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日本の建築技術の展開-17 の余談・・・・大徳寺のある場所

2007-04-30 11:52:16 | 日本の建築技術の展開

 大徳寺および関連寺院等の位置、および大徳寺の寺域の絵図を紹介。
 地図は「日本大地図帳」(平凡社)の「京都市街図」から、寺域図は「大徳寺」(淡交社)より転載。

 大徳寺の寺域を東西に貫く石畳の道があるが、散策するだけでも気持ちがよい。 寺域の西端を過ぎると、紫野高校がある。その高校の卒業生に、いいところにいたね、すぐに大徳寺を観に行けて・・、と言ったら、行ったことない、という。そういうものかもしれない。
 高校を通り過ぎて少し上り坂を上ると、孤篷庵がある。当初は准塔頭として、本坊寄りにある龍光院にあった。寺域図には載っていない。

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日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2:大仙院

2007-04-29 23:59:27 | 日本の建築技術の展開

[図、写真の出典追記]

 西芳寺をモデルにした建物には、「鹿苑寺」のほかに、足利義政の東山殿がある。銀閣のある「慈照寺」である。「慈照寺・東求堂」内の「同仁斎」は初期の「書院」として有名だが、「東求堂」は、ほぼ同じ頃独自に発展していた禅宗寺院の「塔頭(たっちゅう)」の「方丈」建築と関係があるようだ。

  註 「塔頭」と「方丈」
    「塔頭」:禅宗寺院で、高僧の没後、弟子が師の徳ををしのび
          塔の頭(ほとり)で営む房舎の総称
    「方丈」:住持の居所を言う
    2月24日に尺度の話で例に出した東福寺・竜吟庵方丈が、現在最古。
    なお、その記事で、1387年造立と記しているが、これは
    塔頭・竜吟庵の造立時期で、方丈は1428年(応永35年)前後の
    建築と思われる。誤解を生む記述だったので、ここで追記。
    また、この建物は、「方丈」ではなく「塔頭客殿」と呼ぶことも
    ある。

 「方丈」として竜吟庵に次いで古い建物は、京都の北西、鹿苑寺の東、大文字山の近くの「大徳寺」寺域にある塔頭「大仙院」の本堂・方丈で、1513年(永正10年)頃の創立。「竜吟庵」との間にはおよそ80年強の空白がある。

 「大徳寺」には塔頭が数多くあり、いわゆる「書院造」を観るには最高の場所。
 「大仙院」はその一つで、枯山水の庭で知られている。

 上掲の図は、「大仙院」の配置図と方丈の平面図。
 「大仙院」は「大徳寺本坊」のすぐ裏手に、塔頭「真珠庵」と並んである。
 写真は「方丈」の玄関から望んだ「方丈」南面の広縁と、「方丈」東北隅にある大書院(と言っても六畳大)越しに東庭:枯山水を見たもの。

  註 配置図は、重森三玲「実測図・日本の名園」
    平面図と写真は、「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」
    より転載。

 普通、「大仙院」は、禅宗の思想を背景に、枯山水を主題につくられた建物のように説明されるが、そうではないだろう。
 配置図でも分るように、「大仙院」は、方丈を中心に据え、その東側と背後:北側に、住持の日常生活の場である「庫裏」「書院」を分棟型で建て、相互を渡廊下でつないだ構成となっている。
 「方丈」南面の庭は当初から庭として考えていたと思われるが、現在枯山水に作庭されている場所は、多分当初は建物間のいわば「隙間」にすぎなかったのではなかろうか。
 なぜなら、この時代には、このような分棟型の建物配置が、まだ普通だったからである。3月17日に紹介の寝殿造:「東山三條殿」の配置の延長上にある言ってよい。

