建物づくりの原点を観る-4

2010-04-26 19:12:37 | 居住環境
当方の処理ミスで、未完の下書き状態が一時公開になっていたようです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[文章改訂 27日 12.32]

今回は、特徴的な建物を観ることにします。
先ず、地域全図をふたたび載せます。
地図中にA~Dの符号を付けたあたりの建物が、独特の方法で紹介されています。



はじめにA地点の建物。



ここは、標高1000m程度の一帯、住戸に付けられている記号の FO は、前回紹介の集落 FORNESIGHE を指しています。

そして、B は標高1300mの CORTINA D'ANPEZZO の住戸。符号は CA。



図は、事例住戸の各階の平面を左側に、次に斜面下側(表側)、側面、そして斜面上側の建物の立面図、右は屋根の伏図です。
この図の、A では下、B では上にある線は棒尺で、文字が小さくて読みにくくて恐縮ですが、文字の付いている一目盛が10m、半分のところ:5m:にも目盛があります。
この目盛をあてがうと、各住戸の大きさがおおよそ分ります。

この表示法は、C~Dの図でも共通しています。

そして注目すべき点は、平面図、立面図(側面図)が、網掛けで用途別に区分されて表示されていること。これも各図共通。[文章改訂 27日 12.32]

すなわち、
白抜き部が住居部分:居住区
点々を掛けた箇所は家畜小屋
グレーの箇所は干草用の納屋

このような表記法を採った報告書の類は、日本には例を見ません。あったとしても、平面図の区分けだけ。

この A、B 2集落の建物は、大部分が2~3階建です。
小屋裏の平面図は書かれていませんが、いずれも小屋裏を使っています。

図の網掛けの比率を見ると、家畜小屋と干草納屋が面積のほぼ半分を占め、家畜小屋と干草納屋では、干草小屋が半分以上を占めます。
どの建物も、小屋裏は干草納屋。したがって、小屋裏の平面図も描けば、圧倒的に干草小屋の占める部分が大きいことが分ります。

これまで紹介した写真で、なぜこんなに大きな建物?と思っていたのですが、この図を見ると、疑問が解けます。
この建物の大きさは、「この地で暮す上で必然の大きさ」なのです。
つまり、人びとは、冬場も、この地で家畜の世話をしながら過ごす。
そのためには、大量の干草が要る、それを一つ屋根の下に囲い込んでいるのです。
同時に、この地の冬は、家畜や干草を別棟にすることなど考えられない環境になることをも示してもいるのです(それにしても、なぜこの地を選んだのか、他にはなかったのか?)。

日本でも、一つの建屋で牛や馬と共に暮している例はたくさんありますが、それは多くが農耕のためで、牧畜を生業として一つの建屋で家畜と暮す例は、私は知りません。

文中のどこかに、どの位の数の家畜とともに暮しているのか、書いてあるのかもしれませんが、読解できていません。
牧畜に強い方なら、これだけの面積の干草納屋の大きさ:干草の量:から逆算できるのかも・・・。

建物は、石積みの上に木造の小屋を架けるか、1階を石積みにして2階、小屋を木造とする例があるようです。

以上は建屋が2~3階の地域の例。
次の C、D は、3階建~5階建の建物が多い地区です。
C、D は、ともに標高1000m程度の地区です。





標高1000mというのは A 地区と同じ高さです。それゆえ、環境も同じ程度と考えられますから、必要干草量も多分同じ。
しかし、A に比べ、建物の全容積は小さく、建物は4階建て以上。
その上、建物容積に占める家畜小屋、干草納屋の比率が大きい。つまり居住区は A、B 地区の住戸に比べ、かなり小さいことが分ります。

このことから、この地区は、農耕地、放牧地には恵まれてはいても、建物を建てる場所が狭く、それゆえ一戸あたりの敷地も狭くなり、家畜に見合う干草を用意するには、建物を4階建以上にしなければならないのだ、ということを思わせます。逆に言えば、これが集落の大きさをも決めているのではないでしょうか。

中層の建物の大半は、実は家畜のためのもの。
たとえば、D の下の方の VC5/1は、建物全部が干草納屋と家畜小屋、容積的に干草3.5:家畜1の割合。
その右にある VC5/2はいわば住居棟で、干草納屋・家畜小屋棟よりも一回り小さい!

建物の建て方は、小屋組だけ木造の場合と、2階以上に木造を使う例とがあるようです。
建物が全体にコンパクトのせいか、切妻ではなく、寄棟が多くなっているようです。


以上ざっと観てきましたが、どの地区の人びとの生業も牧畜、そして、どの地区も、その土地土地の環境・状況に応じて建物を構えていることが分ります。
「応じて」とは、同じ牧畜を営むのであっても、「土地土地での暮し方に応じる」ということ。すなわち、「一律ではない」ということ。
生業が同じでも、土地の環境によって暮し方が異なるのがあたりまえ、これは、現代人が得てして忘れがちなこと。

おそらく、これが「住む」「暮す」「建物をつくる」ことの原点なのだ、と私は思います。
そして、この書の編集者が、これほどまでの熱意をもって「現地」を観ているのも、そこに現代が忘れてしまった Architecture Without Architects: Non-Pedigreed Architecture の「迫力」、つまり、建物をつくるとは何か、その「原点」を見出したからではないか、と私は勝手に思っています。
それにしても、この書の編集者の「執念」は凄い!

