の言わんとしたことを分かってくれる人、分かろうとしてくれる人は、ほんとに少なかった。それに、第一私自身、先回書いたように、そういった気になる地物を目の前にするような生活というのは、疎開のときのほんの一年そこそこの体験しかないし、それだって竜王での南アルプスは八甲田の山容に比べめりはりがなく壁のようで、気になりかたが少なかったように思う。だから、いま簡単に述べた私の考えかたというのは、私自身のほんのわずかな体験が基になり、あとは言わば頭のなかで組みたてた、どちらかといえば、私の「推量」にすぎないことであった。きっと確かなことなのだとは思っても、「実証」し「説得」する力に欠けていた。

 当時、この説明の為によく使ったのが、「ふるさとは遠くにありて想うもの」ということばであった。ふるさとに居続けるかぎり、さしづめ空気のようにその存在の有無が分らないものとなっているふるさとも、そこを離れたとき初めて見えてくる、しかもそれはかならず、そのふるさとを言わば象徴する光景の姿を想い描くことによってなのだ、それをこのことばは言っているのである。私はこう説明した。その場所を離れ、あるいは十年後、二十年後、時間が離れたとき、初めてその意味が明らかになるはずだ。十年後、ここに育った町の人に尋ねてみたい、尋ねてみれば分る、苦しまぎれにこうも言った。しかし、ほんとはそれは難しい。いまここで言っているようなことは、そういう状況のまっただなかに在る人は意識しておらず。むしろ、知らず知らずのうちに浸っている言った方があたっている。尋ねられたところで答えようがない。そういうことは、よほどのことでもないかぎり、普段は意識にのぼらない。いったいこれを、どうやって「実証」したらよいのだろう。

 いま現実に十数年たってみて、私自身、その光景に「懐しさ」を覚えたとき。これでよい、これで十分だと私は思った。誤っていない。私の考えていたことは、当っている。自分自身の体験という「実証」ができつつある、そう思ったのだ。だから内心ほっとしたのである。そこに住んでいる人に比べれば、私のその町での体験は全くとるに足らないほど少ない。そうであるにも拘らず、その私が「懐しさ」しかも「帰ってきた」という感情さえもったのだから、あとは推して知るべし、そう思ったのだ。

 けれども一瞬、しかしこれは、自分が設計したという「思い入れ」がそうさせているのではないかという疑念が頭のなかをよぎった。しかし、設計当初はともかく、設計して十年以上もたってしまうと、設計者は意外と冷静でいられるもので、その建物を客観的、第三者的に見ることはもちろん批判・批評することもできるようになるものである。設計者であり同時に観察者であるということが、ほぼ可能になってくる。言うならば、昔の恋人に会っても、確かに一方である種の感懐を抱きつつも、割とクールに話ができるような、そういった年月というフィルターがかかってしまうようなのだ。というか、年月がいろいろな夾雑物を流し去ってしまうのだろう。私はそんなことを頭のなかで反すうしながら車を走らせていた。そして、何度も思いなおしながら、やはりこの「懐しさ」はほんものだ自然にわき起ってきたものだ、そう確信に近い感じを抱いたのであった。

  

 私は先号のあとがきで、いつも山々に囲まれている人たちが、いまその山々にいかに対しているか尋ねてみたいと書いた。先々号でも、「幼き日の山やま」という随筆を引用して、山への対しかたの話を書いた。しかし、先々号の場合には、そり焦点は別なところを目ざしていた。けれども、私がこの随筆に目をとめたというのも、このある程度確信はもてても、いま一つ「実証」し難いこういう地物の光景の人との係わりそしてその大事さということに対して、この間ずうっと関心があったからなのだと思う。考えてみれば、私はこの間、はるか昔に考えたことを、自分の身で体験し感じて「実証」するために生きてきたのかも知れない。それはきっと、私自身が体験をつみ重ねてゆくなかで、徐々にその姿が明らかになってくることなのだろう。これは人間の心情に係わることだから止むを得ない。

  けれども、十分にかたちを成していなくても言わなければならない。そう私は思い続けてきた。こういった「目に見えない」ことは、「目に見える」ことだけにかかずりあい、それらに分解するだけでこと足りるとする「合理主義」の下では、どんどん無視されていってしまうからである。「体験の内容と成り得る」ものが無視され、忘れ去られてしまうからである。そのように、どうしても私には思えてならなかった。だから、どうしてもそれを言わなければならない、しかも、建物づくりをしつつ、あるいはそれを通じ、言わなければならない、そう思ってきた。しかしながらそれは、それを確かなものにしようとしつつある途中の(その途中がいつ終るのか分らない、というよりむしろ多分終わりがない)段階で言わなければならないことだ。だからずうっと、はがゆく、もどかしいことの連続だった。ときには、これは全く私の独りよがりの考えかたなのではなかろうか、既にして出だしを誤まったのではなかろうか、そう思うこともたびたびあった。そのたびに、こう考えた方が、人々の諸々の営為:人々が生き暮してきたこと、やってきたこと、・・・・言集のほんとうの意味、詩や文学の存在の意味、そういったことが、少くとも私にはよく分るような気がしたし、それにも増して、ほんの少しではあるけれども現に同じように思い、語りかけてくれる人たちがいるではないか、そう思いなおしては、気をとりなおしてきた。

 翌日の朝のこと、同行した人の内の一人が、朝もやのなかに浮いた八甲田山をながめていて、しばしの沈黙ののち、いつもこれを目の前にしている人たちには、これはどう見えるのだろう、そういった内容のつぶやきをもらすのをきいて、だから私は、無性にうれしかった。この人も、単に景色を見ているのではないぞ、そう私には思えたからである。

  

 いま私は、八甲田の光景から話をすすめてきた。けれどもそれは、なにもこういった目だった地物についてだけの話ではない。私たちをとり囲んでいる一切のものというのが、それなりにそれぞれ、私たちにとって、「気になる」ものとして存在しているのだと言った方がよいのである。けれどもこれも、そのことに先ず気づくことから始めなければならない。いま、そのことの一環として、先ず、このような「目だった」ことの話からすすめたにすぎないのである。

 私たちは私たちが「私たちの地図」をもっていることに気がつくべきだ、このように私は先号で書いた。いま書きつつあることは、これに関係してくる。いったい何故、こういったことに気がつくべきだと言うのか、どうしてもこの点についてもう少し説明を、無理してでも、する必要に迫られる。

  私たちがいま、たとえば、ハイキングなり山歩きをしていると仮定しよう。大分歩いておなかが空いてきた、ころあいもよいし昼食にしようということになる。そのとき私たちはどうするか。目的は「空腹を満たすこと」にあるとして、所構わずすぐさま弁当をひろげるだろうか。そんなことはない。ないはずである。私たちは、場所を探し腰をおろす。そして、落ちつけたことを言わば確認して、それからおもむろに弁当をひろげる。だいたいそういう手順になるはずだ。

 

 私の住む筑波研究学園都市のある小学校のグラウンドは、起伏のある広い芝生、樹林、池(林や池は、大かた昔からのもの)のある公園に隣りあっている。ここでは、学校にも公園にもヘイというものがないから、どこまでが学校で、どこからが公園なのか、一見したところ区別がつかない。この小学校の秋の運動会は、これまたいま都会では考えられないほど昔風で、学校の行事ではあるけれど、むしろ子どもを軸にした家族ぐるみ町ぐるみの行事として、結構にぎわいをみせる。その運動会の昼の休憩は、それぞれの家族が思い思いに、このグラウンドから公園に散らばって昼食をとるのであるが(運悪くその日親が都合のつかなかった子どもたちは、よくしたもので、知人の家族と一緒にやっている)、それを観察していると、その席とりの様子が、まことにむべなるかなという様相をとるのがよく分る。決して、どこでもよい、というようなことにはならない。出おくれた家族が、止むを得ず、所在ない場所にとり残される。

 二年ほど前、子どもと八ヶ岳の一画に登ったとき、一休みしようとして腰をおろし、持参のカンジュースをのみ、ふと座ったところの地面に目をやったところ、そこにカンジュースの引きぬいたフタが数個、泥にまみれて落ちているのを見つけ、なんだ、みんな私と同じ格好をしてここに腰をおろしたなと思い、なんとなくおかしく思ったことがある。

 こういったことはまた、喫茶店の席とりのことを頭に浮べてもらっても分る。だれと(何人で)いかなることのために、つまり、恋人と密やかに人目を気にしてお茶をのむのか、公然とのむのか、あるいは一人で物思いにふけりたいためか、単なる時間つぶしか、あるいは数人集まって楽しい話をするのか、それとも深刻な話をするのか、‥‥それによってみな座りたい場所がちがっていて、ときには喫茶店そのものの選びかたさえも違ってくる。

 いまここに思いつくままにならべた事例をどう見たらよいか。

 これは、私たちがなにかを為す場合、そのなにかを為すためのそれなりの場所を要しているということであり、また、私たちのまわり(の空間)には、そういう具合に私たちがなにかを為すのに向いたそれなりの場所、つまりいろんな性格を感じさせる場所、というものが無数に存在し・・・・より正しい言いかたをするならば、私たちが私たちをとり囲む空間のなかに、いろんな性格の存在を(瞬間的に)感じとっている‥‥私たちはそのなかから適宜、そのときの私たちのありように応じ、それなりの場所を私たち自らの感じるままに(瞬間的に、そして決して信号機の青・赤の約束ごとに機械的に従うようにではなく、言わば主体的に)取捨選択し探している、ということなのである。

 