 「方丈」、あるいは「庫裏」から背後にある「書院」へ行くには、「方丈」東側の「隙間」に面した「縁側」をたどり、左に折れて「渡廊下」を渡ることになる。この過程を繰り返すうちに、この「隙間」を、個々バラバラの空間としてではなく、「方丈」南面の庭から続く連続した空間として捉え、それを水の流れに見立てる発想、南面の広い場所から上流へ遡る発想が生まれた、と考えるのが自然である。そうすることで、個々バラバラないわば《無意味な隙間》に過ぎなかった空間が、一挙に「意味ある空間」へ変るからである。もちろん、その見立ては、禅宗思想が影響しているのは確かである。

 このような考えに基づく建物づくりは、やはりこの時代に生まれた「茶室」およびその「露地」にも見ることができる。

 寝殿造では、「隙間」に「〇〇坪」のような名前が付けられていたようだが、このように「隙間」を「連続した空間」として捉える発想にまでは至っていなかったのではないだろうか。

  註 大仙院と同じ時代の建物で、寝殿造風な分棟型の例に、
    醍醐寺の三宝院がある。
    いくつもの「隙間」が生まれ、化粧はされているが、
    大仙院のような「見立て」にまでは至っていない。

 このような発想の発生は、空間認識の大きな進展と考えてよく、その後の日本の建物づくりにとって大きな変革の礎となったと考えられる。
 現に、時代がさらに下ると、大規模の建物をつくるにあたり、分棟型を離れ、当初からこのような空間認識の下で構想を練る方法が生まれてくる。
 「桂離宮」もその例であるが、私には「桂離宮」よりも優れていると思える塔頭が大徳寺境内にある。小堀遠州の作「孤篷庵」である。
コメント (3)
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日本の建築技術の展開-16 の補足・・・・西芳寺、そして禅宗の思想

2007-04-28 01:59:55 | 日本の建築技術の展開

[追記を追加、4.28:0.55PM]

 図は西芳寺:苔寺の配置図。建物などは創建当時とは異なるが、全体はほぼ変っていないと考えてよいのではないか。

 この実測を行ったのは、重森三玲(しげもり・みれい)。1896年(明治29年)岡山県生まれ。日本美術学校で日本画を学び、生花、茶道を研究(勅使河原蒼風らと新興生花を目指す)、後に造園を学び、作庭家として立つ。
 各時代の庭園を各地で実測し、「日本庭園史図鑑」全26巻、「実測図・日本の名園」「日本庭園史大系」全33巻等を編著。いずれも貴重な資料である。1975年(昭和50年)没。

 上掲の図は、『実測図・日本の名園』所載の実測図で、1938年(昭和13年)の実測。原版はA1判大。池沼の水深はもとより、樹木の樹種まで記録されている。

  追記 図の左下にある横書きの読めない字が並んでいる部分は、
      苔の種類・名称が記されている。

 前回転載した鹿苑寺の実測図は、坂倉建築事務所の故・西澤文隆氏の建築家としての実測。この実測も貴重な財産である。


 先に、禅宗の考え方が、武士から支持された、と書いた。
 では、禅宗の考え方、とは何か?
 禅宗の思想を明示する言葉として、臨済宗の栄西の半世紀後の人物、道元(1200~1253、彼は一時栄西に師事し、曹洞宗の祖となる)の次の語りが最も分りやすいと私は思っている。

 「・・うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・」(「正法眼蔵」)

 これは、人は常に環境のなかに在り、「人をとりまく環境」と「人」、すなわち環境と主体とは分離することはできないものだ、環境あっての人である、用・要が大のときは環境を広く使い、小ならば小さい、そういうものだ。ゆえに環境と人とを別なものとして分離して考えてはならない。もしも分離して考えるならば、魚を水と関係ないものとして、鳥を空と関係ないものとして見ることになるが、そのようなことがあり得るか。ゆえに、一体のものとして見なければならないのだ。たしかに、言葉では、別々のように表現せざるを得ないが、そういう言葉による表現に惑わされてはならない・・・。
 これは、さらには、事象を細分化して観てはならない、と論じた一文であると考えてよく、また、「現象」とは何か、についても語っていると言ってよい。