今回は写真を載せませんが、次回以降は建物そのものを観てみたいと思っています。

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建物づくりの原点を観る-3

2010-04-23 14:57:44 | 居住環境
[註記追加 24日 7.37][文言追加 24日 7.46]

今回は、図がよく見えるように、図版を大きくしています。そのため、「全長」がきわめて長くなってしまいますが、ご容赦を。

同書には、古図の残っている地区の集落図、集落内の各住戸の平面図も採集されています。それを見ると、各地区の地形にどのように建物を建てているか、つまり集落の立地の様子が窺えます。

   註 この古図は、細かく区画され、地番(あるいは面積?)のようなものが書き込まれていますから、
      日本の「地籍図」に相当する図ではないでしょうか。[註記追加 24日 7.37]

順に紹介します。恐縮ですが、先回、先々回に載せた地域図を時折り見てください(そこだけプリントしてそれを片手に見ていただくと、場所が分りやすいと思います)。

先ず、コルティナ・ダンペッツォ地域にある CHIAVE という集落の1858年の様子。





上は全体配置図。

下は各住戸平面図を入れた配置図。グレーの箇所は家畜小屋か納屋・倉庫。白いところが居住区。赤で記入されているのは暖炉。他の地区の図も同じです。

地上階はほとんどが石造(石積み)で、上階あるいは屋根だけが木造になるようです。

地形は左下:南西から右上:北東へと登り勾配。
等高線は5m間隔で、左下の棒尺にかかっている線が1300m、右上の図中最高の線が1325m。
およそ150mで25m、100mで約17m、1寸7分勾配。ということはかなり急。

一段下の1320mのラインは、左側:西側で、南へ向う小さなコブをつくってから北へ曲っています。そのため、その線にかかる2軒だけ、ほかの住戸と向きが異なるように見えますが、等高線に対する対し方は、他と同じです。
つまり、等高線に対して直交して長細い切妻屋根の建物が建つことにはどの住戸も変りない。棟もその方向。


次は、地域図の ZOLDANO の一画と思われる FORNESIGHE の1816年、1817年と1921年の様子を示す図。

下図の1817年の地図では、地名の表記が FORNASIGHE になっています。日本でもよくあることです。



次の図は、上の図の1年前、1816年の地図ですが、これは、日本ではちょっと見たことがない画期的な図です。
平面図・配置図から、全体の立面図を起こしてあります。立面図は、この書の編集者によるものと思われます。

この1816年の立面図は、地区の「地籍図」から地番?などを取去って編者がつくった地図:平面図を基に作成したものだと思われます。たくさんの区画線は、多分、地籍の区分で、地形:等高線が基本になっているようです。[文言追加 24日 7.46]



日本でも、街並みの通りに沿った全建物の立面図を描いた例は見かけますが、地理的・地形的背景まで描きこんだ図は見たことがありません。
たとえば、妻籠宿などの場合、街道は地形と密接にかかわっているわけですから、このような背後の山、全面の斜面まで描きこんだ図をつくると、宿場がなぜその場所に栄えたかが、平面図以上に分ってくるのではないか、と思います。

そして次は1921年の様子。



この地図の等高線の間隔は20m。したがって、先の CHIAVE よりもさらに急勾配の地形にある集落です。そういう地形の中で、一画だけ、岬のように斜面が出っ張っていて、その出っ張りの上に住戸が集中しています。
そのため、建物は肩を寄り添うように、密集度が高くなっています。ここも、等高線に直交して細長い切妻建物が建つ。

しかし、なぜ、この一画に集中するのか、見当がつきません。何か特別な理由があるのだろうと思いますが、分らない。


最後に、地域図の ZOLDANO の一画と思われる COSTA という集落。標高は、1400m以上という高地の集落。
はじめに、1817年の地図2枚。1枚目は古図で、2枚目も古図ですが少し範囲が広く、それを基に全景立面が描かれています。





COSTA の比較的最近、1985年の様子が次の図です。



ここは、勾配は急な地形ではありますが、斜面の幅が広い:等高線が曲折なく長く続くので、等高線に沿って住戸が建てられるため、それほど高密度にはなっていません。

先回、ドロミテの住戸は等高線に直交して棟を構える、と書きました。そして今回の前二者も同じでした。
しかし、この集落の建物は、他の集落と異なり、棟が等高線にいわば平行して細長く、棟も平行しています。
これはおそらく、斜面の幅が広い:曲折なく等高線が長く続いているため、等高線に沿って幅広い建物を建てることができたことによるものと思われます。

要は、いずれの地区も、建物の構え方は地形に素直に順じている、ということです。
つまり、等高線に沿って広く長く建てられるところでは等高線に平行に、そうでないところでは、等高線に直交して長い建物をつくらざるを得ないのだ、と考えられます。


察するに、このほかにも各地の古図が残っているものと思われ、編者は、その中から、立地の異なる特徴的な三つの集落を取り上げたのではないでしょうか。

このような高地に居を構えるのは、牧畜のためか、とも考えられますが、普通の場所では、冬場は下に降りるのではないかと思います。しかし、ここでは、きわめて堅牢なつくりの建物が建つ。
その理由がよく分りません。

また、各住戸の大きさは、いずれの集落の例もきわめて大きく、それが1家族なのか、それとも数家族で住んでいるのか、もう少し詳しく読んで(眺めて)みないと分りません。

分らない所だらけで、分るのかどうか、はなはだ心許ないのですが、続きはただいま苦闘中です。

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ちょっと休憩・・・・「工」か「構」か

2010-04-19 10:23:41 | 「学」「科学」「研究」のありかた

ボケのキメラです。天然ものもあるようですが、接木でつくるらしい。

「建物づくりの原点を観る」は図版編集工事中で一休み********************************************************************************************
[解説追記 22日 9.11]