 先日の夜、我が住む町の近くを車で走っていたときのこと、隣りに座っていた私の友だちが、まわりに展開してゆく景色を見ていて(私は目をこらして道を見ているからそういう余裕はないのだが)「こわい森だ」とか「心なごむ林だ」とか「ほっとする揚所だ」とか感想を述べ続けていた。昼間見なれた風景も、夜になると際だってその特徴が露わになって見えてくるものだ。そしてこういう感想は、次の段階として、ここなら住めるとか、ここには怖い伝説でも生まれてもおかしくないとか、そんな話へ発展していった。つまり、ある感じをいや応なく私たちに抱かせる光景(場所)というものが、私たちのまわりには充ち充ちており、それがそこでの私たちのふるまいを、言わば支配するのであり、また当然のことのように、私たちは私たちのふるまいを(実際に行動に移さなくても)予測することができるのだ。

 いったいなぜ、単なる木の集まりにすぎない森が、ある森は人をして「怖い」と思わせ、またある森は「なごんだ」と思わせるのか、これは詮索したらきりがない。しかしここでは、そういう事象があるということ、そういうものなのだということ、このことを認めてもらうだけで十分だ。

 

  私たちの普段の生活において、かくあることがある以上、建物づくりもまた、まさにこういうことを認め、理解することから始まるべきではないか、なぜなら、建物づくりによってできてくる場所というのもまた、いま述べてきたような場所の一員になかまいりすることになるからだ、これが、その昔私の考えたことであった。以来、基本的には少しも変っていない。

 だから、先号で書き、またこの文の初めにも触れた「私の地図」というのは、私のまわりにある場所のなかに、そのときの私なりに(子どもなら子どもなりに)いろんな性格の差をみつけだし、それらを私なりに頭のなかで組みたて描いている、そういった地図のことだ。それは決して測量図としての地図そのものではなく、それに比べれば不完全だ。けれども普段、私たちには測量図は必要でなく、こういった「私の地図」で十分間に合ってしまう。そして、私たちがなにかをしようとするとき、私たちは即座にその「私の地図」の一郭に、そのための湯所を探しだし、あるいは逆に(子どものころを思いだしてもらえば分ると思うが)その地図に描かれた、自分のものとなっているあたりをなんとなくそぞろ歩いていて、出くわした場所場所で、そこなりの遊び(やること)が触発される。

 先回、川を渡った向う岸は「私の地図」には載っていないという書きかたをした。けれども実は、その言いかたはほんとは正しくない。載ってはいるのだ。ただその載りかたがちがう。なにか得体の知れない場所、怖い場所、ない方がいいけれどある、そういう場所としては載っていたはずなのだ。なにかおどろおどろしい場所がそこにある、近づけない、そういう風に。そのかわり、それに対置して、こちら側には、私の意のままになるところが、ちゃんとあるのである。これが「私の地図」なのだ。

 おそらく人々が「測量した地図」というものをもっていなかったとき(先回、これを私は「本物の地図」と表現したのだが、この通信をいつも熱心に読んでくれ必らず批評してくれる人から早速クレームがついた。本物は「私たちの地図」の方なのではないかと。そこで今回は、測量した地図と言いなおしているのである)、人々はこういう具合に、住める・住めない、行ける・行けない、等々といったことに基いた「地図」をもっていた。そして、それに拠って自分たちの住む場所を確保してきた。もちろん何を食べて生きてゆくか、それは住む場所を決めてゆく必要な条件であったことは確かではあるけれど(採集経済と農耕経済では場所がちがう)、それで十分な条件なのでは決してなく、つまり食えればどこでも所構わず住んだのではないことは、こういう見かたで遺跡分布図などを見てゆくと、自ずと明らかになってくる。むしろ、いま以上によく考えられていたのではないかとさえ思いたくなる。いまの文明下の生活に比べれば比較にならないほど貧しい生活の時代(つい最近まで)人々はむしろいま以上に、自らの心情において豊かであった、こうも言えるのではなかろうか。

 

  先ほどの山歩きのときのはなしだとか、いくつか思いつくままに記した事例について、多分(というより、きっと)全ての人が、そういったことがあることを、共感をもって認めてくれるはずである。であるにも拘らず、いま、人々は、「食う」ということは「食べものを食う」ことであればよいとして平然としていられるし、「住む」ということは家さえあればどこでもできる、つまり必要条件だけでこと足りると思いこんで平然としていられる。平然としているように見える。十分な条件など願っても無理だし、それは付加的な価値、ゆとりあってのはなしなのだ、そう思われているのではなかろうか。そこにあるのは、必要な条件と十分な条件が、それぞれ独立にあり、しかも必要な条件の上に十分な条件(強いてなくてもよい)が追加される、なにかそんな風な考えかたがその根底にあるのではなかろうか。しかし。こういう考えかたは先の全ての人の共感が得られるはずの事例とは、全く相反することであるのは明白である。そして、現実にはむしろ、この私たちの日ごろのふるまいかたと相反する方向でことが進んでいる。それがすなわち、私が何度か書いてきた、私たちの日常を「逆なでする」方向に他ならない。

 

 言うまでもないことだが、ある事象は、必要にして十分な条件がそなわらなければ成りたたない、これは確か中学校あたりの数学で習った論理学の初歩だ。にも拘らずその一方だけでことがなりたつと、どうして思うようになってしまったのか。

 いつの日からか、人間(の生活)を対象として観察し、人間の生活とは、その観察において見えてくるところの、食う・働く・寝る・・・・といった「行為」の(単なる)集合だとみなす癖が横行しだしてしまったのである。そこでは、その観察の対象となっている人間の生活というのが、実は、その生活をまさにしている、営んでいる人間の主体的な活動の結果物なのだということが、もののみごとに忘れられ、見失なわれているのである。更に、忘れている、見失なっていること自体さえも忘れ、見失なっているのである。

 だからいま、この文の初めの部分で書いたように、この町学校でなく、この町学校をつくっても平気でいられるし、先号で書いたように、半径500メートルの円を描いて、そのなかに住む子どもたちがみな一様にこぞってその円の中心の児童館によろこんで集まってくるなどと思って平然としていられるのだ。そんなことでつくられるものが「体験の内容と成り得る」ものとなるわけがない。そこでは初めから、人々の主体的な活動:主体性を無視している、というよりその存在が認められていないのだ。体験とは主体的なものなのであって、信号機にただ従順に従うようなものなのではない。

 

 いったいなぜこういう事態になってしまったのか。私はこの通信でほとんど毎号、こういう事態に到らしめたのは、その基にある、近代的、近代合理主義的、「合理主義」的、あるいは都会的等々といった言いかたで呼んだ独特なしかも支配的な考えかたにあるのだと書いてきた。この考えかたのよってきたること、その内容の分折・検討といったことは、だから絶対にしなければならないことだ。近代とはなにか、ということである。かといって、そういう大上段にふりかぶって攻めるなどというのは、私には不向きであるし、第一そういう能力はほんとのところない。だから、というかむしろ、現実の局面で私たちが遭遇する諸々の事象の解釈を通じ、そういった近代の考えかたの落とし穴を露わにしてゆきたいというのが私の思うところであり、またその方が、理論的分析よりもほんとは強い、そう内心では思っている。なにしろ私は、現実に建物づくりをしなければならないという破目のなかで考えてきたから、いまさら哲学教師評論家にはなれないのである。それ故いまここでは、この近代について述べられた平明にして要をえた文章を引用するに止めておこうと思う。

 「日本の中世文化は、人間を深く究め、その主体的可能力を発掘しようとする生き方によって生産されたものである。古代文化は、これと違って、人間を超越した神を畏れ、魂を信じ、その働きに寄り縋ろうとする生き方から生産されたものであった。近代文化は、そういう超人間的なものに寄り縋ろうとするのでもなく、また、人間の可能力に頼ろうとするのでもなく、対象としての自然および社会を究め、そこに行なわれている法則を発見することによって、対象の世界を客観的に認識し、それを支配しようとする生き方によって生産されつつある。

 現代は、このようにして、自然を究め、そこに行なわれている法則を客観的に認識することによって、自然を支配するために、かえって、その自然に随順するほかはなくなり、自然に支配されようとしているのが、人間である。言い換えると、近代文化は、人間の主体性を喪失することによって成立し、発展している。これこそ人間の危機でなくて何であろうか。人間は、このような危機に直面して、われわれの生活と文化の中に人間の主体性を確立しようともがいているのが現状である。(西尾 実:中世文学と道元に関する党え書:1962年著:冒頭より、道元と世阿弥 所戴)」

 

 私の見解と多少違うのは、その最後の部分である。むしろ私は、いま、人間はそんな危機にも気づかず、その気のついていない、危機を危機と見ることもできない状況へ、自ら進んで、ときにはよろこびいさんで、入りこもうとしているのではないかとさえ思いたくなる。とりわけ、私のまわりの建物づくりや町づくりに係わりをもつ人たちの世界は、残念ながら、まさにそういう状態だ。彼らの多くは(大半は)人間を単に観察の対象としてしか見ない。人間の主体性など、つめのあかほども念頭にないのである。そうすることが、そうすることこそが「科学」だと主張するのだ。そのように見るのが「研究」であり「学問」であると強弁するのだ。ことによると(おそらくきっと)彼らは、彼らだけが主体性をもっているとでも思っているのだ。人間は、彼らにとって、操作の対象でしかない。彼らは既に、「お上」を「公共」と言いくるめる側にたっている。彼らには、人間の主体的営為というものが全く分らない。だから彼らには、古代とはなにか、中世とはなにか、人間の歴史とはなにか、そういう視点はどこを探してもないだろう。それはもう終わった話。それはそれ、なのである。昔は昔なのである。これこそ危機なのだ。