 私は、この考え方、見方に全面的に賛同する。真実に接しているからである。
 とかく現代人は、人は人としてまわりとは関係なく存在し、そういう「人」と「環境」との関係を論じることが多いが(巷に聞く環境論や景観論は、先ずほとんどこれだ)、それは間違いだ、と中世の賢人はすでに論破していたことになる。
 
 このような禅宗の思想を、戦国の武士たちが、どこまで受け入れたのかは分らない。ただ、少なくとも、心の一隅で共感を覚えたことは確かだろう。城郭を築いたり、戦闘を交えたりする一方、茶の湯に興じ茶室を設けたりしているのは、多分、その現れではなかろうか。

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日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成へ・1

2007-04-27 13:30:33 | 日本の建築技術の展開

 先に、鹿苑寺・金閣について触れた。しかしそれは、工法の視点に限ってであった。
 たしかに、金閣の建設は、実用の多層建築の具現化として、工法面で高く評価できるのだが、同時に、金閣をつくるにあたっては、それまでとはまったく別の思考が基にあった、と考えることができる。

 それは、単に建物を見る、あるいは視る対象としてではなく、見ること、あるいは、そこに在ること、によって心のうちに生じる感懐、「心象」を重視したつくりかた、と言ってよい。
 現在金閣は、その華麗な建物を「眺める」ことが主になっているのだが、当然、つくった立場では、外から眺めるだけが目的ではなかったはずである。そうであるならば、何も二層、三層に床を張る必要もなく、古代同様の方式で十分だからである。

 上層を実用に供する建物は、すでに鎌倉時代末から南北朝(室町前期)に、禅宗寺院の建物に存在していたようで、実物はないが、図や絵として残されているという。
 また、「自然の一画を建物として囲いとる」つくり方・考え方、普通の言い方をすれば、いわゆる「庭」を考えながら「建物」を考える建て方も、「山水:自然の中において生きることを通じて人格を形成する」という禅宗の思想の影響が強いという。
 その典型として、いわばモデルとなったのが「西芳寺(通称「苔寺」)」。「西芳寺」は、後醍醐天皇と近く、後に足利尊氏が帰依した南北朝期の臨済宗の僧:疎石(そせき:夢窓国師)のかかわった寺。そして、足利義満は、「西芳寺」にならい鹿苑寺の前身、北山殿を営んだのである。

  註 西芳寺は、かつては修学旅行も訪れる「名所」だったが、
    苔の疲弊を避けるため、現在は拝観が許可制になっている。

 ややもすると武骨と思われる武士階級に禅宗思想がなじんだ、というのは不思議な気もするが、納得できるような気もする。

  註 建物に金箔を張る発想には、禅宗思想に共鳴する一方、
    権勢誇示欲も未だ捨て切れなかった義満の
    率直な気持ちのうちが垣間見えるように、私には思える。


 おそらく、空間にいて自ずと生じてくる心象を、空間造成、建物づくりの基幹とする考え方が芽生えてくるのは、室町前期:南北朝頃からで、私は、この時期が、単なる「視覚風景の造成」から脱して、「心象風景の造成」へと、建物づくりの意識が変る重要な転換期ではないか、と考えている。

 中世から近世にかけての建物づくりを、工法・技術だけではなく、このような視点も含めて触れてみたい。
 
  註 現在は、「心象風景造成」よりも、もっぱら「視覚風景造成」に
    夢中になっているように思える。
    だから、私には、「景観法」などというのは茶番に見える。