「・・・工学屋・土質屋さんは、時間的背景を気にしない、発達史的背景を考えず、いまそこにあるままに解析してしまうから、数値だけがひとりあるきしやすい・・・」
私がよく寄る下河敏彦氏のブログに、的を突いた話が書かれていました。

http://blog.goo.ne.jp/geo1024

昨18日、「伝統を語るまえに」という題目で、「伝統木構造の会」の講習会で話をさせていただきました。第一回です。そこでは、「木構造」については、まったくと言ってよいほど、何も話しませんでした。

思ったことがうまく伝えられるように話せたかどうか、いささか不安ではありますが、要は、なぜ今のような状況に(建築の世界も含めて)なってしまったのか、早い話、伝統、伝統と叫ばなければならない世の中になってしまったのは何故か、という話。そしてその因は明治の近代化に始まっている、という例によって例の如きなかみです。

簡単に言えば、(木造)「工法」と言う言い方を(木造)「構法」と言い換える、まさにそれを言い換える「思考」にある、ということです。
現在、世界の中で「表意文字」を使っている唯一の地域になってしまったと言ってよい日本で、「工」を「構」に言い換えるというのは、思考の「幅」と「奥行」が極端に狭くなった、というより、自ら進んで「狭めようとしている」証拠だからです。そこに、まさに、明治新政府が推奨した「一科一学」の《精神》が具現化しているのです。

   註 元来、「工法」という言い方があたりまえであったものを、比較的最近になって、
      「構法」に書き換えるようになったのです。
      「土木」の呼称を変えるかどうか、というつまらない議論?があった頃だったと思います。    
      変更する「理由」が何であったのか、何か「工法」では不都合があったのか、
      不明です。
      そして今は、「構法」を使う人が増えました。[解説追記 22日 9.11]

「工」の字義を、白川静氏の「字統」(平凡社)から、抜粋します。
  「工」は工具の形(象形文字)。  
  人が規(矩と同じ)をもつ形で・・・。工具としての工は、規の形というよりも、鍛冶(たんや)の台の形ともみえ、
  器物の制作のことをいう字のようである。
  ただその古い用義法はかなり多端であって一義をもって律しがたいところがある。
  たとえば・・・「工祝告る(いのる)ことを致す」「ああ臣工 璽(なんぢ)の公に在るを敬め(つつしめ)」と(いう文に)ある
  「工祝」は「はふり」、「臣工」は神事につかえるもので、いずれも工の義に近い。
  また、「厥(そ)の工を広成す」は高位にあってその治績を成就することをいう。・・・・
  宗工・百宗工といわれるものを、高官の列位として並べていることと対応する。
  軍事行動も戎工(じゅうこう)と呼ばれ・・・・。
  工作・工事を意味することもあって、「工を成周に立つ。・・・工を尹(いん:長官)に献ず。咸く(ことごとく)工を献ず」
  というのは、成周における儀礼の執行にあたって、その式場の設営を完成し、引き渡したことをいう。
  すなわち工には、工祝の儀礼のことから政治や軍事、また土木造営のことにまで及び、いわゆる百工とは、
  その全般を総称する語であろう。
  百工は・・・・官廟や特定の機関に属しており、起原的には職能的品部として使役されていたものである。
  百工はのち百官の義となり・・・・。
  のち殆ど工作・工芸、また巧工などの意に用いられる。
  [周礼(しゅうらい)]において、器物の制作や造営に関する諸職のことを記す部分を、「考工記」という。
  古代技術史研究の重要な資料である。

では「構」はどういう字義か。おなじく「字統」から引用します。
  「構」は、形声文字。木偏に「冓(こう)」を付け、「こう」と読む。
  「冓」は組紐をつなぐ形で、結合を象徴する字である。・・・
  木を組み合せることを「構」といい、構架・構成・構図・構想・構造のように用いる。・・・

つまり、「工」には、何か事を為すにあたって必要な事柄をすべて含めて検討する意味が含まれるのに対して、「構」は、木を組み合せることだけに限定される意なのです。
その意味では、「構法」はきわめて「一科一学」的、近・現代的用法ではあります。

「一科一学」的思考とは、別の言い方をすれば、5W1Hという疑問詞のうち、what と how しか使わない考え方だ、ということ。
あとの when where who why は視界にないのです。そしてさらに、A か B か、白か黒か、二者択一的 which が隆盛をきわめる・・・。
つまり、今、(建築)工学の世界では、what which と how だけが幅をきかし、それで事を進めようとしている、ということ。

このように視界が狭くなった、ということは、現代人は、かつての人びとよりも、考えることが少なくなった、ということに他なりません。いったい、ヒマになった分をどこに使っているのか、それとも休眠しているのか・・・。
工学系の人びとは、きっと、数値化に励んでいるのでしょう。しかし、それだって、数値化できないものを棄てるわけですから、楽であることは変りない・・・。

かつて、人びとは、数字よりも何よりも、目の前にする「現実」を必死になって考えた。それこそ、脳のすべてを駆使して考えた。どっちが凄いことか、自ずと分る筈です。

というわけで、昨日の話は、建物づくりとは何なのか、集まって住む、定住するとはどういうことか、街はどうして育つのか、あるいはまた、「下野」と書いて、なぜ「しもつけ」と読むのか、・・・といった類で、「最先端を行くのをよしとする方がた」にとっては「役立たずの」睡眠導入剤のような話だったのかもしれないな、と少しばかり思っています。
そしてだから、冒頭に引用させていただいた文言が、私の目に引っ掛かったのでした。