  

 私が何を考えていたか、考えてきたか、それをなんとか説明しようとしているうちに、大分遠くまできてしまった。再び元へ戻ろう。要するに私がその学校の設計に際し考えたことは、一言で言えば、この町の子どもたちの「体験の内容と成り得る」場所をつくるということであった。(もっともこういう便利な言いかたは、当時思いつかなかった。)

 それではそのとき、「学校とは教育の場である」という言いかたのなかの「教育の場」は、どこへいってしまうのか。その点についても、私は少し変わった考えをもっていた。

 

(「筑波通信№7後半、あとがき」に続く) 


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「七戸物語(その2)」 後半

2019-03-02 08:47:15 | 1981年度 「筑波通信」

 (「筑波通信№7 前半」より続く)

 

 学校建築については、当時既に、学校において行なわれる教育の形態(授業形態)が実地に観察され、細かく分折・検討が行なわれ、いろいろな室や運動場などの(教育の場としての)備えるべき条件だとか、それらの並べかたの方法などについて、学校建築の専門家たちが研究を重ね、またそれに拠る各種の提案やモデル建築が提示されていたのであるが、しかし現実に建っている模範的と言われた実例は、正直言って合点がゆかず、私の通った古い木造の学校の方が、私には数等なじめるとひそかに思ったものである。私の疎開先の学校は、木造平家建の教室がハモニカ様に並んだ校舎が三本平行し、それを「王の字」型に廊下がつないでいる、昔よくあった型であったけれども、うす暗い教室のすみっこなどは結構楽しかったし、とりわけ二列の校舎の間の幅2メートル(もっとあったかとも思う)ぐらいの小川(用水路)がきれいな水をたたえて流れていた、その細長い空間は、もたれかかってなにかをした校舎の木の外壁とともに、別にこれといった細工など何も施されていなかったけれども、最もなじんだ場所であって、いまではもっと美化された形で思い出として浮んでくる。

 そういった学校建築の専門家たちの研究成果のとりこまれた学校がなじめない、いったいそれはなぜなのか。

 私の行きついた結論は、この人たちの学校建築について考えていることには、子どもたちの生活が欠落している、そこにあるのは、子どもたちの教育(授業)との係わりという局面での諸行為としての意味の生活だけなのだ、そういう結論であった。そして、学校建築というのは、そういう単なる「教育の場」として限定して考えてしまう前に、ほんとの意味での「生活の場」として先ず考えるべきだと考えるようになったのである。

 

 子どものころを思いだしていただければ直ちに分ることなのだが、たとえば学校の建物や校庭のほんのちょっとした一偶や、校庭にあった木、草むら、あるいは往復の二十分もあれば行きつくのに小一時間もかかった道すがら(いま私は、あの疎開先の学校を思い出しながら書いている)、そういった光景とそこでの私の姿が次々と、月なみの表現でいえば走馬燈の如くに、思い出される一方で、たとえばどんな具合にしてかけ算やわり算を習ったか、その授業形態その場面としての教室の光景というのは、けろりと忘れていることに気がつくはずだ。授業がらみで思いだすことがあるとすれば、廊下に立たされたとか、指されたけれど答えられなくて弱ったことだとか、私の場合そういうえらく情けない話だけだ(これについては、ことあるたびに大人の人に尋ねてきたのだけれども、思い出すのが授業外のことである点は全く同様であった)。

 すなわち、大人が必死になって考えている「教育」の局面は、子どもの私たちによって、こういった生活のほんの一部に押しやられ、あるいは一部としてくるまれてしまっていたということなのだ。

 

 唐木順三の「途中の喪失」という随筆のなかに、次のような一節がある。

  「私たちの子どものころは途中で友だちを誘い合いさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるという具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語り合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったように思う。途中は目的地への最短距離ではなくて、少年たちの共通の広場であり、空想の花園でもあり、遊びの場所でもあった。ときには上級生の下級生への制裁の揚所にもなり、教室から開放された悪意の腕のふるい場所でもあったが、それはそれなりの秩序をもっていた。教室で学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」

 

 これは、子どもにとっての学校(生活)を十分に語って余りある文章だと私は思う。余談だが、私がこの随筆を初めて読んだのは、設計した小学校の工事監理のために七戸へ赴く夜行列車のなかのことであった。折悪しく夏の帰省時で寝台がとれず一等指定席(いまのグリーン車)中ほどより後の通路側、そんな席のことまで覚えている。設計のときいろいろ考え悩み、自信もそれほどないまま、言ってみれば半ば強引に自分の考えを押し通してきた私にとって、私と同じような考えを述べたこの文に出会ったということが、いかにうれしいものであったか。多分想像していただけるものと思う。

  ことによると、しかしこういうことは、あなたがたの世代の子どものころの話であって、たとえば通学路も指定され、また授業内容も比較にならないほどきつくなっているいまの子どもたちは、必らずしもそうではないのではないか。これは、あなたがた世代の懐古の情、歳とった証拠である、などと言われかねない、などという気もする。しかしそれは、いま子どもたちに尋ねたところで、はっきりとは分ってこない。分かるのは多分彼らの十年後二十年後だろうと思う。ただ、私事で恐縮だが、私が筑波研究学園都市に移住してしばらくたったあとで、私の子どもに、前いた東京の学校といまの学校(因果なことに、ほんとに幸か不幸か、私の設計に関係した建物だ)の違いについて尋ねてみたところ、「こんどの学校は、かくれんぼができない。」そういう答がかえってきた。それをきいて、いまだって、少しも変っていない、そう私は(勝手に〉確信をもったのである。

 それと同時に、この学校について、雨が漏る、暑い、‥といったいろいろな批判をうけていたのだが、そのどれにもまして、この「かくれんぼができない」という一言ほどぐさりときたものはなかった。えらそうなこと言って、既にして観念的になって、考えだけが上すべりしている、お前が七戸で考えたことは何だったのだ、どこへ行ったのだ、そういう詰問にきこえたのだ。いまでもこの学校のそばは、しょっちゅう通らざるを得ないのだが、その度に「かくれんぼのできない学校」という苦い思いがよぎるのである。

 

 なるほど確かに、学校での子供たちの「生活」時間を、時間数で計るならば、その7・8割は教育:授業に費されているはずなのであるが、子どもの私たちにとってそれは、いま書いてきたように、むしろ逆転した比率、あるいはそれ以下にしか記憶されないのだという事実、これは十分に考えられなければならない。

 考えてみれば、あるいは考えるまでもなく、学校の教育・授業(特に義務教育の)というのは大人の勝手、大人の論理なのであって、子どもの都合ではないし、子どもの都合が考えられているわけでもない。そして子どもは、そういう大人の思惑にも拘らず、それとは関係なく、そういった大人のつくった制度やわく組のなかで、それでもなおしたたかに子どもの論理を展開しているのである。

  子どもにとって、彼らの生活の(ほんの)一部に「教育」がある、先ずこのことを認めることから始めよう。これが私の考えたこと:「教育の場」である前に先ず「生活の場」であるこの基本である。

  ふと省みてもらえば分ることなのだが、これほど感受性豊かなときは他にないと思われる子ども時代の六年間という長い年月を、子どもたちは(彼らの意志によってではなく)学校ですごすのだ。そういう(彼らにとっていや応なく与えられる)場所での体験を経て、子どもは大人になる。これは何人も否定し得ない真実である。それが「生活の場」でなくして、いったい何だろう。

  だから私には、学校建築の専門家たちの考えていることは、ただ大人の論理に従順な子どもたちをつくる教育のための鋳型だけを考えているようにしか見えなかった。そこにも、(子どもたちの)主体性というものは、つめのあかほども考えられてはいないのだ。

 私は別に、ここで、子どもの論理を抽出して、言わばそれに迎合すればよい、などと言っているのではない。そうではなく、子どもたちでさえ(あるいは子どもたちだからこそかもしれない)主体的に生活をしている、そのことを知るべきだと言っているのである。この点については、最近車を走らせながらきいた、灰谷健次郎の語っていた言葉(正確ではないかも知れない)が印象に残っている。「私は教師であったとき、決して子どもに迎合しなかった。大人の論理をぶつけていった。しかしそれは、子どもの論理をないがしろにすることではなかった。」

 

 だから、私がこの七戸町の小学校の設計に際し考えたことを、いままとめれば(というのはそんなに理路整然と、その当時まとまっていたわけではなかったから)この町の子どもたちが、教育制度という他動的なわく組に括られつつも、そこで子どもたちが主体的に生活し、言ってみれば子どもたちの社会が展開する、歳を重ね成長してゆく、そういう彼らの「体験の内容と成り得る」場所として耐え得る場所を用意すること、こういうことになるだろう。そしていわゆる「教育」は、言ってみれば、その一郭で行なわれる。そしてこれは、当然のことながら、先に説明してきた私たちと場所との関係についての話に収束する。

 

 そして、七戸町立城南小学校は建った。そしてそれが、学校建築の専門家のなかで物議をかもしたのをうすうす知っていた。それが、少なくとも一見したところ、昔ながらの学校はもとより、当時学校建築の専門家によって推拳されていた模範的学校に比べて、どう見ても風変りであったから、専門家の間にさえ、その評価・位置づけをめぐって、少なからず途惑いが見られたのも、それは当然だったかもしれない。もちろん私には、風変りにすることが目標としてあったわけではない。