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日本の建築技術の展開-余談・・・・時代と工人たち

2007-04-25 20:57:06 | 日本の建築技術の展開
 時代の区分は難しい。

 1185年(文治1年)~1333年(元弘3年)、鎌倉を拠点とした鎌倉幕府が政権をにぎった時代、およそ150年間が通常「鎌倉時代」と呼ばれる。

 そして、1392年(明徳3年)~天正1年(1573年:足利氏が信長により倒された年)、足利氏が京都室町に幕府を開いていた時代の約180年間が「室町時代」。

 鎌倉幕府倒壊から室町幕府誕生の1392年までのおよそ60年間は、普通「南北朝時代」とも呼ばれるが、その間も「室町時代」の前期に含める見方もあり、また、足利幕府内のいわば内乱である「応仁の乱」(1467年~1477年)から足利氏滅亡(1573年)までを「戦国時代」と区分する場合もある。

 つまり誰が統治権・政権を握っていたか、で分けるのが通常の時代区分。だから、主が誰だと明言できないと、「南北朝・・」「戦国・・」などと言うことになる。
 
 別な見方をすれば、
 〇 古代は公家が専横の時代
 〇 鎌倉時代とは武家が力を持ち、独自の政権を東国に構え始めた時代、
   だから未だ、西の公家:朝廷と拮抗する
 〇 公家が力を盛り返し、武家が逆に公家に擦り寄るのが南北朝
 〇 公家に擦り寄り共存の形をとる、というより公家の名を借りて力を維持した
   のが室町時代
 〇 武家が完全に掌握するのが戦国以降
 ということになろうか。
 そして、戦国までが、大まかに「中世」、以後が「近世」。これも諸説あり。


 建築にかかわる工人たちは、中世の初めごろまで、つまり鎌倉時代ごろまでは、大きな寺院、領主の下で「座」を形成していたという。[文の訂正:4.26・1.35PM]

  註 座:商工業者などの同業組合。
    貴族・公家や社寺の保護を受け、仕事の独占権を持っていた。

 武家が勢力を増すとともに、工人たち、特に大工は、武家の下に再編され、特に築城にあたっては、各地、特に畿内の工人たちが集められた。その多くは、それまで寺院や公家の建物にかかわっていた工人たちである。そして、その中から、仕事を統括できる「棟梁」が現れる。

 公家・朝廷にもいわば朝廷御用の工人:「大工惣官」がいたから、武家側の「棟梁」との間には権力闘争も生じたこともあったらしいが、つまるところ、武家側、幕府の下に統制されることになる。
 中でも勢力を固めたのは、法隆寺大工の出で、後に徳川幕府の棟梁をつとめる中井正清の一統と言われる。そこには法隆寺・奈良周辺の大工が集められていたという。

  註 「大工」の原義は、
    「工」:「たくみ、ものづくりを専業とする人」たちの長官。
    したがって、「大工」は、元は、一国・一政府に一人。
    その後、「大工」は、特に木工に携わる職人の「通称」になった。
 
 もちろん、これは大きな工事にかかわる工人たちで、各地の村々には村人たちの建物にかかわる半農の職人たちがいたはずである。
 当然、ときには彼らも築城をはじめ、大工事には狩り出された。おそらく、そういった現場は、技術の交流の場、醸成の場でもあったろう。

 この時代以降、木工技術の大きな進展、道具の改良・開発、あるいは矩計の術(いわゆる「木割」)の案出などが見られるのも、このような社会状況が大きく影響していると考えてよいだろう。

 註 このあたりの詳細な展開は、下記の書が参考になる。
   専門的な事項が一般向けに分りやすく解説されている。
   上記解説も、この書に拠るところが多い。
   『日本の美術 №200 平井 聖 編 桃山建築』(至文堂)
   

 特に私が感じるのは、室町~戦国・安土桃山期の「自由闊達な技術の展開」である。それは、ここしばらく観てきた城郭の建築にもよく現われている(後に触れる方丈・書院・茶室も同様である)。
 こうでなければならない、とか、こうしなければならない、こうでなければ認めない、などという決めつけがないから闊達で、それゆえ進展を見るのである。