   註 参加者の名誉のために
      全員がそうだった、というのではありません。
      そういう方が少し居られたのではないか、と思えたということです。
コメント (3)
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建物づくりの原点を観る-2

2010-04-16 18:21:05 | 居住環境
[文言追加 17日10.20]
先回ドロミテ地域の地図を載せましたが、その内のいくつかの地区について、1844~45年の統計調査に基づく人口分布(住居分布)の地図が掲載されています。
文字をつくり直してスキャンしたのが下図です。



図の縦線の書かれている箇所は樹林帯、白地の部分は草地、つまり可耕地で、地区ごとに、ある標高で分かれているようです。もちろん、放牧も行なわれます。
たとえば、SAPPADA では、標高1400m以下の谷川沿いの一帯が可耕地、ということです。
各地図の黒のドットは、その大きさで戸数を表しています。凡例は最下段の LIVINALLONGO の地図に載せてあります。 LIVINALLONGO 地区は、最も標高の高い一帯です。

下段左側の表は、標高別の人口分布を表したもの。
1844~45年といいますから、日本では江戸時代末になります。
日本でも町村誌などに、戸数や人口は出てはいますが、地図まで描いてあるのは少ないのではないでしょうか。
あるいは、「古記録」から、この書の著者・研究者が、復元したのかもしれません。

先回の地域全体の地図の中の四角で区画してある地区が、上掲の地区ですので、その地図を再掲します。



この書には、各標高にある集落の遠景写真が載っていますが、その中から、上の地図にある地区の例を転載します。
先ず、次の写真は、SAPPADA の遠景。上が春先、下が真冬。同じアングルです。
全体地図では、地区の東北の一画、標高1300~1350mあたりの集落です。日本で言えば、八ヶ岳南麓(原村あたり)に相当する標高。[文言追加 17日10.20]



そして次は、集落区画図の中では最も高い標高:1700m:LIVINALLONG の遠景。全体地図では西北に位置します。
上が秋(あるいは春の初め)、下が真冬。秋の写真の中央にある住居群をクローズアップで撮ったのが下の写真。



雪がうっすらと積っ写真では、道がどんな具合に通っているか、よく分ります。[文言追加 17日10.20]

上の全体地図や区画図に載っていない集落の写真も多数ありますが、今回はこの2地区だけにします。

この写真を観て、今の日本人は、どの建物も皆同じ形をしていて個性がない、と思う人が多いのではないかと思います。とりわけ「建築家」は・・・。
もちろんそうではありません。今の日本人の多く、そして「建築家」の多くは、「個性」について勘違いをしているにすぎないのです。

なぜ、皆同じような形体になるか。
それは、ここに暮す人びとの、その地の「捉えかた」が同じだからです。
その地に暮すには、当然ながら、その地域特有の「環境」に対応しなければなりません。その「環境」の捉えかたに、相互に違いがあるわけがないのです。
私はフラットな屋根が好きだからといって陸屋根をつくれば、一冬もたないでしょう。そういう「好き」は個性ではないのです。
しかし、日本では、そして「建築家」には、こういう「個性」の捉えかたをする人が多すぎるのです。
   註 「個性」、「十人十色」とは何か、下記で若干触れています。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ca8d0d32d8257caa77e34e53f37acf60

私が “Non-Pedigreed Architecture” つまり「名もなき建築」が性に合うのは、つくる人の勝手な《個性》:思い込みの表出がなく、地域特有の「環境」に素直に対応して住まいをつくることに徹しているからです。それが、その地に暮すにあたっては、あたりまえのことだからなのです。
その人たちの個性は、そこでの「暮しかた」のなかに自ずと表れるのであって、建物の形に直ちに表れるものではないのです。
このことをして、先回は「衒いのない」と言い方をしました。[文言追加 17日10.20]

これらの写真を観て私が興味を覚えたのは、どちらの例も、斜面に(つまり等高線に)直交する方向に棟を構えていることです。つまり、切妻屋根が、斜面に飛び出す形です。

日本の場合、一般に、等高線に平行に棟を構えるのが多いように感じています。私の感じでは、その方が斜面に安定して納まるように思えるのです。そして、その方が、斜面を吹き上がり、吹き下がる風に対しても、好ましい・・・・、そう思えるのです。
かと言って、この写真の例が、斜面に納まっていないわけではなく、見事に納まっています。
この違いが何なのか、いろいろと考えて見たい、と思います。
地域の「環境」のせいなのか、建物の大きさ:容量が大きいからか(日本では、こういう地区で3階建ては見かけません。多くは平屋、あっても2階)、あるいは背後に聳える雄大な風景がそうさせるのか・・・・。
   註 筑波山の斜面に体育館を建てるときにも、斜面に直交して棟を構えることには
      躊躇した覚えがあります。

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建物づくりの原点を観る-1

2010-04-12 19:48:24 | 居住環境
18日の講習会の資料編集と、今回紹介図書のドイツ語に難儀をしております。ゆえに、大分間遠くなってしまいました。        ******************************************************************************************
[註釈追加 13日3.38]
だいぶ昔のことですが、Architecture Without Architects という書が出版されています。
副題は A Short Introduction to Non-Pedigreed Architecture つまり、「血統書なしのArchitecture」、言うなれば、「名もなき建築たち」。
著者は Bernard Rudofsky。当初は The Museum of Modern Art,New York からの刊行。
1964年11月~1965年2月に、著者の企画のもとに同美術館で開かれた展覧会の図録のようです。