 私はこの学校の設計にからんで、かなり当時の私の立場にしては過激な表現で文章をものし、建築の研究や専門家のやっていることに対し批判を重ねていたから、そういうことへの言わば感情的反発も微妙に混じったかたちで物議をかもしたのである。私が一番気にくわなかったのは(いまでもそうなのだが)こういう研究者、専門家を自称する人たちが、決して根源にさかのぼろうとはせずに(問題の本質が何であったかと自ら問うことを忘れ)ただいたずらに、一次グラフ的に進む、進めると思っていることだった。そういうのが研究者だというならば、私は潔く研究者であること、そうなること、そう呼ばれること、それを拒否しよう、そう思ったし、いまもそう思っている(だから私は建築学会の会員ではない)。

 そして、いろいろな声やコメントが、直にではなく人や文章を介して私の目や耳に入ってきた。しかし、私にとってそれらはみなとんちんかんなことを言ってるようにしか見えなかった。

  そうは言っても、そういう声やコメントを知っているわけだから、私が彼らの評判を全く気にしていなかったと言ったら、それはうそになる。けれどもつまるところ、彼らは一介の見学者であり観察者にすぎず視線がただその表面をなでてゆくだけだ。建物の評価は、専門家の感想にあるのではない。ほんとの評価は、その建物を体験してゆく人々にとって、それがどうであるかそこにこそあるはずで、私にとってはそのことの方が気がかりであった。この学校がそこで育ってゆく子どもたちにとって、ほんとに「体験の内容」と成るだろうか、なじめるものになっているか、それとも所在ない場所でしかないのか、それが気がかりだった。

 しかし、それを直ちに確かめる術がない。唯一の方法は、それが定着してゆくか、そうでないか、それを十年、二十年と見続けることしかないだろう、そうするなかで見えてくるだろう。私は落成式の日、それはー段落してなんとなく気がぬけてゆくような感じになる日なのだが、これからが正念場、私が試される、びくびくせずに、しょっちゅう見に来よう、帰ってこよう、そう思ったのである。

 

 この設計は、私が責任をまかされた、そういう意味で、私の初めての設計であった。この「初めて」という状況は、こういうある種の判断をともなうことの場合、極めて気のはりつめた一種の極限状況のようなものらしい。できあがった建物をあとになって見てみると、解決のしかたの下手さだとか、技術的対応のまずさだとか、そういった点が確かに目につくのだが、考えられる限り考えてあるという点では、その後の設計より数等ましだと思えるような感じさえ受ける。そういった「初めて」という状況が、問題の所在を明らかにして見せてくれるのだ(というと他動的にきこえてしまうけれども、そうではない。考えてる方が、言わばあとがないというような気分でいるから、かえって問題がその軽重をきれいに整理されたかたちで見えてくるのである)。実際、考えられるだけ考えた、まちがったことは考えなかった、手ぬきはなかった、そういう充実感というものがあって、できあがったものの下手さ、まずさにも拘らずやったことに悔いがないから不思議である。

 むしろ、その後の設計の場合、確かに技術的な対応だとか解決の要領のよさだとかいう点では多少うまくなったとは思うが、どうしても目がそちらの方へ向いてしまって、問題の本質的な確認という点では、それをさぼる傾向があったのではないかと、いまふりかえってみると、思えてくる。

 

 たとえば、先の「かくれんぼのできない学校」とは何か。ここには、その考えかたにおいて何か欠落があったのだ。何かをさぼったのだ。私は「かくれんぼ」という遊びをさんざん考えた。つまるところ、「かくれんぼ」とは、人の意表をつく遊びだと言ってよい。普通なら居そうなところに居ない。隠れる。それを、探す方も考え、探す。つまり、日常の裏返しを楽しんでいるわけだ。一番うまい隠れかたは、私の言いかたで言えば、「私の地図」外のところ、あるいは探し手側の「彼の地図」外のところに隠れることだ。「私の地図」外のところというのは、そこへ行くこと自体言ってみれば冒険であるから、そういうところに隠れていると、見つからぬようにと思う心と同時に、あるいはそれ以上に、なんとなく尻の落ちつかないその場所の不安さに圧倒されて、心臓がどきどきする。おそらくこういう後ろのお化けを気にしながら隠れていたというような体験は、みながもっているはずである。実は、そういう体験の積み重ねで(なにもかくれんぼだけでなく)「私の地図」は拡大していったのである。

 「かくれんぼ」のできた学校、そこでは「私の地図」がいつも一枚しかないというのではなく、初めは狭い「私の地図」が、段々と拡大してゆき、ときには卒業するときになってもついに「私の地図」に載らないところが残ってしまった、そういう学校だと言ってよいだろう。「私の地図」が徐々に徐々に大きくなってゆくような、そういうつくりになっていたというわけだ。

 これに対し、「かくれんぼのできない学校」では、「私の地図」の段階的発達がない、その初めから、たちまち全体が即「私の地図」に描かれてしまうのである。次の段階の「私の地図」は、すぐさま学校外へとびだしてしまうのだ。確かにこの学校は分りやすいのだが、体験に成長がないのである。

 あえて言えば、この設計において私は、体験としての分り易さを追求はしたものの、体験の内容についての本質的な確認を、もうあたかも済ましてしまったかのように勝手に独り思いこみ、忘れてしまっていたのではないか。

 七戸の場合、そこではかくれんぼができる。そこでは私はちゃんと、本質的な問題の確認をやってある。自分で言うのも妙なものだが、いまとかく忘れてしまいそうなことが、ちゃんと考えられている。

 

 いま考えてみると、この学校はそれが私にとっての初めての設計であって、それが「初めて」であるが故に、私がその後考えてきた建築についての考えかたの大わく、骨組み:私にとっての問題の所在を、自ずと、垣間見せてくれたのだと思う。建築について私が考えてゆかなければならない問題が提起され(というより私に見えてきて)それに対してそのときの私なりに解答をだした、そのよし悪しはともかく、問題を考えられる限り考えた、おそらくそれが充実感とある種のさわやかさを私に味わせてくれたのだと思われる。言ってみれば、この設計は、いまの私の原点のようなものなのかもしれない。私はずっとそれを引きずってきた、あるいはそのとき浮んだ考え方の骨組み確認し、問題により深く答えることを目標にして過ごしてきたのではなかろうか。そして、だから、ときおりこの原点自体に不安をもつことがあったのだ。しかし結局、その骨組みを根本的に変えるような事態にはぶつからなかった。

 

 その後私は、いくつかのいろんな種類の設計をやってきた。その際私は、どの場合でも、いまここに書いてきたような考えかた(「体験の内容と成り得る」場所たり得ること)に基づいて、あるいは基づこうとする態度で、やってきたつもりではある。

 けれどもときおり、怠惰になり、ことの本質を忘れ、惰性でことをすすめてきたきらいがある。いまでも多分ときおりそうやっているだろう。そして、いい気になっているとはっとするようなことにぶつかる。分っていたつもりのこと、あるいは考えたつもりのことが、実は少しも分っていなかった、考えられてもいなかった、問題のまま放ってあった。そういうことに気づかされる破目になる。先の「かくれんばのできない学校」の例もそうだし、この通信の一号で書いた「自然発生的集落」についての質問もそうだった。考えられる限り考えた上なら未だ救われるが、そうでないとき、それは救い難い。自分の考えは何だったのか、何を考えてきたのか、ほんとに考えてきたのか、そう思うと情けなくなるときがある。そういうとき、私は無性に七戸へ戻りたくなる、行きたくなるようだ。何を考えていたのか、考えようとしていたのか、あの「初めて」のとき以上に深く考えられるようになっているのか、「初めて」のとき以上に充実感を覚えて考えたことがあるのか、要するに自分を見つめに、簡単に言えば、頭を冷やしに行きたくなる。どうもそのようだ。

 私はほぼ五年に一度、七戸を訪れている。それは、落成式の日に思ったこと、建物がどうなってゆくか見続けることの実行ではあった。しかし、むしろそれは、このことの裏返しとして、実は私は、私自身を見に行っていたのではないか、ふとそんな気がしてきてならない。七戸を訪ねよう、そう思いたつのに先だって、必らずふりだしに戻って考えなおしてみたい。みなければならないと思う何かが私の内にあったのではなかろうか(四年前のときは、「かくれんぼ」の一件のあとだ)。

 

 今年、私はやはり、無性に七戸に行きたくなっていた。どうしても夏までには行くぞ、そう春さきから思っていた。思いあたるふしがある。このところ、私はまた惰性で生きている。本質を見ようと(観念的に思っても)していない。そう指摘する人もいた。何やってんだ。自分が腹立たしかった。(そしてその一つの反省が「通信」になった)。

 予定は次々とくずれ、残すは八月末だけ九月になると忙しくなる、そんなことを考えているとき、七戸町のT氏から連絡が入った。もうじき20年になる。傷んできた。全面改築という話もあるがそうはしたくない。補修でゆきたい。相談したい。そういう電話であった。

 T氏は、この小学校の、言わばプロデュースを担当した、当時町の教育委員会事務局にいた人で、次回書くつもりだが、この20年近く、七戸町のいわゆる町づくりに、文字どおり身を挺してきた人の一人である。 渡りに舟とはこのこと、八月末、七戸帰りは実現した。

 

 故郷というものは見捨てたくなるものだそうである。そして、しかし、所詮見捨てることが、いかんともし難くできないものだそうである。私にとって七戸は、そしてそこでやった「初めて」の設計は、これもいかんともしがたく、いま私は何をしているか、それを量る物指しのO点になってしまっている。これから先もまた、何度も帰ってみることになるのではなかろうか。しかし、このことに気がついたのは、極く最近のことである。「初心不可忘」と言った先達のその言葉の意味が、いま、やっとなんとなく分りかけてきたように思う。

 