 工人たちが幕府の下に統制されたからと言って、技術の内容まで統制されたのではない。ここが、近・現代の日本との、つまり現在との、大きな相違点。

 注意したいのは、彼の時代、いわゆる現在のような「近代科学理論」はなかった、ということ。あったのは、「工人それぞれの現場経験と彼らの感性」。それを基にして、次から次へと進展を見たのである。


 私が今このようなシリーズを続けているのも、とかく「近代科学理論」優先の技術論、あるいは「法規」優先の技術論が主流となる現在、あるいは指定した一律の考え以外では考えてはならない、という「封建主義」が横行する現在、決してそこでは本当の技術の進展はないだろう、そういう状況から脱出しなければならない、と考えるからだ。

 では、そのためにはどうするか。
 〇 技術の歴史を顧みる。
 〇 歴史上の事実を知る。
 〇 人びとが皆、優れた感性・感覚を持ち、自ら判断し、
   行動していたことを知る。
 そして、「人びとは皆、真にscientific:科学的であった」ということも知る必要があるだろう。
 「ものごとを、筋道たてて、目の前の事実・現象と対照しながら考える」こと、それがscientificということ。
 そうであれば、自ずと自由闊達な展開が可能である。

 しかし今、「科学的とは、計算できること」という《信仰》が大きな勢力を占めている。目の前に何百年も健在の建物があっても、《それは非科学的な技術の産物だ》として黙殺する。
 これはどう考えても大きな間違い。むしろ、豊穣な過去の貴重な遺産から、謙虚に学ばなければ嘘である。科学的ではない。
 このシリーズを書きながら、今でも、新しい発見、というより、これまで理解不足、認識不足だったことにぶつかる。だから面白い作業になっている。
  

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日本の建築技術の展開-15 の補足・・・・姫路城の配置

2007-04-24 16:58:38 | 日本の建築技術の展開

 城郭建築は、基本は防備。だから、建物の計画もさることながら、一帯をどのように計画するかが問題。姫路城の場合は、城の建つ姫山一帯の堀や石垣、塀・門の計画。
 上掲の図は、一帯の概略配置図と天守に至る門の位置を示したもの。下の写真は、「ろの門」を経て「はの門」に向う途中。
 実際に行かれた方は知っていると思うが、経路は屈折が激しく、まわりの状況から判断して歩を進めると行き止まりになり、しかも末広がりの広場状で行き止まり、などと言う場所もある。もしもそれが大勢だと、末広がりを逆にたどることになるから、道を引き返すのに時間がかかる。そこを城から襲撃する・・というわけ。もっとも、姫路城が戦闘の場になったことはない。

 つまり、城を計画した人物は、人は常にまわりの状況を判断して歩を進める、次の行動に移る、一人のとき、大勢のときの行動の違い・・などについて、熟知していたことになる。そして、通常の行動の裏をかけば城の基本ができる。
 そういう観点で配置を観ると、興味深い。

 このような感覚・感性を、当時の人たちは、工人、一般の人を問わず、持ち合わせていたように思う。戦国時代を中心に生まれる書院、方丈、茶室などのつくりかたにそれが表われている、と私は思う。これらは、「人の行動に対する理解」を真っ当に具現化した例だ。それがあるから、逆の発想で城をつくれたと言えるだろう。
 城と書院・茶室が時を同じくしてつくられた面白い時代、戦国・桃山。

  註 城とは関係ないが、人の行動と空間:周囲の状況との関係について
    洞察した名著があるので、ついでに紹介。
    O・Fボルノウ著 大塚恵一ほか訳『人間と空間』(せりか書房)

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日本の建築技術の展開-15・・・・多層の建物:その5-姫路城

2007-04-23 23:19:03 | 日本の建築技術の展開

 城郭の話をしていて、姫路城に触れないわけにはゆかない。
 なにしろ、およそGLから15mの高さの天守台:石垣天端上に建つおよそ31m・6階建ての木造建築なのだ。
 石垣を含め、そっくりそのまま、確認申請をし、担当者の見解をきいてみたくなる建物!もちろんダメと言われるだろうが、ダメの理由をききたいのだ。解体修理の行われた昭和38年(1963年)まででも約350年、途中に何度かの修理があったにせよ、健在だったのだ。それでもダメと言うには、それ相応の理由がなければならない。