私には、こういう建物が、性に合います。一言で言えば、「衒い(てらい)」がないからです。
そして、ある時代、たとえば、先に紹介した「清新で溌剌とした仕事をした人たち」、鉄やコンクリートが使われだした当初、それを用いて構築物をつくった Engineer たちの仕事にもまた「衒い」がありません。本当の意味で「用」を考える、ただそれだけ考える、それゆえに「衒い」がないのだと思います。
   「衒う」:すぐれた知識・才能が有るかのように自己宣伝する。ex 奇を衒う。

Bernard Rudofsky が、こういう企画の展覧会を行なったのは、おそらく、当時の Architecture、そして Architects に、違和感を感じていたからなのではないか、と思います。

それはさておき、そんな「衒いのない」建物を、少し紹介させていただきます。
行ったことはありませんが、イタリア北部、オーストリアとの国境に近いアルプス山麓:ドロミテ地域の住居群です。ドロミテ渓谷への斜面に展開しています。冬季オリンピックが開催されたことのあるコルティナ ダンペッツォという町(標高1200mほど)のある一帯です。

出典は ALTE BAUERNHAUSER IN DEN DOLOMITEN(CALLWEY 刊)。イタリアの建物ですが、ドイツの出版、ゆえに全編ドイツ語!!
単なる観光案内的な紹介ではなく、調査研究報告書的な内容です。

先ず、ドロミテ地域は、どのあたりの、どういうところか。

前にも触れたと思いますが、西欧のこの類の書物の、日本のそれと大きく違う点は、かならず、その点について一項設けることです。
つまり、イタリアならイタリアのどのあたりで、どんなところで、・・・という具合に説明されます。
しかし、日本の、例えば「日本建築史基礎資料集成」では、掲載される建物の所在地こそ示してはあるものの、それがどんなところであるかはもちろん、建物の配置図さえ示さず、いきなり建物の平面図・・・になっています。伊勢神宮の内宮が、どんな所に、どんな向きで建っているのか、どのような参道になっているのか・・・などは、別途資料を探すことになるのです。「建築史の基礎資料」としては、そんなものは不要、という背後の思想が読めるような気がします。つまりそれは、端的に、日本の建築に対する観方、考え方を示しているものと私は思っています。

下図は、この地域を撮った衛星写真と同地域の概要図です。
なお、地図の原図は、文字が小さいので、スキャンに耐えられません。そのため、新たにつくり、貼り直してあります。以下、他の地図も同じ作業をしてあります。[註釈追加 13日3.38]



概要図のなかに四角の枠がありますが、その枠内の地域にある町を人口別に表記したのが下図。



凡例を分るところだけ日本語にすると、次の通りです。
1.人口1000以上の村、2.人口600~1000、3.人口300~600、4.人口150~300、5.人口50~150、6.散村、7.歴史上の中心地、8.イタリア語らしく不明、ことによると、「伝統的建造物群保存地区」的な意味か?どなたかご教示を、9.この地域の中心都市

この書物は、ヨーロッパの人の編集。ゆえに、イタリア全図は載っていません。皆、よく知っているからでしょう。そこで、別の地図帳から、イタリア全図を載せます。その上の方、青で丸く囲んだあたりがドロミテ地域です。



さて、同書はこの一帯の村・町を、歴史的に、また地形との関係で、きわめて厳密に観察をしてゆきます。
それぞれの箇所で、詳しく解説されている(らしい)のですが、なにせドイツ語、弱っております。
そこで、とりあえずは、どんな村や町の風景が広がっているのか、視覚的に紹介することにします。



この集落は、コルティナ ダンペッツォ盆地にあり、一つは標高1310~1340m、その下の標高1268~1294mにある集落の遠景。背後は3225mの Tofana di Rozes。1958年の撮影。

同じ集落を約30年後の1987年に、同じ角度で撮ったのが次の写真。
とにかく息が長い!日本だったら、30年も経てば、忘れてしまうのでは・・・。

よく見ると、下の集落の手前に、この30年の間に、一軒新たに建っています。建て方は、既存の家々と変っていないようです。



このように、一帯の集落を、歴史的に追いかけ、集落立地について詳細に報告しているのが、この書物なのです。
この写真の集落についてはありませんが、資料のあるところでは、1800年代の地図なども引き合いに出し、その変遷を詳細に追っています。
そして、そのような概観的な視点から、最後は構築方法にまで報告は至っているのです。これは並みの編集ではない、と、あらためて驚いています。

今回はここまでにします。ドイツ語と格闘しながら、次回の編集をいたします。
それゆえ、少しばかり時間をいただきます!

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ただいま、工事中です!予告編!

2010-04-10 15:27:51 | 居住環境

「衒いのない」建物を、少し紹介させていただきます。
行ったことはありませんが、イタリア北部、オーストリアとの国境に近いアルプス山麓:ドロミテ地域の住居群です。コルティナ ダンペッツォという町のある一帯です。
ただいま、図版編集中です。原図の字が小さいので、大きくするのに手間取っています。
上は、その一つの集落です。
同時に、4月18日の講習会の資料編集もしているため、ますます工事も遅れがち・・・。

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危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか?