 18年後、学校はどうであったか、そしてそもそも、当時東京にいた私がなぜはるか離れた青森の七戸町へ出かけるようになったのか、その話が残ってしまった。特に後者はつまるところ、なぜ七戸町にあの風変りな学校が建つことが許されたか、あり得たか、という話であり、それは、その町の町づくりにかける情熱と、それを支える考えかたが何であったかという話に他ならない。「地方の時代」などと言われだす20年も前から、ここにしたたかな「地方」が在った、そのように私は思う。

 次回はそれについて書こうと思う。

 

あとがき   〇毎号私は、現状に対して批判的なことばを並べてきた。しかしその説明を詳しくせず、しても半ば抽象的であった。いつか具体的に説明する必要があると思っていたし、それを求める意見もきこえてきた。   〇七戸から戻ってきて、七戸の町の話でそれを試みてみようと思った。いままでの話の補足になれば幸いである。    〇ことの性質上、私がどう思ったかという言わば私的体験を語らねばならず、読む方もあまり気分のよいことではないのだが、しかしことの本質を理解しあう為には、ある状況を共有することから始めざるを得ず、止むを得ずそういう形になった。    〇しかし、このある状況を共有するということぐらい難しいことはないようだ。

〇たとえば、一つの言葉に人が思いをこめた、そのこめた思いというものを分る、分ろうとする、人が少なくなってきているのではないか。これは最近、私の同僚としょっちゅう問題にしていることだ。詩が、短歌が、そして俳句が分らなくなる時が真近かに迫っている。たとえば俳句を文字どおりに英訳したらなにがなんだかわけが分らなくなるのは目に見えているが、ところが、それ的理解、それ的解釈しかできない、つまり情景が想定できない人たちが確実に増えている。従ってそれを共有できない。というよりそれ以前である。ある精神科医が、精神科医は詩が分らなければその資格がないと書いているのを読んだが、それは建築家(ひろく私たちの住む揚所づくりに関わりをもつ人)に置き換えてもそのとおりだと思う。そして、言葉においてこういう状況であるならば「もの」に対しては推して知るべしである。

〇なぜ「かくれんぼができない」のか。その説明は、実はこの数年私の宿題であった。いまこの文を書いていて、自ずとその宿題が解けたように思っている。収穫であった。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。   

      1818年.10.1                       下山 眞司

 


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「8月15日によせて」 前半  1981年9月

2019-02-15 09:26:03 | 1981年度 「筑波通信」

 

   「8月15日」によせて‥‥‥「お国のため」は「公共のため」?  1981年度「筑波通信 №6」 

 いまから36年前の8月15日、私は小学校の3年生であった。正確に言えば「国民学校」3年生である(私の入学の年だったかに改名されたのだ。卒業のときは、再び小学校の名称になっていた)。

 そのとき私は、山梨県の竜王という町にいた。もともとは東京の(その当時の)西のはずれに住んでいたのだが、その町へ、いわゆる「疎開」をしていたのである。

 なぜ「避難」というような言葉でなく「疎開」を使ったのか、興味深い。

 普通「学童疎開」あるいは「集団疎開」の名称が有名であるが、「疎開」という言葉のもともとの意味を知るには「強制疎開」という言葉があったということを思いだすだけでよかろう。空襲などの被害を軽減するため、住人を追いだして家々を強制的にとり壊し空地をつくるのである。もうもうと土煙りが上り建物がこわされてゆく光景を審りながら見ていたのを不思議と覚えている。後になって考えてみると、そこは軍需工場のそばだったのだ。何の被害を軽減しようとしたか、言うまでもあるまい。「学童疎開」もまた、先きゆきの兵員確保のためであったことは、敵の攻撃による兵の損傷の軽減のため隊と隊の間をあけることを「疎開」というらしいから、自ずと明らかだろう。つまり、あたりまえと言ってしまえばそれまでだが、あくまでも学童のためでなく、「国」のため、軍事のため、軍事の都合上の方策を示す軍事用語であったわけだ。こういったもとの意味が忘れられ、ただ「そかい」という「ことば」になってしまうのは、たとえ言葉は風化すのが常だとしても、この場合のそれは、非常に怖いことだと思う。

  その疎開していた竜王という町は、甲府盆地北辺の西のはずれ、新宿を出た中央線が甲府盆地を離れ再び信州へと向い登りだす、丁度そのふもと、富士川上流の釜無川(かまなしがわ)の左岸にある小さな町である。まわりに田んぼがひろがり、北あがりの丘には桑畑、麦畑、そしてところどころにすももの畑があったように思う。そこを横切って蒸気機関車がほえるような汽笛の音をこだまさせて列車をひっぱってゆく光景は、絵になったし、そして夜などはなんとなくもの寂しい気分になったものであった。盆地のへりに位置しているからだろう、冬は雪はめったに降らなかったけれど冷えこみは厳しく、そして夏はかなりの暑さになった。(地図参照)

 その8月15日は、かんかん照りであった。地面は乾ききって、歩くとほかほかと白茶けた土煙りがたつほどであった。私は外にいた。何をしていたのか、それは記憶にない。乾いた土の色だけが昨日のことのように目に浮ぶ。昨年の夏トンコウの街なかを歩いていたとき、ほんとに珍らしいことなのだそうだが、雨がぱらぱらと数滴落ち黄土色の地面にありぢごくの巣のような跡だけ残して消えていった、それを見ていて、どういうわけかふとこの日のことを思いだした。そういえばあの時、空は見事に晴れていた。トンコウの乾ききった空の色や、あたりの土っぽい景色、おそらくそういった光景全体の感じが、日ごろ忘れていた幼き日の一瞬の情景の記憶をゆり起こしたのだと思う。やはりそれなりに、印象として強く残っているのだ。

  そんな日の昼下り、戦争は終った。しかし未だ私には、何の感懐もわかなかったように思う。私の1・2年生のときというのは、後にも書くようにただあわただしいだけで、「お国のため」の戦争が何であるかなどという以前の毎日であったように思う。その後3年の2学期まで竜王で過ごしたのだと思うが、学校で何を数わったのか、まるっきり覚えていない。単に忘れたのかごたごたしていて何もなかったのか、それさえもおぼつかない。

  実際、私の小学校生活前半の思い出というのは、ただもうあわただしいの一語に尽きる。1・2年生のころ(東京にいたわけだが)といえば、登校するとすぐ警戒警報そして追いかけるように空襲警報、サイレンにせかれるようにして、防空頭巾を被って必死になって逃げ帰った。そんなことしか浮かんでこない。みじめなものだ。だから唯一楽しい思い出というのは、疎開先の竜王の野山や小川で遊んだことぐらいである。

 3年の3学期、再びもとの東京の学校へもどった。いまから考えてみれば、教育はめちゃくちゃであった。教科の不当な箇所に墨をぬった。おそらく私たちが教科書に墨をぬった最後の世代ではなかろうか。次の代からは新しい教科書に全部変ったのだと思う。それ以後もずっと、私たちは常に、各種の新しい制度が定着する寸前の不安定の時期を通過してゆく破目になる。旧を新に改めるに伴う混乱の状況を、幸か不幸か味わうのだ。3年から4年にかけて、授業はしょっちゅう休みで、自習と称して、教室のなかでただわさわさするだけの、随分とすさんだ毎日であったような気がする。これまた、みじめである。

 そんななかで、5年と6年の担任となったN先生のことは忘れ難い。もしこの先生に巡り会わなかったら、私の小学校時代は、みじめなまま終ってしまったに違いない。そのときN先生は確か23・4歳、特攻の生き残りだときいた覚えがある。

 この先生が、私(たち)に、ほんとうの「民主主義」を教えてくれたのだと、いまでも私は思っている。色々な個牲や特能をもった私たちそれぞれが、それぞれなりにそれを発揮し、ときにはけんかや口論をしながら、それでもクラス全体の合意のもとで生活をしてゆく、そんななかで、ものごとの判断だとか、人への思いやりだとかを、観念的、標語的でなく、身をもって体得していったような気がする(それがいま、花咲き実をつけたかとなると、多少後ろめたい気もするが)。例えばこういうことがあった。当時お互いにみな貧しかった。6年の修学旅行は箱根行と決って、費用の積立てをはじめた。しかし、散人ほど、それも無理だから参加しないというものがでてきた。そうこうするうち、誰いうとなく、全員で行けるようにするため費用かせぎの内職(いま風に言えばアルバイト)をしようということになり、放課後、行くのを渋った人も舎め(もちろん先生も)、クラス全員でそれをやってのけ(百円ライターより少し大き目の停電用石油ランプづくりだったと思う)全員無事旅行に行ったのであった。私たちには、行けない人のためにやっているという気はなかったように思う。だから、行けないと言った人の名を覚えていない。覚えているのは、とにかく全員参加できたということだけ。幸せな時代であった。よき時代であった。数年前、30年ぶりかにクラスの三分の一ほどが集ったとき、なかの一人が言いだすまで、ほとんどみんなこのことをすっかり忘れていて、そういえば、という話になったものである。いまの学校では、色々な意味で、全くあり得ないことだらけであった。そしてみな一様に、自分たちの子どもの通っている「いまの学校」を、大けさにいえば嘆き悲しんだ。その日私たちは昔のように合唱をして別れたのであった(昔、音楽の時間、晴れていれば決まって外に出て、その辺の田んぼや小高い丘に日かげや日だまりを求めて・・・・その当時、東京にも田も林も丘もあったのだ・・・・思いきり歌うのを常とした。この私さえも。)