 それはさておき、姫路城は、中央を貫通する二本の大柱が有名である。
 この柱を含め、この建物の構造について、「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」の姫路城の項に、一つのエピソードとともに、きわめて明快な解説が述べられている(なお、上の図は、同書から転載、編集した)。
 そこで、以下に、該当部分をそのまま転載することにする。なお、読みやすいように、要所で、原文にはない改行を行った。

「・・・・
 構造面からみると大天守は南北の中心線上に、東西相対して並べた二本の大柱を基本として組立てられている。
 東大柱は礎石上で径がほぼ一メートルあり、地下から六階の床下にまで達する通し柱である。西大柱も同様な太さで、同じく六階の床にまで達しているが、東大柱と違い三階床の位置で継がれている。
 両大柱は各階とも周囲の柱と繋梁で繋がれ一体化されている。

 第二次大戦後の修理において、この途中で継がれた西大柱を新材にかえる予定で、その用材を木曾に求めたが、輸送の途中で事故のため折れてしまった。
 したがって、西大柱は再び途中で継がれることになったが、『修理工事報告書』によると、東西両大柱が周囲と繋梁で固められるので、六階床までの通し柱が二本立っている場合には、組み上げて行くとき、作業が困難になるとのことである。

 三階床で西大柱が継がれていたことと、全体の構造が三階で上下に別れていることとの間には構造上の関係があったのではないかと考えられる。
  (筆者註 この説明は、解説文の最後に述べられている)

 東西の大柱のほかには、架構全体を通すような柱はないが、二階あるいは三階分を通して全体の構造を一体化する役割を果している柱が数多くみられる。
 それらは大別して地階から二階(三階床下)までに入れられているものと、四階から六階に及ぶものとに分かれる。

 地階から二階への通し柱は、母屋廻りおよび外廻りにあり、中庭に面する北側外廻りでは地階から二階まで、母屋廻りでは地階から一階、一階から二階の二種、また、地階のない石垣上にあたる外廻り部分では一階から二階にかけて、通し柱を用いている。
 これらの通し柱は、地階から二階までを一体化するのに役立っている、

 一方、上方では四階から五階、五階から六階の、いずれも外廻りに、通し柱が用いられている。これらは、四・五・六階を一体化する役割を果している。
 しかし、三階の部分は上方下方いずれからも両大柱以外に通し柱はなく、すべて管柱である。三階をはさんで上下の構造は別々で、二本の大柱が繋ぎの役割を果している。
 ・・・・」

 この解説は、「土台、通し柱、差口による横架材、貫・・による架構」=「部材を一体化する工法」の一般的な解説として通用する。
 実際、城郭の部材は大寸であるが、近世の住居(二階建て商家)では、4.3寸角程度の柱で同様の工法が採用されている(いずれ紹介)。

 補足 同書所載の詳細図から判定すると、
    大柱以外の柱は、通し柱、管柱とも、1尺2寸角程度である。
    梁は大寸もので17寸×12寸。
    貫は厚2~2.5寸、丈5~10寸、
    
    なお、断面図のRC部分は、解体修理の際の後補。

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日本の建築技術の展開-14 の補足・・・・松本城の支持柱

2007-04-22 23:21:44 | 日本の建築技術の展開

 犬山城の紹介のときに、松本城の土台の支持柱について触れた。
 上の図は、松本城の天守台上の基礎伏図と土台・根太伏図。
 赤く印を付けたのが、土台を支えるため、GLから立上がる支持柱。土台には枘差しで納めていたという。
 図は、「日本建築史資料集成 十四 城郭Ⅰ」より転載・編集。
 