2010-04-05 17:58:06 | 居住環境
[註記追加 6日12.20][文言追加 6日12.29][文言追加 6日12.34][註記追加 6日12.43]
東京の東部、隅田川の縁に、「両国」という地区があります。国技館のある所です。そして、その一画が、「蔵前(くらまえ)」という地名。蔵前の国技館、などとも言われる所以です。
「両国」とは、「総の国」と「武蔵の国」、その境にあるところからの名。そして、「蔵前」とは一帯に、徳川政権にとってきわめて重要な米の備蓄倉庫群:「蔵」が立ち並んでいたことからの名称。

下図は、明治30年頃の隅田川周辺の地図(「地図に見る東京の変遷」所載、陸地測量部:現在の国土地理院の前身:作成の地図から)です。

元図は1/2万なのですが、なるべく広い範囲を入れたいために縮小してあります。ゆえに字は読めなくなっています。ご了承ください(要所には、名称を貼り付けました)。



地図の上の方、「厩橋(うまやばし)」の左、隅田川の西岸に「浅草米庫」とあるのがその「蔵」。8棟あったようです。それぞれに船着場が付いている。
幕府直轄の施設が、明治30年代にはまだ残っていたのです。
字が小さくて読めませんが、南の端の「蔵」は、この地図の編まれたころ、「浅草文庫」という今で言う「文書館」に転用されています。「米庫」の用はなくなったからです。

   註 先回、「上野」「新橋」「飯田町」のほかに、明治の東京には、
      もう一つ「玄関」があったことを書き忘れました。
      それは「両国(橋)」です。
      もっとも、「両国」が玄関になる前は、一つ東の「本所」がターミナルでした(上の地図参照)。
      「総(ふさ)」の国(「下総」と「上総」)への「総武鉄道」の駅です。
      「下総(しもつふさ⇒しもうさ)」は今の千葉県北部から茨城県西南部一帯、
      「上総(かみつふさ⇒かずさ)」は、千葉県の中央部、
      そして「安房」は、半島部。

そして両国からは、三井越後屋:三越のある、というよりは重要な商取引の街「日本橋」も目と鼻の先です。

また、王子製紙、十条製紙、カネボウ、あるいは石川島(播磨)重工、という名の会社があるのは知らない人はないと思います。
カネボウとは、「鐘淵(かねがふち)紡績」の略。
この「王子」「十条」「鐘淵」「石川島}は、どれも地名。
「鐘淵」は、隅田川を両国あたりから少し遡った東岸に、「王子」「十条」は更に遡って「荒川」に入ったあたりにあります(いずれも先の地図からは外れています)。
そして、「石川島」は、隅田川河口に浮かぶ島の名。上の地図には「造船所」と記されていますが(地図を縮小してあるので読めませんが!)、それが石川島(播磨)重工です(石川島重工と播磨重工が合併したため石川島播磨重工になっている)。

現在の東京に暮す人びとで、なぜ、両国に蔵が立ち並び、国技館があるのか、そして、なぜ商取引の中心が、その一帯にあるのか、なぜ、そういう所に、これらの工場があったのか、その理由を知る人は、少なくなっているのかもしれません。

次の地図は、「図集 日本都市史」(東京大学出版会 1993年初版)に載っている「寛文」年間(1660年代)の江戸の街。明暦の大火(1657年)後、江戸の街域が拡大した頃の推定地図です。



同書の解説によると、明暦の大火後、武家屋敷や寺社を江戸の郊外に移転(それまで、武家屋敷は外堀の内側にあった)、溜池の埋立て、築地の造成、本所・深川の低湿地の開発、火除地など防火帯の設置など、大規模な都市改造が行なわれたと言います。この図は、改造後の江戸の街と考えてよいと思います。

つまるところ、明治年間の地図に見られる街は、江戸の街を引継ぎ、そこに新たなものが加わった姿だということができます。
そらはすなわち、明治になっても、街を街たらしめる要件・条件は、江戸の頃と変りがなかったことを示しています。

では、徳川政権は、なぜ江戸を「中心」地として選んだのでしょうか。
次の図は、江戸より以前の中世末期の江戸のあたりの地形図です。
これもあくまでも推定図で、「図集 日本都市史」からの転載です。



中世末、江戸のあたりには、かつての武蔵の国の豪族「江戸氏」の「江戸館」、「太田道灌」の「江戸城」の建設(1457年)、そして「浅草寺(せんそうじ)」の存在などが知られているだけだそうです。
それゆえ、この図は、地図による地形復元、地質データ、考古学的な資料を基に推定された、とのことです(同書)。
要するに、徳川家康が根拠地に定める以前、江戸一帯はいわば沼沢地、わずかに居城が沼沢地に飛び出した微高地の先端にあったことになります。

一帯が沼沢地であったことは、さらに遡って、一帯の古代の様子を知るとはっきりします。それが下の地図です。
この地図は、小出博著「利根川と淀川」(中公新書 1975年初版、絶版のようです)からの転載で、その書では「1000年前の利根川」となっています。



これを見て分ることは、東京湾には、「思川(おもいがわ)」(今の栃木市のあたりから流れ来る川)以西の「渡良瀬川(わたらせがわ)」この二つが合流後の「太日川」、そして「利根川」「荒川」「入間川」といった河川がすべて東京湾にそそいでいたことが分ります。また、これらの以東にも多くの河川があり、そのすべては、「牛久沼」「手賀沼」そして「霞ヶ浦」を経て銚子に出ています。

   註 東京湾にそそぐ河川群と、銚子に向う河川群との間に、それを隔てる微高地があったのです。
      現在、「利根川」は銚子に向いますが、それは徳川幕府により流路が変えられたからです。
      分水嶺になっていた微高地を掘削して流れを変えたのです。
      「利根川と淀川」には、その「目的」について詳しく書かれています。[註記追加 6日12.20]