  時代の混乱していたときのこの2年間、これは、いま考えてみると、子どもの心に決定的な影響を与えたように思えてならない。観念的でなく身をもって、人が生きてゆく、集団で生きてゆく、そのゆきかたの基礎を、この先生は私たちに数えてくれたのだ。おそらくそれは、先生の戦時中の体験がそうさせたのだと、いま私は思っている。教師は子どもと触れあえる現場こそが大事だから、といって管理職試験の受験をすすめられるのを断っているのだと、その久かたぶりに会ったとき語っていた。

 それから30余年、旧から新への混乱のなかで大人になった私たちが自ら身につけたものから見れば、明らかに「民主主義」は風化してしまったように見える。いや、私たちに言わせれば、新しい制度が定着しだす私たちの数年後からして既に風化は始まっているように見える。いま「私たち」と書いたのは、そういう混乱の時期に少年時代を過ごした世代の「私たち」だ。そう思うのは、私たちの思いあがりか、それとも私たちがもう旧くなったせいなのだろうか。

 私は、そして私たちは、そうは思わない。私たちには、できあがった形式に流されるとか、もっともらしい言説をそのままうのみにするとか、そうすれば気楽でよいと思うのに、どうしてもそうはできないという悪い癖がある。そういう時代に育ってしまったせいか、結果は結果として、むしろ過程を大事にし、またなにごとによらず、自ら納得するまで確かめないではいられないという習性がついてしまっている。決してそれは人の言うことを信用しないというのではない。むしろ人の意見はよくきく方である。ただ、その過程・途中をも納得できない限り(これがあたりまえだと思うのだが)いかに偉い人の言であろうが納得しないだけである。そしてまた、私(たち)は、個人を大事にする。集団で行動するときでも、個人をないがしろにした集団の論理は信じない。あくまでも個々人の了解があって集団が成りたつ、こう考えるがある。形式的あるいは手続きのためにだけの民主主義?は好きではない(先号に書いたしたたな人たちも大体そうだ)。

      

 数年前、30数年ぶりに、竜王の町へ行ってみた。先に掲げた地図は最近の二万五千分の一地形図である。この地図の左上から右下へ斜めに走っている通称甲府バイパスは比較的よく通るのだが、ついぞ町へは寄らなかったのである。実は、この地形図はこの文を書くにあたって初めて見るのである。そのときも全く地図なしで、昔の記憶に頼ればよいと思い、竜王市街を指示する標識に従ってバイパスを下りたのである。しかし下りた辺は全く見慣れない風景である。止むを得ず、川にぶつかるはずだと思い西へ向う。そして、あっという間に信玄橋へ出てしまった。私の昔いたところはその手前だ。こんどはゆっくりともどった。そして、やっとなんとなく見覚えのある街かどに出る。郵便局もあった。だんだん見覚えあるものが増えてくる。というより、私の頭のなかから、目の前に移り変る光景とともに「昔」が発掘されるという感じである。街すじの家々も、私のいたころから大分たっているから改築されたりして変っているにちがいない。なんとなく見覚えがあるというのは、だから個々のものの覚えでなく、いわばその「雰囲気」なのではあるまいか。次いで私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが、どこだか分らず、やっぱり道を忘れてしまったのだと思い、あきらめて町を出た。

 町は思いのほか小さかった。いくら車で走ったからといって、あっという間に通り過ぎてしまう。それほど小さい。私の記憶ではかなりのものだった。しかし考えてみれば、あたりまえなのかも知れない。子どもの世界は、小さくても広いのだ

 またあらためて気づいたのだが、まわりに見える山が意外に大きい。それはそうで西に見えるのは南アルプスの山塊だし、北にあるの茅ヶ岳である。しかし当時、確かに山はあったけれども、はるか向うにあったような気がする。もちろんそういう山の名はあとになって知ったのだ。八ヶ岳の名は、それはそこからは見えず、甲州往還をもう少し信州よりへ進んでから見えはじめるのだが、それにも拘らず、八ヶ岳おろしの名でそれを知っていた。冬、峡谷沿いに寒風が吹き下りてくるのだ。

 その当時の私のものの知りかたは、全く先号で書いた番頭のそれに似ていた。私がよく知っていたのは、桑畑のひろがり(その名を思い出せないのだが、桑の実を食べにゆくのだ。うまかった。中央線の向う側には人がめったに行かないからたくさんあるとか、色々詳しかった)、用水沿いの足場の悪い学校への近道、竜王の駅へ行く微妙な近道、駅うらに野積みされている防弾ガラスの山(こするといいにおいがする子どもの宝物)、街すじをはるか南に歩いて行くと林の中に飛行機が隠してあること、そして一見道に見えるが紛れもなく隠し滑走路らしいものがあること(あまり広い道なので驚いた)、などなど専ら遊びがらみのことどもだ。いま考えてみれば、私のなかに、一枚の地図ができあがっていたのである。

 けれども、その地図には、信玄橋の向う岸だとか、街すじを北に上った線路を越えた上の方だとかは描かれてない。橋の向うなど、確かに行ったことはあるのだが、いつも橋の途中から気持が後へ向いてしまって、渡りきるとまた早々に逃げるが如く引返したものだ。それほど長く、どこかとんでもないところに行ってしまうような気がしたのだろう。北のはずれもそうだった。だから私の地図にはのってこない。

 いまこの機会に、あらためて本物の地図をながめてみて、意外と私の地図をそれにあてがうことができて楽しかった。そしてあれはこういうことだったのか、などという発見もあった。いま私たちは、なにかというとすぐ本物の地図を見ることから始めてしまうけれど、ほんとにそれでよいのだろうかと、ふと思いたくなる。本物を見てもよい。要は、その見かた、なにを見るかである。「私(たち)の地図」を本物にあてがうことは、30年も昔の、しかも子どものころのものでさえできるのだから、それは多分易しいことだ。しかし、本物の地図の上に「私(たち)の地図」を見ること、それができるか。けれどもそれをこそ見なければならぬのではなかろうか。その気がないと、その本物の地図に記されていること、道一本にしてさえ、そのほんとの意味が分らないのではないかと思う。本物の地図に記されていることは、いかにも現状の地表の表情:地形図ではある。しかしその大半は人々のやってきたこと:人間の営為の記録に他ならない。そしてその記録の大半以上がまだ本物の地図のなかった時代:あるとすれば「私の地図」しかない時代:のそれだということに気づいてよいと思う、いや気づくべきだ。つまり、地図に記されていることの大半は、本物の地図のなかった時代に生きた人々の、もろにその生きてゆかねばならなかった大地と格闘したそのあとなのだ。後に続く人々はみな、そのいわば上ずみをすくいとって生きてきた。そしてそのことを、ちゃんとわきまえていた。近代になって、それを全くわきまえなくなってしまったのである。いま、本物の地図の上にそれらを見る気のある人たちが(特に町づくりや建物づくりに係わりを持つ人々のなかに)どれだけいてくれるだろうか、考えると悲しくなる。

 先に私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが分らなかったと書いたけれど、分らなくて当然であった。本物の地図を見て判ったのだが、どうやら私の探し求めていた当の田や丘の辺を例のバイパスが通っているらしい。我が懐しの遊び場はドライブインやガソリンスタンドに占められ、その上を私白身しょっちゅう通過していたというわけなのだ。

 懐しの町は、だから、万里の長城のようなバイパスと大河のような車の流れによって、ものの見事に南北に分断されている。いまや一つの町ではない。向う岸である。いったい、こういう道路というのはどう考えたらよいのだろうか。

 先の私の竜王での幼き日の思い出をよく見なおしてみると、意外に「道すがら」の記憶だとか、道にからんだ話が多い。しかし、よく考えてみればあたりまえ、道というのは、私たちの子どものころ、そういう場所だったのだ。

 町のなかの道は、単に家々をつなぐ交通のため以上に、人々の交流の揚所だったし、実際道のつくりも家々の表情も、それに相応しいものだった。町と町をつなぐ道だって、私たちが必要あって歩くところだった。通学の途中いつも、我がもの顔に所狭しとばかりねり歩いたものだった。筑波には、いまでも少し奥に入ると、そういう昔ながらのところがあるし、時おり赴く山村などで、道ばたを清流が流れ、おかみさんが洗いものをし、わきで子どもが遊んでいたりするのをみて、そういえば竜王の家の前にも、もうほとんど使ってなかったように思うが、きれいな水が流れていたなどと思いだしながら、悲しいのは習性で、いつの間にか私は道の端を歩いている。車なんて通りもしないのに。

 いま私たちの大半は、こういう道のあったこと、道というのがこういうものであったことを、すっかり忘れてしまった。そして、道とは単に交通の場所だと思って別段不思議に思わない。そういう昔的な道というとすぐに、歩行者専用道路の発想になっでしまう。そこにあるのは、人が安全に通行できる、という視点のみだ。このごろは気分よく快適に人が歩けるためにと称してそれがデザインであると称して、わざと気分を変えるために(と思いこんで)色々と曲りくねらしてみたり、石を置いたり、舗装の色を変えてみたり、そういうことが流行している。残念ながら、それは、そうすることが、道の本質を考えたことなのでは決してない。むしろ、昔の道の方が、たとえ砂利道であろうが、数等秀れていたように私は思う。生活が快適だということは、単に視覚的に楽しいなどということではない。こんなことは、ことあらためていうまでもなくあたりまえだ。しかるに、人の住む場所という場所を、指折り数えあげて機能に分解した結果、道もまたこういうふざけた理解!になってしまったのだ。

 昔の町なかの道は町を一つにまとめる役割をはたしていた。よくいう向う三軒両隣り、それは道を介してのはなしであるし、なんとか小路という類の地番表示も、その道を介してのはなしであった。道によるまとまりがあったのだ。いま、町なかの道は町を分けるものになった。向うは向う岸、あるのは両隣りだけ。それは、いまの住居表示のつけかたに端的に示されている。