 GLから天主台まではおよそ5m。
 今なら、盛り土をしたあと、天守台上に墨出しをして杭を打つだろうが、この場合は、GL上で石垣とともに支持柱の位置を決め、盛り土をしているわけだから、相当に精度よい測量がなされていたことになる。
 しかも、角度を持って積み上げた石垣の天端は、建物四周の土台に見事に一致しているのである。

 先に紹介の丸岡城では、石垣天端は建物四周の土台と一致せず、土台に水切のための小屋根をかけて隙間を覆っている(4月15日付、丸岡城の図、写真参照)。
 ここに、この間の技術の進展の様子がうかがえるのではないだろうか。

 城郭の構築にかかわったのは、古代以来の社寺の建物づくりとは大きく異なり、おそらく武家の周辺にいた民間の工人たちで、城郭には、民間の工人たちの知恵が集積したのではないだろうか。それが、どちらかと言えば無骨な、しかし確実な城郭のつくりかたに現われているように私には思える(古い住居建築に通じるものがある)。
 そして、城郭づくりで一挙に進展した技術は、ふたたび民間の建物づくりへと還元されていったのである。

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日本の建築技術の展開-14・・・・多層の建物:その4-愛知・犬山城

2007-04-21 22:28:12 | 日本の建築技術の展開

[松本城について、補足追加:4/22-0.57AM]
[図面誤記訂正:4/22-1.25AM]

 1615年(元和元年)、徳川幕府によって「一国一城令」が出される以前につくられた城郭で現存するのは、丸岡、松本、犬山、彦根、姫路、松江の六城である(この時期に築城された名古屋城は、戦災に遭い現存しないが、焼失以前に実測が終了していたため、戦後、実測図が作成された。現在の建物は、実測図に基づいたRC造である)。

 先の丸岡城をはじめ、初期の城郭は、権威の象徴としての役割以前に、城郭本来の目的を具現した建物、ということができる。
 つまり、領下一帯を望み見ることのできる望楼を兼ね、統治策を立て、万一の場合には立て篭もり防備に専念できる建物。
 したがって、先ず、高くなければならない。それゆえ、なるべく高い場所が選ばれる。だから、築城主は、地勢についての相当の知識が要求される。また、いかに長く立て篭もることができるか、も考えなければならない。構築技術のノウハウだけでは当然ながら済まない。
 また、ただの望楼ならば、懸崖造でもつくれるが、それでは、簡単に壊される。そこで石垣で人工地盤をつくることになる。だから、石垣技術は城郭とともに発達したと言われている。

  註 琵琶湖の西岸、坂本の近くに「穴太(あのう)」という地区がある。
    ここは昔から石工の街。多くの石工が各地の築城にかかわったという。
    穴太の街自体、石垣が見事である。

 石垣でつくられる人工地盤は「天守台」と呼ばれているが、その高さは丸岡城で約6m、犬山城では5m強。先ず人工地盤を築いてから、建物を建てたと思われる。

  註 松本城は、丸岡、犬山とは異なり、平地に築かれた城:平城である。
  
    松本城では、天守台をつくりながら、建物の「土台」を支える柱を
    GL上の礎石に立て、石垣を積みながら土を充填していたという。
    つまり、支柱は、土中に埋もれることになる。言ってみれば、仮設材。
    現在なら杭を打つところ。ただ、杭とちがい、足元の状況を目視できる。
    使われた柱は径約38cm、長さ約5mの栂材で、中途を「胴差」で
    縫ってあったという。 

 では、どうやって天守台上の建物に至るか。
 丸岡では、長い階段状の斜路。犬山では、天守台の一部の石垣を凹形に窪ませ、そこから上に上る方法を採っている。そこは、天守から見ると地下室。地下は二層で、まわりは石垣で囲まれている(松本城も同様の方法)。