つまり、関東平野の平らな部分は川だらけ、低湿地だったということです。
そのため、古代においては、この低湿地を横断する陸路はなく、「畿内」から「常陸」の国府へ向う「官道」は、今の三浦半島~東京湾~房総半島へと陸路と海上とを交互に使いたどりつき、そこから今の霞ヶ浦を経て至っているのです(「東海道」)。
   註 地名の「上」と「下」は、「畿内」に近い方が「上」、遠い方が「下」になります。
      「総」の国の、東京:江戸に近い方を「下総」と呼ぶのは、
      古代の道での「畿内」からの遠近:「上」=近い、「下」=遠い、を継承しているのです。
     
「江戸氏」や「太田道灌」が、なぜこの地に「居城」を構えてのかは分りませんが、海に面した位置にあることから想像すると、他の豪族たちが農地を掌握することに努めたのに対して、海上の道を掌握しようという意図があったのかもしれません。

しかし、このどうしようもない地域を、徳川家康が拠点にしようと考えたのには、きわめて壮大な計画があったようです。
それは、関東平野の産物を(主に米をはじめとする農産物ですが)一手に押さえれば、多くの家臣を養うことができる、という発想です。
安土・桃山の頃から、各領主は、城下町の造成に意をそそぎます。家臣を居城のまわりに集め、商工も一帯のなかで営むようにするのです。
そのとき、「食」の問題が最大課題。
その「食」は、関東平野さえ押さえれば大丈夫、しかし、「食」を居城:城下町への運送をどうするか。
それが「水運」だったのです。一大動脈として河川をとらえたわけです。
前にも書きましたが(下記)、水運、舟運の終着駅として、河川があつまる東京湾口は絶好の地だった、というわけです。

   「関東平野開拓の歴史-1」
   「関東平野開拓の歴史-2」

徳川家は、元をただせば関東の出(群馬県太田市世良田あたり)。農業にも通じ、尾張などでの見聞で、城下をどうまとめるのがよいか、多くの「知見」を得ていた、それが、どうしようもない東京湾口に潜む「地の利」を読ませたのだ、と思います。


ところで家康は、全国統御のために、各地の藩主に「江戸屋敷」を構えさせます。では、そういう「屋敷」は、さきの低湿地に構えられたのでしょうか。
それを示したのが次の地図です(「図集 日本都市史」より転載)。



つまり、各藩の「屋敷」の大半は、低湿地ではなく、いわゆる山の手に構えられたのです。
要するに、こういうことになります。
物資の搬送をともなう商工は舟運の便のよい低湿地一帯に、武士たちは山の手に、そして農民たちは城下の外、こういういわば棲み分けがおこなわれていたのです。

商工の人たちの暮す地域は、それを成り立たせる要件、すなわち物資の搬入・搬出の便のよいこと、をもって選択されたのです。当然、水害や地震による被災などのリスクは承知の上のこと。[この部分、文言追加 6日12.29]

そして、商工の街の賑わいへ向けて、遊興の場として、近くに国技館や劇場などが、下町の一画につくられたのです。

これらのことは、街:都市がどうのようにして成り立つものか、幕府の要人たちは知り抜いていた、ということにほかなりません。[この部分、文言追加 6日12.29]

明治になっても、当初は舟運が運送の主体でした。鉄道が発達してきても、なかなかその傾向には終止符は打たれません。
工業や商業は、そういった物資の搬送の便のよい一帯に張り付き、さらに発展したのです。
そして、鉄道もまた、この一帯に貨物線の網を張ります、舟運と鉄道の共栄、それは、第二次大戦後も同じ、隅田川東岸には、大きな工場が立ち並んでいました。木場が深川にあるのもまったく同じ。とにかく一帯は流通の要であったのです。

しかし、昭和30年代:1950年代後半以降、トラック輸送が舟運や鉄道にとって代ります。
そうなると、工場の立地条件に大きな変化が生じます。舟運や鉄道とではなく、道路が立地条件の最大要件になってきます。
工場群は、徐々にこの地域から撤退し、自動車運送に便のよい地域に移転しだします。高速道路の開通は、工場立地要件を一変させます。[文言追加 6日12.34]

今、東京江東区一帯には、中高層集合住宅が増えていますが、それは、大体、工場群が撤退した跡地に建っています。

そしてこれが大事な点なのですが、
低湿地にもかかわらず一帯に工場群や、それにともなう商業の街がが張り付くには、通運という理由があったのに対し、
そこに住宅群が張り付く理由はまったくない、ということです。
あえて言えば、空き地があった、それだけが理由。住宅地として好ましい基本的な要件はそこにはない。
   註 そう考えるのは私だけかもしれません。
      住居の立地要件には、必要条件とともに十分条件がある、と私は考えます。
      空き地があるから建てられる、というものではない、ということです。
      なぜ「空き地即住居」という発想になるか、それは、「利」だけが念頭にあるからだ、
      そう私は思っています。
      好ましい住環境とは何か、住む・暮すとはどういうことか、それを根本的に考えず、
      植樹でもすればいい、ぐらいしか頭に浮かばないからだと思います。[註記追加 6日12.43]

江戸の街の、商工は下町に、その主である武士は山の手に、農民は郊外に・・・という「棲み分け」にはしっかりした「理由」があった、ということを再認識する必要がある、と私は思います。

こういった「経緯」を知ると、近現代の東京は、単に江戸の街の形骸を引継いだに過ぎず、独自の論理、新たな「理由」の下で構築された、という気配はまったくうかがえないのです。
あえて探せば、今の東京の姿を作っている「論理」は、「理」ではなく「利」でしかない、と言えるのではないでしょうか。
そしてそれが、先回紹介したロンドンとの大きな違いを生んだ理由でもある、と私は考えています。