 もちろん、こうなった最大の原因の一つは、(道の本質が分らなくなったことに加えて)車の増加である。昔からの甲州街道は、甲府の目扱きを通っていた。というのは正しくない。甲州街道の通っていたところが目抜きになったのだ。街道という街道みなどこでもそうだった。それは必らず町々を通過してゆき、その町に用のない人々も必らずその町を通らねばならなかったし、また別にそれを不都合だとも思わなかった。むしろそのことに、町の人も通りすがりの人も、ともにある種の意義や楽しみを認めていたのではなかろうか。街道もまた、とにかく町と一体のものとしてあったのだ。

 こういう道に車が入ってきたときに、しかも大量に入ってきたときに話が一変する。

 車の流れ、その渋滞。町は道により細かくこまぎれに分断される。そして車の側からみれば、別に用のない町なかで、かといって気晴らしに車を離れてぶらぶらするわけにもゆかず、またそうするには駐車場所を探さねばならず、止むを得ず車にこもっていらいらしながら渋滞に耐えるしかない。その意味で、それは全く無用な「途中」である。自動車という乗物は、だから、出発点と目的(到着)点とにだけ係わる乗物だといってよいかもしれない。よその土地を通過するというより、(たまたまよその土地を通過している)道路の上を通過するにすぎない。(これに対して、先にも書いたが、歩いての移動はもとより、鉄道やバスによる移動は、本人の意志に拘らず、必らず他人との係わりをもつ。よその土地を通過するだけでなく、よその人とも触れあわざるを得ない。そういう「途中」をもたなければ、先に進まない。)

 そういうわけで、町のなかから町にとって不要な車を追いだすこと、車にとって無用なところで滞らないこと、これを一石二鳥的に解決しようとする策:バイパスという発想が生まれてくる。道路は交通の揚所だと考えるときの当然の発想だといってよいだろう。

 バイパスはその目的から、市街地(家のたてこんだ所)を離れた場所に建設されるのが常だ。甲府バイパスの場合、先に掲げた地図の元図を拡げてもらえば一目で分るけれど、東の端から西の端まで、甲府市街地を南回りで大きく迂回している。おそらく、バイパスの当初の目的はいまのところ達しているものと思う。実際、車の立場でいえば、片道二車線になったいま、通り過ぎるにはまことに快適で、逆に甲府市内に行くにはどうしたらよいか迷うくらいである。気をつけていないと通り過ぎる。

 これで一応、問題は解決されたようにみえる。しかしよく考えてみると、それは甲府市内の問題を解決したにすぎないのではなかろうか。なぜなら、このバイパスはとりたてて竜王にとって必要ではない。もともと大きな街道が通っているわけでもないから、車の量もさほど多くなく、別に問題があったわけでもない。そこへ、いわば突如として、万里の長城のような道路と車の大河が出現したのである。町はほぼ完全に二分されたのである。なんのことはない、市街地で不要と考えられたものが、もともと車とは縁の薄かった隣りの小さな町や村に肩替りされたのだ。けれどもそれが、迷惑の肩替わりなのであるとか、町や村を二分するものなのだ、というようなことは、それほど深く考えられたことはないだろう。そういうバイパスは、人家のない田畑・山林などをねらってつくられる。町うちを通過しているわけではない。むしろ空地を通っている、そういう意識の方が強いだろう。

 これは、都会的な感覚からいえば、むしろ当然かもしれない。代替地を用意、あるいは地価(市街地より安い。買う側にとって好都合だ)に応じて買収する、つまり代価を払えばよいと考える。これも考えてみれば都会的感覚だ。けれども、ちょっと考えてみれば直ちに分ることなのだが、田畑や山林は単なる空地ではない。それに依存して暮している町や村に住む人たちにとって、それは自分たちの住んでいる町うちと一体のものとしてあるし、またそういう土地が、何もしないで産物を生みだすわけでもない。土地の二分は生活の分断に等しく、買収はそういう生活をやめろということに等しいし、代替地は初めからやりなおせということに等しい。田畑は決してその初めからから田畑であったわけでない、という単純な事実さえもが忘れられているのである。そこに依拠した生活があるということが忘れられている。そこにあるのは、「土地」ではなく単なる「地面」の視点のみだ。

  こういう計画を考えるとき、せめて、都会的生活形態を唯一絶対とするのではなくそれぞれの村や町にはそれぞれなりの固有の生活の形がある、そのそれぞれの村や町の生活の構造を具体的に、彼等の立場にたつべく、謙虚に知ることから始められないものだろうか。(ほんとは都会のなかでも同じなのだ。村や町に都会的生活がぶつかるときに、問題が顕在化してあらわれてくるにすぎない。)

 それが、先に書いた、本物の地図に「私の地図」を見る、ということなのだ。

 先日のこと、東京・中野の人たちに呼ばれて、区の児童館計画について意見を求められた。見ると、ある空地があり、そこが建設予定地となって、その他の既存の児童館をプロットした地図に、館を中心に半径500メートルの円が書かれている。利用圏なのだそうである。私は、弱ったな、と思った。これは施設の利用圏域なるものをテーマに研究する人たちの常とう手段の応用なのだ。非常に巨視的に見るならば、つまりこれこれの人口の町に、館をいくつぐらい必要とするか、そういったあたりをつけるには、まあよいかもしれない。けれどもこれをいきなり、現実の生活レベルにまで応用されたのではたまったものではない。むしろ、ふざけるんじゃないよ、とさえ言いたくなる。敷地のまわりには当然道が通じているだろう。そしてそれは決して均質ではなく、広い、狭い、人通りが多い、少ない、通学路かどうか、まわりになにがあるか‥‥それぞれ性格があるだろう。子どもたちはそういう道を通ってくるに決っている。そういったことを実際に見るならば仮に館が建ったとき、どのあたりの子どもたちの「私の地図」にその館が組みこまれ得るか、およその見当がつこうというものである。集まるだろう子どもたちの想定さえも確かめもしないで(この碓かめは、自らの目を信ずるしかない)研究者の研究成果:客観的(と称する)データを(徒らに)信じて500メートルの円を書いて、十分に考えたとする、これはもう、なんと言ったらよいのだろうか。おそらくこの計画立案者は、敷地に行ったし、まわりも歩いただろう。しかし、何も見なかったにちがいない。いや見えなかったにちがいない。これは、児童館のなかみ以前の話であるし、またこうである以上当然なかみも推して知るべしであろう。

  先ほど来私は、都会的感覚だとか都会的生活、都会的発想という言いかたをしてきた。それはほぼ、近代的合理主義的な、という意味と同義だとみてもらってよいと思う。そういうものの見かたでは、本物の地図は、本物の地図としか見えず、というより本物の地図としてしか見ず、「私の地図」などという「主観的」なものの見かたは頭から否定されるのがおちである。

 実際、私の受けた建築の教育でも、半径500メートル的知識は多分に教えられはしたけれども、「私の地図」を私たちが持っているということ、それによって生活しているということ(現在も、そして大人も子どもも)、そういうことは、ついぞききもしなかった。「個人」の「主観」は省かれていた。

 かくして、極めてスムーズに流れる道路の狭間に、村や町の人たちが不便を強いられ生活し、子どもの地図に描かれもしないかもしれないような子どものための建物がつくられる。これがまさに現実の客観的事実なのだ。そして、私自身、こんなことを書きながら、甲府バイパスをかけぬけ、その利便を満喫(?)しているではないか!

 もし仮に、ある町・村の田畑を横切ってバイパスを通す計画がもちあがり、ところが土地の人たちが生活の分断をきらって異論をさしはさんだとしよう。それへの対応は先に書いたとおり大体決っている。代書地を用意する、分断された二つの地区をつなぐ代替道をつくる、買収費の他に生活補償金!を積む等々である。それでだめなとき、必らずでてくることばがある。あなたがた、反対するほんのわずかな人たち、その反対のために、実に多くの人たちが不便を被るのだ、「公共の利益」を考えてほしいということばである。最近の例で、名古屋の新幹線騒音訴訟がよい例だ。速度をおとし騒音をさけるべきだというのに対し、判断は、この程度の騒音は「公共の」利便のために我慢すべきだというような趣旨だったように思う。これでは「利益」の享受者の数の多少が天びんにかけられるみたいである。少数意見は少数の異見にすぎず、ことによると多くの場合単なるエゴイズム扱いされる。しかし、ふとたちどまって考えてみると、むしろ多数の方がエゴイズムかもしれないのだ。第一、少数意見が少数なのは決りきった話だ。そこに住んでいるのはその人たちだけなのだから。極端に言えば、その人たち以外が「公共」だというのに等しくなってしまう。けれども、このような「公共」が、この「民主主義」の世のなかに横行しすぎるように思う。そうなると、その「民主主義」のなかみまで疑いたくなる。

 

 (次記事「筑波通信№6 後半,あとがき」に続く)

 (「1投稿の文字制限3万字」を越えるので、前半と後半に分けて掲載します。)


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「8月15日によせて」 後半, あとがき   1981年9月 

2019-02-15 09:25:01 | 1981年度 「筑波通信」

(「筑波通信№6 前半より」続く)

 

 いったい。「公共」とは何なのか。

 「公共」施設、「公共」投資、「公共」の福祉、「公共」の利益・・・・微妙に意味が違うようだ。唯一共通していること、それは、ひびきがいいということだ。字づらからしてなにか「みんなのもの」というような甘いひびきがある。みんな、自分も「みんな」のうちに含まれているかのような幻想をもつ、そういうことばだ。