 2階平面と梁行断面図から、中央のほぼ正方形の部分を「通し柱」で二層をつくり、その四周に下屋をまわすつくり。下屋も東側を除き「通し柱」により二層をつくる。
 柱の径は、およそ7寸強角(地下1階を支える柱で8寸角、つまり、決して太い材ではない)。基準柱間は6尺2寸強。
 柱を「土台」に立て、1階の床は、「足固め」を兼ねた「大引」を柱に差して楔で締め、その上に「根太」を流している。
 2階では、床梁を「通し柱」に「差口」で納め、一部を除き「踏み天井(根太天井)」。
 柱相互は、「貫」で縫う。「貫」は2寸×8寸ほどはありそう(@約3.5尺)。
  
  註 「大引」を楔締めにしているのは、強度上の点もさることながら、
    施工性の点からの採用ではないだろうか。
    現在のように使用材が一定形状に整形されているわけではないから、
    高さだけ決め、大きめ目の穴を柱に彫っておけば楔で調整すればよく、
    工事を早く進められる。

 この時代、「貫」「土台」「通し柱」「差口」の使用は、すでに、ごく普通の仕事になっていたと考えてよい(松本城も同じである)。
 「通し柱」+「差口による横架材」方式は、建物を高くするには絶好の方法で、同時に城郭建築は、この「差口」の技法を洗練する恰好の修練場であったと思われる。
 また、「土台」は、工事期間の短縮が重要課題である城郭建築に於いて考案された技法と言われる。「土台」を先に設置することで、柱の長さを事前に決められ、工事の進行が一段と早くなるからである。
 礎石建てでは、一本ごとに決める必要があり、まして礎石が自然石だと、柱脚を石に合わせて削らなければならず、さらに大ごとになる。「土台」を設けると、「土台」が定規になり、この作業がなくなるのである。

 「土台」「通し柱」「差口」などの技法は、近世には、一般庶民の建物でも使われるようになる。「よいもの」は自ずと広まるのである。

  註 柱脚を自然石の形状に合うように削る作業は「ひかりつけ」と呼ぶが、
    語源は未だに分からない。

 なお、三層、四層は、後に、屋上屋を重ねる要領で増築されている。

 犬山城は、一触即発の危機はあったものの戦闘が実際に行われたことはなかったという。

 図・写真は「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」より転載。
 解説も、私見以外は、同書によるところが多い。

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余談・その2・・・・木造多層建物:中国では

2007-04-20 01:42:42 | 日本の建築技術の展開

 「図像中国建築史」および「老房子:福建民居」にある多層の建物が上掲の図と写真。先に「福建民居」から転載した「土堡」も二階建てである。

 少なくとも、福建の住居では「通し柱」に床梁・桁を差す方法。
 寺院では、上段の図:龍興寺(960~1127:宋の時代)は「屋上に屋を据える」方法、下段の図:孔廟は「通し柱方式の二・三層」を「一層の上に置く」方式を採っている。
 おそらく、どの時代にも、「屋上屋」方式と「通し柱」方式が、場面に応じて使い分けられ、あるいは併用されていたのだろう。考えてみればあたりまえ。
 
 これらの材料が何であるかはよく分からないが(書中に説明があるのかも知れないが)、おそらく針葉樹系か、広葉樹でも楊樹の類だと思われる。楊樹はポプラのような直状の樹木。西欧様のつくりかたにならないのは用材のちがいだろう。
 私が華北、西域で見た普通の住居では、楊樹を丸太のまま使う方法が多かった。
 「図像中国建築史」を見ると、寺院でも、垂木などに製材せずに丸太をそのまま使っている例が多い。

 わが国の奈良時代の寺院にも、円形断面の垂木が使われている例があるが、それは中国直伝の姿を真似たらしい。しかし、それは丸太ではなく、製材した(角材にした)垂木の先端:見えがかり部分をわざわざ円形に加工しているのである。このあたりは、異「文化」を「吸収・消化」する過程を示していてなかなか興味深い。
 

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