常磐道を北に走ると、「日立南・大田」インターの近くに、ベンツの国内輸入拠点があります。近くの日立港に陸揚げされた輸入車を日本市場に送り出すための試験検査調整工場です。
この立地選択を、私はきわめて「合理的な判断」だと感心しています。(現代の)日本人はこういう判断ができるのだろうか?と訝るからです。[括弧内、文言追加 6日12.43]

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のほうずな街

2010-04-01 11:31:35 | 居住環境
[語句追加 3日 11.59]
先回、「危ない場所の真ん中で、安全を叫ぶ」話について触れました。
そんな話が頭にあると、不思議に、それに関係する書物などが目に入って来るものです。

そのとき、実は、最近の(日本の)人はどうして斜面に暮すのを嫌うのだろう、と思って、それに関係する資料を探していたのですが、目に飛び込んできたのは「地図で見る東京の変遷」という日本地図センターから出ている明治から現在までの4時期の地図を集成したもの。「現在」と言っても、それは「昭和62年」頃の地図が最新。

国土地理院が毎年「地図展」を開いていますが、これは1990年度のときの記念出版。
ここには、明治30年頃、大正10年頃、昭和30年頃、そして昭和62年頃の、東京周辺の4枚の1/5万の地図(東京東北部、東南部、西北部、西南部)が、年代別に編集されています(ただ、明治期の地図は縮尺1/2万)。したがって、各時代ごとに、とてつもなく大きい版型の地図になっています。

同じ縮尺に揃え、中央線のあたりにしぼり編集し直したのが下の図です。



なるべく広い範囲を、と思って作成したため、細部が見えないと思いますが、ざっとの感じで、この約1世紀で、どんな具合に変ってきたかは分るのではないか、と思っています。
なお、棒尺は、全長が5kmで、各地図共通です。

概略を説明しますと、
明治30年代、山手線に相当する鉄道はありますが、環状にはなっていません。
当時、上野、新橋、そして飯田橋(飯田町)が、東京から出る鉄道の起点として考えられていました。西欧の都市に学んだのだと思われます。
そして、この駅の近くの、現在の山手線よりもひとまわり中に入ったあたりまでが主な市街地でした。
言うならば、明治の作家の描いた東京は、このあたり。国木田独歩の武蔵野は、たしか今の新宿あたりのはずです。

大正年間になると、山手線も完成し、鉄道の結節点周辺の市街化が目立ちます。掲載の地図で言うと新宿あたりです。
新宿から2本の黒っぽい線が西へ向ってV字形に広がっていますが、北側が青梅街道、南は甲州街道です。それに沿って、市街化が進んでいるのです。
この二つの街道筋には、当時から鉄道がありました(と記憶しています、調べてみます)。青梅街道では新宿から荻窪まで私営の路面電車が(後に東京都営)戦後まで走ってました。
甲州街道に沿っては京王線。京王線も、新宿近くでは路面電車で、山手線を越えて、今の新宿三越の裏あたりが終点。[語句追加 3日 11.59]

昭和30年代、戦後10年ほど経った頃。鉄道沿線の市街化が際立つ程度で、まだ田園が多く残っています。
この頃私は高校~大学生。私の通った高校の隣りは畑。春先の黄塵に悩まされたものです。しかし、今は高校は住宅や集合住宅群の中に埋没しています。
当時は、土地は簡単に手が入りましたが、建築費が高く、なかなか建物は造れない時代。住宅金融公庫は、そのために誕生した機関。
青梅街道の路面電車は、ある時期廃止され、しばらくして、その代行として地下鉄丸の内線の支線、荻窪線が開通します。
新宿西口は、まだ茫洋として原っぱ同然(多摩川上水からの水を受ける淀橋浄水場があったのです:今のビル街)。
京王線は、西口終点に変っていましたが、まだ地上駅。国電(当時はこう呼んでいます)までは、地上をしばらく歩きました。私の学生の頃です。京王線には、吹きさらしのデッキのついた電車も走っていたのでは・・。

それから30年・・・、僅かに30年、昭和60年代にはすでに地図にはメリハリがなくなっているのが分ると思います。この変り身の速さはすごい。

こうなってしまうと、地図を見る楽しみなどなくなってしまいます。
そして、こういうメリハリがなくなり、「当て山」に相当する風景がなくなってしまったから、ランドマークなどという語が流行り、そしてまたカーナヴィゲーションシステムが売れ出したのではないでしょうか。

   余談ですが、カーナビは、「当て山」のたくさんある地域でも売れていますから、
   そのうち人は、自分の頭を使い、勘を働かせることができなくなるのでは、と思っています。
   つまり、すべての面で「(誰かの)指図待ち人間」化・・・・。

この変遷を見ていると、もしも西~北側の関東山地がなかったならば、のほうずにさらにさらに建物で埋まってゆくのだろうと思います。
なぜなら、それに対する「歯止め」は、一切ないからです。仮にあるとき「歯止め」のごときものがつくられても、しばらくすると「都合」で「改訂」される・・・・、この繰り返しできているからです。

   のほうず:「の方図」:ほうって置けば、どこまで脱線するか分らない様子(新明解国語辞典)

一方、下図は、最新の地図に載っている「ロンドン周辺」の地図です(帝国書院「基本地図帳」から)。以前に一度紹介したかもしれません。
東京との違いは歴然としています。



いったい、明治以来、西欧に学べ、見習え・・・、と言って、何を学んだのでしょうか、日本人は。

なお、同じ地図の昭和30年代、60年代を紹介しながら(もう少し広範囲)、同じようなことをかなり前に書いています。

   「日本に『都市計画』はあるのか?」
コメント (2)
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