 しかし、この「みんな」のなかみを考えだすと、とたんにそれはあやふやになる。私に言わせれば、これは極めていいかげんで、それ故また極めて危険なことばである。それが甘いひびきをともなうが故に、なおさらそう思う。

  先日、行政マンと話をする機会があった。住民参加の行政、それが「公共」のためだと考えているという。ただ、多様の住民の意向のなかから「どうやって最大公約数を決めるか」それが問題なのだという。これは一見したところ、良心的なやりかたに見えるだろう。しかし、つまるところこの場合、「公共」とは人々の「最大公約数」だということだ。そこで単純に、「最大公約数」なのだから人々の共通の最低の意向がくまれている、などとよろこんではいけない。最大公約数ということばは、もののたとえにすぎず、人々の意向なるものは、「数」みたいに割り切って考えられはしないのだ。二人の意向を足して2で割ったら平均値になった、なんてことがあり得ないようにあり得ない。建築の世界で「公共建築」という言いかたがある。この意味は、「不特定多数」の人々が利用する建築:学校、病院、図書館‥‥つまり「公共」が利用する建築のことだ。「不特定多数」という言いかたは、個人対応の建築は特定の個人を対象とするが、「公共建築」の利用者は特定できない多数である、そういう見かたからでてくる言いかたである。つまり、この見かたでは、「公共」とは、特定できない大勢の人たちということになる。

 だから、公共建築の研究者たちは、大抵のっけから、その利用者を「群れ」として扱うことが多い。いろんな人がいて、つまり特定できないから、個々の人につきあえない、群れとしてしか見ることができないというわけだ。かくして、人々は「群」としてひとまとめに括られる。統計的に処理される。そこでは、「個人」は消去される。先の「最大公約数」の発想も、構造は基本的にこれと同じである。いずれにしろ、公共を考えるために、「個々人」は消去される。されねばならない。

 そしていま、仮に「公共」=不特定多数の「意向」が定まったとしよう。「公共の論理」が定まった。そうなると、いま大抵その「公共の論理」は(その成りたった過程を離れ)自立性を確立してしまう。簡単に言えば、「公共の論理」が「個人」を越え、「個人」を支配する、つまり「個人の論理」より上位のものとして機能するもののように、あたりまえのように、扱われてしまうということだ。なぜか。おそらくきっと、こういう答が返ってくるはずだ。公共、つまり不特定多数の人々とは、個人の集合であり、その集合から抽出したのが、この「公共の論理」である。故に、個人は公共に包含される、と。

 しかし、それはうそだ。論理のすりかえである。この「公共」理論では、「公共の論理」が「個人」より上位にたつというときになって初めて「個人」が顔を出すのが特徴だ。そのときまで、「個人」は消去され、不特定多数として扱われていたのではなかったか。

  「公共」という言葉が危険な言葉だと私が言うのはこのためなのだ。それが、「個人」を左右し支配するのに極めて有効に機能するのが、目に見えるようだからだ。先の新幹線の騒音問題の例のように、既にそのようになっている。「公共」が「個人」に優先するというのである。

 先きごろの教科書問題が世をにぎわしていたとき、批判派の人たちが、「公共の福祉」をもっと前面に押しだして書かれるべきだと言っているという新聞の見出しを読んで、一瞬とまどった。そんなはずはない彼らがそういうことを言うわけがない、福祉は金がかかりすぎると言っているのに、どうしてか。そうではないのである。記事を読んで納得した。原子力発電とか工業立地とか色々の「公共」投資に対して反対が多い(ためにことが運ばない)が、それは「公共」の利益つまりは「公共の福祉」に反することだ、この「公共の福祉」が(個人よりも先ず)大事であるということを、もっと前面に出して書<べきだ、というのであった。

  あるいは、事態はもうここまで来ていると言った方がよいのかもしれない。

  いま、ひょいと、この「公共」の文字のところを「国家」あるいは「お国」の文字に置き替えたとしよう。直ちに分ることだが、そのまま通用する。論理の構造は何も変ってないのである。36年前そのものだ。いずれの場合をとっても(つまり文字がどうあれ)、「個人」を支配する、あるいは、「個人」が自らを殺して従わねばならないより上位の概念・論理がある、という発想であることに何ら変りがない。

  怖いのは、いまのそれが、「公共」というなんとなく甘いひびきの言葉を使っていることだ。「公共」=「みんな」、この錯覚を巧みにあやつれば、なんでもできてしまう。

  「みんな」の利益になるのに、なぜあなたは反対するのか、ということは、あなたは「みんな」でない、「みんな」の一員でない、「みんな」の利益になることに賛成すれば、あなたも「みんな」になれる。この全くの逆転した(というかめちゃくちゃな)論理!に、大抵のあなたはびびってしまうのだ。なんのことはない、反対するのは、あるいは批判するのは「国賊」だ、というのと、いったいどこが変っていよう。「民主主義」というもの、敗戦を契機に獲得した「民主主義」というのは、こんなことだったのか。私には、とても信じられない。

  私の民主主義、私の自分で身につけたと思っている民主主義では、いかなる場合でも、「個人」は消えることはない。「個人」を認めないものは、私にとって民主主義ではない。だから、たとえば、「個人」の集まりを「不特定多数」で処理して済ますなどという考えは、それこそまさに、「個人」より上位の概念としての「公共」があるという考えをバックアップするようなものだ、いやことによると、もともとそういう考えだからこそ「不特定多数」がでてくるのだ、そのように私は思う。

  私には、「個人」のいない「公共」など全く思いも及ばないのである。いま、「公共」は、実体のないひびきだけよい「ことば」になってしまっている、むしろ、言うならば一種の「操作用用語」となってしまっているように、私には思える。

  このような「公共」「個人」の変な関係は、日本独特のものなのだろうと思う。いま、この「公共」と、それに対応すると思われるpublicについて、辞書は何と説明しているか、まるのまま転載すると次のようだ。

 

    

因みに「公」の字のもともとの意は、つつぬけである、つまり、閉じていない(open)ということの象形なのだそうである。

 彼我の差歴然たるものがあると思うのは私だけであろうか。我が日本において「公共」とは、社会一般であると同時に即「政府」「お上」なのだ。当の「お上」も、また「下じも」も、そう思ってきた、それが辞書の説明となって現われている、そう見てよいだろう。だから、普通publicを「公共」と訳して済ましてきているけれども、原文において「個人」が(あたりまえなこととして)生きていたものが、日本語になったとたん、ことによると(あるいはきっと)「個人」はどこかへ吹きとんでしまう、つまり、まるっきり意味が違って読まれてしまう可能性が強い。(こういう例は、前にちょっと書いたけれども、文明開化以来、非常に多いはずである。「地方」とloca lの例もその一例だ。)

 (もしかすると)日本人は、その長い習慣から、個人を越えた上位に、頼るべきよすがを欲しがる性向があり、そういう「お上のいうこと」にすなおに従う癖から、36年もたってもまだ、披けきれていないのかもしれない。

 しかしながら、辞書にも「公」は「私」と対をなすとある如く、「公」と「私」あるいは「個」は、それを正当に対置して初めて、そのそれぞれの意味が明らかになるはずで、そうせずに、どちらか一方のみでことが処理されるとき、事態がおかしなことになる。とりわけ、「私」の係わりないところで生まれた、得体の知れない「公」に「私」が押しつぶされるのは、全く許しがたいことだと私は思う。

  それゆえ、現実に目に見えた形となって現われてくるところの「私」たちの心情を逆なでするような諸々の(人為的)現象に対して異議をさしはさむのはもちろんであるが、むしろ、そういった現象の拠ってきたるものの見かた考えかた対して、より強く異議をとなえ続けたいと私は思う。それが、おそらく、私たちの世代の役目なのではなかろうか。

  私は、あの8月15日前の状況が何であるか、体でそれを感じたわけではない。それには幼なすぎた。しかし、いかなる理由があろうとも、あの8月15日以前には戻りたくないし、また決して戻したくないと思う。なぜなら、私は、私の身につけた民主主義は決し誤っていないと思うし、そして、それがきらいではないからだ。

あとがき 

 いまこの号は、八ヶ岳を目の前にして書いている。大分かすんでいる。秋から冬あるいは冬から春、それも朝か夕がたがほんとはいい。そういう山をみていると、山をみているようで、みている自分がそれに対置されてみえてくるような、なにかそんなこわい感じがしてくることがある。(こういうときのみるは、どの漢字をあてたらよいのだろうか。) そして、私のようにときおりではなく、いつも山に囲まれている人たちはいまどうなのか、一度尋ねてみたい気がする。

〇この8月15日、諏訪湖の花火を観に行った。ちょうど満月。盆地を囲む山々の稜線が、そこだけ月あかりに照らされ淡く輝きあとは空に溶けこんでいた。もう秋である。花火は壮観であった。ずしんと体にこたえるあの音、これがないと花火ではないのだが、あのシュルシュルという音とともに、それはどうしても高射砲と艦載機の機銃の音を思いださせ、慣れるまで、どうもいけなかった(東京の防空ごうにもぐっていたころのことだ)。こういうちょっとした光景や音、ときにはにおいまでも、それは突然忘れていた昔の一瞬の情最を頭のすみから掘りおこす。

 建物づくりや町づくりというのは、本質的に、いつの日にかこういう具合に掘りおこされる情景の根となるものをつくっているのだということに、気がつかなければならないと思う。

〇こんな内容の文を書きつつ、一方で私は車の利便に酔って?いる。車に限らず、諸々の近代「文明」のもとで暮している。それを統御しているのか、それに統御されているのか。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

                                            下山 眞司


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